Monthly Archives: December 2018

厚切りトーストの秘密

朝、起きてみたらなぜか日本にいた、という場合、なにが最も食べたいかというと、自分の場合、厚切りトーストではないかとおもう。 そう。 あの、いまは絶滅しかけているらしい「喫茶店」ちゅうやつででてくる、あれです。 ゆで卵がついている。 ちいさなグラスのボールに入った千切りのキャベツがついていて、その上には殆ど常に多すぎるフレンチドレッシングがかかっている。 小さなトマトのスライスも入っていそうです。 煮染めたような色の、でも飲んでみると意外と軽い味のコーヒーがついてくる。 いちど「アメリカン」という面白い名前のコーヒーを頼んだら、お湯を別のポットにいれてもってきてくれた店があったが、あれは、ほんとうはお湯で割って薄くするのではなくて焙煎が浅い豆で淹れるのがほんとうであるらしい。 マーガリンを塗ってだす店もあるが、それは悪趣味であって、やはりバターでないと困る。 ジャムはストロベリーとほぼ決まっていて、稀にはオレンジマーマレードがついていることもある。 ある店では、俄には信じがたいことだが、ベジマイトはご入り用ですか?と聞かれたので、虚をつかれて、「お願いします」と述べたらマーマイトが出てきた。 あとにも先にもベジマイトが日本の店で、いざ供されんとしたのは、このときだけです。 ほんとうは、ちゃんと溶けて染みこんだバターに、塩をかけて食べるとイデアの厚切りトーストの味がするので、バターと塩で食べるように、あの厚切りのトーストは出来ているに違いない。 コーヒーと厚切りトーストと小皿キャベツとゆで卵で「モーニングセット」と言って、これほど日本への郷愁を誘うものはない。 実はオークランドにもなくはなくて、Momo Teaのような台湾のバブルティーのチェーンにはたいてい置いてあります。 メニューにはある。 でも、店の外側の壁に貼りだしてあるメニューでみるだけのことで、写真で見ても微妙に異なるので、試してみるところまで行きません。 あれは、どうしても日本で食べないといけないような気がする。 マレーシア生まれの世界チェーンPappaRichにもあって、モーニングセットにロティチャナイ用の、ひと皿150円のカレーを二種類くらいつけて、モニチャナイを形成して食べてみたいとおもうこともあるが、まだ、やってみたことがありません。 むかしは名古屋では、これにセブンスターの煙草喫い放題がつくのが普通だったそうだが、「むかし」がどのくらい昔なのか聞くのを忘れてしまった。 東京の大学を出て名古屋大学の先生をしているおっちゃんに用事を頼まれて会ったときに懐古談として述べていた。 当時はヘビースモーカーだった、このおっちゃんは、毎朝煙草がただになるので、文字通り一朝にして名古屋が気に入ったそうです。 最後に厚切りトーストを食べたのは、2009年か、日本とのお別れ旅行で大阪にクルマででかけたときで、天神商店街と言う名前の、長い長いながああああーい、あんたは戸越商店街(←日本一長い商店街)か、と言いたくなるほど長い商店街の二階だった。壁際に一列に並んだ、おっさんとおばちゃん=5対1くらいの客が、新聞を広げて、小津が演出をつけた俳優たちでもあるかのように、同じ角度で並んでいて面白かったので、失礼にもこっそり写真を撮ったのが、いまでもアドビのアルバムのどこかにあるはずです。 日本の軍隊は長いあいだ脚気に苦しんでいた。 神経炎や浮腫で身動きがならなくなるくらいの症状で止まるのは良い方で、海軍などは遠洋航海に出ると水兵がバタバタ倒れていった。 1884年、軍医の高木兼寛は、タンパク質が原因だという仮説をつくって、洋食と麦飯を積極的に摂らせることによって改善できることを装甲巡洋艦筑波を使った実験航海によって示します。 ところが、この高木という人は間が悪いことにイギリス医学を学んだ人だったので、当時ドイツ医学が支配的だった東京大学医学部と陸軍軍医部に激しく批判されて、治ったのはたまたまだろう、ということにされてしまう。 そうこうしているうちに日露戦争が始まると、脚気で倒れる兵士の数は陸海軍ともにたいへんな数になって、死亡者が続出することになる。 高木式の対策をただちにとった海軍では急速に収束するが、極めて政治的で権威主義的な軍医総監だった森林太郎(そう、あの文豪として有名な森鴎外とおなじ人ですね)は高木のやりかたは科学的根拠に乏しく、非科学的で許しがたいと激しく非難して、かといって官僚主義的な科学者の常として、ああでもないこうでもない、有効な具体的な方策はなにもとらずにいて、なにしろ日清戦争後に起きた台湾討伐戦などは戦死300人に対して脚気による戦病死は3000人というありさまでした。 いま振り返ってみる人は、誰でも知っているとおり、脚気の真因は矢張り日本人の鈴木梅太郎博士が発見したビタミンB1欠乏症で、高木の仮説はおおはずれだったが、あたるも脚気あたらぬも脚気、海軍では、なにしろ高木軍医の提案どおりの献立によれば脚気が出ないのが判っていたので、あんまり理由は問わずに高木メニューを遠洋航海のレシピにしていた。 こうして厚切りトーストが日本の歴史に登場します。 