James James

なんだか歯が痛いような気がするので、机に向かって、ひさしぶりに数学の問題を考えていたら、ちいさなちいさな妖精がおりてきて、コンピューターの、モニタの上辺に腰掛けて、肘をついて、こちらをみている。

なにかに似ていると考えたら、むかしコナン・ドイルが見事にだまされた、妖精写真の、ほんとうは紙で出来た背丈が3インチほどの妖精に似ている。
おおきな蝶のような羽根と、少し生意気な表情の、整った顔。

「あなた、人間の世界なんかで、なにをしているの?」
と可笑しそうな顔で聴いている。
聴いてきたわよ。
もう500年も、人間の世界で遊んでいるそうじゃないの。

仕事はしなくていいのか。
いったいなにを考えて時間つぶしみたいなことばかりしているのか。
第一、 よく飽きないわね。

どうも質問の内容を聞いていると、母親の差し金なのではないか。

いちいち答えるのが業腹なので、無視したまま、数学の図を眺めていたら、
ふっと風に揺れる花びらのように笑って、羽ばたいて宙に浮くと、モニタ画面のなかに、入って消えてしまった。

むかし、酒を飲まない夫が人がわりがしたように鯨飲したできごとを書いたことがある。

長いが、引用する

「ひとが変わってしまったのだ、という。

ある朝、目をさましてみると、夫が顔を覗き込んでいて、
おい、「P」へ行こう、と話しかけている。
P、というのは24時間開いているウクライナ料理を出すカフェで、夫婦の、週末の午後の散歩の途中で寄ってみることがある。
朝食をカフェで、ということですか?と聞いてみると、
そうではない。
おれは酒が飲みたいのだ。
それも強い酒がいい。
ヴォッカが飲みたい。

慌てて起き上がって仕度をしながら、だって、あなたお酒は飲まれないじゃないですか、と言ってみても、返事もせずに、無言で急かすように玄関の脇に立っている。

いざ外に出ると、そういうことは、ついぞ無かったひとなのに、大変な早足で歩いていく。
ついていくのにたいへんで、ときどき駆け足にならないと、ついていくことができなかった。

日本料理屋が並ぶ通りを抜けて、ウクライナ・カフェに着く頃には息が切れて、眩暈がするようだった。

テーブルにつくとペリメニを頼むところまでは同じだが、ほんとうにヴォッカを頼んでいる。
顔見知りのウエイトレスが怪訝な顔をするのも構わず、ヴォッカを頼んで、
持ってこさせると、一気に飲んで、お代わりを頼む。
もう一杯、もうひとつ、どうも頼むのが面倒だな、ダブルというのも出来ますか?

あんまり、たくさん頼むので、しまいにはウエイトレスが笑いだして、ボトルをここに置いておくから、気がすむまで飲んで、支払いは自分で決めてください、と言い出した。

結婚してから、いままで、十二年のあいだに一度もお酒を飲む夫の姿を見たことがないので、呆気にとられてしまう。

結局、ヴォッカを1本まるまる飲んで、そのまま、すっくと立ち上がると、カフェの表に出したテーブルのすぐそばにあるベンチに寝転がって、鼾をかいて寝てしまった。

それから、どうなったの?と聞くと、
1時間くらい寝ていたかと思ったら、なんでもない顔でもどってきて、
洋梨のコンポートが付いたパンケーキを食べて、コーヒーを飲んで、また歩いてアパートに戻ってきて、それだけなのだという。

記憶もしっかりしていて、しつこく問い詰めてみても、ヴォッカは美味かったが、もう十分飲んだから、一度だけでいい、と言うだけで、まったく普段の顔に戻っている」

(引用おわり)

困ったことに、この話は、夫が出かけた先がPであることをのぞけば、ほんとうの話です。

「P」の頭文字は、ほんとうはVで、Veselkaという店で、マンハッタンのビレッジ/イーストビレッジあたりに住んでいる人には、二箇所、Veselkaであることがわかるように書いてあるが、実はVeselkaではなくて、Veselkaの近くのバーで、なぜバーの名前を書かないですませてしまったかというと、このバーが贔屓で、うっかりイーストビレッジには多い日本の人がバーに行ってしまうと、一日だけ大飲した夫の名前も、私の名前もわかってしまって、私の名前はどうでもよさそうなものだが、夫はたいへんに有名な人だからだった。

こういうことでも、歳をとれば、どんどん実名で書くようになって、自分自身も実名で書くことになるだろうが、まだ早い。

あんまり、うるさいことをいわなければ、マンハッタンは住んでいて面白いところだが、というのは、いろいろな人間のつながりの社交サークルがあって、例えば前にもばらしてしまっているので、たいして緊張もせずに余計なことをいうと、ドナルド・トランプは東欧・ロシアサークルの人で、この東欧・ロシアサークルには、
元KGBの、えらく美人のおばちゃんや、モスクワからニューヨークまで毎週通っているロシアマフィアの娘の、礼儀正しい若い女の人が属していることは、前にも書いたことがある。

東欧・ロシアサークルに数人の人間(例:ポーランドの映画監督、撮影スタジオのベルギー人女支配人)を介して隣りあって、トップ社交サークルから、下品な言い方をすると一枚おちる大陸欧州人のサークルがある。

このサークルの特徴は、パーティで出てくる料理がやたらおいしいことで、
厨房から次々に出てきて料理が並べられて、
ボアラッ!
という声がかかると、なにしろ、おいしいのを知っているので、帝国ホテルのバイキング開店時にエレベータからいっせいに駆け出すおばちゃんたちもかくやという勢いで皿に料理をとりはじめる。

