Daily Archives: August 22, 2018

希望

吐き気をこらえながら通りを横切るようにして一生を駆け抜ける人がいる。 ほら、いつか川岸のパブで、死んでしまった友達の数を数えていたことがあったでしょう? あの頃、きみとぼくは25歳だったのに、8人もいなくなっていた。 きみとぼくは、他人がうらやむ境涯に生きてきた。 宏壮な家。 母親の代わりに制服を着た運転手が運転するクルマでの通学。 われわれが育った、煤けて、趣味が悪い装飾がいっぱいある都会のまんなかにある公園で、霧がたちこめる朝に肩を並べて乗馬する特権。 でも、そんなことに、たいして意味があったとはおもえない。 きみもぼくも、21世紀のこの世界では、つまりは恐竜で、存在するはずのない生き物で、マジメな顔でタイトルを述べれば聞いた人は吹き出すだろう。 ドレスダウンして出かけた週末、ぼくはクラブの窓際できみがやってくるのを見ていた。 きみときたら通りをわたってくるのに右も左も、まったく見てやしないんだ! まるでクルマに衝突されるのを望んでいる人のように、ドアを開けて入ってくると、椅子に腰掛けて、いきなり「人間にとっての、ゆいいつの福音は、死ぬことだとおもわないか?」ときみが述べた夜をおぼえている。 きみが、あのパキスタン人に人種差別の科で訴えられたとき、ぼくは知っていた。 知っていただけでなくて、どうして、この鬘をかぶったマヌケたちは、それが人種差別ではなくて、この地球上のありとあらゆる人間に対する嫌悪なのだと判らないのだろうと訝った。 知性とは常に軽薄なものだ。 ひとつの罠を避けて、より巧みな罠にはまってしまうような性質のものだ。 すべての論理は本質的には詭弁にしかすぎない。 数学が論理を嫌悪する理由は、そこにある。三段論法にしがみついて、ラテン語へ翻訳される過程で生じた誤訳だらけの磔の神のうらみがましい視線の下で、この世界を説明しようとして浪費された知性の総量は神様の予測を遙かに越えていたのではないか。 トラキア生まれの不運なほど直感に恵まれなかった哲学者が「天体とは夜空にあいた穴なのだ」とおおまじめに述べていたとき、われわれの知性はどこにあったのか? どこにいたのか。 いったい、なにをしていたのか。 ぼくは今日の午後、革を張った緑色の寝椅子に横になって、愛人の子を身ごもった幸福を記念するために、愛人のおだやかな微笑みをおもいながら、ダイアモンドの指輪を、そっと薬指にはめる美しい人が出てくる、例の物語を読んでいた。 不能の夫は、懐妊を告げられて顔色を青くして荷物をまとめて自分の愛人のもとに向かって出てゆくが、その物語はケルト人たちの物語であるのに、なんと北海の、あの物語に似ていることだろう。 生活の細部について、まったく言及されない、あの粗筋だけのような物語は、たくさんの読者を期待していない。 18世紀のものでよいから、色つけがしっかりした、マイセンのフィギュアリンに囲まれて暮らしている人間以外には読むことが出来ない不思議な物語で、もちろん、いまの世界では許されないことに、過程もなしに、たった一秒の半分のglanceで恋におちる男と女を描いている。 生活をしらない人間には恋などできないのだ、ありあまる時間のなかで暮らしている人間以外には恋などは存在しないのだと訴えている。 ああいうのを「反社会的な小説」というのではないかしら? だって、ほんとうは、この世界には恋に堕ちる人間などいはしないのに、 あの物語のなかでは美しい女と男が恋に堕ちるんだぜ? ほんとうは、この世界には善をもっている人間などいはしないのに、あの恋におちた男と女は善なる意思のなかで死んでいくんだぜ? しかも、最も反社会的なことには、あの物語のなかでは、人間は人間同士で、言語を使って意思を通じている。 そんなことは、ありえないのに。 そうして、きみとぼくは、多分、この世界で最後の、生まれついて反社会的な人間なのだと思います。   驚くべし、善意も恋も、特権によって生まれてくるのさ。   いったい、通りをわたるときに、自分が通りの途中でかき消えてしまう存在でないと確信できない人間が反社会でないなんてことがありうるだろうか。 ぼくは椅子に腰掛けて、じっと自分のむきだしの足をみつめている。 見つめていると、自分の足が爪先から、少しずつ、消えていかないのが、不思議で仕方がない。 こんなに遠くにあるのに、これがぼくの足だなんてことがありうるのだろうか? … Continue reading

