Monthly Archives: May 2018

デーセテーシタレトルオメン

若かった義理叔父とかーちゃんシスターが、紆余曲折の、さんざんすったもんだ、曲がりくねった迷路のような道を歩いて、ついにエッチをするのだと一大決心をして、ふたりで半分ずつだしあって、いまはもうなくなった赤坂プリンスホテルの部屋について、窓の外をみると、素晴らしい東京の夜景がひろがっていて、義理叔父は、 Situated on a hill, this room commands a fine view! と述べた。 次の瞬間おきたことは、義理叔父にとっては一生わすれられないことで、普段は、荒っぽいようなふりをして、とても礼儀正しいかーちゃんシスターは、大笑いして、息をするのも苦しそうなほど笑い転げた。 「なんで、そんなこと言ったの?」と、わし。 「ギャグですか?」と従兄弟、すなわち義理叔父の息子。 憮然とした顔で、切り出した義理叔父によると、義理叔父の時代には、駿台予備校という主に受験に失敗した高校生の敗者復活戦を支援することを目的とした学校があって、その学校の出版部が「基本英文700選」という丸暗記用のフレーズブックをだしていた。 その257番に、 Situated on a hill, his house commands a fine view. という例文があって、バカバカしいことに、この700の古代英語文を律儀に全部おぼえていた義理叔父は、「英借文」をして、his houseのところだけをthis roomに替えて、ロマンチックな夜を盛り上げようとしてカッコヨク述べたつもりだったのでした。 次の朝、かーちゃんシスターは、いまではもう滅多に見なくなった人間の背丈ほどもあるバックパックを背負って、成田空港へのシャトルバスに乗り込んでいく。 まだこの時点では、義理叔父は、かーちゃんシスターが実は、イギリスでも有名な上流家庭に生まれて育った人で、家系には綺羅星のように高名な軍人や学者や文人が並んでいることを知らないし、かーちゃんシスターが、このヘンテコリンな日本人をどれほど愛していて、当時のひとが聞いたらびっくりしてしまうような決意を心のうちに秘めてヒースローへ飛ぶ飛行機に乗り込んで行ったことも知りません。 いつかオーストラリアのアデレードに住む帽子デザイナーのミナが、ずいぶん気に入ってくれた小泉八雲と奥さんのセツさんの話を書いたことがある。 長いけど、引用する。 『きみは、いま松江にいるそうで、正直に「うらやましいなあ」と思う。 ぼくは京都の日本海側から松江あたりまでの日本海側にあこがれがあって、柳田国男が生まれた町や、志賀直哉の短編で描かれた町、浜坂という小さな美しい浜辺のある村や、そういう場所をうろうろしてみたことがある。 松江にも行きたかったが、そのときは神戸でひとと待ち合わせをしていたので行けなかった。 ラフカディオ・ハーンという、変わり者で片眼、小男のギリシャ系イギリス人は、たいそうラッキーな奴で、その人生の後半に小泉セツという素晴らしい女びととめぐりあう。 小泉セツが英語をおぼえようとして使った手書きの英単語帳がいまでも残っているが、「アエアンナタハングレ」(I am … Continue reading

