Monthly Archives: October 2018

教育について 1

人間は防御の姿勢をとって暮らすようになると、ろくなことはない、守ってはいけない。守りに入るのは、人間の一生にとって最悪のやりかただ、ということは、だいたい誰もが、子供のときに親に言い聞かせられる。 実際、人間の心理は常に前に進んで、常に自分の世界を拡張することに向いていて、そうしているときがいちばん平安な気持でいられるように出来ている。 論理のうえでも、自分の一生に保障を求めるくらい無意味なことはないのは、多少でも論理的にものごとを考えられる人なら、すぐに判る。 しかし、どんどん拡張して、どこまでも歩いていって、ふと丘のうえに立って遠くを眺めながら、考えてみると、さて、おれはいったいなにをやっているんだ、と考えついて可笑しくなる、という気持も、30歳を越えるころになれば、誰でも経験して、知っているとおもいます。 またガメは当たり前のことをいう、と言われそうだが、 人間の一生を生きるのは難しいとおもう。 まず一回こっきりで、瞬間瞬間をやりなおせない。 映画の撮影のように「カァァァートッ!」と叫んで、「はい、いまのところ生き直しね」が出来ればいいが、そうはいかないので、夜更け、冷たい床に足をつけて、 コーヒーを飲みながら、なんの脈絡もなくおもいだした昔のガールフレンドとの会話で、しまった、あのとき、こう言えばよかったんだ。 あのひとは、だから傷付いてしまったんだ。 おれは、なんてバカなんだ、という、お決まりの悔恨で、悩まされて、臍をかむことになる。 高校生のときだったか、カウチに寝転がって新聞を読んでいたら、人間はだいたい自分の生活範囲の半径300メートル以内で活動している人と結婚するのだ、と書いてあって、へえええー、そういうものか、人間て、意外とメイティングの範囲が狭いのだな、と考えたことがあった。 そのころの自分のことを考えると、何不自由もない環境に育って、日本の人が聴いたら、ぶったまげて怒り出すか、得意のウソツキ呼ばわりしそうな生活で、階級がある社会特有の、度外れた特権と優遇をあたりまえに享受して暮らしていた。 希望に満ちた毎日だったかというと、そうでもなくて、将来への不安と期待とが半々だったように思います。 おまえは歩く原子炉か、といわれたりしていた時代が終わって、ひとがましくなったのは、大学に入ってからのことで、大学というのはいいところで、なんだか不気味なくらい頭がいい人間が老若うろうろしていて、やる気が起これば延々と議論をして、お互いにお互いの不穏な知性を熟知しているので、少しくらいナイフでぶすっと刺すようなことを言っても、鎖帷子で跳ね返されて、斧のような言葉で、ぐわっと仕返しされたりする、変態的な快感に浸る毎日を送っても、誰にも文句を言われない。 日本の人は一般に学問の習得が前倒しになっていて、数学や物理や化学の教科書をみると、ずいぶん早くから高級なことをやっている。 いちど義理叔父が使っていた教科書をみせてもらったら、日本の有名な教科書検閲制度で認可された検定教科書とは別の、学校が自分でつくったらしい数学の教科書に、唖然とするような微分の話が書いてあって、これを何歳くらいで勉強するの?と聞いたら「14歳」と言われて、腰を抜かしそうになったことがある。 ところが、人間はどんなふうに生きていけばいいか?というようなことは、学校でほとんど議論しなかったらしい。 学校教育が全体に職人養成所風の思想で出来ていて、「学問」という技芸において左甚五郎育成を目指すとでもいいたげな思想で、子供の頭を訓練するという方法に見えて、それはやり方を間違えなければ、例えば数学や物理を考えれば将来の研究者を育てるにはたいへん有効な方法なのだけれども、それだけだと子供のほうはつらくないのか?という当然の疑問に突き当たる。 なんだか個人が自分の一生を形成するのを助けてもらえない学校みたいで、自殺率がほんとうに高いのか低いのか知らないが、たしかに鬱々として元気がないように見える日本の頭の働きがいい若い人の苦しみは、案外、そういうところに淵源がありそうな気がします。 ものを考える習慣をもたない人間は、元気な声でハキハキ返事をしていれば、それで実際に元気になっていくくらい、ものを考えないので、別に、ほっといてもうつ病にもならず、だいたいオカネをあてがって、エッチができて、病気にならなければ幸福で、どんな教育制度でも、ちゃんとしあわせになってゆける。 