では、どうすればいいのだろう? 1

何度も書いたが、子供のとき、日本に住んだ記憶は楽しいものばかりで、わしの日本に対するhaloが射している薔薇色のイメージの根幹をなしている。

やたら親切な店員さんたちがいるデパ地下や伊東屋やキデイランド、天賞堂のような店が大好きだったせいもあるが、なにしろ、もともと甘やかされて育って、ちやほやされるのが大好きな性分で、いちど女の高校生のひとびとに取り囲まれて、「わあああー、かわいいいいー」という嬌声とともに、おれはチワワか、それともチャウチャウ犬か、というあつかいで、なでられたり、さわられたり、怖かったことがあったが、それは例外ちゅうの例外で、おおむね適切な手段によって甘やかされていて、ニシムラも千疋屋も、おごってもらうには、ごく早くから、どのパフェが最もおいしいかメニューなどなくても注文できて、メニューを見て考えるふりをするのがたいへんだった。

書いていて、ぜんぜん関係ないことをおもいだしたが、日本のメニューは写真がついているところが秀逸であるとおもう。
のみならず、入り口のショーケースに、むかしはワックスで、いまはなにが材料だったか、忘れてしまったが、ほんものにそっくりのサンプルがずらっと並んでいたりする。

いつか高坂のサービスエリアのレストランだったか、おっちゃんが、憤懣やるかたない表情で、いかにも、こんな不正が許されてはいかんのだ、という瞋恚のほむろがみなぎった目で、表のサンプルよりもとんかつがちいさい、と怒鳴りまくっていて、店員さんが、軽蔑を必死に押し隠した顔で、
表のものはサンプルで御座いまして、と陳弁している。

それからしばらくして、おなじ食堂に寄ったら、「サンプルは実際の商品と異なる場合があります」と書いてあったから、きっと、ああいうおっちゃんはひきもきらず、自分が人生で認めてもらえなかった鬱憤や理不尽な上司にいびられる日常の憤懣をとんかつのおおきさや、御飯の盛を材料にレストランの修正主義を非難しにくるのだとおもうが、どうも、最近は、日本のことをおもいだすと、「おっちゃんたちが、ろくでもないのだな、あの国は」と考えることが多くなったので、薔薇の話を書いていても、おっちゃんのすだれはげとものほしげな目が浮かんでしまう。

すまんx2

なんの話だっけ?

おお、そうだ。

子供のころは、そうやって、薔薇色の、これは「しょうび」と読むのであってバラとは読みませんと日本語の先生が述べていたが、そういうことはどうでもいい、毎日が楽しくて、失神してしまいそうな、もうひとつだけ全然関係のないことを唐突に書くとマグマ大使の妻役のひとは、應蘭芳というもともとはイギリス人として生まれた人で、満州国籍に変わって、最後は日本国籍になった人だが、蒐集した古雑誌を読んで調べて見ると、当時はエッチをするたびに失神に至る「失神女優」というのが売り文句の人で、黄金でできた巨大なロケット人間とエッチして失神して暮らすなんて、SFポルノファンの夢の生活を実地に生きていた人であるようにおもわれるが、ともかく子供のころは楽しくて楽しくて、毎日浮き浮きして暮らしていたが、それでも子供心にも、「この国は、最後には亡びるのではないか」と考えていた。

おとなたちが日本の実業家のおっちゃんを家に連れてきたときに、一緒に、なにを見ていたのだったか、プロジェクターで映像を観ていて、みなが大笑いするところで実業おっちゃんも笑っているのだが、日本のひとには判りにくいはずのところで、さも楽しそうに笑うので、おとなたちのひとりが、不思議におもって、好奇心に駆られて、「いまの、どこが可笑しいかわかったのですか?」と訊ねたのに対して、困惑したように「いいえ」と答えている。

一事が万事で、日本のひとは、付和雷同で、仲間第一で、自分の判断などは、せいぜい食べ物の好みくらいでしかしないように観察されたからでした。

どうも、ヘンな国だな、と考えた。

当然のことながら議論などは、まったく存在しない国で、後年、もういちど確認にもどるつもりもあって日本に「5年間11回の十全外人日本遠征」と称する滞在を繰り返すころになると、どうやら日本という国は、アメリカに押しつけられた民主社会がまったく身の丈にあわなくて、表面は民主制で運営しているように見せかけているが、その実は国民ひとりひとりが個人の自由さえ望んでいない、まるで天然に生成されたような全体主義社会であることが判っていった。

