Monthly Archives: March 2019

国とは、なにか

ジャシンダ・アーダーンは今日(3月29日)はマオリのクロークを身に付けて現れた。 モスク銃撃を生き延びたムスリム人が、コーランの朗唱をいくつもはさんだスピーチをしたあとだったので、息をしやすく感じたニュージーランド人もおおかっただろう。 ハグリーパークをぎっしり埋めつくして見える聴衆は、でも、ハグリーパークを知っている人なら誰でも判る、どんなに人が集まっても、あの広大な芝生の上では頼りない人間のパッチにしか見えない。 圧倒的で莫大な緑とほんの少しの人間、という構図は、ニュージーランドの原風景で、都会のまんなかの公園でも、やはりおなじことです。 アーダーン首相という人は、びっくりするほど素晴らしい演説をする人で、ボロ負けに決まってると言われた労働党を率いて選挙に臨んで、「ジャシンダって、だれだ?」と言われながら、与党国民党に肉薄する票を集めて、国民党の勝利宣言を横目で見ながら排外的な右翼大物政治家ウィンストン・ピータースと手をにぎって、 国民もマスメディアもあっと言わせる大逆転で権力の座についたことにも、この人の「言葉の力」が大きかった。 誇張しすぎなのではないかという人が現れそうだが、近代の政治家でジャシンダ・アーダーンほど演説の言葉の力によって人を動かせる政治家はウィンストン・チャーチルくらいしか思い浮かばない。 首相に就任したばかりのときは、百戦錬磨のベテラン政治家ウィンストン・ピータースに手のひらの上で踊らされて一年もたないのではないかと危ぶむ人がおおかったが、蓋を開けてみると、マオリのクロークを着て訪問した連合王国からはじまって、まず外交でびっくりするような成果をみせ、今回の多文化主義社会ニュージーランドのコミュニティ間の分裂を生んで不思議がないモスクでの銃乱射事件のあとでの一連の演説は、分裂どころか、ニュージーランド人の結束を強める結果になった。 剛腕というか、すさまじいほどの政治力で、アメリカ人や連合王国人がニュージーランド人に対して、あんな大政治家が小国の首相ではもったいないと失礼なことを述べるところに来ている。 むかし、冬の連合王国を離れて、天国のような夏のクライストチャーチにやってくるたびに「この国は素晴らしい国だが、若すぎてアイデンティティがまだない」と妹と兄とで言い合った。 思い出してみると、まったく可愛げのないガキたちだが、実感でもあった。 子供という生き物はバカなので若さよりも歴史をありがたがる。 なにしろ、そのころのニュージーランド人たちと歴史の話をしていると、ニュージーランドの歴史を話していたのがいつのまにか連合王国の歴史になっていて、いったい自分がイギリス人なのかニュージーランド人なのか、自分でもあんまりはっきりしていない人が多かった。 空間的に遠いだけでなくて、時間の上でもゆっくり過去を進行している南半球のイギリス、という意識だったと思います。 ぼんやり考えると、なんとなく「イギリスの田舎みたいな国」だったニュージーランドが、ところが、ジャシンダ・アーダーンの言葉によって、ほとんど日毎に国としてのアイデンティティをつくってゆくのを同時的に目撃するのは、心地よい楽しい経験であると言わないわけにはいかない。 アーダーン首相の演説の特徴は、感情を隠さず、弱さも隠さずに、そのまま言葉にして述べることで、銃撃直後の演説は特に、ジャシンダ・アーダーンの怒ったときのボディランゲージが全部盛り込まれていて、この人の、身体を震わせるような、「自分たちの仲間」が殺されたことへの、すさまじい怒りが伝わってきて、アーダーン首相を個人のつながりや私的な小さな集まりで知っている人間たちにとっては、怒りの深ささえ、よく判るものだった。 われわれはみな、個人個人が幸福になるために、この国へやってきて根を下ろした。 その幸福の基礎はhumanityでなければならない、とアーダーンは繰り返し述べる。 そんなにビンボ人の福祉にオカネを注ぎ込んだら国民は税金でたいへんなことになると述べる国民党の政治家たちに対しても、移民を制限するべきだ、このままではニュージーランドは我々の国ではなくなってしまうと述べる旧い世代の移民である国民たちに対しても、あるいはイスラムの教えにしたがって寛容社会をつくろうと呼びかけるムスリムのリーダーたちに対しても、計画経済政策を成功させてきた歴史を誇りにする労働党の社会主義リーダたちに対してさえ、ジャシンダ・アーダーンはおなじ言葉humanityを繰り返してきた。 人間を人間として扱うことが国の基礎だ、と強い口調で述べてきた。 