ベルジアンバーのテラスで

少し目を遠く離してみれば、人間社会の営みなどは、砂漠の表面に出来た風紋のようなもので、ほんの100年も経てば、いま目の前にいて、リーシュを外したラブラドールを追いかけて、笑声をあげながら波打ち際を駈けているカップルや、砂浜に隣接した、イギリス式に芝生が広がって、噴水がある公園でラグビーボルを投げ合って遊んでいる父子も、アイスクリームスタンドに行列している家族連れたちも、
みなかき消すようにいなくなってしまう。

いわば肉体を持った幻で、この地上に生まれついて、愉快なときをすごし、あるいは苦しんで、平均なら80年弱なのだろうか、一生という名前がついている意識の流れを過ごして、土に帰ってゆく。

国内線で、ラガーディア空港に向かうと、マンハッタンの直上の、随分低いところを通って着陸する。
クライスラービルやエンパイアステートビル、カウンシルのビルや、斜めにはしるブロードウェイが見えるので面白いが、ビルを一棟買う、というような話がでると、いつも、その光景をおもいだす。
あんなに低い高度を飛んで、目を凝らして、見えるか見えないかのようなビルを買うために、人はたいへんな集中力をつかい、時間を使って、ときには自殺を図ったりするひともある。

その人の一生での、伸るか反るか、おおきな山場が、ほんの数百メートルの上空からみれば、取るにも足りない、群小高層ビルのひとつにしかすぎない。

あるいはヘリコプターで自分の家がある地区の上空を通る。
ニュージーランドのなかでは敷地も建物自体もおおきめな家が集まっている住宅地のなかでも、他の家よりも少しくおおきな家なので、空から見ても、ああ、あれだな、という程度には判る。

でも、通りを歩いているときには、偉そうな門構えであるのに、空からみると、なんだかマヌケな感じがするくらい「たくさんある家のひとつ」で、
眺めていて、おかしみがこみあげてくる。

人間の営みなど、群衆であってさえ幻で、まして、ひとりひとりの生活などは、よく言って些細なもので、冷静に客観的な表現を採用すれば無にどこまでも等しい。

人間がいかに個として、小さな、取るに足りない存在であるかが実感されない人間の意見は、聞いていて、ひどくつまらない。
現実には未来の時間が、目をこらしても、姿どころか痕跡を見つけるのも難しいほど些細な存在であるのに、本人のあたまのなかでは特撮画面のゴジラなみで、サーチライトもあたっていて、のしのしと歩いているように考えているのが手に取るように判って、興醒めだからでしょう。

現実には人間などは言語がとどく範囲の時間と空間を背景にすれば最小粒子に近い存在で、その小さな粒子が、どれほど数学という言語や自然言語によって、広大な宇宙を認識しても、やはり人間の卑小な存在のありかたには変わりはなくて、たいして生命の意義が変化するわけではない。
個人が宇宙を正しく認識していても、まったく何の関心も知識もなく、お犬さんとあまり変わらない世界への理解でも、どっちでも、人間としての価値が変わるほどではなくて、どっちでもいいという程度でしかないことに、人間の真実も悲惨もあるのだと信じられている。

金正恩と文在寅が必死に考え続けていたのは、ただただ「どうすれば生き残れるか」ということだったように見えます。
核を手放せば、あるいは手放さないでいてさえ、アメリカに攻撃されて、国ごと滅ぼされる瀬戸際の状況にあった北朝鮮と、なんとしても国土を焦土にする戦争が再び起きることを避けたい韓国の大統領とが、まるで以心伝心のひとびとのように、と言っても多分、現実には、お互いの諜報機関の情報収集の結果、ああ、相手にもそういう気持があるのかと悟って、ただひとつの生き延びる道として、空前絶後の決断に至った結果が板門店での歴史的な一歩だったのでしょう。

英語圏では取り分け、指摘されているように、具体的な提案や材料はなにもなくて、よく見ると事態はなにも変わっていないが、ひとつだけ明瞭に変わったことがあって、
朝鮮半島の状況を朝鮮民族が自分たちのイニシャティブで決められるようになったという、歴史上初めての、びっくりするような状況を生みだすことに成功した。
金正恩が習近平に会ったのは、半島のことは朝鮮民族で解決したい、というもともとの悲願への第一ステップであったでしょう、トランプという、黄色い民族がひとつくらい地球から消滅しても、帳尻さえあえばなんともおもわないケーハクな狂王がアメリカの大統領になって、金正恩も文在寅も焦慮切迫していた。
大口をたたくだけで、具体的な行動となると、臆病な中小企業の社長じみて、国家という大きな組織をまとめて準備に動かすだけの能力ももたず、目先の利益以外の国益に対する理解力もない人間が世界一の強大な軍隊をもって、半島を戦場化しようとしているという未曾有の事態に遭って、朝鮮民族が勇気をふるって述べた解答が、不可能を可能であると言い切るという前代未聞の外交だった。

背景に、それぞれ中国とアメリカが半島をじっと睨んでいて、力の均衡のなかで同じ民族の、分断された国家が戦争の間際に追いつめられて打つ手としては、どんなに具体的な現実政策を伴った未来への展望に乏しくても、やはり最良の手で、民族自決という、まるまる100年前に流行した言葉を思い出す体の出来事だった。

実際、北朝鮮の意図を疑わしいと考えているひとも含めて、称賛をもって南北の会談を眺め、感動したと述べている。

これほどの、勇気がある人間の行動を観て、なお屁理屈をこねて、「こんなもの」とくさすのは、よほどひねこびた人間であっても、やはり無理なもののようでした。

余計なことをいうと、この朝鮮半島の変化は、外交上は、イランとの合意を破棄するとトランプが述べだしたことが契機で、極東と中東の、アメリカが力のバランスを自分の有利に保つための梃子に選んだふたつの地域のうち、おもえばバカバカしいが、予選決勝のようにして、中東へ外交の力点をおきやすい状況ができあがっていた。

