では、どうすればいいのだろう? 2

英語に限らず、他言語のネットをぶらぶらして歩いてから日本語インターネットにくると、情報量が圧倒的に少ないので驚く。
理由を考えると、多分、小さくいえば明治以来の翻訳文化、おおきく時間の幅をとれば、そもそも日本語がそのためにデザインされて発生した中国大陸の文化を翻訳する文化が、IT革命(どうもかっこわるいね、この言葉)によって、文字通り桁違いに増えた情報量に追いつけなくなってしまったのでしょう。

英語人(アメリカ出身)と話していて、肝腎の日本人からはなぜミン・ジン・リーのパチンコの感想が出てこないのか、あいつらは文盲なのか、とひどいことをいうので、いやいやいや、そうでなくてね、まだ日本語版翻訳が出来ていないそうで、出ていないのよ、と述べたら、なんだかボーゼンとしていた。

オリジナル英語版出版から3年近く経っても正に自国の本質的な歴史に触れたベストセラー物語の翻訳が出ないって、そんなバカな、という。

いや日本語でツイートして、「出ないね」と書いたら、直截日本の出版社の人からツイートのご挨拶があって、「たいへんな良書なので慎重に訳しています。どうか、ご理解の上で、お待ちください」ってさ、とおぼえているかぎり、ツイートの内容をそのまま述べたら、今度は、爆笑していた。

爆笑の意味は、気の毒なので、ここには書きたくない。

去年だったか、たまたま聴いていたBBCのインタビューでは、作者のミン・ジン・リーさんは、もっとずっと早く出る、もうすぐの「いつ」を具体的に述べて、予告していたので、ずいぶん遅れていて、本人もびっくりしているのかもしれません。

インタビューで述べていた時期がとっくに過ぎても出ないので本人に尋ねてみたら、延びて2019年の秋になったらしい、と応えていたが、その「秋」も、もう過ぎてしまった。

他の本でいえば、世界中で、と言っていい規模で話題になって、例えばISISの問題についての学生たちのパネルディスカッションに顔をだすと、Home Fireがよく下敷きに使われるが、いつだったか、どこが日本語訳を出しているんだろうね、とおもって、ネット上で検索してみると、なんと、日本語訳がない。

本棚の本の背表紙を見ながら、Teju Cole、Mark Strand…. と日本の人が好みそうな本を選んで見ていっても、Teju Coleの、件の日系文学批評家のミチコ・カクタニが引退前の去り際の振り返りざまの機関銃射撃のようにしてNYTにボロクソにこきおろして書いていったOpen Cityが新潮社から2000円(英語版の、ほぼ2倍)という、どえりゃあ価格で出ているくらいで、なんと、日本の人ふうにいえば「現代世界を考えるために読んでおかねばならない」ほかの本はいっさい日本語訳がでていなくて、ぶっくらこきました。

念のためにいうと、「読んでおかねばならない本」なんて、世の中に存在しないんだけどね。

万事スローな紙の単行本の出版の世界で、2017年のベストセラー、しかも日本の人が評判を聞きつけて、インターネットの至るところで、「いまかいまか」と待ち焦がれていて、アメリカ在住の女の人が、「日本人必読」というようにして新聞にも書いていたらしい本が3年近くたって、まだ出ていないことは象徴的であるかもしれなくて、そのうえさらに、政治や外交の分野で、あきらかに選択したうえで握りつぶされるニュースもたくさんあるように見受けられます。

英語社会で若いひとびとと話すときにProject Semicolonといえば、自殺の衝動と戦おうという運動を指していると、誰でも知っている。

観察していると、街角で、そっとセミコロンのタトゥーを見せて、なにごとかを見知らぬ人に囁いている人がいる。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/07/23/project-semicolon/

ところが、日本の若い人には、さっぱり通じないので、困ったことがある。

例えば日本語ではゴシック文学の概念そのものが欠落していて、ゴシック? 建築ですか? ああ、ドラキュラって、あのおばけの、怪奇小説ですよね、ゲゲゲの鬼太郎ってアニメご存知ですか? あれ、すごく面白いんですよ、タハッ、なトンチンカンな会話になってしまうのは、また別の問題で、風土の違いでゴシックみたいな、いわば悪天候文学は日本のように雨が空からしか降ってこない国では判りようがないので、情報量とは関連がないが、ポップミュージックになると、音楽が好きな40代後半くらいの人なのでKylie Minogueとか好きかなあ、とおもって話してみると、ああ、ガメさんって、オルターナティブ・ファンなんですね、という反応で、えええっ?になるくらいずれている。

