自分の家に帰る

子供のときに受けた印象が良すぎたので、その後、日本語を通して日本の社会を見るようになって、「あれ?これは変だな、初め考えていたのと違うな」と気付き始めてから、かれこれ十数年経つのだから、ほんとうは気長というか、ずいぶんのんびりな疑惑の定着でもあるのだけど、いったん、どうもあんまり好きなタイプの国ではないようだ、と考えるようになると、今度はそうとしか考えられなくなって閉口する。

言語の習得は趣味のひとつだが、むかし心理学だかなんだかで習ったとおり、例えば物理学のようなものと違って、ちょことちょこと細切れの時間を積み上げて習得するのが最もよいので、これを書いている人間のように集中力の持続時間が40分以上続かないタイプの人間には向いている。

たとえば語彙を増やしてゆくのに、1秒しか見なくても、2分みつめても、記憶に根ざす度合いはおなじで、そんなヒマがあれば旁や偏の意味をおぼえたほうがいい。

したがって、ひとが考えるほど言語の習得に時間がかかっているわけではなくて、むしろ、習得した言語を自然なものに変えていくほうが労力はおおきい。

このブログでよく例に挙げる、過去の、ジョゼフ・コンラッドを初めとする20歳を過ぎてから外国語としての英語の習得を始めて英語作家や脚本家に育っていったひとたちの例を見ても、骨格をつくるよりも、表面を滑らかにして、なめしていくほうに遙かに時間がかかっている。

英語作家の世界では、2017年から2018年にかけてベストセラーになって、バラク・オバマを始め、各界の有名人に「読まれるべき本」に挙げられたミン・ジン・リーの「パチンコ」は、極東アジアに射した、日本という巨大な邪悪な国家の影の下で、必死に生きていった朝鮮のひとびとの3世代に渉るクロニクルだが、その英語の読みやすさは、地方語としての部分を持たない英語に対する姿勢から来ている。

あるいはKamila ShamisieやArundhati Royの小説の英語もそうで、
どちらかといえば、伝統的な英語とは異なるリズムや調子のものが主流になりつつある、といっていいとおもう。

日本の人に固有の発想として、「これはほんものの英語ではない。ほんものの英語国民ではないのではないか」
「それは正しい英語ではない。英語の構文に照らして、間違っている」というのがあるが、むかし、このブログでカルボナーラの話をしたときに述べたのとおなじことで、英語がもし「正しい英語」に固執する偏屈な言語であったら、いまのように、ほとんど誰でも母語のように話し、ヒンズー語のように、逆に英語側に言語的特徴が流入するような事態は生まれなかっただろ

英語人が「英語ではそういう言い方をしない」と考えることはある。

しかし、それは、「ああ、このひとは家庭内で英語を話して育ったわけはないんだな」というような軽い印象のことを述べているので、英語を母語とする人間のほうが正統であるかのようなことを言うのは、途轍もない時代遅れな偏見というか、つまりは差別が大好きな体質のおっちゃんやおばちゃんたちが、言語に舞台を移して、大好きな人種偏見を披露しているのに過ぎない。

ちょっと前に、アメリカ人で、英語を母語とする女の人の研究者について、何に腹を立てたのか、いつものグループ、と呼びたくなるひとびとが「こいつは英語人のふりをしているだけで、日本人だ。
その証拠に英語が母語の人間のものではなくて英作文にしかすぎない」と述べて、しかも珍しくもネット上で英語で当人に述べた人もいて、激怒させている光景があったが、それが実は関東大震災のあとに、街角の、辻つじに立って、「はひふへほ、と言ってみろ」と尋問して、うまく発音できないと、日本の本によれば袋だたき、日本の外で出た本には「在日朝鮮人たちは市井の日本人たちに虐殺されていった」と書いてある事件を引き起こした心性と、まったく同じものであることは、別に深く考えなくても、まともな知性があれば、すぐに了解できることだろう。