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日本語人への手紙

小説が登場すると魔女狩りが消滅する。 あるいは現代社会では、ほぼ完全に消滅した、魔女狩りを支えていた隣人への疑心暗鬼のある種の「空気」がなくなって、石に近所人のおかみさんをくくりつけて、 「浮いてくれば魔女」「沈んでしまえば非魔女」というようなことをやらなくなった。 訪問したことのない他人の生活の様子がわかったからです。 なるほど、他人というのは、こんなふうに暮らしているのか。 こういうところは、自分とおなじではないか。 ああ、こういうときに、こういう人は、こんなことを考えるのだな。 登場以来、人間が数百年にわたって熱狂する「小説」という形式は、もともと仮想的な情報の共有への情熱のせいで売れ続けた。 小説が明瞭に虚構だと納得されるようになったのは、比較的には最近のことです。 エドガー・アラン・ポーのいくつかの小説は、実体験として新聞に書かれたもので、読者はみなノンフィクションとして読んだ。 気球に乗って月へでかけたり、オランウータンが起こした殺人も、現実の出来事の報告として読んだ人が多かったでしょう。 面白いのは、それ以前から現実の報告はなされていても、ひとびとがより強く「現実である」と実感したのは、作り話である小説のほうで、この記事では詳しくは述べないが、やがて小説という虚構は逆に現実を生みだしてゆくようになります。 ここまで書くと、気が付く人が当然いるとおもうが、この小説と現実の関係は、いまの時代(←これを書いているのは21世紀が2割近く進んだところです)のインターネットと現実社会の関係と相似で、情報の共有がおおきく現実社会の様相を変えるネットと現実の関係の雛形は、小説と社会の関係に見ることができそうです。 情報が同時的に共有されることによって、世界はおおきく変化した。 少し、バカバカしい例を持ち出すと、インターネット以前には、ニュージーランド人は2年前のコンピュータを最新型と信じて、しかも他の国民の倍近い価格を支払って購入していた。 ビジネス側の仕掛けは、例えば、ハービーノーマンというシンガポール、オーストラリア、ニュージーランドに支店網を持つ家電&PC店であると、まずHPの最新モデルをシンガポールで売りにだす。 この在庫が、その年に捌けないと、オーストラリアに移動させて一年遅れで新モデルとして売る。 そこでも売れないとニュージーランドに持ってくる。 値段も酷いもので、いつか、クライストチャーチにいたときにPCが壊れて、シンガポールに行くヒマがなかったので、やむをえずにブリスベンのゲートウエイショップに行くことにした。 ごく標準的なスペックのノートブックコンピュータが6000ドル(50万円)で、カリフォルニアのFry’sで同スペックのコンピュータを買う2倍近かったのをおぼえている。 インターネットが生活のなかに入ってきたのは、ニュージーランドでは1997年頃で、まだ、ピイイイーガアアアアーだったが、ナイーブなニュージーランド人たちも、やっこらせどっこいしょな感じで表示されるアメリカのPC店の価格をみて、自分達が長いあいだ騙されていた、というか、ぜんぜん判っていなかったことを悟った。 こういうことは、おもしろいもので、例えばぼくが、「コンピュータ、カリフォルニアに行くと、ずっと安いんだよ。往復の航空機券代をだしてもパロアルトに行って買ったほうが安いよ」と述べても、へええええー、そうなのかああーという反応が返ってくるだけで、実感というイグニションがかからないので、ただ知識として頭にとどまるだけであったのが、自分がネットスケープの画面でデルの価格一覧をみると、俄然、不愉快になって、「二度とニュージーランドのPC店でコンピュータを買うものか」とおもうもののようでした。 このあと、急速に英語世界という巨大コミュニティが出来上がって、ニュージーランドも、そのコミュニティのメンバーになって、情報と知識が共有され、スコットランドの知恵や、イングランドの知恵、アメリカの知恵やカナダの知恵….と、どんどん共有されていって、新しい常識の分厚い層が生まれて、その「常識」の土壌のうえに、男女性差別の解消や、セミコロン、鬱病との戦いや、主にムスリム人が対象の宗教差別との戦い、同性愛への偏見との戦い、さまざまな矛盾が可視化されて、共有され、少なくとも英語世界では、オーストラリア人であってもアメリカ人であっても、アイデンティティは、英語人であることのほうがおおきくなって今に至っている。 物理的距離をインターネットが埋めて、どういうことになっているかというと、いまの世界では、公平に見て、英語圏諸国とインド、シンガポール、ドイツ、オランダ、北欧諸国がひとつの巨大な「常識」を形成しつつあって、その価値観と真っ向から対立する形で中国語圏がある。 その周辺にフランス、ロシア、アジア諸国、この文章は日本語で書いているので、切り放してかけば日本、という国が存在している。 インドはもともと英語国とは言えないが、どんどん英語化して、かつての上流家庭に限らず、中流家庭に至るまで、家庭内の会話ですら英語で行われる例が増えて、逆に、インド人の「間違った英語」が英語全体に影響を与えるほど、おおきな影響力を持つようになって、これはこれで、別稿をたてたい、おもしろい勢力をなしている。 よく引き合いにだすpreponeくらいから始まって、インド英語は、例えばイギリス人の英語のなかにも入ってきている。 英語の標準化も顕著で、たとえばニュージーランドの歌手Lordeとカナダの詩人の対談を見ていると、若いふたりとも盛んに「tortally」を連発しているが、もともとのイギリス人の耳には、これはアメリカ英語で、ところが、いつか奇特にも日本に日本語を勉強しに来ている若いケンブリッジ卒の女の人が友人らしい人にツイートしているのを見ていたら、やはり「tortally」で、なんとなく、微笑ましい感じがした。 思考が平準化されるのは、もちろん良いことではない。 オーストラリアやニュージーランドには「Westfield」という巨大ショッピングモール運営会社があって、最近は、マンハッタンにモールを出したり、ロンドンでは、やや高級風な変わり種ショッピングセンターを出したりしている。 こういう大資本には、怪物的な、世界を退屈な場所に変えるパワーがあって、ほら、日本でもイオンがあって、ワタミがあって、という風景があるでしょう? あれとおなじことで、英語圏の国に行くと、どこにでもThe Body ShopがあってNikeがあるというバカバカしいことになっている。 それと似ていて、アメリカ人の思考があり、イギリス人の思考があったものが、急速に「英語人の思考」に統一されつつある。 一方では、日本社会は、一種の狂気におちいりつつある。 テレビもなく、ラジオもなく、インターネットもない部屋に365日暮らす人を想像してみれば、最も近いが、奇妙なことを信じはじめて、どこにもまったく存在しない世界を現実の世界として妄想しはじめている。 その世界では、アジアのなかではただ一国、日本が舞台のうえでスポットライトを浴びていて、世界じゅうが一挙手一投足に注目して、拍手喝采し、あるいはブーイングを浴びせている。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/12/18/mirrorx2/ 東京の書店の店先に「世界が憧れる日本」というような本が平積みされているのを見ると傷ましいが、信じがたいことに、それがフォトショップされた画像でもなんでもなくて、現実の光景なんです。 … Continue reading

