新しい友達に 1 一色登希彦

アイコンは、かなり早くから気が付いていました。
三等身の男の人が、なんだかあられもない、お尻をもちあげた、切ないかっこうで俯せに、頬を床につけて眠っている絵柄で、よく見ると、白いほうにはA面と書いてあって、黒いほうにはB面と書いてあって、ふたつのアカウントがある。
何をしている人なのか、どんな人なのかも、少しも判らないので、フォローしたり、話しかけたりするのはずっと遠慮していたが、あなたのほうは、頓着せずに、こちらが、フォロワーが3万だとか4万だとか、日本の良民に人気がある「インフルエンサー」の皆さんのアカウントの鈍感と失礼と倫理感の欠落やなんかにむかっぱらを立てて、ぶわっかたれめが、自分のケツの穴に顔つっこんで窒息して死にやがれ、というようなことを述べて、大顰蹙を買って、当然の帰結として、フォロワー数が500とか1000とかいう単位でゾロッと減っているときでも、
やっぱりA面もB面も、なにごともないように淡々とフォローしていて、
ただ黙ってフォローしているだけでも、ここまで来ると変人なのではなかろーか、と考えて、くすくす笑ったりしていたのをおぼえている。

一色登希彦 @ishikitokihiko という名前の人がマンガ家なのだとわかっても、マンガに疎くて、「パタリロ」や「プレイボール」、「すすめ!パイレーツ」くらいしか読んだことがない人間としては、「マンガ家」という言葉が「マンガを描く人」という意味しかもっていない。
あなたが屋台の品だなかだったんだか、なんだったかの画像を載せていたのをきっかけに話しかけることになって、マンガを描くことに精魂つかいはたした人が描いたマンガを読まないのはトンチキというもので、読んでみたら、その「日本沈没」というマンガは、描いた人の体内から彷徨いでた魔神(デーモン)が作者の腕を、ワシとつかんで描いたていのもので、小松左京の、どこかにバブル時代の日本の甘さがある原作とは、まったく異なっていて、まるで記憶のなかの未来を思い出しながら描いている人のように、福島第一事故の不正直な処理を起点にして、どんどん、文字通り精神的文明的に沈没していった日本の姿を記録しているのを見ていって、ぶっくらこいてしまった。

吉本隆明はいかにも、晩年、中島みゆきを「日本語最高の詩人」として絶賛するに至る、愛すべき感情過多情緒過多の抒情詩人だった人だったらしく、
「もっと深く絶望せよ」というようなことを、よく口にして、たしか大江健三郎には「もっと深く絶望しなければダメだ」と公開書簡にして書いていたとおもいます。

いまよりは、数段劣っていた日本語読解力の頃に、読んで、もっと深く絶望せよ、とは、さて、どういう意味だろうと、よく考えたが、深い井戸におりて、絶望の底をもっと掘り進めば、やがてそこに自分の姿を映す水が湧いて、自分の必死の形相の後景には太陽の光が燦然と輝き渡る青空が映っているはずで、その輝かしい円形にめざめよ、という意味であることを悟ったのは、ずっと後のことでした。

ここでは、その「日本沈没」の話をしない。
一色登希彦の、そこまでの一生の全エネルギーが、そっくり移転したような「日本沈没」という空前の思考を刺激する構造やアイデアに満ち満ちたマンガを読んで、マンガにすっかり興味がわいて、マンガが分野として苦手な日本の古書店の手下(てか)に号令して、マンガを集めさせているさいちゅうで、
このあとに、嫌がっても、同族として、やっぱり登場してもらうしかなさそうな南Q太さんのマンガとともに、無謀にも愚かにも、愚神のそそのかしに乗ってマンガについてブログ記事とは少し異なる英語のスタイルの評論を書こうとおもっているからで、こっちは「げ。ガメがやる気をだすこともあるのか。そんなもん本にするに決まっているではないか」というギョーカイの友達もいて、少なくとも英語ならば本にしてツイッタという、場末のやくざなダンスクラブみたいな場所で知り合った何人かの友達たちに贈呈できるからです。