どんな国でも、最も悩みが少ないのは片方の耳からのぞくと向こう側の耳の向こうの景色が見えそうな美男美女のカップルと決まっていて、町を颯爽と歩いて、誰かが振り向いてでもくれれば、いちもにもなく幸福で、そのうえに乗り回すクルマが高級車でもあれば、言うことはなくて、こういう人びとは、なにしろ思考の言葉がなくて上滑りに滑っていくだけなので、特にどんな教育だからどうということは関係がない。 それでは禽獣の幸福と変わらないのではないでしょうか、とおそるおそるきみは聞きたそうにしているが、人間などは自分でおもっているよりも遙かにバカなので、 だいたいそのていどで別段もなく、丁度いいのだとおもわれる。 不幸にしてものごとを考える人間に育ってしまった場合がたいへんで、だいたい高校生くらいになると、われながら手間がかかる人間になってしまって、自分で考えて、これほどめんどくさい人間なのだから、他人にとっては、敬遠の対象でしかないだろう、 これじゃ友達だって出来やしない。恋人なんて、無理も無理、無理が積み重なって累卵の無理になって危ういくらい無理で、するといったいおれの人生はどうなるんだ、一生孤独で他人に疎まれて迷惑だけをかけて生きていくのか、第一、この低い鼻じゃ、ちっこくて、いっつも寝起きみたいな目ん玉じゃ、このはれぼったい耳タボじゃ、ぐわあああああ、ということになって、毎日、煩悶して生きていくことになりかねない。 そういうことは家庭でやることですよ。 学校が教えることではない、という人に会ってびっくりしたことがあるが、 あのね。 名前を呼ばれただけで、とびあがりそうな、腫れ物よりももっと触るのにやばそうな年頃の息子や娘に向かって、人間の生き方について無神経に説教をたれるような親がいたら、そりゃ、息子や娘は不良になりますよ。 そんな親に素直に従う子供を考えると、結末はもっと恐ろしくて、鈍感なのにペーパーテストベースの勉強みたいなことだけは出来て、おっそろしく傲慢で、その実、ほんとうの意味で知的な能力はなにもない、学問という曲芸を仕込まれた猿のような、不気味な生き物になってしまうだろう。 学校で教えることではないのは、たしかだが、学校で議論しなければ、どこで議論するのか聞いてみたい。 教師がレフリーになって、この世界には倫理は必要かどうか、それともルールがあればいいのか、というような一般のことから、日本で好評を博したマイケル・サンデルがステージのうえを飛び回って喜んで、吉本興業が契約しにやってきそうなトロッコ命題まで、おなじ年齢の人間同士で、議論して、考えることによって若い人間は救われるし、また、人間の防御機構はよく出来ていて、若いときには、そういうことが好きなのでもある。 わしなどは、もともとが社会性に欠けていて、ほっておくと、家のライブリに閉じこもってバカみたいに本を読み耽っているか、裏庭の川からボートをだして一心不乱にボートを漕いでいるか、なにしろひとりでいることばかりが好きだったので、学校というものがなければ、よくて久米の仙人、悪ければ謎の教団ナゾーの首領になって、ロンブローゾとつぶやきながら、世界の破壊を画策するようになっていたのではないか。 わしは、ごく簡単なヒントをつかんでいれば、なんなく一生を生きていかれたのに、その小さな、往々にしてひとことにしかすぎないヒントに逢着しなかったばかりに、苦しみながら生きて、悪くすれば自殺してしまう若い人を気の毒におもう。 例えば、親などは血が繋がっているというだけの他人で、親だといえど、嫌いな人間は嫌いでいいのだ、ということを知らないというだけで、いつのまにか、親の無言の期待に応えて、無我夢中で勉強して、親が喜ぶ学校へ行き、医者になって、親が夢に描きそうな夫をもち、ある日突然、心を訪問した「自分」という最も近しい友達に絶交を言い渡されて、文字通り心神を喪失して、まるでガラスで出来た心が粉砕されてしまったように、ある日を境に絶望のなかから抜け出せなくなった人を知っている。 子供のときに、母親が、家族の社交の範囲にいた有名な「良い子」の話をしていて、なんて素晴らしい子でしょう、というので、いたずらっけと、もしかしたら母親があんまり褒めるので嫉妬の気持が少しくらいはあったのかも知れません。 「おかあさまは、算数が出来る馬の話をしっていますか?」と述べたことがある。 母親は、その数学博士の渾名があった馬のことを知っていて、その馬が、実は自分の頭で計算しているのではなくて、ごく些細な観客の表情の変化を読み取って、正しい解答の数字がかかれたカードをくわえて運んできていただけだった、という故事を、なぜ息子が挙げたのか、すぐに気が付いて、嫌な顔をした。 われながら、嫌なやつだが、いまでも、子供というものの悲惨さについて考えるたびに、そのごくわずかな顔色を読み取って親と周囲の期待に応えてしまう数学博士の馬のことを考える。 … Continue reading

