言語と思考 その1

特技はなにかと訊かれて、とっさにおもいついたのは、一日中天井をみつめて仰向けに寝転がっていても退屈しない能力と、後ろ向きに空中で跳躍する、いわゆるバク宙とのふたつだった。
他には、これといって特技がないのだから、我ながら大したものだと思う。

毎日、なにをしているのかというと、例えば居住用不動産投資について言えば、管理部門から来るレポートをランダムに抜き出して、家や建物の状態を眺めている。
眺めている、といっても、自分の手元に来るとき、チェックが終わって、それがマネジメントにあがってダブルチェックが終わって、トリプルチェックに当たるので、虱潰しに調べるわけではなくて、はあー、そーかあー、この建物は去年の収入がマイナス5660ドルなのかあー、すげー、とかぼんやり考えているだけです。

「あなたも家賃収入を!」
なんちゃって、ニュージーランドでもオーストラリアでも、よく副収入にアパート経営を、と宣伝しているが、インチキで、というよりもイメージ上の詐術であって、居住用不動産の投資であっても、投資は投資なので、改装費がかさんだり、いろいろで、ときには円でいえば億を超える金額がかかってしまうこともあって、あらあー今年はこんなに儲かっちゃっているのかあー、げひひひーん、という年もあれば、妙に少ない桁の数字で、これは何ぞ、とおもってよく見直すと、なんと家賃収入がマイナスになっている年もあります。
投資は投資で、上下が案外と激しくて、10年20年という単位なら安定しているが、キャピタルグロースも含めて、ほんとうは給料生活者が借金をしてまで手をだすようなものではない。

メルボルンの住宅供給がどれだけ増えて、需要がどれだけ伸びて、高収入者から学生まで、どのマーケット層が、どう動いているか、から始まって、膨大なデータが会社から送られてきて、こちらはなにしろめんどくさいので、テキトーに拾い出して、スプレッドシート上の数字を眺めてあくびをしている。

いつだったか例の中傷好きの日本の人たちがやってきて「投資家というのは分秒を刻んで忙しいもので、ガメ・オベールのようにヒマな人間が投資家であるわけはない」と述べあっていて、笑ってしまったが、デートレーダーのイメージかなんかでミセスワタナベの大がかり版を「投資家」なのだと思っているふうだったが、そういうことは嫌いで、わしが投資家をやっているのは、オカネのことを考える時間はもったいない、とおもっているからです。

ときどき、ゲーマー的なアイデアが出来て、よおーし、遊んだるぞ、とおもうこともなくはないが、だいたい3カ月もすると飽きて、 また欠伸をしてくらしている。

頭のなかは何を考えているかというと、どうもあの会社のコーヒー豆は焙煎が深すぎてラテが焦げ臭いとか、チゲ鍋にいれるアサリはアメリカの缶のもののほうがいいようだとか、そんなことばかりで、ろくでもないといわばいえで、そういうことを考えている時間がいちばん楽しいのだから、ろくでもなくてもやめられるわけがない。

最近おこなった大事業でおもしろかったのは、二年ほど科学・数学系以外の本を読むのをやめてしまったことで、それまでは例えば大学にいたときならば一日に最低4冊は読む暮らしだったので、頭が清浄化されるといえばいいか、それまで読んだ人文系の本の内容をあらかた忘れてしまって、非常に新鮮で、よい体験だった。

どうも読書を通して頭に入り込んだ思考パターンや知識は、いっぺん形をなさないまでにどろどろに熔けて、忘却して、例えていえば「薔薇」という漢字の具体的な組み立ては忘れてしまったのに、複雑な漢字の全体のデザインをパターン認識するようにして、鮮やかな黄色や燃えるような赤の、不吉な感じがしなくもない花びらの形が脳内に喚起されるようになって、初めて「薔薇」は薔薇になるらしい。

前にも書いたことがあるが、自分にとっての一生で初めてのロールモデルは、14歳のときに読んだモンテーニュ Michel de Montaigneで、モンテーニュが書いた
Les Essaisの内容はほとんど忘れてしまったが、モンテーニュの、一種独特の、彼の思考のアイデンティティそのものであるような「時間」は、多分、いまでも身体のなかに残っている。

プルタークの英雄伝や、日本語でいえば、源氏物語に代表される平安文学も、そうだが、思考は考えた人によって、固有の時間の流れの速度をもっていて、その時間の速度でなければうまく扱えない思想や感情や事象というものが存在する。
平安時代のincestや幼児性愛の匂いがする物語が、恋愛のうねりをもって感じられるのは、あのひらがな文の呼吸のせいで、同時に、例えば吉増剛造のオラトリカルな日本語が詩的な高みに届くのは、あの高速なイメージの移動のせいであるのは、少し注意して読めばあきらかであると思う。

