Monthly Archives: November 2018

語れば今も

暇があると、頬杖をついて、自分の好きなもののことを考えて、なんだか、うっとりしてしまうのは、子供のときからの癖であるとおもう。 誰もいない台所で、カウンターに肘をついて、虚空に目をおいて、にやにやしていたりするので、目撃されて、お手伝いの人に不気味がられたりした。 どんなことを考えているのかというと、十枚くらいも積み重なったパンケーキの、一枚ごとのそれぞれにバターが塗ってあって、トップにはカリカリに焼けたベーコンが載っていて、載りきれなくてパンケーキの周りのお皿にも散らばっていて、そのカリカリカリなstreaky baconの上から、たっぷりメープルシロップがかかっている。 よく見ると、向こう側にはフライパンで焼いた縦に切ったバナナが良い匂いをさせていて、蠱惑的な湯気を立てている。 脇の皿には当然、半熟に焼いたフライドエッグがふたつあって、パンケーキを上から食べていって、3枚目くらいになると、フライドエッグを上に載っけて、フォークの背でむぎゅっとつぶすと、黄身があふれてきて、パンケーキにしみとおっていって、興奮するくらいおいしい食べ物になる。 あまりのおいしさに、想像の世界にすぎないことを忘れて、目をぎゅっとつむります。 よく考えると、おもしろいことだが、子供のときは、現実の朝食は、たっぷりミルクが入った紅茶だったのに、おなじ子供の頃でも、想像のなかではコーヒーで、しかも、その頃から大好きだったラテやカフェ・コン・レチェではなくて、アメリカのダイナーで出てくるような「レギュラー・コーヒー」だった。 いま書きながら理由を考えると、多分、子供のときに初めてアメリカを訪問したときから、どういう理由によるのかダイナーというものが好きで、イリノイやテキサスの田舎の町を訪ねたときは無論のこと、マンハッタンでさえ、親たちにせがんで、ダイナーに必ず連れて行ってもらった。 おとなになってから考えてみると、あれはダイナーと行っても、観光名所みたいなところであって、いわばなんちゃってダイナーだが、カーネギーホールのすぐそばの Brooklyn Dinerという有名な店で、観光名所とはいいじょう、パンケーキもチキン・ポット・パイも、好物のアメリカ食べ物が、やたらとおいしい店で、おとなになってからも、いまでも、なんど足を運んだかしれない。 https://www.brooklyndiner.com そのダイナーの幸福な朝の記憶が強く影響していたからで、子供に刺激が強い幸福を与えると、天使が翼でつくった影のように脳髄の表面に投射されて、思考そのものに影響を与えるようになる良い例なのではあるまいか。 自分が一生というものに対して、ほぼバカみたいに楽観的で、テキトーであって、なんだか紆余ったり曲折したりしても、結局は大団円のめでたしめでたしになるに違いないというような、はなはだしくシアワセなアイデアを持っているのは、もしかすると、子供のときに遭遇した幸福な時間が、あまりに強烈だったからかもしれません。 薬物に中毒して脳が変性したりするのはヤクチュウだが、幸福に中毒して脳が機能障害を起こすのは、なんと言うのだろうか。 シアチュウ、かしら。 この頃、また、日本のことをよく考える。 瘧が収まったというか、なにかが心からポロリととれるようにとれて、記憶のなかの異文化に対しても紐帯というものがあるとして、その紐帯が切れてしまって、別にうんざりしたわけでもなく、2010年を最後に日本に滞在しようと思わなくなった最大の理由である放射性物質の蔓延とも関係がないが、いまでは、どうして、ああも日本に興味があったのか判らないし、特にネットを通して日本の文化や社会のforeignに感じられる部分がおおきくなって、なんだか自分とは縁がない国だったなとおもって、再訪するという気持もなくなってしまったが、それは悪いことではなくて、正常に復しただけであるというか、日本語で考えることに集中するあまり、日本人みたいな気持になってしまって、日本語の感情が血流をめぐりはじめる、ということがなくなって、少し輪郭がぼけて、色が褪せた、現実なのか幻影なのかも判然としない、姿の美しい日本が記憶の霞の向こうに立っているだけです。 上田の別所温泉に安楽寺という曹洞宗の寺があって、八角三重塔で有名だが、クルマを止めて門から入ろうとしたら、寺の人が来て、もう閉める時間なのだという。 しばらく考えていて、外国人のふたりづれで、ほんとうは軽井沢からやってきただけだったが遠くから遙々来たのに気の毒だと誤解したのでしょう、 特別に開けますよ。 それにね、あなたがたは、とても運が良い。 明日からはハイシーズンで、拝観料が上がるんです、と言って笑いながら、一揖という言葉が相応しいお辞儀をして、去って行った。 門から入って、曲がった瞬間に、タイムワープすることになっている。 瞬間的に空気が鎌倉時代のものになるような錯覚が起きる。 鎌倉にも断片的には、残っている。 例えば夕暮れの日野俊基の墓や、やはり夕暮れの名越えの切り通し、釈迦堂や朝比奈の切り通しに残っているような、あの「空気」が、この八角三重塔のある境内には、まるのまま、おおきな塊になって残っていて、唖然とした気持になって、やがて、粛然とする。 普段は、プロの写真家が舌をまく腕前で、素晴らしい写真を撮るモニさんが、カメラを手にもったまま、塔をみあげているので、 「写真、撮らないんですか?」と聞くと、次に来たときに、たくさん撮るからいい、と述べて、全身で境内の鎌倉時代のエーテルを吸収しようとしているかのように、身動きひとつせず立っています。 日本には異界が、そこここにある。 佐久の天狗山トンネルというトンネルを抜けると、そこにまったく近代とは相貌が異なる異形の世界があって、どこまでも黄金の稲穂の海が広がっていて、これが現実だろうかとおもうほど美しい風景をつくっているのは、前にも述べたことがある。 クルマを止めて、誰もいない稲田のまんなかに立っていると、風がふきぬけていって、日本人の特別な、宗教的と呼びたくなるほどの米への情熱をこめて丹精を込めてつくられた稲穂が、ざああーという音を立てて、日本の美しさというものが、結局は、人間の将来への希望をつかみとるための努力の結晶なのだということが、理屈ではなくて判る。 あるいは、鎌倉は、過剰なくらいの量の死が、あの小さな町に堆積していて、朝比奈の入り口からもう、山の斜面から墓地が町を見守る姿が見えて、そこここに墓地があって、円覚寺にも妙法寺にも、たくさんの死が豊蔵されている。 死の美しさの発見は、日本の人の文化上の偉業であるとおもいます。 西洋人が見いだした死の美しさは死者の無軌道を手にすることに憧れた、言ってしまえばオカルト的なものであることを免れないが、日本人は生よりも正統な美を死において見いだした。 侍の自死の昔から、日本人が何かといえば死にたがるのは、生の汚濁から自分の魂を救済するための死への衝動だとおもうが、そのほかに、もう物質に煩わされずにすむ、死というものの不可触の永遠の美に憧れるからではないだろうか。 日本の怪談の特徴は、最近こそ人間の悪意を下敷きにした救いのない恐怖が売り物であるけれども、それは、「呪怨」くらいから始まった新しい傾向で、もともとは、恐怖よりも、美しく、哀れで、人間という儚い存在が精一杯に永遠というものに反抗する姿を描いたものが多いのは、小泉八雲の手を通じて、記録された小泉節子の数々の口承の物語が伝えている。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2018/05/31/thesweetestlittlewoman/ 自分にとって日本は何だったのだろう? … Continue reading

