明け方、ばらばらに分解された言葉で

夜が明ける前の、まだ皆が眠っている時間に起きて、裸足でホールウェイをずんずん歩いていって、キッチンでハムサンドイッチをつくって食べている。
牛乳をラテのカップに半分いれてマイクロウェーブで1分。
エスプレッソマシンをオンにして、ぎゅわあああと珈琲豆を挽いて、ラテをつくる。

マルチグレインのパンしか食べない人ばかりの、家の中では、他の誰も食べない、白いサンドイッチパンの耳を落として、いかにも人工的な味がするサンドイッチスプレッドかアリオリソース、クリームチーズ、フレンチマスタードとイングリッシュマスタード、champagne hamと重ねていって、皿に載せて、うやうやしく自分の部屋まで持っていく。

ひとがまだ寝静まっているときに、そうやって、なにをやっているのかというと、なまけものなので、ただ静かな時間にひたっている。

いや、ラッキーで、普段の時間でも静かなのだけどね。

クルマで都心から10分もかからなくて、まして、5分くらいのところには、パーネルとニューマーケットというふたつの繁華街があるわりには、静かな家で、
Tuiという、日本ならば軽井沢の秋の虫そっくりの声で啼く鳥が、ときどき、なわばりを伝えるために啼く。

あとはコオロギ。

夏には日本のヒグラシの半分くらいの音量で鳴くセミ。

プレデターの猫たちが徘徊するので、気を付けてなかなか家の軒に来なくなってしまったが、ひとなつこくて、外のテラスで絵を描いていたりすると、ぶどう棚の、すぐそばの、肩から30センチもないところで、スケッチブックを見つめてクビを傾げているファンテイルや、

おなじみで、「まいどー」と言いたげなツグミやブラックバード、プロよりすごい動物写真家で天文研究者のtataryという人が日本からニュージーランドにやってきて、でっかいので、ぶっくらこいていたが、なんだか縮尺をまちがえておおきくなってしまったようなニュージーランドの土鳩、大好きなpohutukawaの一本を狙って、巣を作ろうと試みては、戦闘機のようなTuiにはばまれるオウムたちの家族。

「あのねえ、ぼくは忙しいんだから、かまわないでよ。向こうへ行ってよ」と言わんばかりに、荒い息づかいで、むやみに一所懸命なヘッジホッグ、
夜になると屋根の上におりてきて、「ドンッ、ドンッ、ドンッ」と、誰がどう聞いたって人間が歩いているとしかおもわれない、でっかい跫音を響かせて、コンクリートタイルの屋根の上を歩きまわるポサム。

洗濯物干し場の、ひときわ高いポールのてっぺんにとまって、あたりを睥睨するキングフィッシャー。

おおげさにいえば、自然のまんなかにあるような家で、鳥の啼き声になれてしまえば、昼間でも静かで、庭師のひとや、家の建物のメンテナンス、例えばペインターの人や、ドレイネッジの人が来て、テラスに腰掛けて、モニやぼくと一緒に午餐を楽しみながら、こんなところに、こんなに静かな場所があるなんて信じられない、とびっくりしている。

でも明け方は、もっと静かになって、自分の肉体の内部の音だそうだが、マンガの背景に書き込まれるような「しぃーん」という音がする。

むかしなら数学をやっているところだが、数学知識とスキルを応用することはあっても、いいとしこいて、その程度の数学を静かな夜明け前にあわててやってみる必要はなくて、出勤などというものにも縁がない生活なので、自分の部屋の机の前にこしかけて、ぼんやりしている。

そういうとき、「価値があるものって、なんだろう?
チョー短い人間の一生の時間は、どんなふうに使うときに有為な意義が生まれるのだろう」と考える。

言語のなかで、最も普遍性が高く、最も本質的に世界を説明する力をもっていて、誰にとっても母語なみに習得する機会が開かれている言語が数学であることを否定する人はいないだろう。
伝達という自然言語が苦手とする機能も、数学には十分に備わっている。

