言語と思考 その2

コンピュータ、あるいはコンピュータ群が、世界のすべてを語り終えたときに、
「世界を語り終える」という行為は何をしたことになっているかを考えるのは有意義なことであるように思われる。

そこで「語り終えられた」ものは、なにか?

赤色、ということについてさまざまな人が話している。
あれは情熱の色だ、と述べる人がいる。

最もよく知られていることをいえば、赤色とは可視光のなかで700nmの波長をもつもので、デザインの世界の人ならば、マンセル値 5R 4/14を挙げるかもしれない。

英語人ならばredと聞いて脳内に喚起される語彙のなかには、多分、Marsがあるはずで、多少でも教育を受けたことがある人ならば、それが酸化鉄の色にほかならないことを、どこかで思い浮かべているはずです。

Marsといえば、とその方向に語彙のブロックチェーンがつながっていくと、Red giantsを考えて、コアに水素が枯渇した、表面温度が低くなった、老いた恒星をおもいうかべて、世界の無常をおもうかもしれない。

そういうものおもいのまわりには、やはり赤い、red dwarfが明滅していることにも疑いの余地はなさそうです。

Black Fridayという言葉に初めて遭遇したとき、咄嗟に意味が判らなかったのをおぼえている。
Black+曜日、という組み合わせの英語表現は、市場が暴落した暗黒のBlack Mondayが頭のどこかに眠っているからで、それが「黒字になる金曜日」の意味だと言われても、まだ数秒は釈然としない気持が残った。

会計では赤は損失を象徴していて、どこかの冷菜凍死家などは、スプレッドシートを広げて、赤い数字が散在していると、途端に機嫌が悪い顔つきになる。

画面を見つめたままレバノンの会社がつくっている滅法うまいナッツの缶から木の実をひとつ口に放り込んで、ピスタチオで、口のなかが殻の残骸だらけになって、顔を顰めたりする。

赤色ひとつ話していくにも、そうやって無限の立場があるわけで、単語による連想ならば「赤」という言葉から菌糸のように派生するが、菌糸がのびていくべき先のほうから、逆向きに、赤を観る観点というもののほうが無数にある。

ここで「無限の立場」「無数にある」という表現をわざと使っている。
赤色について語り尽くすにあたって「無限の立場」があるのは、なぜか、無限の立場という表現に真実性がちゃんと伴ってしまうのはなぜかというと、もちろん、単純に人間の立場からは有限数がおおきすぎて「数え切れない」からです。

ニュージーランドの、澄み切った大気に輝く無数の星を見上げながら、「おれはいちど数えてみたが、あの『無数の』星は、実は6000くらいしかない」とおおまじめに述べた人がいたが、そのときに「そんなはずはない」とおもう一方で、「そうかもしれない」と考えたのは、人間にとっての「無数」など案外そのくらいのものかもしれないという皮肉な気持が働いたからでしょう。

つまり人間は人間の観点から世界を眺める以上、人間に近い方から精細度が高くて、やがてだんだん疎になる世界への認識の勾配しか持てないのは、ほぼ自明だからで、どれほど想像力がゆたかでも、5万光年先の銀河の恒星系に住んでいる、宇宙人の悲哀について思いを致して泣く人はいない。

そういうことは、もちろん認識の主体である個人からの距離だけではなくて、「おおきさ」の関係のなかにも存在して、たとえばtRNAがときどき妙な挙動をして、どうやら排列された塩基を運搬するだけの役割でないらしいのは、なにしろ肉眼で見えてくれないので、知見として、ごく最近のものに属する。

DNAの二重螺旋という太古の昔から誰の眼の前にも放り出されてあった厳たる現実でさえ、20世紀になるまで、迂闊な観察者の人間の眼には見えていなかった。

さらに小さい世界の素粒子になると、振る舞いさえ、単なる人間の感覚でなしに、人間の科学的思考の感覚にすら反している。

AIが生身の人間の将棋チャンピオンをほぼ確実に負かせるようになった時点で、人間のほうは、ぶっくらこくような現実に遭遇した。
コンピュータが、およそ見たこともない定石、想像もつかない手筋の読み方に従っているのが判って、いわば人間とは異なる思想で将棋を見る観点をもっていて、将棋の素人にとっても、たいへん興味深いニュースだった。

しかも、どうやらコンピュータは、枚挙が終わった時点から、いわばゲームを語り終えた地点から語りはじめの第一手に向かって考える観点をもちうることで、考えてみると、これはニューロコンピュータが目指す先にあるような「飛躍」だけが思考ではないことを示唆している。
機械にとっては、その巨大な枚挙能力に拠った人間の思考とは質的に異なる「思考」がありうる、ということです。

なぜ、そういうことが起こりうるかといえば、それは枚挙的な知性は世界が有限であることを知悉しているからにほかならない。
数えつくせない事象はなく、埋め尽くせない面も、充填しきれない立体も存在しない。
だから論理的には「世界を語り尽くした」時点から逆に事象が起き続けている時間のほうへ遡行していけるわけで、いわば思考の手順を逆向きにすることで、機械は常に、思考において人間に打ち勝つことができる。

そういうことが判って、はじめて、この回の記事の初めに戻ることができる。

コンピュータ、あるいはコンピュータ群が、世界のすべてを語り終えたときに、
「世界を語り終える」という行為は何をしたことになっているかを考えるのは有意義なことであるように思われる。

そこで「語り終えられた」ものは、なにか?

