Monthly Archives: December 2018

ツイッタの友だち

ジャック・ダーシーが満面の笑みを浮かべて安倍首相と握手している写真を見て、げんなりしてしまった。 ダーシーのことだから、なにか日本政府に用事があって、首相に会えるなら会って話をつけてしまうのがいちばん早いと考えたのかもしれないが、カーター大統領と会って胸をそらせて握手する写真を撮らせて悦にいる中松博士じゃあるまいし、アホらしい、という気持が起きる。 twitterは子育ての友だった。 子供がよじのぼるジャングルジムの役が育児における主要な役割だったが、髪の毛を引っ張られてイテテテをしたり、股股さんをおもいきり膝蹴りされたりしながら、日本語の勉強をかねて、日本の社会の問題や、だし巻の作り方について侃々諤々と議論するのは、なかなか楽しかったと言わざるをえない。 頭のなかでは、日本語ツイッタはコンピュータで、英語の種々のSNSはスマートフォンでやることになぜかなっていて、習慣化して、1970年代の日本語ならば「ながら族」と言ったのだと思うが、いちばん多いのは傍らの40インチスクリーンでiTunes、Netflixやamzon.comの映画配信を見ながら、とつおいつ、あるいはだらだらとツイッタに書き込む、というパターンだった。 いま見ると2012年の7月からツイッタをやっていることになっているが、その前もアカウントを開いて、フォロワーが1000人になるとアカウントを閉じる、というのを何度かやっていたので、その1年ちょっとをあわせると、8年くらいもツイッタと付き合ったことになる。 日本語インターネットコミュニティの常で、時間が経つにつれて、やっと使い方が判るようになるのかなんなのか、ばーかーな人たちが流入して、品性が卑しい人間を見るのがなにより嫌いなので、うんざりさせられたり、友達と日本語で話す楽しみはあるにしても、こんなアホな人間たちが視界に入ってくるような地獄を通行させられるくらいだったら、やめちゃったほうがいいよね、という気持になったりしたが、twitter社の勧めに従って、どんどんブロックすることにして、 だいたいブロックが3万人を越えるころから、あんまり嫌なことに遭遇しなくなって、落ち着いて友達とよもやま話が出来る環境になってきた。 ついでにいうとSEALsの頃には、ネトウヨの人がたくさん来て、当時はブロックリストなるものを導入して、もっとブロック数も多かったが、最近は、ついにネトウヨのみなさんにも呆れられてしまったものと見えて、ご無沙汰なので、ブロックリストも外しているが、あのブロックリストというのは、友達も入っていたりして、それなりに不便なところもあるものでした。 あんまり、よいものではなかったような気がする。 3万人もブロックしているとカッコワルイので、ときどき見直して、ブロックを解除するが、いったんブロックされたのに話しかけるのが難しいのは人情というもので、ああなったりこうなったりして、これから先もくちを利く機会がない人は4万人を越えているのではないかと思います。 意図したわけではなくて、たまたまだが、フォロワーが1万人を越えるような人は、あるいは、もともとこちらが期待するからかもしれないが、たいていブロックしているので、おもしろいのは、わし友がなぜかチョーよいことを述べて、おお、と考えてRTしても、だいたい300くらいまでしか数が伸びない。 ほとんどコピペなんじゃない?というような、おんなじツイートを他の人がやると3000というようなRTになるのを見たことがあるので、友達には悪いね、というか、ちょうど疫病のワクチンを大量の人間に接種しておくと、個々には見えにくくても、社会全体としては疫病の流行が抑えられるのと同じ理屈で、RTが失速する。 ブロックをしない場合と異なるのは、しかし、そのくらいで、ブロックを大々的に増やしたことによって得られた快適さとは比べものにならない。 いま、この記事を書いている時点ではフォロー数が、いつもよりずっと多くなっていて、40人を越えているが、これはだんだんROMに変えていくための実験中だからであって平常な状態では20人内外です。 もともと正気を保つためにフォローしている何人かの英語人の友達は、まったく変わらなくて、5人くらいいる。 