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税としての時間

シリコンバレーは過労死が多い地域で有名で、ノンフィクションの本や、ドキュメンタリもいくつかある。 相も変わらず、ふらふらしていて、なんか面白いことがあるかなあーと考えて、ロスガトスという小さな町にアパートと事務所をつくってみたことがあったが、マジメで精力的な土地柄があわないというか、いかにも起業ばりばりのお友達が増えてしまって、こんなに忙しい空気はかなわんというので、行かなくなってしまった。 過労死って、英語でなんていうんですか? と日本にいたとき聞かれたことがあるが過労死が英語でもkaroshiで、この日本語の単語があわらしている概念が、最もうまく悲惨な死の内容をあらわしているので、そのまま使うことになっている。 同じ英語になった日本語でもhoncho(班長)とは単語の成立の事情が異なっていて、おおげさにいえば、戦後の60年代くらいから急速にすすんだ日本文化への理解が反映されている。 過労死自体は、シリコンバレーのほうが、ひた隠しに隠してはいても公然の秘密といってよい日本の名うての過労死地帯、霞ヶ関官庁街よりも数が多いとおもうが、死に至る病のできかたは、おおきく異なっていて、シリコンバレーで過労死するのは、たいてい社長、それも起業家と分類されるのが適切な若い社長で、だいたいあと少しでIPOにこぎつける、というような時期に、幼い子供と奥さんを残して疲労の極で自殺する。 このこと自体、ここ数年では日本でもよく知られるようになってきているはずで、 相変わらず、「過労死はたしかに悲惨だが日本だけにある問題じゃない!」と述べる、「日本だけじゃないおじさん」たちに事実として愛用されているように見えるけれども、おおきな違いの、過労死はアメリカでは経営者が死ぬもので、日本では被雇用者が死ぬという違いから、うまく考えていけば突き当たりそうなアメリカと日本の社会文化の違いという、もうちょっと面白そうな方角へは、あんまり論をすすめる人がいないように見えなくもない。 自殺するくらいなら仕事をやめればよかったではないか、とマヌケな感想を洩らす人がいるが、過労死は仕事に生活を乗っ取られた人間が陥る一個の心理的セットで、仔細にみていけば直ぐに判るが、途中下車をする選択がない心理セットで、しかもこのセットは、個人を成功に導くセットと極めて近しい相貌をもっているところが問題なのです。 2011年頃の自分のブログを読むと、まだ日本で見聞きしたことをふり返ることが多かったのでしょう、日本社会における「時間」の扱われ方が強い印象に残っていたようで、10をくだらない数の日本社会における時間についての記事がある。 時間を取り戻す_経済篇 https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/01/03/time/ 日本の社会の最大の特徴は、個人から時間を搾取する仕組みが極度に発達しているところで、小学生のときから、中学入試への準備という形で、それはもう始まっている。 いま62歳になるHさんたちに話を聴いていて、週4回の近所への塾通いの上に、週末も日進や四谷大塚という大手塾に通っていたという。 自由自在や応用自在という面白い名前の分厚い参考書があって、それを教材の中心に、塾に通った。 当時は教育大学付属駒塲中学と呼んでいた筑波大学付属駒場中学に合格して、やっと息がつけるようになった。 そのあとは、案外のんびり勉強していても東京大学のどこかには、というのは理科3類、文科3類あるうちの、相当にバカでも文科三類には入学できた、といいます。 相当にバカ、は失礼きわまるが、この場合は本人が文科三類に入学した人で、このひとの他の友達に訊くと、「ああ、あの人は、どの類でも合格できたでしょうけど、変わり者で、文学がやりたいといって初めから三類を選んで進んだのですよ」ということだったので、許してあげなければいけないようでした。 余計なことをいうと、おっちゃんたちは酔っ払って、軽井沢の森のなかで怪気炎をあげることがあって、ぼくが一緒にいたBBQでは、「ガメちゃんね、トーダイトーダイって、堀江なんちゃらさんが得意がっているけど、理2文三はトーダイでなし、っていうのよ、などとチョーお下品なことを述べて、けけけけ、と笑いあっていたりしたので、トーダイのなかではトーダイ内部で、いろいろと差別があるもののようで、なんだか面白い気持になったりした。 閑話休題 義理叔父の、とーちゃんのとーちゃんの時代は、日本の社会はずいぶん違った様相だったようで、海軍将校だった母親側の祖父の忙しい暮らしに較べて、霞ヶ関の若い課長さんだった父親側などは、午後4時にはもう仕事をたたんでいたらしい。 それが不文律になっていて、20代で課長になって、俄然やる気がでて、どおりゃひとつ、今夜は未決箱を空にしてやるか、と腕まくりをする気持になっていたら、 だんだん課内がそわそわした空気になってきて、5時ちょっと過ぎた頃になると、 古手の課員が、申し訳なさそうに、あの、すみませんが、課長さんが定時前に帰らないと、わたしら課員が「あいつらが仕事をしないから、あの課は課長が頑張らないとならない」と陰口を利かれますんで、と言われて、ああそうか、そういうことがあるのか、と学習して、それからはどうしても「やっつけたい」仕事があっても、袱紗に包んで、家に持って帰るようにしていた。 この人の弟は、民間で、三菱の丸ノ内村に勤めていたが、やはり4時過ぎには終わりで、丸ビルでうなぎの蒲焼きとビールで、友達と他愛のない雑談をしてから、当時は地上から出ていた9番線の横須賀線で、鎌倉駅に着くまで、ビールの小瓶をちびちびやりながら帰るのが楽しみだった。 そうやって、インタビューを重ねてゆくと、どうやら、考えてみると当たり前である気がしなくもないが、ソニーやトヨタが急成長を始めた60年代くらいから長時間労働が当たり前になっていったようで、決定的に世の中がお下品になっていくのは、いろいろに符節があった時期で、東京都の教育委員会がとちくるって(としか読んでいておもえなかった)学区群制度を導入して、それまでは高校文化とでもいうべきものを繁栄させていた日比谷高校が実質的に解体されて、高校の評価が東大への入学者数で決まるようになって、高校の、例えば数学や英語の教育が定石教育とでもいうべきものに姿を変えていって、例えば英語教育においては、当時の「TIME」マガジンレベルの文章を読解することに焦点をしぼった語彙を集中的に暗記する、という、なんだか要領だけの、げんなりするような方法が全国を席捲するかとおもうと、数学は数学で、詰め将棋の学習にそっくりな、「この局面では、こうするのが最も有効」というような解法パターンに集中した教育になってゆく。 前に自分で東京大学の入試問題を解答してみたことがあった https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/09/todai/ が、バルセロナの、大聖堂が遠くに見える丘の上のアパートで、早朝、大好きな炭酸水ヴィッチイカタランを飲みながら数学と英語の問題を解いて考えたことは、 記事には露骨には書かなかったが、「東大入試は暗記ではない。思考力を見るのだ」というが、こんな定石思考を徹底するような知的訓練は人間の脳をダメにするんちゃうかしら、と疑問におもった。 英語のほうは英語のほうで、長文読解と予備校が注釈をつけたやけに短い文章と、日本語試験のような英文和訳の問題で、ゲームが大好きなぼくとしては面白かったが、知的能力をたったあれだけで見られるのか、と考えることになった。 あるいは、ペーパー試験で、その場限りの時間内で大学レベルの思考力があるかどうか見る、という思想は、あのくらいが限界なのかもしれない、と考えたりした。 SATは日本と対照的な考えで、簡単な問題で、バカでないかどうかを検討して、大学に入ってからだんだん思考するということを教える仕掛けになっているようにみえるが、人間の発育過程に照らしても、現代では一見アホらしいアメリカ式の選別方法のほうが合理的なのかも知れません。 入試について長々と述べたのは、18歳以前の人間にとって、個人の時間を奪われる最大の元凶が学歴社会であるようにおもわれたからで、頂点ともくされるいくつかの大学に入れなかった大量の「敗者」を生みだしてしまうという問題とは別に、勉強という言葉で呼ばれている入試準備の技量を身に付けることが良いとされていることが、陰に陽に子供から時間を奪っていく。 ここで起きるのは日本という軍隊に限りなく似た社会での将校と兵卒の選別で、ここから先、将校に選ばれればまずまず時間も与えられて、やりたいようにやっていけるが、99%の兵卒組は、男女に関わらず、まるで地獄の泥沼を這い回るような低賃金と長時間労働の無間の闇を死ぬまで彷徨することになる。 日本人は生産性が低い、という。 もともとは日系企業に勤めたことがある人が、言い出したことであるとおもえて、ぼく自身がはじめて聞いたのは、連動王国から日本の財閥企業に就職した女の人からだった。 まず余計な仕事が多い。 自分の専門分野に集中させてもらえない。 少し深刻な話が続いたあとで、 … Continue reading

