びっしょり濡れた言語を乾かす

静かになってゆく。
ぼんやりと明るみが残っている言葉の地平線の向こうから、叫び声や、きれぎれの呼び合う声が聞こえている。
下腹が膨らんで蓬髪の抜け落ちた餓鬼たちの咆哮が木霊している。

なんの話をしているのかって?

もちろん、日本語の話をしているのさ。
日本語くらいおもしろい言語はない。
ほら、英語はいきなり主語を立ててしまうでしょう?
そうすると、謎がつくれない。

霧の夜に、川堤の下にいて、歩いてくる人の、遠くから近付いてくる人達の会話を聴いてでもいるように、だんだん何を話いるのか聞こえてきて、ああ、この人は、そういうことを話していたのか!とおもう興奮がない。

英語、
不動産契約書には向いているけどね。
宣戦布告にも向いているだろう。
多分、離婚届を書くのにも最適なのではないか。

自分の母語だからかもしれないが、英語がおもしろいとおもったことはいちどもないな。

….いや、まったくないとは言えない。

シェークスピアの(英語でいう意味の)witで初めて英語という言語に深い魅力があるのがわかった。
T.S. Eliotの楽曲的に編成された、音楽のような英語で、なるほど英語もチューンに気を付ければ美しい言葉たりうるのだと理解した。
ディラン・トマスの急降下する鷹のようなスピードのある英語で、英語を使っても情熱さえ表現できるのだと知った。

でも日本語って、全然、違うんだよ。
なんといえばいいか、言語じゃないみたいに、押し絵か、入り組んだ線描か、さもなければ、幾重にもつづおれた、曲がりくねった山道のように自分を表現できる。
逡巡して、ああでもないこうでもない、悩んで迷ったとおりに、そのままを言語化しうる。
曲がりくねって、まるで生物の脊椎の曲線や、言葉の力によって撓んだ竹ひごのように、やさしい、やわらかい論理や感情を、あますところなく記録して文にできる。

言葉のイメージを重ねやすい言葉でもある。
ほら、「臨月のようなお月様」と書いた詩人がいるでしょう?
おなじ詩人は、くんずほぐれつ、「魂をいれたりだしたりして」、恋人と純愛にふける毎日のことを書いている。

漢字を通して、日本語と中国語の音韻の違いを踏まえていれば、古代中国のイメージに手をとどかせることも出来る。

炎帝あゆみやまず
海神へめぐりやまず

と書いた詩人は、戦後日本で、革命を信じて火炎瓶を投げる地下活動の日々のなかで、何度も親友や恋人に裏切られ、仲間に警察に売られ、組織にしめだされて知らない顔をされるなかで、過去へ過去へ、日本語を伝って信じられないほど遠くまで歩いていって、

炎帝あゆみやまず
海神へめぐりやまず

日本語の根源にまでたどりついた。
絶望がこの詩人を快活にして、やがて、彼を途方もなくやさしくしていった。

知っているかい?

人間は動物が死ぬように生の感情のなかで死ねない。
人間は言葉のなかで死ぬ。

言葉はシンボルだが、シンボルが表徴する感情が燦めくクリスタルのような語彙のなかで死ぬ。

日本人は日本語のなかで死ぬだろう。
英語人は英語のなかで死ぬ。

自分の母親から口移しに教わった言葉が渦巻きのように記憶を巻き込んで、めくるめく感情の巨大な螺旋のなかに吸い込まれて死ぬ。

日本語に十年付き合っておもったのは、日本語が孤独に向いた言語であることだった。
人とむきあって話すのが苦手な言語なんだよ。
まず主語を相手の都合も考えて選ばないとダメでしょう?
年齢も考えて、地位も、バカバカしいことに場合によっては相手の出身校の偏差値まで勘案しないとならないかもしれない。
英語なら2ステップで済むところを、4倍にも5倍にも手間をかけなければ伝達をスマートにこなせない。
むかし英語習得について何冊も本を書いている実業家のひとに、いつもの調子で、
敬語なんていらねー、めんどくせー、と述べたら、
「ガメ、敬語こそが日本語の本質だぞ。いいかげんにしなさい」と怒られたが、
敬語が言語としての本質だということは、もちろん悪くはないが、たいへんなことで、相手との「あいだがら」や関係性がすべてだということになる。

相対的な関係性がすべてで、絶対的な倫理や、もっと簡単におおざっぱに言っちまえば、真善美に個々の人間がベクトルを集約して、そこに向かって歩くということは出来なくなる。
お互いに顔をみあわせて、挨拶をして、機嫌を損じないように、こちらの体面も失われないように、

「ぶしつけですが、7+8は、15ですよね?」
と述べて、相手が笑顔で、「ご心配なく、たしかに15で構いませんよ」と述べているひとたちを思い浮かべると、滑稽だが、日本語の世界では絶対性をもつ真理でさえ、実はそうやって相対的な相互承認をえて納得されるようになっている。

