夜について

モニが眠ってしまったあと、グラシアの、オンボロアパートの広いテラスに出て、遠くに見えるサグラダファミリアを、ぼんやり眺めていた夜のことを思い出していた。

まだ教会は出来上がっていなくて、工期の終わりで、4本の背の高いクレーンが伽藍を取り巻いていた頃のことです。

ふと、「いまが自分の一生の最もよいときなのではないか」という考えが浮かんで、そうか、一生って、もしかしたら、そんなものなのだな、と妙に納得したのをおぼえている。

あのあと、小さいひとびとが生まれて、仕事は奇妙なほどうまくいきはじめて、多分、ふり返れば、英語圏の、例えばオーストラリアならば今年で26年目になるバブル市場に支えられて、パイプラインとうまく平仄があってしまったサーファーのようなものだった、ということになるのだとおもうが、円に換算すれば、初めは数億円という金額を余剰として残すのがやっとだった自分の、いかにもアマチュアじみた経済が、おおきくなって、今度は税金を向こうのルールにしたがって、あちこちの国で、ちゃんと払えているか、仕事に協力してくれているひとたちに十分な支払いができているか、国際会計に滅法強い、BK

https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/12/02/bk/

の助けがなければ到底のりきれないようなことになっていった。

余計なことをいうと、税金を考えなければならなくなったと述べると、なにかずるいことをしているのかとおもう人もいるようだが、そうではなくて、税金は、どんなにきちんと払おうとおもっても、解釈の問題に落ち着いて、支払うほうと受け取るほうと、双方が納得するガイドラインで会計処理をしても、なお、解釈によって5年というような期間を遡って税金を、追徴とともに払わなければならないことがありうる。

それではゲームではないか、という人がいたが、そのとおりで、
ここでも、そのゲームを、悪意とともに、というのはつまりループホールを探すようにしてプレイするか、良い人間であろうとしてプレイするかの違いがある。

友達でひとり脱税で捕まったように報道された人がいたが、表の顔は慈善家で、裏では脱税をしていたように報じられた、そのひとは、傷ましいくらい善良な人で、真実は彼の美しい奥さんに理屈にあわない恋心をいだいた歳入局の役人が、指揮して、彼を陥れようとしただけのことだった。

生活は一本調子で上り詰めていくが、感情は別で、そんなことを、木に触らずに述べると神様に怒られてしまうが、なにもかもがうまくいっていても、「そんなものか」という気持がおおきくなって、自分の心と感情の全体を覆ってしまう。
こういうときには恋をすればいちばん良いという人がいるが、最も肝腎なモニが悲しい思いをするに決まっているので、選択肢になるわけもない。

日本語のブログでも、ときどき勘違いをしている人がいて、「あなたは親の財産で食えているからいいでしょうけど」と言ってくる人がいるが、それは読み間違っているので、初めの数億円の塊も、自分のアイデアでつくった。
その経緯はマーク・トゥウエインの小説に出てきそうな成り行きで、ここで書いてみるほどバカなことはないが、もともとは、「おまえはオカネのことはバカなのだから」という憐憫で、不思議な理由で政府が払ってくれるオカネに加えて、というよりもその数層倍を、家族のトラストから年金として支払ってくれるという親族の申し出を断って、若いときには、ラスベガスに数ヶ月滞在して賭博によって食べていこうとして、赤い砂漠の岩の上で死にかけたり、妹からオカネを借りて、投機によって盤若の冨を築こうとして、失敗して、やけになってメキシコにくだって、
なにしろオカネの算段というものが頭から欠けた若者で、一文無しになって、メキシコのような国の人は陽気で親切でも、ビンボな人間には「黙って死ね」というところがあるので、妹が兄の消息がないのに気が付いて、飼い猫がいなくなった飼い主のようなものだというか、方々に手をつくして、国道で暑熱のなかで倒れていたりして、クラゲの干物のようになって暮らしている兄を発見して、母国に連れて帰ったりしていた。

物質面にしぼっても、人間の一生の楽しみはドビンボから始めて、いろいろやってみて、地面にたたきつけられる大失敗をしたりしながら、なんとか立ち上がりなおして、へろへろと、知恵をしぼって、だんだんに冨をつみあげてゆく、その過程が最も楽しいので、友達には結婚のお祝いに邸宅と呼んだ方がよい家を買ってもらって、スターターとして数億円の現金も親から譲られる人がおおいが、しかしそれでは、最も肝腎なところがスキップされてしまって、人生の楽しみの肝腎かなめが台無しになってしまう。

