Monthly Archives: September 2018

太平洋戦争へのノート 3 零戦

宮崎駿の「風立ちぬ」は、なんとも不思議な映画だった。 全篇が零戦という、戦闘機であるのに日本的なやさしみに満ちた技術へのオマージュで出来ていて、そこに零戦設計技師堀越二郎の、ヒロイン里見菜穂子への恋心が、とってつけたように描かれている。 結果は、どんな映画になったかというと、ジブリファンが多いアメリカでも、あるいは、なにしろ「風立ちぬ」は堀辰雄がポール・ヴァレリーの詩句 Le vent se lève, il faut tenter de vivre にインスパイアされて書かれた小説であることが事前に伝えられていたので、アメリカよりも一層期待がおおきかったフランスでも、 「な、なんだ、これは?」と戸惑い失望した映画評が多かったようでした。 やはりジブリファンが多いニュージーランドでは、公開さえ沙汰止みになって、されなかった。 当たり前といえば当たり前で、零戦という戦闘機への愛情がなければ、全体が実は零戦に代表される日本的技術文化に捧げられた物語なので、チンプンでカンプンで、訳がわからん、と映画館の椅子のうえで暴れたくなるのも無理はない。 最近は、多分、日本の戦後の歴史では初めて、「零戦は、ぜんぜんダメな飛行機だった」と述べるのが流行りで、このあいだ「ゼロ戦」で検索してtwitterを読んでいたら「空飛ぶ戸板と呼ぶべき駄作戦闘機」と書いている兵器オタクの人がいて、面白いので吹き出してしまったが、日本の人の面白いところは、こういう軍事技術に類することでも「立場主義」で、見ていると、国際派志向、リベラル志向で、女の人が多くあつまる「おいらフェミニスト」みたいな人は決まって「零戦は、たいしたことない」 「零戦が名機だという外国人に会ったことがない」と述べている。 インターネット・エラは便利で、ほんとうに外国人で零戦を評価するひとがゼロなのかどうかは、そりゃ、日本語で検索してはダメだけれども、英語で検索すれば英語人の評価、フランス語で検索すればフランス人の評価が、専門家のものだけでなくて、市井の人が考えた評価も、公開フォーラムの形で、あるいはQ&Aの形で、いくらでも出てきます。 いまちょっとやってみると、例えば、太平洋戦線の戦闘機を比較した、こういうのがある。 https://ww2aircraft.net/forum/threads/best-pacific-fighter.444/ これは図を初めに掲げてあって、英語がぜんぜん判らなくても一目瞭然なので選んだが、ほかのフォーラムやサイトをみればわかる、零戦への一般の「外国人」の評価としても厳しいほうです。 最も評価が高いのがF4Uコルセアで、次がF6Fヘルキャット、次にP38ライトニングが来て、その次が零戦で11.2%の人が零戦を太平洋におけるベスト・ファイタープレーンに選んでいる。 え? コルセアがヘルキャットより上なの? という人がたくさんいるとおもうが、実は英語世界で一般的評価では、F4UコルセアのほうがF6Fより遙かに良い戦闘機だったことになっていて、日本と正反対の評価です。 なぜ評価がアベコベになってしまったているかというと、多分、最前線ラバウルにいた日本の戦闘機乗りたち、なかでも著書が英語世界でベストセラーになった坂井三郎がコルセアよりもF6Fのほうが怖かった、と述べているからで、あとは、なぜか戦後、大量に発刊された戦記にもF4UコルセアとP38ライトニングを「零戦の好敵手」と呼んで、F6Fは「零戦キラー」と書いてあるからでしょう。 現実とは異なる「F6Fは捕獲零戦の研究によって設計された」という説まで巷間に流布されている。 現実は戦績を観ても、アメリカ側のパイロットの回顧談を見ても、コルセアのほうが遙かに評価が高い戦闘機で、F6Fなどは問題にならない信頼を寄せている。 ただなかにはF6Fのほうがいい飛行機だった、と述べているアメリカ側パイロットも、たしかにいるにはいて、これは自分が飛行機の免許をもっていればわかりやすいというか、グラマンという会社はエンジンが止まると「石のように落ちる」といって毛嫌いする人はいるものの、練習機もずっと作っていて、会社の伝統として、ものすごく飛ばしやすい飛行機をつくる。 「飛ばしやすい」というのは、離陸や着陸時に失速しにくい、脚が丈夫で多少乱暴な着陸をしても折れない、操縦席からの見晴らしがよい、というような、そういうことです。 F4UもF6Fも本義は空母を発って空母に帰還する「艦載機」なので、特にF6Fの、こういう素直さはありがたかったらしくて、新米パイロットにとっては命懸けのF4Uの離着艦がF6Fではリラックスしておこなえて、そのせいで好感を持った操縦士はたくさんいたようではある。 心配したり卑下したりしなくても、では、ヘンな言い方になるかもしれないが、軍事史専門家でも、兵器オタクフォーラムでも、あるいは航空技術オタクでも、またあるいはふつーの人でも。どこの国の人間にあげさせても、太平洋に限らず、第二次世界大戦中のすぐれた戦闘機のベスト10を挙げさせると、零戦は必ず10機のなかに含まれている。 最も誰もが納得しやすいベスト10を挙げると 1_Focke-Wulf Fw-190 2_P-51 Mustang 3_Spitfire 3_Bf … Continue reading

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James James

1 なんだか歯が痛いような気がするので、机に向かって、ひさしぶりに数学の問題を考えていたら、ちいさなちいさな妖精がおりてきて、コンピューターの、モニタの上辺に腰掛けて、肘をついて、こちらをみている。 なにかに似ていると考えたら、むかしコナン・ドイルが見事にだまされた、妖精写真の、ほんとうは紙で出来た背丈が3インチほどの妖精に似ている。 おおきな蝶のような羽根と、少し生意気な表情の、整った顔。 「あなた、人間の世界なんかで、なにをしているの?」 と可笑しそうな顔で聴いている。 聴いてきたわよ。 もう500年も、人間の世界で遊んでいるそうじゃないの。 仕事はしなくていいのか。 いったいなにを考えて時間つぶしみたいなことばかりしているのか。 第一、 よく飽きないわね。 どうも質問の内容を聞いていると、母親の差し金なのではないか。 いちいち答えるのが業腹なので、無視したまま、数学の図を眺めていたら、 ふっと風に揺れる花びらのように笑って、羽ばたいて宙に浮くと、モニタ画面のなかに、入って消えてしまった。 2 むかし、酒を飲まない夫が人がわりがしたように鯨飲したできごとを書いたことがある。 長いが、引用する 「ひとが変わってしまったのだ、という。 ある朝、目をさましてみると、夫が顔を覗き込んでいて、 おい、「P」へ行こう、と話しかけている。 P、というのは24時間開いているウクライナ料理を出すカフェで、夫婦の、週末の午後の散歩の途中で寄ってみることがある。 朝食をカフェで、ということですか?と聞いてみると、 そうではない。 おれは酒が飲みたいのだ。 それも強い酒がいい。 ヴォッカが飲みたい。 慌てて起き上がって仕度をしながら、だって、あなたお酒は飲まれないじゃないですか、と言ってみても、返事もせずに、無言で急かすように玄関の脇に立っている。 いざ外に出ると、そういうことは、ついぞ無かったひとなのに、大変な早足で歩いていく。 ついていくのにたいへんで、ときどき駆け足にならないと、ついていくことができなかった。 日本料理屋が並ぶ通りを抜けて、ウクライナ・カフェに着く頃には息が切れて、眩暈がするようだった。 テーブルにつくとペリメニを頼むところまでは同じだが、ほんとうにヴォッカを頼んでいる。 顔見知りのウエイトレスが怪訝な顔をするのも構わず、ヴォッカを頼んで、 持ってこさせると、一気に飲んで、お代わりを頼む。 もう一杯、もうひとつ、どうも頼むのが面倒だな、ダブルというのも出来ますか? あんまり、たくさん頼むので、しまいにはウエイトレスが笑いだして、ボトルをここに置いておくから、気がすむまで飲んで、支払いは自分で決めてください、と言い出した。 結婚してから、いままで、十二年のあいだに一度もお酒を飲む夫の姿を見たことがないので、呆気にとられてしまう。 結局、ヴォッカを1本まるまる飲んで、そのまま、すっくと立ち上がると、カフェの表に出したテーブルのすぐそばにあるベンチに寝転がって、鼾をかいて寝てしまった。 それから、どうなったの?と聞くと、 1時間くらい寝ていたかと思ったら、なんでもない顔でもどってきて、 … Continue reading

