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インド式と中国式

むかし、日本にいたときにいたずらっけを起こして、義理叔父をそそのかして小さなビジネスゲームをやって遊んだことがある。 義理叔父の会社に出入りしていた会社の社長さんにお願いして、実際の会社の運営をお願いして、輸入ゲームのオンライン販売をやった。 スウェーデンのパッケージゲーム卸会社から$2くらいで仕入れた少し古いゲームを、どんどん送りつけて、オンラインで売ってもらって月の人件費や倉庫代やなんかを支払ったあとの純利益が1500万円/月くらいはあったが、Steamの動向を見ていて、商用サーバーを立ててマジメにオンラインのゲームかストリーミングサービスをしなければならないのが判ってきて、ゲームのビジネスに時間を使う気はしないので、ロシアの企業やフランスの企業からSteamに対抗する事業プランの提案はあったが、乗らないでやめた。 なにしろ、そもそも輸入ゲームのオンライン販売をやろうとおもいたったのが日本に滞在ちゅうに新作のゲームが出ると横須賀基地の売店にあれば、その頃付き合っていた米軍将校のガールフレンドに買って来てもらったが、さもなければ、アメリカや連合王国の友達に頼んで送ってもらうか、切羽詰まると、日本から最も近い販売店があるグアムのモールへ行くかしかなかったので、めんどくさくて、それなら、おっちゃんたちに利益を与えて、ゲームも酒池肉林というのかどうかしらないが、ただでいくらでもゲームを送ってもらえる仕組みをつくろうとおもったという不純な動機だったので、あっさりやめることにした。 ゲーマー族 https://gamayauber1001.wordpress.com/2014/10/09/asperger_gamers/ なので、ビジネスというゲームに勝ったり、スクリーンで増えるクレジットの代わりに銀行の残高で増えるのは嫌いではないが、ナマケモノなので、自分で働かなくてはならない事態になるのだけは、いつも避けることにしている。 ましてゲームのオンラインビジネスなどは、好きな分野のひとつなので、案の定、そうか、それならダウンロードよりもストリーミングにして、権利関係はフランスのあそこがうまいからあそこに頼んで、などとゲーム戦略を頭が自動的に考え始めてしまうので自分でも危なくて仕方がない。 びっくりしているシャチョーのHさんや義理叔父を前に「断固やめる」で押し通してしまった。 その後の展開は、考えたとおり、Steamが伸びて、あれほど繁栄していた「仕入れのウィザード」という「ゲームのやりすぎなんじゃない?」な渾名で呼ばれていたスウェーデンの卸会社はおとうさんになってしまったので、初めは義理叔父が書いていて、あまりに下手なので、何語で書いても名文家の若者が取って代わって書いたこのゲームブログだけを残して、あとは跡形もなくなったが、それがいちばんよかったとおもっている。 ときどき、3人で集まって、このオモチャのようなビジネスを肴にただ酒をおごってもらったが、そのときの報告でいちばん興味をひいたのは、「日本の人はびっくりするほど英語ができない」という報告だった。 ふたりの日本人であるおっちゃんたちも、事前に考えていたよりも日本人がずっと英語が苦手なので、びっくりしてしまったらしい。 詳しいことは煩雑なので避けるが会社へのemailや売り上げの傾向から、日本の人の英語の苦手ぶりは歴然としていて、たとえばDiabloのように完全日本語訳サイトが出来ると、発売からしばらく経ったあとでも、売り上げが爆発的にのびたりしていた。 常連顧客は、だんだんemailをやりとりして判ってくると、なんというか、大学の教師が圧倒的で、それも英語学科や英文学関係の人が多いようでした。 残念なことに、日本はもっか、戦後始まって以来というくらいの不振で、自称は「戦後最高の空前の好景気」だが、姿が傷ましいので誰も記事で触れたがらないくらい、傍目には言っていることのウソがあきらかで、日経225を始めとする、体面をつくろうための、投資ともいえぬ出費はつみあがって、ついに借金1000兆円にとどき、国民ひとりあたりの収入は、たとえば、相変わらず過労死する若者は死屍累々と通り道に横たわっているのに、かつては日本の半分に満たなかったナマケモノ王国ニュージーランドにすら抜き去られて、万年2位の地位から26位にさがって、もうすぐ、かつては日本の3分の1、統計によっては5分の1と言われた韓国にも抜かれるのは確実視されている。 