いちど、日本にいたときに、あるアフリカ系の作家を指して、「子供のときから英語で育ったといっても、やっぱりロアルド・ダールのようなもともと英語で生まれて育った作家とは英語の自然さが違うのですよね」と述べた女子大学の英文学研究者に会ったことがあって、
いつものことで、なるほどそうですね、と述べてやりすごしてしまったが、イギリス人ならば誰でも知っている、というようなよく知られた話ではないが、日本人的に厳密な意味ではロアルド・ダールは実は、英語母語人ではない。

ダールの両親は英語を話さないノルウェー人で、この英語表現の名手は、家庭内ではノルウェー語だけを話して育ったからで、文体にはノルウェー語の、ややつんのめるような文章の調子が、うまく使われている。

英語人にはダールの文体について「浅薄で、エキセントリックで嫌な心地がする」と感想を言う人も多いが、よくお話を聴いてみると、そのノルウェー語独特のカンタタンというリズムが嫌なものであるらしい。

ダールは、秘かに、英語とノルウェー語を頭のなかで調合して魔術師のように自分の表現を生み出していったのが目に浮かぶようです。

長々と、なにを述べているのかというと、習得した外国語は結局は自分の母語に良い影響を与えるのであって、日本語で書けば英語そのほかの影響があり、英語にもどれば、各国語の影響があって、言語と言語は化学反応を起こして、表現よりも考え方そのものが見たことのない燦めきを持つので、別に、日本に対してややげんなりな気持を持ったとしても、知的努力に吝嗇な自分の部分が嘆くほど、むだになっているとはおもえない、ということを言おうとしている。

知らない言語は、おもしろい。
文字種がアルファベットでなかったりすると、思わず知らず、わくわくする。

そのうえにアラビア語のように英語とは逆に右から左に書く言語に出会ったりすると、欣喜雀躍、これが判らないまま死んだら、さぞかし後悔するだろう、と考える。

習得、習得、というが、なにをもって「習得」とするかといえば、もともとは未知の言語が自分の思考に流入して母語の思惟に影響を与え始めた時点が習得なのだろう。

初めのうちは自分が母語で考えたことを他言語で表現しようとして区々とした表現に苦労するが、案外すぐに、大量の読書によって、なめし革をなめすように、自然な表現になっていくものであるとおもう。

自分では判らなくても、どうも、この日本語は古いらしいが、考えてみると「第三の新人」以降の作家は好きになれなくて読まないので、戦後現代詩人たちを別にすれば、なんだか明治時代より古い日本語ばかり読み耽っていたのだから、あたりまえといえばあたりまえなのである。

閑話休題。

数年間、ずいぶん数が増えた日本語人の友達たちに読んでもらって、みんなで議論したり、わいわいがやがやとツイッタで話すのを楽しみに書いてきて、実際にそれは自分が「よりよく世界を見る」ためにおおきく役に立ったが、日本語を通じて日本の社会に感じていたコミットメントの分は、暗部の「可視化」などと述べて、誰にでも判るように、どんなひとたちがどんなふうに日本語を蝕んで、真実性を殺して、その結果、日本語社会がいまの状態に立ち至ったか、相当に嫌な思いをしながら、なんとか視えるようにして、債務を果たした気がする。

日本語をはじめいくつかの言語を習得して最もよかったのは、長い間飽き飽きしていた英語が再び好きになったことで、母語を「好きになる」のはなんだか変だが、最も適切とおもわれる表現が「好きになる」なのだから、仕方がない。

これまでのように「他人に見せるため」でなくて、自分が自分自身の内なる日本語を保存するために文章を書くことに戻りたい。

なんだかエラソーに書いているが、英語で書く量が格段に増えて、内緒でいろいろに書いていた諸外国語にまで手がまわらなくなっている、という単純な理由もあります。

飽きっぽいので、今度は日本語にちょっと飽きてしまった、ということもあるのかもしれない。

我ながら、いつものごとくテキトーで、熱が冷め始める、数日で、日本語の世界がなんだか前世で経験したことのようにおもえてしまうのだから、呆れてしまう。

いったい、いつになったら、「自分は誰なのか?」というこの疑問に答えられる日が来るのだろう?

