子供たち

反アジア移民の大立て者で、煽動政治家のウインストン・ピータースの娘、というと、なんだか凄そうだが、本人は、涙もろくて、友達の猫が死んだ話をするのにも声を詰まらせて、涙がにじんでくるような人です。
子供のときは、ウエリントンのインターナショナルスクールに通ったのだという。
第一日目に、あっというまにたくさんの友達が出来て、楽しくて、天に昇るこころもちだった。
学校みたいに楽しいところがあったとは知らなかった、と考えた。

ところが二日目に、昨日、親友だね、と誓い合った友達のところに息せき切って駈けていったら、「おまえのおやじはクソ顔じゃないか。おまえもクソ顔だ、ぼくの側に寄るな」と言われた。
ショックで、ボーゼンとして、それ以来、学校も世界も大嫌いになった。

インターナショナルスクールに、なんとか通えたのは、イラン大使の息子がかばってくれて、大の仲良しになって、意気投合して、いつも一緒に行動してくれた。
昼休みには、イラクに侵攻して、サダム・フセインを殺すための戦略案づくりにふたりで夢中になっていた。

でも、そのイラン人の子供がいたから、わたしはいままで生きて来られた。

ブリー・ピータースは、そう述べて、また、涙で声をつまらせている。

言うまでもなく、子供にとっての世界は、おとなから見た世界の数層倍は苛酷な世界で、しかも、多くの場合は理不尽です。

ブリー・ピータースは、もしかすると、いまでも気が付いていないようにみえたが、もともとが連合王国の労働者階級とマオリが力をあわせてつくりあげた平等王国であるニュージーランドには存在しない、各国の外交官として滞在する上流階級の人間たちなどは、ニュージーランド人たちの想像を遙かに越えていて、そういう無思慮な生き物が多いので、子供のときには、真に天使のような姿だったブリーに会って興奮した子供が、親に学校の第一日目の報告で、そのことを述べてみたら、
その子の父親がよくない人間であること、おとうさんとおかあさんとしては、そういう人間の娘と付き合ってほしくないこと、を告げられたのに違いない。

おとなは、子供たちに対して、ごく無造作に残酷である。
小学校のときに、虚言癖のあるOという友達がいて、ぼくはこの友達の気持ちのやさしいところが好きだったが、小さな嘘を述べる癖があるこの級友Oを、K先生はすごく嫌っていた。
もちろん、言葉にして述べたり、露骨な態度で示したりはしないが、潔癖な人で、まるで全身全霊で級友の小さな嘘を憎んでいるのが、微かな態度の違いににじんでいて、クラスの人間全体が知っていたとおもう。

この級友が夏休みのあとに、おとなでも手に余るような巨大な木の帆船模型を学校にもってきた。
みんなが大歓声で集まって、すごいね。
これ、カティサークだよね、と言いあって目を輝かせた。

ひとしきりカティサークの栄光の歴史について話し終わって、興奮の余韻が残っているうところで、みなの後ろから、
「おとうさんに作ってもらった帆船を、自分がつくったもののように見せびらかしてはいけません」という冷たい声がした。

K先生だった。

先生はおとなの目でみて、級友のふだんの虚言癖も勘案して、これは自分でつくったものではないな、と判断したのでしょう。

Oは泣かなかった。
唇をひきしめて、一文字にして、帆船模型を床にたたきつけた。

ぼくは、帆船模型をOがひとりでつくって仕上げたのだと知っている。
一緒につくったのでも、つくっているのを見たのでもないが、友達なので、そのくらいことはすぐにわかった。

K先生のところにいって、先生が言ったことは、なんの根拠もないし、Oに対して失礼であるとおもう、
謝るべきなのではないか、と提案した。

先生は、きみはまだ子供だから判らないのだとかなんとか、口のなかでもごもごと述べていたが、話を切り上げようとしても、一向にあきらめて立ち去りそうもない頑固な子供の態度を見て、薄気味がわるくなったのでしょう。
ほんとうに言葉だけの、おとなの詫び然とした、心がこもらない態度で形ばかりの謝罪の言葉を述べていたのを、いまでもいまいましい気持でおもいだす。

その手の出来事が、無数にあって、自分が子供のときの記憶に陰翳をつくっている。

ツイッタに書いたが、モニさんとふたりで、コメディフェスティバルに出かけた。
このブログにときどき出てくる、例のアオテアスクエアにあるQシアターです。
どういう理由によるのか、スタンダップコメディ、コメディアンがひとりでステージに立って、バカ話を繰り広げる、日本語なら漫談というの? それとも、あれは死語なのか、いま調べても適当な言葉が見つからないが、どこの国でも、客席は白い人ばかりで、コメディアンのほうも、白い顔が並んでいるのを見てとると、ワルノリして、politically incorrectな、もっと簡単に言ってしまえば、人種差別的なジョークを連発することがある。
なんだか、聞いているのが不愉快になって、劇場を出てしまったこともあります。