だから他人事だとおもって聴いていると、聴きすごしてしまいそうな、猛烈に奇妙なことがたくさんあって、たとえば「民主的な社会では、参加者のひとりひとりが十分に納得するまで徹底的に話しあうことが重要です」と、いいとしこいたおとながマジメな顔で述べている。

なんだか、こうやって書いていても、えっ?それが民主主義じゃないんですか?」と言う人がいそうで、怖い気がする。

全員が納得することを前提にするのは、過半数が決めたことを真理とみなすのと同質の誤りなのは言うまでもない。

いずれも「絶対」が欠落していることに原因するが、それは次の回の話題にします。

全員が納得するまで話しあう、というアイデアのいかがわしさは、「そんなことは現実には起きないから」で、少なくとも民主制の前提になっている社会の成員が個々にまったく異なる個性や人格をもった「個人」である社会では、全員が納得してしまうのは、全員が狂気にとらわれたときであるのは論理的に当然だとおもわれる。

では、狂気をめざして夜を徹して「議論」するのが民主制の基礎になりうるだろうか?

それは、どちらかといえば全体主義社会をめざしているのに過ぎないのではないか?

「いじめ」は、どんな社会にも存在するが、日本の場合は、おとなが徒党を組んでいじめを楽しむ点で、特殊であるとおもう。

おとな同士のいじめは、英語社会ならば、無視か、男性から女性に対する性差別か、たとえば白い人からアジア人への人種差別と決まっている。

日本の場合は、異常なくらい強い加虐性が社会に充満していて、ほとんど、やむにやまれないような趣で、生意気であるとか、ひとりだけ幸福そうにしやがって、とか、外国人のくせに、とか、なにごとか自分達と異なる「個人」を発見すると、わっと群がるように加虐性を発揮して、しかも、なにしろ子供のときからスキルを磨いているので、ほとんど芸術的なでっちあげや嘘中傷の腕の冴えをみせる。

他人の例を出すと気の毒なので自分の例をだすと、たとえばこのブログのごく初期に捕鯨がいかに、当のクジラのみならず日本人全体の将来にとって有害であるかシリーズで記事を書いたら、はてなと2chの、と言ってもいま考えてみると、おなじひとたちなのかもしれないが、ひとびとがわっと寄ってきて、この記事を英訳してみせろという。

バルセロナのアパートに滞在していた頃の話だから、2008年かな? カバやハモンの楽しみを中断して単純に善意で英語に訳してやったら、おそるべし、いつのまにか「こんな英語は、日本人が和文を英訳しただけの下手な英作文だ」と「はてな」というコミュニティの内部で喧伝して、だって自分達で和文を英訳してみろというのだから和文英訳なのだから、魚拓という、議論よりも釣果をめざす、いかにもないやらしい薄気味の悪い名前をつけたハードコピーにとって、それだけが英語記事であるようないいふらしかたをする。

はっきり述べて、この「おまえは英語ができない」トロルおじさんたちは、いままでも散々わし友のうち英語を母語とするひとたちが彼らに直截述べてきたとおり「英語が母語かどうか」という考えへの執着自体が英語人が持たない発想で、多分密接に人種差別意識と結びついた日本人に独特のものだが、しかも自分達のほうこそ、まったく英語が判らないひとたちで、英語の記事なんて見せるだけ受験英語というのか、極めて特殊な英語を題材としてパズルの定石を縦横に駆使してみせる技術を大学受験のときに身に付けたらしくて、トンチンカンで噴飯ものの「構文解析」をやってみせて、もっともらしく母語人の英語をくさす材料にされるだけなので、まあ、「魚拓」もあまさずとってあることだろうし、うんざりなので全部削除したが、もともとのトロルたちの集団攻撃で嫌気がさしたせいで(トロルたちが現実には英語がまったく読めないのが判っているいっぽうで、当時の日本語友だちの大半は職業柄、英語が理解できる人がおおかったので)訳すというのではなくて、英語で書き直した捕鯨記事だけは、ひとつだけ残してあるのは、10年経っても、まだしつこく英語がただの英作文にすぎないと中傷を続けているからで、匿名のままつきあっていきたい英語+日本語の英語が理解出来る若いバイリンガル友たちにある種の日本人の中身のない傲慢と失礼を理解してもらうために「見ればわかるのに」という気持も、まるでないとはいえない。