一枚の写真が残っていて、海軍式トレイのうえに、白米の丼一杯と分量的に負けないためのモーニングセットそっくりの厚切りトーストと、味噌汁とスプーンが載っている。 見つけたわしは、あら、厚切りくん、きみ、こんなところから来たのか、と、なんだか座り直す気分で写真を眺めてしまった。 日本の「洋食」が、西洋の食事とずいぶん異なるのは、海外に出かける人が増えたいまの日本では、もう常識になっている。 油断すると千円札を二枚くらいも持っていかれそうなヨーロピアンカレーは、欧州には存在しないし、いやいや実はあれはイギリス式なんです、その証拠にC&Bのカレー粉はS&Bのカレー粉とそっくりでしょう?と書いてあって、え、ええええっ? あんなカレー、連合王国では見たことないがな、も、もしかして、わし、ニセイギリス人なんでっか?とうろたえたりしたが、というのは冗談だが、なんのこっちゃとおもって調べてみると、半分はほんとうで半分はほんとうでなくて、イギリスはイギリスでも、イギリス海軍の巡洋艦の厨房で、航海の終わりに腐った肉を海に捨てるのはもったいないので水兵たちの胃袋のなかに捨てるために編み出されたのが、肉の臭味を、あまったスパイスを手当たりしだいぶち込んでつくった廃物シチューが、あの日本の「カレーライス」の原型のようでした。 いつか、パブで、屯して奇声をあげていたニュージーランド海軍の柄のわるい水兵にーちゃんたちに聞いてみたら、いまでもニュージーランド海軍の遠洋航海の終盤では、ドクサレ肉にカレーライスが出るそうで、おお、伝統のちからはすごい、と感心してしまった。 多分、厚切りトーストもカレーライスと同じように、退役した水兵のひとびとが、故郷にレシピを持ち帰って、文明の食事として全国に伝えたのが起源なのでしょう。 なにしろ故郷では、東北などは娘を売り飛ばして糊口をしのぐのが普通なほどの貧窮で、白米そのものが滅多に食べられなかった若い兵隊たちに絶大な人気を誇ったカレーライスは、ほぼ、そのままいまに伝えられているのに較べて、厚切りトーストが喫茶店でだけ出てくることになったのは、都会的なモダンなアプライアンスとして戦後60年代を通じて急速に普及したトースターが「6枚切り」の厚さを限度としていたからだと、わしは推測しています。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | Leave a comment

たしからしさについて

目の前に、たしかに物理的に存在している、という言明の不確かさを、人間はもう知っている。 人間が持っている意識が認識している世界は、当然、人間が生まれ落ちた世界の、いわば風景によって著しく制限されたもので、例えば時間ひとつとっても人間が知っている時間は始点があって一直線に流れているという前提で出来ていて、例えば「宇宙の始まり」というが、もし自分達が住んでいる世界が3次元的な宇宙で、しかもそこに時間が始点から無限に遠い終点をめざしてリニアに流れているのならば、次元として時間がない宇宙が存在して、その宇宙では、そもそも過去を振り返ることができない。 実際、きみやぼくが住んでいる宇宙には奇妙なことが、たくさんある。 例えば天文学がすすめばすすむほど宇宙は見渡す限り同じような構成で、光の速度で一万年飛んでも二万年飛んでも、と吝嗇なことを言わずに、現実にあわせて900億年飛んでみたところで、どうやら、宇宙が構造的にまったく異なる部分を持っているようにはおもえなくなっている。 少しでも正気の人間ならば、そんなことがありうるだろうか?と思わないわけはない。 宇宙全体が同じような構成ならば、つまり、宇宙は時間の初めには極小の体積で、それが急速に膨張して拡散したことになるだろう。 しかも、初めは爆発的に急激に膨張して、やがてゆっくりと広がるという広がりかたをしたことになる。 ところで、そんな絶妙な加速度の調整が自然に行われたと考えることは、たいへんに不自然なのは、爆発エネルギーの代わりに、より人間にとっては直観的に判りやすい位置エネルギーを考えて、高いところにある物体が坂の上にあるところをおもいうかべて、そのあと宇宙が広がったように坂を転がるところを思い浮かべるだけで、「そんなことが自然に起きるわけはない」と笑いだしたくなるに決まっている。 もちろん、それだけではない。 冒頭に述べた「たしかに物理的に存在している」という言明は、自分の意識が、生まれてからいままで、ただひとつ知っている物質の存在の仕方によって存在している、と述べているだけで、ほんとうは、なにひとつ確定的なことを述べているわけではないのは、いまの世界は大学生はもちろん、少し自分で勉強する習慣がある若い人間ならば高校生でも常識として知っている。 量子論では測定されるまで、特定粒子の存在する場所は確定していない。 出かける前に財布をどこに置いたか忘れてしまった人は、昨夜の自分の行動を思い出していって、ああ、そうだ、昨日は酔っ払って、帰って来てラウンジのカウチでまず横になったのだと思い出して、カウチのクッションとクッションのあいだに挟まるように半分姿を隠していた財布を見つけ出す。 このとき、日常生活の感覚では、当然、財布はもとから、というのはつまり昨夜来そこにあったから、探すことによって見つかった、と考える。 