日本と韓国

日本のひとから「ひたむきさ」が失われて、だいたい20年が過ぎようとしている。
それ以前の日本人は、ひたむきな自分を隠すために冷笑的な態度や自嘲的な態度、
なんでも笑ってすませる文化をもっていたが、ずっと見てくると、冷笑的な態度や衒った態度のほうが本質になって、研鑽というようなダサイことはやらなくなったのが1990年代の終わりくらい、というような話はブログのそこここに出てくるので、いまは、ここでは説明しなくても、よさそうな気がする。

ネットで見ていても、50代の、思索家・読書家だと述べる人が、大学で理論物理を講じている人と、「論戦」をしている。
専門の物理研究者に対して、議論を挑んだ、と聞くと、ふつうは、教室の後ろの席で立ち上がって、物理講師に疑問を述べて、専門的な議論を繰り広げて世間を唖然とさせた詩人のポールヴァレリーを思い浮かべることになるが、ヴァレリーはしかし後半生は、熱狂的に科学を好んだ人らしく、物理学への造詣が特別に深かったので、その50代の思索家の人の、3,4冊「議論」をしたかった問題についての一般科学書を読んだ、というのとでは、どうしても話が異なる気がする。

誰でもものを言っていい社会は、よいものだが、1を知った人が100を学んだ人間と同等だと妄信することをおもいあがりというが、日本語のネットでは、随分、「おもいあがり」と呼ばれても仕方がない人を、たくさん見かけたような気がする。

なぜ、こんなことを述べているかというと、日本語をやめてしまうまえに、と言っても、やめてしまう予定があるわけではなくて、なんだか日本社会に段々興味がもてなくなってきている自分を感じて、自分というわがまま勝手な友達とも、かれこれ30年を越える付き合いで、わかっていなくもなくて、こういう「感じ」がするときは、危ない、のが判っているので、警戒しだした、というだけのことだが、いきなり日本語をやめられると困るので、日本語をやっているうちに、類縁語である韓国語もやっておこうと考えて、やたら韓国語の文章を読んだり、韓国語の映画やテレビを見ているのだが、予測どおり、ほとんど兄弟言語で韓国と日本の文化はとてもよく似ていて、人の考え方や感じ方も、文化的な距離が遠い、ぼくから見ると、「おなじなんじゃない?」と言いたくなるくらい似通っている。

異なるところもある。
こういうことは歴史的事実を反映するものなのか、儒教、とりわけ儒教が学問化したうちの朱子学の優等生だった朝鮮民族は、儒教的な思想がほとんど感情となって血肉化している。
これはまたこれで違う記事で書こうと考えたので儒教や儒学的な文明の面白さについては、この記事では書かないが、まだ自分が初心であるせいで、正体不明の、しかし決定的に日韓で異なる点もある。

例えば、판도라、英語名をPandoraという
まるで韓国の人が観察した福島第一事故への文明批評とでもいうようなディザスタームービーがあるが、この、例えば映画をつくっている人が明らかに福島原発吉田所長の、原子炉の再利用を不可能にする、海水注入のような決断は韓国人では出来ないな、と考えているところや、
韓国の場合は、問題の隠蔽や、方針の頑なさにおいて、日本ほどの柔軟性ももてないだろうという内省的な視線にあふれていたりして、まるで、弟から見た兄の災難の乗り切りかたを描いてみせたような、日本の人にとってはおもしろいに決まっている映画だが、この映画に出てくる英雄的な行動に出る原発職員たちが、日本文明の基準では、やたら女々しい。
まず最後は自分の生命とひきかえに原発惨禍の拡大を止める主人公が、みなが決死でメルトダウンの拡大を止めに行こうとすると、ひとりだけ、おれは家族との生活のほうが大事だと述べて、家に帰ろうとする。

あんまり筋を書いてはいけないもののようだから、おおはばに端折って、最期だけを書くと、人知れず頑張って死んだりはしなくて、自分のヘッドカメラを全国中継してくれと上司に頼んで、あまつさえ、
自分は、ただ平穏な家族との生活を望んだだけだった。
それなのに、なぜ自分だけが、たったそれだけのことが許されないのかと泣き叫ぶ。
こんなふうに死にたくはなかった、こんな死に方は嫌だ、とかき口説くように述べる。

日本風の水準に照らせば、いわば泣き言という泣き言を並べてから英雄的な死を死ぬので、なんだか見ているほうは、おおおおー、日本人とは違うなあああーと感心してしまう。
韓国の人のほうが日本の人よりも、自分に関して、より正直である、と考える。

余計なことを書くと、ぼくのように、なにを見ていても文化的な差異やなんかばかり目につく碌でもない視聴者は、いよいよ死ぬ間際のメッセージを伝えるのにも、まず母親が初めで、孝行できなかったことを詫び、次が姉で、母親に孝養をつくしてくれ、と述べて、もう死んじゃうんじゃないのとハラハラしている長口舌をつくしたあとで、自分の妻に対しては、ようやっとそのあとで、観ている方は、またしても、おおおー儒教国だなあーと白痴的に頭のなかで繰り返している。

一般に映画をみていておもうのは、韓国の人は感情の表出が激しくストレートで、「勁烈」
という言葉を使ってもよい、ちょうど、ひどく漠然とした比較をすれば、スペイン人の衒いのないストレートな感情の表現と連合王国の、ひねくれた、斜に構えるのが第二の天性と化した我ながら気の毒な文明と、目の焦点をわざとぼけさせて、ぼんやりとさせれば、関係性として、似ていなくもないところがあるかもしれない。