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びっしょり濡れた言語を乾かす

静かになってゆく。 ぼんやりと明るみが残っている言葉の地平線の向こうから、叫び声や、きれぎれの呼び合う声が聞こえている。 下腹が膨らんで蓬髪の抜け落ちた餓鬼たちの咆哮が木霊している。 なんの話をしているのかって? もちろん、日本語の話をしているのさ。 日本語くらいおもしろい言語はない。 ほら、英語はいきなり主語を立ててしまうでしょう? そうすると、謎がつくれない。 霧の夜に、川堤の下にいて、歩いてくる人の、遠くから近付いてくる人達の会話を聴いてでもいるように、だんだん何を話いるのか聞こえてきて、ああ、この人は、そういうことを話していたのか!とおもう興奮がない。 英語、 不動産契約書には向いているけどね。 宣戦布告にも向いているだろう。 多分、離婚届を書くのにも最適なのではないか。 自分の母語だからかもしれないが、英語がおもしろいとおもったことはいちどもないな。 ….いや、まったくないとは言えない。 シェークスピアの(英語でいう意味の)witで初めて英語という言語に深い魅力があるのがわかった。 T.S. Eliotの楽曲的に編成された、音楽のような英語で、なるほど英語もチューンに気を付ければ美しい言葉たりうるのだと理解した。 ディラン・トマスの急降下する鷹のようなスピードのある英語で、英語を使っても情熱さえ表現できるのだと知った。 でも日本語って、全然、違うんだよ。 なんといえばいいか、言語じゃないみたいに、押し絵か、入り組んだ線描か、さもなければ、幾重にもつづおれた、曲がりくねった山道のように自分を表現できる。 逡巡して、ああでもないこうでもない、悩んで迷ったとおりに、そのままを言語化しうる。 曲がりくねって、まるで生物の脊椎の曲線や、言葉の力によって撓んだ竹ひごのように、やさしい、やわらかい論理や感情を、あますところなく記録して文にできる。 言葉のイメージを重ねやすい言葉でもある。 ほら、「臨月のようなお月様」と書いた詩人がいるでしょう? おなじ詩人は、くんずほぐれつ、「魂をいれたりだしたりして」、恋人と純愛にふける毎日のことを書いている。 漢字を通して、日本語と中国語の音韻の違いを踏まえていれば、古代中国のイメージに手をとどかせることも出来る。 炎帝あゆみやまず 海神へめぐりやまず と書いた詩人は、戦後日本で、革命を信じて火炎瓶を投げる地下活動の日々のなかで、何度も親友や恋人に裏切られ、仲間に警察に売られ、組織にしめだされて知らない顔をされるなかで、過去へ過去へ、日本語を伝って信じられないほど遠くまで歩いていって、 炎帝あゆみやまず 海神へめぐりやまず 日本語の根源にまでたどりついた。 絶望がこの詩人を快活にして、やがて、彼を途方もなくやさしくしていった。 知っているかい? 人間は動物が死ぬように生の感情のなかで死ねない。 人間は言葉のなかで死ぬ。 言葉はシンボルだが、シンボルが表徴する感情が燦めくクリスタルのような語彙のなかで死ぬ。 日本人は日本語のなかで死ぬだろう。 英語人は英語のなかで死ぬ。 … Continue reading

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マンガ家の友達への手紙

ひとりの人間が生きていくということが、どれほど大変なことかは、女の人のほうがよく知っている。 多分、女のひとのほうが、医師なら医師という職業から、職業も社会的な位置も、観念さえもはぎとられて、なんのラベルもない、裸の「自分という個人」に押し戻される機会が多いからで、出産を経験する人は、なおさら、そういう言い方をすれば「ナマ」な自分に引き戻されるのではないかと思います。 どこまでも迂闊なぼくは、あなたがエッセイ集をだしているのを知りませんでした。 手に取ってひらくまで、あなたが生業にしているマンガなのだとおもっていた。 ところが、ページを開いて、そこに現れたのは垂直に文字が積み重なった縦書きに書かれた言葉で、スピードボールを期待していてチェンジアップを投げられたベースボールの打者のように、なんだか腰砕けで、あなたの文章世界に入っていきました。 マンガ家だとおもっていたのに、文章が上手で驚いた、というのは、考えてみると、随分失礼な言い草だが、さっきそう書いたときまでは、理屈がのみこめていなくて、書いてから考えて見ると、なるほど、マンガ家は絵を描けるうえに文章家としても才能も同時にもちあわせないと、やれないのですね。 書いてから気が付いた。 なんだか、いつものことだが、ずいぶんバカなことを言ってしまいました。 現実が、少し突き放して、淡々と書いてあって、いまの日本社会を生きていく女の人達が、どんなふうに考え、どんな経験をして、どんな理不尽と付き合わなければいけないか、わかりやすい本でした。 多分、もう二、三回読むとおもうが、一回読んだ時点で、手紙を書きたくなったのは、なるほど言語を伝達に使うためには、自分がおもっている観念を書かずに、こうやって細部を伝えようとすればいいのだ、と教わったことへの感謝を伝えたかったからです。 日本の人の謙遜は、聴いても仕方がない。 聴いても、ああ、またか、と思うだけなので、あんまり期待していませんが、Q太さんは、きっと、この本を書いてしまったことを誇りに思っていると思う。 うまく自分が感じたことや考えたことが書けていて、(笑ってはダメですよ)まるで現代版の「千曲川のスケッチ」のように、いまの日本社会におかれている日本の人の、まるのままの姿が描かれている。 ポンッと放り出すように描かれている。 逆子を正常位置にもどす回転施術や、元夫の義父がいわれのない言いがかりを述べることに、くやし涙を流すことを描くことによって、安倍政権がうんちゃらかんちゃらで、トランプがどーたらこーたらで、日本会議が、うほっほでほっほな言説による百倍も、読む方は世界の現実を実感する。 おおげさな、と言われそうだが、わしはひさしぶりに「世界はどんなふうに存在しているか」ということについての、おおきな示唆を含む本を読みました。 これが奇妙な言い方に聞こえれば、世界というものを、どんな角度から見ればわかりやすいのか、ということについて教えてもらったと言ってもいい。 長いけど、とても気に入った箇所なので引用したい。 逆子になっている、と診断されてから1ッ週間後の検診。やはり位置は変わっていなかった。毎朝毎晩、お灸に体操にと頑張ったのだけど。 黙ってモニターを見つめる、T先生と私。 T先生はおもむろに切り出した。 「直したい?」はい。「陣痛起こっちゃうかもしれないけど、いい?」いいです、いいです。「そうだな、推定体重も3千超えてるしな」 そうしてT先生による外回転術がはじまった。お腹の上から、赤んぼうをひっくり返すのだ。粘土のようにこねくり回される、私のお腹。「ここが引っかかってるんだな….」 ブツブツ言いながら、こねるT先生。 「あっ浮いた」 T先生はそのまま、ゆっくり、ゆっくりと、手のひらで赤んぼうを回していく。 「直った」 痛いらしい、と聞いていたけど、全然痛くなかった。あんまりあっけなかったので、笑いそうなほどだった。T先生は机に戻って、カルテにいろいろ書き込みながら言った。 「回転代、3千5百円ね」 この「回転代、3千5百円ね」がいたく気に入って、何度も読み返してしまいました。 Q太さんとわしが住んでいるこの世界は、ちょうど人間が呼吸しているように、言語によって呼吸しているのですが、その呼吸に、この「回転代、3千5百円ね」は、ぴったりあっている。 「よく子供をつくるヒマがありましたね」と「さらり」との述べる後輩に、 「夫婦のセックスって、ひまだからするんじゃないだろう。時間をつくってするものだ。いたわり合いだもの。」 と書くQ太さんの叡知のダイレクトな発露がある文も、そこここにあって、おお、すごい、とおもうが、わしは外回転術について述べる文のほうに、おおげさにいえば、日本語の未来を感じました。 まだまだ日本語は、自分が見たことを、そのまま書ける言葉なのですよね。 自分に引き寄せれば、ほかにも驚いたことはたくさんあります。 Q太さんは、ラフカディオ・ハーンが大好きな、わしの夢のアルカディア、松江の出身なのでした。 ほかにも、Q太さんて、わしじゃん、と不遜にも考えるところがたくさんあって、本を読み終えるころには、そーか、おれも女の人に生まれれば3回結婚して子供を4人産んでいたのだな、と確信するに至っていた。 Q太さんが「いつかどこかで」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/04/28/itsuka/Continue reading