ところが、量子論を学んだことのない人は自分で理屈を学ぶのが最も良いが、量子的な世界においては、探しはじめるまでは、財布は至るところに同時に存在していて、探すことによって、財布のありかが一箇所に定まる、と考えるのでないと理屈があわなくなってしまう。 そんなバカな、と考えるのは、人間が人間社会の大きさと行動の範囲という言わば特殊な空間と時間を生きてきたからで、仮に量子的世界を生きてきた意識というものが存在すれば、探す前から財布が一箇所に定まって鎮座している人間の世界のほうが、よほどヘンだとおもうだろう。 そういう、ハードコアな、最も基底的な問題に加えて、人間が思考に用いる言語からくる制約という問題がある。 あんまり手を広げると気が遠くなるだけなので、身近な太陽系に例をとる。 2006年に、かつては「太陽から最も遠い惑星」ということになっていた冥王星が、「あんなん、小さすぎて、惑星に分類しておくのは、あかんのちゃうの?」ということになって、準惑星ということになって、いわば惑星としてマイナーリーグ落ちになったことを憶えているひとは多いとおもう。 ところで、天体としてはごくごく内輪の親密なサークルである太陽系で、この太陽から、太陽のまわりを、長い時間をかけて、ぐるりいいいいいーんと一周してくる冥王星まで、どのくらいの距離があるかというと、よく使われる例でいえば、太陽が日本橋の欄干に載っている1メートルの球体だとして、冥王星は西ならば神戸を越えて加古川の向こう、北ならば盛岡市くらいにあることになる。 ついでにいうと太陽は直径で言って地球の100倍以上あるので、この欄干に載っている太陽の横に地球をもってくると、直径1cmもない飴っこのようなものになってしまう。 夜空に無数に見えている星の大半は恒星だが、地球から最も近いので有名な恒星のプロキシマは、地球を直径1mの球体と考えると、300万キロメートルほどの距離の向こうにあって、これがいわば太陽系にとっての「お隣り」です。 これ以上つづけていると、なんだか子供の夏休みの宿題向けのプラネタリウム解説のようになってしまうので、いいかげんに止すが、なにが言いたいのかというと、自然言語では「お隣り」を説明する時点で、すでに「300万キロメートル」という人間がもちうるイメージとして破綻した表現がでてきてしまうことで、実際、どんな言語でも人間がイメージをもちうるのは、せいぜい水平線や積雲くらいまでで、それ以上の距離があるものは、数学上の数式のほうが現実的なイメージをもちやすい。 人間がまがりなりにも宇宙について考えられる所以は数学という言語を獲得したからです。 おかげで、自然言語で、考えているうちに「神様」になって、もう少しいくと神さまも届かなくなって「むにゃむにゃ」になってしまうところが、なんとかイメージを維持できるようになった。 量子的な存在の仕方や、n次元(n>4)の空間のありかたがイメージできるのは、ひとえに数学という言語の能力によっている。 もっと簡単にいえば自然言語が「生活」という空間の内部だけを説明できる言語であるのに較べて、数学は「自然」空間の「生活」に較べれば遙かにおおきな空間や性質が異なる空間を説明できる。 ところが、嫌なことをいうと、数学にもイメージの限界があるのは、数学を多少でも勉強すれば直ぐにわかって、例えば世の中には弦理論という、なああああんだか世界の根源を説明してくれそうな顔つきの考えがあって、日本の人にも関係があるので余計なことを書いておくと、ノーベル賞をとった日系アメリカ人で、日本政府がいつものがめつさで日本人受賞者に数えようとして、あっさり「いえ、わたしはアメリカ人ですから」と言われてしまった南部陽一郎という人は、この弦理論という、いやああな理論の大立て者です。 この弦理論を勉強していて、たいていのひとに判ることがふたつあると言われていて、 ひとつは自分は頭があんまりよくないようだという厳粛な事実で、もうひとつは、 どうやら数学という言語の限界はこの辺りにあるようだ、ということだと申し伝えられている。 どうやら自然言語の外側には自然言語を使ってしか宇宙を考えられない人間存在にとっては神様が微笑んでいて、そのまわりを天使がラッパを吹き鳴らしながら飛び回っている「絶対」の世界があるように、弦理論の外側には、さらに巨大な理論が囲繞していて、それをM理論と名付けたりしているが、そのあたりにまで来ると、数学では思考がとどかなくなってしまうもののよーである。 人間は思考をつみかさねて、すすめて、だんだん自分の思考の欠陥を意識するに至って、さまざまな「わざ」を工夫していった。 たとえば芸術がそれで、プラトンはごく原始的なそれをイデアと呼んだりしたが、人間が音楽や絵画や幾何でなにごとかに夢中になっていると、ときどき、天上から降ってきたとしかおもわれない快感というか法悦に包まれることがあって、それを感覚するためには絵画ならば美術上の文学ならば言語上の訓練が必要だが、正しい訓練を重ねて、いわば正見や正語、正感覚を獲得して、おもいがけずたどりつく地点がある。 