ふたたび、汚れた髪について

いつもの駅でおりて、5分も歩けば家に帰り着くのに、駅前のドトールコーヒーに入って、煙草をふかしている。
そのまま、一時間たって、二時間になって、もう店のひとたちが、ちらちらこちらを見だしているのに、たちあがれなくて、泣きだしたい気持になっている。

十二時を過ぎてやっと眠れたのに、午前4時に目が覚めて、そのまま二時間、ベッドから出られないでいる。
どうせ早く目がさめたのなら、Tシャツに裸足のままキッチンに立っていって、コーヒーを淹れて飲もうとおもっているのに、自分でも理解できない理由で、どんなに努力してもベッドから出られないので、苦しくて、訳が判らなくて、涙がでてきて、シーツのあいだで身体を縮めて、泣きじゃくりはじめる。

キッチンのシンクがどうしても片付けられない。
汚れた皿が積み重なって、見るのも嫌で、家事は得意だから、さっさと洗ってしまいたいのに、なんだか見ないでいるふりをしてすませてしまう。

洗濯物もたまって、ゴミ箱もあふれ出していて、鏡をのぞくと、なんだか髪が汚れているような気がする。

自分が人間でなければよかったのに、と、ただ繰り返し考えている。
自分が愛情を持った機械であれば、どんなにか良かっただろう!

知っているかい?
ロンドンやニューヨークのような町には、身体と、ほんの少し魂の位置がずれている種族がいて、ぎこちない歩き方で、急に舗道で立ち止まって泣きだしていたりして、見ていると、ああ、あそこにも自分と同じ種族がいる、とおもう。

自己愛は見苦しい、と、あのひとたちはいうが、自分を愛せる人間が、わたしにはうらやましい、と考える。
どんなに理不尽で、過大な評価で、他の人間から見たら噴飯ものの自己愛でも、自分を愛せるということは、なんて素晴らしいことだろう。

自分を愛せたら、どんなにか、楽だろうな。

わたしはわたしに価値がないような気がするんです。
そうボーイフレンドに、おもいきって言ってみたら、「元気だせよ。きみは無価値な人間なんかじゃない」と言ってくれた。
わたしは、お礼を言ったけど、ほんとうは、あの人が、ただわたしがガールフレンドだというだけの理由で、そう述べたのを知っていた。

わたしは、狡いんです。
ほんとうは、死に物狂いで頑張れば、いくらでもやっていけるのに、狡いから、自分がダメな人間だということにしてなまけている。

わたしは、悪い人間なんです。
ほんとうは、良い事をしようとおもえば、いくらでも出来るのに、道で倒れた人を見てさえ、駈けよっていくことができない。

ただ息切れがしてきて、心臓の鼓動が早くなって、あわてて、早足で、見なかったふりをして歩きさっていく。

地下鉄の改札からは、ひとの波。
表情のない顔の、いちようにくすんだ色の服の、ひとの洪水。
足をすくませて、真っ青になって、たちすくんでいる人。
唇をかみしめて、やっと二三歩前に出て、でも踵を返して、いま降りてきた階段をのぼって、引き返していく人。
ひとりだけ赤いコートなので、こんなに遠くからでも、あの女の人がどこを移動しているか、よくわかる。
あんなに、ゆっくり、急いで追い越してゆく人達に肩で肩を小突かれながら、やっと立っているような足取りで、まるで人生そのものを諦めてしまった人のように、遅い足取りで、地上をめざしてあがいているかのように歩いているひと。

この町では、誰も空をみあげないが、みあげれば、ほんとうは、高いビルのてっぺんに近いところに、もののけたちがいて、地上をみおろして、うずくまって、寂しい眼を見交わせて、時に、うなずきあっているのが見えるだろう。

人間の耳には物理的な可聴周波数の音波しか聞こえないが、もののけたちは、きみの魂の声を聴くことができるのね。

まるで青空の伽藍に反響するような、苦しげな、絶えることのない、押しひしがれたつぶやきを、もののけたちは聴いている。

うつ病に苦しむ人の、意外なほどの数の多さは、たじろがされるのに十分だった。
とてもわがままなので、むかし数学を学んだあと、医学に進んだのは、自分の心を客観的に観察するためで、他人のことなど、念頭にはなかった。
まして医者になろうとおもったことはいちどもない。
医学に志す人は、根っからのやくざものと偏屈者が揃っている数学の世界とは異なって、マジメな人が多くて、そんなことを言ったら、解剖台のうえで眠らされてメスで分解されかねないので、言わなかったが、日本語ならばバレやしない、みんながいったいおまえはなにを考えてんだと訝った、医学を学び始めたことの真相は、要するに、そういうことです。