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陽だまりに休む権利

冬の寒い朝に、小さな陽だまりをみつけて、そこで暫くじっとしている権利は誰にでもある。 生まれてから、ここまで、自分では懸命に考えて、努力して、精一杯やってきたのに、やり方が下手で、あるいは時宜をえないで、うまくいかずに、疲労困憊してたどりついた場所で、その場所が成功の高みにある場所でも、低迷の窪でも、人間は疲れてしまうときには、疲れてしまうので、やっとの思いで、ベンチに腰掛けて、ああ、ここは暖かいなあ。 ここに、ずっといられたら、どんなにいいだろう、とおもう。 そのベンチに腰掛けることが、そのひとにとって、恥ずかしい事で、不名誉におもえるときも、文明が存在する社会では、道行く人の誰もが、そっと、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。 その人が孤独に苦しんで、疲れて、その陽だまりでやっと息をついていることを看てとるからで、その人に「そこは、あなたがいつまでもいていいところではありませんよ」「いまはいてもいいが、すぐ立ち去らなければだめですよ」と述べるのは、人間がやることではなくて、いわくいいがたい、正しさの化け物と呼べばいいか、そういう気味の悪い生き物だけが口にすることだろう。 日本にいたときに、さまざまなニュースを観ていて、最もがっかりしたのは、生活保護を受けているひとたちに対する、ほとんど社会を挙げての、というと「ぼくもぼくの周りの人も攻撃したりはしなかった!」と述べる、日本特有の厚顔ないいわけをしにくるひとがいそうだが、ことの性質を考えれば、怒りを露わにして、通りに出ていかなければ、明日の生活にも困窮する人がいたのだから、ありとあらゆる機会をつかんで、「生活保護受給を自分のオカネを盗むような嘘をつくな」というべきで、いわなければ、この場合は、あの人間としての恥というものを知らない、心をもたない人間たちとおなじ生き物だと言うしかない、攻撃で、 あれほど、日本社会と無関係な人間が見ていてさえ、自分のことのように恥ずかしい気持になることはなかった。 お温習いをすると、生活保護は、もともと、そこまでの一生の試みに失敗した個人に対する慈悲の気持を社会がもって、つくりだした制度ですらない。 理屈は簡単で、たとえていえば、インフルエンザの予防注射とおなじことです。 医学を学ぶ人は、多分、公衆衛生学で、ごく初歩的な考えかたとして学ぶが、予防注射は、個々の人間を救うために実施するわけではない。 いま、平面に、疎に密に、広がっている点を考えて、この点から点にインフルエンザが感染していくことを考えると、感染しない点を増やしていけば、点から点にインフルエンザが伝播する機会が減って、確率的に、感染は減少していく。 点をどんどん増やせば、インフルエンザ自体が、スペイン風邪のような、えらいことになるまえに、終熄するはずで、予防注射というのは、つまり、もともと社会を防衛するための衛生思想に基づいている。 生活保護もおなじで、まるで流砂に足を踏み入れてしまった人のように、もがいても、もがいても、貧困と過剰労働の負のスパイラルから出られなくなった人に、休息と、いくばくかの金銭を与えて、社会の成員として復帰することによって、社会自体を繁栄させようとする制度として機能する。 生活保護を自分のふところに行政が手を突っ込んでオカネをもっていくように感覚する人が、例外なく愚かな人間なのは、つまり、観点を変えて、ものを見るときの足場を変える能力すらもたないからで、頭が悪いということ自体は悪いことではなくて、特に幸福になるためには必要な能力だが、それを悪用して、いまの瞬間に苦難に陥っている人間に向けるのは、愚かというよりも野蛮で、そもそも文明になどは縁がない人であるというほかはない。 人間は、さまざまな理由で、ごく簡単に苦境に陥る。 いつか、英語の世界ではチョー有名な例として、女優のシャーリーズ・セロンの場合について記事を書いたことがある https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/01/20/survival-kit-e/ エンターテイメントの世界には、実際、自分で「堕ちるところまで堕ちた」と自嘲するひともたくさんいて、表だって語られない、たくさんの、麻薬の売人、売春、 食べるカネに困っての盗みの逸話に満ちているが、人間として堕ちることを拒否して、いっそうの経済上の困難に陥っていった、上のシャーリーズ・セロンや、十代で何年もクルマのなかで寝起きしなければならなかった歌手のJewel、浮浪者用のシェルターで暮らせねばならなかったHelle Berry、過去を悪びれずに話している現在の当人からは想像もつかないような「どん底」を経験している人は、いくらもいる。 