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メトセラはかく語りき 金銭編

この数年でも、びっくりすることがいくつかあった。 オカネのことで言えばビットコインで、ピラニアの群れのなかに投げ込まれた経済の未来というか、人間のすさまじい吝嗇のなかに投げ込まれて、あっというまに本来の仮想通貨から、本質はチューリップでもNTT株でも、なんだって同じのただの投機対象にされて、よってたかって、機能をひんむかれて、もみくちゃになって、陵辱されたあげく、「けっ、ただの売女じゃねーか」ということになって、泥まみれの姿で市場のドブに放り込まれておわってしまった。 その結果は、悲惨なもので、だいたいUSDで8000くらいのところで落ち着いたら、機能させようと待ち構えていたひとびとも、ほぼ仮想通貨としてのビットコインは、少なくとも暫くのあいだは、諦めざるをえなくなった。 「数学理論の裏付けがある経済市場」という人類の夢は、人間の貪欲さに負けて、また数十年、遠のいてしまったことになる。 肥沃な農土に変わるはずだった荒野に、なすすべもなく、また立って、皆がああでもないこうでもない、まるで経済を知っているような顔をつくるのが上手な順にテレビに顔を売ったりして、いわば市場の「鞘稼ぎ」に精ををだす学者芸人や、やり手ファンドマネージャーの、愚かな顔を観なければならないのかとおもうと、うんざりどころではない。 昔から有名な実験があって、これは、いまも繰り返し行われて、結果は同じだが、ファンドマネージャーならファンドマネージャーの「優秀な専門家」がつくったポートフォリオと、チンパンジーにダートを投げさせてつくったチョーテキトー・ポトフォリオを較べると、たいした変わりが見られない、とプリンストン大学教授のBurton Malkielが述べて、その現実の報告が記されている著書、 A Random Walk Down Wall Streetがベストセラーになったのは1973年だった。 2011年になると、この、長い間信じられていたリサーチの結果に、一群のひとびと、例えばResearch AffiliatesのCEO、Rob Arnottが異議を唱える。 「Burton Malkielの説は正しくない。我々は異なるインデックスで、もっと慎重に検討してみたが、チンパンジーが投げるダートでつくったポートフォリオのほうが、トップの専門家たちがつくったポートフォリオよりも、遙かにおおくの収益を生んでいることが確認された」 チンパンジーのほうが、年収数十億円のファンドマネージャーや銀行員たちよりも、すぐれた市場予測をすることは、それ以来、何度も何度も確認されている。 数学と経済市場の知識があって、このブログをずっと読んで来てくれた人は、ところどころ「えっ?」とおもう箇所に遭遇して、胸がキュンとしたに違いない、もしかしたら発狂しそうになったかもしれない。 そうでなくて、あんた、ウソをついているんでしょうが、って? あのね、そんなことを言うなんて、きみ、日本人なんじゃないの? わしは、もともと勉強して、使い途がなくなった数学の趣味が昂じて投資を始めたのは、前にも書いたことがある。 元金は、多分、例えば、きみが毎日つかっているに違いないもののなかに入っている小さな小さなものについてのアイデアであったりして、中松博士というか、発明でつくった。 つくった、というよりも、「できた」といったほうがいいか。 ともかく、数学というよりも、その数学の広い地平のなかの幾何学という分野に基づく知識によった、おもいつきで、なるほど、こうやるといいのね、という手管を編み出して、投資の第一段階は、それに拠って、ぬははは、になったのだった。 2010年になると、「これから7年は、子育てとオカネモウケとオベンキョー三昧になるのじゃ」と宣言して、地球の辺境、ニュージーランドに立てこもって、といっても、二度ほど、大規模な欧州遠征をやったが、だいたいはオーストラリアとニュージーランドの辺境ブラザースのふたつの国にこもって、ひきこもり青年をやっていた。 小さいひとびとは、折角、不良にしようと尽力した父親の願いと努力も虚しく、母親似のドマジメ人間になって、オカネモウケは、バブル景気のブースターがついて、なんだかアホらしいくらい資産が増えてしまって、オベンキョーは、 語学をはじめ、やっぱりアホなんじゃんな短足な進歩を遂げた。 念の為にいうと、ここで、「短足な進歩」というのは「長足の進歩」というイメージ的に把握しにくい日本語表現のために、いまわしが発明した反対表現です。 みっつのなかで、いっちゃん簡単だったのは、オカネモウケだった。 既存の数学で応用できることは、オカネの世界では極端に少ない。 不動産については、あれこれ、理論を立てて、その理論に従って、むやみやたらと儲かったが、振り返って考えてみると、あれは、理論で儲かったというのは単なる妄想で、もしかして、ただのバブル景気だったんじゃないの? と言われると、そうなような気がしなくもないが、なあーに、オカネモウケというような反知性的な行為においても、自分が頭がいいせいで儲かったということにしておいたほうが、朝の目覚めがえらそーになってよいのです。 え? その秘密を教えろって? 伊峡のラーメンをおごってくれたら教えてあげよう。 チャーシューは3枚ないと嫌だからね、 なんちて。 冗談です。 教えませんよ。 … Continue reading