海外の事情というようなことになると、アメリカ合衆国に20年住んでいるというような人が、日本語の「アメリカ生活ガイドブック」に書いてありそうなことを述べていたり、いつかは、ファラージュが台頭する直前のころに「連合王国では人種差別がまた擡頭している」とツイッタで述べたら、30年ロンドンに住んでいる、イギリス人と結婚して20年ロンドンに住んでいるというひとたちに、「いったい、いつのイギリスの話をしているんですか? いまのイギリスには人種差別なんて、まったくありません」と相当侮蔑的に冷笑されたりしていた。

中国系のロンドン大学助教授の女の人だか女の人の母親だかが騎馬警官にツバを吐きかけられて、「てめえの国に帰れ、この黄色い豚めが」と言われたとかなんとかな事件があった数ヶ月前のことなので、どうやったら、そんなに街角のあちこちで当時の連合王国でみながヒソヒソしていた話題を知らないで暮らすということが出来たのだろう、とおもうが、疑うと、これも、たとえば英語で暮らしている人であっても「翻訳文化的な観点から相手の国の社会を見ている」のではないか、とおもうことがある。

つまり、おもいきって、どおんと端折って言ってしまうと、日本の人が自分で見てわかっているとおもっているのは、単なる妄想に近いもので、現実の世界は、まったく異なる様相で、立っている位置と、日本国内にいる場合には日本語化される段階で、極端に少なくなっている情報量とで、いわば映画の書割のようなものを見ているだけではないか。

日本は骨の髄から翻訳文化で出来た国で、たとえば近代日本語の建設者のひとりである二葉亭四迷は、ツルゲーネフの小説の翻訳語として、あのいまでも普通に読める日本語をつくった。

「睫毛はうるんでいて、旁々の頬にもまた蒼さめた唇へかけて、涙の伝った痕が夕日にはえて、アリアリと見えた。総じて首つきが愛らしく、鼻がすこし大く円すぎたが、それすらさのみ眼障りにはならなかッたほどで。とり分け自分の気に入ッたはその面ざし、まことに柔和でしとやかで、とり繕ろッた気色は微塵もなく、さも憂わしそうで、そしてまたあどけなく途方に暮れた趣きもあッた」

なんちゃっている日本語は、エヘン、上級日本語学習者として述べると、いまのブログやなんかの日本語よりずっと読みやすいくらいで、なにも変えないのが大好きな日本の人の面目躍如、そのころ、こう書くと戯作っぽくなりすぎだし、漢語が多いとこちこちだしと、ぶつぶつ考えて、透谷や二葉亭四迷が、「ありゃさっ」と一朝にしてつくった文章が、そのまんま近代日本語になってしまった感があります。

もともとは漢文の読み下し語として発達した日本語は、なにしろ本来の機能が他国の文化の模倣と消化なので、あんまり自分の考えをもつのには向いていない、と、多分、そんな失礼なことを言うやつはイギリス人に決まっているような気がするが、誰かが述べていたが、中国の「新漢語」の語彙を豊富に持ち、古代以来の漢籍に通じていて、そのうえで、専門研究者として、たしかウイリアム・クレイグだかに直に教わって、英文学にも通じていた夏目漱石は、日本人が西洋の考え方を日本語で考えられるように、思考の要請にしたがって、どんどん語彙をつくっていった。

なにしろ日本語世界なので、いやいやいや、それはきみが間違っておる、夏目漱石はそもそも簡単を単簡とオイニー(匂い)でケーサ(酒)しただけで、造語は鴎外のほうが多かったんですとかなんとか、トリビアがゲームでない悲しさ、あさっての方角の路地につれこまれて、ねちねちと説教されそうになるが、じゃ、漱石「たち」ならいいの?
漱石たちが、つくった「無意識」「価値」「新陳代謝」「討論」「健康」「抑圧」は、いまも、日本語が西洋のパラレルワールドをつくるのに役立っている。

大学でパートタイム教師として「哲学」の授業をもっている自称哲学者(現実の学歴はフランス語科で4年制の学部を卒業はしたらしい)と、その「サイト狩り」グループがネットの鼻面を引きずり回してきたことは前回も述べた。
日本のネットがネトウヨとネトサヨが信じがたいような低い議論(というよりも罵り合い)のレベルで拮抗して、堂々巡りを続けて低いところを胸まで泥につかりながら低廻するおおきな原因になった人達です。

