こちらを見ているひとたち

   会議が始まる前に、窓際に立って外を見ていたかと思ったら、傍らのひとに「きみ、あれは誰のクルマだい?」と訊いている。
あれはP.K.のクルマですね、と訊かれた若いひとが答えると、そうか、
あの男に仕事を任せるのはやめよう、と、ひとりごとのように述べているのだった。

まだ駆け出しも駆け出し、駆け出して蹴っ躓いてよろめいたりしていた若い冷菜凍死家だった私は、見ていて、「これは、こわい」と考えていた。
どんなクルマだったのかは、座っているところから見えなかったが、ベントレーなのかなんなのか、このFという、そもそも自動車に関係したビジネスでキャリアを出発させた老人は、P.K.が乗り付けたクルマを一目みて、「この男はダメだ」と、あっさり判断をくだしてしまったのだった。

P.K.が、やや顔を紅潮させて、息せき切った感じで部屋に入ってくると、Fと握手して、いかにも「張り切って」プレゼンテーションを始める。

見ていて、やや饒舌だが、よく出来たビジネスモデルで、いわゆるコミュニティモデルと製品の既存のユーザーサイトを結びつけるアイデアも悪くはなかった。
Fを見ると、にこやかな顔で、要所要所では、深く頷いてもいて、プレゼンテーションのあとの質問も、決済は具体的にはどうするのか、コンテンツの開発の見積もりが甘いのではないか、というようなことだった。

見ていて、ああ、気が変わったのだな、とおもった。

ところが、そのあと、なにも起こらなかった。
まったく何も起こらなかったので、まるで、あの日の会議などなかったような錯覚に陥るほどだった。

仕事のemailを出して、アメリカなら、返事が返ってこないことはまずないが、連合王国は、やや習慣が異なって、emailの興味がないと、見知らぬ相手というわけでなくても、返信をださないことが、よくある。
アメリカの人が、あまりの非礼にびっくりしているのを何度か見たことがあるが、
なんのことはない、イギリスでは、案外ふつうのことです。

こう書いている自分も、ひどいが、emailの返事を出さないことは、よくある。
ただし、興味がない場合ばかりではなくて、興味があっても、ううううーんと考えているうちに、どんどんプライオリティが下がっていって、出せないまま終わってしまう。

もうひとつビジネス上の習慣というよりも平素の習慣でもあるが、相手に問題があると感じていても、なにも言わないのもアメリカ人とは異なる習慣で、expatでイギリスに来るアメリカ人は、これを怒って「イギリス人は不正直だ!」と述べて故国に帰ってしまう人がたくさんいる。

ことなかれ主義というか、外交官的であるというか、連合王国人のにこやかな顔にだまされると、ろくなことはない。
本人が言っているのだから、間違いはないのではなかろうか。

だんだん歳をとって甲羅を経ると、しかし、一般的な傾向としてイギリス的あるいは欧州的とは言えても、少しづつ形を変えて、この「黙ってみているひとの判断」がおおきく個々の人間の運命には影響していることが判ってくる。

ある種類の人たちは、本人は本人なりに考えて、工夫をして、自分を善人にみせたり、賢い人間にみせたり、小器用な人は、まるで自分が商品であるかのように、さまざまな見せ方を探究する。
例えばtwitterを開いて文筆家や政治家や芸能人、テレビタレントやスポーツ選手というような実名や公に広まった筆名や芸名で、広場の舞台のうえで、何事か演じてみせている人間でもないのにフォロワー数が1万人を越えるような人をみれば、やや話の程度を落として、いわば啓蒙的な話し方で、決まったマーケットに対して話しかけるやりかたを心得ていれば、小さなpopularityなどは、案外と簡単に手に入るのが判ります。(←James F. 除く)

むかし、駆け出しの、そのまた前の駆け出しもしないところで、世界を観察していて、まるでmolecular association(分子会合)でもあるように、善い人間は善い人間同士、聡明な人間は聡明な人間同士、モラルを欠いた人間はモラルを欠いた人間同士が、集まってグループというよりは、もう少し結合が強い、やはりassociation(会合)というのがしっくりくる結び付きをもって仕事や生活をする傾向が強いことを発見して、おどろいてしまったことがある。

類は友を呼ぶ、birds of a feather flock togetherというようなことではなくて、まるで初めて出会う前からお互いを探していたかのような結び付きにみえるひとたち。

その不思議さを考えて、「いつか、どこかで」という記事を書いたこともあります。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/04/28/itsuka/

日本語での怒り方は、最後まで下手だった、というか、twitterで失礼な人間に出会うと、自分がやったことには結果が返ってくるのだということを教えるために怒ることになるが、現実生活では、ぶん殴ってしまえばすむ、卑劣な相手に限って、言葉によって相手に彼もしくは彼女の卑劣さ、心根の卑しさをわからしめることは難しくて、こういう人たちは決まったパターンがあって、自分で相手を侮辱しておいて、自分が被害者のような顔をするのに長けている。