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50 beaches

NZ出身の世界的なデザイナーKaren Walkerは、アメリカ雑誌のインタビューで何故活躍の主舞台がNZ外の世界に移ったいまでもオークランドに住んでいるかを訊かれて「オークランドはbeachの町なのよ」と述べている。 タカプナ・ビーチのように誰でもが知っているビーチもあれば、ここでは名前は書かないほうがいいとおもうが、ワイヒキ島を初めとするハウラキの島にあるオオガネモチがヘリコプターで訪問するビーチがある。 一方にはKaren Walkerが悪戯っぽく笑って述べる、「わたしの秘密の浜辺」と呼ぶような、小さな、見つけるのがたいへんなビーチもあります。 ほら、この世界のどんなことでも、視点を変えると、まったく異なって見えること、というのがあるでしょう? オークランドは、街として、視点を移動させて、異なるところから眺めると、まるで異なって見える街の典型で、陸地だけを移動して眺めると、どこから見ても「ポケット版都会」だが、船を出して、海の上、ハウラキガルフから、海に付属した街として眺めると、海から派生した、世界でゆいいつの都会で、陸上にあるのに、海の都会とでも呼びたくなる街である。 ポリネシア人たちの夢は、オークランドに出て、自分達が「ポリネシアの首都」と呼ぶオークランドで幸福な暮らしをすることで、いつかその話をしたら「ポリネシアの首都www」と冷笑する失礼なひとびとがいて、びっくりしたが、当のポリネシア人たちやニュージーランド人たちは、海の民が「ポリネシアの首都」と呼ぶことに誇りをもっていて、この小さな都会が、世界でゆいいつの「海の民の都会」であることを特別なことに思っている。 モニとわしはレミュエラというところに住んでいるが、歩いて5分くらいのところにはホブソンズ・ベイという湾口があって、ここは、マングローブが繁茂する内陸湾です。 マングローブを縫って、木製の散歩道が隣のOrakei Basinまで続いている。 モニとわしは、レミュエラのクリケットグラウンドの草クリケットを、ポットの紅茶を飲みながら観戦するのに飽きると、クルマにピクニックバスケットを戻して、ボードウォークを歩いて、3キロくらいか、隣のBasinまで歩いていきます。 いつか、この話を書いたら、ああ、わたしもおぼえている、なつかしい、と述べる日本人の女の人がいたが、このOrakei Basinは、「千と千尋の神隠し」に出てくる水を渡る電車にそっくりの線路があるので有名で、特に満潮のときには、線路が海面にひたひたで、まるで映画から抜け出してきたように、ついこのあいだまではディーゼルで、いまは電車になったCBD行きの電車がヘッドライトで水面を照らしながら走っていく。 オークランドの人気があるカフェは、朝の5時半から開いている。 いまはスイス人の家族にビジネスを売って、どこかへ行ってしまったが、むかしタカプナで「ラテン・クオーター」というカフェをやっていた家族は、 「店がいちばん混むのは午前6時前ですね」と述べて、どうかすると午後4時くらいまで眠りこけているモニとわしを、びびらせた。 でも言われてみると、オークランドのビーチは、どこも、晴れた夏の朝には、午前5時には人が混んでいて、なるほどとおもう。 モニさんとわしは、もとより、そんな早起きは望むべくもないので、猫さんたちや小さい人々に起こされて、渋々起き上がる午後に、朝食を食べて、夜になってから、家から近い、例えばミッションベイやコヒマラマ、セントヘリオスの浜辺へ出かける。 あるいはマリーナへ直行して、ボートを出します。 ボートを出すと、向こう側には、最近はすっかりバブルで明るくなったオークランドのCBDの町並が見えて、子供に返って、友達が住んでいる高層アパートの灯りを特定して、「おお、灯りがついているね」 「灯りがいま消えたのは、最近の愛人の噂からして、怪しいのでは」と、nosyな悦びにひたっている。 そうして、真夜中になって、ワインが2,3本からになって、吊り上げた鯛やヒラマサをグリルして、夕食を終えると、沖に錨を下ろして、むかしの海賊よろしく、ディンギイを出して、そおっと浜辺に上陸する。 真っ暗で、誰もいない浜辺で、モニさんとわしと裸になって立っていて、自然と近しい生活をする自分達の幸運を祝福します。 内緒だけど、誰も来るわけがない真の闇の浜辺や、ボートの甲板でお互いの肉体に深入りする解放感を、きみにうまく説明する言語を、わしは持っていない。 月のない夜の空には、莫大な星空が広がっていて、この記事では何度も述べた、南半球に特徴的な頭上を横切る、神様が馬車で通ったばかりとでもいうように煙りたったミルキィウェイが空を横切っている。 誇張でもなんでもない瀑布のような星の光で、人間という生き物が、本来、どんなものを目撃しながら自分たちの文明を育んで来たかが判ります。 なんだか少し疲れた顔で、目の下に隈をつくったような、途方もなく美しい横顔のモニさんが、服を身につけながら、 「ガメ、寒くなってきたから海に帰ろうぜ」と述べている。 わしのほうはモニさんが無意識に言葉にして述べた「海に帰る」というアイデアがすっかり気に入って、ディンギイを用意している。 ホンダの2馬力。 赤と緑の航海灯を頼りに沖に舫っているボートに戻る。 別に、そんなことばかりやっていても、日本語で、きみに話しかけることをやめやしないけど。 まだ、もうちょっと、話していたい。 海から浜辺の人に話しかける言葉で。 日本語という、この美しい言葉で。

