ある欧州人への手紙

「母親が部屋に入ってきたが、そこに私がいることには気が付かないようでした」
母親は、私を見ているのに、私の姿が見えないのです。
おかあさん。
私はここにいるのよ。
あなたの娘は眼の前にいるの。
なぜ、私をちゃんと見てくれないの。
なぜ…..

「わたしは娘がそこにいるのを知っていました。
でも、娘がいることだけがわかっていて、どこにいるのかは判らなかった。
娘がなぜ自分がどんな姿でいるのか見せてくれなかったのか、理由は判りません。
わたしは娘の名を心のなかで呼んでみましたが、娘は答えてはくれなかった。

…それからですか?
私はドアを閉じて、部屋を出て、そのまま家をあとにしてきたのです」

おぼえている会話はそれだけで、B級ホラー映画ということになるのだろうが、その会話だけを妙にはっきりとおぼえているのは、脚本家が意図していなかったはずの、親子というものの姿が、よく描かれているとおもったからだろうとおもう。

そんなヘンな映画の見方があっていいものか、ときみは笑うだろうし、実際、この世界は、世界の意味性というコンテクストのなかで生きているきみの言う通りなのだろうけど、ぼくはきみがよく知っているとおり、現実の世界よりは遙かに断片化された世界に生きている。

日本にいるとき、なぜ自分がこれほど能楽にひかれるのか理解できなかった。
母親も妹も父親も、歌舞伎のほうがずっとおもしろいと述べていたし、言いたい事は判らなくもなった。
歌舞伎の華やかさや物語の合理性は、とてもわかりやすい娯楽で、まるでよく利くマッサージのように気持をほぐしてくれるからね。

ところが、ぼくときたら能楽のほうが百倍も千倍も好きだったんだよ。
好きこそで、例えば、面を片手で覆う仕草が能楽では号泣を意味しているのだというような約束事も、説明される前から知っていた。

知っていた、というよりも、ほかに受け取りようがないではないかとわざわざ解説する人の顔をまじまじと見つめてしまったりしていた。

いまならなぜ自分が、たったの十歳の子供にしかすぎないのに、歌舞伎よりも能楽のほうがずっと気に入っていたか判る。

能楽のほうが自分が生きている世界のコンテキストに近かったからだろう。
歌舞伎や物語のように、起承転結があって、ひとつづきに現実が生起する世界にぼくは生きてきたことがない。

ぼくは刹那から刹那への飛び移る時間を生きていて、はたして自分が現実であるのか亡霊であるのかもはっきりしない意識のなかで、まさに、能楽のなかの、この世に未練を残して死んだ霊魂のように生きてきてしまったのだと思います。

霊魂が死んだら、なにになるのかって?
それは形を失った時間のすみずみまで広がった、緊張のない、いわば句点のない文のような生の広がりになるのだろう。

形がない生命。
人間の精神には耐えることができない、緊張も物語もない、ただの茫漠とした意識の広がり。

あるときからずっと、ぼくは自分が世界から意味性をすっかり抜き去って見ていることに気が付いていた。

どんなふうに言えば、うまく言えるだろう?
猫が見ている世界のようなものだと言えばいいだろうか?

哲学者は世界を考察するために生きているが、彼らの最大で致命的な欠点は、自分が「言語」を使って考えていることの恐ろしさをちゃんと判っていないことなのではないかとおもうことがある。

子供向けの伝記本にはガリレオはピサの斜塔から鉄球と羽根を落としたり、軽い球と重い球を落下させて落下速度の違いは空気の抵抗によるので、質量は落下速度に影響しないと見いだしたことになっているが、それは初めにその話をつくった本の書き手がワインを飲み過ぎた二日酔いでめんどくさかったか、〆切りに追われていたかしていたからで、現実にはもちろんガリレオ・ガリレイは、そんな杜撰な実験をしたわけではなかった。

角度がゼロの斜面からすこしずつ角度N(N<90)度の斜面を考えていって、直観的にもわかりやすい、傾斜を転がって同時に終点にいきつく球が90度になった場合が落下なのだと考えたのだった。