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鎌倉のおもいで

夜の中を白い道がボオッと光るように続いている。 町並が闇の中に沈んでいて、なにも見えないが、歩いていて、鎌倉の、二階堂の国大附属小学校の前の道だというのは判っている。 あのタイル張りの道ならば、「町並」というようなものはなくて、ただ学校と住宅があるだけのはずだが、夢なのか記憶のなかなのか、影の軒先は、たしかに店のものです。 そこだけ、ぽっくりと空いた空間があって、駐車場になっている。 後ろには、そんなところにあるはずがない小さな山があって、常磐の山に似ているので、これは記憶が合成されているのだろうか、と訝しい気持が起こる。 あの駐車場にはおぼえていることがある。 段葛に桜が咲いて、麻布からわざわざ見物にやってきた友達と、夜更けの桜をひととおり見終わって、瑞泉寺の近くの鮨屋に行こうということになった。 もう12時をまわっていて、夜が早い鎌倉で、そんな時間に開いているのは小町通りで人気のある店を開いていて、博奕がやめられなくて大阪に逃げてクビを括ったのだという噂があった店くらいしかないが、そのときは、瑞泉寺の店に行こうということになっていた。 帰りに、じゃあ、今度買った家に泊まっていけばいいじゃないか、ということになって、ふたりで歩いていく途中で、駐車場の前を通ると、小さな子供が走り出てきて、こちらに向かって駈けてくる。 なんだか黒い影のようにしか見えない子供だな、と不思議におもって、見つめ直していると、後ろから若い母親の声で「しょうちゃん、こんなに遅くまで遊んでいちゃダメでしょう!」と呼ぶ声がして、子供は、引き返していった。 後ろで観ていた友達が、すっかり酔いがさめた、という様子で、 「あの親子が引き返していったほうには、家はないね」と、なんだかぼんやりした声でいう。 なにかがおかしいのは、それだけではなくて、考えてみれば、もう午前3時をまわっていて、そんな時間に遊びに出るのは遅いもなにもないものだ、ということに、やっと気が付いている。 おい、ちょっと、ここやめよう、と言うなり。 友達は、急ぎ足で立ち去ろうとする。 ふと見上げると、さっきの山がなくなっていて、月が皓皓と光っている。 鎌倉は、そんな記憶ばかりがあって、混濁した記憶や、夢を見た記憶、細部を失った現実が渾然となって、振り返っても、よく見えない景色のようになっている。 たしかに自分の身の上に起きたはずのことだ、とおもって、いあわせたはずの義理叔父に確かめてみると、それは義理叔父の経験であったりしたことすらある。 鎌倉はだから、自分にとっては夢のなかにある町のようなもので、だいたいが非現実的で、たしかにあったこととして二階堂の首塚からテニスコートへ向かって曲がったら、出会い頭に今上天皇と身体がぶつかってしまったことがあったが、SPもたくさんいて、厳戒体制のはずなのに、どうしてそんなことが起きたのか。 いま考えても、なんだかヘンなことがたくさんある町だったなあ、とおもう。 広尾山の家にいて飽きると、週末を避けて、鎌倉の家にいくことが何度もあった。 住むために買ったというよりも、昭和40年だかに出来た、薄いおおきなガラスがある縁側がある、その古めかしい家が気に入って、高くもなかったので、手に入れた家だった。 ここにあまり書きたくないが、いまは自殺してしまった友達が鶴ヶ丘八幡宮の裏手に住んでいて、この小柄な日本人の年長の友達と不思議なくらい気が合ったせいもあります。 この人と、水木しげるのマンガや、西田幾多郎の哲学、夏目漱石の「心」の話をしたりするのが楽しくてたまらなかった。 また、このひとは、とても鎌倉に詳しい人で、例えば漱石の心の話をしていると、散歩に行きませんか?と述べて、材木座海岸につれていってくれて、ほらここが、と立って微笑んでみせる。 「先生」と主人公が初めて会ったのは、どうしても、ここなんです、という。 由比ヶ浜ではないんですか?と聞くと、文章の様子からして違うとおもう、と述べる。 すぐ後ろを走っている国道の向こうを指さして、あの頃は、ここの一帯がおおきな別荘が並んでいたところでね、つい最近までは、美智子妃殿下の実家の別荘もありました。 いまは12軒の家が建ってしまったけどね。 といって、この人の笑いかたの特徴で、ふらっと笑う。 そのとき、もしかしたら、この人は自殺してしまうのではないだろうか、とふと考えたのをおぼえている。 或いは鎌倉山から林間病院のほうへ行って、岐れ道を右へ曲がって、七里ヶ浜の富士見坂におりてゆく道もよく歩いた。 鎌倉山に行ったのだから、これも友達の家に行ったはずだが、記憶のなかではひとりで、ちょうど鎌倉山の頂上にあたる、西側に林が広がる道を歩くと、満月のときは、遠くの、小さな小さな富士山が、人造物のようにくっきりと照らし出されて見えたのをおぼえている。 20代前半で、ひとりのときでも、ときどき、めんどくさくなると家のすぐそばのホテルであっても泊まってしまう癖はおなじだったから、もしかしたら七里ヶ浜のプリンスホテルに泊まった夜なのかもしれません。 あのホテルは、いまはどうだかわからないが、きちんとしていて、鎌倉では最も不便と形容したくなるところにあって、しかも部屋の造作は案外なビジネスホテル風で索漠としていたけれども、静かで、眺めがよくて、最後の頃は目の前の松林が松食い虫にやられてなくなって禿げ山ホテルなんて失礼な名前をつけて喜んでいたが、割と好きなホテルで、用事もないのに何日か逗留して、あの辺りから腰越は、犯人が潜伏していた黒澤明の「天国と地獄」の舞台なので、鎌倉学園前駅から腰越駅までうろうろして、犯人の隠れ家の住所の目星をつけたりして遊んでいた。 いわしをだす店があったり、珊瑚礁という、あんまりおいしくないのに長い行列がある店があったり、よく考えてみると、そこだけ切り話されたキャンプ場のような住宅地の七里ヶ浜で、ぼんやりして、海に面した駐車場でウイスキーを飲んだりしていた。 家を買ってもっていたといっても、住んでいたわけでもないのに、鎌倉は日本を思い出すと、いつも自動的に思い出される町で、いまでもなつかしい気がする。 仲のよい年長の友人がおおく住んでいて、そのひとたちは面白い、気持のいい人が多くて、元新聞記者だったひとなどは、腹切り櫓に念願の「縁側のある家」を建てて、どりゃ、これから記念すべき縁側ビール第一回といくとするか、とおもって、奥さんに盆にビールと枝豆をもってこさせて、腰をおろして、内心「やったやった」という気持で、それでも容儀だけは「鎌倉人らしく」静かに、グラスを傾けていたら、目の前の庭を塀からでてきた鎧武者が、すうううっっと歩いて、というよりも滑って、また反対側の塀へ、すううううっと消えていったのだという。 「それでさ、ガメちゃん、縁がわ使えなくなっちゃってさ。夕方になると雨戸しめきりなんだよ。興醒めだよ」と笑っていた。 この人も死んでしまった。 … Continue reading

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孤立する日本語 その1

前にTeju ColeとMin Jin Leeを読んでいて、やがて英語文学を代表する作家になるに違いないこのふたりの作家が、ふたりとも、英語で書いているが母語は英語でないことに気が付いて、文学にも新しい時代が到来していることを思った。 小説という文学上の形式がそれぞれの国の国語の勃興期に発展を遂げて、なんだか夢中になって「自分達の言語」で、カンナをかけ、トンカチをふるって、建築ブームのようにして広まったことはよく知られている。 フランス語でもドイツ語でも、小説が発達したのは国権主義国家や国民意識、「われわれドイツ人」タイプの意識の昂揚が小説という文学形式を聳え立たせたのだということができそうです。 日本もことに自然主義文学においておなじことが言えそうな気がする。 ネット上で、日本語をやりとりしていると、 「わたしは日本人だが、あなたが日本人の通弊として指摘する思考癖をもっていない。ひとくくりにしないでくれ」 という人が、よく現れる。 日本語人の一般性を抽出して民族的な傾向について考えようとすることを「自分がひとくくりにされた」と感じるのは単なる幼児性にしか過ぎないが、それはここでは、めんどくさいので言わないでおく。 日本語人は、以前に述べたtu quoqueが大好きであるというような論理の癖とは別に、異なる側面から眺めると、そう言っている本人が気が付いていないだけで、日本語では、「われわれ日本人」意識が、どんどん薄くなっているのかもしれない。 薄くなっている、というよりも、未だに戦前の日本帝国からアイデンティティを引き継ごうとする無意味で、いかにも「反省なんてしねーよ」な強引な試みに激しく反発する世界の実相を見て、日本人であることに誇りがもてなくなっているようにみえる。 「日本が国際社会で疎外されるのは、なぜだろう?」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2018/06/23/japan2050/ 戦前の大日本帝国が犯した戦争犯罪について、他人事のように気楽に批判してみせるいっぽうで、国のアイデンティティは戦前の日本を引き継いでいるのでは、理屈があわないが、気分を想像すると、 銀行強盗に入って一網打尽につかまった強盗団のなかで、「おれは銀行に強盗に行ったわけじゃない。ただ頼まれて通りの反対側のクルマのなかに座って見張りをやっていただけだ」と嘯く人のようなものだなのだろう。 棒杭に縛り付けられた中国人を銃剣で突き刺して殺害するのは、日本陸軍の歩兵のあいだでは、各部隊で年柄年中おこなわれる「訓練」にしかすぎなかった。 ごく稀に、生きた中国人を刺突して殺害することがどうしても出来なくて、「自分には出来ません!」と述べる兵士は半殺しにされるまで殴られ蹴られたが、そういう兵士の証言をみると、逆に、中国戦線に参加した兵士はほとんどが、この訓練に参加していたことが判ります。 戦後、お互いをかばうために口を拭って「あれは戦争という狂気が生んだ一場の悪夢だった」と忘れてしまえたのは、一にも二にも、「命令だったから仕方がなかった」 「皆が、やったんだよ。良いや悪いじゃなかった」 という強い気持ちがあったからで、そういう元兵士の機微は、例えば原一男監督が撮った極めて攻撃的な糾弾病者奥崎謙三が、いまは平和に生活している元兵士たちを苛烈に追究することによって、上官による兵士の部下殺害命令や友軍兵や敵兵を問わず人肉食が蔓延していた事実をあかるみにさらしていくドキュメンタリ、「ゆきゆきて、神軍」にうまく描かれている。 しかし、その前提にはもともと日本語は個人の倫理を前提としない言語である、ということが当然、存在する。 ウォール街の結局は富者の都合によって罰せられなかった金融犯罪のドキュメンタリはたくさんあるが、そのうちのひとつに、下っ端の行員として高給を稼いでいた韓国系人が、自らガイドとなって観光客に、ウォール街の犯罪について解説するツアーを企画して生業にしている様子をドキュメンタリに仕立てたものがある。 ウォール街が、いかに一丸となって、一個の低所得層からカネを巻きあげる巨大な機械となって、アメリカ社会を疲弊させて、健全な社会を破壊に導いたかよく判るように描かれていたが、その最後に、ドキュメンタリ制作者が、その韓国系人に 「では、あなた自身は、自分の責任についてどう考えているのか?」と質問するところがある。 その直後に起きたことは、なんでもかんでも韓国と日本をいっしょくたにして「兄弟国」と考える乱暴な考えを習慣にしていた人間(←わしのことね)にとっては、おおげさにいえば、衝撃的で、この韓国系人は、それまでの利発で快活な様子と打って変わって、うなだれて、黙りこくって、その沈黙のあと、大粒の涙が頬を伝う。 なんと言ったか精確に憶えていないが、「もちろん、わたしにも人間としての責任がある」という意味のことを述べる。 このドキュメンタリを観たのは、ウォール街で働いて、うまく立ち回って稼いだとかで、わし友メグどんの表現によれば「日本の不動産バブルのときに、もうかった自慢話を嬉々として話していた不動産業者とおなじ」だと述べていたが、日本語ツイッタの世界ではたいへん人気がある日本人の女の人に自慢の仕方がいかにも道徳ゼロでみっともないのでツイッタで「犯罪のお先棒を担いで儲かったことを自慢するのは見苦しいからやめたらどうか」と述べたら、ほんとうのことを言われてびっくりしたのでしょう、えらい悪態のつかれようで、あとは日本人の十八番「おまえはニセガイジンだろう」から始まる定番セットをずらずらと並べられて、このひとは4万人だかなんだかのフォロワーがいる人で、他の人たちも加わって、おーすごい、な、トゥルーカラーまるだしの下品攻撃で、 眺めていて、外国に何十年住んでも日本語で思考して暮らしている限り、日本式思考からは逃れられないのだなあ、と再認させられた直ぐ後のことだったので、 韓国人の強烈な倫理意識を観て、びっくりしてしまった。 うーむ、と考えて、そのあと立て続けに韓国のテレビドラマや映画を大量に観たが、光州事件を題材にしたA Taxi Driverや韓国大統領のノ・ムヒョンの弁護士時代を描いたThe Attorneyを初めとして、最近のテレビドラマシリーズ「ストレンジャー」に至るまで、これでもかこれでもかというくらい社会倫理と個人の葛藤やintegrityを保とうと苦闘する人間たちの物語で、韓国語がよく分からないので英語字幕をずっと見つめて観なければならず、クビが痛くなってたいへんで、もっか韓国語理解能力を改善すべくベンキョーちゅうだが、その過程でも、どうやら韓国人と日本人のあいだにはおおきな乗り越えられないほどの分断の壁があって、その壁は「倫理の有無」で出来ているらしいと判ってきた。 日本語人が功利でおきかえている場所に韓国語人は倫理をおいているらしい。 余計なことをいうと、もうちょっとベンキョーしないと判らないが、それは実はわしにとっては困ったことなので、韓国語と日本語のような兄弟言語で片方は倫理バカみたいなところがあって、片方は倫理ゼロの国民性では、言語と思考の深いつながりを述べてきた自分にとってはなはだしく都合が悪い。 倫理と言語機能の密接な相関関係をおもえば、もしかすると、「都合が悪い」どころの話ではないのかもしれない。 ここで、倫理とは異なる側面から言語の選択が社会に与える影響の話を慌ててしておくことにする。 … Continue reading

