マンガ家の友達への手紙

ひとりの人間が生きていくということが、どれほど大変なことかは、女の人のほうがよく知っている。
多分、女のひとのほうが、医師なら医師という職業から、職業も社会的な位置も、観念さえもはぎとられて、なんのラベルもない、裸の「自分という個人」に押し戻される機会が多いからで、出産を経験する人は、なおさら、そういう言い方をすれば「ナマ」な自分に引き戻されるのではないかと思います。

どこまでも迂闊なぼくは、あなたがエッセイ集をだしているのを知りませんでした。
手に取ってひらくまで、あなたが生業にしているマンガなのだとおもっていた。
ところが、ページを開いて、そこに現れたのは垂直に文字が積み重なった縦書きに書かれた言葉で、スピードボールを期待していてチェンジアップを投げられたベースボールの打者のように、なんだか腰砕けで、あなたの文章世界に入っていきました。

マンガ家だとおもっていたのに、文章が上手で驚いた、というのは、考えてみると、随分失礼な言い草だが、さっきそう書いたときまでは、理屈がのみこめていなくて、書いてから考えて見ると、なるほど、マンガ家は絵を描けるうえに文章家としても才能も同時にもちあわせないと、やれないのですね。
書いてから気が付いた。
なんだか、いつものことだが、ずいぶんバカなことを言ってしまいました。

現実が、少し突き放して、淡々と書いてあって、いまの日本社会を生きていく女の人達が、どんなふうに考え、どんな経験をして、どんな理不尽と付き合わなければいけないか、わかりやすい本でした。
多分、もう二、三回読むとおもうが、一回読んだ時点で、手紙を書きたくなったのは、なるほど言語を伝達に使うためには、自分がおもっている観念を書かずに、こうやって細部を伝えようとすればいいのだ、と教わったことへの感謝を伝えたかったからです。

日本の人の謙遜は、聴いても仕方がない。
聴いても、ああ、またか、と思うだけなので、あんまり期待していませんが、Q太さんは、きっと、この本を書いてしまったことを誇りに思っていると思う。
うまく自分が感じたことや考えたことが書けていて、(笑ってはダメですよ)まるで現代版の「千曲川のスケッチ」のように、いまの日本社会におかれている日本の人の、まるのままの姿が描かれている。

ポンッと放り出すように描かれている。

逆子を正常位置にもどす回転施術や、元夫の義父がいわれのない言いがかりを述べることに、くやし涙を流すことを描くことによって、安倍政権がうんちゃらかんちゃらで、トランプがどーたらこーたらで、日本会議が、うほっほでほっほな言説による百倍も、読む方は世界の現実を実感する。

おおげさな、と言われそうだが、わしはひさしぶりに「世界はどんなふうに存在しているか」ということについての、おおきな示唆を含む本を読みました。
これが奇妙な言い方に聞こえれば、世界というものを、どんな角度から見ればわかりやすいのか、ということについて教えてもらったと言ってもいい。

長いけど、とても気に入った箇所なので引用したい。

逆子になっている、と診断されてから1ッ週間後の検診。やはり位置は変わっていなかった。毎朝毎晩、お灸に体操にと頑張ったのだけど。
黙ってモニターを見つめる、T先生と私。
T先生はおもむろに切り出した。
「直したい?」はい。「陣痛起こっちゃうかもしれないけど、いい?」いいです、いいです。「そうだな、推定体重も3千超えてるしな」

そうしてT先生による外回転術がはじまった。お腹の上から、赤んぼうをひっくり返すのだ。粘土のようにこねくり回される、私のお腹。「ここが引っかかってるんだな….」
ブツブツ言いながら、こねるT先生。
「あっ浮いた」
T先生はそのまま、ゆっくり、ゆっくりと、手のひらで赤んぼうを回していく。
「直った」
痛いらしい、と聞いていたけど、全然痛くなかった。あんまりあっけなかったので、笑いそうなほどだった。T先生は机に戻って、カルテにいろいろ書き込みながら言った。
「回転代、3千5百円ね」

