クライストチャーチ (その1)

いつか、きみが松江から町の印象を書き送ってくれたのが嬉しかった。
松江は、ラフカディ・ハーンが最後の日々を過ごした町で、いちどは訪ねていって数日を過ごそうとおもっていたのに、なんだかめんどくさがっているうちに、日本を引き払ってしまったんだよ。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2018/05/31/thesweetestlittlewoman/

高徳院の前に5年間住んでいて、いちども道を渡ったところにある鎌倉の大仏を観に行かなかった、という人に会ったことがあるが、案外そんなものかもしれない。
5年間、11回にわたって日本に出かけて滞在したのに、韓国のソウルも、博多も訪問したことはなくて、友達に「ほんとうに、日本にいたことがあるの?」と笑われたが、そういうことと似ていて、タイミングがつかめないと、近くの興味がある町にも行かないで終わってしまう。

お返しに自分が好きな小さな町の話をしようとおもって子供のときの思い出がいっぱいつまっているTunbridge Wellsという小さな町の話をしようと思っていたが、気が変わって、クライストチャーチの話をいちどしておこうと考えました。

クライストチャーチ、やっぱりいまでも書いていてヘンテコな感じがするカタカナはやめて、普通の表記で書くとChristchurch、旅先から絵葉書を書いたりするときは、長いのでChch、カタカナならチュチュだろうと思っていたけど、クライストチャーチには晩秋という名前の気の良い女の人が20年以上も住んでいて、この人は「カタカナならチェチェだとおもう」と述べていた。

実は、典型的にはラリルレロがそうだが、カタカナの発音についての知識がテキトーで、なあんにも判っていないぼくは、自分が住んでいる町の名前さえ、リミュエラ、ラミュエラ、レミュエラ、とそのときどきの気分で書いていて、いちどMerivaleをミラベルと書いたら、「カタカナが間違ってるじゃないか!」とクライストチャーチに一年住んだという日本人の女の人に怒鳴り込まれたことがあった。
そのひとによると、どう書くのが正しいのか、もう忘れてしまったが、Americanを平気でアメリカンと書いてしまうのに、カタカナの発音を厳格にしたいとおもう考えは、いま考え直してみても、ちょっと不思議な気がする。

ロンドンからウエールズをめざしていくとウエールズとイングランドの国境あたりに、クライストチャーチそっくりの町がいくつかある。

クライストチャーチには、Armagh Streetというぼくが好きな通りがあるんだけど、なんでこんなところにArmagh Stがあるんだろう?と狐につままれたような気持になる町がある。

父親と母親は、ロンドンの、特に自分達が属する連合王国ではやや特殊な階級の習慣や考え方の不健康さが子供たちの教育によくないと考えたのだとおもう。

世界中のクソ天気を集めてきていっぺんにぶちまけたようなロンドンの救い難い冬の天候が自分達も嫌いだったのかもしれない。

理由はちゃんと訊いたことがないが、この若いカップルが考えた計画は破天荒で、冬のあいだは、地球の反対側に行ってしまえばいい、というものすごい解決策だった。

こっちがクソ天気なときに向こうは天国のような夏なのだから、地球を半周してしまえばいいだけのことだ、というような考えは、考え方の単純で大胆な特徴からして、母親のものだったとおもいます。

ある春の日に母親はニュージーランドにやってくると、リサーチを始めた。

ニュージーランドは、父方の家系にも母方の家系にも不可思議な縁故がある国なので、初めからオーストラリアは眼中になくて、ニュージーランドに的をしぼっていたのであるらしい。

あるいは、その頃のニュージーランドは、まだイギリスの、南太平洋に飛び散ったかけらのような国で、革の手袋をはめてカテドラル広場を横切る女の人の背筋の伸ばし方からしてイギリス式の人が多いのが写真からも見てとれる。

もうひとつ、日本語ではなんというのかよく判らない、従姉妹? はとこ?
外叔父かな?
いくら国語辞書でみてもわからなくて、こういうこと一般にひどく杜撰な英語では「いとこ」と呼んですませてしまいそうな、遠縁の親戚が、ニュージーランドにずっと昔に来ていて、気が短いきみのことだから「そんなんじゃ、なに言ってるんだか全然わかんないよ」と怒りだしてしまうかもしれないので、くだらないことを付け加えると、ほんとうなのか自称なのか、ロードネルソンとおなじ血を引いているという家系が連合王国にはいくつかあって、そのうちのひとつだけは両親と同じ階級で、その分家にあたるひとたちが、と述べていると、日本のド田舎の庄屋さんが家系の自慢話をしているみたいで自分でも書いていてバカバカしいが、ニュージーランドに早くから定着していて、そのなかのひとりはニュージーランドではたいへんに有名な人であったりして、そういう、得体の知れない縁故がある国でもある。