特権をちらつかせるような気がするからでしょう、そういう類のことを口にすることそのものが大嫌いなオダキン @odakin が、珍しくも、この自称「研究者」の、在日コリアンを好きなように罵って、本職の哲学教授には、もういっかい哲学を勉強して出直してこいと言わんばかりの態度をとる「はてな左翼」のスターだと自他ともに認める人の傲慢に、たまりかねて、いかにも言いたくなかったことを吐き出すように「あんなのインチキで、大学教員とはいわない。非常勤講師は大学教員ではありません。おれはあんなのと一緒くたにされたくない」(註)と怒っていたが、不満老人を収容した老人ホームみたいなコミュニティのバカ仲間を集めて、また自分の身に起きた例をあげると「ガメ・オベールは白人をコーカシアンというから英語がわからないニセガイジンだ」と大騒ぎするので閉口したことがあったが、じゃ、あんたはなんでわし母国を「イギリス」というのかね、わし国は、そんな名前じゃねーよ、というか、日本語では白色人種は小金井良精の昔からコーカシアンと呼ぶことになっていて、日本語でも「白人」「黒人」には差別的な色彩がついてきたので、わしガキの頃は、普通に誰でも、White、Blackと呼んでいたのが、最近は、特にアメリカのアフリカ系人から「Blackと呼ばれると嫌な気がする」と言われるようになって、差別の定義は差別される側が差別とおもうかどうかなので、Caucasianと呼ぶことになってきて、それに対応した日本語を択びたいが、良精先生から始まって、軍部や学界で引き継がれたコーカシアンがよいだろうと考えて択んだら、なぜかこのひとの頭の中ではカタカナ外国語はすべて英語由来で、あれはコーケージアンだ、知らないのか、と大騒ぎされる。

そんなこと、言うのもあほらしい、知らないわけないが、あまりにバカなので相手にしないでいたら、「ほおら、なんにも言えないじゃないかおまえ」で数年間大騒ぎできるくらいバカな人間の集まりなので、いま思い出しても不愉快だが、日本の人は、ごみんだけど、日本人の言語の理解力なんてその程度で、コーケージアンという、人間の言葉の響きがしないカタカナ語とCaucasianがおなじ言葉だとおもえるくらい言語的な痴呆であるのは、よく得心されました。
翻訳文化という不自然な姿勢を強いられた文明の末路を眼前に見た気がした。

ついでに補遺をホイホイと述べておくと、このはてな人たちに関してはツイッタ上では「バカには答えない」とかで、悪業がばれて、ばれてしまった自分たちの都合が悪いことにはいっさいほおっかむりして相手を侮辱するだけしてあとは「なかったことにして、知識人ふうに、おすまししてとぼける」スタイルなので、あまりのことに業を煮やして、脅しあげられて、精神的なショックから仕事をやめざるをえなくなった人や毎日自殺することばかり考えるようになった人や、色々な人が別個に訴訟を起こす準備をしているようだが、なにしろ人権に関しては定評がある日本の社会と法律なので、うまくいくのかどうか。

いったいどういう精神の構造になっているのか、一方では「韓国人『慰安婦』問題」や「徴用工」問題で講演会を開いたり本を出したりしてコガネを稼ぎながら、自分の私的感情むきだしのツイッタでは在日コリアンや若い女の人であると見てとると、頭からバカにしきった態度で、ほれ住所と名前を教えろ、おまえらはカルトの信者集団だろう、すさまじい下卑た日本語で襲いかかるので、言われた方は見るのも嫌になってしまう。
自分を嘘で固めた人間は進退窮まると他人を嘘つき呼ばわりする、というとおり、自分のほうが悪いと否応なく思い知らされると、相手への誰彼に見境なく述べる愚かな人間の、くやしまぎれの芸のないひとつおぼえで「お前が噓つきだ」「お前らは嘘つきカルトだ」を連呼しだす。
おっちゃんたち側からの一方的なハラスメントに終始するだけなので、さんざん言葉の棍棒で殴られ蹴られの目に遭った側が、他に手段もなく、余儀なく法に訴える決心を強いられたのは自然ななりゆきだが、訴訟は時間もエネルギーも大量に消費するので、たいへんだろう。