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東京十味 その1 うなぎ

マオリ族にとっては鰻は、神の使いであって、食用なんてとんでもない、神様を蒸したり、串に刺して焼いたり、ばちあたりで、まして照り焼きソースを塗りたくって、蒸したうえに焼いて、はふはふするなんて、とんでもないことだった。 子供のときは、珍しい食べ物で、ニュージーランドでも連合王国式に、ジェリーにつかった輪切りが缶に入って、変わったものを扱う小型スーパーで売っていたが、 日本食ブームで、eelのライスのせ丼というようなものが出回りはじめると、 初めこそ、うにょおおー、と顔を顰めて、人間の食い物ちゃうやん、をしていたが、食べてみると、おいしくて、これがほんまに缶カラで煮こごっている、ぶっといのと同じもんでっか?ということになって、最近は、どこの街角にもあるbento屋のメニューには、ほとんど必ず載ってます。 寿司種としても、サーモン、照り焼きチキン、ツナマヨ、エビマヨの次くらいには一般的である。 ずっと義理叔父につれられていった麹町の秋本が初めに行ったうなぎ屋だと記憶していたが、最近、子供のころの日記を読んでいたら、やはり義理叔父につれていってもらった「野田岩」が初めだったと判明した。 東麻布の店で、「う、うなぎって、そんなもん食べたら死ぬんちゃうか」とおもって緊張して店に入ったら、店のいちばん目立つところにイギリス人のおっちゃんがひとりで座っていて、日本人式にうな重を「かっこんで」いて、入ってきた子供わしをみてニカッと笑うと、 「きみ、ここのはうまいぜ。運がいいじゃないか!」と述べたので、案外、抵抗なく食べられてしまった。 eelと呼ぶからダメなのでunagiと呼べばいいのだ、と悟って、それからあとは、英語でも、だいたいunagiと呼号している。 「野田岩」には横浜にも支店があって、こっちは東麻布の店主の弟がやっていて、メニューもやや異なれば、味も変えてある。 生意気なことを述べると、どうも、こちらのほうが本店よりもおいしい気がする。 一軒屋になっているほうよりも、それも、駅ビルのなかにある支店のほうが好きだった。 そう、あの高島屋のなかにあって、鮨「青柳」の隣にあるやつです。 青柳程度の鮨は銀座のそこいらじゅうにあるが、野田岩クラスの蒲焼きは少ないので、両店の前に立つと、自然と右側にある野田岩に入ってしまう。 たいてい、手には有隣堂で買い込んだ日本の本を抱えていたとおもいます。 おとなになってから横浜に行くのは、たいていクルマだったが、電車ででかけると、西口で蒲焼きがぎっしり載ったうな重を食べて、横浜駅の東口に出て、水上タクシーで、終点の中華街まで、どんぶらこと海風に吹かれながら行く。 あんな楽しい公共交通機関は珍しいというか、水上タクシーは移動手段であるよりも、つかのま、海を楽しめる娯楽で、日が落ちるのが早ければ、横浜の夜景を見ながら、さて中華街に着いたら、どの店でたらふく食べようか、聘珍樓か北京亭か、と算段する楽しみは、横浜にいるときの醍醐味だった。 帰りは、ギリシャバーによってウーゾを飲んだり、いくつかあるジャズバーに寄ったりして、常連らしいアメリカ人たちと夜更けまで飲んでいることもあった。 美しい畳の床が広がった千住の尾花や、麹町の秋本、銀座の竹葉亭、考えてみると子供のときから、鰻屋はたくさんでかけていて、枚挙にいとまがない。 