自分ひとりが考えているときには、そんなめんどくさいことはしないよね。
前にインターネットで会った女の人と日本語について、女の言葉を使って考えると表現できないことが多いのではないかと述べたら、そのひとは
「女は、ひとりで考えているときには女の言葉を使っていません」とあっさりと応えたので、虚をつかれたというか、なるほどそうなのか、と自分の愚かさにびっくりしてしまったことがあった。

つまり日本語人の女の人の唇から洩れる言葉は、男の日本語人よりも一層外交家の言語であって、
日本語で話す女の人にとっては、自分がこの世界で孤独であることは、男の場合よりも明然と自明であることになる。

日本語の伝達語としての複雑さは、しかし、孤独な言語としては、返ってプラスになったように思える。

日本語文学では、びっくりするような早い時期から日記が、洗練されて陰翳にみちた、深みのある言葉で書かれていったのは、ようするに、そういうことなのだろう。
もうひとつは手紙で、手紙は、少し考えてみるとわかるが、例の「おせんなかすな うまこやせ」でもなければ、伝達を目的としてはいなくて、心情や自分がおかれている情緒の詳細や、考えてみたことの吐露で、伝達の工夫を考える必要がない相手に、自分を投影する行為にほかならない。

考えてみると、こうまで日本語にこだわって、しつこく練習しつづけているのは、
言語としての癖をわかってしまえば、自分をうまく映し出す鏡として、これほどすぐれた言語はないからだとおもう。

独りごとの言語で、自分の影に向かって、語りかけていたいだけなのかもしれない。

でも、それでも、死ぬときはきっと英語のなかで死ぬだろう。
自分の一生を振り返って、あれ、あんなところにコンマを打って、場所を間違えてるじゃないか、あれでは自分の一生の意味がまるで異なってしまうではないか、と苦笑いしながら、コトッと音がするような死。

いくつもの言語が反響する洞窟から、やっと、静寂にたどりついて。

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6 Responses to びっしょり濡れた言語を乾かす

  1. Koichi oda says:

    すごい。感嘆のため息が出た

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  2. キラキラ大島 says:

     昔経営してたカフェで店番してて、常連のお婆ちゃん軍団が毎日のようにやってきて会話を楽しんでいて。楽しそうな様子はのどかだなと思うが、よくよく耳を傾けていると、誰一人として人の話を聞いていない。誰かの話に耳を傾けているのは、次に自分の話を始めるタイミングを図っているだけで、それはカラオケで友達が歌っているときに、懸命に次に自分が何を歌おうかとリストを眺め、予約を入れる様に似てて。集団でカラオケルームにいながらも誰も仲間の歌を聴いていないというのは、とても滑稽なことだが、仲間同士のカフェ会話も同じようなものだと気づいて、愕然としたことを思い出します。

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  3. 佐臼 says:

    ガメさん、お久しぶりです。
    いつかコソボのターミナルからコメントを送った佐臼です(憶えていないかもしれませんが)。
    あれから、日本の制度上の大学院生になりました。

    そうなのです。日本語は伝達に向いていないと思います。
    ずっと悩んでいることがここでずばりと指摘されていて目から鱗が落ちる思いです。

    日本語を他者に伝えるということは壁打ち行為なのです。暖簾に腕押しなのです。
    伝えたいことがあって、私がいて、あなたがいてくれさえすればいい言語とは違うのです。
    敬語や忖度にがんじがらめになった言葉からは自分がひとりで考えるときに生まれる深みが捨象されてしまっているのではないでしょうか。
    私にには、もっと知りたいと思う年嵩の人がいて、その人と友達になりたいと思うことが今まで多くありました。しかし彼らは私に友達になる隙をなかなか与えてくれませんでした。最初から、「生意気め、年下の者の話など知るか!」という仮初の威厳をまとった人も多かったです。いっぽうで、「目線を合わせて」私の話に耳を傾ける人がいても、眼差しには、年少者をみる生温かさが見え隠れしていて、段差があるように感じられました。
    同じことを言って、英語や中国語をバッググラウンドにしている人から感じられる温かみを、日本語ではなぜか感じることができないのです。
    これまでずっと、私は伝え手の技量の問題だと思っていました。私にはコミュニケーション能力が足りていないからあなたに言葉が届けられないんだと。

    でも、最近とてもうれしいことがあったんです。
    いっしょに働いている子とお茶をした時の話です。
    彼女は年嵩の先輩たちのなかで唯一の年少者で、私と同い年です。
    封建的な職場なので、彼女はとてもえらいことに、先輩との関係に波風をたたせぬように、年少者らしく振舞っていました(私は一人だけバイトなので飄々としています)。
    彼女は小さい頃から外国人が異質のようなものに思えると言い、異質に考えない私を不思議がっていました(対して、私は日本と中国のバックグラウンドを持っています)。
    私は自分の思っていることを話しました(内容は、同じ人間なのだから、嬉しいポイントも、悲しむポイントも同じでしょう、といった感じです)。彼女は私の下手な話を食い入るように聞いていました。そして自分に起こった変化をありのままに話してくれました。
    彼女は混乱している、と言いました。彼女によると、いままで自分が主体的に考えたことはなかったんだそうです。きっと彼女の言葉はずっと孤独だったのでしょう。
    しかしそれを受けて私も視界が開けたような思いがしたのです。彼女を孤独から引っ張り上げる端緒となれたからでしょうか? 大学院などでも「お勉強をしてきた人」と会話や議論をする機会はままありますが、他の方も書いているように、人の話を聞いていない。形だけの妥結を追求する。
    彼女との会話では、「会話をしている」実感がありました。