もちろん、背景にはトランプの東アジアへの根底的な無関心があるわけで、この1980年代の世界がいまの世界であると考える癖が抜けない老人にとっては、東アジアとは、中国と日本というふたつのアメリカの国富を盗む術に長けた国がある地域にしかすぎない。
簡単にいえば、北朝鮮がアメリカにとっての脅威として話題にならなくなってくれれば、それで良いので、結果としては東アジアの安全保障は、放り出してしまったも同然で、多分、DCでは、「軍が関心をもって処理すべきこと」のレベルまで落ちてしまっている。

こういう状況になって、日本が最も心配すべきことは、ロシアで、あんまり日本では注目されないが、頼まれもせず、ロシアのお家芸の恫喝もされないうちから、現金と北方領土の利権を差し出してしまうという、途方もない外交上の失敗をしてしまったことで、日本は、おおきな安全保障上の脅威を北方にもつことになってしまった。

日本は、ほぼ外交上は、孤立しつつあるが、見ていると自ら望んだ立場で、これはこれで、なんだか秘策みたいなものを民族として持っているのでしょう。

例のヒラリー・クリントンの奇妙な提案で、日本の利権を排除して、トヨタ本社に直行して首都には挨拶にすら立ち寄らなかったラッドの初訪日や安倍政権の潜水艦売り込みの失敗に象徴的に見られるように、日本に対する外交上の対等性を獲得した南太平洋諸国が、もっか関心をもっているのは、コロンボの港湾権の獲得や、スプラトリー諸島での海上要塞の建設、フィジーやバヌアツを国ごと買収してしまったような経済支配で、よく考えてみると、大日本帝国が軍事力でやりたかったことを、オカネのちからで、さっさと現実にしてしまったような、中国の太平洋戦略で、多分、結果はろくなことはなくて、オーストラリアやニュージーランドでは、さして人種差別主義者とは目されていないひとびとまで、白い人の世界でしか聞こえない声で、「どうやってアジア人を追いだしてしまうか」と述べだしている。
追いだしたいのは山々だが、いきなり追い出すとビンボになって困るので、なるべくオカネは取って、影響力はもたせない、虫のいい算段をしているところです。

国内でも、オーストラリアでの中国の影響力の浸透について、「不可視の侵略」だったかなんだかの題名の本を書いたオーストラリア人の研究者がいて、案外なくらい売れて、どういう理由があるのか知らないが、日本の人まで「オーストラリアやニュージーランドは中国の支配下に入るのではないか」と心配してくれているが、
白い人の、いざというときに見せる理不尽きわまる凶暴性を知らないからで、
もうこれ以上はうんざりだとおもえば、「アジア人は全員でていけ。カネはおいていけよ」になるに決まっていて、しかも、そういう経済の法則もなにも無視したデタラメな事態になりかねないのを中国の人の側もよく知っているので、心配は、もっかは囲碁的な心配に集中している。

そして、個人として最も関心がある欧州は…と書いていくと、一生懸命、政治情勢を考えているヘンな人みたいだが、実際には、ぼんやりと頭のなかで、ショーバイの投資の背景をなす政治の最もおおきな絵柄の部分として考えているだけのことで、ベルギーの、11%というとんでもないアルコール度のビールを飲みながら、海辺の、夏の名残を楽しむ人びとを眺めながら、あー、めんどくさいとタメイキをついて、点検しているだけです。
プーチンが「安倍の野郎、おれにくれるといった3000億円を、まだ払ってきやがらない。なに考えてんだ、ふざけやがって」と怒ったという、ただもらいのおっちゃんにあるまじき態度で、なにがなし滑稽な感じがするニュースと、前代未聞、ハインツのケチャップのアメリカ国内での売り上げが4%下がったというニュースが、そういう観点からは等価で、家の手伝いをしてくれる人たちに頼まれたキャットフードを忘れずに買って帰らなければ、ということよりは、プライオリティがだいぶん低いものおもいであるというに過ぎません。

いまは春休みで、子供が町の通りや砂浜を走りまわっている。
自分にもおぼえがある表情で、少し緊張して、ぎこちない、高校生のカップルが、あっちにもこっちにも歩いている。
おもいつめたように、手をつなぐ十代の子供たちをみていると、先に生まれた人間として、自然に、心のなかで励ましている。

やれやれ、ビールを3本飲んだだけで、少し身体がふんわり浮くような気持ちになってしまった。

きみもぼくも、どうやら須臾に射す影のようなものに過ぎないが、それでも自分自身をないがしろにしないで、懸命に考えて、懸命に一日を過ごすしか、ほかにやりようもない。

ときどき、日本語という橋の上で、会うことにして、お互いの境遇を述べあえるといいね。
さっきの朝鮮半島の話だけど、ぼくは、明日、アメリカが北朝鮮を爆撃して、核ミサイルが東京や沖縄に飛んでこないことになっただけでも、日本の人にとってはよいことだと思っています。

「戦争? そんなことは、起こりえない」としたり顔で、根拠を自分の頭のなかで捏造して、冷笑的に述べる人達がいたのをおぼえているが、現実はそれどころではなくて、とても危なかったんだよ。

歴史の上では、起こらなかったことは、可能性もなかったことになることがあって、それでいいのだけど、「明日一日は、大丈夫だ」と自信をもって考えられることが、どれほど人間にとって大事なことか。

また、会おうね。
日本語橋の、まんなかの、あの暖かな風が吹く場所で。

でわ

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