integrity2

 

(この記事は前回の「integrity」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2018/01/18/integrity_1/

の続きです)

 

 

 

人格の垂直性、では、長たらしくて、到底訳語とは言えず、かっこわるいが、自分にとっては「integrity」に最もしっくりくる日本語は「垂直性」で、ただ垂直だと、なんだ、ただ、おっ勃つことなのかと言われそうなので、人格の、くらいのサービスは付けておいたほうがよさそうです。

日本語の最大の遺産は現代詩であることは、ほとんど言うまでもない。
田村隆一は、「荒地」同人以来、山脈のようにつらなって素晴らしい景観をなす戦後詩人たちのなかでも、日本語に言語の実質をもたらした点で、ひときわ目立つ詩を書いた。

2

言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって
真昼の球体を 正午の詩を
おれは垂直的人間
おれは水平的人聞にとどまるわけにはいかない

この「言葉のない世界」は、最後、

13

おれは小屋にかえらない
ウィスキーを水でわるように
言葉を意味でわるわけにはいかない

で、それこそ、ぞっとするほど垂直な表現で終わっていることで判るように、自らの言葉の垂直性についての表明だが、もちろん、それはそのまま人格の垂直性の表明になっている。

才能のある詩人というのは、どんな言語に生まれてもすごい嗅覚をもっていて、田村隆一は、戦後の、水平な、低徊をきわめる、パキスタンの首相に「エコノミック・アニマル」と呼ばれて、世界中から日本人が蔑まれた時代に、日本語の語彙に存在すらしないintegrityという概念、というよりも社会の背骨が日本には欠けていることを知悉していた。

ここで、おもしろいのは、といって面白がってはいけないだろうが、戦地を飢えと病に悩まされながら彷徨した鮎川信夫や大岡昇平とは異なって、田村隆一は、花街の料亭に生まれた、持ち前の都会的な要領のよさと、天賦の強運を発揮して、航空兵の教官として、実戦にはいちども参加せずに敗戦を迎え、戦後の都会人たちが飢餓と世界でも最低の部類だった治安の悪さに悩まされていたころ、若狭で、毎日おいしい魚を腹一杯たべて、くちくなると、若狭湾を泳ぎ渡って、青空をながめていた。

田村隆一は現実をみないで、すんでしまった。
他人の妻に手をだしてみたり、駆け落ちしてしまったり、当時の人の証言によると、いよいよ酔っ払うと、まともにベッドめざして口説くのもめんどくさくなって、バーのドアを開けてはいってくるなり、いちばん美人の女のひとにまっすぐ歩み寄って、「あなた、ぼくとイッパツやりませんか」と、ガメ某青年とおなじようなことを述べて女の人を、かっ攫うように連れ出してしまったり、あるいはこれは自分でエッセイに書いているが、電車に乗るのがめんどくさくなって、オカネの持ち合わせもないのに新橋から鎌倉二階堂の自宅までタクシーに乗って、払えないので、午前2時に稲村ヶ崎に住んでいた東山千栄子(小津の「東京物語」の母親役の人、戦前の貴族階級の出身)をたたき起こして、タクシー代を払ってもらって、
いつまでもいつまでも東山千栄子の、あの温顔で、ニコニコしながら手をふって見送る姿を後ろをふり返って眺めながら、「運転手さん、人間は、ああじゃなくっちゃいけない」とノーテンキを述べたりしていた。

田村隆一は、しかし、あるいはだからこそ、観念の階梯を駆け上ることに長けていて、この人にあっては、integrityは概念であるよりも、言語的な感覚であったでしょう。

前に貼った画像とおなじものを、もういちど貼っておきます。

ここで、この哲学者の友達が述べているように、日本語が使用されている社会では、integrityと手を携えて社会に存在するべきcommitmentも、実は存在していないのだ、とさりげなく指摘している。

Integrityもcommitmentも存在しない社会など、ホラー映画そのもので、勝てば官軍、勝ってしまえば、負けた方が真理に近かろうがなんだろうが、全部チャラで、おなじ哲人どんが、

と述べているが、考えてみると、integrityなどなければこうなる、という社会に日本は実際になりはてている。
このやりとりの元になっている海外在住の日本人たちを見て、みなで話しあったとおり、海外に住んでいても、日本語の思考がこびりついていて、それを意識できないひとたちもおなじで、言語というものの呪いに似たちからと影響力のしつこさについて、あらためて、考える。

タイムラインでintegrityの欠落が、どうやら、日本社会の、どうにも隠しようがなくなってきた、お下品ぶりの真因であるらしいと話しあわれるようになってから、誰それの本に出てきた、そういえばアメリカの大学にいたときに教授が述べていた、といろいろな人が記憶のなかから取りだして証言してくれているが、多分、英語で人口に膾炙した最も初めのものは、

Integrity without knowledge is weak and useless, and knowledge without integrity is dangerous and dreadful.

