Daily Archives: September 18, 2018

孤立する日本語 その1

前にTeju ColeとMin Jin Leeを読んでいて、やがて英語文学を代表する作家になるに違いないこのふたりの作家が、ふたりとも、英語で書いているが母語は英語でないことに気が付いて、文学にも新しい時代が到来していることを思った。 小説という文学上の形式がそれぞれの国の国語の勃興期に発展を遂げて、なんだか夢中になって「自分達の言語」で、カンナをかけ、トンカチをふるって、建築ブームのようにして広まったことはよく知られている。 フランス語でもドイツ語でも、小説が発達したのは国権主義国家や国民意識、「われわれドイツ人」タイプの意識の昂揚が小説という文学形式を聳え立たせたのだということができそうです。 日本もことに自然主義文学においておなじことが言えそうな気がする。 ネット上で、日本語をやりとりしていると、 「わたしは日本人だが、あなたが日本人の通弊として指摘する思考癖をもっていない。ひとくくりにしないでくれ」 という人が、よく現れる。 日本語人の一般性を抽出して民族的な傾向について考えようとすることを「自分がひとくくりにされた」と感じるのは単なる幼児性にしか過ぎないが、それはここでは、めんどくさいので言わないでおく。 日本語人は、以前に述べたtu quoqueが大好きであるというような論理の癖とは別に、異なる側面から眺めると、そう言っている本人が気が付いていないだけで、日本語では、「われわれ日本人」意識が、どんどん薄くなっているのかもしれない。 薄くなっている、というよりも、未だに戦前の日本帝国からアイデンティティを引き継ごうとする無意味で、いかにも「反省なんてしねーよ」な強引な試みに激しく反発する世界の実相を見て、日本人であることに誇りがもてなくなっているようにみえる。 「日本が国際社会で疎外されるのは、なぜだろう?」 https://gamayauber1001.wordpress.com/2018/06/23/japan2050/ 戦前の大日本帝国が犯した戦争犯罪について、他人事のように気楽に批判してみせるいっぽうで、国のアイデンティティは戦前の日本を引き継いでいるのでは、理屈があわないが、気分を想像すると、 銀行強盗に入って一網打尽につかまった強盗団のなかで、「おれは銀行に強盗に行ったわけじゃない。ただ頼まれて通りの反対側のクルマのなかに座って見張りをやっていただけだ」と嘯く人のようなものだなのだろう。 棒杭に縛り付けられた中国人を銃剣で突き刺して殺害するのは、日本陸軍の歩兵のあいだでは、各部隊で年柄年中おこなわれる「訓練」にしかすぎなかった。 ごく稀に、生きた中国人を刺突して殺害することがどうしても出来なくて、「自分には出来ません!」と述べる兵士は半殺しにされるまで殴られ蹴られたが、そういう兵士の証言をみると、逆に、中国戦線に参加した兵士はほとんどが、この訓練に参加していたことが判ります。 戦後、お互いをかばうために口を拭って「あれは戦争という狂気が生んだ一場の悪夢だった」と忘れてしまえたのは、一にも二にも、「命令だったから仕方がなかった」 「皆が、やったんだよ。良いや悪いじゃなかった」 という強い気持ちがあったからで、そういう元兵士の機微は、例えば原一男監督が撮った極めて攻撃的な糾弾病者奥崎謙三が、いまは平和に生活している元兵士たちを苛烈に追究することによって、上官による兵士の部下殺害命令や友軍兵や敵兵を問わず人肉食が蔓延していた事実をあかるみにさらしていくドキュメンタリ、「ゆきゆきて、神軍」にうまく描かれている。 しかし、その前提にはもともと日本語は個人の倫理を前提としない言語である、ということが当然、存在する。 ウォール街の結局は富者の都合によって罰せられなかった金融犯罪のドキュメンタリはたくさんあるが、そのうちのひとつに、下っ端の行員として高給を稼いでいた韓国系人が、自らガイドとなって観光客に、ウォール街の犯罪について解説するツアーを企画して生業にしている様子をドキュメンタリに仕立てたものがある。 ウォール街が、いかに一丸となって、一個の低所得層からカネを巻きあげる巨大な機械となって、アメリカ社会を疲弊させて、健全な社会を破壊に導いたかよく判るように描かれていたが、その最後に、ドキュメンタリ制作者が、その韓国系人に 「では、あなた自身は、自分の責任についてどう考えているのか?」と質問するところがある。 その直後に起きたことは、なんでもかんでも韓国と日本をいっしょくたにして「兄弟国」と考える乱暴な考えを習慣にしていた人間(←わしのことね)にとっては、おおげさにいえば、衝撃的で、この韓国系人は、それまでの利発で快活な様子と打って変わって、うなだれて、黙りこくって、その沈黙のあと、大粒の涙が頬を伝う。 なんと言ったか精確に憶えていないが、「もちろん、わたしにも人間としての責任がある」という意味のことを述べる。 このドキュメンタリを観たのは、ウォール街で働いて、うまく立ち回って稼いだとかで、わし友メグどんの表現によれば「日本の不動産バブルのときに、もうかった自慢話を嬉々として話していた不動産業者とおなじ」だと述べていたが、日本語ツイッタの世界ではたいへん人気がある日本人の女の人に自慢の仕方がいかにも道徳ゼロでみっともないのでツイッタで「犯罪のお先棒を担いで儲かったことを自慢するのは見苦しいからやめたらどうか」と述べたら、ほんとうのことを言われてびっくりしたのでしょう、えらい悪態のつかれようで、あとは日本人の十八番「おまえはニセガイジンだろう」から始まる定番セットをずらずらと並べられて、このひとは4万人だかなんだかのフォロワーがいる人で、他の人たちも加わって、おーすごい、な、トゥルーカラーまるだしの下品攻撃で、 眺めていて、外国に何十年住んでも日本語で思考して暮らしている限り、日本式思考からは逃れられないのだなあ、と再認させられた直ぐ後のことだったので、 韓国人の強烈な倫理意識を観て、びっくりしてしまった。 うーむ、と考えて、そのあと立て続けに韓国のテレビドラマや映画を大量に観たが、光州事件を題材にしたA Taxi Driverや韓国大統領のノ・ムヒョンの弁護士時代を描いたThe Attorneyを初めとして、最近のテレビドラマシリーズ「ストレンジャー」に至るまで、これでもかこれでもかというくらい社会倫理と個人の葛藤やintegrityを保とうと苦闘する人間たちの物語で、韓国語がよく分からないので英語字幕をずっと見つめて観なければならず、クビが痛くなってたいへんで、もっか韓国語理解能力を改善すべくベンキョーちゅうだが、その過程でも、どうやら韓国人と日本人のあいだにはおおきな乗り越えられないほどの分断の壁があって、その壁は「倫理の有無」で出来ているらしいと判ってきた。 日本語人が功利でおきかえている場所に韓国語人は倫理をおいているらしい。 余計なことをいうと、もうちょっとベンキョーしないと判らないが、それは実はわしにとっては困ったことなので、韓国語と日本語のような兄弟言語で片方は倫理バカみたいなところがあって、片方は倫理ゼロの国民性では、言語と思考の深いつながりを述べてきた自分にとってはなはだしく都合が悪い。 倫理と言語機能の密接な相関関係をおもえば、もしかすると、「都合が悪い」どころの話ではないのかもしれない。 ここで、倫理とは異なる側面から言語の選択が社会に与える影響の話を慌ててしておくことにする。 … Continue reading

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