最近あらわれた人などは狡猾で、知らない他人を貶めるという妙な技術に長けているので笑ってしまったが、いつもは連絡がない、以前に日本語ブログで知り合った精神科医の女の人からemailが届いて
「このひとは、多分、ヒステリー性人格の典型ですね。どんな手を使っても自分に注目を集めることが基本となっている人格で、教科書にあったように『感情的なものはいっさい排して事務的に対応する』のが基本です。
普通の人が応対しても狡猾さの点で勝てませんよ(笑)」という。
他にもemailやtwitter上のダイレクトメールが届いていて、
「自分の業界なので、少し判りますが、ガメ、こういう人間はきみが荒っぽい言葉を使った怒りのツイートをtwitter社に連絡して、24時間サスペンションになる新しいルールを悪用する。あのね、バラバラに送るらしいよ。ちゃんと24時間測ってるんだよ。悪いことは言わないから、やりとりがあったツイートは、まとめて、いっしょくたに削除しておかないとダメだよ」と書いてある。
過去に政治的発言がおおいアカウントの人は、永久凍結されてしまった人がおおいが、例えば、9つ「ルール違反」のツイートがあると、それを5つ、ひとつ、ひとつに分けてtwitter社に送るとスリーストライクアウトで永久凍結になるようだと書いてあって、そういうことをするのが楽しみの人がいるんだよ、と書いてあるので、へええええー、あったまいいー、と感心してしまった。

なんだか、長い、心がこもったemailにも、ぜんぜん返事はださないし、twitter でいえば、友達の考えさせられるツイートを見ると、うーむ、こんなことを読んでしまうと繰り返し考えこんでくたびれる、とおもってフォローを外してしまうというええかげんさなので、ふだん付き合いがない人がおおいが、なんだかトラブルがあると、どっといろいろなものが来る。

「じっと、やっていることを見ている人」というひとびとがいて、そういうひとたちが、この社会を仕切っているのだ、ということをあらためて考えたのは、卑小なことだが、つまりは、そういうことです。

神様というのは、ひどい言い方をすると便利な存在で、自分の行動の是非を判断するときに「神様なら、どうおもうか?」と自問すれば、それで答えが出てきてしまう。
神様が怒りそうなことは、やらなければいいだけのことで、あんまり自分の頭では考えないですむ。

あるいは神様ならば、こういうことをこっちがやると喜ぶだろう、と思いそうなことを、ときどき思い出してやっていれば、あんまり「おれの人生は、いったいなんなんだ」と悩む必要もなくてすんでしまう。

ところが神様はこちらがいくら善行をつんでも係長から課長に昇進させてくれたりしないので、実利主義の面々にとっては、張り合いがないことだが、実は神様の工作員というか、「こちらをじっと見ている人」というのが、ちゃんといるものであるらしい。
なにもいわずにみていて、心のなかで、「この人間はダメ」「この人は、いいな」
と呟いているもののよーです。

世の中には、といって、漠然としすぎていれば、社内でもいいし、学内でもいい。
自分では、うまくやっていて、あまつさえ懸命に仕事をやってさえいて、ひとうけもよいのに、なぜか「最もすぐれた集団」に近付いていけない、と感じている人がいるように見受けられる。
最もすぐれた集団、という言葉は、ちょっと嫌らしいので、英語の伝統表現にしたがって「自分が入れないクラブ」ということにしよう。
「おれは自分が入れるクラブになんか入りたくないんだ!おれが入りたいのはおれがメンバーになれないクラブなんだよ!」と映画のなかで絶叫したのは、たしか、グルーチョ・マルクスだったが、なぜか自分が入りたいクラブには、自分に招待状を寄越しそうな気配さえ感じられない。

どうしても、ほんとうに会いたい人間には会えないで、おれの一生は終わってしまいそうだ。

誤解してはいけないが、ここでクラブといい、会いたい人間というのは、有名人であったり、オカネモチであったりする人、という意味ではありません。

なぜ、こんなにこのひとは自分の気持ちがわかるのか?
なぜ、このひとが言葉にする世界は、こんなにわかりやすいのか?

と訝る気持になる、例のひとたちや、
世の中に、そんな考え方があったのか!と、まるで、見慣れた自分の町を宇宙ステーションから見たような、ま、ときには地底から見たような場合もあるかもだけど、それはそれとして、まったく思いもかけない角度から見慣れた日常をみることを教えられて、ぶっくらこいてしまう、あの人達のことです。

どうも、この世界は、「絶対批評精神」とでも呼びたくなるような、言葉の確たるちからに支えられたひとたちの視線によって支えられているらしい。

ほら、あそこに立っているあのひと、こっちを見ているでしょう。
かすかに微笑して、やさしい眼差しで、こっちを眺めている。

あの場所へ、歩いていかなければ。

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1 Response to こちらを見ているひとたち

  1. mimimijinko says:

    ガメさん、こんにちは。
    私はこの話を読んで「こちらをじっと見ている人」として、ガメさんとよくツイッターで交流しておられる日本人のお友達の方々のことを思い浮かべました。日がな政治のことを叫んでいる人たちと違って、政治の話も時にはするけれど、まずそれぞれの生活というものが先にあって、それを大事にしている人たち。イデオロギーとは違う、その人の身体の中から出てきたような自然な言葉を喋っている人たち。自分なりのものの感じ方を持っている人たち。ガメさんの周りにはそういう人たちが集まっている。そういう、おそらくこの日本の“普通”の組織の中では珍しい、“良心的な変わり者”の人たちが存在していて、それぞれ暮らしている、ということがガメさんとお友達の方々との交流を見ていると感じ取れます。そのことは、私が日本で暮らしていく上での心の支えになっています。

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