生物の一般科学誌を読むには、せめて生物学部を卒業して学位をとるくらいの知識はいる。
数学も化学も物理学もおなじことで、よく勘違いしている人がいるが、本なんか何十冊読んだって、どんどん偏見とダメ方法に習熟してしまうだけで、なんにも判るわけはない。
入るのに難しい大学に入学を許されても、バカはバカで、教育がさわれないほど地頭(じあたま)が悪い愚かな人間は、東京大学でもいい、MITでも、ハーバードでもかまわない、キャンパスを歩けば、公園の鳩よりもたくさんいるが、逆に大学にいかないで独学しました、という人でまともな人は、いるのはいるに決まっているが、少なくとも、今までの人生で見たことはない。

そのくらいの理屈は、高校生のときでもわかっていたので、自分の身体と魂について理解するために医学部にいくことに決めたが、それでなにかわかったかというと、見事なくらいなにもわからなかった。
例えば解剖によって、

1 人間といえど機械にしかすぎないこと (材料は代謝によって絶えず更新される有機物だけどね)

2 機械としてもかなり出来がわるい

というようなことが実感されておもしろかったが、医学といえども生物学で、仮説につぐ仮説、また仮説で、
なんだよ、いったいいつになったら仮説の証明は出るんだよと悪態をつきたくなる体(てい)のものだった。

途方に暮れてしまった。

その頃、つきあっていたガールフレンドは、美しい、善良な人で、どんな人間にたいしても、無防備で見ているこちらがはらはらしてしまうくらい親切だったが、そういう神の子供の常で、特に季節の変わり目には、天候が引き金になって、うつ病になるようでした。

どんな瞬間にも凝然と耐えていて、とても痩せた人なのに、身体が重く感じられて、寝返りを打つのもやっとなのが、見ていてつらかった。

山のように本を買ってきて、朝になって、空が明るんで、鳥たちが囀りだすまで夢中になって読んだ。

医学部図書館にでかけて、本屋では手に入らない類の本を、司書の人に積み重ねてもらって、閉館がすぎても読んでいた。

救いたかったわけじゃない。
そんなことが出来るとおもうほど、愚かであったわけでもない。
ただ、自分の最愛のひとが、どんなものによって苦しんでいるのか、知りたかった。
なかがよかった教授に、ほとんど、家庭教師のようにして教わったりしても、やはり、あの人の痛めつけられた心を理解することはできなかった。

言葉にして、どちらかから別れを切り出したわけではなかったが、大学町を去って、遠くに引っ越すことで、やがて、会わなくなっていってしまった。

神様は、そういうことをよくするので、サンフランシスコの町で、その人に偶然であった。
あの町は、縁があんまりない町なので、そのときも、ただ両親の知り合いの画商の女の人を訪ねていっただけのことだった。
ふた晩しか滞在しなかったとおもう。

パウエルの、ユニオンスクエアに面した交差点で、まるで空気のなかから現れたように、突然あらわれた、あのひとが、ぼくの前に立って、
「わたしを軽蔑しているでしょう?」という。

びっくりして、「そんなことがあるわけないじゃないか。どうしたんだい?
サンフランシスコに住んでいるの?」とあわてて答えたが、あの人は、なにも言わずに立ち去っていった。

目の前から、あの人がかき消すようにいなくなって、初めに考えたことは、
髪の毛が少し汚れた感じだったな、ということで、そのことに気が付いて、
とても嫌な感じがしたのをおぼえている。

そのあとにどんなことが起きたか、ここに書く気はしないし、書かなくてもわかりきったことでもある。
知らせを受け取って、空をみつめると、はっきりと見えはしないが、
もののけたちが、中空で、膝を抱えて、地上を眺めているような気がしたんだよ。

数百の、数千のもののけたちが、この世界の、ありとあらゆる痛めつけられた魂のために、泣いているような気がした。
もしかしたら、嗚咽の声さえ、聞こえていたかもしれません。
遠くから叫び声がもれて、その聴き取りにくい、かすかに聞こえる絶叫に、耳をすませていた。
もののけたちが、なにもかもあきらめたように、大気のなかに、かき消えていくのを、無力な気持で眺めていた。