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破壊せよ、と神は言った II

世界が、また壊れ始めている。 社会を支配する層のやりかたが巧妙になるにつれて、枠組みががっちりして、情報の交換が速度においても量においても数百倍になり、自分達の支配の体制を維持するための定石もつみあがって、容易なことでは世界は破壊されなくなっていた。 何年に一回だったか、もう忘れてしまったが、ヴィクトリア朝時代には、黄河の氾濫のようにして、数年おきに市場が崩壊し、恐慌が起きていた。 繁栄の頂点にある経済人は没落し、混乱を利用することに長じた若者たちが、社会の壁にかけられた、炎に包まれた階梯を駆け上って、次の世代の支配層になっていった。 ポール・ボルカーくらいを最後にして、支配層を知的な腕力で抑えつける力をもった財政家はいなくなった。 後任のアラン・グリーンスパンを見れば明らかだが、銀行家を中心とする、いまの病んだキャピタリズムに阿諛追従して、少しでもおこぼれを預かるだけの人間が、「東部エスタブリッシュメント」の実体になっていった。 繁栄は安定すると冨の不均衡を生む。 オカネをつくることに達者な人間が手足を伸ばして、のびのびと悪辣なプランを実行するようになれば、オカネの理屈に疎い人間などは、ひとたまりもない。 子供のころ、ニュージーランドの新聞のトップニューズで、日本でいえばNTTだろうか、テレコム(いまのスパーク)のCEOが年収1ミリオンを超えて、これは日本円に換算すると、6000万円弱だが、「会社の社長が、そんなに高給をとっていいのか」と社会問題になったことがあった。 一方では、両親の友人たちには、年収が数億円に満たない人は少なかったので、子供心に、ニュージーランドは、なんて良い国だろう、とおもったことがある。 そのビンボ人王国ニュージーランドでさえ、21世紀に変わる頃から、どんどん豊かになり、一方では、貧富の差がどんどん開いていって、近所の商店街の交差点に立っていると、ポルシェやレンジローバー、なぜかニュージーランドでは人気があるマセラッティが洪水のように通りを埋めていて、隣のおばちゃんのスーパーへの買い物ぐるままで、いつのまにかBMWからポルシェに変わっているが、30分もクルマで南へ行くと、あちこちにトンガの国旗が翻る通りに、昼間から酔っている若い男や、半ば公然とドラッグを取引している中国系人の売人とポリネシア系人の顧客の姿があって、貧富の光と影は、歴然としている。 ニュージーランドは1900年代から、1930年代くらいまでは、ひとりあたりの年収が世界で1,2位を争う、豊かな小国だったが、宗主国イギリスの没落とともに経済の基盤が弱くなって、70年代になると、経済崩壊という呼び方が正しいような経済の状態になっていった。 80年代になると、隣のビッグブラザー、オーストラリアと共に、ドビンボになって、日本へ出稼ぎに出たりして、かろうじて食べていくことが出来るていたらくだった。 余計な事を書くと、その頃から、いくらなんでも日本に経済を依存するのは、まずいんじゃないの?というひとはたくさんいて、と書くと、え?そんなの人種差別じゃないか、と早速、身体を乗り出すようにして文句をいうひとがいそうだが、そうではなくて、なにしろ、観光客の懐をあてにしてカジノを開いてみると、客は日本人だらけで、普通の日本人ならばいいが、ハイローラーは、暴力団ばかりで、負けるとテーブルに飛び乗って、褌ひとつになって刺青をみせてすごむは、椅子を蹴り上げて負けた金を返せと喚きだすは、しまいにはオランダ人の女のマネージャーに、「おまえと一発やらせれば、許してやる」と言い始めるはで、日本人のカネモチといえば、「とんでもない人」というイメージが出来ていたので、どうもあの国はオカネはあるけれども常識の持ち合わせはないらしい、あんなのについていくと、ろくなことはない、と額を集めてヒソヒソしだした。 いつものこと、というべきで、アングロサクソンの、常に変わらぬ命題、 「オカネは欲しいが、異人種・異文化人を見るのは、鬱陶しい。なんとか、オカネだけをまきあげて、国にお帰り願う手はないか」と鳩首を集めて談合しても、なかなか妙案は出なかった。 そのうちに、50年代のフランス人くらいが盛んに警告しだした、 「諸君、知っておるかね、このままいくと、人口は減少して、しかも老齢化していく。別に人間が減ってもいいけどね、並ばなくてすむし。 でも、減少の過程では地獄の不景気が待っていると予測される」 人口減少問題が予測されるようになって、出生率の統計を見れば、なるほど60年代になると、ぽっちゃりした釣り鐘型の人口ピラミッドになるのはアホでも判るので、慌てて対策を練りだした。 いま考えると、笑ってしまうが、当時のフランスは、まだ避妊が違法行為で, 英語諸国と異なって主な避妊方法は経口薬だったが、この経口薬を含めた避妊が合法になるのは1967年です。 それなのに、簡単に想像がつく手術器具のカチャカチャいう音を連想させる不可視の闇が介在することによって、出生率は減少の一方だった。 誰かが、「もう、こうなったら移民を受けいれるしかない」と言い出したが、 欧州人は、なにしろ人種差別の総本山なので、抵抗が強かった。 じゃ、おまえは褐色の人間を見たくない一心で我々の偉大な祖国が滅びてもいいというのか、野蛮人か、おまえは、というような議論が、町のあちこちで、侃々諤々、家庭のなかでも、諤々侃々、議論のはてに、やむをえないから移民への門戸を開こう、ということになっていまに至っている。 フランスが嚆矢で、あの人種差別主義者ぞろいの尊大なフランス人でさえやれたというのは、たいへんな先例で、英語国は揃って移民政策による人口問題解決に傾いていった。 やーい知能が足りないアイルランド人、とアイルランド人の流入が続く間じゅう罵り、今度は続いて大流入を始めたイタリア人を見て、おまえらはそれでも人間か、おまえらの油でべったりした髪をみると、ゴキブリみたいで胸くそが悪くなる、 新しい移民集団が入ってくるたびに律儀に差別しながら、もちろん、60年代には移民王国になっていたアメリカは、最後の移民グループである東欧諸国人をのみ込んだくらいのところで、WASP時代とは異なる、新しい支配層を築き始めていた。 なんだかチョーおおざっぱだが、そのくらいのところを出発点としているのが、いまの支配層の文化で、だいたい東アジアを除外した世界の多文化を受け入れる、というのが正直な内面からみたルールだったでしょう。 そういう流れのなかではアフリカン・アメリカンは興味深い存在になっていって、アメリカの伝統の核のようなものは、実は、アフリカン・アメリカンが正統的に受け継いでいった。 例えば、シカゴへ行くでしょう? デパートの売り子さんが、わざわざカウンターのなかから出て、ドアのところまで広いフロアを横切って一緒に歩いて来てくれて、ドアを開けて、 「寒いから、風邪をひかないように気を付けないとダメよ。 今日は、わたしがすすめたセーターを買ってくれてありがとう」という。 あるいはマンハッタンの、いまはない安売りチェーンのLoehmann’sで、コートを買って、「ああ、いいよ、そんなに丁寧に畳まなくても、いま、ちょっと着ていくのに買っただけだから」といっているのに、 まるで母親であるかのように、 「あら、ダメよ。こんな素敵なコートじゃない。もっと、大事に扱わないとダメですよ」と述べて、まるで愛おしそうに、丁寧に丁寧に畳んで紙袋にいれてくれる。 そういう小さな仕草のようなことから、生活に対する堅実な考え方まで、いまではアメリカの伝統文化はアフリカ系人が受け継いでいる。 破壊は、おもいもかけない方角から来た。 … Continue reading