そんなおおげさなことでなくても、あるいは、なんだか急に矮小な「せこい」例を出して、ごめんね、だけど、4次元をイメージしにくい人が、n次元をn-1次元おとすという例の騙し手をおもいだして、宇宙がたくさんあるという仮定を考えるときに、宇宙と宇宙が衝突するモデルを考える代わりに、表面がちょっとボコボコした2次元の宇宙がぶつかって、その衝撃点をビッグバンとして推論をすすめる。 あるいは自分達が住む3次元的な広がりをもつ世界を考えるために、2次元人を考えて、世界観の矛盾を導き出す。 なにしろ語彙が500くらいしかない人が人間世界と地球上の自然を説明しようとしているようなものなので、不自由どころではなくて、神様からみると、ひっくり返って、長衣の裾をバタバタさせて、ちらっと足のあいだからヘンなものが見えそうなくらいジタバタして大笑いするような涙ぐましい努力で、人間はここまで自分の存在を懸命に説明しようとしてきた。 そう。 いまになってみれば、途中からは不可能だと知っていた努力を続けてきたのだと思います。 量子的世界から類推しても、どうやら無限にあるらしい存在の様式のうち、たったひとつしか十分に説明できない言語をつかって、数千年という(人間にとっては)長い時間を考え抜いて、つまりは、自分のことひとつ理解できない。 自分の目の前にある、この「現実」が、はたして伝統的に信じられてきた実質をもつ現実なのか、誰かが、あるいはなにかがプログラムした幻影なのかすら判然としてない。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | Leave a comment

クリスマスの町を

モニさんがヘアドレッサーに行くというので、一緒にクルマに乗せていってもらうことにした。 クイーンストリート(←オークランドでいちばん賑やかな通り)の坂の上でおろしてもらって、海辺をめざして歩いておりていくのは、いつものコースです。 カレンダーが一枚めくられただけなのに、12月の文字に変わると、町はすっかりクリスマス気分になって、まるで違う国の町のようになる。 大学は試験が終わったばかりなので、学生たちが町に溢れている。 男も女もショーツで、足は裸足かフリップフロップで、子供のときはクリスマスが夏だなんて、なんてヘンな国だろうとおもったが、いまではすっかり慣れてしまった。 それでも頭のどこかにはホームシックに似たものが残っていて、もう9年前になるのか、冬に用事があってロンドンに戻ったら、雪で、それも歩いている人の姿も町も、通りに面した建物さえも見えなくなる大雪で、自分が属しているのはやっぱりこの町のほうなのではないかとおもって、考え込んでしまったのをおぼえている。 世界が、冬の闇の帳のなかで、最も死の世界に近付いたときをクリスマスと定めたのは、昔のひとたちの知恵である。 世界が最も希望をなくしたときにイエスは生まれてきて、キリストになろうとした。 この雄大な体格をしていたという偉丈夫の若者は、どこまでも地上の権力とは縁が遠い、この地上でただひとり原罪と無縁な存在である無力の王として君臨して、最後は人類全体のために贖罪の犠牲になろうとして、ゴルゴダの丘で磔にされるが、十字架の上での彼と神とのほかには誰にも聞こえない会話のなかで、神に人類の罪をあがなうための犠牲として死ぬことを拒否されて、無意味な犬死にを命じられる。 神はイエスを選ばなかった。 イエスは失望のなかで死にます。 一緒に十字架に架けられた盗賊にまだ生があるうちから、あっけなく息絶えてしまう。 イエスが自分自身への認識に反して神の子であることが判るのは、イエスが死んで意識を失った瞬間で、寺院の分厚いカーテンが突然裂けて、神が自分達に対していかに怒っているかを知ったローマ人たちをおののかせる。 教団はイエスが磔になっているあいだに、自分達が崇めた無力の王の、その無様さ、無力さを見せつけられて、まるで手のひらのうえに砂が風で吹き飛ばされるようにちりぢりになって、文字通り雨散霧消してしまう。 ひとびとはイエスのいかさまぶりを嘲り、信者達を冷笑して、イエスを信仰していたひとびとも口をつぐんでしまう。 どんな人間にも説明がつかないのは、そのあとに起きたことで、刑死の三日後と伝えられる日に、イエスはキリストとして復活する。 精霊としてではなく、肉体を持った人間として復活したことが聖書のさまざまな部分に書かれている。 どんなに懐疑的に見積もっても、ひとびとに衝撃を与えて、いちど打ち捨てたイエスの神への信頼と信仰を取りもどさせる、なにごとかがあったはずで、そうでなければ、いま「取りもどす」と書いたが、実は処刑される前とは比べものにならない速度で信仰が広まっていたことの説明がつかない。 通りを、のんびり歩いておりていきながら、考えていたのは、そんなことで、自分の信仰時代などは、だいたい、おおざっぱにいって12歳くらいまでで終わりで、 あとは「チャーチ・ピープル」という言葉を「心が狭い、偏見の強い偽善者」と同じ意味に使っていたくらいで、いまに至るまで、ほとんど興味がもどったことはないが、だんだんいろいろな事が理解できるようになってくると、最もannoyingだったのは、どうも自分が生まれてからこのかた考えたり自己を表現したり他人の思考を理解しようとしたりして使ってきた英語そのものが、言語の向こう側といえばいいのか、言語全体にベクトルが感じられて、そのベクトルが向いている先を見ると、言葉で説明されないことを前提にした、したがって名前さえもっていない「絶対」が立っていて、その言葉が届かない存在を仮定しないと言語として機能しないらしいことを発見したことで、それならば、自分が自分の言語で考えているかぎりは必ず神は存在することになってしまうではないか、ということだった。 