これは現実に実験したのですらなくて、すべて思考によったのだけど、ここで使われている言語は哲学者たちが使う言語と、おなじ自然言語であるのに明らかに異なっている。

いわば現実が直輸入された言葉で、現実そのものは「猫が見た世界」と少しも変わらない。

それが「言葉が存在しない世界」になれた自分には、よく判るのだといえば虫がよすぎるだろうか。

なぜそんなことをおもいついたかというと、小さな子供の頃から旅行ばかりしていたぼくは、まったくなにを言っているか見当もつかないひとたちがたくさんいるところで、でも文字通りちやほやされて、言葉というものを音として聴くことになれて、意味などはずっと優先順位が低いものだったからではないかとおもうんだけど。

時間に始まりがあって、それがリニアかつシーケンシャルに現在をつらぬいて未来へ向かっていくものだというのは、むろん、仮定にしかすぎない。
それは「人間がそういう観点から時間を眺めている」という意識の表明にしかすぎなくて、ほんとうは時間は未来から逆行してくる時間とのあいだでせめぎあって、ちょうど河口で川の水と満潮の水が至るところに時間の渦をつくったり、奇妙な方向に流れていたりするのかもしれないし、実は二次元で比喩できるものですらなくて、まったくn次元的なものかもしれない。

あるいは複素数的な表現こそが世界の実情にあっていて、実数的な世界観を持つわれわれは、素朴な観察のみによって世界を解釈した祖先がつくった言語にすっかりだまされているだけかもしれない。

余計なことをいうと、哲学者が有効な思考において、ますます文学者に似てきてしまったのは、つまりは、そういう事情ではないだろうか?

ではわれわれはなにを手がかりに生きていけばいいかというと、多分、それはある「寂しさ」であるとおもっています。

存在の寂しさ。
この世界をいずれは去っていかねばならないものの寂しさ。

真を知らず、善にめぐりあわず、不完全な美に満足して死ななければならなかった生物の寂しさ。

自分にとっては、犬も、さっき例にだした猫も、その寂しさだけは人間とおなじに、あるいは人間以上に、言語が介在しないだけ明瞭に判っていて、その寂しさをめざして生きているように観察してきました。

われわれは何千年か、何万年か、言語によって世界を認識してきたけれども、ほんとうは、それによって欺かれてきたのでもある。

むかし夏をすごしていた牧場で、夜更けに、ひとりでびっくりするほど濃い青色の月の光のなかを歩いていて、ふと言葉の外に歩み出てしまったことがある。

あるいは、「いま自分は言語の外に出てしまった」と感じられた一瞬があった。

そのときに言語がいかに世界と自分とを隔ててきたか知った。

どんなにあらゆる種類の音を避けて、静かな場所へ行こうとしても、人間は自分の体内から聞こえてくる音からはのがれることができないが、人間の存在が言語からのがれることが難しいことは、それによく似ている。

いまのところ、ぼくもモニも、欧州に帰るつもりはありません。
この手紙が、そのことに対するきみの怒りへの十分な返答になっていることを望みます。

少しは誠実でいるために、この手紙の草稿をぼくは日本語で書いたことを告白しておきます。

理由は、言うまでもないとおもう。

では

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1 Response to ある欧州人への手紙

  1. says:

    日本は子供の将来のことを考えない国なのかという呟きを反芻していて、確かに子供というのは親の言うことを聞かないなら捨てると言われたり、親のお金ばかり消費する悪い存在として扱われていたり、親に縋ることで親の自尊心を支える道具なのだと感じるような気がするけれど、子は宝、子は授かるもの、子は愛しいものという考えもあるから、どちらが本当なのだろうと思った。
    どちらかというと、子を宝として大切にする方がいいなと思う。しかし、それをどなたか親に言えば、ならば親は大事にされないのかと不安がらせるので、人間として一括りに大事なのだと説得せねばならないのだけど、うまく伝わらない。
    会話において、まず自分の不安を打ち明ければ話の道筋ができるのではないかと思い打ち明けるが、結局不安が伝染する為、相手を怖がらせたり、痛ませたりするばかりで終わる。
    残るのは苦い想いを打ち明けた罪悪感ですが、しかし負の感情は負の出来事を惹きつけるというので、罪悪感を捨てる。
    でも、捨てたとして、それははたして宇宙のどこかにいるものなのか、それとも消えて違うものに生まれ変わるのか、知らない。
    或いは忘れた分だけ、傷つけた相手に深く刻まれるのか。
    一体、会話上手な人は、どのように話をするのだろうと思います。
    私は日本にいるけれど、他人と挨拶以上の話をすることがありません。
    挨拶以上の話をしようとすると、人がいなくなります。
    なので、黙って映画を見たり、インターネットをみます。
    みんなは、楽しそうに人同士で話して繋がっているので、ああいうのが真っ当な人間なのだと憧れますが、真似しようとするとうまくいかないので、運命なのかなと思います。
    英語をもっと使えれば人間になれるのかなとも思いますが、英語を今より理解しても人間になれなかったらと思うと、怖いな、と思います。
    希望がなくなるから。
    英語に詳しくなろうとすることは、希望の消費になりはしまいかと恐れています。
    生きる時間がたくさんあるならなんでもやってみた方がいいと思いますが、何かを学ぶごとに、するごとに、自我が崩れていく感覚がするので、時間が止まってほしいと思いますが、それは死なのだと考えると、いや、学びで一度訪れる崩れは仕方ないんだよとも思われます。
    でも、そもそも言語全般に対してある恐怖心は、なくそうなくそうとしても、深まっていくので、言葉を紡ぐことで解放される人が羨ましいです。
    英語の人は、言葉が得意に思えて、羨ましいです。
    生の空気を纏った言語、英語。
    主語のある言語、英語。
    中国語と同じ語順だという、英語。
    鉄の匂いのする言語、英語。
    英語の記事を見ると、明らかに日本語と違って、力強くて、逞しく感じられます。
    英語というのは、触れると、光というか、恒星、光線の輝きの上に一直線に乗った言語のように感じられる現在です。
    英語の記事には焼き尽くすような力を感じますが、それは現在の己の心境の所為なのか、もともとそうなのか、わかりません。
    英語で考え、英語で涙し、英語で笑い、英語で血を流し、英語で眠る人というのは、常に「I」という主語を用いるのだろうかと思うと、不思議な感覚です。
    Iは、integrity の頭文字、背骨のようにまっすぐと立った文字、鼻筋、指、日なたの猫の瞳孔の形。
    日本語は、僕、俺、私、妾、朕、我、儂、あちき、おいどん、等々ばらばらとあって騒がしい風景です。
    英語は、ひとつのI、並べるとI I I I I 、くらいしか知らないのですが、寂しさには最適な姿形だと思いました。
    漢字の「人」は人と人が支え合っているという象形文字で、分解すると、IとIが支え合っているという形です。
    人は一人では人ではないということかと思います。二人いてはじめて人になります。
    中国の発明、漢字は綺麗です。
    英語の並ぶ綺麗さと違う綺麗さがあります。
    英語って、どんな性格なのだろう、と思います。
    不思議です。
    英語って、なんですか?
    日本語は、なんだか液体のようなのだと思いました。
    英語は、それを掬うスプーンのようにかたく感じる現在ですが、英語で思考する人は、全く違う感触で生きているとしたら、綺麗だなと思いました。
    英語の人は英語の液体を飲んで英語の液体になるのか、英語の液体の上に船を浮かべて英語を眺めるのか、どんな無意識で英語に接するのだろう、と思いました。
    わからないことかもしれませんが。
    やはり英語という存在は不思議です。
    あなたの日本語から、隠されている英語の気配がするのがすごく美しいです。
    あなたの英語の気配は、光の粉を纏っているように感じます。
    生き物の光というより、概念としての光というか、透明な光という印象です。
    でも確かにあなたの文章は英語ではなく日本語で、日本語の肉の味がするので、言語って不思議だなと思います。
    それに多分、英語の人が書いたという事前情報による先入観がなければ、感じたつもりの気配が消えるのかもしれないと仮定すると、気配というのは呆気ないものだと思います。わかりませんが。
    すみません、何が言いたいかと言うと、言語って私達人間にとってなんなのだろうということです。

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