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万機公論ニ決スヘシ

日本語で、よく考え方の背景や、平たく言えば、ひととなりが判っている、少数の人間と議論することは出来る。 やる気になれば、日本語世界に骨を埋めるつもりで、たくさんの日本人に呼びかけ、話しかけることも出来るのではないかとおもう。 いっぽうで、日本語で広く議論を興して意見を交わすというのは、ほぼ不可能であるらしいことが、10年近くやってみて、よく判ってきた。 民族環境的に、日本人の知的能力が劣っているというようなことは全然なくて、なにもわしに言われて喜ぶ人はいないだろうが、民族まるごととしては、優秀で機敏な知性を持っている。 日本人は眼が悪いと昔から揶揄されて、眼鏡をかけた姿で描かれることが多いが、現実に日本人は近視が多いが、理由は簡単で、英語人に較べて圧倒的に多くの本を読むからだ、という。 むかし義理叔父の視力が落ちて、やってきていたニュージーランド、クライストチャーチのミラベルという町の眼医者さんに出かけて検査してもらったら、「北欧の湖のように澄んだ青い眼」をした、なんだか、おたおたしてしまうくらい美人の眼医者さんがあらわれて、どぎまぎして、縦書きで書いたみたいなヘンな英語を話してしまったといっていたが、この女医さんが、 「ニュージーランド人は、なぜ、眼がいいか知っているか?」というので、 牛乳をいっぱい飲むからですかね? とマヌケな答えを述べたら、 笑いもせずに、「ニュージーランド人は、まったく本を読まないからですよ」と述べたので、ぶっくらこいた、とひとつ話のように話していた。 ニュージーランドは伝統的に書籍の値段が高くて、わしガキの頃は、連合王国の本が、なぜか3倍の価格で売られていた。 あるいは、おとなの関心といえばラグビーばかりで、ラグビー以外にはこの国には、何もないのか、と子供のわしでも訝った。 日本には「文庫本」というものがあって、小林秀雄は常時10冊以上の本をあちこちのポケットに突っ込んで、年中、凸凹して歩いていたそうだが、そういうことが日本人の伝統で、義理叔父にしたところが、見ていると一日に4冊くらいは本を読んでいて、一緒に御茶ノ水の丸善に出かけたときには、「こんな棚の本は、ほとんどめぼしいのは読んでいて、買うものがない」と不遜なことを述べていた。 そんなバカな、という人がいるだろうが、このおっちゃんとも、付き合いが長くなると、案外ウソとはおもえなくて、このひとは、まるでこの世界の森羅万象のことごとくに通じているような人です。 ところが、このおっちゃんひとりなら、まあ、ヘンタイな人だろうと諦めもつくが、この人の友達にも、同じような読書ブルドーザーおじさんたちが、いくたりもいて、聞くともなく聞いていると、芭蕉の奥の細道の、どの宿で誰と会ったか皆が諳んじていたり、病膏肓に至って、サザエさんのマンガの一コマ目の絵と科白を述べると、誰かが4コマ目をおぼえているという具合で、衒学も極まれば、悪魔の集会に似てくる。 だが、そうやって知的好奇心は、なみなみならぬものがあるのに、 1 議論の前提となるべき汎的知識に欠けている 2 1の状態にあることに自覚がない のふたつの理由によって、日本語では「広汎な議論」というものが成り立たない。 どんなことにも歴史的経緯や、長い間、議論されて、そういう言葉を使いたければ「たたき台」になっている問題を討議するための議論の蓄積というものがあるが、 おもいつくままに挙げて、例えば神の存在を論じるのに、そもそも西洋語は絶対唯一神を前提とすることによって言語の体系が成り立ってきて、神様の台帳にお伺いを立てて、そもそも自分が直面している問題には、どういう態度で臨めばいいか、自分で確信できることを行動に移す、ということになっているのに、「日本人は神なんて信じていませんから」と述べて、そのくせ、軽々と、絶対神を前提とした西洋語から借用した概念を組み立てて、自分の相対性に満ちた、真理が存在しない思考法のなかで機能させようとする。 そういうことが判りにくければ、もっとバカバカしい例を挙げることだって出来て、前に瀬川深とかいう作家で医者だかなんだかの人がいちゃもんをつけに来て、 「英語でも遠回しに婉曲に書けば日本語とおなじ構造の文が出来るのに、この人はそれを知らないからニセガイジンである」と言いに来て驚いたが、受験英語構文だかなんだかのレベルで英語と日本語を比較してオベンキョーする受験生じゃあるまいし、言語比較の基礎の基礎になっている初歩知識もなくて、いったい、この人が卒業したという東京医科歯科大学とかいう大学のリベラルアーツでは、どんなレベルのことを教えていたのだろう、と訝しくおもう。 