わかっている。
何度も言うように、地獄を通行したことはない。
神様がつれてきたようなモニ

https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/01/10/san-francisco/

と結婚したが、モニとヴィレッジのオンボロアパートで暮らし始めたといっても、それはモニがパークアベニューの、玄関を入ると自然と目が天井に向かうような、高い吹き抜けになっている、NYC人の標準に照らしても、気が遠くなるほど壮麗なアパートに帰らなくなったというだけのことで、なにしろモニが好きになったヘンテコな男(←わしのことね)が、「定食屋の食べ物がいちばんおいしい」という考えに取り憑かれてしまっているので、このブログには何度も出てくるLa Taza de Oroを始め、ニューヨークでも、パリでも、東京でも、路地の、うらぶれた料理屋に連れていかれるという新鮮な体験を繰り返すことになったが、モニも、稀代のバカ男を捨ててしまえば、いつでも富貴に支えられた生活に戻ることができた。

それでも、擬似的であっても、ビンボから始めて、日本という異国に移りまでして、モニにとっても自分にとっても、初めての、お手伝いさんがひとりしかいない生活をしたりして、自分達の手で、ままごとのように、生活をつくってきたという実感がある。

オークランドでも、パーネルに買っていた家では手狭になるのがわかっていたので、自分たちで、モニは、運転はわたしがしたいと述べて、二万キロ(!)も走り回って、いまの家を探して、手数料泥棒のような不動産屋の話を我慢して聴いて、自分たちの手で選んだ事務弁護士をたてて、新婚生活の家を買って、いまのところまでやってきた。

こんなことをいうと、腹を抱えて笑う人がいっぱいいそうだが、モニとわしは、ただ他のことを考えずに夫婦で愛しあっていたいというだけで、それ以外のことは考えなくて済む生活をめざして、つくってきた。

モニと、よく話すが、しかしそれがすべて達成されてしまうと、スリルと言えばいいのか、毎日の生活の空気に、切実さがなくなってしまう。
幸福な人間は、つねに不幸である、というが、それは本当で、人間は幸福には倦むように出来ている。

モニとふたりで慈善事業を興したり、もうオカネはこれ以上あっても仕方がないのだけど、世界を認識する方法のひとつとして株の売買を初めて、毎日午後になると「学習会」と称して、キッチンのテーブルに資料を広げて、いくつかの企業の業績やCEOの言動を調べたり、家の三相電源に、でっかいキルンをつないで、ふたりで、きゃあきゃあ言いながらキリンや馬の陶器や磁器をつくってみたり、
ひとりずつの時間をつくって、モニは絵を描いて、わしは外国語の読書や書き物や数学に没頭したり、そんなことばかりしているのは、もう登り詰める山がないことをお互いによく知っているからかもしれないと考えて、寂しくなることがあります。

モニに会えてよかった、と考える第一の理由は、モニが自分の生活の実質で、自分の生活のうち、ここだけは常に輝いているからで、モニ自身と、ひきあわせてくれた神様に感謝しないわけにはいかない。

ただ浜辺に遊びに行くだけのことでも、モニは小さな人々とわしに向かって、形のいい唇に、ひとさし指を立てて、「シィィィー」という。
小さい人達と訝しがってみていると、
「ほら、聴こえるでしょう?」
と言う。

ハウラキガルフは、潜ってみると、帆立貝がカーペットを敷いたように群棲しているが、その貝殻が壊れて、小さな破片になって、波打ち際に寄せて、不思議な楽器になって、旋律を奏でている。
耳を澄ますと、ほんとうに、音楽で、それも絶対に音楽の神様が自分で作曲したとしかおもわれない美しいチューンです。

その話をしたら、ニュージーランド人の友達は「いったい、どっちがキィウィなんだ?」と大笑いしていたが、その通りで、半分はまだ気分がUK人でやさぐれている自称キィウィの夫より、ついこのあいだニュージーランドのパスポートを手にしたばかり

https://gamayauber1001.wordpress.com/2016/05/18/2passports/
「ふたつのパスポート」

の妻のほうが、よっぽどニュージーランドの自然の繊細さを知っている。

モニという人は、そういう人で、一緒に並んで立っていても、見ているものの精細度が、こっちを640×480だとすると、モニは5Kの精細度で見ている。

見えているものが初めから異なっている。

では、モニがある日突然死んでしまったら、どうなるか?