竹葉亭などは、銀座の歌舞伎座のそばにある支店が、まだ木造のころに何度かでかけていて、かーちゃんは歌舞伎は好きだがうなぎはあんまり好きでなかったので、記憶があいまいだが、多分、義理叔父と一緒だったのではあるまいか。 二階から、行き交う人やクルマを眺めて、なにもかも、あまりに異なるので、 ほんとにここは同じ地球のうえかしら、なんだか魔物にだまされて、銀河まで別の、見知らぬ惑星に来てしまっているのではなかろーか、でも、楽しいから、別に現実でなくたって、なんだっていいや、と考えたりしたのをおぼえている。 おなじ竹葉亭は取り壊されてしまった丸ビルの裏口にもあって、のれんをくぐると、失礼なことを言えば、みんな同じ顔、同じ髪、同じ服のサラリーマンのひとびとが、会堂と呼びたくなる広い、天井の高い店内をうずめつくしていて、しかし、その画一性が少しも嫌でなくて、アンディ・ウォーホルは、ここにきて、例の「誰もがみな同じ人間の群衆」というパラダイスをおもいついたのにちがいない、というのは冗談でも、記憶のなかでは、全体に知的な雰囲気で、ああ、近代小説に出てくる「丸ノ内のサラリーマン」、岡田隆彦が それから僕は旅に出る  そこは平たい太陽が今も覆いかぶさっているだろう  砂ぼこりのたちこめるその里で  ジンとサンチマンへの抵抗力を作って  いっぱし月給取になり  自信に満ちて二等車から丸の内に降りるだろう  もう君は愛してくれないだろうから と述べた、「丸の内」は、こういう場所のことだったのだなあ、と考えたりした。 余計なことを書くと、取り壊された丸ビルは、文章や映像では伝えられない生きた近代日本文明の重厚さを伝える生き証人のようなビルで、 文明堂にのぼってゆく、幅の広い大理石の階段は、日本が戦前にたどりついた文明が、到底、西洋で言われるような「モノマネ西洋」などではなくて、独自の高みに達していたのがわかる質感をもったものだった。 おなじことを言ったら、あんなん、ロンドンにいくらでもあんじゃん、と義理叔父が笑っていたことがあったが、おっさんは観察と理解が浅薄なので、「だいたい似てればおなじもの」程度の杜撰な理解力だからで、第一、たどりつくパーラーにあるべきスコーンがカステラな文明が、ロンドンと似ているわけはない。 あれを壊してしまっては、後からやってくる日本人は、そーか日本人はモノマネ民族だったのね、と納得して、プライドもなにもズタズタになって、やけんのやんぱち、自暴自棄で、そうなれば、文化の継承などは、そこで止まってしまう。 一冊の本で、伝わることと伝わらないことがある。 欧州の人間が古い建物や町並を残すことに固執して、ドイツ人に至っては、いったん瓦礫になってしまった町を、忠実に昔の形に復元するのは、長崎ハウステンボスに感銘を受けたからではなくて、本や映像では伝わらないものが文明というものの核心には存在するのをよく知っているからでしょう。 吉行淳之介には、たしか、兄妹の近親相姦夫婦が切り盛りしていることを暗示する、うなぎ店の小説がある。 うなぎには、ぬめっとしたところに、精神的な不潔をおもわせるところがあって、 いちど、切り捌くところをガラス越しに見ていたら、顔をしかめたくなるような気持になって、それから微かに吐き気がしたことがあった。 … Continue reading

