満州という原泉

銀座ワシントン靴店が戦時中は、東條靴店と改名していたのだ、というのは前にも聞いたことがある。
いま、おもいだしてインターネットで見てみると、アメリカやイギリス名前のものはとことん目の仇にされたので「ワシントン」という名前では商売が出来なかったのは、日本の社会というものを考えれば、当たり前であるとして、東條のほうは東條英機の名前に迎合したのだと、堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」に書いてあったような気がするが、そうではなくて、創業者が東條たかしという名の人で、一石二鳥で、名前を時の独裁者の名前に変更してしまったのだと想像がつきます。

独裁者、と書いたが、よく言われるように東條英機くらい独裁者のイメージにあわない人間はいない。
見るからに癇がつよそうで、陸軍幼年学校のガリ勉受験生がそのまま将軍になったような風貌の人で、昭和天皇にマジメさを溺愛されて戦時内閣の首相にまでのぼりつめた、この人の貧寒とした勤勉さが風貌によく出ている。

日本の歴史を勉強する外国人が、戦争へと突き進む日本の1930年代を学習していて、やや踏鞴を踏む気持になるのは、ファシズムの時代なのは一目瞭然なのに、では言葉の狭い意味でファシストがどこにいるのかというと、発見するのが難しくて、集団統制主義というか、そういうものならあちこちにあるが、ドゥーチェやフューラーは、どこにも存在していなくて、ちょっと途方に暮れてしまうようなところがある。

日本の国民が熱狂したファシズムの、向こう側で手をあげて答礼しているのは、実は日本人の独裁者でなくて、ドイツのヒットラーであり、イタリアのムソリーニ、で、読んでいて、こんなへんなファシズムがあるだろうか、という気持になります。

満州は戦前戦後の日本の秘密を解くおおきな鍵であるとおもう。

少しでも当時の本を読めば、「満州に眠る十万の英霊と費やされた二十億の国帑をお前は見捨てろというのか」
という言葉がいかに強力で絶対の呪文で、戦争の拡大に異論を唱えるひとびとが、民間も軍人も、男も女も、このひとことで沈黙を強いられたかは、すぐに見てとれる。

当時の日本政府は、イギリス人にとっての新天地アメリカに満州をなぞらえて、国民の入植をすすめてゆく。

軽井沢の夏の家を出て、ホテルの前の鹿島の森ゴルフ場を右に曲がって、離山の道をのぼってゆく。
鶴溜の交叉点を千ヶ滝の方向へおりて、トンボの湯をすぎて、嬬恋村への道をわたって1000メートル道路にのぼる。
いまならば道脇にビル・ゲイツの巨大な別荘が建っているはずの千ヶ滝の外れを過ぎると、大日向という村に出ます。

鎌倉と東京の夏の猛暑に辟易して、モニさんとふたりで、夏はほぼ半分を軽井沢で過ごすようになってから、だんだん上田に買い物や食事に出ることをおぼえて、国道18号線の夏の渋滞を避けて、1000メートル道路を往還するようになると、そのうちに、大日向のひときわおおきくて目につく「昭和天皇行幸碑」に気が付くようになった。

クルマをとめて、地元の人に聞くと、普段は愛想がよい人達が、困ったことを聞かれでもしたように、例の、日本人のおもしろいジェスチャー、鼻の前で手をパタパタさせて、逃げるようにいなくなってしまう。

仕方がないので図書館へ出かけて調べてみると、この大日向村は、戦前はもともと千曲川の向こうの佐久穂にある村なのでした。
それが国策で、一村を挙げて満州に移住している。
分村移民と書いてある記録もあるが、元の大日向村も敗戦とともに消滅しているところや、どうやら国策映画として取り上げられたところからみても、一村移住のモデルケースであったようにみえる。

690人が満州に渡って、例のソ連の侵攻や、満州大日向村をつくるために日本政府が強制退去させたらしい中国人たちの蜂起にあって、日本に這々の体で帰りついたときには、たった310人に減っていた。

