Daily Archives: September 18, 2019

近所へのドライブ

天気がいいので海辺にドライブへ出かけた。 わし家からは、五分もかからずにハウラキガルフ沿いの道に出ます。 Judges BayからSaint Heliersまで9kmくらい、ずっと左側に海が見えていて、毎日色を変えて美しいハウラキガルフを見ながら運転していきたい気持はみなが同じなので、のおんびり運転しても、誰も急かしたりしません。 ほとんどの場合、モニさんと一緒だが、このごろは、ひとりででかけることもある。 ひとりで出かけるときは屋根があくツーシーターです。 十二歳で色鉛筆でつくった自作の運転免許をもってクルマを運転するようになってから、ずっとスポーツカーを持っている。 贅沢な、と眉をひそめる人がいそうだが、むかしからフランス人家族が置いて行ったオートマチックミッションが壊れた$800のプジョーや、そんなのばっかりで、日本でいえば原チャリだとおもえばいいのではないだろうか。 この手のクルマでは日本のマツダのMX5(ユーノスロードスター)が素晴らしいが、あのクルマは6フッターは乗れるように出来ていても、わしには少し小さくて改造しなければならないので、結局、乗らなくなってしまった。 いまはイギリス製の、もっと図体がおおきいスポーツカーに乗っている。 オークランドやサンフランシスコのような英語圏の町と、東京や大阪の風景で最も異なるのは、日本の町にはe-scooterが走っていないことだ、と誰かが述べていた。 ええええー、そんなことがあるのか、とおもって調べてみると、日本でもe-scooterは乗れるがナンバープレートをつけて車道を走らねばならず、原付免許が必要だ、とある。 日本らしい、とおもってなんだかニコニコしてしまったが、日本は「のりしろ」が少ない社会なので、社会を進歩させまいとするちからがこんな形でも働いていて、おもしろいな、とおもう。 ネット上をうろうろして探してみると、ちょうどいまのようなことを述べている「このひと、わしかしら?」とおもわせる人がいて、その人に「e-scooterを乗り回すことが社会の進歩だとはおもわない」と噛みついている人がいる。 怪我をしたらどうする、という人がいる。 オークランドの例を挙げると、ライムという、これは世界展開をしているたしかサンフランシスコに本社がある会社があって、この会社が「オークランドで商売をやりたいんですけど」と述べにきて、「じゃあ、まず3カ月間(だったとおもう)試しにやってみたらどうですか?」ということになった。 やってみると、初めの1ヶ月で重傷で病院に担ぎ込まれた人が40人で怪我人が200人だかで、乗ってる人も、ぶつかられる歩行者にとっても、めっちゃ危ない乗り物で、この区域では歩道で乗ってはいけません、とルールを決めても、ライダーたちのほうは言うことなんか全然聞かないのが判ったが、カウンシルとライムと市民でできた委員会の結論は「まあ、この程度だったら慣れればなんとかなるのでは」で、一年ごとに見直すだかなんだかの条件で、晴れて公共交通機関として取り入れられることになった。 もっとも、ライムにぶつけられて負傷するひとのニュースはほぼ毎日のように報じられていて、いま記事を書きながらNZヘラルドを見ても、バスから降りた途端にライムに当て逃げされた女の人の負傷記事が出ていて、ライムのライダーは逮捕されたと書いてあります。 だからルールがもっと厳しくなる可能性はある。 そのルールも守られないと警察が本腰をいれて摘発するようになる。 当然、ライム側にも負担を求めることになるので、嫌になって撤退するかもしれない。 いまはクルマで海を見ながら走っていると、海岸沿いに続く歩道をe-scooterが何台も通って、オークランドの新しい風物になっている。 海辺の、贔屓のベーカリーでクルマを駐めて、ステーキパイをベンチに座って食べていると、いろいろなことが頭を過ぎります。 モニが、ガメには記憶の反芻癖がある、といって笑うとおりで、ベンチに座って、ああそうか、あのときはこんなふうにやったほうがよかったんだな、あそこでこんな失敗をしたことが、あとでうまくいくことにつながってるのか、人間の一生って、なんて不思議なんだろう、と、そんなふうな他人が聞いたら笑いそうなことばかり考えている。 それにしても玄妙なのは、人間の一生は計画を細密にすればするほどうまくいかなくなるらしいことで、「のりしろ」をおおきくして、そのうえに、強く気持が働いたときには、計画もなにも踏み倒して、気持がひきずるほうに向かったほうがうまくいくものであるらしい。 マヌケなことに十数年もむかしのことをおもいだして、ああそうか、あの人は自分を愛してくれていたのだ、その気持を気づかれまいとしていただけなのだと突然気が付いて、途方もなく切ない気持になることもある。 人間にとっては過去は、実在をやめた幻影であるにしかすぎない。 とてつもなく奇妙なことだが、いまベンチの脇においたステーキパイは、2分前のステーキパイとはまったく異なった物体で、これが連続した同じステーキパイだというのは、哲学的な一見解にしかすぎない。 自分の肉体もそうです。 肉体は刻々と変化していて、7年たつと、もとの肉体とは材質的にもまったく異なったものになるというが、自己が時間を貫いて同一性を保っているというのはヒュームでなくても、かなり頼りない論理によらないと説明できない。 ある朝おきてみると、見た目は細大もらさず同じだが、どう気分を調整しても、その場所が昨日眠りについたのとおなじ場所だと感じられないということは普通の人間でも経験することがあるはずで、言葉を変えていれば、この直覚の頼りなさを経験しなければ、人間は世界の実相について考える能力をもちえないのかも知れません。 いまはスマホでtwitterを見ればいいだけだが、20世紀の終わりまでは、このオカフ・ビーチのベンチに座って海をみていて、ふと、この瞬間にニュージーランド以外の文明社会は消えてなくなっているのではないか、と不安な気持ちに襲われることがあった。 なにしろ隣のオーストラリアですら2400kmの先なので、世界が終末を迎えてもニュージーランド人だけは気が付かないでいることに、おおきな現実性があった頃です。 ニュージーランド人と、この孤立の感覚は切っても切れないものになっている。 記憶を遡って明滅する一場の光景や、なつかしい人が自分に語りかける姿を思い出していると、自分がどんどん自分になってゆく。 まぎれもない自分の姿が時をこえて、ナマな感覚を持って甦ってくる。 自分がいったい、この世界に生まれてなにがやりたかったのかを生々しく思い出します。 自分が自分の一生になにを求めていたか、なんて人間は滅多に思い出さないんだよね。 ステーキパイを食べ終わって、起ち上がって、むかしながらの匂いがする紙袋をまるめて海岸沿いのそこここにあるゴミ箱に捨ててクルマに戻る。 … Continue reading

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