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イギリスパン

日本にやってきた外国人たちが話題にする食べ物といえば、わりと顔ぶれが決まっている。 日本で暮らす外国人は、逆駐在さんとでもいうべき、アメリカ大企業の日本担当でもなければ、最近はビンボな人間が多いので、価格との相関において話題になることが多いが、例えばビーフシチューで、なぜ日本ではビーフシチューがあんなに高額なのかという話題は、かーちゃんシスターが日本にやってきた1980年代からのものであるらしい。 だいいち、それ以前に、日本ではなぜ構えも重々しいレストランでビーフシチューが供されるのか? あのピザの値段は、いったいなにか。 おらが国ではMサイズのピザが、日本ではLサイズだと詐称していて、しかも2400円! 詐欺なのではないか。 もしくは外国人に対する嫌がらせではないか。 だいたい日本にやってきた外国人は日本という罠にはまってにっちもさっちも、サッチモ・アームストロングになりはててしまっている人が多いので、特に安直な気持で英会話講師としてやってきてしまった人は悲惨であることが多かった。 まず何年も日本にいるうちに頭が日本人になってしまっている。 いつか東京で、このひとは英会話講師でなくて某私大の英語講師だったが、アメリカ人の友達とふたりで久闊を叙して、そのあとで、ふたりでひさしぶりに酒でも飲もうということになった。 六本木の半地下のスポーツバーに階段をとんとんと降りて行ったら、突然、この友達の様子がおかしくなって「ガメ、ここは、やめよう」という。 なんで? と聞くと、「外国人が、たくさんいて、こわい」 だって。 冗談でいってるのかとおもったら、本気だった。 頭が日本人になって帰化してしまっているのに、日本語はまるで話せない哀れな外国人なぞ、例えば東上線の上板橋などというところに行くと掃いて捨てるほどいて、池袋の一定のバーに行くと、こういう英語人たちが蝟集して、日毎夜毎、日本のさまざまな悪い点について侃々諤々と議論している。 選挙権もないんだけどね。 自分たちのやりきれない日々の実情を、なにかにぶつけないではいられないのですよ。 最も多い類型は、日本人のガールフレンド、あるいはもっと深刻な場合には妻がいて、日々の、みすぎよすぎを英会話教授に頼っている。 そうこうしているうちに、あっというまに日本の経済は没落して、例えばイギリス人ならば、故国にもどるなんちゅうのは、経済的に言って、夢のまた夢です。 彼の貯えなどは1ヶ月で、いとも簡単に費消されてしまうであろう。 ところが、こういう人というのは、日本に対する憤懣で、もうはちきれんばかりになっているのね。 英語も日本人初学者にあわせて、わかりやすくしようと試みつづけた結果、アクセントが日本人にわかりやすく変更されているのは、もちろん、妙にゆっくりな英語で、しかも構文までおかしくなっている。 おかしくなっている、というのは、妙に正しい英語になってしまっていて、初めのうち、なぜだろう?と不思議だったが、日本人の受験英語の影響が強いピジョン化したすみずみまで日本的に正しい英語という不思議な英語になっているのでした。 Tokyo Pop という、わしの好きな映画がある。 映画としてはBクラスムービーということになるのだとおもうが、バブル経済全盛期の日本における外国人たちの生活と気持をあますところなく精確に描いた映画として、かーちゃんシスターが、わしがひとりで日本に行くと決めたときに「観ていくといい」と教えてくれた映画です。 「ガイジンの女とセックスする」という動機で付き合い始めて、やがて同棲するに至る日本人の男とアメリカ人の若い女の人のカップルの純愛物語。 このカップルは、映画のなかで、日本のヒットチャートをかけのぼって、押しも押されもしない大スターになるが、やがて、女の人のほうは、自分の生活がfakeであると感じるようになってゆく。 日本社会そのものに現実感を感じられなくなっていって、バーであったアメリカ人とのやりとりを引き金にして、アメリカにもどって、一から出直そうと決心します。 アメリカ人たちに、まわりの日本人がいくら「この人は日本では有名なロックスターなんだよ」と述べても、アメリカ人たちは、たいして興味もなさそうに、知らない名前だな、というだけで、関心ももってくれない。 日本人のボーイフレンドと別れて、アメリカに帰ると決心して、 I don’t belong here. と述べるシーンで、わしなどは、なんど泣いたかしれない。 日本のひとは、この映画を観て、あるいは英語人の日本社会に対する偏見に満ちた映画だとおもうかもしれない。 でも、そうではないのす。 この映画はKaz … Continue reading