安価な住宅の供給、世界的にも五指にはいるオーストラリアに対して高いとは言えない賃金の是正、次々と打ち出す政策は、つまりは 「人間が人間らしく暮らせる社会環境をつくる」という点で一貫している。 友達も自分自身も、ジャシンダとは反対の政治的立場にいる。 これを書いている本人は、もともと「政府なんか、いらん」という立場で、そんなものは最小にしておいて、さっさとブロックチェーンの検証理論とAIによってカバーできることはカバーする新世代の政府をつくったほうがいい、という意見です。 実際、ニュージーランドは他国に遙かに先駆けて、そうなってゆくとおもう。 いまの「国家」のイメージとは凡そ似ても似つかない国になっていくのでないと、第一、おもしろくない。 幸いなことには、ニュージーランドに集まって来ているIT研究者や事業家はAIエキスパートが多いので、例えば、ちょっと理由があって名前はかかないが、Viaductにある聡明な女の人が社長の某会社などは先端的なAIサービスを始めたところです。 生活のレベルでもアバターを使って、AIと音声認識を組み合わせた顧客サポートは、すでに現実化されていて、一部の銀行ではもう始まっているのだったか、始まるところか、話を聴いているときに酔っ払っていたので時期をちゃんとおぼえていないが、コスト削減のためにインドやフィリピンにつなげる電話サポートのようなマヌケなサービスの時代は終わって、顧客がサイト側に用意されたビデオフォンのアイコンをクリックすると、現実の人間と区別がつかない、実際にはAIが生成したサポート担当が顧客の質問を音声認識で聴き取って、AIが返答する。 ニュージーランドという国は、ド田舎時代ですらカラーテレビネットワーク放送が世界でいちばん早かったので判るとおり、変わるとなったら、あっというまにガラッと変わる国なので、図書館やカウンシル、政府のサービスも争っておなじスタイルのサービスになるのは目に見えている。 だから、まあ、つなぎにテキトー政府をはさんで政府なんてなくしていいんじゃない?というのが考えで、ジャシンダ・アーダーンが率いる「強力な政府」は迷惑であるし、経済について、内輪や公的な場での発言を聞くかぎり、この人が首相のあいだは経済は不景気で決まりだな、と他の投資家や会社のCEOたちと、あんまり品がよくない冗談を言ってなぐさめあったりしている。 それでも、一緒にジャシンダ・アーダーンの国民が力をあわせてひとりひとりの国民が幸福な生活を送る国にしよう、 人種差別は相変わらず存在するが、この国では歓迎されない。 あらゆる種類の暴力と差別は歓迎されない。 この国から排除されるべきものだ、とアーダーンが訴えるのを一緒に観ていて、 日頃はオカネの話に夢中のおっちゃんたちが涙を浮かべて聴き入っている。 声を詰まらせながら、「首相は経済政策はアホだが、人間としては、いいな。尊敬に値する」と強がっている。 投資家友達が「まあ、もういいや。ジャシンダのあの古くさい社会主義経済的な考えじゃ何年かオンボロ経済になってビンボになるだろうが、国ができるためのお代だとおもえば仕方がない」と述べていた。 すかさずオーストラリア人の同業者の友達が、「この人、こんなこと言ってるけど、シンガポールとオーストラリアに大金移動させてんだぜ」と言って笑っていたが。 国が個々の国民個人のためにある、というのはニュージーランドでは昔からあたりまえのことでした。 オークランドやウェリントンにいると判らないが、ニュージーランドの背骨は、あくまで農場の国だからです。 … Continue reading

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人間であるという難問について

行ってみると幅が3メートルくらいの道路だった。 花屋があったのをおぼえているので、いまでも場所を特定するのは簡単なのではなかろうか。 ビルの4階の窓から通りを隔てた反対側のビルの窓に向かって「奇声を発しながら」コンピュータを投げつけている男がいると警察に通報があったのは、なにしろ夜中で、東京駅のすぐ近くのオフィス街のことなので、たまたま通りかかった通行人か、近くのビルで深夜まで働いていたサラリーマンかなにかだったのでしょう。 「なんだか、でっかい男の人で、大声で叫びながら、コンピュータやモニターを向かいのビルの事務所に向かって投げつけているんですけど、その叫び声が、どうも英語なんですよね」 と述べている。 警官が通報を聞いて4人で急行してみると、なるほど2メートルは優にありそうな大男のガイジンが、いくつもいくつもデスクトップコンピュータを通りを隔てたビルに向かってぶん投げている。 やめなさい、と言っても、ぜんぜん、やめません。 