作家、英語教師、大学教師という顔ぶれで始めて、初めは10人くらいいたが、大学教師のひとたちは、あまりに文学上の意見が異なるので、めんどくさくなって全部フォローをやめてしまった。 差し引き、日本語アカウントでいつもフォローしているのは15人くらい。 見ると判るが、あんまりツイートしない人ばかりなので、なんだか夜更けの竹藪をフォローしているようなものです。 こちらは、見れば判るが、英語アカウントにいちばん多い、お友達アカウントに直截宛てた形の、よもやま話アカウントになっていて、ずいぶんスタイルが違うんですね、と言われたことがあったが、英語では極く標準的なスタイルのツイッタの使い方で、日本語ツイッタのように、ややカラオケステージ風というか、あんまりたくさんの人にいっぺんに話しかけるというスタイルを採らない。 見ればすぐに判るが、多数の人間の目を意識してツイートするのは、英語では殆どの場合、自分が有名人であるという自覚がある人のアカウントで、現に、自分の友達で有名人というカテゴリに入る人達を見ると、複数アカウントを持っていて、 こっそりやっているほうではWOWのギルドについて話して喜んだりしている。 よく「フォローを増やさないと様々なタイプが違う人と意見を交換できないではないか」と昔は言われたが、考えてみると、自分の生活でも、さまざまなタイプの人と話したりするのは億劫なので、なぜツイッタで「いろいろな異なった意見」を聞かねばならないのかピンとこない。 そもそも、普段の生活では、なるべく人と会わなくてすむように、なるべく友達の数が増えないように、念願して暮らしているのに、日本語ツイッタでだけ、方針を変える必要もないような気がする。 いまからもう、笑おうとひきつけの準備にかかっている、そこのきみ、 笑ってはいけません。 わしは、生来、すごい人見知りなのでもある。 Twitterという新しい窓を壁にしつらえてから、だいぶん経つので、日本語ツイッタを通して見知っているひとたちの境涯も随分変化している。 靴下をはいたら右と左が違っていたことまでツイートしているので、ヘンな人だなあーとおもってフォローしはじめたもじんどん @mojin は、スイスのチューリッヒ工科大学から、ハワイ島へテンモンな職場が変わっている。 このあいだまで22℃にもなると夏だと言って喜んでいた同じ人が、おなじ22℃で「寒い」ぶるるっ、と述べている。 正義心の強い編集者だったミナ @MinaMaedaは、たしか、退職した頃に会ったとおもうが、 たったひとりで小田急だったかの駅の改札脇に立って、安倍政権に抗議していたりしたが、自分の生活のデザインをまるごと変える決心をして、Grosgrai(グログラン)というmillinery(帽子デザイナー?)の会社をつくって、いまは居住ビザをとってオーストラリアのアデレードに住んでいる。 ブログを読む人のほぼ全員が、これを書いているやつは頭がおかしいのではないか、と確信していた頃から、ずっと暖かい気持で読んでくれていた一色登希彦 @ishikitokihiko さんは、「日本沈没」というマンガで描かれた預言の書のような不思議な本を書いたが、いまはマンガを描く道具をおいて、四国でカフェを自作自営する悦びに浸っている。 でも登希彦さんが、隠しようもなく持っている創造への内圧から見て、こういう余計なことをいうと本人は怒るだろうが、どうせまたマンガか文字か、たいへんな本を書くに違いないのではなかろうか。 やはり、終始あたたかい気持で接してくれて励ましてくれて「おれたちは仲間」とまで述べてくれた南Q太さん @murasakibashi は、本人はなんだかあっさり決まったように言っているけれども、ほんとうは、めちゃくちゃな難関であるアーティストプログラムでビザをとって、ベルリンに引っ越していった。 ベルリン、知っていますか? 文化からいうと、ベルリンは世界の中心も中心、まるで新しい文明が火口から噴き出すようになっている町です。 … Continue reading

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満州という原泉