当時はニュージーランドは家がものすごく安い国で、ロンドンのChelseaにフラットを買うのとおなじ金額で、3000平方メートルの邸宅が買えたらしい。
予定していた金額よりも遙かに少ないオカネしか使わないですんでしまった母親は、ついでにカンタベリーの北に小さな農場を買って、その足で帰ってきた。

ウェリントンとクライストチャーチを見て歩いたみたい。
オークランドは、ぼくが子供だった頃はまだそうだったが、人口が多いだけの不細工な街で、その頃からアジアの人がたくさんいるのは楽しかったが、それだけで、第一「オークランド」と漠然と読んでいた地域全体がいつつだったかな?ほんとうは別別の自治体で、てんでんばらばら、いまでも自分でコンピュータを組み立てようとおもってパーツを買い集めるのに、飛行機でクライストチャーチからオークランドまでわざわざ買い物に来たのに、あっちの街からこっちの街へ、あちこちクルマに乗せてもらって移動しなければならなかったので腹が立ったのをおぼえている。

父親と母親はカップルとしてはウェリントンが気に入ったようだったが、子供のためにはカンタベリーが最も良いと考えたようで、クライストチャーチのフェンダルトンという町に、ずいぶんどっしりした感じの家を買って、一家はそれ以来、北半球の冬を、南半球の夏に過ごすことになった。

すごくいいアイデアだったんだよ!

子供からすると、移動そのものがそもそも楽しみで、シンガポールか東京に立ち寄ってニュージーランドをめざして、その頃は日本からの観光客や留学生がものすごい数で、移民ベスト5にもいつも常連として名をつらねていたからでしょう、成田からまずクライストチャーチに南下して、いちど理由を尋ねたら当時のジャンボジェットを整備できるハンガーがクライストチャーチ空港にはなかったからだそうだけど、そこからオークランドに飛ぶ、火曜日と金曜日だったかな?の便でクライストチャーチにでかけた。

いまでもおおきな空港ではないが、その頃のクライストチャーチ空港は、ちいさなちいさな空港で、江ノ電の駅みたいというか、到着ゲートに着くと床に敷きつめてあるウールの良い匂いがいっぱいにしていて、ほんの1分も歩くと、パスポートコントロールで、むかしからそれだけが取り柄で、やたらと愛想がよくて、母親の隣に立ってニカッと笑っているぼくに向かって、係官が「おや、お帰りなさい。冬のロンドンから夏のクライストチャーチじゃ、地獄から天国に来たようなもんだよね」と、何年ニュージーランドに住んでも一向にとれないらしいロンドンの下町訛りで軽口を利いたりしていた。

出口には家の世話をしてもらっている夫婦が立っていて、ときどきはふざけて、「ガメ家ご一行様」と書いたピンクのでっかいサインを持って立っていたりして、一年の二度目の夏の始まりは、いつも陽気で楽しいものだった。

プラモデルに使うみたいなスタンドに刺してある本物のスピットファイアがラウンドアバウトの手前にあって、それを左に見ながら、まっすぐなMemorial Aveを10分ほども行って右にまがっていくと、すぐに家がある地区で、着くとすぐに妹とふたりでハグリーパークに遊びに行った。

クライストチャーチは、イギリスの子供からするとチョーおもしろい町で、なにしろ、最新のファッションに身を固めた若い、ロンドンに較べるとスポーティで運動能力が見るからに高そうな健康そのものの、綺麗なおねーさんたちが、自分のひーばーちゃんたちの言葉使いで話しているところをおもい浮かべれば、そのまま当たっている。

日本だと、どういう例がいいのだろう?
石原さとみがプライベートで、「与作どんは、お元気ですか?
もう、すっかりご無沙汰してしまって、ほんとうに申し訳ないことです。
ふつつかな者ですが、わたしは、これからもよろしくお願いしたいとおもいます。
お名残惜しいですが、では、わたくしは、ここで失礼いたします」