職業訓練校ではあるまいし、仮にも医科大学ならば、語学系か哲学系の講座があったはずで、講座があれば、どんなバカな学生でも、こんな幼稚なことを言うわけがない。 あるいは親切心が過剰に存在する我が友オダキンは、素粒子論研究者だが、オダキンが、物理の本を読んで勉強したという、オダキンが尊敬しているらしきおっさんと話をしていて、ところが、この人の物理論なるものがトンチンカンもいいところで、オダキンは、それでも素人にも漠然となら理解の手がかりになりそうな論法を用いて説明しようとしていたが、相手の反応は、「やはり、ぼくにはきみの議論には異論がある」で、あまりに日本的な光景で、オダキンには悪いが、ふきだしてしまった。 ひとつの言語世界について思いを巡らしているときには、他の言語世界の事情は案外と頭からまるごと欠落してしまうもので、これは、ある言語で熱心に考えるという行為のなにごとか本質を暗示しているとおもうが、そのせいで、「日本語人は」と日本語に限定して書いたあとで、友達に、「それは英語でも同じなんじゃないの?」と言われて、考えてみると、なるほど日本語世界に特殊なことではなくて、やべー、またやってしまった、と思うことはある。 でも、日本語世界の、議論の前提となる知識が欠落していて、知識が欠落しているということ自体に自覚がない、というはっきりした傾向は、やはり日本語世界全体に固有のもので、特徴的だと思います。 どうしてそうなるかということを考えるのには、日本語世界のなかで、上の、1と2から自由である分野を考えるのが最も考えやすくて、さっき言及したばかりで便利なのでオダキンが生きている物理の世界でいえば、この世界では、 1 議論の前提となる知識が常にアップデートされながら共有されている 2 共有されていない部分は、簡単に意識されるので、自分のほうから英語なら英語コミュニティへ乗り込んでいって補完する、というふうに自覚的に補綴されている という条件があるので、議論が成り立つ。 そうやって考えていくと、日本語世界は、現在進行形のマスメディアが伝える世界についての情報が日本の報道人によって恣意的に選択され編集されて、黒岩涙香版のLes Misérablesを読まされているのだというか、なんだか元ネタは同じだが、あがってきた記事は全然別のものというようなものを読まされているのは、めんどくさがらずにロイターの日本語版と英語版を較べることによっても簡単に判明する。 日本語世界で十年つきあって思ったのは、事はそれだけではなくて、明治以降、営々とそれが繰り返されて、日本人が世界だと認識しているものは、「日本のマスメディアが恣意的に編集してきた世界」で、いわば、むかしのハリウッド映画の書割の大自然のようなもので、あるいは歴史でいえば、このブログで何度か、子供のときに、バッターがいっさい登場しない、ただ野茂英雄が投げて、日本人解説者が「いまのフォークが伝家の宝刀なんですよね。これにはアメリカ人もまったく手が出ない」だの「いまの直球は意表をついて、やはり、こういうところは日本の球界で鍛えた『シンキングベースボール』ですね」だのと述べるだけの異様な「大リーグ中継」を観て、あきれるより、怯えるような気持になったことを書いているが、 あの「日本人だけ中継」のような、日本人の視点だけがある世界への認識を、百年以上も延々とすりこまれてきた、という事実の堆積がある。 日本語で、そういうことが可能だったのは、残念なことに、やはり「民族として外国語が苦手だったから」です。 この外国語が異様なくらい苦手であったことが、1 議論の前提となる知識に欠けている、という要素をつくった。 その上に、いかにも日本が不運だったのは、翻訳文化で選択された世界を、しかも誤解したことをもって、自分達が世界を知っているものだと妄信して、 2 議論の前提となるべき知識に欠けている とは夢にもおもわない状態で議論を繰り返してしまったことで、日本の、いまでは世界に有名になってしまった世界認識のトンチンカンぶりのふたつの基礎は、そうして出来上がった。 … Continue reading