マンハッタンをずりあがって、セントラルパークの東側のほうへいくと、今度は有名なフランス人とフランス系人のサークルがあって、これは名うての「おハイソ」サークルのひとつで、あんまり詳しい話をすると、デビ夫人みたいになってしまうので遠慮する。

つまり、マンハッタンに住む楽しみは、サークルのなかでひとと会う楽しみで、作家もいれば、画家もいる、音楽家もいれば、プロデューサーがいて、…. といろいろな人がいて、だいたいにおいては欧州人とアメリカ人の交歓の場になっている。

白い人ばっかり、というようなことも、21世紀なのでなくて、たしかにアジアの人を見かけることを少ないといえば少ないが、例えば、
ボアラッ!
のパーティでは、日本人のピアニストの女の人にあったことがあります。

いつか、溜池のホテルのオーバカナルという、酒ばっかり飲んでいるオーバカな欧州人がよく集まるカフェで、こちらを向いて、ニコニコしている上品な日本の女の人がいるので、なにごとならむ、とおもっていたら、終いにはこちらのテーブルに向かって歩いてきて、

「おぼえていらっしゃいますか? ニューヨークでBさんのパーティでお会いしたことがあるでしょう?」
と言う。

おおおー、ご一緒しましょう!
おごってもらうチャーンスとおもったが、なにしろオーバカなので、顔もおもいだせなくて、

しかも、なんの外交的な工夫もないことに

「すみませんが、おぼえていません」と述べたら、まあ、と小さく、しかし、しっかりと怒気を含んだ声でつぶやいて、向こうの席へもどってしまった。

それは、ともかく。

ありていに言ってしまえば、マンハッタンの楽しみは、この社交サークルくらいのもので、あとは、欧州人の視線になってしまえば、アメリカ人のひと、ごめんね、というか、ヨーロッパコンプレックスばりばりの、パチモン欧州で、イタリア移民が多いはずなのに、ひどいとしか言いようがないイタリア料理をだすイタリア料理店や、バルセロナの3倍はする値段のタパスをだすカタルーニア人の料理の店や、
なんじゃこれわ、の世界中からのおのぼりさん御用達の店が並んでいて、
それは例えばミシュランに載っているような店は、おいしいのはおいしいんだけれども、なお食べ物への哲学が浅くて、値段だけ哲学をやっていては食べられない高額なので、えええええーい、イナカモンが!
と差別語を口走りたくなります。
いつか義理叔父が日本からやってきた客人にせがまれてノブへ行って、予約も含めて特別あつかいされて喜ぶべきどところであったのに、
なんじゃ、あのニセ日本料理は!
ふざけんな!
あんなもんで1000ドルもとりやがって!!
わさびなんか金印粉わさびじゃないか!
とケチなおっちゃんらしく激怒していたが、まあ、それに似ているといえば、似ている。

子供のときは東欧ロシアコミュニティの最大の宴会であるロシアンボールに招かれて行くと、入り口にロマノフ家のふたりの「最後の生き残りの王女」が立っていて、みなが握手して会場にはいってゆくことになっていたが、もちろん仮想現実というべき王女たちなわけで、しかしマンハッタンでは現実の王女で、マンハッタンというのは、いんちきなイタリアや、パチモンのフランスが入り乱れていて、
ロマノフ家の高貴な方々もご存命で、あのおおきな街ぜんたいが、
「それも、こころごころやさかい」の陽炎のような現実として存在している。

この世の中に、幽霊や精霊が存在するわけはない。
いままでになんどか幽霊を見たことがある私が言うのだから、間違いはない。

だいいち幽霊などに存在されると迷惑であるというか、大脳を初めとする物理的器官をもたないのに、ものを考えて発言されては傍迷惑どころの話ではないだろう。
そんなことが在りうるのならば、科学なんて新耳袋と同じ程度の「おはなし」になってしまう。

「伊右衛門どのお〜、うらめしや〜」と言われても、なに言ってんだ、おまえ、もっと冷静になって自分が大脳をもっていない事実をよく考えてみろ、という以外、言葉がない。

だが一方で、この目の前に広がっている現実の実体が、ただの自分の認識にしかすぎないことをおもえば、自分が触っているはずのカメラが、ほんとうに手のひらのなかにあるのかどうか、撮影した映像が、たしかに存在するものなのかどうか、明然と公理的に前提する方法はなくて、例えば、神様というか、ロシアンボールのロマノフ王女風な神様のパチモンであるというかが、プログラミングして、分散的にコンピュータを動かしているのが、この世界というもので、ほんとうは「実体」などというものが認識の誤謬で、ほんとうは、個々の人間の日常は仮想的な夢にしかすぎない事態も、科学の世界では、ちゃんと否定できていない。

幽霊のような人間の理性の文明を正面から疑う存在を、「そういうこともあるかなあー」と突き詰めもせずに受容してしまうのは、要するに人類の理性が未発達で、つづめていえばバカだからで、重大な自分たちへの挑戦なのに、まあ、いいか、で、いつものこと、テキトーな薄ら笑いでごまかして、そのうちには忘れてしまう。

まして妖精においておや。

認識というものがいかに誤魔化されやすいかを知っていれば、さて、自分がほんとうに存在しているものなのかどうか。

まして、自分というものが、実際に自分が知っている自分なのかは、誰にもわからなくて、それが学習されてわかってみると、いっそう世界が愛しいものにおもえてきます。

陽炎のようなものだからね。
いつか、ふっと消えてしまう。
だいいち、きみ自身が陽炎でないとは、きみ自身には絶対に判らないでしょう?

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