    ガメさん、ありがとう。
    図書館の地下書庫に顧みられ難い過去の作家の美しい言葉たちが埋もれているように、
    インターネットの片隅に、あなたの美しい言葉がまだ息をしているのを見つけられるから、
    合理性・効率性を求めるのが世の中の趨勢で、葉が朽ち果てるように言葉が死にゆく中でも、
    私は、自分が考える時に依るべき居場所がまだこの世にあるんだと、安心できるのです。

    Liked by 1 person

  4. sona says:

    最後の辺り、ぞわぞわっと感じ入ります。ガメさんの文章を拝読していると、とても面白いので、最近、他の本を読む気がしなくなってしまいました(てへ)。ときどき、ブログを、過去へ遡っても読ませていただいています。先週は、2012年4月に書かれた「いつか、どこかで」を拝読し、友人と二人で、面白い、共感するー、と述べ合いました。ガメさんのブログ、大好き。

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  5. 李ヨシュマド says:

    どうも。
    時々ガメさんにリプを送る李ヨシュマドです。

    そんな私も、日本語の伝達語としての意味について考えさせられたことがあったので、話します。

    10年ほど前、私は高校でリンチを受けていました。
    (そういうことを日本語 twitter で吐露したら、
    「被害妄想」とか、「あなたも悪かったんじゃないの?」とかトロルが来そうですな。)

    そのとき、私は図書室へ行こうとして、
    そのときに、不良グループが列をなして私に殴りかかってきたのですが、
    彼らの一応ボスが、
    その流れで、殴るのではなく、私の前に立ちはだかってきて、
    図書室へ行きたかった私は、彼を排除して、図書室へ行こうと殴って実力行使をしたら、
    当然といっちゃなんですが、激しく殴り返されたことがありましたね。
    (彼を止めてくれた、不良グループだけど、同じ部活だった彼、ありがとね。)

    それを、なぜか私の友人だと思っていた奴が知っていて、
    「そのお前が殴ったボスは、お前を守ろうとして立ちはだかったんだ!
    見ろ、後ろにまだ殴ろうとしてる奴がいるぞ」

    と、そいつは言ってきたのです。

    後々考えてみたら、
    これは「私が殴られるのは運命であり、避けられなかった」みたいなニヒリズムを自身に適用しないと、かなり理不尽な言い分であることがわかりました。

    本当に守ろうとしたなら、
    最初から仲間たちに殴るという行為自体をさせないようにすればよかったではないか

    と。

    集団で殴りに行かなければいいのに、
    スクールカーストという立場が、現実を歪めた

    ということですかね…

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  6. じゅら says:

    日本語しか理解しない人間の悲しさで、ガメさんが日本語の特性について書くことは、分かるような分からないような、はっきりつかめないものだったのですが、思い返してみると、自分が日本語で書いたり話したりすることは実際ここに書かれている通りに感じられます。思考らしきものの過程をぐねぐねと辿っていくひとつながりの塊そのものでした。そしてここ何年かは、もしかして十年くらいか、他人と交流したり何かを伝達したりする意思や動機が加速度的に失われる一方です。
    相手によって発話内容なり表現なりを調整しなければならないというのも実際そうです。女性という立場だとより圧力が増してめんどくさくなる。進学で周りの人間ががらっと入れ替わった時、その調整コストも大きく変動し、全体では劇的に下がったので、本当にものすごく楽になった思い出があります。しかし相手が誰であろうと、どんな人格者や気のおけない間柄であろうと、何か調整しなければならないような気分がもれなくついてくることに変わりはありません。伝達の手段というよりは接待の手段になりがちなのでしょう。使う相手が自分以外であれば。

    他の人たちも自分と同じように、理屈や筋が通っているかどうか、より善いことかどうか、みんなが楽になったり理不尽な思いが減ったりするかどうかが気になって、それで物事を判断するのだと無意識に思い込んでいました。人生のかなり早い段階で、それを前提にして方針のひとつを決めた記憶があります。どうやらその前提は間違っていたらしいと気付くまでに膨大な時間がかかってしまいました。自分にとって耳当たりが良いかどうかにしか興味ないんですよねたぶん。おそらく大多数の人が。そして全く悪気はないのです。私自身だって例外ではないかもしれない。本当に、もっと早く理解していれば、ずいぶん違っただろうと思いますが、たらればの話を考えてても仕方ありません。
    それでも私は死ぬまで日本語を手放さないだろうし、それには「最初に覚えた言語であり、新しく習得する必要がなくて楽」以外の理由もあるような気がしています。少なくとも今は。

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