というジョンソン博士の言葉だとおもうが、英語の世界は実をいえばintegrityについての発言だらけで、たとえば、このあいだトランプと大喧嘩をぶっこいて国務長官をやめさせられたRex Tillersonもエクソン時代に

Throughout my life and career, I have continually been impressed with the importance of integrity – whether it was growing up as a Boy Scout, working in one of my first jobs as a university janitor, or being a leader in a Fortune 500 company.

なんちゃって、誇らしげに述べているし、ポップ歌手のKaty Perryも、

I’m a good girl because I really believe in love, integrity, and respect. I’m a bad girl because I like to tease.

と、読んでいて微妙な気持になることを述べている。

だんだん判ってきたのは、例えば、いま日本の人を通りに駆りたてている安倍政権のスキャンダルにしても、東京電力の福島事故に対する頬被りも、世界じゅうの若い人間の厳しい視線や国際司法裁判所の裁定をものともしないで、強行されて、その民族としての「面の皮の厚さと遵法意識の欠如」がオーストラリアとニュージーランドの、夏の恒例の話題になる捕鯨も、なんだか、えらいたくさんの日本にまつわる問題が言語としてintegrityの欠如に起因していて、あれもintegrityこれもintegrityで、なんだか、逐一のべているとアホみたいなので、口にしたくなくなるほどです。

もうかれこれ10年くらい日本語と付き合っているが、最近わかってきたのは、要するに西洋の尺度で日本を測るのは無理だ、という、がっかりするような当たり前の結論で、西洋的な概念でいえば、日本人は民族として倫理どころか道徳すらもったことがなく、明治以来、西洋の考えに類似していそうな規範なり精神的な拠り所なりを拾ってきては、角を削り、ネジ穴があうようにして、えいやっ、と西洋の「道徳」や「倫理」が元からあったような顔をすることに決めてしまったのが日本の近代文明であるとおもう。
出来上がったものは、極めて人工的な一種のパラレルワールドで、西洋風に機能しているが、やや理解が難しくて、当座の要にはいらないようにみえたintegrityのようなものは、おっことしてきてしまった。
Integrityは、利得のためには不要不急と判断されて、ほっといておいたら、実はそれこそが西洋社会の要で、肝腎そのものであったというマンガ的な例で、
他のすべての知識やエネルギーとともになくてはならない民族的資質で、しかも、integrityが欠落して賢く勤勉な人間ほど、他の人間たちにとって、傍迷惑で有害な存在はない、と繰り返し述べられているように、日本の近代は、西洋から役に立ちそうな手足だけをもいで持ち帰って、胴体や頭は、ゴミ箱に捨ててきてしまった。

考えてみればintegrityもcommitmentも存在しない社会で、民主制を敷くことのバカバカしさに気付かなかったのは、いかにもアメリカ軍人らしいマヌケさで、まったく人間性への洞察を欠いた社会制度を基礎にすえて、「オカネはやる。ダイジョブだから、これでいけ」と言われて、どんと背中を押された日本人は、やるせないというか、泣くに泣けない、無効な歴史を築いてきて、いま、次から次に矛盾からきた亀裂が広がりはじめているだけなのだとも言えそうです。

現実に社会を支えてきたのはintegrityもcommitmentも欠いた、いわばお題目の民主制と自由主義ではなくて、日本人を終始一貫してまとめあげてきた、滅私を至上とする情緒の段階から個人をすりつぶす日本式の全体主義だった。
「民主主義」という、そもそも語の前半と後半が別の位相の概念を、ふたつくっつけた、ヘンテコリンな誤訳語が、日本ではdemocracyを意味することになっていることが、すでに、自分たちの社会への根源的な誤解をあらわしている。

日本社会の実相は、さきほど哲人どんが述べていたように、「一所懸命」で、非道でも叩かれても、斬られても、一心不乱に利得にしがみついて、社会のことなど知ったことか、おれが生きていけて、やっとナンボのものじゃないか、おまえらの夢みたいなタワゴトに騙されてたまるか、というくらいが、ほんとうのところなのかも知れません。