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モーニングセット

ほんとうは、日本に行ったことなんてないんじゃないか、という気がすることが、この頃は、よくある。 考えてみれば、もう8年も行っていないのだから、あたりまえで、厳密にいえば4年前だったかに数日、ストップオーバーで立ち寄ったことがあったが、美術品店に用事があって、東京と京都で、ヘリコプターで移動する忙しい旅行だったので、日本にいたというよりは、日本の人にこちらから会いに行ったという印象だけで、5年にわたって11回滞在したはずの日本の記憶と、うまくつながっていかない。 記憶の映像はフォトショップ的なもので、例えば、記憶のなかの日本の町には、あの綾取りみたいに込み入った電線と電話線の網の目は存在しない。 こっちは、どういうわけなのか、判らないのだけど、記憶のなかで日本の人はどんどん背丈がのびて、アジア人にしては、とても背が高いが、現実の日本の人は、ごみん、小さくて、いつだったか、ひさしぶりに鎌倉に行ったときに、駅前にいる日本の人はみな、びっくりするほど小さくて、妖精の国のこびとのようで、ニコニコしてしまったことがある。 それから、ひとの数! 記憶のなかでも、ひとの数は、多いのは多いのだけど、いつか、横浜駅の東口の階段に立って、西口までの通路を見渡したら、20メートルくらいは幅があるのかしら、案外と広い通路が、びっしり、文字通り、隙間もなくびっしり人間で埋まっていて、その人間の津波のようなものが、こちらに向かって動いていて、 「こんなんで待ちあわせの西口まで歩いていけるわけがない」 と怯えた気持で考えた。 結局は、なんとか西口のシェラトンまで歩いていけたのだけど「勇を鼓して」という表現は、こういうときのためにあるのだ、と納得した。 いいこともある。 日本にいたころ、特に最後の1年は、いま考えると、すべりひゆ @portulaca01 というイタリアに20数年住んでいる日本語の友達が指摘していたように、ホームシックだったのだけど、なんだか、とても日本が嫌いになってしまって、見るもの聞くものが疎ましかった。 広尾山の家には帰らなくなって、軽井沢の家にばかりいて、モニさんとふたりで、シャンパンやカバばかり飲んでいた。 2010年は最悪の年で、そのせいで、予定を早く切り上げて英語世界に帰ってきてしまったのをブログでおぼえている人も多いとおもう。 なんだか、ひどくおいしくないものを食べて、口直しをする人のようにイタリアに行ってローマからコモまでドライブして、やっと人間にもどったような気がした。 その年は、一年中、日本語を勉強したことを、ひどく後悔していた。 ところが頭のなかで日本は綺麗に洗濯されて、新品同様になって、めりはりもされて、太陽のいい匂いがする国に変わっていく。 最近、また、日本がとても好きになってきたんだよ。 伊東屋の万年筆売り場。 銀座の割烹屋 地下の階段をおりてゆく数寄屋橋の鮨屋 電気ビルのてっぺんの、おもいがけない場所にあるバーと鮨店 室町の蕎麦屋 ミキモトの白髪の、素晴らしい日本語をつかう店員 由比ヶ浜から七里ヶ浜に向かって歩くと、目の前にある大気で屈曲された巨大な富士山 軽井沢のツルヤの駐車場から見える浅間山 箱根の富士屋ホテルのカツカレー ははは。 なんだか食べ物がおおいけど、ときどき、おもいだして、手を休めて、そうか、やっぱり日本はいい国だったなーとおもう。 外国人で、ガイジンだったからかもしれないけどね。 いつか東京で鎌倉の話をしていたら、 「でも、ガメさん。ぼくは鎌倉に住んでみたことあるけど、あそこはヒマな人間が多いせいか、ずいぶん煩いことを言う近所の人がおおかった。ガメさんは、ああいいうことは平気なの?」という。 ところが! 鎌倉のなかでもシチメンドクサイ人が多いと名指しされた町に家を買って、ときどきはそこに滞在したんだけど、そんなことはいちどもなかった。 ゴミ出しの日を間違えても、分別がテキトーでも、夜中に、いつもの調子で、酔っ払って、ふらふら歩いて帰ってきても、道なかで 「ガメさん、御機嫌なんですね」 と小津映画のなかの日本の人のように挨拶されるだけだった。 暖かくなってくると、夜更けの材木座海岸に行って、わし伝統のチンポコ潜水艦が出来る全裸の姿になって、まっくらな海で、よく泳いだ。 知ってるかい? 日本の人は、めちゃくちゃラッキーで、海があったかいので、朝でも、夜中でも、いつでも泳げる。 … Continue reading

