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バベルの塔

自分の同族にしか自分の言葉は通じないのだ、と考えると、最近の自分の言語への観察と平仄があっている。 この世界には、母語や民族や、まして人種などは問題にならない同族のひとびとがいて、どうやらひとつの種族をなしているらしいことは、前にもブログに書いたことがある。 いつか、どこかで https://gamayauber1001.wordpress.com/2012/04/28/itsuka/ 最近は、たいていの場合、言葉の匂いのようなもので判るというか、匂いというのが言葉として嫌らしければ、言葉がもつ気配のようなもので、初対面でも、すぐにそれと判る同じ種族の人間と以外は、言葉を通じて分かりあおうとするだけ無駄なのではないかとおもうようになった。 立場主義、という。 ある人達は、言語の使い方そのものが政治的で、味方の述べることはすべて正しくて、自分が敵と思い定めた人間の言う事はすべて否定しさりたいと願っている。 言葉にとっては災難としか言いようがない言語の使い方で、血が通い、歴史を持ち、ひとびとのそれぞれの物思いが堆積した言葉という重層的な生きた意識の表象を、根元から引き抜いて、石礫として相手に投げつける。 言語はコミュニケーションには向いていない、と初めに明確な形で述べたのはエズラ・パウンドではないかとおもうが、このアメリカ生まれの、いままでに生を受けた詩人のなかで、言語表現の巧みさにおいて、間違いなく十本の指で数えるうちに入る、ファシズムを熱狂的に信奉して、ローマのラジオ局から、毎日、自由主義者たちを洗脳するために巨大な言語的才能を傾けつくした大詩人は、言語におけるコミュニケーションなどは、99%の語彙を、意味だけでなく、その情趣の堆積においても共有している人間が相手でなければ、不可能なのだと思い知ったようでした。 日本では高等教育を受けて出征した復員兵たちが、言語は自分たちを責め苛むことには有能だが、内省を離れて、例えば自分たちが戦場で経験したことを、おなじ経験をもたない人間たちに伝えようとおもっても、そんなことは出来ないのだ、ということを、どこにも投げつけようがなく、決して自分の心を痛めつけることをやめもしない、まるで悪意の意識を持った腫瘍でもあるかのような記憶に苛まされながら、理解していた。 鮎川信夫の詩は理解されることを拒絶しているが、一方では、存在するはずがない神によって、いつか理解されることを渇望している。 橋上の人よ どうしてあなたは帰ってきたのか 出発の時よりも貧しくなって、 風に吹かれ、浪にうたれる漂白の旅から、 どうしてあなたは戻ってきたのか。 橋上の人よ まるで通りがかりの人のように あなたは灰色の街のなかに帰ってきた。 新しい追憶の血が、 あなたの眼となり、あなたの表情となる「現在」に。 橋上の人よ という詩句は、戦場での体験によって、鮎川がそもそも非在を確信するに至った神に向かって書かれているのは、誰が読んでも明らかで、いないと心の底から判ってしまった神に向かって祈りの言葉のように書かれた詩句は、神というものが、言葉の構造のどこにあって、どんなふうに存在しているのか、あるいは、もう少し精確に言えば、祈りが指し示している先に光りとしてあって、存在すること自体は拒絶しているのかが、よく判るように書かれている。 ぼくは行かない 何処にも 地上には ぼくを破滅させるものがなくなった と同じ鮎川信夫は、ずっと後になって、神という絶対に存在しなければならないはずの存在が、実はいなかったのだということを、鋭く強い痛みと共に述べている。 読んでいて、ああ、鮎川信夫、ここで、もうここなら死んでも仕方がない、と思ったのだな、ということが判ります。 いつもの癖をだして、余計なことを述べると、鮎川は死後に、日本では稀有の英語人的知性の持ち主だった最所フミと結婚していたことを明らかにして、「荒地」の同人たち、田村隆一や北村太郎たちを驚倒させる。 ずっと後からやってきて、英語の側から、巨大なビュイックを乗り回して、最所フミと秘密結婚生活を送っていた鮎川信夫の一生を眺める側は、自動的に、すべての価値が潰える瞬間を見守った、復員兵の現実認識、というようなことを考える。 英語は、もともと厳しい現実に石臼で挽かれるようにして、被支配者として、血まみれの歴史を送った民族が使ってきた言葉で、その言語としての身も蓋もなさは、どんなに英語を巧みに使いこなす外国人にも判るものでなくて、言語自体として絶望しているような、英語の言語としての趣は、欧州の辺境で、気高さの夢を見て育んできたドイツ語人のような種族とは、質から異なっている。 人間というものの醜さを最も正面から見据えざるをえなかった人々の言語で、20年、30年と言語自体になれるに従って、英語が母語なみになった外国人たちがひとしなみに述べる、言語世界全体としての底冷えがするような現実への「味」は、多分、あらゆる言語のなかでも英語だけが持っている。 英語が現実だけを相手にしていて、現実以外はどうでもいいと言わんばかりの態度の悪さなのは、つまりは、そういう英語という言語の、徹頭徹尾、醒めた、世界への認識にあるのだと思います。 では、他の言語の事情はどうだろうか、と考えて、いくつか言語を習得したが、「初めから判っている相手にしか、自分が考えたことを伝えられない」という言語の機能の制限は同じで、日本の人が好きであるらしい「いろいろな自分と異なる人と議論しなければ」という意見のバカバカしさは、 そんなことは、ありえないことだから、ということに収斂されているとおもう。 言語をもって伝達する方法というのは、多分、ひとつしかなくて、情緒や感情や知識や、あるいは例えばある音楽についての感動や、絵画への静謐な気持を、あらかじめ個々の人間の内部で貯水しておいて、その水面に、お互いに伝えたいことを照らし合わせること以外には、人間と人間のあいだの意思の伝達の方法はないようにおもえる。 典型的で判りやすそうな例を述べれば、数学や物理の世界では、いまのようにお互いの研究状況が細大もらさず同時進行的に伝えられるようになる以前でも、見知らぬ人間同士が、世界の遠くへだたれたふたつの町で、ほぼ同時に同じ洞察と結論に到達する、ということがよくあった。 それは、実は、言語による相互の伝達、ということの本質を表しているのではないか、と、この頃は、よく考える。 導かれる結論は、つまり、同族に向かって言葉を組み立てる、あるいは言葉の仕組みを起動させることだけが有効なのだということで、なんだか甚だしく常識に反する結論だが、どの言語でも繰り返される、無意味な泥試合じみた「議論」を見ていると、それを解決しうるのは … Continue reading

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