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食べ放題の思想

「結城アンナのお母さんって、むかし、六本木のスウェーデンセンターでバイキングをやっていてね」と言う。 聴いているほうは、話がのっけからのみこめないので、着物を着たアンナさんが、ヘルメットから角が生えた、例のヴァイキングの兜を被って、六本木のスウェーデンセンターの屋上で剣をかかげて空に吠えているところを映像として想像します。 あ。ガメ、そうでなくて、結城アンナというのは日本の人にとってはテレビのハウスジャワカレーのコマーシャルでおなじみの人でね。 20代の独身のときから、ずっとハウスジャワカレーで、岩城滉一と結婚してからも、まだジャワカレーなんだけどね。 その母親がスウェーデン人で、六本木でバルハラめざしてバーサークしていたりしたのか、と聴いているほうは「岩城滉一」という人も知らないので、だんだん混迷を深めてゆく。 だから、なんで、その人が六本木で海賊をやっていたんですか? 「ガメ、ヴァイキングは海賊ではないとぼくをやりこめたのはきみではないか」 だから、それはモンティパイソンのスパムなんて古臭い話題をもちだすから、いらいらしてきて、ええい、無知なおやじめと、頭にきて、いいじゃないですか、ここでは海賊で。わかるんだから と得心がいかない会話のなかで、やがて判明したのは、言われてみればなるほど、そういう言い方があったなとおもう食べ放題の意味のバイキングで、いま見るとフランクロイドライトの代表的建築であった旧帝国ホテル本館をぶち壊していまの帝国ホテルビルヂングをおっ立てたので有名な、里見八犬士の末裔帝国ホテル社長犬丸徹三がデンマークでスモーガスボードを見ておもいついた食べ放題システムを「バイキング」と命名していまに至っているそうでした。 相変わらず、表計算の数字の羅列を見たりしながら、サブモニターで、ちらちらツイッタを眺めるくせはなおっていない。 というやりとりがあって、それでこの記事を書いているのだけれども、このマコトさんという人は、奥さんがニュージーランドの人で、ときどきオークランドのボタニーダウンズというところにある奥さんの実家で何日かを過ごしに帰ってくる。 ボタニーダウンズはオークランドの東郊外にある新興住宅地で、Botany Town Centreという、チョーでっかいショッピングセンターがあるので有名です。 ここから少し北に行くと、接して、Howick、むかしから中国系移民の人がオカネモチになったら住むのが夢のやたら部屋数が多くてでっかい大家族向けの家がたくさん並んでいる住宅地があって、少し南に行くと、インドのパンジャビからの若い中流階級の移民が多い、Flat Bushという住宅地がある。 そういう土地柄なので、オークランドのあちこちに支店があるタイピン中華スーパーマーケットのでっかい支店があり、やはり中華スーパーチェーンのDHがあり、朝の7時からやっている飲茶屋もあれば、一方ではチャイとお菓子や軽食を出すインド式のchaat屋もあります。 その名も「チャイナタウン」という、なんだか体育館がでかくなったような建物もあって、一歩足を踏み入れると上海の裏通りをそのまま再現しましたとでもいうような館内で、ヘンなショッピングセンターだが、言われてみると、たしかに「食べ放題」と日本語でいうバフェ式、あるいはビュッフェ式なのか、カタカナとして英語式かフランス語式か、どっちか知らんけれども、ともかく欲しいもんは自分で立っていって食べろや、のレストランはボタニーには多くはない。 韓国の人は、例の、サービスでドバドバと、これでもかこれでもかと出てくる、キムチや魚の揚げたのや、海藻サラダや、日本ではたしか「大学いも」なる、いよいよ訳のわからない名前がついている甘い味付けの芋やの小鉢料理の影響でしょう、意外とたくさんの「食べ放題」レストランを開いていて、いま頭のなかでザッと数えてみただけで韓国料理食べ放題レストランはオークランドにも6軒ある。 いちど、ノースショア、橋の向こうのオークランドの北新地にでかけて、入ってみたら、食べ放題の焼き肉がことのほかおいしくて、カルビを2kgくらい食べて、ビビンバと、ついでなので冷麺も食べたら、帰りに運転するのが眠くて、ままならなくて、やむをえず、途中でモニさんに交代してもらったことがあった。 インド料理屋は、ランチはバフェ式のほうが普通です。 カレーが肉入りがチキン、ラム、ときどきなぜかビーフもあって6〜8個くらいの深皿トレイに入って並んでいる。 横には、ここが興味ぶかいというかなんというか、一応、「わたしは隣の不浄なやつらとは交渉がありませんからね」と主張するものであるがごとく、40センチくらいの距離をもたせた別のテーブルに、Shahi paneer、Palak paneer、ダルやアルゴビ、いろいろ並んで、出来たてのナンやロティが絶えず厨房から運ばれてくる。 と、ここまで書いて当然気が付くのは韓国レストランの「食べ放題」では、なんだか妙におおきい、胡乱な服装の、ときどき韓国語を口走ったりする白い外国人のにーちゃんが、千尋の両親のごとくガツガツガツと食べまくって、ゲエエエーップッをする下品さで、やたらと食べまくる人が散見されるのに、インド料理屋では、そういう光景を見たことがない。 いや、よく見ると、ナンを4人で10枚くらい重ねて、わいわいがやがや、そんだらこったー、なんだってわかんね、と楽しそうに述べながら、たくさん食べてはいるが、どうも詰め込むというようには見えません。 あの人らがいっぱい食べるのは、いつものことである。 でも、がっつかなくて、のんびりです。 メキシコのカンクーンに行くと、砂州のような細長い砂浜の連続に沿って、何十というホテルが並んでいる。 Hard Rock Hotel Marriot Grand Oasis The Westin Club Med … Continue reading