なんだ芸能人ばかりじゃないか、というひとのためにいえば、日本人がめざすべき成功物語の典型のように語られるSteve Jobsにしたところで、Reed Collegeをドロップアウトして新しい生活を始めた当初は、公園をめぐって、ゴミ箱を漁って、コーラのボトルを集めては売って、かろうじて、その日の食事にありついて暮らしていかねばならなかった。 帰る部屋など持たないホームレスだったことは言うまでもありません。 貧困には、ちょっと死に似たところがある。 たいていの人間は、自分には起こりえないか、あるいは、起きたとしても長いプロセスを経て、何年ものあとに起きるものだと妄信している。 死ぬときは癌で死にたい、という人は、医学が発達した現代ではたくさんいるが、彼らに理由を尋ねてみると、癌は急死せずに、余命が12カ月なら12カ月で、猶予が与えられて、いわば、ゆっくりと死んでいけるからで、身辺を整理して、英語ではbucket listと言う、生きているあいだにどうしてもやりたかったことのなかから、やれることをやって、愛するひとびとに別れを告げて、死んでゆけるからで、違ういいかたをすれば、「丘のむこうにある死」を人間にもたらしてくれるのは癌くらいのものだとも言えるという、現実が背景にはある。 アパートの、ヨーロッパ式にいきなり通りに踏み出すように出来ている玄関を出た途端にクルマに跳ねられるひと、いつものようにlaunchに乗って釣りにでて帰らなかった人、工事現場で手際の悪い縛り方をされていた鉄材がクレーンから崩れておちて、下を歩いていて死んだ人、人間はさまざまな理由で、あっけなく、あっというまに死んでしまう。 貧困も、現実を観察すれば、意外なくらいに、たいていの場合唐突に訪れる死とおなじで、似ていて、例えば、オバマケアがまた廃止に向かいそうで、国民保険制度がどうしてもうまくつくれないでいるアメリカならば、重病に陥った瞬間に死よりも先に貧困が待っている。 実際、アメリカ合衆国では、自己破産の原因の一位が医療費であるのは、なんども報道されるので、知っている人も多いとおもいます。 日本は言うまでもない。 女の人にとっては最も離婚がしにくい社会で、世界的に有名で、いわば「離婚の自由」がひどく制限された日本社会でも、それでも人間なので、我慢には限界があって、まるで追いつめられて高い断崖から自分の跳躍を吸収してくれる深度があるかないかも判らない海に飛び込む人のようにして、離婚すると、今度は圧倒的に女の人に不利な職業社会が待っていて、子供がいれば、どうかすると月20万円にもみたない収入で、新生活を始めなければならなくなる。 その結果は、統計が存在する国のなかでは最高の貧困率で、数字を見ていると、いったいこんな収入で、どうやって暮らしていけるというのだろう、と、一応の生活についての知識をふりしぼって考えてみても、まったく見当がつかない。 子供のときから、日本の町のなかでは鎌倉に縁があったので、鎌倉に、60年代に出来た和風洋式建築としか呼びようのない面白い家を買ってもっていたが、あの町の市役所は、生活保護の申請窓口を、故意に掲示板で隠して塞いでいた。 生活に困って市役所を訪れたシングルマザーの女の人は、途方にくれたはずで、なんども、近所の人間が混じっていそうな市民が屯するロビーをうろうろしたあとに、最も人目が立つところにある、件の、案内カウンターで、顔を真っ赤にして、目の前が暗くなるような思いをしながら生活保護の申請にはどこに行けばいいのか、声にだして訊ねなければならなかったはずです。 週末に鎌倉にいくたびに、居酒屋で顔をあわせて、そのうちには仲がよくなった市役所の人がいて、その人の「唐竹を割ったような」人柄のよさと、野蛮で陰湿な残虐さをもった市役所の生活保護受給者への仕打ちと較べて、日欧混血の子供への差別や、貧困、在日コリアンへの差別、どの話題でも、ごく普通の日本の人が、 「え?ガメさん、考えすぎですよおー。わたしのまわりに、そんな人、ひっとりもいませんよ。なあんかインターネットとかで、おかしなことを吹き込まれて日本に偏見があるんじゃないですかあ?」と明るく述べる日本社会のからくりが判るような気がした。 生活保護の受給者は「弱い者」なのではない、社会制度や、運や、病気や障害によって、いまたまたま負けが込んで、というと言い方として下品だが、ほかに表現がおもいつかないので、知らぬ顔でつかうと、負けが込んで、ここでどうしてもひと息つかなければならなくなったひとたちの「陽だまり」で、そんなものひとつ用意できなかったり、吝嗇と残忍な本性を発揮して、意地悪い言葉を投げつけるようなものを「社会」とは到底呼べないだろうとおもう。 そういう人間は「社会はなんのためにあるのか?」という最も根本的な問いをわすれている。 … Continue reading