Wailing about whaling

https://gamayauber1001.wordpress.com/2008/06/05/wailing-about-whaling/

2chから「はてな」、はてなからtwitterと移動してきた、このトロルたちは、どうやら、はてなidをもつ少数のおなじひとたちで、twitterではひとりでいくつものアカウントを使い分けて、彼らの言葉をそのままつかうと社会における「勢力」をつくろうとしているもののようでした。

安倍政権は、外国人投資家にとってはオカネをばらまいてくれるのはいいが、ちょっと外国人たちが日本に関心を抱いて瞥見するだけで、一目瞭然、ぶっくらこいてしまうほど無能な政権で、それどころか、日本の基礎である、例えば個人の預金であるとか年金、向こう50年は特に「役に立つ」心配が皆無の学問(例:カミオカンデ)、自衛のための軍備の整合性、あらゆる日本を日本たらしめていた体系、社会の建築基礎を破壊して、それはそれは箸にも棒にもかからない政権ではあるが、
ではそれが日本の本質的な問題かというと、そんなことはなくて、「結局は安倍政権を長期化させた国民の体質」のほうに問題があるのは、誰にでもわかる。

都合がわるいことはいっさい存在しないことにして目に入れないのが日本の伝統でもあって、それが社会全体の習い性であるのは、たとえば政治の右も左も関係がなくて、一緒にみてきたとおり、「慰安婦」問題の糾弾者たちは、現実には匿名アカウントで在日コリアンを嘲り、徹底的にバカにして、
被害をうけたほうは、剥き出しのモラルの欠如と、さらに悪いことには、自分達在日コリアンを最も低劣で卑怯なやりかたで苦しめて、実際に体調を壊して仕事をやめざるをえなくなったり、起きてから寝るまで、一日中自殺を考えている、とわしなどに書き送ってきたりするところまで追いつめた本人たちが、いっぽうでは、「慰安婦」問題でコガネ稼ぎをして、品の悪いいいかたをすれば飯の種にも足蹴にする石ころにも在日コリアンは使えて二度おいしい、と言わんばかりにせせら笑っているのをtwitterなどで眼前に見ているのに、平然とそういう人間たちを支持している日本人全体に対する怒りで、声が震えているのがわかるようなツイートを繰り返している。

前にも在特会デモのことで書いたが、差別が始まった当初の年は、「あれは一部の日本人で、わたしは彼らとは異なるので文句を言われても困ります」で澄ましていられても、それが年を経ても変わらないのは、日本人全体の責任であるとおもう。

こういう社会の素顔にあたる部分は、露見しても、世界の人間に伝播するのは十年以上はかかって、タイムラグがあるのが普通だが、いまではもう日本の人といえば、ああいう人間達の集まりだから、と内心でみんなが考えるようになったのは、不正を見過ごすことが不正者に加担することであるという、誰にでも明瞭な事実を知らないふりをしてきたことのconsequenceで、
品性の悪さや嘘、集団加虐的な体質というような日本人に一般的な特徴は、たとえば自分の身の回りでいえば日本をふりだしにすることが多いフィリピン系のナースたちの口から、ことあるごとに洩れて、血液検査や健康チェックで病院に行ったりするたびに、スモールトークの最中や、あとで、「日本」という単語が出てくるたびに、一緒になって聴かされることになっている。

わしが日本語を身に付けようとおもったときでも、高校で日本語を選択したひとやなんか、あるいは日本から移住してきたり留学してきた日本の人たち自身の口から「日本人とは関わりにならないほうがいい」と言われたが、あれから十数年経って、不幸なことに、いよいよ社会のすべての階層に日本人の気取り屋の加虐集団イメージは定着したように見えます。

日本の人は、やや異なる考え方をするように見えるが、普通は、国と人間を分けて考えることは定着した考えであるというか、欧州人などは、もともと国と人間をだぶらせてみるのはドイツのような特殊な国が対象のときに限られている。
日本はもともと国としては大層評判が悪い国で、日本からの観光客がどっとやってきていた、わしガキの頃でも、「日本のような国はないほうがよい」と述べる人は、案外と、わしが尊敬しているタイプの大人に多かった。

ところが最近は、日本という国とは別のタイプの悪評が日本人ひとりひとりに対して定着している。

あんまり仔細に書くと書いているほうも楽しくないので、簡単にいえば、リベラル人がトランプに対してもっているイメージと、個々の日本人に対するイメージは、多くの点で酷似している。