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太平洋戦争へのノート2 大西瀧治郎と神風特攻隊

特攻の発案者大西瀧治郎は1945年8月16日、腹を十文字に切って割腹したうえに喉と胸を突いて自殺します。 切腹は激痛を伴う死に方で、クビを刎ねて介錯するのは、よほど豪胆な人間でも、腹に刃を立てて一文字に切り裂くと激痛で気を失うからであるという。 むかしの、いわば死ぬことのプロであった侍でも、一文字に切腹するだけでもたいへんなことで、まして一文字に切ったうえに縦に切って「十文字腹を切る」のは未曾有のことであるよーでした。 大西瀧治郎は、そのうえに喉と胸を突いて、それでも死ねなかった。 切り裂き方が浅かったからではないのは、家人の連絡によって駆け付けた軍医の証言があります。 大西中将は、その駆け付けた軍医と看護の人に対しても、「もう階下に行ってくれ、おれは苦しんで死にたいのだから」と述べて、ずたずたに裂けた内臓と、穴が空いた肺腑と、裂けた気管から大量の血を失いながら、血の海のなかで、なお数時間を生きて死ぬ。 この人を、ここまでの苦悶の死に駆りたてたのは、彼が献策した「特別攻撃」、英語ではカミカゼと呼ばれた自殺攻撃戦術で、4000人の若者に死を命じたことへの自責の念でした。 どうも読んでいくと、大西瀧治郎自身は、神風(しんぷう)特別攻撃隊、取り分け、その嚆矢となる敷島隊を組織するにあたって、作戦家としての合理的な思考を積み重ねた結果の、一時の便宜的な方策として、愛国心はあふれるほどあるが技量があまい操縦士を選抜して、敵の不意をついて突入させる、一度限りの奇策として考えついたもののようでした。 必死にものを考え詰める、各国海軍軍人によくある、計算に計算を重ねるゲーマー頭脳の典型というか、人命の絶対価値よりも作戦としての奇想の魅力に勝てなかったもののようである。 以前に「ふたつの太平洋戦争」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/06/05/pacificwar/ で、激突時の初速、炸薬量、角度から考えて、正規空母を撃沈するというような戦果は考えられない、と書いたら、どこで仕入れてきたのか、誤りに満ちた「事実」を延々と大長文で送ってきて、こういう勉強をしない知ったかぶり人間特有の「わかりましたか?」という言葉で結んだコメントで、苦笑させられてしまったが、特攻攻撃が兵器として有効でないことは特攻の可否を議論する参謀を交えた会議でも、たびたび確認されている。 みな、どんなに条件がよくても体当たり攻撃で正規空母や戦艦に有効な被害を与えられる可能性がないのは知悉していた。 現に第一回目の神風攻撃であるフィリピンの敷島隊も、小沢治三郎ひきいる残存空母の機動艦隊に引き寄せられて、ハルゼーの主力艦隊が北方に引き寄せられた留守を狙って、マッカサーの上陸部隊の上空を掩護するために残っていたキトカンベイ、その他、軽装甲の護衛空母群に対して行われたもので、しかも、本来の作戦目的は栗田提督の大和や武蔵以下のレイテ湾襲撃艦隊が無事輸送船と揚陸物資への砲撃を終えるまでの時間稼ぎに、うすっぺらな飛行甲板を使えなくすることだけを目的としていた。 ところが、商船船体の設計でつくられた、つまり防御装甲がゼロに近い護衛空母セント・ローが敷島隊の特攻機による搭載爆弾の誘爆という不慮の事態によって大爆発を起こして沈没する。 やはり護衛空母のキト・カンベイも甲板脇の通路に体当たりされて、短いあいだ甲板が使えなくなり、カリニン・ベイには二機が空母の急所と言われるエレベータに命中して、エレベーター自体は無事だったが、体当たり機の炎上によって、やはり暫時使用不能になります。 レイテ湾突入をめざして、全速で航進する栗田艦隊にかかるはずの航空攻撃の圧力は、小沢治三郎の残存機動艦隊の全滅と引き換えの囮北上作戦と、レイテ湾上空を直衛する護衛空母のうち3隻が使えなくなったことでかなり軽減される。 海軍ではエリートである海兵学校出身の関行男に率いられた敷島隊が戦果と呼びうるものをあげえたことで、海軍は、特攻を国民精神の中核に据えようと決心したように見えます。 実は、敷島隊とほぼ同時に、同規模の諸隊、「朝日隊」「山桜隊」「菊水隊」も、それぞれの基地から発進して米艦隊めざして突入をめざしたが、そもそも海軍の宣伝士気高揚作戦の中核というか、エリートの海兵将校が国を守る為に志願して自殺攻撃を行ったのだということが主眼で、その主隊がうまくいったので、敷島隊が成功したあとの残りの、たかだか予備学生あがりが指揮するバックアップ諸隊は、全員戦死したことだけはたしかでも、主隊が成功したあとでは海軍首脳部にすればもうどうでもよくて、その証拠に、いったい海域突入後どうなったのか、いまに至るまで判っていません。 国のために喜んで死に赴いたエリート将校代表として選ばれた関行男は、「勇者」の取材に訪れた同盟新聞記者に対して、こう述べている。 「報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。僕は天皇陛下のためとか、日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう」 日本では美談として伝えられ、英語世界では「日本が負けたら妻が強姦されるから」では、いかにも勝てば相手の国の妻や娘を強姦することしか考えなかった日本軍の将校らしい、と評された談話をどう考えるかは、ひとによって異なるだろう。 大西瀧治郎は「特攻などは統師の外道である」と自嘲していたが、この言葉の意味の裏に、「物理学で戦争をせよ」と叩き込まれる日本の海兵出身将校の、そのなかでも論理と数理によって計算して戦うことの大事さを日頃からうるさく述べていた大西瀧治郎が、「特攻攻撃によって実効のある戦果をあげることは絶対にできない」と度重なる実験によって確信していた事実があることを知っているかいないかでは、言葉の響きそのものが異なる。 神風特攻攻撃の最も奇妙で、ひとによっては呪わしいと感じる点は、立案者、評価者、攻撃に関わったすべての人間が、特攻兵器が兵器としては効果がないことを熟知していた点で、特攻攻撃の無力を知りながら最後には「2000万人特攻」を強力に主張して、参内資格のない宮中にまで軍刀をにぎりしめて押し入って、降伏などという考えは受け入れられないこと、日本人は降伏するために戦争を戦ってきたのではないことを声涙をくだしながら説いた大西瀧治郎はゲーマー族軍人の焦燥を代表している。 大西瀧治郎は海軍大臣米内光政に対して、「徹底的に負けること。いまの日本人は、負け方が足りない。この国のゆいいつの希望である若い人間が、ひとりひとり手を挙げて自殺攻撃をすることで初めて、日本は新しいスタートを切れるのだ」と懇懇と述べたという。 「負け方が足りない。こんなぼんやりした負け方では、日本人は目覚めない。日本人はもっと悲惨な目にあわなければ民族として滅びてしまう」 という大西瀧治郎の晩年に一貫して流れる思想は、実は、鈴木貞一の企画院や軍需省、綜合計画局を通してみる日本の戦争努力の「集中力のなさ」、アメリカ、イギリス、(特にシュペーア以降の)ドイツが国力の全力を挙げて、戦争努力に集中した経済体制を組んで、いわば真剣に戦争を戦ったのに較べて、日本はイタリアと並んで、なんだかぼんやりした戦争努力というか、やる気があるんだかないんだか判らないというか、のんべんだらりとした努力のまま終戦に行きついていて、戦後、連合国側に立って日本の戦争努力を調査した将官たちに失笑される、日本の国家としての戦争の「やる気のなさ」に対する実感だったのがいまでは判っている。 戦後、大井篤たちが声高に述べて、「日本は補給思想がなかったから負けたのだ」と述べて、それが定説になって、それはそれで正しいのだけれども、現実にもっと近しく述べれば「いまのままの商船製造量では喪失量に到底追いつくわけがない」と戦前から皆が了解していたのに、問題を先延ばしして、補給について述べてもなにもいいことがないので保身のために誰もなにもいわない状態に陥ったまま、手を拱いて、「補給できなくなっちゃいましたね」と頷き合っていた、というほうが遙かに現実に近い。 大西瀧治郎が割腹自殺を遂げる瞬間まで苛立っていたのは、この日本人の、掛け声のおおきさとは裏腹な、「得体のしれない、やる気のなさ」でした。 駿馬のふりをしているロバというか、言うことだけを聞いていると、まじめで弛まず努力をして身を滅して仕事をしていそうなのに、よく目を凝らすと、仕事をしているふりをしているのが上手なだけで、ほんとうの仕事の進捗は唖然とするくらい何もやっていない、という現実を前にして前線で戦う将校たちは霞ヶ関の赤煉瓦を呪詛するが、大西瀧治郎は、その中でも、若者を次々に殺しながら、気が狂いそうな煩悶のなかで、なんとかゲームに勝つ方法はないかと日夜、焦燥していたのが戦後に証言された会話によってわかっています。 終戦近くになると、ほとんど夢遊病者のように、ひとりごとで、「勝つ方法はないかなあ。なにかあるはずなんだが。どこかにアメリカに勝つ方法はないかなあ。 どうして何もおもいつかないんだろう」と繰り返して、狂った人のようであったという。 当初、ただ一回きりの、便宜的な「外道戦法」として神風特攻をおもいついた大西瀧治郎は、採るに足りない戦果とはいえ、ひさしぶりの、発表しうる戦果を得たのに気をよくして、特攻を軍令部として正式の作戦として採用して、大西瀧治郎を驚かせます。 ここで気合いをいれて一発、全将兵の前で海兵出身の将校をギロチンにかけることによって、ショック療法で、気をひきしめようと思ってやった作戦が、作戦として効果がないことが判っているのに、いわばギロチンロボットが待つコンベヤの終端に、次々に若者を載せて送り込むようにして、神風自殺特攻という無意味な処刑をオートメーションでおこなってゆく決定をくだした首脳陣の決定をみて大西瀧治郎は深刻な衝撃に見舞われる。 敷島隊のときには、例え同調圧力のせいで否とはいえない雰囲気があったとは言っても、まがりなりにも志願の意思を確認してからだった特攻隊員の選出も、 1 絶対に特攻を希望する 2 熱烈に特攻を希望する 3 特攻を希望する の三つの選択肢からひとつに記しをつけさせておいて、これを「志願」と呼ぶ、日本的な頽廃に陥ってゆく。 連合国側の兵士が、カミカゼ攻撃被害による戦死を狂信者の自殺爆弾に巻き込まれた犬死にと捉えたのはあたりまえで、その「狂った民族」の日本人への印象は、諸国民の奥深い魂に刻印されて、残念ながらいまでも消えているとはいえない。 … Continue reading