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バベルの塔

自分の同族にしか自分の言葉は通じないのだ、と考えると、最近の自分の言語への観察と平仄があっている。 この世界には、母語や民族や、まして人種などは問題にならない同族のひとびとがいて、どうやらひとつの種族をなしているらしいことは、前にもブログに書いたことがある。 いつか、どこかで https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/04/28/itsuka/ 最近は、たいていの場合、言葉の匂いのようなもので判るというか、匂いというのが言葉として嫌らしければ、言葉がもつ気配のようなもので、初対面でも、すぐにそれと判る同じ種族の人間と以外は、言葉を通じて分かりあおうとするだけ無駄なのではないかとおもうようになった。 立場主義、という。 ある人達は、言語の使い方そのものが政治的で、味方の述べることはすべて正しくて、自分が敵と思い定めた人間の言う事はすべて否定しさりたいと願っている。 言葉にとっては災難としか言いようがない言語の使い方で、血が通い、歴史を持ち、ひとびとのそれぞれの物思いが堆積した言葉という重層的な生きた意識の表象を、根元から引き抜いて、石礫として相手に投げつける。 言語はコミュニケーションには向いていない、と初めに明確な形で述べたのはエズラ・パウンドではないかとおもうが、このアメリカ生まれの、いままでに生を受けた詩人のなかで、言語表現の巧みさにおいて、間違いなく十本の指で数えるうちに入る、ファシズムを熱狂的に信奉して、ローマのラジオ局から、毎日、自由主義者たちを洗脳するために巨大な言語的才能を傾けつくした大詩人は、言語におけるコミュニケーションなどは、99%の語彙を、意味だけでなく、その情趣の堆積においても共有している人間が相手でなければ、不可能なのだと思い知ったようでした。 日本では高等教育を受けて出征した復員兵たちが、言語は自分たちを責め苛むことには有能だが、内省を離れて、例えば自分たちが戦場で経験したことを、おなじ経験をもたない人間たちに伝えようとおもっても、そんなことは出来ないのだ、ということを、どこにも投げつけようがなく、決して自分の心を痛めつけることをやめもしない、まるで悪意の意識を持った腫瘍でもあるかのような記憶に苛まされながら、理解していた。 鮎川信夫の詩は理解されることを拒絶しているが、一方では、存在するはずがない神によって、いつか理解されることを渇望している。 橋上の人よ どうしてあなたは帰ってきたのか 出発の時よりも貧しくなって、 風に吹かれ、浪にうたれる漂白の旅から、 どうしてあなたは戻ってきたのか。 橋上の人よ まるで通りがかりの人のように あなたは灰色の街のなかに帰ってきた。 新しい追憶の血が、 あなたの眼となり、あなたの表情となる「現在」に。 橋上の人よ という詩句は、戦場での体験によって、鮎川がそもそも非在を確信するに至った神に向かって書かれているのは、誰が読んでも明らかで、いないと心の底から判ってしまった神に向かって祈りの言葉のように書かれた詩句は、神というものが、言葉の構造のどこにあって、どんなふうに存在しているのか、あるいは、もう少し精確に言えば、祈りが指し示している先に光りとしてあって、存在すること自体は拒絶しているのかが、よく判るように書かれている。 ぼくは行かない 何処にも 地上には ぼくを破滅させるものがなくなった と同じ鮎川信夫は、ずっと後になって、神という絶対に存在しなければならないはずの存在が、実はいなかったのだということを、鋭く強い痛みと共に述べている。 読んでいて、ああ、鮎川信夫、ここで、もうここなら死んでも仕方がない、と思ったのだな、ということが判ります。 いつもの癖をだして、余計なことを述べると、鮎川は死後に、日本では稀有の英語人的知性の持ち主だった最所フミと結婚していたことを明らかにして、「荒地」の同人たち、田村隆一や北村太郎たちを驚倒させる。 ずっと後からやってきて、英語の側から、巨大なビュイックを乗り回して、最所フミと秘密結婚生活を送っていた鮎川信夫の一生を眺める側は、自動的に、すべての価値が潰える瞬間を見守った、復員兵の現実認識、というようなことを考える。 英語は、もともと厳しい現実に石臼で挽かれるようにして、被支配者として、血まみれの歴史を送った民族が使ってきた言葉で、その言語としての身も蓋もなさは、どんなに英語を巧みに使いこなす外国人にも判るものでなくて、言語自体として絶望しているような、英語の言語としての趣は、欧州の辺境で、気高さの夢を見て育んできたドイツ語人のような種族とは、質から異なっている。 人間というものの醜さを最も正面から見据えざるをえなかった人々の言語で、20年、30年と言語自体になれるに従って、英語が母語なみになった外国人たちがひとしなみに述べる、言語世界全体としての底冷えがするような現実への「味」は、多分、あらゆる言語のなかでも英語だけが持っている。 英語が現実だけを相手にしていて、現実以外はどうでもいいと言わんばかりの態度の悪さなのは、つまりは、そういう英語という言語の、徹頭徹尾、醒めた、世界への認識にあるのだと思います。 では、他の言語の事情はどうだろうか、と考えて、いくつか言語を習得したが、「初めから判っている相手にしか、自分が考えたことを伝えられない」という言語の機能の制限は同じで、日本の人が好きであるらしい「いろいろな自分と異なる人と議論しなければ」という意見のバカバカしさは、 そんなことは、ありえないことだから、ということに収斂されているとおもう。 言語をもって伝達する方法というのは、多分、ひとつしかなくて、情緒や感情や知識や、あるいは例えばある音楽についての感動や、絵画への静謐な気持を、あらかじめ個々の人間の内部で貯水しておいて、その水面に、お互いに伝えたいことを照らし合わせること以外には、人間と人間のあいだの意思の伝達の方法はないようにおもえる。 典型的で判りやすそうな例を述べれば、数学や物理の世界では、いまのようにお互いの研究状況が細大もらさず同時進行的に伝えられるようになる以前でも、見知らぬ人間同士が、世界の遠くへだたれたふたつの町で、ほぼ同時に同じ洞察と結論に到達する、ということがよくあった。 それは、実は、言語による相互の伝達、ということの本質を表しているのではないか、と、この頃は、よく考える。 導かれる結論は、つまり、同族に向かって言葉を組み立てる、あるいは言葉の仕組みを起動させることだけが有効なのだということで、なんだか甚だしく常識に反する結論だが、どの言語でも繰り返される、無意味な泥試合じみた「議論」を見ていると、それを解決しうるのは … Continue reading

