流れおちる光

Lewis Passから折れて、森のなかに入って、河原を掘ると、やがて温泉がわきでてくる。

馬をやすませて、素っ裸になって、ビールを片手にあつーいお湯に身体を埋めて、
ひゅああああーと、おやじみたいな長い吐息をもらして、冬の夜空をみあげると、月のない夜空を、まっぷたつに切り裂いて、天の川が煙るように横切っている。

満天の空には、そのひとつひとつが恒星系で、ひとつひとつが銀河の、無数の星が、まるで宇宙から地上に落ちてくる光の瀑布のように輝いている。

子供のときは、かーちゃんやとーちゃんに連れられて、出かける、トランピングの途中で、テントを張って、このニュージーランドの夜空をみて、泣きたいような気持になったものだった。

誰にも説明できないが、人間は宇宙がまっすぐに自分の存在を包み込むような自然の圧倒的な美しさを目撃すると泣きたくなるもののよーでした。

ヨットで、360度の、どこを見回しても、もう陸地が見えなくなって、見渡す限り水平線で、真っ暗な海にひとりぼっちで、ただ空の星だけが輝いている漆黒の夜も、やっぱり人間を泣かせる。

その不思議な感情の衝動を、いまでも、説明することは出来ないのだけど。

ひどい言い方をすると、人間の文明なんて、瘡蓋のようなものなんだよ。
空を摩すマンハッタンの高層ビルも、まるで掠奪したエジプトやインドの石の堆積のようなロンドンの街も、人間がつくったものは、卑小で、どこかしら、根源的な価値に欠けたところがある。

実家にもどって、Seven Dialsに新しくできたチーズ屋に行ったら、上等なチェダーがあって、試食したらすっかり気に入ったので、買って帰る。

St James’sの高級ワイン屋が、つぶれて、年代もののワインの投げ売りを始めて、家宰さんと一緒に出かけて、お下品な買い占めをする。

建物だけではなくて、人間の行動も、貨幣経済に基づいてしまえば、やはり瘡蓋みたいなものになっているのだとしか、いいようがない。

舞台の上に立って、スポットライトがあたっているClownが、突然、道化るのをやめて、こぶしを振り上げて、なにごとかを訴えている。
ところが、小さな劇場であるのに、彼がどれほど声を張り上げても、観客席には、なにも聞こえない。
涙ぐんで、彼の一生を賭けて、声を涸らして叫んでいるのに、なにも聞こえてはこない。

それは、なぜか?

ある人は、天幕がそもそも幻影だったのだという。
ほかのある人は道化師が、ほんとうは存在しなかったのだというだろう。

気が利いた人があれば、ああ、それは、神が介在しないので、いわば大気が存在していなくて、だから声が伝播できなかったのですね、と述べて、自分の仮説にすっかり満足して、微笑をひとつ残して、立ち去るだろう。

でも、それは、ほんとうではない。
そんなことが、ほんとうではありえない。
ほんとうであっては、人間は生きていけるものではない。

十九歳の夏だったか。
ぼくはマンハッタンのHoustonの通りを歩いていた。
知ってるかい?
あれは、ヒューストンでなくてハウストンて読むんだよ。
なんだか、いつかも書いたことがあるような気がする。
ニューヨークに20年住んでいるという人が、書いた日本語の記事に「ヒューストン」と書いてあったので、20年住んでいることのほうは嘘のわけはなくて、そのひとのマンハッタンでの20年の寂寥をおもって、印象に残ってしまったからだとおもう。

夏で、「飲み放題」のサングリアを飲んで、すっかり酔っ払ってしまったような、あれはなにしろアルコール分が少ない酒なので、飲むそばからさめてしまっているような、ヘンな気持になっていたら、UKでは有名な大スターの人がテーブルの向こうに座って、「ガメ!ガメではないか。どうして、ここにいるの?」
という。

いや、ぼくはここにいるはずはないんですけど。
シカゴにいて、シアーズタワーを見上げていて、あんまりビルに近いところに立ってみあげたものだから、後ろに倒れそうになって、おまけに気分が悪くなってしまったんです。

ロンドンもニューヨークも、ぼくには好きになれないな。
だいいち、あなたがたは、なんだって、あんなに(と述べて、もちろん通りを指さして)広い通りを渡るのに、信号を待って、愛している人と目と目で見交わして、手もつないで通りを渡るのに、向こう側に着く前に、恋人も、自分も、固くつなぎあった手さえ、消えてしまわないと思えるのだろう?

