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万機公論ニ決スヘシ

日本語で、よく考え方の背景や、平たく言えば、ひととなりが判っている、少数の人間と議論することは出来る。 やる気になれば、日本語世界に骨を埋めるつもりで、たくさんの日本人に呼びかけ、話しかけることも出来るのではないかとおもう。 いっぽうで、日本語で広く議論を興して意見を交わすというのは、ほぼ不可能であるらしいことが、10年近くやってみて、よく判ってきた。 民族環境的に、日本人の知的能力が劣っているというようなことは全然なくて、なにもわしに言われて喜ぶ人はいないだろうが、民族まるごととしては、優秀で機敏な知性を持っている。 日本人は眼が悪いと昔から揶揄されて、眼鏡をかけた姿で描かれることが多いが、現実に日本人は近視が多いが、理由は簡単で、英語人に較べて圧倒的に多くの本を読むからだ、という。 むかし義理叔父の視力が落ちて、やってきていたニュージーランド、クライストチャーチのミラベルという町の眼医者さんに出かけて検査してもらったら、「北欧の湖のように澄んだ青い眼」をした、なんだか、おたおたしてしまうくらい美人の眼医者さんがあらわれて、どぎまぎして、縦書きで書いたみたいなヘンな英語を話してしまったといっていたが、この女医さんが、 「ニュージーランド人は、なぜ、眼がいいか知っているか?」というので、 牛乳をいっぱい飲むからですかね? とマヌケな答えを述べたら、 笑いもせずに、「ニュージーランド人は、まったく本を読まないからですよ」と述べたので、ぶっくらこいた、とひとつ話のように話していた。 ニュージーランドは伝統的に書籍の値段が高くて、わしガキの頃は、連合王国の本が、なぜか3倍の価格で売られていた。 あるいは、おとなの関心といえばラグビーばかりで、ラグビー以外にはこの国には、何もないのか、と子供のわしでも訝った。 日本には「文庫本」というものがあって、小林秀雄は常時10冊以上の本をあちこちのポケットに突っ込んで、年中、凸凹して歩いていたそうだが、そういうことが日本人の伝統で、義理叔父にしたところが、見ていると一日に4冊くらいは本を読んでいて、一緒に御茶ノ水の丸善に出かけたときには、「こんな棚の本は、ほとんどめぼしいのは読んでいて、買うものがない」と不遜なことを述べていた。 そんなバカな、という人がいるだろうが、このおっちゃんとも、付き合いが長くなると、案外ウソとはおもえなくて、このひとは、まるでこの世界の森羅万象のことごとくに通じているような人です。 ところが、このおっちゃんひとりなら、まあ、ヘンタイな人だろうと諦めもつくが、この人の友達にも、同じような読書ブルドーザーおじさんたちが、いくたりもいて、聞くともなく聞いていると、芭蕉の奥の細道の、どの宿で誰と会ったか皆が諳んじていたり、病膏肓に至って、サザエさんのマンガの一コマ目の絵と科白を述べると、誰かが4コマ目をおぼえているという具合で、衒学も極まれば、悪魔の集会に似てくる。 だが、そうやって知的好奇心は、なみなみならぬものがあるのに、 1 議論の前提となるべき汎的知識に欠けている 2 1の状態にあることに自覚がない のふたつの理由によって、日本語では「広汎な議論」というものが成り立たない。 どんなことにも歴史的経緯や、長い間、議論されて、そういう言葉を使いたければ「たたき台」になっている問題を討議するための議論の蓄積というものがあるが、 おもいつくままに挙げて、例えば神の存在を論じるのに、そもそも西洋語は絶対唯一神を前提とすることによって言語の体系が成り立ってきて、神様の台帳にお伺いを立てて、そもそも自分が直面している問題には、どういう態度で臨めばいいか、自分で確信できることを行動に移す、ということになっているのに、「日本人は神なんて信じていませんから」と述べて、そのくせ、軽々と、絶対神を前提とした西洋語から借用した概念を組み立てて、自分の相対性に満ちた、真理が存在しない思考法のなかで機能させようとする。 そういうことが判りにくければ、もっとバカバカしい例を挙げることだって出来て、前に瀬川深とかいう作家で医者だかなんだかの人がいちゃもんをつけに来て、 「英語でも遠回しに婉曲に書けば日本語とおなじ構造の文が出来るのに、この人はそれを知らないからニセガイジンである」と言いに来て驚いたが、受験英語構文だかなんだかのレベルで英語と日本語を比較してオベンキョーする受験生じゃあるまいし、言語比較の基礎の基礎になっている初歩知識もなくて、いったい、この人が卒業したという東京医科歯科大学とかいう大学のリベラルアーツでは、どんなレベルのことを教えていたのだろう、と訝しくおもう。 