白い人同士でも、いつだかは、ブロードウエイの舞台で、ユダヤ人のブロードウエイのユダヤ人支配についての冗談とあてこすりをしつこく繰り返す連合王国人のコメディアンに怒って、顔を真っ赤にして舞台をみつめていたキッパをかぶった男の人がいて、はらはらしながら見ていたことがあったが、そのときも、やはり自分も不愉快になって席を立って、帰って来てしまった。

でもその夜は安心で、ホストが有名なマオリ人のコメディアンで、登場する人たちも、半分はマオリ人のコメディアンたちで、彼らがいつかウエリントンで見た最悪なポール・ヘンリーのクソコメディのような、マオリ人やポリネシア人をさんざん笑い物にするようなパフォーマンスをするわけはなかった。

モニさんは知っていて黙っているようだったが、スタンダップコメディであるよりも、TEDに近いような演し物が多くて、殆どの人は、ふつうのスタンダップコメディだと考えて来ていたので、いったいどこで笑っていいのかとまどっている様子がありありとわかりました。

そのうちに、笑い所どころか、有名コメディアンや俳優・女優たちが、自分や伴侶の、アルコール中毒との格闘の経験、人種差別に遭った痛み、社会に適応できない心の病に罹った子供を支えるための家族の凄惨な体験の報告、鬱病に苦しめられて未だに克服できないでいる自分自身の脳髄に対するいらだち、どれひとつとっても、単独ならば芸能雑誌がおもしろがって書き立てそうな深刻な話題を、みながいっせいに赤裸々な言葉で述べる試みなのがわかって、びっくりして、でも次の瞬間には深い感動に包まれて、涙をぬぐいながら、時に混ざるジョークに笑い声をたて、また啜り泣く声が劇場のなかに満ちてゆく、という感情の起伏の忙しい夜だった。

なんでもないことのように「わたしは先週まで二週間精神病院の病棟にいたのですが」と述べる、テレビや映画でみなれた顔のアイルランド系コメディアンや、若い人にたいへんな人気がある、ちょっとジョン・ベルーシのようなところがあるイングランド人のコメディアンが、いつものような漫談のスタイルでは、とてもではないが最後まで普通に話していける勇気がない、と考えたのでしょう、書いてきた文章を下を向いたまま早口で読みあげるという、およそこの人らしくないやりかたで、自分がいかに子供のときから鬱病に苦しめられてきたか、コメディアンになったのは、ステージにいて、観客の笑い声に包まれているときにだけハイな解放された気持になるからであって、舞台が終われば、いつものように鬱病と格闘する夜がこわくて、アルコール依存症にもなってしまったこと、いまは大丈夫で、鬱病は自分の場合はなおらないが、いまは自分の大脳のいちぶに住み着いたものとして慣れてきて、飼い慣らせるようになってきたような気がする、と述べていたり、どの人も、なんだか信じられないような勇気で、率直に勇敢に自分が抱えている問題を述べて、まるで非現実であるような、不思議な一夜だった。

二時間の予定が三時間に伸びていたのに気が付かないくらい、あっというまに終わったパフォーマンスのあとで、冬にしては暖かいクイーンストリートに出て、予約してあるレストランまでの道を、モニとふたりで、すっかり昂揚した気持になりながら歩きました。

人間は、すごいな、とモニさんが述べていたが、
自分は誰にも必要とされていないと感じながら、病気のせいで、神様は自分を苦しめるためにこんな仕打ちをするのだろうかと疑いながら、
「まるで頭を毛布かなにかでぐるぐるまきにされたようだ。もうなにを考えるにもいやだ。なにもしたくない。なにもできない」という気持に一日中苦しめられながら、それでも、なんとか気を取り直して、一日一日を生きていこうとする。
行く先のあてなどないのに、一歩づつ足を踏みしめるようにして、痛みに耐えながら死に近付くことによって、ただの生命の終端にしかすぎなかった死が栄光に包まれたゴールに変わってゆく

パフォーマンスの前に、みなで話しあったらしいコメディアンたちの結論は、子供のときにおとなから受けた言葉の傷が意識の奥底に潜り込んで人間を苦しめる例が多いのではないかということだったようで、ステージでも話はだんだんそこに収斂して、せめて、みなで努力すればなくせる、言葉による、特に子供の心に対しての傷害行為だけは社会のちからでやめさせよう、と繰り返していた。
それは必ず、鬱病や依存症も減らしていくことにつながるに違いない。