日本のほんとうの不振の原因は、時代が変わってしまって、早足で歩き去っていく世界が、もう日本文明の手が届かないところへ行ってしまったからだろうとおもう。 長く数えれば30年、短いほうで数えても20年、ああいえばこういうの堂々めぐりを繰り返して、なにもしないためならなんでもする、何のためだかよく判らない努力にしがみついてきたのだから当たり前といえば当たり前だが、折角、一時は世界史にもユニークな文化を創り出して、例えば文学でいえば、アメリカ軍が対日戦争の必要に駆られて大量に教育した日本語理解者の情報将校が、余って、そのうちの少なからぬ数の優秀な若い頭脳が日本学者や日本文学翻訳者に転向するという不思議な奇縁に恵まれて、他言語では思いもつかない僥倖に恵まれたのに、この方面でいえば、だいたい80年代を通じての頽廃で自ら命脈を絶ってしまった。 その原因のひとつが英語を理解できないことなのはあきらかで、英語を理解しない社会をつくってしまった結果、英語をベースにした世界の多様性から取り残されてしまった。 中国の人は日本人と異なって英語が達者だというが、こちら側からみると、そうでもなくて、多分、数の比率でいえば英語を多少でも理解する中国人は初歩的な英語を理解する日本人に較べてずっと少ないのではないかとおもいます。 ニュージーランドに移民としてやってくる、いわば「開かれた」考えが多いはずの中国の人たちのコミュニティであってすら「water」という単語がわからない人なんて、びっくりするほどたくさんいる。 水を注文して、水のことだとわからない店に数年ぶりに行ってみると、おや、ひさしぶりですね、なつかしい、と英語がまったく出来なかったのに、見事な英語を話すようになっていて、こちらもすっかり嬉しくなってしまうウェイトレスのような人もいるが、主人は、相変わらず英語はからっきしダメで、中国語で注文したら、にやっと笑って「やるじゃないか」という顔で、いそいそと調理にかかってくれたりするのは、日本人と同じで、特に民族的に日本人よりも英語習得の才能があるわけではない。 日本の人と最も異なるのは、国家が意図して育てた英語のプロとでもいうべき人達が分厚い層をなして存在することで、このひとたちは、きっと、すんごい努力に明け暮れるのでしょう、英語が母語の人間並の英語で、特に英語が出来るひとたちは、つるりんとした出所不明のアクセントだが母語と称してもわからないほどの英語能力を持っている。 いつかBBCで中国と日本の外交官を招いて日中関係の番組をやっていたが、耳に心地よい中国側と対照的に、日本の人のほうは「判らないのはおまえの努力が足らんからだ」と言わんばかりのすさまじい訛りの英語で、日本ファンとしては、 日米開戦の原因の何分の一かは野村吉太郎の箸にも棒にもかからない英語と歯並びだったのに、70年経っても、あんまり変わってないね、と寂しい気持で見つめることになった。 中国のこの行き方は、おもしろくて、国家の利益というような観点からは、海外に出ていく会社員のひとりひとりが、あんまりたいしたことがない「流暢な英語」なんて話してもたいした意味はなくて、英語エリートを育てて、彼らを通じて国家と社会の意志を実現したほうがよい、という中国の伝統的な外交信念から来ている。 さもなくば相手が流暢な中国語をしゃべるべきだ、という考えが表裏一体としてあって、それはどちらの国力が勝るかによる、という中国人の身も蓋もないといえなくもない現実主義が反映していることは言うまでもない。 実際、宗美齢の美しい上流階級のアクセントで話される英語と日本人の横柄で汚い発音の英語との対比が「中国は善玉、日本は悪玉」のイメージづくりに、どれほど役だったかは、枚挙にいとまがないほど逸話があって、ほとんど伝説になっている。 中国は日本同様、国家や社会の利益を優先する全体主義国家なので、それでいい、ということなのでしょう。 インドの人はおしゃべりで、男も女も、一日中、ひっきりなしにしゃべっていて、手が結び目をひとつつくるまでに、世界の創造から始まって破滅の日に至るまでの創世記物語をすべて語り尽くしそうな勢いで話すが、おもしろいのは、ニュージーランドにいるひとたちは、家庭のなかでも英語で、この饒舌、長口舌文化を実行する。 