バカげているとおもいませんか?
自分が存在している時間の流れというものが流体の、連続体であるという考えには、ぼくはまったく同意できません。
その証拠に、ほら、ぼくのガールフレンドは、昨日の晩まで幸福そうに笑っていて、
ガメ、あなたと会えたことは、なんて素晴らしいことだろう、と述べていたのに、
次の日の朝には、冷たくなっていたではないか!

ぼくは、あのとき、葬儀で、あのひとが棺から立ち上がって、コカインの夢から覚めて、不思議そうに自分の遺体をみて、それから、ぼくをまっすぐに見つめて、クビをふるのを見ていた。

これは、わたしの身体なのに、どうして、あなたたちは、代わる代わる、眺めてもいいとおもっているの?
と、その目が問いかけていた。

これはわたしの一生で、わたしの生命なのに、なぜ、あなたがたは余計な口だしをしたがるのか。

人間の文明なんて、全体が意匠にしかすぎないのではないか。

馬を起こして、しばらく話しかけてから、人間がやっと通れるかどうかの尾根を、馬さんとたどって帰っていった。

人間はバカだから自分たちが世界を支配しているとおもっているが、ほんとうは、もちろん、ハウラキガルフの海の表面を泳ぐブルーペンギンほどの知性の貢献をこの世界にしているわけではない。

そんなことはニュージーランドに住んでいれば、簡単にわかる。
強いオレンジ色の夕陽を背に、高く、高く、目をみはるようなジャンプをしてみせるオルカの家族や、低い太い声で、警告を発しながら湾を横切ってゆくSperm Whale、地球は、人間の歪んだ認識とは異なって、ほんとうは、(あたりまえのことだけど)宇宙の一部であるにしか過ぎない。

人間の文明なんて、蜃気楼のようなものなんだよ。
それは現実に対する観察のようにみえて、ほんとうには、ただの認識の表明にしかすぎない。
人間の、決して知的とは言えない言語で認識された、粗い映像、あらい粒子の雨のなかで、やっと認識できる自然にしかすぎない。

流れ落ちる水、のような、われわれの壊れた光が、この地上を照らしうるまで。

About gamayauber1001

ver.6 https://leftlane.xyz もあるよ
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6 Responses to 流れおちる光

  1. もらん says:

    明日には消えるというので、安心してw ここに初めてコメントを書きます。

    私の大事な人のお父さんが倒れて亡くなるかもしれないのです。
    運命が私に違う道を選ばせていれば、私の父になったかもしれない人です。
    一目会いたかったけれど、それも叶わないままになりそうです。

    だからというわけでは無く、そうで無い時に読んでもやはり美しいと思うだろうけれど、
    今夜は特にとても胸に響きました。
    人の一生なんて、どこでどうなるかわからない。
    とても脆くて儚いものに支えられているのだね、ガメさん。

    Liked by 3 people

  2. Manu says:

    素晴らしい文章!!
    僕もLewis Passの温泉でその夜空を見てみたい
    葬儀のエピソードは悲しい
    時間のあるときに過去のポストも読んでみます

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  3. せいでんき says:

    ガメさんのブログで須臾という言葉を初めて知ったのでした。
    宇宙は人間が人間になる前からずっとあって、それをたまたま人間の意識が美しいものと認識しているだけと若い頃は思っていたけど、ある人が、「それがたとえ夕陽であったとしても、美しいものは全て美しくあろうという意志によって成り立ってる」と教えてくれたことがあって、いまになって彼女の知性を思うのです。
    ガメさんのTLにも、宇宙の粒子一つ一つにまで善意志が宿っていると言う人がいましたね。