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Fine China

いつものように私書箱へ行ってみると、事務的な白い封筒のなかに、あなたからの手紙が混ざっていました。 ジャンクメールを選り分けたり、自分宛のではない郵便物にしるしをつけて局の専用ポストに投函したりするために設えられているテーブルで、なんだか家に持って帰るのを待ちきれなくて、読んでいた。 薄い青色の、みおぼえがある、ロンドンの文房具店でおなじみの封筒が、ニュージーランドの、強い西陽をあびて、薔薇色に輝いている。 I wore diamonds for the birth of your baby For the birth of your son On the same day my husband to be Packed his things to run Was bittersweet to say the least One life begins … Continue reading

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サンドイッチ

自分の部屋のドアは、たいてい開けてある。 別に、なかにヘッジホッグさんをひきこんで、あんないけないことやこんなひとにはなせないことをしているわけではないことを表現しているわけではなくて、子供のときからの習慣です。 おおきく開いたドアの上に、大学時代以来の、 Beer is the Answer…I Don’t Remember the Question という緑色の板に金文字で書かれた扁額がかかっている。 ドアが閉まっていることも稀にはあって、もうほとんどドアが閉まっているようなことはなくなったが、そういうときは、なにごとかに集中しているときで、誰かがノックでもしようものなら、もうめちゃめちゃ機嫌が悪くなって、なかから本を投げてドアにぶつける音がする。 わがままに育ったのが、よく、わかりますね。 それでも家のひと(←モニさんでは、ありません)は、開いたままのドアをノックして、サンドイッチは、どうされます? きゅうりとハムとマスタードでいいですか? と、聞く。 クラスト、オア、ノークラスト? と訊ねる。 パンの耳というものが嫌いなので、もうかれこれ5年くらい耳付きのサンドイッチというものを、お願いしたことがないが、それでも律儀に必ず、 クラスト、オア、ノークラスト? と聞くところが、家の人の器量というものなのであろうとおもう。 サンドイッチという食べ物は、小さなときからの記憶の至るところに出てくる。 最も好きなのは、きゅうりのサンドイッチで、子供のときには、この世界からきゅうりというものが消滅してしまったら、自分はどうやって生きていけばいいのか、とマジメに心配したことがあるほど好きです。 食べ物で、なくなってしまったら世を儚んで死んでしまうしかないとまで思い詰めたことがあるのは、きゅうりとチョコレートだけで、チョコレートはそのまま囓っていればすむが、きゅうりは、そんなもの、ただ囓っても自分が河童になって、やや水泳に熟達してきたような気になるだけのことで、つまりは、いかにきゅうりのサンドイッチが好きか、というだけのことです。 夏の午後、ビクトリアパークの芝生に腰をおろして、草クリケットの熱戦を眺めながら、魔法瓶に詰めたアールグレイをちびちび飲んで、タミヤ模型の箱のなかの部品のようにきちんと並んだ部品を組み立てて、新鮮な、きゅうりのサンドイッチを食べるくらい楽しい時間の過ごし方はない。 あるいは、34フィートか40フィートのランチ(launch)を出して、鏡のように凪いだハウラキガルフを滑って、例えば、ブラウンアイランドという何の工夫もない名前の、無人の小島の、近くに錨をおろして、ディンギ(船につんであるゴムボートのことです)をおろして、ホンダの8馬力の船外機を、ぶおぶおぶおといわせながら、浜辺に上陸して、ピクニックのバッグを開けて、サンドイッチを組み立てて、ランギトトとタカプナのあいだの廻廊を、なんだか茫然とした巨人のように、ゆっくりと港をめざして航行するコンテナ船を眺めている。 あるいは、実家でのクリスマスを早めに切り上げて、もどってきた自分の部屋で、 自然語がとどかない、数学の言葉でしかとどかない世界を凝視しながら、ぐわあああああ、をしている。 実家から持ってきたローストラムやハムやローストビーフを、見るからにテキトーなバゲットにバタを塗ったのに挟んで、いつも濃くいれすぎるコーヒーを顔をしかめながら飲んで、「才能」というような言葉のことを考えている。 外は雪の、ロンドンのカシノの、VIPクラブで、もう14番目のシューで、チップの山が高くなったり、低くなったり、一進一退で、朝に近くなって、一緒にブラックジャックテーブルを囲んでいた顔見知りたちも、みな手を休めて、ゲームから退いて観客になって、ブラックジャックがでると「やった!」「いけるぞ」などと言っているところに、金魚鉢のようにおおきなグラスにいれたグラスホッパーと一緒にハムサンドが運ばれてくる。 日本で言えば、おにぎりなのかしら? 窓のそばに立って、板チョコをはさんだサンドイッチを食べながら、あとからあとから流れてくる涙を頬からぬぐっていたのは、あれは、高校生のときに大好きだったガールフレンドが死んでしまったことをしらされた朝だった。 どうしてだかは知らない。 子供のときからの友達たちは、ひとつだけ共通したことがあって、マヌケなくらい善意のかたまりで、まるで無菌室で培養されたみたいで、ひとを疑う能力に欠けていて、ビジネスを始めたばかりで、電話をかけてきて、 「聞いてくれよ、ガメ、こんな素晴らしい話がきたんだよ! これで会社もめどがついた」と述べて、聞いていて、これは危ないなと考えて、 「騙されているのだとおもう」 「善意だけで出来たひとのような社長だと、きみはいうが、経済マフィアは善良な性格の借金で首がまわらなくなった社長を、自分たちのフロントの会社の社長にすえて、恫喝して、ほかの善良な人間を騙すというのね」 と述べると、 どうして、ひとの幸運を素直に祝えないのか、ガメ、きみにも嫉妬という気持があるとは知らなかった、と言う。 … Continue reading