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太平洋戦争へのノート 1

日本の太平洋戦争くらい何がやりたかった判らない戦争はない。 直截の発端は、フランスがドイツに負けて、あっけなく占領されてしまったことで、これによって出来たインドシナの真空地帯を、日本はどうしても手にいれたかった。 のっけから余計な話をする。 ツイッタで「無害なはちへお」@hachiheo さんという、ベトナムに留学後、2007年からハノイに住んでいる豊かな常識をもった人がいて、こっそり愛読しているが、たしかはちへおさんであったとおもう。 ベトナムに戦時中日本がかけた迷惑について話していたら、さっそく「例の類の」と形容したくなる日本人がやってきて、 「白人からベトナムを解放したのは日本人です。そんなことも知らないのですか」と述べていて、はちへおさんのげんなりする顔が思い浮かぶようだったが、 日本がベトナムの欧州人からの解放に手を貸して功績があったというのは日本人だけが信じている伝説で、日本人観光ツアーのガイドがお愛想で述べることくらいはありそうな気がするが、事実ではない。 東遊運動で有名なファン・ボイ・チャウが日本政府に期待したことがあるのは現実の歴史だが、日本の反応はベトナム人を裏切ってフランス側に立つことだった。 1909年には日仏協約を結んで東遊運動に賛同して日本にやってきていたベトナム人たちを容赦もなく一方的に全員国外追放します。 はっきりと自分達を欧州人の同族と規定していて、やがて今度はフランスがドイツに屈すると、気分を述べれば、いわば枢軸側の欧州国家としてベトナムを乗っ取りにやってくる。 すっかり欧州国家のつもりで行動した日本の誤算は、「そのくらい大目にみてくれるだろう」と考えていたアメリカが、激怒してしまったことで、石油の禁輸を始めとする強硬策をとり、また、外交的には「日本のようなウソツキ国家のいうことはいっさい信用しない」という態度をはっきりと示すようになる。 それまで暫定協定を結んだりして、ぎこちないなりに外交交渉を行っていたのが、このベトナム進駐からあとは、日本のいうことはいっさい信用しない姿勢に変わっていきます。 いっそ、すがすがしいくらいの外交的な失敗だが、国民に自分達の失敗を知らせる習慣をもたない日本政府は「バスに乗りおくれるな」という世にも品の悪い標語で、ナチの世界支配のおこぼれにあずかりたい一心で新体制運動をすすめてきた国民とともに「棚ぼた」で手に入ったインドシナを、濡れ手で粟の、おこぼれ第1号として歓迎する。 アメリカは戦前日本では、もともと大変な大衆的人気がある国でした。 えええええー! そんなバカな! 鬼畜米英を知らないのか!という人がたくさんいそうだが、例えば、おおきなアルバムくらいのサイズの蒐集帳に5冊、戦前のマッチ箱の絵を集めてあるが、ベティブーブや、分厚く真っ赤な唇に漆黒の肌の誇張されて戯画化された、いまなら当然人種差別的として問題になりそうなアフリカンアメリカンをあしらったマッチの箱は、おもいがけないくらいたくさんある。 これも、たくさんある、スマトラやパラオというような南洋の地名をあしらったマッチ箱絵とおなじくらいの数があるのではなかろーか。 当時のエンターテイメントの中心地、浅草六区の演し物でも洋モノはアメリカのものが最も人気があって、あるいは、例えば1928年の二村定一の大ヒット「私の青空」は、ウォルター・ドナルドソンとジョージ・ホワイティングがつくった「My Blue Heaven」の日本語版でした。 大衆文化から目を転じて軍人の留学先をみても、日露戦争の参謀として日本海海戦を勝利に導いた秋山真之から始まって、山本五十六、大井篤、アメリカに派遣された海軍軍人はたくさんいます。 一方でドイツ、イタリア語圏で具に観察を行った井上成美のような軍人もいて、日本はアメリカ、イギリス、ドイツ、イタリア、というような国について豊富な知識と、より重要なことには、感触をもっていた。 ローマに住んで、イタリアの文化について造詣が深かった井上成美が、こと軍事のことになると、「あんな国と組んだらたいへんなことになる」とよく洩らしていた、というのは鎌倉のような元の海軍将校町に行くと、いまでも語り継がれている。 軍人にとっては、陸軍も含めて、ドイツと組むのは危ない、というのは実は常識に近いものだった。 軍事の頂点にある昭和天皇そのひとも、「ドイツと組めば日本は滅びるかもしれない」と何度も口にしています。 「あんな、信義のない国はダメだとおもう」と述べている。 「古来、ドイツ人と組んだ国が栄えた試しはない」とも言っている。 戦後、ジャーナリストや作家のインタビューに応えて、なぜ素人でも危なっかしいと感じていたはずのドイツとの同盟へ、ごり押しにすすんだのかと問われた当時の各省課長級将校だったひとたちは、ドイツ人の規律正しさ、愛国心の強さ、勤勉、几帳面が日本人の国民性とあっていたからだと述べている。 考えてみると、「国民性が似ていたから」というのも、イチかバチかのような投機的軍事同盟を組む理由として酷いが、だいいち、そんなことが理由で、あれほど瘧にかかったような親独運動が軍人たちのあいだに起きるだろうか?という疑問が、少しでも人間性というものへの理解があれば起きるとおもいます。 しかも、つぶさに観ると、ドイツに出張する前は歴とした新英派将校だったひとたちが、帰日した途端に親独、新ナチ、ヒットラーばんじゃい! になった例が少なからずある。 戦後、水交社のなかでも、正直誠実で嘘がいえない人柄で親しまれた千早正隆という元は海軍中佐だったひとがいます。 お互いに戒め合って箝口令をひいてあった当時の軍人の現実を、明かしてしまったのは、正直だった、この人で、 ドイツ政府は、国家の情報戦略のひとつとして、日本の三十代を中心とする若手将校たちに、「女」をあてがっていた。 それも、ナチの例の手口で、貴族の娘だということに仕立てて、なんちゃら伯爵令嬢、というような女の人達に毎夜、夜伽をさせていたと証言している。 これには、おもわぬ方面、イギリス側からの証言もあって、ドイツを経て次の任地イギリスに出張してきた日本の海軍将校が事情はドイツと同じだろうと考えて「申し訳ありませんが、今晩、わたしの相手をなさってくれる女の方はどこですか?」と訊くので、接待の担当士官が「申し訳ありませんが、我が国ではご婦人と同衾するためには、その前に恋愛をなさらなければならないことになっているのです」と応えた、という有名な日本人士官たちについての言い伝えが残っている。 いまでいえばハニートラップで、いまもむかしも、日本の人が女の人とエッチする誘惑に勝てないのは、伝説なだけではなくて、真実でもあるようでした。 とても書き尽くせるものではないが、さまざまな要因によって、勝てないとわかっているほうに賭けた日本の指導層は、指導者の誰に訊いても「勝てるわけがない」と応えていたアメリカ相手の戦争に乗り出してゆく。 日本語の本を読むと、あんまり書いていないようなので、少し解説すると、この「勝てるわけがない」と日本の軍人たちが考えていた理由には、通常言われている「資源の不足」「工業力の劣勢」というようなことのほかに、純軍事的な理由もあって、軍事思想として、日本軍は、陸海軍とも、戦後の自衛隊ではないが、防御的な軍隊でした。 早期に戦争を終結するために必要な攻勢打撃力をもたない防御的な軍隊であるのに国力の制約から先進諸国との長期の戦争を維持するのは無理であるという不思議な軍隊を持ってしまって、日本にはアメリカのような工業大国と戦争をやって勝てる自信はまったく持っていなかった。 … Continue reading

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通りの向こうにいるともだち

自分が書いたものを見ると、何語であれ、「友達は、いらない」と、よく書いている。 孤独な人間が書くべき言葉だが、現実は、もともと大変社交的な人間で、呼ばれても、パーティでもパブでも、断ったりはしない。 巧言令色すくなし仁。 色を令して、言を巧みに相手を喜ばせるのも上手であって、世が世なら、結婚詐欺師として大成したのではないかと思う事がある。 個人としての外交能力を他人に取り入るために使う人もいるのだろうが、自分の場合は、他人との距離をおくために使っているもののよーです。 ATMの前に出来た行列をみると、フィンランド人は有名で、一見すると、ひととひとが、ばらばらに、お互いに遠く離れて立っているように見える。 田舎の小さな町であると、ひどければ、3〜4メートル離れて立っている。 ニュージーランド人も、フィンランド人とおなじか、もしかすると、もっとひどいかもしれない、かなり間隔があいていて、もちろん人によって違うが、最近はオークランドのような都会では新しくやってきた世代の人なのでしょう、アジア系の移民の人達に、永遠に割り込まれてATMにたどりつけないのが知識として普及してきたので、日本の人よりもやや間隙がおおきいくらいの距離で立っているが、本来は、2〜3メートル離れて立っているのが普通で、いまでも南島の田舎町や北島の東側へ行くと、むかしながらの、並んでるんだが、三々五々立っているんだが、判然としない距離をおいて立っている。 逆に、これは映画や画像でしかみたことがないが、インドの人は故国では、お互いの距離が、ものすごく近い。 冗談に聞こえるが、ムンバイなどでは身体と身体を密着させて並んでいる。 下品な読書経験をもつ人なら「城の中のイギリス人」を思い起こしそうな光景で、 きっと、写真をみると、カンタック空港で、日本の女の人がスリにあって、「いやあああーん」と大きな声で叫ぶのを振り返った香港人の若い男のようにお下品なニヤニヤ笑いを浮かべてしまっているのではないか。 ある写真についていた解説によると、あれは、ボディランゲージとして観察するべきような文化人類学的な事象ではなくて、ちょっとでも隙間があると容赦なく割り込まれるからだ、と書いてあったが、ほんとうかどうかは、しりません。 自分は、だいたい、大通りの向こうに相手が立っていて、顔はぼんやりとしかみえないが、懸命に手をふればお互いに気が付く、というくらいの距離が好きなようです。 交通量もおおい片側三車線のクルマが次から次に走り抜けていって、なつかしさに、懸命に手をふる。 ときに両手でラッパの形をつくって、なにごとか述べるが、よく聞きとれない。 バスやトラックの大型車が走り抜けると、どうしたことか、いつのまにか姿がかききえている。 友達との距離の理想は、そういうもので、逆に、距離がそのくらいであるときに最も見知らぬ人であった人との切実な友情を感じる。 一方では、同族と感じる人々がいて、このひとびとは、大半が子供のときからの知己・友人です。 しかし、こちらは、やたらと数が多い兄弟や親戚のようなもので、他人が聞いたらぶっくらこいてしまうようなポリティカリー・インコレクトな発言が交換されていて、あるいは、よく考えてみると友達だとおもって意識されていなければ、到底、鼻持ちならないようなエリート意識の固まりのような人間もおおい。 別に友達だから我慢しているわけではなくて、いまさら蛇にうまれついた存在をゲッコーではないと怒っても仕方がないというか、われながらこの例えでは訳がわからないが、ダメはダメなりに友達としては可愛い、ということであるよーです。 むかし、大学にいるときに、「きみは付き合いの長さによってしか友達を評価しないんだよ!」と、えらく憤激した調子でいわれたことがあったが、考えてみればその通りで、その人の趣旨は、当然、新しくめぐりあった友達であっても、相性があえば、旧然の友達よりも、より親しい友達として遇されるべきだ、ということであるらしかったが、なるほどなあ、もっともである、とおもうだけで、では革めましょう、とは一向におもわなかったのをおぼえている。 ときどき、そのときの相手の大憤激の表情をおもいだして、ほんとだよね、と考えてニヤニヤする。 自分だけのことなのか、他の人もそうなのかは知らないが、そもそも友情というものについて意識的でないのが原因であるらしいのは、ずっとむかしから判っていて、 どうも、そういうことでは人間として具合が悪くて、付き合いが長い順に信用のブロックチェーンが雲までとどいて頭の上にゆらゆら揺れているのだといっても、その一方で、ひさしぶりに高校のときの友達にあって、「うーむ、こいつって、こんなに退屈なやつだったろうか」とおもったりしているのだから、手の施しようがないというか、なんというか。 昨日、メールボクスを開いてみたら、なつかしい名前があって、ダブルクリックしてみると、長大なemailが出てきた。 奥さんとの、そもそものなれそめから、結婚した理由、行き違いや交感の歴史が書いてあって、奥さんに愛人ができて、離婚することになっったと書いてあった。 冗談ではなくて浩瀚な文章で、出版するためにはボリューム1とボリューム2に分けたほうがよさそうな手紙でした。 読んでいるうちに、涙でみえなくなって、鼻をばっちくずるずる言わせながら読んでいたら、折悪しく、モニがカクテルのトレイをもって部屋に入ってきて、はなはだしくバツの悪いおもいをした。 その手紙を、ほとんどおいおい泣きながら読みおわって、盛大に鼻をかみながら初めに考えたことは、脈絡がないといえば脈絡がない、 「自分はモニとあわなければ、結局、ずっとひとりでいただろう」ということだった。 恋人もなく、友達ともだんだん疎遠になって、中年に至るころには、大きな家に、家の世話をしてくれるひとびとと、ひとりで住んで、案外それで幸福だったのではないだろうか。 自分のことをかんがえると、 特に用事があって、この世界に生まれてきたようには思われない。 やりたいことは、たくさんあって、どうやら、よっぽどのんびりに見えるらしい自分の影の、いろいろな人達が考えるよりも、ずっとたくさんのことをおこなって暮らしているが、しかし、どれもただの好奇心で、自然に興味があれば数学を身に付け、いや、数学を身に付け、などというと気難しいに決まってる数学の神様が怒るだろうから、数学の方法を身に付け、人間の社会に興味をもてば、自然言語を習得する。 前に書いたように日本語という自然言語を身に付けようとおもいたったのは、自分のまわりを見渡して、ふたりの例外を除いて、誰にも読めない言語で、都合がいいことに、日本語は相当に高度な普遍語として機能してきた歴史をもっていて、始めたことには、すでにもう死相がでていて、どんどん死語が生まれて、表現できる世界が、年々、狭小になりはじめていたが、多分、最後はいっそ水村美苗の「私小説」のように、足りないところは英語でもなんでも補って、混ぜて書いてしまえる文体を発明すればいいだけのことで、そういう言い方をすれば、巨大な独り言の体系として身に付けたかった。 いくつかの言語を身に付けて、自然や世界を記述して、ひとりでヨットに乗って、360度どこにも陸地がみえないブルーウォーターを渡れば、誰にでも理屈ではなくて実感されるように、人間はみなひとりで、人間が社会的動物であるのは本質であるよりは方便で、サバイバルの方法論が定着しただけで、それが証拠には人間の言語は伝達ということに最も向いていない。 垂直に見下ろしたり、高いところを見上げるには向いていても、同じ地表に立っている他の人間に、自分の思惟の内容や感情を伝えることに全く向かない。 「友達は、いらない」と述べる自分は、ゲートのインターコムを鳴らして、 「ガメ、一杯飲みに行こうぜ」と電話もしないでやってきた友達に、 「おお、いいね」と述べて、パブにでかける。 … Continue reading