ひとことでいえば、チョー嫌な言葉になってしまうが、うすっぺらさで、日本のなかでは安倍政権が全部わるいことになっているが、外から見ていると、帝国陸軍にすべてをおっかぶせて、最大の責任者であるはずの天皇をはじめ、日本人全員が被害者であることになって、陸軍の戦死したり処刑された将軍たちを口を極めて罵ることによって、あな不思議、日本人はなんの罪もなくて、ついでに戦前日本の最大の権力者である昭和天皇まで「実は平和主義者だったのにお気の毒な」ということになった。

いまもおなじで国内で「慰安婦」問題を糾弾してみせれば、本来の罪科は忘れて、自分はあっさり正義の闘士になりおおせたうえに、生活のためのオカネも稼げる、頭の弱いひとびとからは「先生」と呼んでもらう、年来の夢もはたせる、ということであるようでした。

日本の社会のおおきな特徴は、ならずものの集団に対して抵抗力がなく、ゴロツキがあばれだすと、たとえそれが少数の、社会的には眉をひそめられるだけの、あるいは軽蔑を買うだけの人間の集団であっても、下は愚かな支持者を巧言で取り込み、上は権威とおぼしきものに取り入って潜り込むことによって、ゴロツキたちが、なんなく社会全体の鼻面をひきまわす。

立つ視点をほんの少し変えてみると、明治維新と呼ばれるものそのものが、紛う方なきサンプルで、革命は起こしえなくてもクーデタは起きやすい体質の社会で、日本では実際、実効性がある政治的な力は、みな冗談のような過程を経てうまれてくることが多かった。

広くみれば全体主義文化とはそういうものだと言いうるし、狭くみれば日本人が日本人自身の口を塞ぐためにつくった巧妙な社会、というよりも「世間」の仕組みが、またしても日本を破滅に駆りたてだしたのだとも言えるでしょう。

実は「軍部」という枠の中で戦前にもまったくおなじ構造が働いて日本は誰に聞いても僥倖なしに勝てる見込みを持っていなかった戦争へ、レミングよろしく、勇ましく行進していったのでした。

以前にはtwitterでやっていたことだが、「いやがらせを続けて、相手をうんざりさせることによってアカウントやサイトを閉じさせることが社会的正義だ。自分だけでなくて大学教員たるものは、みなやるべきだ」とおおまじめに述べるひとたちが2ch、はてな、とやってきてtwitterの日本語コミュニティを牛耳るようになってきたので、integrity の欠落の発見くらいから始まって、皆ですすめていた議論は、彼らの悪意で破壊されてしまった。

そして前にも述べたように、「言論人」が頭からバカにしていて、ゴロツキたちが憧れる「まともな研究者」であるひとなどは、彼らならず者をさしてチ○カスという、わざと下卑た表現で呼んで最大の侮蔑を表明していたが、そうこうしているうちに彼らは箔付けをおこなってネット上の言論などは日本語では存在できないことが約束されてしまっている。

slackでは盛んに議論が続いているが、構造がそもそも内輪のワークグループ用に出来ているので、議論を深めることは出来ても、少しでも世論の形成に寄与する、ということは出来ないはずです。

ジャーナリズムと呼びうる精神を持ったマスメディアを持たない日本語世界でネット言論もゴロツキが支配するようになって、普通に個々の生活を送っている人達がたまりかねて結束して立ち向かえば自称はリベラルであったひとたちまでが「カルト集団」「信者」と言い出して、言論の端緒をつかんだひとびとの芽を、なんだか慌ててつぶしにかる。

自分達だけが「良識のある進歩的文化人で一般の人々は相変わらず自分の意見を言わない羊でいてくれなければ困る」という都合が丸見えでよそ者としては見ていて恥ずかしくなるが、もうここまで来てしまっては、どうにもならないのかも知れません。

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7 Responses to では、どうすればいいのだろう? 1

  1. koshiro eguchi says:

    途中で送信になってしまいました。消し方がわからない。。。
    記事、ありがとうございます。ちょうど内藤朝雄さんの記事
    https://gendai.ismedia.jp/articles/-/68380
    を読んで、日本の世間(狭ければ狭いほど発生しやすい)の恐ろしさを考えていました。暴力や嘲りは、集団の鼻面を引きずり回すための道具なんですね。絶対がなければ、集団、秩序が個々人の寄る辺となってしまい、それは主に暴力と利益誘導によって作られてしまう。どちらも個人から自己決定を剥ぎ取っていく。
    また考えてみます。何が、この国で個人を生かしてくれるのか。