おとなしくお縄につく様子が微塵もないので、4人でわっと取りかかったら、 あっというまに4人とも殴り倒されてしまった。 いったん待避して、本部に応援を要請して、結局40人動員してやっと取り押さえた、とあります。 ニュージーランドのクライストチャーチからセールスにやってきて、供述によると、「こんな社会は人間の社会ではない」とおもったのが理由だという。 どいつもこいつも、マジメで礼儀正しい、規則を守って勤勉に働くクソ野郎ばかりだ、と取調室でどなりまくって、そのまま眠りこけてしまったそうです。 マイケルジャクソンの幼児性愛の実態を被害者の口から洗い浚い詳細なディテールとともに述べたLeaving Neverlandは破壊的なドキュメンタリだった。 最もショックがおおきかったのは、言うまでもない、数多くのアルバムセールスの売り上げ世界記録を支えたマイケルジャクソンのファンたちで、最も一般的な感想は「もうマイケルジャクソンの音楽を(精神的に)聴けなくなってしまった。 それが悲しい」というものでした。 HBOのドキュメンタリが、あちこちでネットのオンライン公開になった、ちょうどその日に、名前を聞いたことがない、なんとかいう名前の日本の俳優がコカインでつかまって、まだ判決が出たわけではないが、警察がつかまえて、本人が「やった」と言ってるんだから科人だろう、という日本の習慣にしたがって、すっかり有罪あつかいになって、その結果、いろいろなドラマに多岐に渉って出ていたらしいのが、どうやら全部、例えばDVDなら回収になるらしい、というニュースがあったようだったが、マイケルジャクソンの場合は、そういうことではなくて、気持の上で隔壁ができてしまって、マイケルジャクソンの声をもう聞けなくなってしまった、という意味です。 去年は巧みな演技で知られるケヴィン・スペイシーが、やはり未成年に対する同性愛で告発されて、主演していたNetflixのドル箱ドラマHouse of Cardsが打ち切りになった。 すでに撮影をほぼ終了していたAll the Money in the Worldは、急遽Christpher Plummerを代役に立てて取り直しをするという離れ業を演じて完成にこぎつけた。 こういう流れは文明の段階が進歩するにつれて、女の人であったり、子供であったりする、より最悪には女の子供であったりすれば、どうなっても文句すら言わせてもらえないような社会が、徐々に、いらいらするほどゆっくり、人間であれば属性がなんであろうが、みなが(考えてみれば、あんまり当たり前で茫然とすることには)平等である、同じ人間であるにしかすぎない、という偏見による乱雑さが解消される方向にすすんでゆく自然の流れにしかすぎない。 発端は、ハリウッドの帝王と言われたプロデューサーHarvey Weinsteinが無数の性的ハラスメント、強姦を含む、権力を背景にした有無をいわせぬ性的な暴君としての行いをAshley JuddやRose McGowanたちが、文字通り職業生命を賭けて告発した、いまでも長くて苦しい女の人達の戦いが続いているMe Too movementでした。 Emma WatsonのHeForShe運動 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/09/23/heforshe/ もそうだが、最近になって女の人達が、アメリカでインドで、これ以上男達の横暴を許さないと強く決意して続々と起ち上がってくる様子には、おもわず「歴史的必然」という古色蒼然とした用語をおもいださせるところがある。 ハリウッドで仕事をするひとたちのなかで、最も素晴らしい姉妹といえば、誰に聞いてもPatriciaとRossannaのArquette姉妹の名前を挙げるだろう。 単純に言って、ふたりともとんでもなく聡明な上に倫理意識が強く、恐れずに正しいと信じたことを、どんな巨大な権力に向かってもはっきりと言葉にして述べるからで、みなが尊敬している。 … Continue reading

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ソーセージロールと日本語

