鎌倉のおもいで

夜の中を白い道がボオッと光るように続いている。
町並が闇の中に沈んでいて、なにも見えないが、歩いていて、鎌倉の、二階堂の国大附属小学校の前の道だというのは判っている。
あのタイル張りの道ならば、「町並」というようなものはなくて、ただ学校と住宅があるだけのはずだが、夢なのか記憶のなかなのか、影の軒先は、たしかに店のものです。

そこだけ、ぽっくりと空いた空間があって、駐車場になっている。
後ろには、そんなところにあるはずがない小さな山があって、常磐の山に似ているので、これは記憶が合成されているのだろうか、と訝しい気持が起こる。

あの駐車場にはおぼえていることがある。
段葛に桜が咲いて、麻布からわざわざ見物にやってきた友達と、夜更けの桜をひととおり見終わって、瑞泉寺の近くの鮨屋に行こうということになった。
もう12時をまわっていて、夜が早い鎌倉で、そんな時間に開いているのは小町通りで人気のある店を開いていて、博奕がやめられなくて大阪に逃げてクビを括ったのだという噂があった店くらいしかないが、そのときは、瑞泉寺の店に行こうということになっていた。

帰りに、じゃあ、今度買った家に泊まっていけばいいじゃないか、ということになって、ふたりで歩いていく途中で、駐車場の前を通ると、小さな子供が走り出てきて、こちらに向かって駈けてくる。

なんだか黒い影のようにしか見えない子供だな、と不思議におもって、見つめ直していると、後ろから若い母親の声で「しょうちゃん、こんなに遅くまで遊んでいちゃダメでしょう!」と呼ぶ声がして、子供は、引き返していった。

後ろで観ていた友達が、すっかり酔いがさめた、という様子で、
「あの親子が引き返していったほうには、家はないね」と、なんだかぼんやりした声でいう。

なにかがおかしいのは、それだけではなくて、考えてみれば、もう午前3時をまわっていて、そんな時間に遊びに出るのは遅いもなにもないものだ、ということに、やっと気が付いている。

おい、ちょっと、ここやめよう、と言うなり。
友達は、急ぎ足で立ち去ろうとする。

ふと見上げると、さっきの山がなくなっていて、月が皓皓と光っている。

鎌倉は、そんな記憶ばかりがあって、混濁した記憶や、夢を見た記憶、細部を失った現実が渾然となって、振り返っても、よく見えない景色のようになっている。
たしかに自分の身の上に起きたはずのことだ、とおもって、いあわせたはずの義理叔父に確かめてみると、それは義理叔父の経験であったりしたことすらある。

鎌倉はだから、自分にとっては夢のなかにある町のようなもので、だいたいが非現実的で、たしかにあったこととして二階堂の首塚からテニスコートへ向かって曲がったら、出会い頭に今上天皇と身体がぶつかってしまったことがあったが、SPもたくさんいて、厳戒体制のはずなのに、どうしてそんなことが起きたのか。

いま考えても、なんだかヘンなことがたくさんある町だったなあ、とおもう。

広尾山の家にいて飽きると、週末を避けて、鎌倉の家にいくことが何度もあった。
住むために買ったというよりも、昭和40年だかに出来た、薄いおおきなガラスがある縁側がある、その古めかしい家が気に入って、高くもなかったので、手に入れた家だった。

ここにあまり書きたくないが、いまは自殺してしまった友達が鶴ヶ丘八幡宮の裏手に住んでいて、この小柄な日本人の年長の友達と不思議なくらい気が合ったせいもあります。

この人と、水木しげるのマンガや、西田幾多郎の哲学、夏目漱石の「心」の話をしたりするのが楽しくてたまらなかった。
また、このひとは、とても鎌倉に詳しい人で、例えば漱石の心の話をしていると、散歩に行きませんか?と述べて、材木座海岸につれていってくれて、ほらここが、と立って微笑んでみせる。

「先生」と主人公が初めて会ったのは、どうしても、ここなんです、という。

由比ヶ浜ではないんですか?と聞くと、文章の様子からして違うとおもう、と述べる。
すぐ後ろを走っている国道の向こうを指さして、あの頃は、ここの一帯がおおきな別荘が並んでいたところでね、つい最近までは、美智子妃殿下の実家の別荘もありました。

