Hへの手紙

人間が死ぬのだということが、どうしても信じられなかった。

「死んだら、いなくなるの?」
「そうよ」
「いなくなって、なにもなくなっちゃうの?」
「そのとおりですよ」
「ぼくもおかあさんも?」
「そう、あなたもわたしも」

かーちゃんは、ほんとうのことしか言わない人なので、その頃は、毎日、泣いて過ごしていたのではないだろうか。
そんなバカな、とおもうが、
内緒で、だんだん、家の人に聞いてみても、みな、ちょっと戸惑ったような顔はするものも、おもいきったように、坊ちゃんも、わたしも、みな死ぬのですよ。
おかあさまが仰ることがほんとうなんです。
残酷なことだけど、という。

があああああーん。

まだ始まったばかりの人生なのに、なんという打撃。

ほんとうの意味では、そこから一応立ち直るのに10年かかっていたのではないだろうか。

子供のときは満月が怖かった。
なにしろ、どこにいても、空からずっと、こっちを見つめている。
なにごとか言いたそうだが、どうも、言いたいことの内容は、ろくでもない、不吉なことであるような気がする。

子供部屋の外にあるスズカケの木も怖かったが、子供のときは月のほうが怖かった。

でも14歳というような子供からおとなの影のなかに入ってゆく歳になると、人間という存在が、老いて、やがては病んで、衰えて死ぬ運命にあることは、月の表情よりもずっと恐ろしいものになっていった。

で、ね、HTよ。
ぼくの一生は、そこから始まったのだと思います。

死によって始まった。
終わりがあるという恐怖から始まったのだと言えないことはない。

ぼくは若いときは数学ばかりやっていた。
いま考えてみると、ちょうど、いまの大学生がスマホを隙をみてはいじるように、小さな緑色のノートブックを持っていて、そのときどきに考えている問題について書き付けていた。
朝から晩まで数学語を話していた。
自分自身に向かって、だけどね。

永遠にむかって語りかけていたのだとおもう。
自分の一生は須臾の間に過ぎないが、永遠のどこかに立っている人に、あるいは存在に、自分が生まれて来て、この世界で見たことを伝えたかったのだとおもいます。

ひとよりもずっと早く入った大学は、かーちゃんの「子供」がおとなたちに混じって大学に入って受けるショックへの心配とは裏腹に、ぼくを世界から守ってくれた。

….まあ、そんなことはどうでもいい。

あいだを全部端折って話をすると、ぼくは数学は好きなままだったけど、アカデミアの世界に嫌気がさして、というよりも、どうしても自分に正直になれない、必要のない知性上の気取りに満ちたアカデミアの住人たちに嫌気がさして、それまで蚕の繭のように自分を守ってくれた大学を出ていきます。

ヒマツブシのようにして医学をやっていたが、あの学問は、いかにも自分には向かなかった。
出て行くドアはたくさんあるのだけど、どれもピンと来ない、というか、どれも自分が行きたい階には通じていない。

ところが医学部の学生たちというのは、どのひとりをとっても自分の目的地を、あらかじめ知っているようなひとびとで、これは大変な場所に来てしまった、と考えました。

嫌味に聞こえないことを祈るが、ぼくは幸運だった。
社会人として全然ダメでも、「社会人としてダメ」なのは家系の伝統で、誰も咎めるわけはなかったからね。
ダメでも食べられなくなることはありえなかった。

ぼくはNYCで疑似ビンボ人をやったり、メキシコで行き倒れになりそうになったりしながら、次第に自分を立て直していった。

ぼくは医学をゴミ箱に捨てて、祖父と父親のアドバイスに従って、おもいきり放蕩に身を投げることにして、人間の世界について学んでいった。

そうして、もどってきた場所は、なんだか5歳のときと、あんまり変わらない。

「死んだら、いなくなるの?」
「そうよ」
「いなくなって、なにもなくなっちゃうの?」
「そのとおりですよ」
「ぼくもおかあさんも?」
「そう、あなたもわたしも」

では、なぜ、ぼくはこの世界に生まれて来たのか。
ぼくは、ここで何をすればいいのか。
せめても、毎日の生活で出会う人を、喜ばせて、少しのあいだでも幸福にすればいいの?