遠くの町に、むかしは商売で栄えた家があって、諸事万端、やりくりに苦しんでいた近隣の家ではうらやましいと考えて、なにが繁盛のコツか知りたいと考えたりしていた。 それが代が変わってみると、外からは窺いしれない、見えない所でおかしくなっていたらしくて、なんだか道端で会って短い会話を交わすだけでも、奇妙なことを言うひとたちになってしまっている。 いまの日本の印象といえば、そんなところだろうか。 気のせいかもしれないし、自分の側が日本への関心が少しずつ薄れてきて、気持の上での距離が遠くなってきたからかもしれない。 自分が理解できていると考えている言語ごとに、その言語のいちばん柔らかい部分が露出していそうなサイトを散歩して遊ぶことが多いが、日本語ではツイッタで、日本語は大事にしてきた外国語のひとつなので、自然友達もおおくて、近所のパブで駄弁るかわりに日本語の友達と駄弁ったりする。 ところが急速に日本語が荒っぽい攻撃的なだけの空疎なものになっていて、いや攻撃的というよりも悲鳴に近いといえばいいのか、投げつけるような言葉と呻くような言葉が交錯して、友達は友達で、こちらに顔が向いているときには、見慣れたやさしい、少しはにかんだようなところがある表情をみせていても、知らない人に向かって話しかけているところを横でみていると、苛立った、拳をふりあげたような言葉を使っている。 悪い、というわけではない。 事態が絶望的であるというときに、当の燃えさかる社会のまんなかにいて、のんびり良い天気に晴れ渡った空の話をしていては、そちらのほうが異常だろう。 ただ、なんだかびっくりした気持になって、言語を通してみせる社会の形相が、どんどん凄まじい歪んだものになっていくので、ちょっと寂しい気持になっているだけです。 午後3時で、火曜日ならちょうど仕事を終えて帰る時間なので、医師の友達と新しく出来た菓子屋でコーヒーでも飲もうと考えて病院を訪問したら、ひと足ちがいで帰宅したあとだった。 仕事先からいっぺん帰宅してしまった人間を呼び出してまで会っても仕方がないので、海へでかけることにする。 「海へでかける」というと、少しあらたまったことをするように聞こえるかも知れないが、北島がくびれたようになっているところに位置するオークランドという町は、やたらたくさん浜辺があるので有名な町で、英語ならtucked inという、隠れたように引っ込んでいて、まるで知っている人だけの秘密のプライベートビーチのような浜辺から、タカプナビーチやミッションベイ、セントヘリオスのような長大な砂浜まで、いまインターネットで見てみたら、 「数が多すぎて、いくつあるかは誰も知らない」と書いてあって笑ってしまったが、文字通り無数にあって、外に出て、なにをするか考えつかないと、とりあえずは海へ出るのが習慣になっている。 おおきな枝振りの楡の木陰にクルマを駐めて、芝生をわたって、砂浜に沿って並んでいるベンチに腰掛けて、毎日、明るい青からエメラルドに近い色へ、くしゃくしゃにしたチョコレートの銀紙のようにまぶしく陽光を照らしているかとおもえば、不機嫌な鈍色に、その日の気分によって色を変える海と、その向こうに低くなだらかに稜線が広がるランギトト島を見ている。 日本や日本人のことを考えるのは、国や人間について考えるための最も適切な方法であると信じる理由がある。 日本語の先生は、繰り返し「日本人を特殊だと考えすぎてはならない」と述べていたが、初めはそうおもっていたはずでも、自分の感想では、ほんとうに、ぶっくらこいてしまうほど特殊で、というよりも他の種族と異なっていて、なにもかも逆さまだと言いたいくらい違うが、だからこそ人間に普遍的な問題を見やすい構造をもっている。 しかも日本語は他言語を母語とする人間の理解を拒絶していると表現したくなるほど難解な言語で、実際、なかに分け入ってみると、日本語によって現代的な宇宙像や人間の思考一般、感情の陰翳を表現できるのは奇蹟的な事情によっていて、例えばカタカナ外来語のように、誤解や曖昧な理解、あるときにはまったくの仮の命名であるような言語上のアタッチメントに取り外し可能な語彙や、まったく内容を理解していなくても、なんとなく判っているような顔をして論議をすすめられる言語の特徴が、皮肉なことに、日本語が疑似的な普遍語であることを助けてきた。 多分、おおくの論者が述べてきたように、日本語が外国語の脚注語として発達してきた歴史を持っているからで、初めは中国の文章を読むために乎古止点を発明し、返り点をつけ、送り仮名をつけて、漢字を読み下し、文章そのものを日本語音に変えることで誕生した日本語は、同じ要領で、西洋語、なかでも英語を、従来からの脚注語としての仕組みに日本人の耳に聞こえた音や学習者が綴りから推測した(現実には存在しない)音を母音の少ない日本語で書き表したことを示すカタカナ語や -ticをつけることを示す「的」を多用して、気分上の理解を喚起する、フランス的、民主的、という言い方を考案して、なんとか消化してこなそうとした。 明治時代に頼山陽が書いた漢詩を読んで吹き出した中国人たちは、一方で、夏目漱石が書いた漢文を読んで、これを書いたのは中国人に違いないと述べたという。 