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友達がいる夜

だだっ広い部屋に何千というフライパンが並んでいて、それぞれ二十個くらいの餃子が載っている。 中国の人であるらしい係のひとが、つきっきりで説明してくれていて、 「これらのフライパンは日本製で、日本人の悪意が超伝導で伝わることによって加熱されています」と言う。 加熱されるフライパンには順番があって、見ていて法則性が把握できないが、しばらくすると、一箇所に悪意が集まるらしくて、そこだけ集中的に加熱されはじめる。 煙があがっている。 傍らの中国の人が「あっ、あそこで目玉焼きが出来ましたね。 ガメさん、われわれの技術は、どうですか? もう欧米に負けていないとはおもいませんか?」 目玉焼きが焼けましたって、あんた、あれは餃子ではないか、とやや憤然とした気持になったところで、目が覚めた。 ベッドサイドテーブルのiPhoneを手にとってみると、午前1時半で、ヘンテコな時間に目が覚めてしまっている。 目玉焼きが餃子である悪意の超伝導から現実にかえってみると、友達夫婦が来ていて、客用の寝室のひとつで泊まっていて、そういえば、早寝早起きの習慣の友達夫婦は午後10時には、もう眠くなったといいだして、それまでカネモチたちはいったいどういう理由で餃子なんて、あんなヘンテコな食べ物を好むのだという堂々たる論陣を張っていたのが、さっさと寝室に入って眠ってしまった。 それで、モニとぼくもつられて眠ってしまったのだった。 カネモチたちは、を連発して、おれはカネモチと秀才は嫌いなのだと威張っているが、このひとは現金だけで100億円だかなんだかが余って銀行に眠っていて、 頭がわるいくせに勉強したがる秀才くらい手に負えないものはない、ああいう人間たちは大学に入れないようにすべきなのではないか、と、大庭亀夫のようなことを述べるが、少なくともイギリスでは超一流ということになっている大学を卒業している。 おれは頭を使う職業は嫌いなんだ、と述べて、同級生たちをぶっくらこかせたことには、鉱山で働いたりしていたが、どこでどうオカネを工面したのか400ヘクタールの農場を買って、最近まで農業をやっていた。 その頃は、顔をあわせると、英語国の土地の値段をつり上げているのは、どこのバカだ、と怒ってばかりいたが、当人は「農業はもう飽きた」といって、農場を売り飛ばしてみたら、おおきな町に近いところにある農場だったので、折りからの不動産バブルで、なんだか口にするのも憚られるほどの大金が転がり込んできて、しばらく奥さんとふたりでウィスコンシンのマディソンだかどこだかに住んでいた。 なんでウィスコンシンなの? と聞くと、ハンバーガーがうまいんだよ、という返事でした。 朝の9時半という、とんでもない早い時間にあらわれて、酒を飲むのはやめたんだと述べて、炭酸水を次から次に飲みながら、夜の10時まで、ノンストップで話をして、ほとんど森羅万象について述べて、楽しかったが、英語人にはあきあきしてきているようで、どうも英語で話す国の国民は、どいつもこいつもくだらない、と三度ほども繰り返していた。 どこの国のひとならいいの?と聞くと、なに言ってんだ、ガメ、おれは英語しか話さないから、他の国のことなんて知るもんか、と言う。 それから、やや居住まいを正す感じになって、 ところで、ガメ、ニュージーランド人は、なんだってこんなポリネシアの、そのまた向こうにある国で、英語を話してるんだ? と質問する。 もとはイギリスから来たって、せっかく新天地に来たんだから、当時だと、エスペラント語かな、アボリジニ語でもマオリ語でもいいから、英語みたいなバカまるだしの不動産屋みたいな言語でなくて、もうちょっと気が利いた言語をつかわなかったのはなぜだ? めんどくさかったんじゃない? というと、 「態度がわるいやつらだな」と、また怒っている。 友達夫婦が寝静まって、自分は悪意超伝導で目がさめてしまったので、こうして日本語を書いている。 眠っている、きみの夢に向かって、話しかけている。 きみやぼくは、いったいなんだろうか?と考えている。 恐竜みたいなものか? もし恐竜ならば、化石になって、冷たい海の底で、静かに眠っているべきなのではないか。 いつかきみは、自分は世界を愛しているが、その事実をどんなふうに表現すればいいのか判らないのだ、と述べていた。 人間は表現者と受け取り手の両方が観念の高みにのぼらなけば、なにごとか伝達することはできないが、自分には、どの観念の塔にのぼればもっとも自分に適合しているかがわからないまま、到頭30歳になってしまった。 「ガメのように、人生からなにかを受け取ることを望まないという態度はどうしても理解できない。 きみは頭がいかれているとおもう。 きみは自分の中心的な知的活動を世間に向かって発表したことはないでしょう? そうして、きみは、わざと、世界とオカネだけで関わろうとしている。 そこまでは判る。 でも、なぜ、きみはその一方で、世界を故意に誤解して、しかもその上に、周到に準備して、世界の側からもきみを誤解させようとするのか? … Continue reading