いまは12軒の家が建ってしまったけどね。
といって、この人の笑いかたの特徴で、ふらっと笑う。

そのとき、もしかしたら、この人は自殺してしまうのではないだろうか、とふと考えたのをおぼえている。

或いは鎌倉山から林間病院のほうへ行って、岐れ道を右へ曲がって、七里ヶ浜の富士見坂におりてゆく道もよく歩いた。
鎌倉山に行ったのだから、これも友達の家に行ったはずだが、記憶のなかではひとりで、ちょうど鎌倉山の頂上にあたる、西側に林が広がる道を歩くと、満月のときは、遠くの、小さな小さな富士山が、人造物のようにくっきりと照らし出されて見えたのをおぼえている。

20代前半で、ひとりのときでも、ときどき、めんどくさくなると家のすぐそばのホテルであっても泊まってしまう癖はおなじだったから、もしかしたら七里ヶ浜のプリンスホテルに泊まった夜なのかもしれません。

あのホテルは、いまはどうだかわからないが、きちんとしていて、鎌倉では最も不便と形容したくなるところにあって、しかも部屋の造作は案外なビジネスホテル風で索漠としていたけれども、静かで、眺めがよくて、最後の頃は目の前の松林が松食い虫にやられてなくなって禿げ山ホテルなんて失礼な名前をつけて喜んでいたが、割と好きなホテルで、用事もないのに何日か逗留して、あの辺りから腰越は、犯人が潜伏していた黒澤明の「天国と地獄」の舞台なので、鎌倉学園前駅から腰越駅までうろうろして、犯人の隠れ家の住所の目星をつけたりして遊んでいた。

いわしをだす店があったり、珊瑚礁という、あんまりおいしくないのに長い行列がある店があったり、よく考えてみると、そこだけ切り話されたキャンプ場のような住宅地の七里ヶ浜で、ぼんやりして、海に面した駐車場でウイスキーを飲んだりしていた。

家を買ってもっていたといっても、住んでいたわけでもないのに、鎌倉は日本を思い出すと、いつも自動的に思い出される町で、いまでもなつかしい気がする。

仲のよい年長の友人がおおく住んでいて、そのひとたちは面白い、気持のいい人が多くて、元新聞記者だったひとなどは、腹切り櫓に念願の「縁側のある家」を建てて、どりゃ、これから記念すべき縁側ビール第一回といくとするか、とおもって、奥さんに盆にビールと枝豆をもってこさせて、腰をおろして、内心「やったやった」という気持で、それでも容儀だけは「鎌倉人らしく」静かに、グラスを傾けていたら、目の前の庭を塀からでてきた鎧武者が、すうううっっと歩いて、というよりも滑って、また反対側の塀へ、すううううっと消えていったのだという。

「それでさ、ガメちゃん、縁がわ使えなくなっちゃってさ。夕方になると雨戸しめきりなんだよ。興醒めだよ」と笑っていた。

この人も死んでしまった。

そうだ、あの人も死んでしまった、と考えてみると、鎌倉で子供の頃から知っていた人達は、みな鬼籍に入っていて、鎌倉のことを考えると彼岸の町のように思えるのは、そのせいであるのかもしれない。

軽井沢に「敵性外国人」たちが閉じ込められていたころ、鎌倉には西脇順三郎たち文人が逼塞していて、
学問もやれず、絵も描けず、
とふてくされてて、釈迦堂の切り通しで小石を蹴っ飛ばしていたりしたのだとおもうと、事態は深刻でもなんだか可笑しいが、あの小さな土地に犇めくように人が住んで、たくさんの人の死をみつめてきた鎌倉の町が、いまでもなつかしいとおもう。

読めもしない本を買いに行った目耕堂もカウンターだけのカレー屋も、みんななくなってしまって、鎌倉の友達に聞くと、「鎌倉はもう鎌倉じゃなくなっっちゃったよ。ブームだとかで、なんだか現実の鎌倉の環境じゃなくて、カマクラという名前で越してくる人がわんさか来ちゃってさ。ガメちゃん、もう来ないほうがいいよ」という。
この人の家は600年前から檀家帳がある家で、「こんなひどいのは、600年間で初めてだ」と八百比丘尼のようなことを言うので大笑いしてしまった。

鎌倉、もういちど行くことがあるかなあ。
また遠くに江ノ島が見えて、夕方には、その向こうに大気で屈曲して数倍の大きさに見える、巨大な薔薇色の富士山が浮かんでいるだろうか。

あの町のことを思い出すと、まるで、ほんとうは想像だけにしか存在しなかった、小さなときの大切な友達をなつかしむ人のような気持になる。
皆がいうように、もう、いまさら、どこにもない町なのだろうけど。

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