銀座ワシントン靴店が戦時中は、東條靴店と改名していたのだ、というのは前にも聞いたことがある。 いま、おもいだしてインターネットで見てみると、アメリカやイギリス名前のものはとことん目の仇にされたので「ワシントン」という名前では商売が出来なかったのは、日本の社会というものを考えれば、当たり前であるとして、東條のほうは東條英機の名前に迎合したのだと、堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」に書いてあったような気がするが、そうではなくて、創業者が東條たかしという名の人で、一石二鳥で、名前を時の独裁者の名前に変更してしまったのだと想像がつきます。 独裁者、と書いたが、よく言われるように東條英機くらい独裁者のイメージにあわない人間はいない。 見るからに癇がつよそうで、陸軍幼年学校のガリ勉受験生がそのまま将軍になったような風貌の人で、昭和天皇にマジメさを溺愛されて戦時内閣の首相にまでのぼりつめた、この人の貧寒とした勤勉さが風貌によく出ている。 日本の歴史を勉強する外国人が、戦争へと突き進む日本の1930年代を学習していて、やや踏鞴を踏む気持になるのは、ファシズムの時代なのは一目瞭然なのに、では言葉の狭い意味でファシストがどこにいるのかというと、発見するのが難しくて、集団統制主義というか、そういうものならあちこちにあるが、ドゥーチェやフューラーは、どこにも存在していなくて、ちょっと途方に暮れてしまうようなところがある。 日本の国民が熱狂したファシズムの、向こう側で手をあげて答礼しているのは、実は日本人の独裁者でなくて、ドイツのヒットラーであり、イタリアのムソリーニ、で、読んでいて、こんなへんなファシズムがあるだろうか、という気持になります。 満州は戦前戦後の日本の秘密を解くおおきな鍵であるとおもう。 少しでも当時の本を読めば、「満州に眠る十万の英霊と費やされた二十億の国帑をお前は見捨てろというのか」 という言葉がいかに強力で絶対の呪文で、戦争の拡大に異論を唱えるひとびとが、民間も軍人も、男も女も、このひとことで沈黙を強いられたかは、すぐに見てとれる。 当時の日本政府は、イギリス人にとっての新天地アメリカに満州をなぞらえて、国民の入植をすすめてゆく。 軽井沢の夏の家を出て、ホテルの前の鹿島の森ゴルフ場を右に曲がって、離山の道をのぼってゆく。 鶴溜の交叉点を千ヶ滝の方向へおりて、トンボの湯をすぎて、嬬恋村への道をわたって1000メートル道路にのぼる。 いまならば道脇にビル・ゲイツの巨大な別荘が建っているはずの千ヶ滝の外れを過ぎると、大日向という村に出ます。 鎌倉と東京の夏の猛暑に辟易して、モニさんとふたりで、夏はほぼ半分を軽井沢で過ごすようになってから、だんだん上田に買い物や食事に出ることをおぼえて、国道18号線の夏の渋滞を避けて、1000メートル道路を往還するようになると、そのうちに、大日向のひときわおおきくて目につく「昭和天皇行幸碑」に気が付くようになった。 クルマをとめて、地元の人に聞くと、普段は愛想がよい人達が、困ったことを聞かれでもしたように、例の、日本人のおもしろいジェスチャー、鼻の前で手をパタパタさせて、逃げるようにいなくなってしまう。 仕方がないので図書館へ出かけて調べてみると、この大日向村は、戦前はもともと千曲川の向こうの佐久穂にある村なのでした。 それが国策で、一村を挙げて満州に移住している。 分村移民と書いてある記録もあるが、元の大日向村も敗戦とともに消滅しているところや、どうやら国策映画として取り上げられたところからみても、一村移住のモデルケースであったようにみえる。 690人が満州に渡って、例のソ連の侵攻や、満州大日向村をつくるために日本政府が強制退去させたらしい中国人たちの蜂起にあって、日本に這々の体で帰りついたときには、たった310人に減っていた。 この大日向村のように、満州へ渡った日本「満蒙開拓団」は27万人、帰国できたのは19万人弱で、集団強姦、集団自決、あるいはソ連兵に撃たれ、戦車に蹂躙され、もともとの住民だった中国人たちに殺された日本人たちは8万人を数えたことになって、ソ連兵はともかく、戦後の残留孤児帰還でさんざん報道されたらしい悲劇の美談は実は少数の事例にすぎなくて、なんの理由もなく自分たちの土地を奪われて賠償もなく追放された地元中国人たちの怒りが、いかにすさまじかったかは、中国側の証言を聞いてみると、あわてて耳を塞ぎたくなるくらいのものです。 五族協和、王道楽土という、なんとなく人をバカにしたような、うそらさむいファンファーレのような高邁なキャッチフレーズは、だからどうしても必要なものでした。 