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5 Responses to 自分の家に帰る

  1. tohma.q says:

    Long time no see.

    How are you?
    Are you alright?

    Well,… I feel that you’ve lost a hope for Japanese society,
    especially so called ネット言論 world, if “it” ever “really” exists.

    I think your words for Japanese are good, kind and tenderness.

    ………ahh, I’ve become sleepy a lot.
    I’m sorry I quit writing more now.

    Please not quit your writing in Japanese,
    with your wisdom, and insight for humanity.

    Liked by 1 person

  2. odakin says:

    ガメさんの日本語を古いと思ったことは無いな。「言語と言語は化学反応を起こして、表現よりも考え方そのものが見たことのない燦めきを持つ」というとおりの魅力のある文章だと思う。

    Liked by 3 people

  3. mrnk6122 says:

    今読みました。
    ガメさんの日本語は私の好きな日本語です。
    ガメさんの日本語こそが、もう日本語話者には作り出せなくなった
    新しい表現だと感じることが多かった。
    風が通り光がさす感じがします。

    最近、アプリでだけれど一度にたくさんの言語を勉強しています。
    スペイン、イタリア、ポルトガルで、わけわかんなくなったりしてるけど
    とても楽しい。
    いつか日本語以外の言語でガメさんとお話できたらいいな。

    Liked by 3 people

  4. Tsukasa Kondo says:

    ガメさん更新ありがとう。「自分自身の内なる日本語を保存するために文章を書く」という言葉に大きく共感するので思わずコメント。

    私は言語を「滑らかにする」というプロセスがすごく好きです。英語は日常語・仕事の言葉になりかなり達者になったけれど、それでももっともっと滑らかにしたいと思ってる。
    言語って、表面がある程度滑らかにならないと「自分」が見えてこないですよね。凸凹な物体の中心点が見つけられなくても、どんどんと滑らかにしていって球体になれば「中心という物はないけど、ある」という状態になるように。

    私がこのプロセスが好きなのは「ネイティブのように言葉を使いたい」というわけではなく、このプロセスが「自分の声」を見つける作業だからだなぁ、とガメさんの今回の文章を読んで思いました。表面を滑らかにするプロセスで私は潜在意識(なんてあるのかしら)で言葉を取捨選択して自分の物にしている。振り返るとそこに明らかに自分の傾向が存在している。逆を言うと、自分の中心がどこかを意識せずに、表面を滑らかにすることはなんだかひどく不健康なように思えます。

    私は目下、ギリシャ語に取り組んでいますが、「南欧人としての私はどんな人物なのかしら」と興味は尽きません。

    Liked by 1 person

    • ツカサさんは、日本で生まれて育って日本語人として大学を卒業して、いまは英語で脚本を書いて生計を立てていて、初めて見たとき、「日本にも、やっと、こういう人が現れるようになったんだ、と安心したものでした。

      カナダやアメリカが日本みたいなお国柄だったら「ニセ日本人」の大合唱で英語世界自体をまったく信用できなくなるところですのい。

      >私がこのプロセスが好きなのは「ネイティブのように言葉を使いたい」というわけではなく、このプロセスが「自分の声」を見つける作業だから

      素晴らしい表現。

      言語の習得にも捷径があるとすれば、これが背景の思想であるはずで、日本の人に英語がぜんぜんダメな人が多いのは「ネイティブのように言葉を使いたい」と、英会話学校のCMのような考えで英語を「勉強」してしまうからなんじゃないかなあ、と思います。

      わし友によると現下の世界で住んで最も幸福な国はギリシャでエーゲ海の島にはパラダイスを見つけ出す嗅覚にすぐれたイギリス人たちがたくさん居候している。

      区々とした事務が苦手な国民性のせいで税務署が混乱を極めていて、誰の書類がどこにあるかすら判然としないので「税金を徴収に来ないから無税国家なんだよ。おれ、税金、払ったことないもん」だそうでした。

      どうもギリシャ語には生活上の巨益をもたらす霊験もあるらしい。

      では

      Liked by 2 people

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