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子供たち

反アジア移民の大立て者で、煽動政治家のウインストン・ピータースの娘、というと、なんだか凄そうだが、本人は、涙もろくて、友達の猫が死んだ話をするのにも声を詰まらせて、涙がにじんでくるような人です。 子供のときは、ウエリントンのインターナショナルスクールに通ったのだという。 第一日目に、あっというまにたくさんの友達が出来て、楽しくて、天に昇るこころもちだった。 学校みたいに楽しいところがあったとは知らなかった、と考えた。 ところが二日目に、昨日、親友だね、と誓い合った友達のところに息せき切って駈けていったら、「おまえのおやじはクソ顔じゃないか。おまえもクソ顔だ、ぼくの側に寄るな」と言われた。 ショックで、ボーゼンとして、それ以来、学校も世界も大嫌いになった。 インターナショナルスクールに、なんとか通えたのは、イラン大使の息子がかばってくれて、大の仲良しになって、意気投合して、いつも一緒に行動してくれた。 昼休みには、イラクに侵攻して、サダム・フセインを殺すための戦略案づくりにふたりで夢中になっていた。 でも、そのイラン人の子供がいたから、わたしはいままで生きて来られた。 ブリー・ピータースは、そう述べて、また、涙で声をつまらせている。 言うまでもなく、子供にとっての世界は、おとなから見た世界の数層倍は苛酷な世界で、しかも、多くの場合は理不尽です。 ブリー・ピータースは、もしかすると、いまでも気が付いていないようにみえたが、もともとが連合王国の労働者階級とマオリが力をあわせてつくりあげた平等王国であるニュージーランドには存在しない、各国の外交官として滞在する上流階級の人間たちなどは、ニュージーランド人たちの想像を遙かに越えていて、そういう無思慮な生き物が多いので、子供のときには、真に天使のような姿だったブリーに会って興奮した子供が、親に学校の第一日目の報告で、そのことを述べてみたら、 その子の父親がよくない人間であること、おとうさんとおかあさんとしては、そういう人間の娘と付き合ってほしくないこと、を告げられたのに違いない。 おとなは、子供たちに対して、ごく無造作に残酷である。 小学校のときに、虚言癖のあるOという友達がいて、ぼくはこの友達の気持ちのやさしいところが好きだったが、小さな嘘を述べる癖があるこの級友Oを、K先生はすごく嫌っていた。 もちろん、言葉にして述べたり、露骨な態度で示したりはしないが、潔癖な人で、まるで全身全霊で級友の小さな嘘を憎んでいるのが、微かな態度の違いににじんでいて、クラスの人間全体が知っていたとおもう。 この級友が夏休みのあとに、おとなでも手に余るような巨大な木の帆船模型を学校にもってきた。 みんなが大歓声で集まって、すごいね。 これ、カティサークだよね、と言いあって目を輝かせた。 ひとしきりカティサークの栄光の歴史について話し終わって、興奮の余韻が残っているうところで、みなの後ろから、 「おとうさんに作ってもらった帆船を、自分がつくったもののように見せびらかしてはいけません」という冷たい声がした。 K先生だった。 先生はおとなの目でみて、級友のふだんの虚言癖も勘案して、これは自分でつくったものではないな、と判断したのでしょう。 Oは泣かなかった。 唇をひきしめて、一文字にして、帆船模型を床にたたきつけた。 ぼくは、帆船模型をOがひとりでつくって仕上げたのだと知っている。 一緒につくったのでも、つくっているのを見たのでもないが、友達なので、そのくらいことはすぐにわかった。 K先生のところにいって、先生が言ったことは、なんの根拠もないし、Oに対して失礼であるとおもう、 謝るべきなのではないか、と提案した。 先生は、きみはまだ子供だから判らないのだとかなんとか、口のなかでもごもごと述べていたが、話を切り上げようとしても、一向にあきらめて立ち去りそうもない頑固な子供の態度を見て、薄気味がわるくなったのでしょう。 ほんとうに言葉だけの、おとなの詫び然とした、心がこもらない態度で形ばかりの謝罪の言葉を述べていたのを、いまでもいまいましい気持でおもいだす。 その手の出来事が、無数にあって、自分が子供のときの記憶に陰翳をつくっている。 ツイッタに書いたが、モニさんとふたりで、コメディフェスティバルに出かけた。 このブログにときどき出てくる、例のアオテアスクエアにあるQシアターです。 どういう理由によるのか、スタンダップコメディ、コメディアンがひとりでステージに立って、バカ話を繰り広げる、日本語なら漫談というの? それとも、あれは死語なのか、いま調べても適当な言葉が見つからないが、どこの国でも、客席は白い人ばかりで、コメディアンのほうも、白い顔が並んでいるのを見てとると、ワルノリして、politically incorrectな、もっと簡単に言ってしまえば、人種差別的なジョークを連発することがある。 なんだか、聞いているのが不愉快になって、劇場を出てしまったこともあります。 白い人同士でも、いつだかは、ブロードウエイの舞台で、ユダヤ人のブロードウエイのユダヤ人支配についての冗談とあてこすりをしつこく繰り返す連合王国人のコメディアンに怒って、顔を真っ赤にして舞台をみつめていたキッパをかぶった男の人がいて、はらはらしながら見ていたことがあったが、そのときも、やはり自分も不愉快になって席を立って、帰って来てしまった。 でもその夜は安心で、ホストが有名なマオリ人のコメディアンで、登場する人たちも、半分はマオリ人のコメディアンたちで、彼らがいつかウエリントンで見た最悪なポール・ヘンリーのクソコメディのような、マオリ人やポリネシア人をさんざん笑い物にするようなパフォーマンスをするわけはなかった。 モニさんは知っていて黙っているようだったが、スタンダップコメディであるよりも、TEDに近いような演し物が多くて、殆どの人は、ふつうのスタンダップコメディだと考えて来ていたので、いったいどこで笑っていいのかとまどっている様子がありありとわかりました。 … Continue reading