漢文を外国語として学んだ日本人と日本語化された漢文を本来の漢文と信じて磨いていった日本人が、漢文吸収の当時から居たわけだが、不思議なことに西洋語については、西洋語を西洋語のまま習得する日本人は皆無とは言わないまでも稀な存在になってゆく。 それにはカタカナだけで考えてもメリケンがアメリカンに表記を変えてゆく日本の英語教育が介在して影響しているはずだが、ここでは云々するのをやめておきます。 翻訳や通訳は本質的に便宜だけのもので、落ち着いて考えればあたりまえだが、日本語や韓国語のようなグループの言語を英語やフランス語のグループに「翻訳」するのは不可能作業で、それが可能であると考えるのは人間の歴史文化に対する理解が浅薄なのにしかすぎない。 離れ離れに歴史をつみかさねていった欧州やアジアの地方地方の文化が、ようやく接点をもって、境界を共有して、少しづつお互いの領域を浸潤しはじめたのは、インターネット以後の世界の特徴で、長く見積もっても20年の歴史しかないが、 ここが始まりで、もう百年もすると、あるいは日本語をフランス語に「翻訳」できるようになるかもしれない。 まさか、そんな軽薄な理解をする人がいるとはおもわれないが、ついこのあいだでも瀬川深とかいう、医学研究者で作家だと名乗る人が、とんでもない、高校生が受験英語のレベルで考えるにも失笑されるような浅薄な理解で見当違いな言いがかりといったほうが実情に近い冷笑を書いてきたことがあったので、念のために述べておくと、ここでは技術的な誤訳というようなことを述べているのではなくて、最も言語が異なることの影響が小さいはずの名詞であってさえ、例えば、おなじ「左手」であっても、うっすらともともとはカトリシズム経由の邪悪な手のイメージがまとわりついている西洋語や、不浄な印象を刻印されているヒンドゥー語の文脈のなかに置かれていると、日本語の左手とは違う言葉だということを述べている。 きみは笑うかもしれないが、眼の前におかれているスプーンでさえ、英語で見ているスプーンと日本語で見ているスプーンでは違う物体なんです。 互換性がない言語は互換性がない社会を形成する。 翻訳文化は言語を一定のルールと定石にしたがって置換してゆけば他文化を自文化に血肉化できるという、根拠のない、一種の宗教的な信念だが、百年以上に渉って誤解をつみあげてきた結果が、いまの日本の「近代」社会で、それは西洋の側からみると、おおまじめに演じられてきた演劇であって、しかも、近代の初期に国家の発展には寄与しないと明治人たちが判断したintegrityというような単語の多くは初めから省かれている、畸形的な言語に基づいた社会だった。 人間は自分の姿を見ることはできない。 鏡という前後が逆になった自己の映像を観ることはできるが、その「観る」が平たい言葉をつかっていえば曲者で、若い男が鏡のなかに見いだす自分の顔は常に整った容貌で有名な俳優の誰かの影響をうけて現実よりハンサムであるのは、誰もが知っている。 鏡がならぶレストランのトイレで、すぐわきに見慣れない顔をした見知らぬ他人が立っていて、飛び退くような気持で、あらためて観ると、自分の横顔だったという経験をしなかった人はいないだろう。 この頃、到底好きになれない言葉だが「マウントをとる」という言葉が流行っている。 あるいは、昔から「猿山の大将」というでしょう? 猿では例えが悪すぎるが、人間は自分の姿を観ることはできなくても、自分ととても似ているが、異なるものからは自分の姿を読み取ることは出来て、西洋人にとっては、日本人と日本人の社会は自分のことについての省察に最も向いているし、日本人にとっては西洋人の社会は自分たちを省みるのに資すべきものであると思う。 日本社会が西洋の人間にとって最も観察に好適なのは日本の西洋化の努力が古くからのものであることによっている。 ちょっと酷い言い方になるが、もうひとつは、その努力が多くの局面では頓珍漢なものだったことにもよっていると思います。 日本の人自身も気が付いているのではないかとおもうが、日本の西洋化への努力に端を発した歴史のなかで最もうまくいったのは科学で、理由は言うまでもない、例えば物理学は翻訳もなにもしない、もちろん方言はあってお国訛りはあるが、共通語の数学をそのまま使ってやってきたので、母語で物理学をさっさと修得しうるという「翻訳」の良い面だけが発揮されたからでしょう。 翻訳文化に最も感謝すべきなのは科学を学ぶ学生であるのは、日本の人なら、あるいは直観的に誰でも知っていることなのかも知れません。 … Continue reading

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