古代的で静的な幾何学においては、なんの意味もない補助線を仮定しないと確かに真実であるらしい定理を証明できないことがよくある。 日本の学校で、どんな数学の教え方をしているのかが、いまひとつよく判らないので、学校で教師が言及する機会があるかどうか判らないが、「清宮の定理」のようなものまであるくらいだから、メネラウスの定理くらいは、せめて余興でやってみせたりするのではないかしらとおもうが、おもいついたときは面白くても、数学頭が自分のなかに育ってくると、あの補助線というものの思いつきかたが、というよりもその理不尽さが、なんとなく嫌になってくる。 いちいちそんなものを仮定しなくてはならないのが、どうにもうんざりであると考えるようになる。 神の存在はそれと似ている、というのは判りにくいだろうか。 数学という言語が、実験や観測の結果を踏まえて、どんなに宇宙を巧みに説明できたとしても、自然言語のまんなかに「神」なんかが立っていたのでは、すべては台無しであるというほかはない。 判らなくて、正体もみきわめられなくて、名指すことすら出来ないものが絶対として体系全体の向こうに君臨しているのでは、知性の敗北でしかない。 だから神の存在/非在の判断を保留している、いまの自分の知性は仮の存在にしかすぎないが、クリスマスは復活祭と並んで、まるで引き出しに入っている借用証のように、自分の知的なストレスを刺激する。 今日は、むかしはウィットコルという大きな書店で、いまはデパートになっている建物の前に、顔なじみのホームレスのおっちゃんが、ギターを弾いていて、少し立ち話をする。 「なあ、ガメ。ガメは神のことばかり考えているんじゃないかい?」と言われて、ほんとうは跳び上がるほど驚いたが、平静を装って、「21世紀になって、神のことなんて考えている人間がいるとはおもえないね」と述べると、この人のくせで、音もしないような、ふふふ、と笑う唇の形になって、透明なブルースギターの音がするギターで、「ルイジアナからアラバマまで、おれはギャンブルをして歩くのさ」という歌詞の、大好きな「ギャンブリンマン」を歌ってくれる。 たまたま財布にはいっていたので50ドル札を二枚渡すと、「多すぎるよ、ひとが見てるじゃないか」と奇妙なことをいって、一枚返そうとする。 また、あおうね。 もうCBDには来ないから、来年になるね。 ああ、また会おう。 あの美しい奥さんに、よろしく。 というのはモニさんも、この人のファンで、この人がここにいるときには、いつも一緒に二、三曲は聴いていくからです。 それから、ぼくは花屋に行って、いろいろな花をみつくろってつくってもらった花束を持って、バルカンレーンに行った。 去年のクリスマスまでは、ここに陣取っていたホームレスの友達が、今年の春に、刺し殺されたからでした。 花束を置きながら、「悲惨に対して不感症になっているぼくは、悲しくはない」 と呟いていた。 「ほんとうのことをいって、怒りも感じていない。でも、ここを通るたびに、きみのことを思い出してさびしい」と心のなかで述べてみると、なんだか、どこかで、友達が返事をしてくれたような気がします。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

ツイッタの友だち

ジャック・ダーシーが満面の笑みを浮かべて安倍首相と握手している写真を見て、げんなりしてしまった。 ダーシーのことだから、なにか日本政府に用事があって、首相に会えるなら会って話をつけてしまうのがいちばん早いと考えたのかもしれないが、カーター大統領と会って胸をそらせて握手する写真を撮らせて悦にいる中松博士じゃあるまいし、アホらしい、という気持が起きる。 twitterは子育ての友だった。 子供がよじのぼるジャングルジムの役が育児における主要な役割だったが、髪の毛を引っ張られてイテテテをしたり、股股さんをおもいきり膝蹴りされたりしながら、日本語の勉強をかねて、日本の社会の問題や、だし巻の作り方について侃々諤々と議論するのは、なかなか楽しかったと言わざるをえない。 頭のなかでは、日本語ツイッタはコンピュータで、英語の種々のSNSはスマートフォンでやることになぜかなっていて、習慣化して、1970年代の日本語ならば「ながら族」と言ったのだと思うが、いちばん多いのは傍らの40インチスクリーンでiTunes、Netflixやamzon.comの映画配信を見ながら、とつおいつ、あるいはだらだらとツイッタに書き込む、というパターンだった。 いま見ると2012年の7月からツイッタをやっていることになっているが、その前もアカウントを開いて、フォロワーが1000人になるとアカウントを閉じる、というのを何度かやっていたので、その1年ちょっとをあわせると、8年くらいもツイッタと付き合ったことになる。 