翻って、日本の現在の底なしの不振と、危なっかしくはあっても、全力で民族としての力を伸長しているような朝鮮民族とを対比すると、似た者同士の兄弟民族とは言い条、21世紀も5分の1が経とうとしているいまの世界では、斜に構えて、乱暴に言えば、かっこをつけてばっかりいる日本の文明態度は古くなって、韓国の人の、他人の失笑を恐れない「ひたむきさ」、直截さ、勁烈さが、ふたつの民族の明暗をわけているような気がしてきます。

日本語が上手な韓国の女の人の友達がいて、旦那のアイルランド人相手に、この人はアジア各国の「文明度」の品定めばかりしている人だが、普段は、「日本人にもいいところがあるのよ、ガメ、わかってあげなさいよ」と言うが、いちど、
一緒にエールを飲んでいるときに、いろいろなアジア人の品評をしていて、
日本人のところに来たら、そこだけ日本語で「カッコバッカ」と言うので、エールを吹きだしてしまいそうになったことがあったが、乱暴でも、案外、いまの日本の人の病気を、単純に、うまく言い当てているのではないかとおもうこともあります。

格好ばっかり、という感想がでてくるのは、つまり、日本の人がいまだに、例の「他人の視線」のなかで生きているということでしょう。
他人がどう観ているか、他人から見て自分がどう映るか、に自己への価値評価がかかってしまっているので、卑俗なことを述べれば、大学は全部合格しちゃったんだけど、東大でなくて多摩美に行きたいなあ、とおもっても、やはり東大にすすみ、就職でさえ、名前の見栄えがいい会社に入り、ひどいことをいえば、一生の伴侶ですら、自分の人生の意匠として、最も適当だと思われる人を選ぶ。
そこには「自分という最大の友達」の意思は、まったく反映されなくて、自分の選択が、積み重ねとして、自分を疎外してゆく。

ちょっと考えてみればわかるが、この社会から見た自分を自分の価値とするやりかたは、社会が狂い始めると、歯止めなく狂っていって、バランスを崩すポイントをすぎると、際限なくおかしなことになっていきます。

一方の韓国は、明治時代、朱子学的世界観を絶対として、そのあまりの頑迷固陋にうんざりした福沢諭吉に「脱亜入欧」という、字面からして無理な、あんたはんは一億総鈴木その子をめざしていたんかいな、と訊きたくなるような、やけのやんぱち、癇性の爆発のような言葉を述べさせて、どうにもこうにも関節が硬い国だったが、この朝鮮民族から文明の柔軟性を奪っていた東洋的な志操となって、integrityの代用として機能して、小商人的な小手先でもうかってなんぼの、上目遣いの利益主義を忌む新しい世界のなかで、飛躍しようとしているのかもしれません。

そういうことどもは、文明的な距離が遠い遠くから眺めていると、「余計なものがとれてしまった日本文化」のようにも見えます。
近代の歴史には面白い暗合があって、映画が急激に勃興して、面白くなってきた社会は、必ず、次の瞬間、社会としての質が変わるスーパージャンプをしてみせる傾向がある。

まだ貧しさのどん底にいた50年代の日本は黒澤や小津の、普遍的な高みに満ちた映画をつくって復活を予感させたが、そのあとの大飛躍は、世界中の誰でもが知っている。
香港映画の興隆と衰退は、香港という中国圏ではあっても全くの独自の文明をあらかじめ解説している。
韓国もインドも、エンターテインメントへの嗜好が極めて保守的な英語人さえ瞠目する映画の質の高さで、ぼく自身も映画館や自分の家のプロジェクタースクリーンや大画面TVで、うみゅー、これはすごい、かっこいいと、ほれぼれしている。

地政学的な位置という、自分ではどうにもならない重病を抱え込んで、歴史を通じて、のたうちまわってきた朝鮮民族が、統一に向かって動き出して、西洋人は、ただひたすら祈っているが、韓半島には、おおきな文明の胎動が起きているのかもしれません。

だいいちさ。
「いけいけ」の文明て、いいよね。
それが朝鮮のひとびとの特徴で、いけいけ、どんどんいけというか、あのひとたちには不思議な民族としての「熱」がある。
もしかすると、やがては世界の文明の鋒(きっさき)をつくるような、百済観音を想起せよ、彼らの大好きな流線形の、見たこともないような文明が、あの刻苦を重ねた半島からは、生まれてくるのかもしれません。

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3 Responses to 日本と韓国

  1. oniku says:

    ニューヨーク時代に一瞬、韓国のボンボンと付き合ったけど、まさにここに書いてある通りのことを感じたよ!ボンボンで一番いい大学でて官僚って人で、それが日本にもまさにいそうなキャラで話していても日本って韓国ってこんなに同じ感じなんだねーと言い合いつつも、デート二回目でものすごく直球に情熱をぶつけてきてびっくりした。自分の気持ちに正直になるんだ!とか熱く語っていた。まーでもすぐ別れて、この人は国に帰ったら親に言われた通り、財閥系のお嬢かなんかとお見合い結婚する感じだな、なんて思ったりもしたよ。

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  2. Leila says:

    >朱子学の優等生だった朝鮮民族は、儒教的な思想がほとんど感情となって血肉化している。
    日本人で韓国に住んで6年になります、こんな的を射た文章で日韓を表現できる才能に感動で震えます!日本人はもう失くした、全力で真正面からぶつかる熱さがうらやましく、韓国は大きな伸びしろと感じます。アジアでは突出して優秀な国民性。その粗さを、日本人の細やかな国民性がカバーし、お互いを高めあえればいいなあと、願っています。

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  3. badjoe says:

    >近代の歴史には面白い暗合があって、映画が急激に勃興して、面白くなってきた社会は、必ず、次の瞬間、社会としての質が変わるスーパージャンプをしてみせる傾向がある。

    まったく鋭いなあ。僕も同意する。

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