有限な世界という概念の、いわば欠点は、定義上、常にその有限の外側に無限が存在しなければならないことで、前回で述べたように、位相幾何的にそのやるせなさを回避できても、それは「外側」という概念を避けてみせただけで、空間的でない「外側」は、空間上のものではない「有限な世界」に対して、やはり存在してしまう。

通常、人間にとって宇宙全体というのは自然言語であるにしろ数学言語であるにしろ「言語が到達できる範囲のすべて」のことです。
人間が長い間「神」を前提としてきたのは、まことにもっともなことで、神がいないとすると、言語の到達範囲の向こう側にはなにもないことになって、エーテルが満たしていない19世紀物理空間とでもいえばいいのか、言語が思考している有限世界そのものが瓦解してしまう。

西欧語が中東生まれの絶対神の物語であるキリストというアイデアに飛びついて、誤訳だらけのラテン語版の世界への説明に読み耽って、これこそが自分たちの宇宙を説明するものだという確信をもつに至ったのは、おなじ地面に立って、お互いの顔を眺めながら言葉をやりとりするよりも、言語が届かない「絶対」を仮定して、その言語が届き得ない存在の方角を皆で仰ぎ見ながら議論をすすめたほうが、遙かに真に近いとわかったからで、ここに至って、たとえばアングロサクソンは、そこまで自分たちが依拠してきた北海文明を捨て去って、中東生まれのエキゾティックな絶対神を自分たちの「真理の根源」として採用することにした。

太平洋環にある国からやって来た人が教育のある年配の欧州人と話していて、すぐに気が付くのは欧州人が見ている世界は、自分がいる場所から東へ東へと延びる認識をもっていることで、コートヤードのように意識されている大西洋と、その西側にあるニューヨークやボストンを西側の終点として、残りの世界は、ギリシャ→トルコ→ボスポラス海峡→イラン→アフガニスタン→インド・パキスタン→ガンジス川と来て、せいぜいビルマくらいで視線の終点になっている。
「アジア」といえば、実感はガンジス川までで、その向こうは「アジアのそのまた東」とほとんど無意識に感覚されているのが判ると思います。
そこから先は、たしか中国があって、日本は中国の周辺だか内部だかにある。

そのFar Eastにある日本という国の日本語という言語は、なにしろついこのあいだまで世界を、大部分は粗筋程度の解像度だったとはいっても、まがりなりに、日本語だけで説明できていたくらい普遍的な言語です。
ところが、この言語にはいくつもの面白い特徴があって、仔細に見てみると、いや、別に注意深い観察者でなくても、絶対神存在を前提としていない。

実際、ネット上で若い人と日本語で言葉を交わしてみると「神様?hahaha、あなた、頭がおかしいんじゃないですか? そういうチューニ病をなおしてから話に出直してこいよ」というような恐ろしいことを平気でいう。
仕立てた言語の仕掛かり糸は、絶対神/絶対価値のほかこの世界には存在していなくて、それを否定してしまえば、言語などは、ひとたまりもなく、バラバラバラとほどけて、形もない布片に分解されて、風に吹き散らされるしかないことを、知らないかのような振る舞いをする。

というわけで、次の回は、日本語を言語として接着して成型しているものはいったい何なのか、水平な言語は成り立つのか、言語として腐りやすいということは、どういうことか、というところまで、なんとかたどりつきたい。

今日?
今日は、もうダメですよ。
なにしろ、さっきFar Eastと書いただけで、シンガポールのFar East広場の、ベラボーにうまいテタリックとサンドイッチをおもいだすくらいで、朝からいきなり起き抜けで書き出したので、お腹がすいたもん。

明日か、来年か、例のごとく、「その3」はいつになるのか判らないが、それまでツイッタで議論したりして、のんびり結論に向かいたいとおもっています。

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3 Responses to 言語と思考 その2

  1. いわし村 says:

    めちゃくちゃ面白いです。すごいブログをありがとうございます!
    この世に存在する全ての川の名前を列挙することを試みたフランスの詩人の話を聞いたことがあります。人間にとっては、可能ではあるが途方もない作業ですが、コンピュータにやらせれば一瞬でできてしまいます。

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  2. kaz184 says:

    なるべく短く書きますね.

    まず, 価値は有限性の上にしか成り立たないこと, を明記する. なぜなら, 価値とは希少性のことを指しているが, これは数限りあることを前提としているからである.

    善悪を価値に従属させることは例えば,
    「税金を納めていればいるほど社会に貢献している, そうでない者は不要である」
    「応用が科学の社会に役立つ唯一の方法であり, 基礎研究はそうではない」
    「社会的にどのような価値を持つか, それによってその人間の善悪を決定できる」
    などの主張が, 最終的にどのような不利益を社会に与え, それが個人にどのように影響するかは自明であり, 危険な状態であることがわかる.

    ここに, 価値を定める軸に対して, 善悪を定める軸が垂直に立っていなくてはいけない理由がある. 垂直とはすなわち直交であり, 「価値と善悪とは互いに独立して定まる」という性質の表現である.

    価値は有限性の上にしか成り立たないが, 善悪もまた有限性の上にしか成り立たないとすると, 両者は互いに独立して定めることができなくなる. つまり, 垂直性が失われる.

    有限性の他には無限性にしか, この垂直という性質を満たす概念は今の所存在していない. このことが, 無限性を言語設計に要請する根源的な理由であり, そうでない言語では, 善悪の軸がどんどん価値の軸に平行に倒れていき, 善悪が価値に従属し, 文明が失われる.

    言語が水平であるというのは, 価値の軸に向かって善悪の軸がかなり傾いていってしまっていることを指しているのだろうと思う. 善悪の起伏が乏しいために平らになってしまっている.

    ここまでにしとく. 絶対神が降臨しちゃいけない理由とか, 絶対悪の否定の上手さとかはまた今度.

    良いプロンプトの提供に感謝する.

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