日本の記憶1

鐙摺(あぶずり)の山が見えて、その向こうには真っ白な入道雲が、起ち上がっている。
冷たい海に囲まれたふたつの国で育ったぼくは、日本の雄大な夏の雲が大好きだった。

ずっと後になって、西脇順三郎の詩に

積雲の悲しみ

という言葉が出てきて、その表現をずっとおぼえていた。
ぼくの日本語のなかには西脇順三郎の表現がたくさんつまっているが、ぶらぶら歩きのはての

三軒茶屋でつかれはて
蕎麦に生姜汁をぶっかけてくった

だったか、西脇順三郎特有の滑稽で美しい詠嘆のあいまに洩れる言葉や、

戦争中に、都会を避けるようにして鎌倉の大町に住んでいた頃につくったのでしょう、

学問もやれず、絵も描けず

というような嘆きの言葉に、戦前から途切れることなく続く、日本語人の、細々とした、ためいきそのもののような知性の輝きをみていた。

あの詩に出てくるトンネルは、釈迦堂のトンネルで、なんども通ったことがある。
幽霊がでるので有名なところで、夜は通ってはいけないことになっていたが、どういうわけか日本の幽霊を怖いと感じたことがなかったぼくは、子供のときも、おとなになって日本を再訪してからも、あんまり気に留めることもなく大町と浄明寺をつなぐ近道として使っていた。

どんなことを憶えているかというと、例えば葉山の狭い表通りに、風に懸垂するように揺れていた「氷」のサインをおぼえている。
長者ヶ崎の小さな砂浜で、若い女の人と一緒に、肩肘をついて寝転んでいた、やくざの背中一面の、華やかな色合いの刺青をおぼえている。

記憶のなかでは、葉山はいつも夏で、江ノ島は冬で、鎌倉に義理叔父の実家はあったので、一年中、何回も出かけたはずだが、場所によって季節が固定している。

子供のときは、葉山が好きで、ずっと早くになくなってしまったが、銀座スエヒロのしゃぶしゃぶ・すき焼き食べ放題のレストランがあって、おなじチェーンの店が江ノ島にもあったが、なぜか葉山の店のほうが好きで、せがんで、そちらにばかり連れて行ってもらった。

子供のときの日本の記憶を話すと、モニはいつも決まって、
「ガメは、ほんとに食べ物のことしかおぼえてないんだな」と述べて、なんだか屈託なく、とても嬉しそうに笑う。
いや三浦のスイカ売りもおぼえているよ、といいかけて、いや、そうかスイカも食べ物だったな、と気が付いて、自分でもふきだしてしまう。

東京よりも、鎌倉と葉山のほうが好きで、理由は簡単で、いまの人に話しても信じてもらえそうにないが、20年以上前のそのころは、まだ、こちらからみると、外国人は「ガイジン」で、相手が子供でもかまえて応対されることのほうが多かった。
館林という町で、プールに行ったら、高校生くらいの男の人がふたり走ってきて、すれちがいざまにお尻をつかんでいったのは、論外で、極端な例だったが、向かい合っていると、かまえているのがわかって、つかれて、しばらくすると、悲しい気持ちになったりしていた。

これも日本の人は信じてくれないそうだが、むかし、かーちゃんシスターが東京でいちばん困ったのは、ガイジンとみるとタクシーが止まってくれないことで、義理叔父と仲良しになってからは、一計を案じて、まず義理叔父が立って、タクシーを停めて、例の自動ドアがあくと、物陰からかーちゃんシスターが走り込んで、無理矢理乗ってしまっていたそうでした。

ぼくにも、嫌でない、おもしろい経験があって、奈良の町で、いまはもうないかもしれないタウンシップの定食屋さんで、義理叔父とカウンターに腰掛けて、前から食べたかったオムライスを注文したら、店のおばあちゃんが、お盆にいれてもってきてくれたのだけど、そのトレイを持つ両手が震えて、スプーンと金属の皿が、カタカタと鳴っていたのを、昨日のようにおぼえている。