ツイッタに、

と書いたが、140文字で書ききれなかったことを書くと、おとなの心ない(心ない、ではいかにも表現として投げやりだが、ほかにおもいつかないので仕方がない)ひとことで、心が壊されて、心の欠片がなくなってしまうことも問題だが、その先で糊付けして助けてくれる人に出会えても、それが糊付けされたものにしかすぎないことを、もちろん当人は知っていて、そのことはそのことで、また、心にできた毀たれて、欠けてしまった欠落とは別に、いわば糊付けの傷痕がいつまでも残って、当人を苦しめる。

おとな同士は、否定されなければならない考えが蔓延っているときに声をださなければいけないことがある。
それが激しい糾弾の言葉になることもあります。
でも、子供に対して糾弾するのは100%おとなの側が誤っている。
子供は、もともとおとなに較べれば遙かに完全な統合体で、おとなになるということは、その統合体のあちこちが欠けて、悪ければ、そこに間違った修復部品が糊付けされて歪つになってゆく過程のことにほかならない。

最近の日本の事件でいえば、48歳の中年男が17歳の(性的には、まったくの)子供を襲って、子供が機転を利かせてやっとのことで逃げのびたのに、17歳の子供のほうにも責任があるという人がたくさんいて、すっかり驚かせられたりした。

子供にとって最悪なのは、子供のほうは人間がまともなので、おとながまるで自分は完璧な人間であるかのように装って子供の欠点を叱責すると、子供は態度そのままにおとなが完璧な存在であるとうけとって、自分が取り返しがつかないくらいダメな人間だとおもいこんでしまう。
おとなのほうで、自分にも欠点があること、ダメなところを乗り越えるのに苦労していること、人間であるかぎり、人間性のダメダメなところから逃れられないことを、理由は明らかだとおもうが、できれば親から子に直截ではなく、社会という共通のいれもののなかで、どんどん公開していくのでなければ、子供のダメージはおおきくなるばかりで、社会は、悪意の巣窟になってしまうだろう。

やっと、「おとなの攻撃的抑圧的なひとこと」が子供の耳に入ってしまうことの重大さは、いままで漠然と考えられていたよりも遙かに深刻な影響を個人の一生に与えていることがわかってきて、社会として意識化して、おとなたちがお互いを再教育して、戒めあいだしたところだとおもいます。

子供をいまのまま騙しているわけにはいかないものね。
社会がやっとそのことに気が付いて動きはじめたのは、ずいぶんのんびりではあっても、やはりいいことで、よいことをするのに遅すぎるということはない。

知らんふりをしていないで、子供を救わなければ。
闇のなかで途方にくれたおとなを救い出す能力があるのは、結局は子供だけなのだから。

About gamayauber1001

ver.6 https://leftlane.xyz もあるよ
This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

4 Responses to 子供たち

  1. Aki Onose says:

    ガメさん、ありがとうございます。
    笑いは、人間形成に大切な要素ですね。
    子供にかける言葉の大切さを、大人は
    自覚せねばいけませんね。

    Like

  2. らくのすけ says:

    ガメさんの書いた、日本で大人が子供を襲った事件の人々の反応を見て、日本は子供が子供として扱われない恥ずかしい国になってしまったと思った。
    子供は子供だから、大人が守る。
    こんな当たり前な事を、わざわざ言葉にしなきゃならないなんて、恥ずかしいし情けないなと思う。

    時々思うのは、自分の感情や欲求や価値観を子供に押し付ける人が多い気がする。
    それを、相手が一人前の大人だったら同じ事をやりますか?と一度自分自身に問うてから、やって欲しいなと思う。
    大人に出来ないなら子供にもやるべきでは無いし、まともな人間である子供を対等な存在として認めてコミュニケーションを取るべきだと思う。

    Like

  3. ほっち says:

    「秀逸」とか「珠玉」という言葉が浮かびました。「花のなまえ」と並んで、私の中ではベスト2な記事です。

    私の師が最近見つけた、まっすぐ、地に足をどすんと付けて立っている「ゆうなちゃん」という女の子がいて、彼女の母親はきっとおおらかに、穏やかに彼女を育てているのではないだろうか?と聞いたら、その通りだ、と答えが返ってきました。
    子供に、欠損をつくることなく育てている。今のところ。

    自分も含めて、まわりの大人たちを観ていると、「どういう大人に育てられてきたか」によってその後の人生が決ってしまう。本当に、残酷なくらい。でもなんとかして、欠損を修復して、生きていくすべを見つけたりする。ほんのちょっと強さが残っていたら。ほんのちょっときっかけに出逢えたりしたら。まだ完璧だったころの、屈託ない笑顔を周りに振りまいていた頃の魂を、ほんのちょっと思い出せたら。

    Like

  4. T says:

    私は、スイスの精神療法家の、アリス・ミラー氏が
    大好きなのですが、この記事では、彼女の著作たちと
    通底するものを感じました。

    Like

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Google+ photo

You are commenting using your Google+ account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

w

Connecting to %s