この「日本沈没」という名前で、一色さんは、損をしてしまったに違いなくて、ださくても「新・日本沈没」(は、いくらなんでも、ひどいか)でもなんでも小松左京の原作とは異なる思想に基づいた、たとえばおなじ事象を再現した実験から異なる理論を導き出してみました、とでも言うような、あるいは、マクベスの物語としてのデザインのなかで「蜘蛛の巣城」という、いまだにこれを越えるものがない、最高のシェイクスピア映画をつくってみせた黒澤明に似て、パラレルワールドをつくってみせて、二重に暗示された世界を呈示してみせた自分の努力を、「日本沈没」という題名によって不可視にしてしまったが、それは、ちょっと一色登希彦という人と、ちょっとでも言葉を交わしてみればわかる、一色登希彦という人の本質的な奥ゆかしさで、なんだか、見ているだけで、涙ぐんでしまうような、羨ましい気がする。

では、まるで作者が全身全霊を注ぎ込んでしまったような作品の話をしないで、なんの話を、ここではしようとしているかというと、人間を創造に駆りたてる魔神的な力(デモニッシュな力)の話をしている。

数学にしろ、絵画にしろ、マンガにしろ、作曲にしろ、演奏にしろ、創造の世界を駆け抜ける人の原動力を「自己顕示欲」なのだと述べる人がいるが、それは「ゲスの勘ぐり」というべきで、自己顕示欲自体は本当は悪い欲望でなくても、そういうことを言いたがる涎が端についていそうなしまりのない口元の人の唇からもれてでる場合には、やはり下衆の勘ぐりとしか言いようがない。

そうではない。
この世界には、たくさんの、「絵を描けなければ家に放火するしかなかった人間」や、「演奏しなければ、誰かを拳銃で撃ち殺していたに決まっている人間」がいて、それはなぜそうなるかといえば、普通の大半の人間は、つつがない人間のリズムで暮らしているのに、この種族だけは神様の突拍子もないリズムで生きているだけで、視覚芸術でもいい、文学でもいい、数学でも音楽でもいいから、とにかく、ちゃんと神様と糸電話で直通ホットラインのリズムが伝わってこないと生きていかれない。

いけない告白をすると、一色さんのことを考えると、いつも、

いま向いのアパートから女の子が
“お月様”とさけんでいます」
そうぜんとした秋 おれはおまえから
臨月のような平叙文をもらう
だが おれはあまりに豊かな歌を聴きながら
わいせつな少年のように
不安な義眼をはめて
おまえのいない裏街を通りぬけてくる

という岡田隆彦の詩の一節をおもいだす。

普段の一見、表面は平静な生活そのものが「臨月のような平叙文」でしかない、
日本語人を発見して、ほんとうはよく考えてみれば当たり前なのだけれども、
こんなに離れて、遠い国にも、仲間がいるのかと息を呑むような気持になります。

表現は一色さんを焼き尽くしてしまうけれども、同族が、灰になって、ためいきをついている一色さんのまわりに集まって祈祷すると、あな不思議、灰であったはずの一色登希彦は、ふくよかな、あのアイコンのような肉体を取り戻して、豊穣な絵と言葉を紡ぎはじめる。

正体を明かさないまま、こんなことを述べるのは狡いが、わしにはわしの言葉で、ちゃんと、それがあらかじめ判っています。

ドマジメ人間だった滝沢馬琴の「里見八犬伝」には、実は、最も現実から離れたところで、最も普遍的なリアリティがあるのですよね。

こんなところで、言ってしまっていいのかどうか判らないが、一色さんは、わしが例によって例のごとく、
「このクソ日本人が、てめえのペニスを噛み切って死にやがれ。誰が、こんなクソ言語にもどってきてやるものか」と述べていたら、ダイレクトメールで、
「日本語やめちゃうの?友達になれると思っていたのに残念だ」と述べに来てくれたのでした。

この世界のあらゆる事情をもう知っているのに、そういうことをわざわざ無防備に述べに来る人は、もうそのときから、わし親友と決まっているのです。

あなたの真摯さと、デモンが呼び起こされたときの破壊力に、どこまで応えられるか、わからないけど。

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