この「回転代、3千5百円ね」がいたく気に入って、何度も読み返してしまいました。
Q太さんとわしが住んでいるこの世界は、ちょうど人間が呼吸しているように、言語によって呼吸しているのですが、その呼吸に、この「回転代、3千5百円ね」は、ぴったりあっている。

「よく子供をつくるヒマがありましたね」と「さらり」との述べる後輩に、

「夫婦のセックスって、ひまだからするんじゃないだろう。時間をつくってするものだ。いたわり合いだもの。」

と書くQ太さんの叡知のダイレクトな発露がある文も、そこここにあって、おお、すごい、とおもうが、わしは外回転術について述べる文のほうに、おおげさにいえば、日本語の未来を感じました。
まだまだ日本語は、自分が見たことを、そのまま書ける言葉なのですよね。

自分に引き寄せれば、ほかにも驚いたことはたくさんあります。
Q太さんは、ラフカディオ・ハーンが大好きな、わしの夢のアルカディア、松江の出身なのでした。
ほかにも、Q太さんて、わしじゃん、と不遜にも考えるところがたくさんあって、本を読み終えるころには、そーか、おれも女の人に生まれれば3回結婚して子供を4人産んでいたのだな、と確信するに至っていた。

Q太さんが「いつかどこかで」

https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/04/28/itsuka/

について述べてくれたことによって、わしはちょっとだけ、わざわざ無理をして、自分にとっては外国語の日本語で記事を書いてきてよかったかな、と思っているの。

若い時には、わしは「ムダなことにしか自分の時間は使わない」と決めていて、およそ実利が伴う可能性がないことに、傾斜的に時間を投入してきました。
ダンスも絵も彫刻も詩も数学も外国語の習得も、みなそのベクトルのなかにあった。
ほとんど偏執的に、「無益なこと」にエネルギーを傾けてきた。
どんなに無益なことに時間を費やしても、誰も自分に勝てるわけがない、という若い人間特有の傲慢な考えもあったのではないかとおもっています。

でも30歳をいくつかすぎると、時間に吝嗇になるのですよね。
本質的でないことに時間を使うのが、だんだんめんどうになってくる。

わしのものの考え方は単純を極めていて、そういうとき、やることにプライオリティをつくって、順番をふって、上からやっていく、という方法をとります。
そのプライオリティの順位をいれかえることによって、一生の方向を決めているのだとおもう。

オダキンたちの「いいじゃん。もっと書けば、おれは読むぞ」という言葉にかろうじて支えられて、はてな人やなんかの8年も続く罵詈雑言に辟易しながら、ようやっと興味をつないでやってきた日本語を、Q太さんや一色さんが「きみは、おれの同族じゃないか!」と述べにやってきてくれたときは、だから、どれほど嬉しかったか。

もうずっと昔、何度かブログに願いを込めて書いた、

おれたちは初対面だが
もし逢えなかったらどうしようかと
そればっかり考えていたよ

という岩田宏の言葉そのまま、Q太さんや一色さんたちに会えたのでした。

うまく言えないけど、わし同族は、同族であるQ太さんたちは、物理学者であったり、天文研究者であったり、ゲームデザイナーであったり、マンガ家であったりしながら、そもそもデザイン的にわれわれを排除するために出来ている現代社会を、なんとか生き延びているのだと思っています。

「今日も夫婦やってます」という本を閉じて考えたのは、
この人と、会えてよかったなあーということに尽きる。
自分の言葉が通じる相手に会えるということを夢見て、誰でも、言語を習得するのだけど、わしは、その凡そ本来は非望と呼ぶしかないはずの願望の点ではチョーラッキーで、通常に言葉を述べて、止揚された場も、芸術上の定型も必要としないで、そのまま考えた事が伝達されてしまうという相手に、十指を越えるほど出会えてしまいました。

同じ時代を生きてきてくれただけでも嬉しいが、その上に、日本語の橋の上を歩いて渡ってきてくれて、「あなたの、あの記事が好きだった。あなたの言葉でベルリンに来た!」と述べてくれて、サイコーにありがとう。

日本語を習得するくらいのことが、こんな、サイコーx2な幸福を運んでくれるとおもってみたことはありませんでした。

Q太さん。
だいさんきゅ

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Google photo

You are commenting using your Google account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s