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メディア幼年期の終わりに

  すべてはブログに帰る。 ヒントをくれたのは、またしてもjosicoはんで、どんどん参加者の程度が悪くなって、いまや「はてな」コミュニティなみの程度の悪さになったツイッタでの応酬をみていて、 と述べているので、わし「似た育ち同士英語人友」がそうしているように、外に向かっては閉じたフォーラムをつくると言っているのかとおもったら、そうではなくて、自分のブログをつくって、中学生のように交換日記をしようというのだった。 わしはネット悪意人がよく使う「厨二病」諸事が大好きなので、それはいいね、よい考え!と思います。 自分のブログをつくっておいて、コメント欄をつかって、よもやま話をすればいい。 ワードプレスにはプラグインでフォーラムをつくる機能もあるので、ブログといっても、かつてのブログではなくて、自称もCMS(コンテンツマネジメントシステム)なんちゃっていて、やる気を起こせば、SQLとつなげたりして、なんでんかんでん出来るようになっている。 普段SNSを使っていたりしているときは、どうしているかというと、デスクの前に座っているときは、目の前に27インチのiMacがあって、右側に40インチのデルモニターがある部分が不動の体制で、残りは、そのときどきで、モニターアームに30インチがふたつついたのが壁から出っ張っているとか、趣味だあー趣味だあーと言いながら、とっくの昔に日本語でいえば億の単位になってしまっている株式の売買の、クライマックスであると、ピコピコ動き回っている画面を見ながら、 なんでだー、そこでなんでさがるんだー、とぶつぶつ言いながら、売り買いをしたりしていることもある。 ビデオ会議は専用の部屋があって、これは同業者はスタンダードだと思うが、というか、同業でなくても、近所のグーグルに勤めているおばちゃん1号や、マイクロソフトで仕事をしているおばちゃん2号もおなじで、新しいシステムに変わると、うれしそーに自慢しにあらわれて、見に来いというので行くと、チョーかっこよくて、「ガメも、仕事なんだからマジメに投資しないとダメだぞ」という。 わしは、ビデオ会議、嫌いなんだけどね。 第一、 あれは、暑い日などは、男も女もマジメなスーツで机の上のPCを見ながら、深刻なたたみかけるような調子で話しているが、 「うふふ。でも、きっと机の下の見えないところは、ニッカーズやアンダーパンツだけで、もしかしたらフリチンだったりして、扇風機があたっているのでは。 『ちょっと立ってみて』とかゆっちゃおうかしら」などと余計なことを考えるので、気が散って、商売上の決断に失敗する可能性がなきにしもあらず。 自分の用事などはスカイプですんでしまうので、なんだったら電話でもいいぞ、とおもうが、最近の人は、投資家やビジネスマンが颯爽と活躍するテレビドラマの観すぎで、それはなんとなく釈然としないものであるらしい。 twitterは、そういう、スカイプやスプレッドシートや、データベースや、算数の計算に使っているソフトやなんかの、いろんなソフトの画面が散らかっているデスクトップの端っこに、ブラウザで、notificationsやlist、homeと、いくつか画面が開いていて、タイムラインが、ぞぞぞっと動いて、応えたければ応えるし、応えたくなければ応えない。 ついでにいうと、iPhoneは英語以外は、欧州語も日本語もいっさい禁止にしてあるので、英語しか呼びにきません。 ほんど全部テキストメッセージで、 「会議、また忘れてるじゃん」とか 「今度、診察日をさぼったら、ぶっとい注射を予約しておくぞ。GPより」 とか、緑色のメッセージが乱れとんでいて、あの合間合間に、ラウンジかスタジオか、夏ならば庭のガゼボかにいるモニさんから、 「ガメ、大好き♥」 「xxx ○○○」 メッセージが入っていて、知らない人のために親切心を起動すると、 xxxはキスキスキス、○○○はハグハグハグ、という意味です。 ときどき、「ガメは一日中ツイッタをにらみつけているのではないか」、と思っている人がいるが、別にそれでもいいのではないかとおもうが、現実とは異なっていて、 ほかのことをやりながらツイッタをやっているから、起きているあいだは、クルマを運転したり食事をしているのでなければ、のべつまくなし五月雨式にツイートがでてゆく。 そこのきみ、 「あっ!だからツイートが、あんなにいいかげんなのか!!」 と膝を打って納得しないように。 twitterは外国語の習得に向いているとおもう。 140文字時代は英語母語人にとっても、やや苦しい文字制限だったが、ちょうど日本語二バイトの140文字と同じくらいで、現在の280文字は、英語の練習にはぴったりではないだろうか。 これも日本語と同じで、長い文章のほうが平明な英語が楽に書けるが、逆に、英語らしい表現や、汎用性は狭いがその箇所に適切な単語が思い浮かんだりして、かえって楽しいかもしれない。 欠点は、なにしろツイッタなどは年々年々参加者の質が低下していることで、言語によらず、ふつうの人間がふつうに暮らしていれば絶対にお目にかからずにすむ、 部屋にひきこもって世間への憎悪に包まれて悶悶としている人や、ろくすぽものを考える習慣をもっていないのに、どこかで聞きかじった「自分の意見」を、連想ゲームなみの反射で並べてぶつけたい人がSNSの世界には充満していて、 日常生活では経験しない愚かな人間の相手をさせられる「ムダ」に遭遇する。 このあいだなどは、最近はよくあることだが、日本で食いつめて祖国に帰る可能性がなくなったイギリス人にまで絡まれて、UK人はむかしから悪意ばかりのバカが多いが、到頭、ここまで堕ちたかと、なんというか、やるせない気持にさせられてしまった。 わし友の晩秋が … Continue reading

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