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通りの向こうにいる友達

自分が書いたものを見ると、何語であれ、「友達は、いらない」と、よく書いている。 孤独な人間が書くべき言葉だが、現実は、もともと大変社交的な人間で、呼ばれても、パーティでもパブでも、断ったりはしない。 巧言令色すくなし仁。 色を令して、言を巧みに相手を喜ばせるのも上手であって、世が世なら、結婚詐欺師として大成したのではないかと思う事がある。 個人としての外交能力を他人に取り入るために使う人もいるのだろうが、自分の場合は、他人との距離をおくために使っているもののよーです。 ATMの前に出来た行列をみると、フィンランド人は有名で、一見すると、ひととひとが、ばらばらに、お互いに遠く離れて立っているように見える。 田舎の小さな町であると、ひどければ、3〜4メートル離れて立っている。 ニュージーランド人も、フィンランド人とおなじか、もしかすると、もっとひどいかもしれない、かなり間隔があいていて、もちろん人によって違うが、最近はオークランドのような都会では新しくやってきた世代の人なのでしょう、アジア系の移民の人達に、永遠に割り込まれてATMにたどりつけないのが知識として普及してきたので、日本の人よりもやや間隙がおおきいくらいの距離で立っているが、本来は、2〜3メートル離れて立っているのが普通で、いまでも南島の田舎町や北島の東側へ行くと、むかしながらの、並んでるんだが、三々五々立っているんだが、判然としない距離をおいて立っている。 逆に、これは映画や画像でしかみたことがないが、インドの人は故国では、お互いの距離が、ものすごく近い。 冗談に聞こえるが、ムンバイなどでは身体と身体を密着させて並んでいる。 下品な読書経験をもつ人なら「城の中のイギリス人」を思い起こしそうな光景で、 きっと、写真をみると、カンタック空港で、日本の女の人がスリにあって、「いやあああーん」と大きな声で叫ぶのを振り返った香港人の若い男のようにお下品なニヤニヤ笑いを浮かべてしまっているのではないか。 ある写真についていた解説によると、あれは、ボディランゲージとして観察するべきような文化人類学的な事象ではなくて、ちょっとでも隙間があると容赦なく割り込まれるからだ、と書いてあったが、ほんとうかどうかは、しりません。 自分は、だいたい、大通りの向こうに相手が立っていて、顔はぼんやりとしかみえないが、懸命に手をふればお互いに気が付く、というくらいの距離が好きなようです。 交通量もおおい片側三車線のクルマが次から次に走り抜けていって、なつかしさに、懸命に手をふる。 ときに両手でラッパの形をつくって、なにごとか述べるが、よく聞きとれない。 バスやトラックの大型車が走り抜けると、どうしたことか、いつのまにか姿がかききえている。 友達との距離の理想は、そういうもので、逆に、距離がそのくらいであるときに最も見知らぬ人であった人との切実な友情を感じる。 一方では、同族と感じる人々がいて、このひとびとは、大半が子供のときからの知己・友人です。 しかし、こちらは、やたらと数が多い兄弟や親戚のようなもので、他人が聞いたらぶっくらこいてしまうようなポリティカリー・インコレクトな発言が交換されていて、あるいは、よく考えてみると友達だとおもって意識されていなければ、到底、鼻持ちならないようなエリート意識の固まりのような人間もおおい。 別に友達だから我慢しているわけではなくて、いまさら蛇にうまれついた存在をゲッコーではないと怒っても仕方がないというか、われながらこの例えでは訳がわからないが、ダメはダメなりに友達としては可愛い、ということであるよーです。 むかし、大学にいるときに、「きみは付き合いの長さによってしか友達を評価しないんだよ!」と、えらく憤激した調子でいわれたことがあったが、考えてみればその通りで、その人の趣旨は、当然、新しくめぐりあった友達であっても、相性があえば、旧然の友達よりも、より親しい友達として遇されるべきだ、ということであるらしかったが、なるほどなあ、もっともである、とおもうだけで、では革めましょう、とは一向におもわなかったのをおぼえている。 ときどき、そのときの相手の大憤激の表情をおもいだして、ほんとだよね、と考えてニヤニヤする。 自分だけのことなのか、他の人もそうなのかは知らないが、そもそも友情というものについて意識的でないのが原因であるらしいのは、ずっとむかしから判っていて、 どうも、そういうことでは人間として具合が悪くて、付き合いが長い順に信用のブロックチェーンが雲までとどいて頭の上にゆらゆら揺れているのだといっても、その一方で、ひさしぶりに高校のときの友達にあって、「うーむ、こいつって、こんなに退屈なやつだったろうか」とおもったりしているのだから、手の施しようがないというか、なんというか。 昨日、メールボクスを開いてみたら、なつかしい名前があって、ダブルクリックしてみると、長大なemailが出てきた。 奥さんとの、そもそものなれそめから、結婚した理由、行き違いや交感の歴史が書いてあって、奥さんに愛人ができて、離婚することになっったと書いてあった。 冗談ではなくて浩瀚な文章で、出版するためにはボリューム1とボリューム2に分けたほうがよさそうな手紙でした。 読んでいるうちに、涙でみえなくなって、鼻をばっちくずるずる言わせながら読んでいたら、折悪しく、モニがカクテルのトレイをもって部屋に入ってきて、はなはだしくバツの悪いおもいをした。 その手紙を、ほとんどおいおい泣きながら読みおわって、盛大に鼻をかみながら初めに考えたことは、脈絡がないといえば脈絡がない、 「自分はモニとあわなければ、結局、ずっとひとりでいただろう」ということだった。 恋人もなく、友達ともだんだん疎遠になって、中年に至るころには、大きな家に、家の世話をしてくれるひとびとと、ひとりで住んで、案外それで幸福だったのではないだろうか。 自分のことをかんがえると、 特に用事があって、この世界に生まれてきたようには思われない。 やりたいことは、たくさんあって、どうやら、よっぽどのんびりに見えるらしい自分の影の、いろいろな人達が考えるよりも、ずっとたくさんのことをおこなって暮らしているが、しかし、どれもただの好奇心で、自然に興味があれば数学を身に付け、いや、数学を身に付け、などというと気難しいに決まってる数学の神様が怒るだろうから、数学の方法を身に付け、人間の社会に興味をもてば、自然言語を習得する。 前に書いたように日本語という自然言語を身に付けようとおもいたったのは、自分のまわりを見渡して、ふたりの例外を除いて、誰にも読めない言語で、都合がいいことに、日本語は相当に高度な普遍語として機能してきた歴史をもっていて、始めたことには、すでにもう死相がでていて、どんどん死語が生まれて、表現できる世界が、年々、狭小になりはじめていたが、多分、最後はいっそ水村美苗の「私小説」のように、足りないところは英語でもなんでも補って、混ぜて書いてしまえる文体を発明すればいいだけのことで、そういう言い方をすれば、巨大な独り言の体系として身に付けたかった。 いくつかの言語を身に付けて、自然や世界を記述して、ひとりでヨットに乗って、360度どこにも陸地がみえないブルーウォーターを渡れば、誰にでも理屈ではなくて実感されるように、人間はみなひとりで、人間が社会的動物であるのは本質であるよりは方便で、サバイバルの方法論が定着しただけで、それが証拠には人間の言語は伝達ということに最も向いていない。 垂直に見下ろしたり、高いところを見上げるには向いていても、同じ地表に立っている他の人間に、自分の思惟の内容や感情を伝えることに全く向かない。 「友達は、いらない」と述べる自分は、ゲートのインターコムを鳴らして、 「ガメ、一杯飲みに行こうぜ」と電話もしないでやってきた友達に、 「おお、いいね」と述べて、パブにでかける。 … Continue reading