いっぽうでは言語としての最高の皮肉で、数学のこうした言語としての完全性は、人間性を排除することで出来上がっている。
数学で喜劇は表現できても、悲劇は表現できないことは、象徴的であるとおもう。

楽譜に音譜を書き込んでいくモーツアルトの手や、壁いっぱいのカンバスに絵の具を塗り込んでいくピカソの手は、魔術的な手で、猥褻で品位のかけらもない下卑た冗談を友達に向かって連発しながら、あのレクイエムを書いたモーツアルトや、人間性をもつことになど、露ほどの関心も示さなかったピカソが天上の神が直截つくってみせたような美を人間の生活にもたらしたのは、芸術にかぎらず、科学においても、あるいは経済活動のようなものにおいてさえ、真に創造的なものが、なにによって生みだされるかを暗示している。

最も人間的な活動である知的な創造は、最も非人間的な、人間性とはまったく懸け離れた「魔術的なちから」によって行われる。

この人間にとって危険な事実を否定しようと試みた人間は、歴史上、おおぜい存在するが、どの試みもみな失敗に終わってしまった。

30歳をすぎて、政府や政治に憤慨する人間は、たいてい、十代の終わりに通りに出て石を投げなかった人間とおなじ人である。
考えて見れば理由は簡単で、三十歳をすぎても、一本調子に政治家を批判できる人間は、たいていの人間が経験する、自分を取り囲む社会への焼けつくような怒りを感じないですむほど鈍感な人間なのだから、口吻ほど怒りを感じているわけではなくて、ひどい言い方をすれば、ただのヒマツブシに近い気持で政治的な言辞を述べているだけであるとおもう。

本人は、どんなに真剣に公憤を感じている場合でも、客観的には単なる憂さ晴らしで、ひまつぶしに過ぎない、ということは、うんざりするほどよく観る光景で、その類の人間は見分ける方法さえ確立されていて、怒りかたや糾弾の口調が、どんな場合でも同じなので、汚い例ですまんすまんとおもうが、毎日トイレに行くのと同じ衝動で、ドアの向こうから聞こえてくるembarrassingな音と彼らの発言はとてもよく似ている。

ツイッタを眺めていたら、あるひとが
「なんだかもう、綺麗なものしか見たくない心境….」と述べている。

結局は、そうなるのだろうか。
自分では、例えば、ただ自分の、ねっとりとした性的な欲望をコントロールできなくて、涎がたれている唇で、相手の耳朶をなめつけるような、薄気味のわるい言葉を投げて、財務官僚のトップという社会的な地位をあきらめざるをえなくなった、という最近の日本社会を賑わわせた事件を見ていても、あの社会ならば、権力をもっていると意識している人間がいたるところで繰り広げている光景だろうくらいはおもうが、「汚い」と感じるには精神的な距離が遠すぎるが、それでも、美術史家であるそのひとが、うんざりする気持はわかって、自分にひきなおしても、考えて見れば、綺麗なものしかみないで過ごせるのに、わざわざ醜悪なものに腹をたてるほど眼を近づけてみる意味はないよね、と納得する。
もっと平たくいえば、特に日本語で考えているときの自分は、いったい何をやっているだろうと考えて、可笑しくなる。

もとをたどると、日本語がうまくなったので得意になって、日本人のように考えてみたくなっただけのことで、それが案外おもしろかったので、なんどもやって遊んでみただけのことなのに、やっているうちに病膏肓で、半分日本人のような気持になってしまっていたりして、いま考えると、滑稽なことだとおもう。

 

別種のセミ同士は、お互いの鳴き声が聞こえないというが、言語もそれに似て、例えば日本語と英語では、音の出方も、声質も、もしかしたら周波数のようなものすら異なるのは、両方の言語になじんだ人なら、誰でも知っている。
日本語と同じ喉の部分をつかって、浅い声で英語を話されても、なれないうちは相手が英語で話していることに気が付かないほど、聴き取るのが難しい。

