どこへ行こう。
たいした考えもなしに、ぶらぶらと歩いて来たらT字路に出てしまった。
標識もなく土地鑑もない。
また、こんなところに来てしまった。
ここから、どこに行こう。
日本語は十年以上、おおきな存在の友達だった。
その存在の貴重さを、西洋語を母語として、日本語を準母語と言ってもいいくらいに身に付けたのではない人に説明するのは難しい。
えらそーに、と言われるだろうけど、身に付けるのに費やした時間と労力を考えれば、そのくらいは自慢してもいいような気がする。
オープンロードに立って、センターラインが消える地平線の向こうをみている。
おおきな空を見上げて、自分の小ささを確認する。
自分が生きる限られた時間を、これからどう使おうかと考える。
「くだらない人間」の定義とは、自分の時間を大切にしない人間のことだろう。
日本語ではなぜか他人を糾弾するのが大好きな人間がおおくて、起きてから寝るまで、ありとあらゆる手を使って自分が気に入らない人間を攻撃する。
やっていたことがばれて、たくさんの人間に見咎められたら、
「敵とみなした人間を攻撃して、うんざりさせるのは大学教員の義務だ」と述べて、みなを仰天させたひとがいたが、内心では、他人を攻撃してくさらせることをやってみる価値があることだと見なす人は、日本語の世界では多い気がする。
日本語と真剣に付き合う気がしなくなったのは、なんだか生きるということの意味を勘違いしているひとたちが多くて、うんざりしたのと、
本を出版して、日本語世論の一翼を担っているはずのひとたちが、話してみると「カルト」「信者」「敵認定」というような単語を平気で口にする、品性のかけらもない幼稚さに辟易したからだが、
習得にかけた労力や、楽しかった古典との付き合いを考えれば、いきなりゴミ箱に放り込んでしまうのももったいない、吝嗇な気持が起きてくる。
あるいは若いときにオカネに煩わされるのも、そのために実家の財産の世話になるのも嫌だと考えて工夫した、オカネがオカネを生みだす仕組みも、やってみるとゲーム性が強くて、つい夢中になってしまうので、これも日本語とおなじで、そろそろ距離をおきたいと考える。
T字路に立っている。
交叉点に立っているのだけど、正面は高いhedgeで、向こう側が見えない。
自分がノルマンジー上陸作戦の後半で活躍したヘッジカッター付きのM4戦車なら楽なんだけどね、とバカなことを考える。
上ばかり向いて歩いていると疲れるよ、って、玉井夕海さんが歌っていたっけ。
では、なにを信じるべきなのか?
どこかには広い海がある、と信じてみるのはどうか?
いつかは、やわらかい、人間らしい言葉で話すひとと会える、と信じることをどう思うか?
夜明けに近い小さなアパートの部屋で、焦燥に駆られながら「自分の一生に生きてみる意味なんかあるのか」と思い詰めている若い男の人がいる。
もう今日のバイトのあがりの時間が終わったら、あっさり、家にもどって、軽い夕ご飯をたべるとでもいうような、普段の動作のようにして死ぬんだ、わたしは、と決めていたのに、最後のお客さんの手首にセミコロン(注1)の刺青があるのを見て、仲間の声が聞こえて、こらえきれずに泣きだしてしまったウエイトレスの人がいる。
旅とすらいえない。
ただ食べていくために苦闘する毎日のなかで、疲れ果てて、死ぬことも出来ずに、涙すらでない寝床で、ぼんやりと天井を見ている世界のどこかで暮らす、もうひとりの自分がいる。
三十五歳なのだから、まだ新しいことがやれるだろう。
バク宙の高さが低くなって、5キロ先の岬が、泳いでいくのに、少し遠くなってきた。
これからダンサーとしてデビューするわけにはいかないしね。
一生をただしく横切って歩くと、自分が世界の余剰としてそこにある空間が、移動するにつれてパイプの形をつくって、クラインの壷のように、固有の意味をもつ曲面がつくられる。
あるいは大通りを横切って、向こう側に渡るきみの軌跡そのものが、島宇宙から島宇宙へ大股で歩行する、神の奇跡と一致してしまう。
宇宙は、きっと、そんなふうに出来ている。
万物は照応していて、ノートに無限の宇宙の形状を書き込めるように、きみは自分の一生に宇宙を記録している。
いずれにしても、もう、他人とかかずりあうのは終わりだろう。
もっと若い十代には通りに出て石を投げて、たいして年齢が変わらない警官と争った。
