死に至る病

遠くに住んでいると、いろいろなことが判らなくなる。
仕事ではロンドンとニューヨークとには、いつも連絡をとっているが、きみが知っているように、それだけのことで、そちらから訪ねてくるのでなければ、友達と会いもしないし、友人たちのゴシップや、夫や、妻や、息子や娘たちに消息を知りもしない。

もっとも、むかしでも、ほら、きみが冗談でhermitというあだなをつけたことがあったでしょう?
あのとおりで、子供のときから、ぼくは、知らない人とスモールトークをしたりするのは大好きだが、自分の来歴を知っている人とは、顔をあわせて話をするのが億劫な気がする。

どうしてだろう?
と自分でもときどき考えます。
以前は、世界が好きになれないからなのではなかろうか、とおもっていたけど、モニとめぐりあって、一緒に生活するようになってからは、そうではないのだとわかって、きっと、きみは大笑いするだろうけど、つまりははにかみ屋で、知っている人と会うことに気後れする、人見知りがひどい人間なのだと判りました。

だからメルボルンとオークランドを、おもいだしたように行ったり来たりするだけの、いまの生活は、とても性にあっている。

こっちの人が聞いたら、怒るだろうけど、
すごい田舎なんだ!
むかしから都会のメルボルンは別として、シドニーもオークランドも、21世紀に変わってからは都会になって、オペラでもコンサートでも、アクセスという要素を考えると、案外に「都市」としての条件を満たしている。
もしかしたら、メルボルンは、あんまり知られていないだけで、どこもかしこも安手のテーマパークじみてきた英語世界では随一の都会かも知れません。
マンハッタンなどは、うるさいことを言うと最後に行ったときはもう、世界中の田舎からやってきて、「都会人」の役割を演じたい人たちと観光客で充満していて、観光客で爆発しそうでも、まだしも観光客と地元人の区別が明瞭なパリやバルセロナとも、また違って、頭のなかの「都会人」を精一杯演じるイナカモンの町で、目もあてられないことになっていた。
そういったことを勘案しても、田舎は田舎で、水曜日の午後に、見晴らしのよいペントハウスで、テレビでよく見る顔や、映画世界の大スター、あるいは高名な小説家やプロデューサー、そこにいる人間の半分のタイトルがミスターやミセスでない、あの軽薄で思慮を欠いた、しかし目もくらむような世界は、ここにはありません。

それでも、もう、この程度の田舎のほうが気持が落ち着いていいかもしれない。

プエルトリコ料理の、例の、La Taza de Oroが観光店化して、その次には、あっというまに68年の歴史を閉じて閉店して、なんだか、ニューヨークに戻る気も失せてしまった。

あれほど好きだった、ぼくの、Rubin Museumに近い思い出がいっぱいつまったアパートも、いまはひとに貸してしまいました。

そういえば、モニさんのパークアヴェニューのアパート、口実をつくって見にいってくれてありがとう。
モニさんの母親は、ああいうひとだが、18世紀美術への強い偏愛があるので、心配していたの。
ご自分が住むことに文句はないけど、あんまり調度や美術品を変えられると嫌だなあ、とモニさんとふたりで笑って話していたので、安心しました。

そういうていたらくなので、Kさんが自殺したニュースも、ツイッタのタイムラインで見たんだよ。
前から、depressionで苦しんでいるのは聞いていたけど、そんなにたいへんだとは知りませんでした。

「そんなにたいへんだとは知りませんでした」とは、きみと違って友達というわけではなかったぼくであっても、なんだか、ずいぶん陳腐で冷淡な言葉だけど。

あっというまに、いろんな憶測がでまわって、どんな友達だか疑わしい、「友達」たちが、根も葉もないことを述べていて、人間という生き物の残酷さ、浮薄、救い難い罪の深さを思いました。
きみとぼくと、共通に知っているひとたちが、怒りをこめて、Kさんは金銭的には成功の絶頂にあって、家族にも友達に愛されていて、ただdepressionという病にまけて、闘病に敗北して死んだだけだ、ほかに理由はないのだ、とSNSを通じて述べているのを読んでいました。

depressionという病には、社会的な特徴もあって、善良で、ただ他の人や社会に対して良かれとおもって暮らしてきたひとたちに取り憑いて、その生命を奪ってしまう、という特徴があるとおもう。

きみとぼくの共通の友人でいえば、CもNも、どんな皮肉な人間でも偽善家とは呼び得ないくらい、無私で、善良なひとびとで、私財をなげうってアフリカのひとびとを助けたり、馴れないマイクロクレジットの金融業を始めて、ぼくのところにまで、なんども教えてくれと訊きに来たりして、ただもう自分達が恵まれた家に生まれついたことを、どうやったら不運に生まれついたひとたちに役立てられるかと考えているような人たちだった。

depressionは、どんなにたくさん真の友達に囲まれているひとたちに対しても、たったひとりの、孤独な戦いを強いる。
いまだに誰にも、ほんとうには判らない理由で取り憑かれてしまうと、その瞬間から神の悪意のターゲットにされたひとびとは、自分が無価値な人間だとしか考えられなくなることや、ひどくなれば、呼吸ひとつするにも巨大な努力を必要とする、あの、人間であることの重力が突然数倍になったような、重たい、抑圧された、なにかがいつものしかかっているような感情と、たったひとりで戦わなければならなくなる。

“the death of K… is a very good reminder that just because someone seems to “have it all” does not mean that they do not fight battles behind closed doors. Always be kind, you never know what people are going through.”