日本語インターネットコミュニティの常で、時間が経つにつれて、やっと使い方が判るようになるのかなんなのか、ばーかーな人たちが流入して、品性が卑しい人間を見るのがなにより嫌いなので、うんざりさせられたり、友達と日本語で話す楽しみはあるにしても、こんなアホな人間たちが視界に入ってくるような地獄を通行させられるくらいだったら、やめちゃったほうがいいよね、という気持になったりしたが、twitter社の勧めに従って、どんどんブロックすることにして、 だいたいブロックが3万人を越えるころから、あんまり嫌なことに遭遇しなくなって、落ち着いて友達とよもやま話が出来る環境になってきた。 ついでにいうとSEALsの頃には、ネトウヨの人がたくさん来て、当時はブロックリストなるものを導入して、もっとブロック数も多かったが、最近は、ついにネトウヨのみなさんにも呆れられてしまったものと見えて、ご無沙汰なので、ブロックリストも外しているが、あのブロックリストというのは、友達も入っていたりして、それなりに不便なところもあるものでした。 あんまり、よいものではなかったような気がする。 3万人もブロックしているとカッコワルイので、ときどき見直して、ブロックを解除するが、いったんブロックされたのに話しかけるのが難しいのは人情というもので、ああなったりこうなったりして、これから先もくちを利く機会がない人は4万人を越えているのではないかと思います。 意図したわけではなくて、たまたまだが、フォロワーが1万人を越えるような人は、あるいは、もともとこちらが期待するからかもしれないが、たいていブロックしているので、おもしろいのは、わし友がなぜかチョーよいことを述べて、おお、と考えてRTしても、だいたい300くらいまでしか数が伸びない。 ほとんどコピペなんじゃない?というような、おんなじツイートを他の人がやると3000というようなRTになるのを見たことがあるので、友達には悪いね、というか、ちょうど疫病のワクチンを大量の人間に接種しておくと、個々には見えにくくても、社会全体としては疫病の流行が抑えられるのと同じ理屈で、RTが失速する。 ブロックをしない場合と異なるのは、しかし、そのくらいで、ブロックを大々的に増やしたことによって得られた快適さとは比べものにならない。 いま、この記事を書いている時点ではフォロー数が、いつもよりずっと多くなっていて、40人を越えているが、これはだんだんROMに変えていくための実験中だからであって平常な状態では20人内外です。 もともと正気を保つためにフォローしている何人かの英語人の友達は、まったく変わらなくて、5人くらいいる。 作家、英語教師、大学教師という顔ぶれで始めて、初めは10人くらいいたが、大学教師のひとたちは、あまりに文学上の意見が異なるので、めんどくさくなって全部フォローをやめてしまった。 差し引き、日本語アカウントでいつもフォローしているのは15人くらい。 見ると判るが、あんまりツイートしない人ばかりなので、なんだか夜更けの竹藪をフォローしているようなものです。 こちらは、見れば判るが、英語アカウントにいちばん多い、お友達アカウントに直截宛てた形の、よもやま話アカウントになっていて、ずいぶんスタイルが違うんですね、と言われたことがあったが、英語では極く標準的なスタイルのツイッタの使い方で、日本語ツイッタのように、ややカラオケステージ風というか、あんまりたくさんの人にいっぺんに話しかけるというスタイルを採らない。 見ればすぐに判るが、多数の人間の目を意識してツイートするのは、英語では殆どの場合、自分が有名人であるという自覚がある人のアカウントで、現に、自分の友達で有名人というカテゴリに入る人達を見ると、複数アカウントを持っていて、 こっそりやっているほうではWOWのギルドについて話して喜んだりしている。 よく「フォローを増やさないと様々なタイプが違う人と意見を交換できないではないか」と昔は言われたが、考えてみると、自分の生活でも、さまざまなタイプの人と話したりするのは億劫なので、なぜツイッタで「いろいろな異なった意見」を聞かねばならないのかピンとこない。 そもそも、普段の生活では、なるべく人と会わなくてすむように、なるべく友達の数が増えないように、念願して暮らしているのに、日本語ツイッタでだけ、方針を変える必要もないような気がする。 いまからもう、笑おうとひきつけの準備にかかっている、そこのきみ、 笑ってはいけません。 わしは、生来、すごい人見知りなのでもある。 Twitterという新しい窓を壁にしつらえてから、だいぶん経つので、日本語ツイッタを通して見知っているひとたちの境涯も随分変化している。 靴下をはいたら右と左が違っていたことまでツイートしているので、ヘンな人だなあーとおもってフォローしはじめたもじんどん @mojin は、スイスのチューリッヒ工科大学から、ハワイ島へテンモンな職場が変わっている。 このあいだまで22℃にもなると夏だと言って喜んでいた同じ人が、おなじ22℃で「寒い」ぶるるっ、と述べている。 正義心の強い編集者だったミナ @MinaMaedaは、たしか、退職した頃に会ったとおもうが、 たったひとりで小田急だったかの駅の改札脇に立って、安倍政権に抗議していたりしたが、自分の生活のデザインをまるごと変える決心をして、Grosgrai(グログラン)というmillinery(帽子デザイナー?)