    Liked by 2 people

  2. mrnk6122 says:

    おはようガメさん。仙台は紅葉の季節になって朝晩冷えるようになってきました。
    出かける前に記事が読めて嬉しい。
    この頃は眠くて仕方が無いので朝ちゃんと目覚めていることが少なかったんだけれども、今日は起きなければならない気がしてぱっちりと目を覚ましたら、ガメさんブログが更新されていた。
    眠っていてもちゃんとテレパシーを受け取ったようです。おれ偉い。
    あ、発信しているガメさんが偉いのだな。
    寝た子も起こす強いテレパシー。

    この前から、日本語の世界の人と人の距離と共感性について考えていました。
    もちろんわたしのことだから難しいことは考えられない。
    わたしの身の回りの世界はとても狭くなっていて、ひとつには「嫌な人(もの)と距離を取りなさい」と病院で指導されて、病気をよくするならばと実行してきたんだけれども、近頃それに飽き飽きしはじめた。よくなってきたからだと思います。
    距離を取れば確かに自分は傷つかないけれど、相手がどんな人なのか自分とどう違うのか、深く関われないのでつまらないのです。若い頃には確かにあった、人と知り合うことによって新しい世界が広がっていくワクワクした感じを、ネット以外の世界では、もう長いこと味わっていない。それはなんだべな?と考えていました。

    ネットで知り合った友達はいつか会いたいと思わされる人たちばかりです。
    彼らが世界のあちこちで、今この瞬間も息をしてご飯を食べたり家族と仲良く過ごしたりしていると思うと嬉しくなるんだ。
    反面、嫌らしいものもネットの世界にはたくさんある。
    ネットなんて現実では無いのだとせせら嗤う人もいるけれど、現実の人間が酷いことをしているのがネットにちゃんと現れている。目に入らないわけにはいきません。嫌なら見なければいいでは無いか、では見過ごせない。
    ツイッターではあまりそういうことについて意見を述べないけれど、見ています。
    見ているだけでは無くならないから少しずつだけどやってみているよ。
    ウクレレを弾きながら、歌いながら、カタツムリのようにゆっくりだけれど。

    Liked by 9 people

  3. hellilbon says:

    「日本のような国はないほうがよい」
    「日本人とは関わりにならないほうがいい」

    一昔前は理解できなかった、日本人の異常なくらい強い加虐性は、残念ながら
    もう何をやっても治らないと思います。「同じ」日本人の陰湿さ、執拗さ、残忍さ、
    無責任さ、加害しておきながらの被害者意識、挙句の果てはHKデモを見て
    「また平和なHKになってほしい」と発言する能天気さ(悪意のない無邪気さ?)。。。
    毎日がまさに「狂泉」の世界です。

    ただの通りすがりの人からも感じる悪意と攻撃性を、受け止めないようにしていますが、
    「同じ日本人」など、自分を含め、全部まとめて、2年前にDPRKのミサイルで全滅させたほうが
    世界にとってもよかったのでは。

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  4. Tomotada Yamamoto says:

    日本にルールなんてものは存在意義がないのですよ。
    たとえば、会社の中の規程を変えて、ある一定の距離以上の出張の場合は新幹線を使っていい、という内容に変えたとします。
    しかし、自分のいる部署がルールに従って部署員の出張の際に新幹線を使うと、場合によっては他部署から文句が出る。
    自分たちは新幹線使ってないからそんなことはダメだ、となるのです。
    アホじゃないかと思いますが、これが日本社会の実態です。

    日本で安倍政権が続いている理由はこれです。
    何となく印象操作されて、出鱈目なことをやっても、他政権ではいろいろとトラブルが起こったから、仕方ないから安倍晋三に任せるしかない、とみんな考えているのだと思います。

    日本でトロルが悪質なのは、出る杭は打たれるが、出すぎた杭は打たれないでやりたい放題の社会であることを、彼らが感覚的によく知ってるからだと思います。
    だから彼らを叩くには、彼らの発言権を暴力的に奪うしかない。
    彼らは害でしかないので、容赦なく黙らせるしかないのです。