職業訓練校ではあるまいし、仮にも医科大学ならば、語学系か哲学系の講座があったはずで、講座があれば、どんなバカな学生でも、こんな幼稚なことを言うわけがない。 あるいは親切心が過剰に存在する我が友オダキンは、素粒子論研究者だが、オダキンが、物理の本を読んで勉強したという、オダキンが尊敬しているらしきおっさんと話をしていて、ところが、この人の物理論なるものがトンチンカンもいいところで、オダキンは、それでも素人にも漠然となら理解の手がかりになりそうな論法を用いて説明しようとしていたが、相手の反応は、「やはり、ぼくにはきみの議論には異論がある」で、あまりに日本的な光景で、オダキンには悪いが、ふきだしてしまった。 ひとつの言語世界について思いを巡らしているときには、他の言語世界の事情は案外と頭からまるごと欠落してしまうもので、これは、ある言語で熱心に考えるという行為のなにごとか本質を暗示しているとおもうが、そのせいで、「日本語人は」と日本語に限定して書いたあとで、友達に、「それは英語でも同じなんじゃないの?」と言われて、考えてみると、なるほど日本語世界に特殊なことではなくて、やべー、またやってしまった、と思うことはある。 でも、日本語世界の、議論の前提となる知識が欠落していて、知識が欠落しているということ自体に自覚がない、というはっきりした傾向は、やはり日本語世界全体に固有のもので、特徴的だと思います。 どうしてそうなるかということを考えるのには、日本語世界のなかで、上の、1と2から自由である分野を考えるのが最も考えやすくて、さっき言及したばかりで便利なのでオダキンが生きている物理の世界でいえば、この世界では、 1 議論の前提となる知識が常にアップデートされながら共有されている 2 共有されていない部分は、簡単に意識されるので、自分のほうから英語なら英語コミュニティへ乗り込んでいって補完する、というふうに自覚的に補綴されている という条件があるので、議論が成り立つ。 そうやって考えていくと、日本語世界は、現在進行形のマスメディアが伝える世界についての情報が日本の報道人によって恣意的に選択され編集されて、黒岩涙香版のLes Misérablesを読まされているのだというか、なんだか元ネタは同じだが、あがってきた記事は全然別のものというようなものを読まされているのは、めんどくさがらずにロイターの日本語版と英語版を較べることによっても簡単に判明する。 日本語世界で十年つきあって思ったのは、事はそれだけではなくて、明治以降、営々とそれが繰り返されて、日本人が世界だと認識しているものは、「日本のマスメディアが恣意的に編集してきた世界」で、いわば、むかしのハリウッド映画の書割の大自然のようなもので、あるいは歴史でいえば、このブログで何度か、子供のときに、バッターがいっさい登場しない、ただ野茂英雄が投げて、日本人解説者が「いまのフォークが伝家の宝刀なんですよね。これにはアメリカ人もまったく手が出ない」だの「いまの直球は意表をついて、やはり、こういうところは日本の球界で鍛えた『シンキングベースボール』ですね」だのと述べるだけの異様な「大リーグ中継」を観て、あきれるより、怯えるような気持になったことを書いているが、 あの「日本人だけ中継」のような、日本人の視点だけがある世界への認識を、百年以上も延々とすりこまれてきた、という事実の堆積がある。 日本語で、そういうことが可能だったのは、残念なことに、やはり「民族として外国語が苦手だったから」です。 この外国語が異様なくらい苦手であったことが、1 議論の前提となる知識に欠けている、という要素をつくった。 その上に、いかにも日本が不運だったのは、翻訳文化で選択された世界を、しかも誤解したことをもって、自分達が世界を知っているものだと妄信して、 2 議論の前提となるべき知識に欠けている とは夢にもおもわない状態で議論を繰り返してしまったことで、日本の、いまでは世界に有名になってしまった世界認識のトンチンカンぶりのふたつの基礎は、そうして出来上がった。 … Continue reading

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