の会社をつくって、いまは居住ビザをとってオーストラリアのアデレードに住んでいる。 ブログを読む人のほぼ全員が、これを書いているやつは頭がおかしいのではないか、と確信していた頃から、ずっと暖かい気持で読んでくれていた一色登希彦 @ishikitokihiko さんは、「日本沈没」というマンガで描かれた預言の書のような不思議な本を書いたが、いまはマンガを描く道具をおいて、四国でカフェを自作自営する悦びに浸っている。 でも登希彦さんが、隠しようもなく持っている創造への内圧から見て、こういう余計なことをいうと本人は怒るだろうが、どうせまたマンガか文字か、たいへんな本を書くに違いないのではなかろうか。 やはり、終始あたたかい気持で接してくれて励ましてくれて「おれたちは仲間」とまで述べてくれた南Q太さん @murasakibashi は、本人はなんだかあっさり決まったように言っているけれども、ほんとうは、めちゃくちゃな難関であるアーティストプログラムでビザをとって、ベルリンに引っ越していった。 ベルリン、知っていますか? 文化からいうと、ベルリンは世界の中心も中心、まるで新しい文明が火口から噴き出すようになっている町です。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment

満州という原泉

銀座ワシントン靴店が戦時中は、東條靴店と改名していたのだ、というのは前にも聞いたことがある。 いま、おもいだしてインターネットで見てみると、アメリカやイギリス名前のものはとことん目の仇にされたので「ワシントン」という名前では商売が出来なかったのは、日本の社会というものを考えれば、当たり前であるとして、東條のほうは東條英機の名前に迎合したのだと、堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」に書いてあったような気がするが、そうではなくて、創業者が東條たかしという名の人で、一石二鳥で、名前を時の独裁者の名前に変更してしまったのだと想像がつきます。 独裁者、と書いたが、よく言われるように東條英機くらい独裁者のイメージにあわない人間はいない。 見るからに癇がつよそうで、陸軍幼年学校のガリ勉受験生がそのまま将軍になったような風貌の人で、昭和天皇にマジメさを溺愛されて戦時内閣の首相にまでのぼりつめた、この人の貧寒とした勤勉さが風貌によく出ている。 日本の歴史を勉強する外国人が、戦争へと突き進む日本の1930年代を学習していて、やや踏鞴を踏む気持になるのは、ファシズムの時代なのは一目瞭然なのに、では言葉の狭い意味でファシストがどこにいるのかというと、発見するのが難しくて、集団統制主義というか、そういうものならあちこちにあるが、ドゥーチェやフューラーは、どこにも存在していなくて、ちょっと途方に暮れてしまうようなところがある。 日本の国民が熱狂したファシズムの、向こう側で手をあげて答礼しているのは、実は日本人の独裁者でなくて、ドイツのヒットラーであり、イタリアのムソリーニ、で、読んでいて、こんなへんなファシズムがあるだろうか、という気持になります。 満州は戦前戦後の日本の秘密を解くおおきな鍵であるとおもう。 少しでも当時の本を読めば、「満州に眠る十万の英霊と費やされた二十億の国帑をお前は見捨てろというのか」 という言葉がいかに強力で絶対の呪文で、戦争の拡大に異論を唱えるひとびとが、民間も軍人も、男も女も、このひとことで沈黙を強いられたかは、すぐに見てとれる。 当時の日本政府は、イギリス人にとっての新天地アメリカに満州をなぞらえて、国民の入植をすすめてゆく。 軽井沢の夏の家を出て、ホテルの前の鹿島の森ゴルフ場を右に曲がって、離山の道をのぼってゆく。 鶴溜の交叉点を千ヶ滝の方向へおりて、トンボの湯をすぎて、嬬恋村への道をわたって1000メートル道路にのぼる。 いまならば道脇にビル・ゲイツの巨大な別荘が建っているはずの千ヶ滝の外れを過ぎると、大日向という村に出ます。 鎌倉と東京の夏の猛暑に辟易して、モニさんとふたりで、夏はほぼ半分を軽井沢で過ごすようになってから、だんだん上田に買い物や食事に出ることをおぼえて、国道18号線の夏の渋滞を避けて、1000メートル道路を往還するようになると、そのうちに、大日向のひときわおおきくて目につく「昭和天皇行幸碑」に気が付くようになった。 クルマをとめて、地元の人に聞くと、普段は愛想がよい人達が、困ったことを聞かれでもしたように、例の、日本人のおもしろいジェスチャー、鼻の前で手をパタパタさせて、逃げるようにいなくなってしまう。 仕方がないので図書館へ出かけて調べてみると、この大日向村は、戦前はもともと千曲川の向こうの佐久穂にある村なのでした。 それが国策で、一村を挙げて満州に移住している。 分村移民と書いてある記録もあるが、元の大日向村も敗戦とともに消滅しているところや、どうやら国策映画として取り上げられたところからみても、一村移住のモデルケースであったようにみえる。 