と通りを挟んで大声で述べあっている。

まだその頃のクライストチャーチは、右をみても左をみても住んでいる人間が真っ白な時代で、当然、食べ物も娯楽も退屈きわまりない町で、ちょうど、少し前のロンドンと同じだった。

午後にお腹が空いて食べるものがカリーロールや半分乾いたサンドイッチだったと聞けば、おぼえがある人は、一緒に手をとって、お互いのかつての悲惨な食生活を思って、むせび泣いてくれるに違いない。

まだコーヒーを飲む人が少なくて、なぜだか、おとなたちが「ロンドンのシティでは紅茶よりもコーヒーを飲む人のほうが増えたっていう記事を見たかい?」と話していたのをおぼえている。

1990年代初頭で、記事にはそう書いてあったかもしれないが、ロンドンに住んでいるガキンチョの観点からすると、ロンドンはまだまだ紅茶の町だったので、ヘンな気持ちがした。

いま考えてみると、イギリスが紅茶の国からコーヒーの国へ、たいへんな勢いで変わっていった、その過渡期の頃だったのだと思います。

このあいだ銃撃があったモスクはリカトンという、おおきなショッピングセンターがあるダウンタウンの東の端にあるが、あそこから歩いて、北に20分くらい歩いて左に曲がったところに、クライストチャーチの「町の家」はあった。

あのモスクが面しているDeans Ave沿いのハグリーパークには日本から寄贈されたソメイヨシノの桜並木があるんだよ。
日本の春よりも涼しいクライストチャーチの夏のせいか、それとも記憶が勝手につくった映像なのか、妹とふたりで、桜並木の下を歩いた記憶がぼくにはある。

夏の、見渡すかぎり、輝くばかりの緑の芝生を横切って、広大な公園の反対側のアートセンターまでよく歩いていったものだった。

ドイツ人の姉妹がホットドッグのフードトラックを出していて、それが目当てで、眠い目をこすりながら、ダブルデッカーで、手作りソーセージが2本入っているホットドッグめざして、必死に歩いていった。

子供時代を通じて、すっかりクライストチャーチが好きになったぼくは、ひとよりもだいぶん高い背丈のせで、十代の、ひょろひょろしているが見かけはあんまりおとなと変わらない姿になると、冬に、ひとりでクライストチャーチを数日間訪問することも多くなった。

ずっとあとで、日本語でも流行する言葉になったようだったが、自分をガキンチョらしい気取りでNomadであると称していて、ほんとうはゲームのなかのモンスターから命名は来ていたんだけど、隙さえあれば大陸ヨーロッパに渡り、数日も休みがあれば、シンガポールを経由してニュージーランドに到達した。

シンガポールは、そのころはまだ、暮らしている人達がみな正直で勤勉で、なんでもかんでも夢のように安いパラダイスで、シムリムセンターのパーツ屋や、さすがに買うのは憚られた、というかヒースローでもクライストチャーチでも税関で見つかれば没収だったのではないかとおもうが、当時はシンガポールでは大盛況だったコピーを前提としたレンタルソフト店を冷やかしたりして、こんな楽しい町があるだろうか、とおもうくらい楽しい町で、東京よりもシンガポールを選ぶことも多かったようにおもいます。

冬にクライストチャーチにひとりでやってくるようになると、だんだん、その小さな、いつも閑散とした町が第二の故郷のような気がしてきた。

例えば横断歩道を渡る子供の集団が、イギリスやニュージーランドでは当たり前のことなんだけど横断歩道の前で止まって待っているクルマに向かって、おおきな声で「さんきゅー!」と叫んで、ロンドンではありえないというか、あまつさえ、ちぎれるほど手を振っている。

スラム街であるはずの地区で、若い女の人が後ろから歩いてくるのに気付いた、身体中にピンを刺して、人間ハリネズミみたいになっているパンクなお兄さんが、うやうやしくドアを開けて支えて待っている。

身なりの良い弁護士かなにかの風体のその女のひとが、紳士は気持ちがいいわね、と述べると、「女の人に丁寧にしなくなったら人間終わりでさあ」と、田舎のお百姓さんのような、外観と異なった、聞いていて、いちじるしく調子が狂う英語で答えている。