    人間の知覚や器官は世界を理解するのには向いてなくて、観察なんか全然できてなくて、その有限の文明の光はどこまで届くんでしょうね。

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  4. kaz184 says:

    昔から, 同じ作品を2年か3年か, 時間をおいて見るのが好きで, この場合何を見ているかというと, 作品を見ている自分が思うことの変化, を見ていて, もちろん作品は単なるデータだから変わらないので, 変化しているのは自分の方だということになって, それを見るだけで凡そ満足してしまう.

    光は”降り注ぐ”ほうが私は好きで, なぜかと言えばそれが光の”受け皿”に言外に言及するからで, ここで言うなら自分に目を向けることになるか.

    全てを内包した部分という意味での”世界”は, 実は論理的矛盾なく定義されないというのは真実なのだけど, それは要するに「ここまでで全部です」という主張に意味が無いことの言い換えであって, 自分で制御できないものの存在を許容できない文明のための方便でしかないのよね.

    文明を構築する人間は間違いなく世界の有り様を知っていたはずだが, どうやら, 文明に生まれる人間はそれを知る必要性がないようで, 必要性がないと人間は全くやらないようで, 結局世界を誤解することになる.

    つくづく人間は凧のようなものだと思うことがある. 自分は凧で, 紐で地面と繋がれて風に吹かれて, 決まった範囲で地面を俯瞰し続ける.

    自由に動けないことに苛立つ人間が何をするかといえば, おそらく紐を切ってしまいたくなるに違いなくて, そうすれば風の赴くままに自由に飛べて, 地面の様相が変わり続けることを期待するのだろうけど, それも風に支配される自分に気づくまでのことで, あまりに早く動けば地面の解像度が極端に落ちることにも気づくだろう.

    逆に風に支配されることを恐れれば, 紐を太くするか, いや増やすほうが良いだろうと何本も糸を伸ばすだろうが, これは当然, 凧の動く範囲を著しく制約することにつながるし, 凧にかかる負担も大変なものになるだろう.

    1本だけ切れることのない長い糸を探そうと思うと, それはやはり世界という他なくて, この世界は人間の意志とは無関係でいてもらわなくては困る. そうでなければ誰かに切られてしまうからね.

    文明が単に人間の混乱が生み出したものに過ぎないという矛盾は私の日本語人の好奇心をくすぐる.

    世界を定義したいと目論んだことがある:
    「世界とは, それを認識する主体を含むものであり, 主体とは, 世界の一部を認識するものである」.

    世界の有り様をそのまま表現できている点で, けっこー満足している.

    あとは主体と認識とを集めていくにつれ, 世界が長く太くなることを実感すればよくて, これには時間がかかるであろうなあ.

    Liked by 1 person

  5. kom says:

    1つ1つのエピソードがそれぞれ宇宙の恒星で、互いに関係はなくても見る人はその小さな光をつなげて星座を思う、ような。星空みたいな文章で、私は好きです。

    ピーター・ブルックの『マハーバーラタ』の映画を思い出しました。諸々の諸々の、手に汗にぎるような、胸がワクワクする物語の最後に暗転して「それは全て幻だ」という神の声で終わる映画。人の一生なんかただの幻で本当は世界は無なのだ、というインド思想そのものみたいでゾクッとした(日本語訳された『マハーバーラタ』を読んだ友人によると書かれた物語には続きがあるらしいのだけれど)。

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  6. Daisuke Sato says:

    試しに始めから声に出して読んでみた。
    そうしたらまるで自分が満天の星空の下で温泉につかっているような気持ちになった。
    そうしたらなんだか、涙がでた。

    杉の木立を透かして見た星空や、海も空もなく視界が全て薄紫色になった海辺を思い出しながら読みました。
    本当に、なんでなのか涙が出るんですよね。

    ガメさんの優しい、さみしい心に触れられるような文章で素晴らしかった。
    いつもありがとう!

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