690人が満州に渡って、例のソ連の侵攻や、満州大日向村をつくるために日本政府が強制退去させたらしい中国人たちの蜂起にあって、日本に這々の体で帰りついたときには、たった310人に減っていた。 この大日向村のように、満州へ渡った日本「満蒙開拓団」は27万人、帰国できたのは19万人弱で、集団強姦、集団自決、あるいはソ連兵に撃たれ、戦車に蹂躙され、もともとの住民だった中国人たちに殺された日本人たちは8万人を数えたことになって、ソ連兵はともかく、戦後の残留孤児帰還でさんざん報道されたらしい悲劇の美談は実は少数の事例にすぎなくて、なんの理由もなく自分たちの土地を奪われて賠償もなく追放された地元中国人たちの怒りが、いかにすさまじかったかは、中国側の証言を聞いてみると、あわてて耳を塞ぎたくなるくらいのものです。 五族協和、王道楽土という、なんとなく人をバカにしたような、うそらさむいファンファーレのような高邁なキャッチフレーズは、だからどうしても必要なものでした。 政府がいくらピューリタンのアメリカ開拓と重なるイメージをつくろうと努力しても、ほんとうは、もともと他国民の農場があった土地なので、高邁な理想を述べなければ決まりがわるい、ということだったのでしょう。 この満州に、みっつのビッグネームがあって、 鮎川義介、松岡洋右、そして岸信介をあわせて、「満州のサンスケ」といういかにも口元が汚なさそうな渾名で呼ばれていた。 鮎川義介は、この会社得意のお家騒動でカルロス・ゴーンを追いだしたのでもっか話題になっている日産自動車を創始した政商。 松岡洋右は、いわずとしれた当時の「言うべき事を言って国民の溜飲をさげせしめた」人気外務大臣で、「連盟よ、さらば」、国際連盟をかっこよく脱退して、世界中を口あんぐりにした日本風の「快男児」です。 そして三人目の岸信介が満州国国務院の官僚トップとして、満州鉄道の鉄道以外の事業の分離くらいを皮切りに、満州経営に辣腕をふるった国家社会主義経済のプランナーであり、リーダーである人でした。 で、ね。 突然、「で、ね」という妙にくだけた調子で話かけられても困るだろうけれども、鮎川と岸は血でつながった親戚、松岡と岸は縁戚で、この3人の長州人が語らって、表面は対立してみせたりしながら、あきらかな裏での談合で、満州鉄道から完全に切りはなした、日立製作所、日産自動車、日本鉱業、戦後の日本の経済成長の中核をになった企業群をおおきなオカネの袋でつつんだ従業員15万人を越える巨大財閥日産コンツェルンを中心にみていって、初めて、 「あっ。ここに日本のファシズムがあるではないか」と納得がいく。 岸信介の満州経済プランには、はっきりした、誰がみても判る特徴があって、「産業開発五カ年計画」というような名前がついて、名を聞いて、ピンとくる人が多いとおもうが、そう、満州の隣で、ちからわざで貧しいスカンピン農業国から重工業国に短期間に大飛躍を遂げた共産主義ソビエト連邦のおおきな影響を受けている。 岸信介が、西洋人にわかりやすいファシストであったのは、多分、この社会主義との類似というファシズムには欠かせない要素のせいです。 戦後、この共産主義を方法論として取り入れた反共主義者で、自分をあやうく処刑場につれていきかけた骨の髄から憎むアメリカの諜報機関CIAのエージェントとして日本の首相をつとめた、比較的わかりやすいといえるパワーポリティクスの権化の政治家は、戦後日本の大衆運動のちからで、政界からおっぽりだされてしまうまで、吉田学校の政党保守勢力と本質的に対立する隠れ右翼として政界におおきなちからを貯えてゆく。 日本の戦後史のわかりにくさは、その歴史の淵源が満州にあるからでしょう。 日韓関係ひとつにしても満州国将校だった高木中尉、すなわち朴正煕は、後に大韓民国の大統領になるが、この人も岸信介同様、満州時代については、肝腎なことはなにもいわないで蓋をしてしまうことになる。 もっと細かいことに目を向ければ、ほら、日本のマスメディアが中国と韓国の反目を、ごく楽しそうに報道するでしょう? でも、中国人と韓国人のあいだに、(たしかに存在する)民族的なわだかまりは、満州において一貫して「日本人の手先」とみなされた韓国人たちへの中国人たちの怒りがおおもとになっている。 韓国人からすれば日本に背中を銃剣でつつかれてどやされてやむをえないでやったことも、中国人から見れば「日本人の走狗」としか映っていない。 中国人と韓国人の疎隔は、日本の人がよく口にしたがる高麗や李氏朝鮮よりも、もっと最近の満州における軋轢のほうがおおきいのだ、というようなことは、朝鮮系人や中国系人の移民のひとびとと話してみないと判らなかったことで、日本語では、どうも、そういう歴史情報は乏しいように見えました。 安倍晋三首相が自分で認めているように、同じ自民党と名前はついていても、吉田茂を水源とする保守派とはいまの政権は無縁で、かなりはっきりとした国家社会主義指向政権だが、それ自体は、日本人自身が選挙で支持して成立させた政権なので、はたからとやかくいうことではないが、では、このファシズムの系譜はどこからきたのだろう、とおもって眺めると、満州にその水源があった、という発見で、おもわず記事をひとつ書いてしまった。 … Continue reading

Posted in Uncategorized | 1 Comment