おもしろいことに、こればかりは、どんな言語でもそうで、言語にとっては音は意識の流れのスピードを定義することに使われている。

傾きかけた夕陽の美しさを、

La la la!  ブラボー!!
という調子で述べられないのは、制限時速が40kmの住宅地を200km/hでとばしてもろくなことにならないのと事情が似ている。

ずっと前にも書いたが、人間の思考や感情は、人間の直観に反して、多分、枚挙可能なのであると考える。
ひとつひとつ虱潰しにならべていって、枚挙して、ドストエフスキーではないが
「すべてを語り終える」ことが、可能なはずであるのは、まずなによりも語彙が有限数であることから察しがつく。
何兆か何京かの組み合わせが、単語と単語が文法という制約の下でブロックチェーンをつくって、文字通り幾何級数的に組み合わせが増えても、しかし、それは高々有限個の組み合わせであるに過ぎない。

子供のときには、まだ、チェスや将棋はコンピュータが人間に勝つようになっても、中国人のゲームである囲碁だけはコンピュータが勝つのは無理だろう、と書いてある本が存在して、無論、その頃はディープラーニングの理屈もなにもなかった頃だが、子供なりに「それは間違っている」とすぐに考えた。
枚挙的な知性の代表であるコンピュータが勝てないゲームであるためには、論理的に、囲碁の局面が無限になければならないが、現実には、それが何百億あっても有限であるのは殆ど自明であるからで、書いている人が科学者としては子供なりに尊敬していたひとなので、がっかりするよりも、人間の思考が経験してきた現実にいかに引き摺られやすいかということを考えて、この事実は憶えておかなければ、と自分に言い聞かせたのをおぼえている。

人間が無限や永遠についてうまく考えられないのは、自然言語も数学言語も、有限な世界についてしか記述できないことに関係があるのかもしれない。
語り尽くしうる世界は、常にその外側をもってしまうが、次元をかえて地平線の向こうにも無限は続くが、いまいる場所と連続しているのだとか、例の、次元数をかえ、時間と空間の関係を変え、と工夫してみても、やはり人間が使う言語は無限も永遠もうまく考えられない。

英語と日本語の両方が母語/準母語であるひとにとっては、マグロの刺身といわれると舌なめずりをする気になるが、raw tunaと言われると、頭でおなじものだと判っていても、食欲がわかない、という経験は普通のことだろう。

もっと極端な例を挙げると、眼の前に並んだ、ふたつの林檎は、数学にとっては「2」でしかない。

言語を選択して、その言語の語彙をもちいることは、一定のイメージや論理要素を取りだして採り上げることであるとともに、膨大な量の情報を捨てることでもあって、厄介なことに、それが判らない人間には自分が行っている(はずの)思考という行為が、なにをおこなっていることになっているかという肝腎のことが理解できないし、感覚できない。

日本語でものを考えることが有効でなくなりつつあることの根底には、言語そのものの、そういった危うさがあって、日本語人が日本語を使うことに無自覚であることによって、外からみると、日本語世界には言語そのもから現実感覚が失われるという異様なことが起きている。

日本語が言語として現実から乖離し、真実性を失いつつあることは、ようやく、若い世代を中心に意識されて、ちょうど真空のなかで言葉を発している人のようなとまどいを感じ始めている。

落ち着いて考えてみれば「日本社会がこのままではダメだ」と議論することひとつとっても、少なくとも20年間をずっと議論しつづけることで過ごす民族など、前代未聞で、日本人の特性はなにもしないで議論しつづける特殊な能力にあるのではないか、と揶揄したくなってくる。

ずっと前に、失礼にも「日本人はなにもしないためならなんでもする」と述べたのは、要するに、そういうことです。

ここでは、その観察から一歩すすんで、では、なぜそうなのか、どうすれば次の20年をおなじことの繰り返しで、「日本人はなにもせずに、ただどうすればいいかを40年も議論してすごせるなんてすごい」と世界から称賛を浴びないですむのか、そのことを、言語に内在する問題を中心に詳しく見ていきたい。

飽きなければ、だけどね。
なにしろ、わしのことなので、自信は、ありません。

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ver.6 https://leftlane.xyz もあるよ
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One Response to 言語と思考 その1

  1. f.utun says:

    47年に旧帝大の工学部を出た僕の祖父が生涯を振り返った手記の冒頭で、「日本からは“恥”の概念が無くなりつつある、そしてそれによって自分の言葉が上手く伝わらないだろう」と述べていました。外界の変化に加えて戦火で共有する人間減った、言語以前に人が共有していた概念体系が許容値を超えて歪み、基盤から崩れて行く様を思います。

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