おお、だから、
いつもの駅でおりて、5分も歩けば家に帰り着くのに、駅前のドトールコーヒーに入って、煙草をふかしている。

十二時を過ぎてやっと眠れたのに、午前4時に目が覚めて、そのまま二時間、ベッドから出られないでいる。

気が遠くなるような努力をして、やっと息をしている。

きみは、きみが、どんなに投げやりでもいいから、ひとりではないことを忘れないで、ベッドのなかにいつづけることが、どれほど、きみの仲間にとって大切なことか、わかりますか?
きみが生きていて、それを知って、よすがにして、おもいなおして生きていく仲間たちが、どれほどたくさんいるか、知っていますか?
ただ生きていくことが、どれほどきみとおなじ種族の人間たちを助けることであるか、きみが知ったら、驚くのではないだろうか。

このあいだも言ったけど、いつか会えるとおもっています。

きみが家に帰るクルマのドアをあけて、ふとふり返ると、初めてあうはずなのに、
なんだか、なつかしい人が立っていて、
そのひとは、きっと、「やっと会えたね。ずっと会いたかった」と述べるに違いない。

そのときまで

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3 Responses to ふたたび、汚れた髪について

  1. ちょび says:

    がめさんに、コメントを残そうとして気が付いたのですが、ガメ・オベールってもしかしたら、game overから取ったのですか? 

    Like

  2. ちょび says:

    間違ってポストボタン押しちゃって先に行っちゃいました。(苦笑)

    このところ心が痛くて、自分でも持て余していたのです。
    なんでガメさんは私の考えている事、気持ちがわかっちゃうのかしら?と思いながら読んでいました。書いてくれてありがとうございます。ガメさんの文章で、自分の心を見つめ直すきっかけになったような気がします。

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  3. mymana says:

    「この人はなぜこれほど恵まれているのに弱い者、苦しんでいるものに近づけるのか?」ということと「なぜそうしようとするのか?」と心を打たれました。私はこのような訴えを聞くことを生業として30年近く聞き続けていますが、ガメさんはそうでない。私はこの国で生まれ、封建的な地方都市で弱者である女性として生きているために弱者の立場に寄り添うのは自然ですが、ガメさんは全くそうでない。もちろん人に近づく能力もまたガメさんの天性の能力のひとつとしても、なぜ?という疑問がありました。
    ただふと考えると、私がそれほど「なぜ?」と思う背景には、日本で出会う強者の立場の人は、特に男性は、さらに言えば弱者の立場の人であってさえも、強い者を気にして従おうとはしても弱いものに目を向けて寄り添おうとすることがまずないから、という事実に気が付き愕然としました。貴方の生きる世界では、強いものが弱いものに寄り添おうとすることは珍しいものでなく正しい行動としてごく自然に存在するのかと。自分が日本人の感性を持っているとあまり感じたことはなかったのですが、紛れもなく日本人だなと思いました。
     50年以上この国に生きてきて変化を見てきましたが、最近はかなり絶望的になっています。私の目には、この国には決定的に何かが足りないので同じ所で永遠に振り子のように揺れているだけのように映るのです。そんな時期にガメさんに出会い、何が正しいのかの信念に一本の筋が通ったように思います。それと共にこの絶望的な日本の状況を相対化して見る力を与えてくれたことに感謝します。
     私はとてもガメさんに助けられたと思うので、もちろん日本語世界に留まってほしいと願うのですが、同時にそれは行き過ぎた期待だとも思います。ガメさんは日本語世界の最も嫌な部分に接しています。そうでありながらも愛を持ち続けてくださったのですが、でもやはりこれは当事者の日本人である私たち自身の問題であるから。人が変わるためにはその人自身の意志が必要で、それでも長い長い葛藤をくぐり抜けてでないと変化は訪れないことを、私はその場に立ち会ってきて知っていますし、国の変化もやはりそうなのだと思います。それが私の生きている間でないにしても。

     それでも、いつお別れが来てもいいように、私の個人的なお礼の気持ちをお伝えします。
     本当に、どうもありがとう。多分ガメさんが考える以上にガメさんから多くの学びを得ましたし、とても助けられました。そしてそれを私がこれから出会う弱い立場の人たちにも伝えていきますし、私自身が考える材料にもしていきます。

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