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言語と思考 その3

「我はあからさまに我が心を曰ふ、物に感ずること深くして、悲に沈むこと常ならざるを。我は明然(あきらか)に我が情を曰ふ、美しきものに意を傾くること人に過ぎて多きを。然はあれども、わが美くしと思ふは人の美くしと思ふものにあらず、わが物に感ずるは世間の衆生が感ずる如きにあらず。物を通じて心に徹せざれば、自ら休むことを知らず。形を鑿(うが)ちて精に入らざれば、自ら甘んずること難し。人われを呼びて万有的趣味の賊となせど、われは既に万有造化の美に感ずるの時を失へり。多くの絵画は我を欺けり、名匠の手に成るものと雖、多く我を感ぜしむる能はず。絵画既に然り、この不思議なる造化も、然り、造化も唯だ自然に成りたる絵画のみ。われは世の俗韻俗調の詩人が徒らに天地の美を玩弄(ぐわんろう)するを悪(にく)むこと甚だし。然れども自ら顧みる時は、何が故に我のみは天地の美に動かさるゝことの少なきかを怪しまずんばあらず。動かさるゝこと少なきにあらず、多く動かされて多く自ら欺きたればなり。我は再び言ふ、われは美くしきものに意を傾くること人に過ぎて多きを」 透谷が、この「哀詞序」を書いたのは、1893年のことで、日清戦争の前年、夏目漱石は、まだ26歳の青年であって、河竹黙阿弥や仮名垣魯文が、まだ生きている頃です。 日本語の完成者である夏目漱石が26歳の若者であることでわかるとおり、まだ現代日本語は出来ていません。 明治人たちが工夫に工夫を重ねて、戯作調にしてみたり、漢文脈で書いてみたり、さまざまに苦労して日本語で現代世界を記述しようとしていた時期で、現に上の「哀詞序」の引用段にしても、この続きは「花のあしたを山に迷ひ、月のゆふべを野にくらす」と続いていて、忽然と調子が低くなって、背景の知識がなければふざけて書いているのか、と思われそうな表現になっている。 北村透谷という人の苦闘は、透谷が表現したかったものに適切な日本語表現が存在しなかったことに主に存していて、いつかネット上で北村透谷を「表現が下手だ」とくさしている愚かな人がいたが、その人が知らなかったことは、透谷の前には表現そのものがなくて、しかも、後年、次から次に造語して、気が向けば簡単を単簡と書いて飄然としていた漱石のような、世間から見てそうすることが許される文学「博士」という、いまの「博士号」からは想像もつかない重みをもった賑々しい肩書きもなかった、ということでした。 透谷が頼れたものは「声調」だけで、この若い文学者は、純粋に、ただそれだけを頼みの綱に驚くべき文章を書いていった。 「哀詞序」は、日本人が近代以降に書いた文章で、初めに美しいと感じた、わしにとっては記念すべき文章でした。 日本語は、結局、ここから立ち直っていくことが出来なかった。 透谷自体は敬虔なクリスチャンで、もしかしたら、聖書を通じて、問題を感じなかった可能性があるが、その後、翻訳を媒介にしない日本語で書かれたものは、どれもこれも、あっというまに腐っていく代物で、二葉亭四迷も、森鴎外も、遙かにくだって大江健三郎にいたるまで、知的な内容を表現する日本語は、ほぼ、「翻訳体」と揶揄される文体になっていきます。 翻訳体と呼び得ない文体で均整のとれた文章を書けたのは、夏目漱石、島崎藤村、芥川龍之介、内田百閒、….というような極く限られた才能の持ち主たちで、自然主義は一面「日本語をつくる運動」だったが、読んでみると、10ページいかないうちに眠ってしまわないでいるように努力するのがたいへんであるくらい退屈な文章で、この傾向の小説家たちが、だんだん文学表現よりも「これは事実に基づく物語です」な、三流ハリウッド映画のような前提にたった珍奇な現実の事件の面白さに依存するようになって、最後には頽廃的なことに「おもしろい小説を書くためにデタラメな生活を送る」というところまで落ちぶれてゆく。 その間、主知的な文明に対する批評を含むような文学作業に眼を向けると、例えば戦後の文学の最高峰にある「荒地」同人たちは、一読あきらかなほど上田保のT.S.Eliotの訳文の日本語で書かれていて、意識的に有効な文体を求めて書物を渉猟した大江健三郎は渡辺一夫のフランス語文章の訳文におおきく影響をうけた文体で書いている。 その結果、なにが起きたかというと、例えば「荒地」同人たちが戦後に書いた詩は、まるでT.S.Eliotが東京に生まれて日本語で書いてみたような詩で、橋の上に立って、みずもを見つめている男や、灰色の街へ帰ってくる男は、どう見ても日本の人ではなくて、ちょうど映画スクリーンのなかだけに存在した小津安二郎の山の手中流家庭や、小説のなかにだけ存在する司馬遼太郎の明治の元勲たちのように、極めて日本的であるのに現実ではありえない戦後日本人たちを描くことになった。 「誰も見ていない。 溺死人の行列が手足を藻でしばられて、 ぼんやり眼を水面にむけてとおるのをーー あなたは見た。 悪臭と汚辱のなかから 無数の小さな泡沫が噴きだしているのを….. 「おまえはからっぽの個だ おまえは薄暗い多孔質の宇宙だ おまえは一プラス一に マイナス二を加えた存在だ 一プラス一が生とすると マイナス二は死でなければならぬ おまえの多孔質の体には 生がいっぱい詰まっている おまえのからっぽの頭には 死が一ぱい詰まっている」 というような箇所は、戦後日本に還ってきた復員兵を描ききっているが、その描写の仕方は、あきらかに英語人のもので、日本語のなかから生まれてきたとは言えないでしょう。 日本人が、そうやって西洋の神を「借用」して神の視点から現代日本の現実を描いてきたのは、模倣というようなちゃちな作業ではなくて神の視点、あるいは神に正対する視点という本来は日本語の体系には存在しないパースペクティブがなければ、現代日本という日本語の成立事情からは遠く離れた現実を表現しえないからでした。 こういう言い方がわかりにくければ、短歌や俳句が、どの程度、現代日本を描きえたかを考えると、話としてわかりやすいかもしれません。 日本は神を機能として輸入した、多分、ゆいいつの国で、まるで自分達のスタジオや工場ではつくりえない部品を輸入して、自分達が設計した機械にあてはめて動かしてみせるエンジニアたちのようにして、日本の作家たちは知的思考を運転してきた。 なぜ、そういう作業が必要であったかといえば、文学にとっては人間的な真実が必要不可欠で、その真実にたどりついて描写するためには神の視点を意識することが必要だったからに他ならない。 ところが日本経済の80年代の繁栄のなかから、「そんなこと、どうでもいいんじゃないの?」という一群のひとびとが現れます。 名前をだしてしまえば、糸井重里や渡辺和博、赤瀬川原平というような人たちで、これは「おもしろければいい」「うければいい」という人達でした。 なぜ、そういう主張になったかといえば、この人達の職業がコピーライターであり、グラフィックデザイナーであったからでしょう。 「ほんとうのこと」なんて、どうでもいい、そんなことを言う人間はダサイ。 人間、あかるくなくっちゃダメですよ。 それはそれで正しいのだけれども、それが正しい感覚であるためには最低の条件があって、自分たちの言語に取り除きようのないものとして「神」が内在されていなければ無理でした。 ところが、彼らは、「神」のような一文にもならないパースペクティブをもたなかった。 … Continue reading

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