    また彼らは日本の社会の余分な血中コレステロールみたいなもので、彼らをのさばらせておけば日本社会全体が脳卒中で倒れてしまう。
    だから、日本社会が甦るには、彼らを薬で除去しなければならないのです。

    どうしましょうか。
    と自分が書くと、ガメさんのこの記事のタイトルのリフレインになってしまうのですが(汗)

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  5. Makoto Takahashi says:

    ガメさんおはようございます。しっかりテレパシー受信。ブログ更新ありがとうございます。
    最近はメディアや政治・個人の全体主義的傾向にかかっている感じがします。全体主義的なメディアや人の意見を見た時聞いた時、アレントの書物に帰り見つめなおしてます。アレントが全ての解を持っているとは思いませんが、何故か私の心を変な意味で支えてくれてます。何かまっさらにしないと、この国は変わらないかもしれないですね、、、もう遅いのかもしれないですが、、、。

    Like

  6. says:

    以前は上手く受け取れなかった指摘が、少し受け取れるようになりました。
    はじめに思ったのは、子供の頃に映画を観た時、何故日本の映画と海外映画は全く違うのだろうということです。
    日本の映画、邦画は大体つまらなくて、海外映画は面白い。だから映画というのは外国のものが本物で、日本のものはつまらないし気持ちが乗らず、アニメや漫画の方が真実について話しているような気がしていました。最近はアニメや漫画も真実を語る人がいなくて、やっとアニメや漫画は自由だから面白いのではなく、たまたま観たものがよかったに過ぎないのだと知って、普通の読むべき本に手が伸びるようになりました。
    どうして日本人には心がないのだろうと思いました。あるにはあるのですが、使い方がわからない。
    外国の映画は、みんな仲良しというか、基本的に意思が正義の下に纏まっていて、ハリーポッターを観ていても、集団の外から悪い意思がやってきたら戦うというか、明確な悪が悪として描かれています。だからわかりやすい。家族があたたかい。
    日本の映画は観ないのでアニメから考えると、まずみんなばらばらで、自分勝手です。家族は避難場所ではなくて、苦行の場所だったりする。だったら逃げ出せばいいかと思っても、逃げ場所はないのでかえって閉じこもる気質になる。悪がそういうところから芽生える。悪はかわいそうな人から生まれるから、なんとなく悪を討伐することができない。助けようと思っても、何故悪の味方をするのかという話になる。だから悪には関わらないようにと思っていると、悪がもっと育ってしまって、取り返しがつかなくなる。周囲の制止を振り払って助けようとすると、今度は悪に飲み込まれてしまうこともある。
    私はたまに、日本というのは世界の中の悪いもののゴミ捨て場なのかなと思います。外国の映画で切り捨てられた悪のエネルギーが、日本まで雪崩れ込んでくる感覚です。日本が悪に甘いからなのかもしれません。
    ただ最近、人と話すことができるようになって、相手の中の悪いと感じた考えを潰しまくっていたら、意外と話が通じることがわかって、やっぱり悪い考えだよね、と真っ当な人間になっていくことがわかって、戸惑っています。なんだ、悪い考えを指摘してよかったのかと。私はそういう努力をさぼっていたのかと思うと、あっけなくて落ち込みました。
    纏まりが悪いですが、日本人には話をさぼる態度が、確かに全体にあって、全体的に悪だなと思いました。だからといって世界平和の為に日本の存在ごと滅びてほしいと言われても、一桁の子供ならまだしも、それなりに育った大人は死ぬのが嫌なので、やはりひとつずつ悪いものを潰していかねばならないなと思いました。

    Liked by 3 people

  7. うろたえ太郎 says:

    How are you?
    ここ最近、自分の問題についていろいろ考えてる。
    どうやら相手にも自分にもいろいろ期待しすぎてしまうところがあるらしい。
    考えてたら、自分だけじゃなく日本の人は全体的に対象を等身大に見るのが苦手な気がしてきた。
    目盛りが伸び縮みするものさしなのに、それできっちり測ろうとする社会にいるからだろうか?
    ちゃんとしなくちゃならないところと、力を抜くべきところを間違えてしまう。
    そういう考え方のクセを直したい。
    寝不足のぼんやりした頭で考えたことで、後で読んだら何書いてるんだろうと恥ずかしくなるかもしれないけど、なんとなく残したいと思った。

    時々忘れてしまうけれど、私はもっとhappyに生きていきたい。
    大切な人たちと一緒に。
    どうにかして。

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