そういう伝統の社会にintegrityなどともってこられても、うるせーな、おれはおまえのお花畑で一緒に散歩するわけにはいかねーんだよ、としか反応が起きないのは当たり前で、まあ、ここに、あなたが拾い忘れていったintegrityがありますから、おひとつ、これからでもいかがですか?というわけにはいかないでしょう。
傍で考えても、気が遠くなりそうな作業だが、日本人は日本語を根底からつくりなおして、現実に対して有効な言語に再生しなければならない。
Integrityを移植するなんて無理なので、日本式の全体主義でもなんでも、そこに「志操」でもなんでもよい、自分たちの概念を埋め込まなければならない。
とにもかくにも、なんとかして、自分たちの倫理を構成しなければ、どんどん情報が流通して、各国各民族の内情も、次第に実相が明らかになっていくインターネット後の世界では、日本はまるごと江戸村になって、観光客を一週間か十日、おもしろがらせて、楽しませるだけの、国まるごとのテーマパークのような存在になって終わるでしょう。

それでも、オカネがもうかって、楽して暮らせればいいや、という声が聞こえてきそうだけど。

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8 Responses to integrity2

  1. kom says:

    140文字で収まりそうにないから、こちらに書きますね。
    哲人さんとガメさんが書いていることは隅から隅まで正しいと思う。
    integrityという概念を言葉として持てなかったこと。

    …自分が日本に生まれて日本で育つ間に聞いたり読んだりしたことを総動員しながら考えているけれども、多分、integrityのようなものは、日本に「存在しない」わけではないと思う。
    人格の垂直性、人として生きる背骨のようなもの、「気骨」というものがあったと思う。
    けれどそれは長く長く続く、個人を大事にしない封建的社会の中でゆがんでいる。1人1人が真っ直ぐに立つ平行な垂直線は垂直に見えて天(善や神)を指しているはずだけれど、封建的社会の中では集約する先は殿様や将軍、明治になったら天皇、この世のものでなければご先祖様、と常に「人」になっていた(「お天道様」だけ違うのだけれど、封建的社会の中では「人」が「お天道様」と同等の力を持っていて逆らうことが大変に難しい)。

    しかも、第二次世界大戦が敗戦で終わり、日本で「正義」と教えられてきたものが敗北して「それまでの正義は間違っていた」となったとき、別の本当の正義がどこかにあると思わず「人の考えるものは全て間違っている」という結論に達した人達が、戦後は「だから目に見える、触れるものにしか真実はない」と、お金やモノを基準にしてしまった。(これが実利主義の強いアメリカの文明の形を真似るのにとても都合が良くて修正される機会を更になくした、と思う。)

    私が青春期を過ごした高度成長期の終わりからバブルの頃は、「金とモノ」中心の社会を批判して精神性が失われることを嘆く言葉があちこちに出てきていた。
    けれど、integrityを言葉で定義することなく過ごしてきた社会は、精神性を取り戻そうとして、過去に日本にあったと思われる「人格の垂直性」に近いもの、封建的社会の「人」に集約する真っ直ぐな心を引っ張り出してきてしまっている。
    そして、それがintegrityと違うことがわからない。わかっても、それは日本と西洋の文化の違いであることのように解釈する。

    そうやって排他的になり耳を閉ざし、「integrityのようなもの」を取り戻そうとどんどん封建的社会に向かっていく人達に、どんな声なら届くのか、見当もつかない。

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  2. katshar says:

    integrity、日本には無いということで、さてそれではどうなるかと思ったら
    and knowledge without integrity is dangerous and dreadful.という通り
    迷惑なサイコパスみたいになるわけで、見渡せばそんなのがいっぱい居ますね。
    せめて自分はそうならないようにしてますけどね。気を付けないとね。概念が無いんだから。

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  3. hassi says:

    こんなところにも ‘integrity’ 
     むかし京都で学生してたときに大学の生協で見つけた当時の新刊本(Surely tou are joking , Mr.Feynman. 超有名ですね)の終わりの方にあった、Feynmanが卒業してゆく学生たちに向けたスピーチのラストです。(この前の文章は電気素量を測定して報告するときに当時の科学者が権威のミリカンさんにびびって不誠実だったみたいな話だったかと。)

    integrity は知的勇気と不可分だと感じます。容易ではないだけに。

    “So I have just one wish for you – the good luck to be somewhere where you are free to maintain the kind of integrity I have described, and where you do not feel forced by a need to maintain your position in the organization, or financial support, or so on, to lose your integrity. May you have that freedom.”