拳をふりあげて抗議した毎日も、それを過去にもどれば意味があるのであって、これからやってみるわけにはいかない。
生活という自分の家に帰って、そっと柴戸を閉めて、部屋にもどるべきときが来た。
でも、きみが来れば喜んで、訪問の旅の苦労をねぎらって、もうずっと飲んでいないワインをセラーから出してきて、乾杯するだろう。
きみとぼくが同じ時代を生きていて、たいして通じもしない言語を共有して、心から笑いあえるのは、なんという奇跡だろう。
きっと、ぼくときみが暮らしているこの世界は、貘や麒麟がのぞきこんで笑いさざめいている絵本で、動く絵として、悩んだり、喜んだり、友達のために怒って目に涙をためたりしているのに違いない。
神様呼んで来なよ。
これまでの冷酷は許してあげるから、一緒にワインを飲もうって。
もう、この絵本も、まんなかをすぎてしまう頃だから。
(注1)
https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/07/23/project-semicolon/
渋谷の街で道に迷いました。うっかり一本隣の大通りをずんずん歩いていったら、あさっての方向へ行ってしまい、そうなると元々行こうとしていた場所へたどり着くのにとても骨が折れるのが渋谷の街ですね。携帯などという文明の利器を持ち合わせていない人は所々にある道路脇の案内板と自らの知識と勘を総動員して何とか到着予定時刻寸前に目的地にたどり着くのです。
人前で決して泣いてはいけないフィンランド男はサウナに入ると我と我が身の悲しい定めを泣きながら語るものなのだということを知りました。
そうかと思えば、性別適合手術を世界で初めて受けてやっと本当の自分になれた幸せを感じつつ死んでいった人もいます。
何が言いたいのか自分でもよく分からないが、自然災害と人災が絶えないこの現代日本で暮らす人々にとって、心底信じられるものは何なのか。それを持つ人と持たない人の心理状態には大きな違いがあるだろうなぁ。
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十字路ではないが、私は私の人生の下り坂を見たことがある。
まだ乳児だったコドモを抱いていた頃、義父が脳梗塞で倒れて言語野とその周りを失い、ついでに30年分の記憶も失って入院した直後だった。私はその時、それまで上り坂を登り続けるようにしんどくて先が見えない自分の人生が、丘の高いところにさしかかって眼下が開け、急に遠くまで見渡せるようになった気がした。私の足元の白い道は緩やかに坂を下り、やがて遠くで海に接していた。私は上から見えている道を、重い荷物を背負ったままで今度はひたすら歩いて下りていき、あの海まで達したら、後は衰えて海に入って死ぬのだと考えた。
そのイメージの中で、海は遠浅だった。義父は海の中に歩み入っていて腰まで水に浸かっていた。沖に向かってひとりで立って、振り返りもせずに水平線を見ているようだった。人間は俗世にも家族にも過去にも興味が無くなると、あのように行く手ばかりを見つめるものなのか。彼の視界には私はもう含まれていなかった。お義父さん遠くなってしまったなあ。私は遠くから彼の背中を見つめているような気持ちがした。
介護と育児毎日繰り返して人生を終えるのだと考えていた私だったが、その数年後に、よく見わたせていたはずの道は突然崖で寸断された。振り向くと、人生の下り坂を見たと思ったあの時には見えていなかった横穴があり、私はそこから真っ暗な地下に這い込んで、そのうちすっかり方角を失ってしまった。あの時に行くはずだった海は、今どこにあるのだろう? 義父はとうに亡くなり、私は自分がどこで死ねばいいのか、もうすっかり分からなくなった。分かっているのは、帰り道が分からないどころか帰りたい場所すらもうなくなったこと、しかもそれがなくても別に構わないのかもしれないと私が思い始めているということだけだ。
未来が見えるような気がするのは幻想だね。いつでも、この通りを横切る先がどうなっているのか分からないね。私は交差点の向こうに行き着くだろうか、それとも? 行き着いたとしてそれは私だろうか、それとも?
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