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日本語のために 

最近は、偶々なのは判っているが、「日本人って、嫌だな」と思う事が続いたので、日本語への興味も削がれて、なんだか、ほかのことで遊んでいることが多かった。 言語に対する、日本の大学受験生なみの、びっくりするような言語への浅薄な理解で、こちらをニセガイジンと決めつける日本の「小説家」が現れたり、倫理をまったく持たない元ウォール街の勤め人に、よくもまあ、ここまで、お里が知れる、というか、薄汚い人間性まるだしの悪口雑言を並べられるものだ、というような汚い日本語を立て続けになげつけられたり、あまりに低劣なので、わざわざ名前を挙げる気もしないが、ある種類の日本人の程度の悪さを嫌というほど見せつけられて、さすがに興醒めで、結局、自分が信じていた「日本文明」など、どこにもなかったのではないか、と考えたりしていた。 N’importe où ! n’importe où ! pourvu que ce soit hors de ce monde ! という。 溺れるように愛していた母親が年老いた再婚相手の老人と同衾したことを一生許せなかった詩人が書いた詩句で、ここではないどこかに行ってしまいたい、という気持は、誰にでもあるので、いまに至るまで、たくさんの人気に暗誦されている詩句がある。 妹は、何度か書いたが、言語的な天才で、本人は医学研究者になって、社会の側に立てば、あんなに語学的な才能があって医学の道にすすむなどは犯罪であるとおもうが、もともとぐちゃぐちゃしたものが好きなので仕方がないとしても、なるほど言語の習得というものには持って生まれた才能がおおきくものを言うのだな、と身近に判る例があるのに、そのときどきで、見知らぬ言語を学んでは、これをなんとか母語並にして、世界が異なる風景になってゆかないか、と性懲りもなく考えるのは、やはり、言語的な pourvu que ce soit hors de ce monde ! なのだろうと思っています。 日本語にも、ほかの言語同様に、いくつかのピークがある。 初めのピークは、言うまでもなく、紫式部たちが生きていた10世紀の終わりで、日本語は古代中国語の注釈語として、いわばサブカルチャー言語としての日本語と、異様だが普遍性がある話者の数が少ないメジャー言語としての二面があると思うが、普遍語としての日本語がつくられていった時期で、多分、生活習慣上、極端に会話が抑制されていた結果として発達した、数々の恋愛詩や日記や手紙が、この時代の特徴をなしている。 11世紀の源俊頼という天才の出現や、14世紀の世阿弥、17世紀の松尾芭蕉と、所々にびっくりするような文学的な天才が現れるのは、日本語世界が、欧州的なサロン文学にとどまらず、西洋言語よりもおおきな人口的な広がりを持っていたからでしょう。 実際、日本語文化の極めて特異な点は、商人たちが文学の担い手である時代が長かったことで、ここには日本文明の、西洋人から見ると未だに不可視の、おおきな謎があるとおもっています。 日本の人達は気が付いているかどうか、多分、他の国には、アジアも含めて、なかったことだとおもう。 日本文学への評価が高いのは、翻訳者に恵まれていたからだ、というのはいまでは定説になっている。 皮肉なもので、日本がGDPの80%を軍備に投じるというような、通常の国民性では到底考えられない爪先立ちで世界全体に挑戦した戦争を起こした結果、アメリカを中心として連合国諸国では日本語を理解できる研究者の促成栽培を行うことになって、ここで軍事的な必要によって教育された若い情報将校たちは、戦後、食うのに困って、ジャパノロジストになり、日本文学翻訳者になっていった。 ユダヤ系社会の上流階級出身の好事家で、言語的な天才だったアーサー・ウエイリーや、マーク・ヴァン・ドーレンの世代までは、他の言語並だった日本語研究が、ドナルド・キーンたちの世代に至って、一挙に、突出した言語勢力になってゆくのは、ひたすら、このアメリカ軍の情報将校育成プログラムに依っています。 もともと日本語より豊穣な語彙や言語表現に恵まれていて、話者の人口も日本語よりも多く、はっきり言ってしまえば、普遍性においても日本語よりも高いベンガル語が辿ってきた苦難の歴史と比較すると、日本語が、いかに運に恵まれた言語であったか判ると思う。 日本語の凋落は著しい。 … Continue reading

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