日本語ネットから、うんざりして、まともな論客が多く去ってしまったのと(特にリベラル系の)良質なサイトが日本語では育たなかったのは、このグループの可視化されなかった破壊活動のせいだったのを目撃してきたので、やや長い説明を繰り返すことになったが、このグループがネット上から消えれば日本語ネットにも、もしかしたら希望はあるのかも知れない。
英語だけでもふつうに理解出来る社会になれば自然と、ちょうどあの時代の魔女裁判・異端審問という狂気が小説という想像力によって描かれた他者というリファレンスを獲得することで消滅したように消滅することを考えれば、少なくとも新聞資本のマスメディアよりはネットの方が健康を取り戻すのに近い位置にあるのかも知れません。

バカなおっさんたちの話をしていたら、話が落ちてしまった。

翻訳という機能は、翻訳の対象を選ぶところで、まず、取捨選択がおこなわれる。
Home Fireが翻訳されないのは、わからなくはなくて、本は出版というビジネスである以上、マーケティングがなされて、ISIS やなんかの「イスラム原理主義」が切迫した日常の問題でない、早い話が、「ファラフェル」と述べても、ハラヘル、腹が減るの?なにそれ?と言われそうなくらいミドルイーストから文明的な距離が遠い日本では、そんなもの出しても売れませんぜ、旦那、ということがあるのだと理解される。

次に編集機能が一緒についてくる。
いよいよ翻訳する段になっても、ソフトウエア翻訳の質の違いをみれば容易にわかるが、言語的な距離が遠すぎて、七転八倒することになる。
日本の人は、多分、そう言われて教育されるのでしょう、極端に意訳を嫌うが、しかし、英語を日本語へ逐語訳すると、実際には、日本語の体をなさなくなって、「これじゃあ、英語のまま読んだほうがわかりやすくて早いんじゃないの?」ということになる。

その背景には、ものの考え方や生活習慣が違いすぎる、という現実があるのは言うまでもない。

スタンリー・キューブリックの「Eyes Wide Shut」には、主人公のNicole Kidmanが夫の前で小用を足して、目の前で紙でふくところが出てきて、これを「どうしようもない倦怠期になった夫婦関係の象徴」として力説している日本人の映画批評家の人がいて、けけけけけ、と品悪く考えたことがある。

ことほどさように、バスルームのドアの向こう側の生活は、他言語人には判りにくいので、パートナーの前で紙をつかうなんて、ナンバー2は、まさか目の前でふかないが(ただし、フランス人同士のゲイのカップルでナンバー2も目の前でやっても平気だよ、という人に会ったことはある)ナンバー1は、話しながら目の前でふく、なんちゅう人は普通に、どこにでもころがっている。

チョー余計なことを書くと、いま書いていて気が付いたが、逆に男のほうは目の前で立って小用を足す、って、やらないんじゃないかしら。
おもわず座って用をすませて、ガールフレンドに「えええっ?おとこって、おしっこのあとに紙で拭かないの?きったねえー」とか言われそうです。

もっと面白かったのは、子供のときに鎌倉ケーブルTVで、スコットランドの当時の人気シリーズ「タガート」を見ていたら、番組のおわりで、ものものしくも、解説の人が出てきて、わし自身の日本語は半分くらいしかわからない頃だったが、義理叔父の解説によると、その解説の人は、「なぜタガートたちがおなじ警察署のなかなのにいつも大喧嘩をしているのか」について、スコットランドの民族と宗教の複雑な背景について述べていたそうで、なにしろ態度のわるいガキだったわしは、大笑いしてしまった。

だって、あれ、喧嘩してるわけじゃないんだもん。
スコットランド人って、ああいう話し方なんです。
おっそろしいことをズバズバと言い合うのが好きである。
普通の会話が、日本の人には啀み合いの大喧嘩に見えたのであることを悟って、こんなにおもしろいことはない、どうやってもスコットランド人の友達に聞かせなければ、と考えた。

翻訳は、たとえば英語と日本語の距離がある場合には、実際には不可能作業であるとおもう。
それをなんとか、どうにかこうにか、日本語にして読めるものにしていく翻訳家の人達の腕前はすごいが、でも、本質的には「すべての翻訳は誤訳である」という。