この大日向村のように、満州へ渡った日本「満蒙開拓団」は27万人、帰国できたのは19万人弱で、集団強姦、集団自決、あるいはソ連兵に撃たれ、戦車に蹂躙され、もともとの住民だった中国人たちに殺された日本人たちは8万人を数えたことになって、ソ連兵はともかく、戦後の残留孤児帰還でさんざん報道されたらしい悲劇の美談は実は少数の事例にすぎなくて、なんの理由もなく自分たちの土地を奪われて賠償もなく追放された地元中国人たちの怒りが、いかにすさまじかったかは、中国側の証言を聞いてみると、あわてて耳を塞ぎたくなるくらいのものです。

五族協和、王道楽土という、なんとなく人をバカにしたような、うそらさむいファンファーレのような高邁なキャッチフレーズは、だからどうしても必要なものでした。
政府がいくらピューリタンのアメリカ開拓と重なるイメージをつくろうと努力しても、ほんとうは、もともと他国民の農場があった土地なので、高邁な理想を述べなければ決まりがわるい、ということだったのでしょう。

この満州に、みっつのビッグネームがあって、
鮎川義介、松岡洋右、そして岸信介をあわせて、「満州のサンスケ」といういかにも口元が汚なさそうな渾名で呼ばれていた。
鮎川義介は、この会社得意のお家騒動でカルロス・ゴーンを追いだしたのでもっか話題になっている日産自動車を創始した政商。
松岡洋右は、いわずとしれた当時の「言うべき事を言って国民の溜飲をさげせしめた」人気外務大臣で、「連盟よ、さらば」、国際連盟をかっこよく脱退して、世界中を口あんぐりにした日本風の「快男児」です。

そして三人目の岸信介が満州国国務院の官僚トップとして、満州鉄道の鉄道以外の事業の分離くらいを皮切りに、満州経営に辣腕をふるった国家社会主義経済のプランナーであり、リーダーである人でした。

で、ね。
突然、「で、ね」という妙にくだけた調子で話かけられても困るだろうけれども、鮎川と岸は血でつながった親戚、松岡と岸は縁戚で、この3人の長州人が語らって、表面は対立してみせたりしながら、あきらかな裏での談合で、満州鉄道から完全に切りはなした、日立製作所、日産自動車、日本鉱業、戦後の日本の経済成長の中核をになった企業群をおおきなオカネの袋でつつんだ従業員15万人を越える巨大財閥日産コンツェルンを中心にみていって、初めて、
「あっ。ここに日本のファシズムがあるではないか」と納得がいく。

岸信介の満州経済プランには、はっきりした、誰がみても判る特徴があって、「産業開発五カ年計画」というような名前がついて、名を聞いて、ピンとくる人が多いとおもうが、そう、満州の隣で、ちからわざで貧しいスカンピン農業国から重工業国に短期間に大飛躍を遂げた共産主義ソビエト連邦のおおきな影響を受けている。

岸信介が、西洋人にわかりやすいファシストであったのは、多分、この社会主義との類似というファシズムには欠かせない要素のせいです。

戦後、この共産主義を方法論として取り入れた反共主義者で、自分をあやうく処刑場につれていきかけた骨の髄から憎むアメリカの諜報機関CIAのエージェントとして日本の首相をつとめた、比較的わかりやすいといえるパワーポリティクスの権化の政治家は、戦後日本の大衆運動のちからで、政界からおっぽりだされてしまうまで、吉田学校の政党保守勢力と本質的に対立する隠れ右翼として政界におおきなちからを貯えてゆく。

日本の戦後史のわかりにくさは、その歴史の淵源が満州にあるからでしょう。
日韓関係ひとつにしても満州国将校だった高木中尉、すなわち朴正煕は、後に大韓民国の大統領になるが、この人も岸信介同様、満州時代については、肝腎なことはなにもいわないで蓋をしてしまうことになる。

もっと細かいことに目を向ければ、ほら、日本のマスメディアが中国と韓国の反目を、ごく楽しそうに報道するでしょう?
でも、中国人と韓国人のあいだに、(たしかに存在する)民族的なわだかまりは、満州において一貫して「日本人の手先」とみなされた韓国人たちへの中国人たちの怒りがおおもとになっている。
韓国人からすれば日本に背中を銃剣でつつかれてどやされてやむをえないでやったことも、中国人から見れば「日本人の走狗」としか映っていない。