と、twitterで、Megという人が述べている。

ほかにも何百というひとたちが、Kさんの死に関連して、「kindness」ということを述べている。

素晴らしい幸福そうな微笑を、きみやぼくに見せてあうたびに幸福な気持にさせてくれるひとたちが、内心で、どんな苦しみ、というよりも「自分が無価値だと強く思い込む気持」と言ったほうがいいのか、を抱えているかは、誰にもわからない。
想像もつかない。
だから、せめて、他人に接するときにはkindnessを失うな、と、たくさんの声がインターネットの空間に木霊している。

きみは、ぼくが日本語を少し判ることを知っている、数少ない友達のひとりなわけだけど、例えば日本のひとたちは、この点で、無思慮にすぎるかもしれない。
彼らは教育程度は高いのに、まるで教育をまったく受けたことがないひとのように、お互いに対して、悪意に満ちた態度をとるのが習慣になっている。

おもしろいんだよ。

そういう経緯は、例えば、きみがラフマニノフを好きだとするでしょう?
そういうときに、日本語では
「ラフマニノフも情緒的に流れて、通俗であるにしかすぎないところはあるが、やはりメロディは美しい」というふうに言わないといけない。
盛大に、手放しでほめてはいけないんです。
どうやら、きみやぼくが無思慮にやっている、盛大に手放しでなにかを褒めるようなことをやると、日本語文化では、バカだとおもわれるらしいことにあらわれている。

日本の町で、知らない人と目があうと、習慣で、英語人はニッカリ笑うけど、日本人はちょうどカタロニア人やなんかと同じで、にこりともしません。
それどころか「なんだ、こいつ」とばかりに、にらみつけられたりする。

韓国と日本は、ポーランドにつぐ自殺大国として有名だが、理由は、そういう社会の細部、小さな習慣にあるのかもしれません。

実は、(なんで、そんなことを、と訝るきみの苦笑する顔がみえるようだけど)この手紙の下書きを日本語で書いているのだけど、そのせいで、ちょっと頭が日本語のほうに傾いているかな?

Eurithmicsの、きみとぼくが共通して好きな歌に、
I’ve got a lifeというのがあるでしょう?

あの歌のリフレインは

I’ve got a life, though it refuses to shine
I’ve got a life, it ain’t over, it ain’t over
I’ve got a way, it’s the only thing that’s mine
All I’m asking for is tenderness, tenderness

という。

tenderness kindness
それは、どれほど、大事なことだろう!

自殺者数の統計をみているとね、もちろん統計というのは、専門のきみがぼくなんかより百倍もよく知っているとおり、一定の知識がある人間がみるのでなければ、なんの意味もないと言ってもいいていのものなのだけれど、それでも一見してわかるのは、
もし、親切な人間の数を数えるような、そんな統計があれば、世界のなかでも上から数えたほうが早いくらいの、ポーランドや韓国や日本の、心底では、とても親切な国民性のひとびとの国が並んでいるのは、ぼくみたいな人間でもわかるが、考えてみると、こういう国のひとびとは、アングロサクソン式の「見せかけの親切」を嫌って「一見、無愛想だが真情からくる親切」を尊ぶ国の排列そのものです。

いっぽうでは、社会に充満する人間関係のストレスから考えて、どうやって考えても自殺者数のトップに位置しそうな連合王国は、なんだか、ずっと下のほうにある。

なにを意味しているのかは明らかで、「表面の親切さ」が、人間が世界を信頼して暮らしていくには、「一見、無愛想だが真情からくる親切」なんかよりも、ずっと重要なのだよね。

きみは人間が聡明なので「それでは人間が根源的に世界に絶望しているということになるではないか」というだろうけど、多分、それはほんとうに世界の実相なのであるとおもう。

さっきのI’ve got a Lifeにも出てくるでしょう?

Ooh, it’s a cruel place, you never asked to be here
Nobody cares and no one’s gonna help you now, oh no
It’s dog eat dog, the human race
The only thing they’ll do is hate you, hate you

人間を30年もやっていれば、誰にでも心底から納得されることは、
世界は冬のゴミ捨て場のような場所で、dog eat dogな場所であるに過ぎない。
希望などはナイーブな人間だけが持つのでしょう。

だが人間性を信頼している「ふり」をすることは、どれほど重要であることか!

せめても、人と会えば、考えうる限りに親切にして、やさしい言葉をかけて、
余計なことを言わないように心がけて、微笑みを絶やさないでいるようにすることが、きっと、いまの、このはてしのない荒野に似た世界に生きている人間にとっては、特に、大事なことであるのだとおもう。

きみが、ふと思いついて口にした、「あなたは、なんて素敵なひとだろう」というひとことで、自殺をおもいとどまるひともいるかも知れないのだから。

About gamayauber1001

ver.6 https://leftlane.xyz もあるよ
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One Response to 死に至る病

  1. pyokotan says:

    偽善の効果と意義を始めて理解できました。英語圏での人々の笑顔と節度と礼儀の意味をようやく分かったような気がします。教えてくれてどうもありがとう。
    私には一つ大きな問題があります。「せめても、人と会えば、考えうる限りに親切にして、やさしい言葉をかけて、余計なことを言わないように心がけて」の中で「余計なことを言わない」ができないときがあります。怒ると余計に自分がコントロールできなくなります。考えていることを口に出してしまいます。これでは、ネットの世界で悪口雑言をはいている人と同列になってしまいそうで、自己嫌悪に陥ります。鬱の人の苦しみをもっと理解せねば。

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