そう考えて、

モニが眠ってしまったあと、グラシアの、オンボロアパートの広いテラスに出て、遠くに見えるサグラダファミリアを、ぼんやり眺めていた夜のことを思い出していた。

あのあと、モニがいなくなってしまったら、どうしよう、という突き上げてくるような気持に打ちのめされてしまって、次の日は朝が早かったのに、マルケス・デ・リスカルのボトルを開けて、二本、空にしてしまった。

もちろん滑稽な行動には違いないが、あの夜の気持が、いまでも自分の基本的な生活感情なので、考えるたびにびっくりしてしまう。

エンゲルスが述べるとおり婚姻制度は、所詮、社会制度にしかすぎないが、それにしても、なんといううまく出来た社会制度だろう。
誠実であろうとすれば、それは誘惑も性欲もつなぎとめる鎖だが、鎖につながれた囚人は、鎖の枷の苦痛を幸福だとしか思わなくなっている。

それで、ははは、わしは、その奴隷的状態でいいと思っています。
わしにとってはモニが世界で、そのほかのことは、どうでもいい。

サグラダファミリアには、あたりまえで、きっと崩壊する日が来るが、わしがモニを思う須臾の気持は、どんな時空でも生き延びていくと考える。

それが、ただの愚かさに過ぎないとしても、神は、須臾と永遠が、等しく、等価に並ぶ宇宙にこそ、住んでいるのだと知っているからです。

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ver.6 https://leftlane.xyz もあるよ
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5 Responses to 夜について

  1. Massa says:

    穏やかで澄んだ詩人の恋文のよう。

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  2. N.yuyu says:

    こちらにコメントを残すのは初めてです。ちょっと上手く纏まらないのですが書いてみます。
    まず、私みたいに過去のブログをあちこちまだ読んでいない人も居るのを見越して、今回改めて書いてくれたのかな、という気がしています。ありがとう。ちょっとずつ読んでいきますね。(うっかりすると寝食忘れて一つのことに没頭する人なので加減しつつ)

    初めにお金を得るまで、随分と試行錯誤、というか体当たりの方法を試してみたんですね。だからこそ弱っている人に本心から寄り添えるんやな、と腑に落ちました。自分一人の力に賭けてやってみて失敗もあり、他人に助けられた経験もあるからこそのものだと。一方で、妹さんの心労と行動力は如何ばかりだったかと…しかし妹さんも行動力が凄い。私なんか、行方知れずとなった兄の消息を知るまで10年近く掛かったので。何をするでもなく、唯一辛うじて消息確認だけの出来る状態で祈りの様に残していた某SNSアカウントに連絡を入れてくれた兄の現伴侶には、心から感謝しています。あまり態度に出せてないですが。

    後半はモニさんへの愛が溢れていて熱気にのぼせそうでした!読んでるだけで顔が熱くなったし、本当に羨ましく、眩しく、微笑ましく思います。モニさんの感性も研ぎ澄まされてて、本当に互いに相手への想いが深くて…「サンフランシスコ」も読みました。そんな偶然あるんか!?神様が引き合わせてくれた、そうとしか言いようがないですね。その点では、確かに地獄は未体験でおられるのででょう。その絆には地獄の使者も手を出せまい。

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  3. ほっち says:

    読むだけで、幸福になれる文章をありがとう。

    今日も一日なんとかやっていける。

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  4. DoorsSaidHello says:

    日本語ではなぜ未来を考える事が出来ないのか。おそらく文法的な問題ではなく、習慣の問題だろう。

    ではどんな習慣か。日記文学や私小説を読んだ感想から推すと、日本語で書かれた概観の多くは「過去に起きてしまったこと」、言い換えれば「取り返しがつかない過去」について述べるからではないか。私が日本語で何事かを書くと、過ぎ去った過去の思い出を語り、思い出から連想される更なる過去に遡り、文の最後に現在の自分に戻って来て、思い返しても詮無いことだと述べる定型に嵌りやすい。日本語は「失ったもの」について述べるのが得意なのだ。

    ところが英語の作文指導を受けた時には「まず意見を述べる。次に、なぜその意見となったかの理由を複数述べる。理由を述べたら、それぞれの理由を支える例を、それぞれについて挙げよ。文の最後にもう一度意見を述べつつ俯瞰して、発展を述べて終われ。」と指導された。もちろん例示を述べる際には過去形を用いることになるのだけれど、そこで書いているのは「現在を導く道のりとしての過去」であり、「書かれうる過去」はすべて現在に連なっている。だから話の最後はいつも、自然と未来に目を転ずるのだろう。

    この記事の中でも、ガメさんとモニさんの視線は夜を越えてやはり未来を向いている。未来に起こりうる別れの可能性がガメさんを悲しませ、酒を飲ませる。悲しみの可能性を持ち越したまま、二人はその先を生き、今はNZの波の音を聞いている。

    ガメさんの日本語はいつも未来と愛に向かって歩いている。
    日本社会に蔓延する、壊れてしまった日本語文は過去と懐古に向かっている。

    還らないものの嘆きに耽溺することなく、新しい日本語を使って新しい未来を見なければと思う。

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  5. 2round says:

    お二人の未来に幸あらんことを。(‐人‐)

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