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裂けた星条旗 

フィッシャー・ブラックやショールズたちがデリバティブの理論をつくりあげたときには、彼らは、まさか、自分たちの「それまでは群衆心理のふらふら歩きにすぎなかった」経済に初めて数学理論の裏付けを与えた仕事が、将来、自由主義と民主社会を破壊するとは思っていなかっただろう。 それどころか、Terri Duhonたち、すぐれた数学の才能をもった若い一群のひとびとが確率微分方程式をツールとした数学の手法を用いて、プライシング理論を洗練させ、金融機関の信用力を一気に増大させたときでさえ、その後10年間で、人間の社会が育んできた社会的財産である自由主義を、ここまで完璧に破壊するだろうとは想像もしなかったに違いない。 簡単に、おおざっぱにいえばデリバティブという金融思想は、人間社会の身の丈よりも数倍おおきい信用力を創造することによって、人間が幸福に暮らせる社会の可能性を木っ端微塵にしてしまった。 数学科の学生がブラック=ショールズ方程式を見て考えることは、確率微分方程式の形として単簡で美しいが、よく考えてみると、根拠が薄弱なんじゃない? なんだか話全体の前提がテキトーだけど、オカネの話なので、まあ、こんな感じになるしかないでしょうね、くらいかもしれない。 たしかに公理にあたるはずの現実の根拠がヘンテコで、ほんまかいな、というところがあるのはほんとうだが、おもしろいことに、みながこのプライシング理論に飛びつくことによって、俄然、ほんもの科学らしい理論になってしまった。 理論はのちのち批判されて、新しい理論に改変されてゆけばよいので、それはそれでよいとして、Terri Duhonたちにとって予想外だったのは、全然数式を使わないで理論を理解した、・・・というのはつまりもっと判りやすく言うと、まったく理解しなかった、という意味だが、・・・自分たちのボスの銀行家たちが、「これをやってもダイジョブ」という結果だけを口々に述べながら、金融信用が増大した前提で、無茶苦茶な荒稼ぎを始めてしまったことで、やがてこれはS&Pやムーディーズ、フィッチのような信用格付け機関と問わず語らずに癒着していくことで、 世紀の経済犯罪思想CDO Collateralized Debt Obligation https://en.wikipedia.org/wiki/Collateralized_debt_obligation に結びついていきます。 この信用度が低いジャンクのホームローンを証券化して再パッケージ化することで優良債券化するという錬金術をおもいついたウォール街が、一気に中流以下の大衆から財産を吸い上げ、末端の銀行員に至るまで、いやあ、儲かって儲かってかなわんわ、のお祭り騒ぎに酔って、2008年の信用収縮の至ったのは、おぼえている人もおおいに違いない。 当時から数理に明るい人には警告する人がいたし、金融界の内部でも、あれが経済犯罪そのものであることに気付いていて、罪の意識に戦いている人もたくさんいた。 現にほぼおなじ経済犯罪が行われたアイスランドでは30人以上が逮捕された。 対照的に、ウォール街ではただひとり、しかも御丁寧にアラブ名前の男の人が逮捕されただけでした。 それどころか、ウォール街の自らのオチョーシをこいた大失敗に対して、アメリカ社会は、最も古典的、つまり基本的なキャピタリズムのルールを適用しなかった。 誰でも知っているとおり、自由経済の最低の基本は、「敗者は退場する」ということです。 ジェシー・リバモアは頭を撃ち抜いて自殺することによって退場したし、21世紀に入ってからでもエンロンは企業として解散し、ジョージ・ブッシュ大統領の盟友として知られたCEOのケネス・レイは有罪評決を待ちながら、心臓発作で死亡した。 ところがウォール街に対しては、追及側に十分な数学的な理解力がないことと、「つぶすと影響がおおきすぎる」という、田舎の町の信用金庫と地場企業の関係をそのまま全世界経済に適用したような理屈で、税金を大量に投入して市場への再出場権を保証してしまう。 この事態の収拾の仕方を見て、最も怒ったのはアメリカ内陸部の農場主たちでした。 このブログの前のほうへ遡るとでてくるが、アメリカの農場主達は、例えば養鶏場を例にとれば30万ドルというような大金を無理に貸し付けて、返済をしながら食べてはいけるが、決して完済はできない買い取り金額を設定して、農場を食品工業の一環として支配してきた。 無論、そのパートナーは銀行です。 その銀行がみずからの無知と非倫理性による暴走の結果、経営に失敗して、到底贖えない大損失を蒙ると、今度は、税金を投入して助けてくれと言い出して、結果は、その通りになってしまった。 わしはアメリカの田舎を旅行するのが好きなので、例えばシカゴからシャンパンを通って、メンフィスというようなお気に入りのコースがいくつかあって、人口が1000人というような小さな町で、ダイナーに寄り、ステーキレストランで地元のおっちゃんやおばちゃんたちと肩を並べて、よもやま話にふけりながら、でっかいグリルを囲んで、立ったまま肉を焼いて、そのあとは、たいていテーブルに誰かが呼んでくれて、「ニュージーランドって、オランダの隣だよな?」というような質問に答えたりしながら楽しい夜を過ごすのが旅行の定番になっていた。 そのときに感じたことは、ウォール街人や東部エスタブリッシュメントへの怒りの深さと、治癒不能な瞋恚が彼らの精神をすら蝕み始めていることで、冗談ではなくて、これはこのさき、アメリカはふたつに分裂していくかもしれない、ジョン・タイターの預言は案外ほんとうだったりして、と思ったりした。 いくらなんでもジョン・タイターは冗談で考えたにすぎないが、リンカーンが統一したアメリカは、ウォール街人の倫理ゼロの態度に寄って、また分裂に向かっているのだかもしれない、としきりに考えた。 ヒラリー・クリントンが民主党の候補になったときに、「これはまずいことになった」と思ったのは、わしだけではありませんでした。 早い話が、その頃はもう字数制限に四苦八苦しながら日本語twitterで遊んでいたが、アメリカに住んでいる日本の人たちでも、ものをちゃんと考えられる人は、トランプとヒラリーでは、ヒラリーなら4年後にまともな候補者を選ぶ機会があるが、トランプでは4年後にアメリカがいまの形で存在するかどうかも判らない、という根拠で、ヒラリーに投票するしかないが、しかし、こんな最悪な選択はアメリカ市民権を取ってから初めてだ、と述べていた。 アメリカというのは、そういう嫌なところがある国で、エスタブリッシュメントにはエスタブリッシュメントの文化があり、立場があり、日本の人が通常イメージしているよりも、ずっと集団主義的です。 欧州人には「アメリカ式全体主義」と言って、むかしからバカにしている人がたくさんいるが、そう言われても仕方がないところがある。 ふり返って見ると、年中アメリカに行っていたわりには、大統領選挙期間中にアメリカに滞在していたのは、まだ小さい(5歳?)頃にマサチューセッツのケンブリッジにいて、HBS(ハーバードビジネススクール)の学生たちと、なぜかロースクールの教員たちと一緒にマイケル・デュカキスの演説を見ていたおぼろげなというのも愚かしいくらいぼんやりした記憶がある。 読んでいる人がわかっているとおり、ゲンブリッジはハーバード大学の町で、デュカキス一色で、意識的にも無意識的にも、自分の東部エリート層のイメージは、そのときのアメリカンファシズムと呼びたくなるような熱狂のイメージで出来ているのではないかと考えることがある。 ケンブリッジには縁があって、そのあと何度か行っているが、印象はおなじで、圧倒的に親切で、いつも歓待してくれて、無茶苦茶忙しいのに手分けして楽しませてくれようとする。 一方ではチーム主義で、仲間意識が強くて、自分達のリベラル価値観から一歩でも外れる発言を激しくブーイングする。 なぜケンブリッジの話などしているかといえば、これがアメリカのエスタブリッシュメントの核で、例えば移民してやってきて、知的でありたいと願って、なんとかアメリカ社会に地歩を示したいアジア系のひとたちには、ひどいことをいえば、みっともないくらい彼らの生活スタイルや、思想、身の処し方、言い方から、身振りにいたるまでコピーする人が多いことに気が付いていった。 ここで名誉白人になりたいのか、というような言葉を投げつけるのは酷で、なにしろアメリカに憧れてやってきて、ほかにどうしようもないのだから、その態度を冷笑するわけにはいかない。 ヒラリー・クリントンの支持者は、この白人エリート層の徹底的な模倣者が多いことは事実で、容易に想像できることにバラク・オバマに対して憎悪を抱かなかった保守主義者も、ヒラリーに対しては、ウォール街にまっすぐつながる憎悪を抱く人が多かった。 … Continue reading

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