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  4. MB Da Kidd says:

    日本人のねじれということを最近はとてもよく感じます。
    ガメさんのこのご指摘は昔から幾度となく感じさせられ、無力感に苛まれてきました。

    > 要するに西洋の尺度で日本を測るのは無理だ、という、がっかりするような当たり前の結論で、西洋的な概念でいえば、日本人は民族として倫理どころか道徳すらもったことがなく、明治以来、西洋の考えに類似していそうな規範なり精神的な拠り所なりを拾ってきては、角を削り、ネジ穴があうようにして、えいやっ、と西洋の「道徳」や「倫理」が元からあったような顔をすることに決めてしまったのが日本の近代文明であるとおもう。

    そして、そのいびつな日本の近代文明を”愛国”の根拠にしたり(こちらは”右”の思想根拠)、あるいは、

    > 考えてみればintegrityもcommitmentも存在しない社会で、民主制を敷くことのバカバカしさに気付かなかったのは、いかにもアメリカ軍人らしいマヌケさで、まったく人間性への洞察を欠いた社会制度を基礎にすえて、「オカネはやる。ダイジョブだから、これでいけ」と言われて、どんと背中を押された日本人は、やるせないというか、泣くに泣けない、無効な歴史を築いてきて、いま、次から次に矛盾からきた亀裂が広がりはじめているだけなのだとも言えそうです。

    同じ”戦後民主主義”をモラルの規範にすること(こちらは”左”の思想根拠)で自我を保ってきた人たちは、自分の目から見ると、まさに同じ穴のムジナに見えます。

    どちらも、個をすりつぶすことで情緒を空気という名前の全体的な感情に自らの身を預けることをやってるのは同じで、個を放棄し、責任を放棄することで”強者の立場に立つ”ことにより、優位性を確保しようとするんですけど、そこに”個を律する”精神=倫理、なんかないですよね。

    日本人は、個を放棄することで精神的な安定を得て、理不尽に耐えるための精神的バランスを取ってるんだとつくづく思います。
    その結果がプラスに出ると”秩序”となり、マイナスに出ると”天然全体主義”になるんだといつも思いますね。

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  5. no name says:

    >国まるごとのテーマパークのような存在になって終わるでしょう。
    >それでも、オカネがもうかって、楽して暮らせればいいや、という声が聞こえてきそうだけど。

    integrityの欠如した人間が多数を占めるとして、それを変えていくには幼児期からの教育しかなく、凄く時間がかかるわけですが、今のところよくなる兆候はない。その場合、次の問いに移るしかないと思います。
    すなわち、「それでも、オカネがもうかって、楽して暮らすことは物理的に可能なのか?」
    オカネや楽な暮らしにしか興味がないのなら、そのモノサシで彼らと対話をするしかない。
    (私はなんとなく、この問いへの答えは、「否」と思います。どんどんパイが小さくなり、かつそれが不公平に配分されそうだから。)
    尻に火がついているとするなら、鏡を貸して見せてあげるしかないかと。

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  6. kaz184 says:

    言語とは機織りのようなものだろうか.

    横糸が言葉なら縦糸はなんだろうか.
    縦糸に横糸を通すように,
    それに言葉を通していく.

    詩に容易に普遍を見出すのは,
    詩が縦糸を際立たせるからか.

    integrityじゃちょっと幅が広すぎるな.
    あぁ, 空白で埋めてしまえばいいのか.

    縦糸 に横糸を通すように,
    integrityに言葉を通す.

    これでいいや.

    そんで次は逆に, 紡がれた言語から縦糸を見つけられればいい感じなのか.
    アラインメント揃えるだけでは難しそうだな.

    あーいまはここまで.

    ちゅーか, 等幅フォントじゃないし, 勝手に空白消されちゃうのか?
    日本語不便やのうw

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  7. keko says:

    是枝裕和監督がインタビュー番組で、日本人の家にはかつて仏壇があり「そんな事をしたらご先祖様に顔向けができない」という感覚があったが、現在はそれが失われているのではないか、と言っていて、ほほう、と思いました。

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  8. sona says:

    こんにちは。ふだん、友人らと会話をして(いろいろな話題について議論も楽しんで)いるとき、「矜持」という単語を使うことが、友人も私も、たまにあります。「人がその人自身であるために譲れないもの、曲げられないもの」というような意味で、使っています。日本語の辞書に書いてある、「矜持」の手っ取り早い意味(自分の能力を信じていだく誇り)とは、なぜか、少し違うようなのだけれど。

    integrityの説明を拝読していると、友人や私が使っている「矜持」という単語のことではないだろうか、と思えてしまう。

    integrityを「矜持」と訳すのは、乱暴かしら。突飛かもしれないですけれど、皆さんに伺ってみたいと思いました。

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