町全体がお伽噺に出てくる妖精たちの町のようで、ひどく魅力があって、クライストチャーチは、ぼくが世界でいちばん好きな町になっていった。

英語圏の田舎町に住んだことがある人は判るとおもうが、そういう、人間が礼儀正しくて、親切で、気持のいい人ばかりの町は、ほとんど必ず人種差別が底流になっている街でもあって、クライストチャーチも、当時はご多分に洩れず、マオリの人達に対しても、アジア人に対しても、まさか当の相手には口にしてはいわないだけで、すごい偏見で、当時は特に日本人に対する嫌悪が町を覆っていて、VJデーのパレードの上の低空を二機編隊でビクトリーロールを描きながら飛び去るスピットファイアの爆音に負けない大声で、カメラを向ける日本の観光客たちに、「ここはおまえらが来ていい国じゃない。さっさと国に帰れ!」と怒鳴る復員兵士のじーちゃんたちの声をおぼえている。
当の相手に対して言葉にして悪罵をぶつけるというのは少なくとも英語の世界ではたいへんなことなので、その憎悪の強さにびっくりした。

あるいは、近所にも、「日本人とだけは、わたしは絶対に口を利かない」というじーちゃんが何人も存在した。

ところが、おもしろいもので、日本の人達はクライストチャーチが気に入って、引退後の住処と決める人がたくさんいて、フェンダルトンやエーボンヘッドには、そういう日本の人がいまでもたくさん住んでいる。

いまでも時々、あれはほんとうは普通のUK英語のやや古い用法で、本来悪い意味は何もないのだけど、例えば「No Jap Imports」と書いたおおきな看板を散歩の途中で発見した日本から移住してきた人たちの気持は、どんなだったろう、と考えることがある。

家に帰って、調べて、UK人はもともと、なんでもかんでも、Japaneseの普通のabbriviationとしてJapを連発するひとびとで、ついこのあいだまでは例えば通貨を現すときの国の略号もJPNでなくJAPを使っていたりして、まったく差別意識なしに使っていたのだと発見しただろうか、それとも、嫌な気持ちになったまま、ニュージーランドもいい国だが、人種差別が嫌だなあ、と暗い気持ちになっていやしないか、と心配になる。

「悪気がない人種差別は悪質だ」と、よく述べている人がいるが、あんまり、そうはおもわない。
言われるほうは適わないだろうが、クライストチャーチの友人たちには、気立てもよく、善意に満ちた人間でも、単に知識がないことから、なあんとなく日本の人は嫌だなあと思っている人間はたくさんいて、でも例えば同級生で日本からやってきた人がいたりすると、どんな相手に対しても表面はきちんと礼儀正しくしなさいと躾けられた方針に従って親切にしているうちに、いつのまにか相手が日本人であることよりも美咲さんであることのほうが大事になっていって、あっというまに日本人への偏見自体も雨散霧消する、というような例が無数にある。

人間は晩秋を見て「日本人の晩秋」と考えるようなことは苦手で、「おちゃっぴいで涙もろい、善人の晩秋」というような見方しか本来できないものであるらしい。

例えばシリア難民を間近に見る機会が少ないアメリカ人たちのほうが、普段の生活で毎日シリアから難民でやってきた人達と話を交わす欧州人よりも「シリア人を受け入れる危険」について述べ立てるのは、つまりはそういう理屈で、トランプくらい救い難いほどバカで品位に欠けるじーさんでも、面と向かって話していると、相手が好きになってしまったりするのが人間というものであるようです。

オーストラリアの名だたる白人至上主義者で反アジア人運動のチャンピオンであるポーリン・ハンソンは、インタビューで、自分が最も感謝している店員がマレーシアから来た若者であることを不意に思い出して、われながら不思議というか、きょとんとした表情を一瞬みせた瞬間をおぼえているが、あれほどどうしようもなく人種意識に凝り固まっている人でも、まるで死角のなかに記憶があるように、個人として好意を持っている人間がアジア人であることをすっかり忘れている。
一方でマレーシア人を間違った神を信じる有害なナマケモノの国民だと激しく罵りながら、自分が最も信頼していた店員がマレーシア人であったことと頭のなかで結びついていない。

はなはだしきは、フランスを代表する白人至上主義政党国民連合の党首マリーヌ・ル・ペンの父親、国民連合の母体の国民戦線をつくったジャン=マリー・ル・ペンの右腕といわれた人の伴侶は日本の人で、党内では理屈をうやむやにしてすませているらしいが、これも、ほんとうは、wikipediaにも書かれていて日本で言われるような国民戦線もアジア人のなかで日本人だけは白人とおなじに考えているらしいというような頭がおかしいのではないかと疑われそうな理屈ではなくて、結婚するまで相手がアジア人であることが念頭から去っていた、というほうが正しいもののようでした。