インドの人がやっていると、なんだか自然で普通なことに見えてしまうが、よく考えてみると、大学教育も受けなかった人が、森羅万象、トイレットペーパーのロールの巻き方からブラックホールの画像のおおきさについての驚きまで、ありとあらゆる出来事を外国語である英語で延々とまくしたてるのは、たいへんなことです。 むかしの本を読むと、インド国内で家庭のなかで英語で会話するのは上流家庭だけだと書いてあるが、最近は、映画を観ていると、下層でもなんでも、少なくとも都会では家庭内でも英語で、ところどころヒンドゥー語という家庭が多いようで、オークランドの地元のインドコミュニティFM局を聴いていてもパンジャビ局やタミル局はそうでもないがヒンドゥー局になると、ほとんど英語で、番組内の聴取者からの電話も、英語の人がかなりいる。 ヒンドゥー語とベンガル語のようにお互いに通じないインド語を話す同士ならともかく、ちょっと考えてみて、ヒンドゥー語人同士が、ごくこだわりなく英語で話して、冗談を述べて笑ったりしているのは、日本ではついぞ見かけなかったことで、どうやらインドの人にこっそり事情聴取してみると、インド人が亜大陸のdiversityそのものをアイデンティティと考えていることと関係がありそうでした。 中流以上になると、英語を話せない人は家庭内においてすら少数派で、子供が英語を話せない親を恥ずかしがって他人に会わせないようにする、というのはボリウッド映画にはよく出てくるシチュエーションで、日本の50年代や60年代の映画のなかで田舎の方言しか話さない祖父母を疎んじる孫たちが出ているのと呼応していて、ああ、そういうことなのか、と見てとれる。 English Vinglishの娘も英語を話さない母親を恥じて他人にあわせまいとするが、この映画にはもうひとつ、ベンガル語が母語で、ヒンドゥー語よりも英語でお願いできませんか、と述べる教師が出てきて、インド人が急速に英語化していることの背景をうかがわせる。 実際、インド版のXファクターを見ていると、スター志望の出場者に、話しかけるジャッジ役のスターたちがヒンドゥー語と開催地のタミル語と英語を自在に駆け抜けて使っていたりして、インドにはインドの大陸欧州的な環境があって、そのせいで、言語というものそのものへの認識が日本人や中国人とはおおきく異なっていて、母語も外国語も、いっしょくたに言葉は言葉という、思考の上での風通しのよさが、インド人の外国語習得をおおきく助けているのがわかります。 言語を学問として受け止めると、まず普通はそこでダメで、構文だのなんだのといいだすと、そこから先は言語学者になる以外にはなんの使い途もない外国語分析の病に倒れるしかなくなることになるが、インドの人が、チョー理屈っぽい有名な国民性であるのに、英語の習得にだけは理屈をもちだしてこないのは、つまり長い経験で、そんな考え方にとりつかれると永遠に英語がわからないということをよく知っているからでしょう。 日本の文明のおおきな特徴のひとつは問題と正面から向き合って解決することが苦手で、問題をなかったことにしてしまったり、たいした問題でないと皆でいいあって、どうにもならなくなるまで解決を先にのばしたりすることだが、十年間日本語と付き合っておもったのは、もうそろそろ自分達が英語が出来ないということを認めて、もう少しマジメに英語が出来ないことの重大な結果を考えないと、30年の長きにわたって続けているこの堂々めぐりは終わらないだろう、ということでした。 オンラインの新聞ひとつとっても、英語がわかって英語の記事も読んでいるということと、英語で記事を読む方が日本語の、あの、ほんとうのことを言い回しで必死に誤魔化そうとしているかのような判りにくい文章で書かれた記事よりも楽に読めて、だいたい英語の記事で用を足してますというのでは、まったく反映されて出来る頭のなかの世界が異なる。 本来、聡明であるはずの日本の人を、ここまで愚かにしたのは、つまりは腐った材料でおいしい鮨はつくりようがないのとおなじで、見たところ、世界でも名だたるダメさで、すっかり世界中で有名になってしまったマスメディアの質の悪さのせいでしょう。 … Continue reading

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