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Hへの手紙

人間が死ぬのだということが、どうしても信じられなかった。 「死んだら、いなくなるの?」 「そうよ」 「いなくなって、なにもなくなっちゃうの?」 「そのとおりですよ」 「ぼくもおかあさんも?」 「そう、あなたもわたしも」 かーちゃんは、ほんとうのことしか言わない人なので、その頃は、毎日、泣いて過ごしていたのではないだろうか。 そんなバカな、とおもうが、 内緒で、だんだん、家の人に聞いてみても、みな、ちょっと戸惑ったような顔はするものも、おもいきったように、坊ちゃんも、わたしも、みな死ぬのですよ。 おかあさまが仰ることがほんとうなんです。 残酷なことだけど、という。 があああああーん。 まだ始まったばかりの人生なのに、なんという打撃。 ほんとうの意味では、そこから一応立ち直るのに10年かかっていたのではないだろうか。 子供のときは満月が怖かった。 なにしろ、どこにいても、空からずっと、こっちを見つめている。 なにごとか言いたそうだが、どうも、言いたいことの内容は、ろくでもない、不吉なことであるような気がする。 子供部屋の外にあるスズカケの木も怖かったが、子供のときは月のほうが怖かった。 でも14歳というような子供からおとなの影のなかに入ってゆく歳になると、人間という存在が、老いて、やがては病んで、衰えて死ぬ運命にあることは、月の表情よりもずっと恐ろしいものになっていった。 で、ね、HTよ。 ぼくの一生は、そこから始まったのだと思います。 死によって始まった。 終わりがあるという恐怖から始まったのだと言えないことはない。 ぼくは若いときは数学ばかりやっていた。 いま考えてみると、ちょうど、いまの大学生がスマホを隙をみてはいじるように、小さな緑色のノートブックを持っていて、そのときどきに考えている問題について書き付けていた。 朝から晩まで数学語を話していた。 自分自身に向かって、だけどね。 永遠にむかって語りかけていたのだとおもう。 自分の一生は須臾の間に過ぎないが、永遠のどこかに立っている人に、あるいは存在に、自分が生まれて来て、この世界で見たことを伝えたかったのだとおもいます。 ひとよりもずっと早く入った大学は、かーちゃんの「子供」がおとなたちに混じって大学に入って受けるショックへの心配とは裏腹に、ぼくを世界から守ってくれた。 ….まあ、そんなことはどうでもいい。 あいだを全部端折って話をすると、ぼくは数学は好きなままだったけど、アカデミアの世界に嫌気がさして、というよりも、どうしても自分に正直になれない、必要のない知性上の気取りに満ちたアカデミアの住人たちに嫌気がさして、それまで蚕の繭のように自分を守ってくれた大学を出ていきます。 ヒマツブシのようにして医学をやっていたが、あの学問は、いかにも自分には向かなかった。 出て行くドアはたくさんあるのだけど、どれもピンと来ない、というか、どれも自分が行きたい階には通じていない。 ところが医学部の学生たちというのは、どのひとりをとっても自分の目的地を、あらかじめ知っているようなひとびとで、これは大変な場所に来てしまった、と考えました。 嫌味に聞こえないことを祈るが、ぼくは幸運だった。 社会人として全然ダメでも、「社会人としてダメ」なのは家系の伝統で、誰も咎めるわけはなかったからね。 ダメでも食べられなくなることはありえなかった。 ぼくはNYCで疑似ビンボ人をやったり、メキシコで行き倒れになりそうになったりしながら、次第に自分を立て直していった。 … Continue reading

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