鎌倉は、多分、その頃はまだ田舎と表現してよい町であったのに、子供の心にも、外国人と日本人をまったく区別しない町で、あとで判明した理由は、もともとイギリス人やドイツ人、フランス人が、多く住んでいて、慣れていたもののようでした。

とても居心地がよかった。

ぼくの頭のなかでは、家のことはなんでも家の手伝いをしてくれている人たちがやってくれて、友達は、きっと、この続きもののなかで述べる「歌子」のほかは、みんな外国人ばかりだった東京は、なんだか欧州のでっぱりのようなコミュニティで、鎌倉と葉山こそが日本だった。

ぼくの「日本人」のイメージは、だから、鎌倉人たちで、やさしくて、親切で、落ち着いていて、おしつけもしなければ、冷淡でもなくて、それでいて、明日から連合王国に帰るのだと判ると、「また必ずあおうね」と、眼をみつめて言える人達だった。
老齢の人が多かったので、もう多くの人が亡くなっているが、一方で、その頃の同年代の友達も何人かいて、いまは、あたりまえだがおとなで、なんでか鎌倉に住んでいるままの人は少ないが、いまでもemailのやりとりがあります。

梶原から北鎌倉に抜ける道の途中に、小さな小さな水田があったり、鎌倉山の、左に行けば林間病院?があった道を右にまがって、、満月の夜更けには、小さな小さな、でも燦然と輝いている富士山が見えて、うっとり見とれてしまったり、
その先の富士見坂をいくと、突然、目の前に午後の陽光を乱反射して、チョコレートの銀紙をいっぱいしわしわにして敷きつめたような海が七里ヶ浜の向こうに広がっていて、後年おとなになってから、再訪して、ははは、これって、坂をのぼりつめたところで、目の前に、わあああーと海が広がって、

箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波のよる見ゆ

で、実朝みたいでチョーかっこいいのでわ、とふざけて考えたりした。

その同じ路を、いまは、9歳のぼくが歩いていて、この日本という不思議なアジアの国を、好きになりそうだ、とわくわくしながら、歩いている。

そのことを、ときどき、このブログに続き物として書いていこうと考えました。

鐙摺の山の向こうの入道雲は、頭が気圧の低い大気につかえて、横に広がりだしている。
「金床雲、というんだよ。その雲がみえたら、おおいそぎで砂浜めざして泳いでもどらないとダメだよ」という義理叔父の言葉をおもいだして、陸めざして全速力で水泳する。

暖かい、のびやかな水で、身体の両脇を滑らかに流れていく。
砂浜にあがると、日本人の、40歳くらいの男のひとが、見事な英語で、
「ずいぶん泳ぎが上手な子だなあ!」と言って、おおげさにほめてくれた。

やったぜ、と意味もなくこぶしをふりあげたくなる気分。
ぼくは、この日本という国が大好きだ!
パラダイス!
パラダイス!

なんだか、昨日のことのようにおぼえている、あの興奮が、日常、まったく日本と縁が無いに等しいのに、いまだに、こうして日本語で文章を書いている、ヘンテコリンな毎日につながっているのでしょう。

自分で書いていても、なんで、こんなことを書いているのかわからないけど、また、2,3と書き継いで、日本の思い出や、日本で考えたことを、記録しておきたいとおもいます。

こうやって日本語で、日本のことを書いていると、どんどんやさしい柔らかい気持になってゆく、ただ、そのことだけのためにも。

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2 Responses to 日本の記憶1

  1. せいでんき says:

    柔らかく温かい記憶として残っている日本の風景、日本人の私まで異国情緒のように感じてしまうガメさんの魔法のような文章。
    今入管に収容されている人には日本がどんな風に見えているか、来日する前の希望との落差はどれほどのものか、また涙が出てしまった。
    そんなの主題じゃないはずなのに、つい自分の側に引き寄せて読んでしまいました。

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  2. ixtab says:

    現代詩の音が見つけられなくて、詞章の方へ行ってます。
    目で只管読むのが好きなのかと思っていたけれど、耳と声も。

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