フランス人らしい、というのは往々にして「人間らしい」と置き換えても意味が変わらない不思議な表現だが、これも、その例のひとつであるにしかすぎない。

自分の一生の困難と感じられる問題が生じると、飛行機に乗ってやってきて、クライストチャーチの、ニュージーランドの冷たい雨に打たれながら考えをまとめるのがぼくの習慣になっていった。

その習慣を繰り返すうちに、クライストチャーチという町自体が、自分の魂のようになっていった。

オークランドに住んでいるのに、なぜ?とよく聞かれるが、自分ではクライストチャーチに対する深い愛情はあたりまえのことで、冬の低い空のしたで、憂鬱そうに見えるクライストチャーチこそは、自分が帰ってくる家であると感じる。

この十年で、日本は世界の事情に随分あかるくなったので、十年前はオーストラリアとニュージーランドの区別がつかない人のほうが多かった。

その頃から日本の人は相手が弱そうだとおもうと、かさにかかって意地悪なことを言うのが好きで、「オーストラリア人なんて囚人の子孫のくせに」
「ニュージーランドみたいな、たかがイギリスの植民地の生まれのくせに日本みたいな大国の悪口を言うなんて身の程を知らない」
と、よく言われた。

念のためにいうと、そういうことをわざわざ述べに来るのは実名でネットにあらわれている大学の教師であるとか小説家であるとかの肩書きの人達で、もっと頭がパーなひとびとは、¬¬自分達は英語のエキスパートで「自然な英語になじんでいるから判る」とかで、ニセガイジン一辺倒で、十年やっていたので、どうやらニュージーランドはむかしは連合王国の植民地で、その逆ではなかったらしいことは知っている、日本ではたいへんな知識層として日本では知識人の殿堂としての扱いを受けているらしいテレビやなんかでもみかける人達です。

彼らの「イジメ」が、おもいのほかうまくいかなくて空転しているあいだじゅう、自分の生国を明かさなかったのは、正直に白状すると、マヌケな人間が威丈高になってマヌケ仲間を糾合していたりするのを見ているのが大好きだからで、世の中にバカな人を観察するくらいおもしろいことはないといまでもおもうが、もうひとつには、自分がクライストチャーチのほうがロンドンよりも遙かに好きだという揺るぎない気持があって、なんだか日本で大学に偏差値で等級をつけるように単純に「ニュージーランドよりもイギリスのほうが高級な国」と思い込んでいる野蛮人ぶりがピンとこなかったせいもあったのだとおもう。

随分、ながくなってしまった。

地震でカテドラルはぶっ壊れてしまったが、そんなことはぼくにはどうでもいい。

突然奇妙なことをいうと白人至上主義者たちが言う「白人文明」は、お話しをうかがっていると、どうやら、彼らには知識がかけらもない北海文明の通俗化であるらしくて、彼らは二言目には、その文明の復活を唱えて、アメリカの白人至上主義者のなかでゆいいつ思想らしい思想を抱えているスティーブン・バノンなどは「世界核戦争による破滅の業火のなかから蘇る真の白人」なんてマンガのアキラの読み過ぎなんじゃないの?なことを言うが、本家本元の北海文明が、この先よみがえるとすれば、それはクライストチャーチのような町か、スコットランドのハイランドのようなところから生まれてくるのだと考えるのに十分な理由がある。

この次に生まれてくる「ゴールデンチャイルド」は、北と南の極に近い寒い国からやってくるのだと思っています。

この次は、その話をするよ。

では

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2 Responses to クライストチャーチ (その1)

  1. 晩秋 says:

    学生の頃1990年代も終わろうとしていた一時期、復員兵士のためのレストホームの近所に住んでいた。お天気がよい日はポーチや庭のベンチで第二次世界大戦の帰還兵であったはずのおじいさんたちが日向ぼっこしていました。大学へ通う途中にあったレストホーム。女の人には特に礼儀正しくするよう躾られていた彼らは、わたしが通りかかると席を立ち帽子を取り恭しく挨拶しました。こんにちはヤングレディー、よいお天気ですね。

    ハッピーイースター

    Liked by 4 people

  2. dalichoko says:

    建物が壊れているのは被災の跡なのでしょうね。
    ぜひ行ってみたいです。
    (=^・^=)

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