政府がいくらピューリタンのアメリカ開拓と重なるイメージをつくろうと努力しても、ほんとうは、もともと他国民の農場があった土地なので、高邁な理想を述べなければ決まりがわるい、ということだったのでしょう。 この満州に、みっつのビッグネームがあって、 鮎川義介、松岡洋右、そして岸信介をあわせて、「満州のサンスケ」といういかにも口元が汚なさそうな渾名で呼ばれていた。 鮎川義介は、この会社得意のお家騒動でカルロス・ゴーンを追いだしたのでもっか話題になっている日産自動車を創始した政商。 松岡洋右は、いわずとしれた当時の「言うべき事を言って国民の溜飲をさげせしめた」人気外務大臣で、「連盟よ、さらば」、国際連盟をかっこよく脱退して、世界中を口あんぐりにした日本風の「快男児」です。 そして三人目の岸信介が満州国国務院の官僚トップとして、満州鉄道の鉄道以外の事業の分離くらいを皮切りに、満州経営に辣腕をふるった国家社会主義経済のプランナーであり、リーダーである人でした。 で、ね。 突然、「で、ね」という妙にくだけた調子で話かけられても困るだろうけれども、鮎川と岸は血でつながった親戚、松岡と岸は縁戚で、この3人の長州人が語らって、表面は対立してみせたりしながら、あきらかな裏での談合で、満州鉄道から完全に切りはなした、日立製作所、日産自動車、日本鉱業、戦後の日本の経済成長の中核をになった企業群をおおきなオカネの袋でつつんだ従業員15万人を越える巨大財閥日産コンツェルンを中心にみていって、初めて、 「あっ。ここに日本のファシズムがあるではないか」と納得がいく。 岸信介の満州経済プランには、はっきりした、誰がみても判る特徴があって、「産業開発五カ年計画」というような名前がついて、名を聞いて、ピンとくる人が多いとおもうが、そう、満州の隣で、ちからわざで貧しいスカンピン農業国から重工業国に短期間に大飛躍を遂げた共産主義ソビエト連邦のおおきな影響を受けている。 岸信介が、西洋人にわかりやすいファシストであったのは、多分、この社会主義との類似というファシズムには欠かせない要素のせいです。 戦後、この共産主義を方法論として取り入れた反共主義者で、自分をあやうく処刑場につれていきかけた骨の髄から憎むアメリカの諜報機関CIAのエージェントとして日本の首相をつとめた、比較的わかりやすいといえるパワーポリティクスの権化の政治家は、戦後日本の大衆運動のちからで、政界からおっぽりだされてしまうまで、吉田学校の政党保守勢力と本質的に対立する隠れ右翼として政界におおきなちからを貯えてゆく。 日本の戦後史のわかりにくさは、その歴史の淵源が満州にあるからでしょう。 日韓関係ひとつにしても満州国将校だった高木中尉、すなわち朴正煕は、後に大韓民国の大統領になるが、この人も岸信介同様、満州時代については、肝腎なことはなにもいわないで蓋をしてしまうことになる。 もっと細かいことに目を向ければ、ほら、日本のマスメディアが中国と韓国の反目を、ごく楽しそうに報道するでしょう? でも、中国人と韓国人のあいだに、(たしかに存在する)民族的なわだかまりは、満州において一貫して「日本人の手先」とみなされた韓国人たちへの中国人たちの怒りがおおもとになっている。 韓国人からすれば日本に背中を銃剣でつつかれてどやされてやむをえないでやったことも、中国人から見れば「日本人の走狗」としか映っていない。 中国人と韓国人の疎隔は、日本の人がよく口にしたがる高麗や李氏朝鮮よりも、もっと最近の満州における軋轢のほうがおおきいのだ、というようなことは、朝鮮系人や中国系人の移民のひとびとと話してみないと判らなかったことで、日本語では、どうも、そういう歴史情報は乏しいように見えました。 安倍晋三首相が自分で認めているように、同じ自民党と名前はついていても、吉田茂を水源とする保守派とはいまの政権は無縁で、かなりはっきりとした国家社会主義指向政権だが、それ自体は、日本人自身が選挙で支持して成立させた政権なので、はたからとやかくいうことではないが、では、このファシズムの系譜はどこからきたのだろう、とおもって眺めると、満州にその水源があった、という発見で、おもわず記事をひとつ書いてしまった。 … Continue reading

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