HTよ。
きみは笑うだろうけど、ぼくは自分の幸運と幸福とを再配分する方法がわからないのでとまどっているのだと思います。
きみはバベルの塔を建てたがっているけど、そんなものは人間にとってはどうでもいいんだよ。

ほんとうのことをいうと、宇宙の秘密を解き明かしても、きっと人間の生活はなにも変わらないのです。
生活、がわからなければ、人間の宇宙への認識と言い直してもいい。

だから、HTよ。
きみの功名心にとてもよく似た新しいビジョンの建設の試みは、無意味なものに終わるのではないだろうか。

そんなことより、神を見る努力をすればどうか。
(笑ってはいかむ)
日本語の人には悪いが、日本語では神は見ることはできない。

英語でもちょっとつらいが、少しのラテン語の助けで、やれるかもよ。
「何事かを自分の人生のトロフィーとしてやりとげる」ことになんて、なんの意味もないんだよ。

人間が死ぬのだということが、どうしても信じられなかった。

もしかしたら、いまでも、同じなのかも知れないと思います。

日本語では、「非望」というらしいけど。

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3 Responses to Hへの手紙

  1. nawoto says:

    老いちゃん友のⓀは 5月6日に亡くなった。葬儀の時ぼ~さんが読み上げた経歴によると29歳の時から40年山で暮らして好きなことしかやらなかった。ヘラブナ鮎釣りマツタケ狩り、3時間ぐらい走って舟に乗って島まで行って一晩釣って帰りにクロダイとか届けてくれた。あと棚田を耕し オフロードバイクにのって、木工とかもやってた。さうしてギターを弾いて唄を歌って
     どーだガメさんも真っ青だろう。老いちゃんと知り合ったのもちょうど40年前ぐらいだった。こちら女房子供を抱えて、途方に暮れながらその日ぐらしをしていたけど、彼も女房子供いたけどお構いなしだったな。キャンプ場やヘラブナ釣りの管理とかお米を売ったりしていたけど、自由に生きてくって、お金関係ないんだな。覚悟さえあれば何とかなってくもんだなって思った。葬儀の時久し振りに息子に会ったけど彼の100倍ぐらいしっかりしたいい青年に育っていた。
     あばよⓀ 老いちゃんは今しばらく娑婆で悶々と暮らしています。

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  2. キラキラ大島 says:

    ああ、なるほど。人が簡単に死んでしまうのはそういうことなのかと、解ってはいるつもりなのだけど、こういうことを真顔で書いている文章を見ると改めて思います。

    ベストセラーだが買うまでもなかろうと図書館で予約すると順番待ちが64番目で、1人あたり2週間借りられるのでこりゃ読めないなと諦めて忘れていた頃にようやく自分の番が回ってきた『応仁の乱』という中公新書を読んでいます。興福寺という古い寺に高僧として入るためにはいくつかの有力な家柄に生まれなければならないらしく、逆に言えばその家柄に生まれたら高僧にさせるべく9歳くらいで出家させられる。まあ平民坊主は一生修行したところでなることのできない高い地位に若くして着けるのだけれど、それが何なのだろうか。政治家や武士の権力争いに巻き込まれ、将軍によって隠居させられ、また復権しては戦乱の世で苦労を重ねる。まあ戦争で直轄荘園が荒らされて年貢が入らないとか、部下の僧侶が家柄の対立などで言うことを聞かないとか、その程度の苦労ですけど。そんな話を読んでみると、立派に見えてた興福寺の五重塔も胡散臭いバベルの塔に見えてくるから不思議です。
     地方武士も家柄で代々敵対していた武士としょっちゅう争って、その結果いとも簡単に死んでしまう。戦争で死なずともお家の名誉などのためにあっさりと切腹してしまう。武士の時代はアホばかりだなと思ってしまうけど、現代でも企業戦士は過労で死ぬし、アホ上司と無関心上司のプレッシャーで死ぬし、企業戦士じゃない自営の友人もちょっとのミスでやらかした結果に病んで死んじゃったし。

     何なんすかね? 解っていたことを、文章を読んで改めて解ったようなことを書いておきながら、やっぱり何のことだかさっぱり解らない。総理を庇って公然と嘘を付き続ける人も、武士の世なら「死んでくれないか」「ははー!」ってなもんであっさりと腹を掻っ捌くことの平成バージョンなのでしょう。まったく理解できない。自分と彼らを分ける決定的な違いって何なのだろうか。考えているうちに更に脱出不能な迷路にはまり込んだような気分ですよまったく。

     図書館で人気の本に予約を入れて、あれが読めるまでは死ねないぞと順番待ちをしてるくらいのことが、ちょっとした延命の秘訣なのかもしれません。

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  3. shueyue says:

    ボヤッと見つつ苦しんでいた物が書かれていて、少し救われました。ありがとうございます

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