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こちらを見ているひとたち

   会議が始まる前に、窓際に立って外を見ていたかと思ったら、傍らのひとに「きみ、あれは誰のクルマだい?」と訊いている。 あれはP.K.のクルマですね、と訊かれた若いひとが答えると、そうか、 あの男に仕事を任せるのはやめよう、と、ひとりごとのように述べているのだった。 まだ駆け出しも駆け出し、駆け出して蹴っ躓いてよろめいたりしていた若い冷菜凍死家だった私は、見ていて、「これは、こわい」と考えていた。 どんなクルマだったのかは、座っているところから見えなかったが、ベントレーなのかなんなのか、このFという、そもそも自動車に関係したビジネスでキャリアを出発させた老人は、P.K.が乗り付けたクルマを一目みて、「この男はダメだ」と、あっさり判断をくだしてしまったのだった。 P.K.が、やや顔を紅潮させて、息せき切った感じで部屋に入ってくると、Fと握手して、いかにも「張り切って」プレゼンテーションを始める。 見ていて、やや饒舌だが、よく出来たビジネスモデルで、いわゆるコミュニティモデルと製品の既存のユーザーサイトを結びつけるアイデアも悪くはなかった。 Fを見ると、にこやかな顔で、要所要所では、深く頷いてもいて、プレゼンテーションのあとの質問も、決済は具体的にはどうするのか、コンテンツの開発の見積もりが甘いのではないか、というようなことだった。 見ていて、ああ、気が変わったのだな、とおもった。 ところが、そのあと、なにも起こらなかった。 まったく何も起こらなかったので、まるで、あの日の会議などなかったような錯覚に陥るほどだった。 仕事のemailを出して、アメリカなら、返事が返ってこないことはまずないが、連合王国は、やや習慣が異なって、emailの興味がないと、見知らぬ相手というわけでなくても、返信をださないことが、よくある。 アメリカの人が、あまりの非礼にびっくりしているのを何度か見たことがあるが、 なんのことはない、イギリスでは、案外ふつうのことです。 こう書いている自分も、ひどいが、emailの返事を出さないことは、よくある。 ただし、興味がない場合ばかりではなくて、興味があっても、ううううーんと考えているうちに、どんどんプライオリティが下がっていって、出せないまま終わってしまう。 もうひとつビジネス上の習慣というよりも平素の習慣でもあるが、相手に問題があると感じていても、なにも言わないのもアメリカ人とは異なる習慣で、expatでイギリスに来るアメリカ人は、これを怒って「イギリス人は不正直だ!」と述べて故国に帰ってしまう人がたくさんいる。 ことなかれ主義というか、外交官的であるというか、連合王国人のにこやかな顔にだまされると、ろくなことはない。 本人が言っているのだから、間違いはないのではなかろうか。 だんだん歳をとって甲羅を経ると、しかし、一般的な傾向としてイギリス的あるいは欧州的とは言えても、少しづつ形を変えて、この「黙ってみているひとの判断」がおおきく個々の人間の運命には影響していることが判ってくる。 ある種類の人たちは、本人は本人なりに考えて、工夫をして、自分を善人にみせたり、賢い人間にみせたり、小器用な人は、まるで自分が商品であるかのように、さまざまな見せ方を探究する。 例えばtwitterを開いて文筆家や政治家や芸能人、テレビタレントやスポーツ選手というような実名や公に広まった筆名や芸名で、広場の舞台のうえで、何事か演じてみせている人間でもないのにフォロワー数が1万人を越えるような人をみれば、やや話の程度を落として、いわば啓蒙的な話し方で、決まったマーケットに対して話しかけるやりかたを心得ていれば、小さなpopularityなどは、案外と簡単に手に入るのが判ります。(←James F. 除く) むかし、駆け出しの、そのまた前の駆け出しもしないところで、世界を観察していて、まるでmolecular association(分子会合)でもあるように、善い人間は善い人間同士、聡明な人間は聡明な人間同士、モラルを欠いた人間はモラルを欠いた人間同士が、集まってグループというよりは、もう少し結合が強い、やはりassociation(会合)というのがしっくりくる結び付きをもって仕事や生活をする傾向が強いことを発見して、おどろいてしまったことがある。 類は友を呼ぶ、birds of a feather flock togetherというようなことではなくて、まるで初めて出会う前からお互いを探していたかのような結び付きにみえるひとたち。 その不思議さを考えて、「いつか、どこかで」という記事を書いたこともあります。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/04/28/itsuka/ 日本語での怒り方は、最後まで下手だった、というか、twitterで失礼な人間に出会うと、自分がやったことには結果が返ってくるのだということを教えるために怒ることになるが、現実生活では、ぶん殴ってしまえばすむ、卑劣な相手に限って、言葉によって相手に彼もしくは彼女の卑劣さ、心根の卑しさをわからしめることは難しくて、こういう人たちは決まったパターンがあって、自分で相手を侮辱しておいて、自分が被害者のような顔をするのに長けている。 最近あらわれた人などは狡猾で、知らない他人を貶めるという妙な技術に長けているので笑ってしまったが、いつもは連絡がない、以前に日本語ブログで知り合った精神科医の女の人からemailが届いて 「このひとは、多分、ヒステリー性人格の典型ですね。どんな手を使っても自分に注目を集めることが基本となっている人格で、教科書にあったように『感情的なものはいっさい排して事務的に対応する』のが基本です。 普通の人が応対しても狡猾さの点で勝てませんよ(笑)」という。 他にもemailやtwitter上のダイレクトメールが届いていて、 「自分の業界なので、少し判りますが、ガメ、こういう人間はきみが荒っぽい言葉を使った怒りのツイートをtwitter社に連絡して、24時間サスペンションになる新しいルールを悪用する。あのね、バラバラに送るらしいよ。ちゃんと24時間測ってるんだよ。悪いことは言わないから、やりとりがあったツイートは、まとめて、いっしょくたに削除しておかないとダメだよ」と書いてある。 … Continue reading

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