中国人と韓国人の疎隔は、日本の人がよく口にしたがる高麗や李氏朝鮮よりも、もっと最近の満州における軋轢のほうがおおきいのだ、というようなことは、朝鮮系人や中国系人の移民のひとびとと話してみないと判らなかったことで、日本語では、どうも、そういう歴史情報は乏しいように見えました。

安倍晋三首相が自分で認めているように、同じ自民党と名前はついていても、吉田茂を水源とする保守派とはいまの政権は無縁で、かなりはっきりとした国家社会主義指向政権だが、それ自体は、日本人自身が選挙で支持して成立させた政権なので、はたからとやかくいうことではないが、では、このファシズムの系譜はどこからきたのだろう、とおもって眺めると、満州にその水源があった、という発見で、おもわず記事をひとつ書いてしまった。

ついでに、というとひどいが、いかにも奇妙奇天烈におもえた「対米追随主義右翼」という摩訶不思議なアイデアが、どこから来たのかも、判明してしまった。

もとをただせば和魂洋才、脱亜入欧、例の日本の特異の異種接ぎ木主義だったようです。

日本が対外侵略に乗り出せば話は別だが、安倍政権は、外国政府にとっては、ほぼ理想的な政権で、いままで貯めに貯めた国富は、いままで言を左右にして指一本外国人には触らせなかった個人資産にアクセスする権利をオーストラリア投資会社に与えて、というのは現代の投資世界を理解していればアホでもわかるが、世界中の英語圏の投資家にアクセスする抜け穴をつくって、あるいは、前提知識として急いで述べるといまの世代の戦闘機はソフトウエアの空飛ぶプラットフォームだがポンッと気前よく一機百億円で、少なくとも目下はバグだらけで、しかもソフトウエアが実装されていない部分まであるので有名なF35を140機も買ってくれるは、しまいには、なんの理由もなくて、ただ手土産にオカネを渡して、もらったほうが呆気にとられるという外交史上でも珍しいことまでやって、極めつきは、政府の保証つきという、これも世に稀な、まるで太っ腹のやくざが開帳した賭場にでも化けたような株式相場という、株式投資家からすると、現実感すら起きない夢のボロ儲け相場をつくってくれて、多分、この世界には安倍首相のたるんだ頬肉にキスしてあげたいとおもっている人が、うじゃうじゃ住んでいるとおもいます。

しかもしかも、日本の経済は戦後最長の空前の好景気を続けながら市場の実質は縮退をつづけて、例えば株式市場でいえば、8%くらいのところにまでちぢんで来ているはずで、このことには実は重大な意味があって、以前ならば日本の経済あるいは財政が崩壊するなんてとんでもないことで、そんなことをされると、世界中が巻き込まれて大変な惨劇になってしまう。

ところが、いまくらいの大きさの経済にまで総体として小さくなってくれると、「条件によっては、なんとかなるかな?」というところまで来ている。
しかも例えば国債の買い手を見ればわかるが、日本の経済は、そういう言い方をすれば極めて特殊で、本来、国の経済を破壊する方向へ働くプレッシャーが、個々の国民の生活を破壊する方向へ自動的に転換されるように出来ている。
国がデフォルトになる前に、国民個々の生活がデフォルトになるなんて、冗談じみているが、日本という国にあっては現実なんです。

日本人は、多分、これからも「好景気だあー。好景気だあー」と叫びながら、着々と、だんだんビンボになっていって、いま先進国のへりっこにぶらさがっている生活水準は、やがて、東南アジア諸国に抜き去られる運命なのでしょう。

考えてみると、これは、若い国家社会主義経済官僚だった岸信介たちが夢見た、「オカミのためにすべてを投げ出して報国する日本人」そのもので、満州で官僚と軍人たちがもった見果てぬ夢は、80年後の本土でついに実現したのだ、と言えなくもない。

前に天然全体主義という言葉を使ったが、経済が落ち目になると個々の国民の富をサイフォンを使って吸い上げるようにして社会が吸い上げる道をつくった日本人の社会文化を基幹とした収奪の手管には、アイデアとして、素晴らしい天才としかいいようがないところがある。
もうそろそろ、この日本の社会のやりかたを見習った「新全体主義」というような名前を命名してもいいころだとおもうが、興味津々、もう少し、あと数年、観察してからでも遅くはないようにおもっています。

なんのことはない、王道楽土は、もう、日本の本国に出来てしまっているのですから。

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