英語と日本語で話しているときの自分が別別の人間であるような気がするのは、ほんとうは難しい理屈ではなくて、その発声の違いによっているだけなのかもしれない。

日本語は数学とちょうど反対と言いたくなるくらい自・他・世間の視点を錯綜させて、しかもさまざまな情緒や感情を細部にそそぎこめる言語で、間柄語といえばいいのか、訪問して、しばらくまったく異なった思考のスタイルを楽しむには、これほど向いた言語はない。

どんなルール破りも出来るというか、おもしろい、いわば前衛的な言語で、すでに言語としては全体として死語の体系になりかけているが、基本的なデザインは、言語表現の実験に、たいへん向いた言語で、例えばイタリア語では絶対無理だよね、というデタラメが、ふつうにやってみられるところが言語としてすぐれている。

もうひとつすぐれている点は、どんな言語も、文章のなかを流れる固有の時間があるが、日本語は、タイ語もそうだと誰かが述べていたが、言語を通貫している時間が、もともとは、非常にゆっくりしている。

日本語になれてくると、この自然な日本語時間系とでもいうべきものが壊れて、政治的な発言などによくあるが、性急な、リズムが崩壊した日本語で語られるものは、そもそも耳を傾ける価値がないのがすぐ判るようになる。

日本語による魔術的な時間は、いまの現代日本語から想像もつかないほど、ゆっくりしたものだったのは、平安後期から鎌倉初期という、最も魔術的な言語の書かれ方、ほとんど自動筆記に近い書かれ方をした日本語を読んでいると、わかりやすいような気がする。

積み重ねたサンドイッチを食べおわって、二杯目のラテを飲み終わると、また眠くなります。
どおりゃ、また寝室にもどって、モニさんの良い匂いのするベッドで寝るかなあ、とおもう。
外は明るくなって、tuiが啼きはじめている。
秋の虫のような声に、ときどき、電子音のようなものが混ざるのは、あれは、ぼくの家のセキュリティシステムのロック音をマネしている。

ヘッジホッグもポサムも家に帰って、身体をまるめて眠っている。

なんだか無駄なことをいっぱい考えて、ぼんやりしていたぼくも、もう寝ます。

おやすみなさい。
太陽が南中する頃には、また起きてくるから、そのとき、ツイッタかどこかで会おうね。

でわ。

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1 Response to 明け方、ばらばらに分解された言葉で

  1. 人が寝静まった時間帯というものは、「夜の意識」に身を沈めて、「昼の意識」では感じ取ることのできない直観や、自分自身の無意識からポツンと送られてくるメッセージ(のようなもの)を受け取るのに適しているので、その時間帯に目覚めていることは、ある種の人々(詩人や芸術家や数学・物理学者など直観を必要とする人たち)にとってはとても大事なことだったりします。

    特に夜明け前は(地域にもよるでしょうが午前四時頃)、インドなどでは聖なる時刻と言うようですが、直観が研ぎ澄まされる時間です。
    スピリチュアルという言葉は、特に日本では精神世界ビジネス(宗教含む)によって金儲けの道具にされてしまったのであまり使いたくないのですが、空気が清く澄んで感じられる時間帯をそう呼んでも差し支えないかと思います。

    複数の言語で思考することができる人は、母語のみではない自分を(内的に)持てるような気がします。
    複数(4~5ヵ国語)の言語が聞けて、話せて、読めて書けて、という人でも、「彼は常に彼のまま、必要に応じて英語やフランス語や日本語を使っているだけ」と感じられる人と、母語のみで生きることがつまらなくて、というか、自分の可能性を発展させる必要から、外国語に熟達したと感じられる人がいます。
    前者は主に仕事・生活など実際的な理由で外国語を覚えた人(だから文学などにはあまり深入りしない)、後者は言葉の背後にある歴史や文化にも関心を持つので、詳しいですね。

    日本語で考えている時のガメさんは、「もう一つの自分」を生きているのではないですか?
    清明で静寂に満ちた、夜明け前の時間に。

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