この言葉は、欧州語間の翻訳について言われた言葉なので、まして、欧州語と日本語のあいだにおいておや。

さらにさらに、そのうえに。

英語なら英語を日本語に翻訳するという作業はいまのところは、人力の手作業に依存していて、以前のように「前翻訳」「後翻訳」というようなアホな作業が必要な段階ではなくなったといっても、技術マニュアルやニュース記事のようなものはともかく、まだまだ20年くらいは、日本語と欧州語のあいだではうまく変換できそうもない。

すべての手作業のご多分にもれず、作業としてこなせる量はどんなに頑張っても、いまのIT時代の、わしガキの頃に較べると毎日の処理する量が軽く10倍は超える情報量についていけないのではなかろーか。

人間のほうが英語なら英語を準母語並に取得するほうが遙かに楽なので、こちらは世代が変わればそうなっていくのかも知れません。
現に英語国で見ている限りは、むかしは香港系人を除いて、日本の人と大差なかった中国の人や韓国の人、台湾の人達は、見違えるように普通に英語を話し、書き、英語で考えて暮らすようになっている。

だんだん日本の人たち自身が意識するようになってきたように、日本の集団狂気の最大の原因は、「日本人が見ている世界」がひんまがって、現実の世界と乖離してしまっていることがおおきな原因のひとつです。
特に、この十数年では、社会の批評軸というべきものが、枉がって、正しいものと正しくないもの、価値が高いものと価値が低いもの、という事象や人物への価値判断そのものの機能が停止してしまっている。

いまの奈落へのフリー・フォールが、まずマスメディアの頽廃から始まったことを考えると、日本語の枠のなかで「ひんまがった」批評軸をまっすぐになおすのはたいへんな作業で、そんなことをやっていては、もう一世紀くらいは簡単に経ってしまうでしょう。

だから、せめて、シンガポールの程度にでも英語を生活へ、社会へ、思考へと導入していくしかないが、なんども言ってわるいが「なにもしないためならなんでもする」日本社会が、はたして、シンガポール人が達成したことを達成しうるかどうか。

日本社会の、最初の試練になるとおもいます。

反歌

アジアの他の国の若い世代を見ていると、いまは、たいして苦労もしないで英語を習得して「日本人がなぜあんなに長い間ものすごい努力を続けても英語がまるでダメなのかわからない」と笑っているので、外国語の習得は言語との向かいあいかたにおおきく影響されることを考えれば、社会全体の思い込みのせいでえらい苦労をしていたことを不可思議におもう若い世代が日本でも案外に早い時期に現れて「おとうさんやおかあさんの世代は、英語を必死に勉強してたらしいよ」とみんなで笑って話すときがくるのではないだろーか。

案外早い時期に「英語が普通に話せる日本人」と、それ以前の「さまざまな理論を編み出して懸命に努力しても英語が身につかなかった世代の日本人」に世代的にふたつに分離していくのかも知れません。

註)オダキンが、非常勤講師の友達たちのことを考えて、気にして、世の悪意と悪徳を一身に煮詰めたような、記事に挙げた人物が、大学という世界に疎い世間の錯覚を期待して「非常勤講師」の呼称を悪用した、特に悪質な、限定条件下のことであることをコメントを寄せて書いている。

ほんとうは読む方は、そのくらいは判っているが、オダキンの名誉のために、註をつけておきまする。

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

14 Responses to では、どうすればいいのだろう? 2

  1. mrnk6122 says:

    「Harry Potter」の訳が当初ひどいものだったのを読んでいて思い出しました。
    まだティーンエイジャーの主人公たちなのに、昭和生まれの人でも使わないような日本語を使っていたのよ。「おったまげ!」とか。笑っちゃった。
    きっと徐々に日本語(思考)は世界から乖離し、ここ10年で完全に取り残されてしまったのだなぁと思いました。
    遅まきながら英語を勉強してみています。同時に他の言語もだけれど。
    とても楽しい。楽しく無いと続かないものね。
    いつかガメさんと日本語以外の言語でお話ができるようになれたらいいな。

    Liked by 7 people

  2. mikagehime says:

    「懸命に努力しても英語が身につかなかった世代の日本人」にならない様に努力しなきゃ💦

    セミコロン、久しぶりに読んだ。あれも好き。

    Liked by 2 people

  3. odakin says:

    わたくしの発言、意訳としては間違ってはいないが
    1)本業が別にあって大学生にその本業のことを教えてくれてる人
    2)大学教員をめざし研究もしつつ教育経験のキャリアを積むために真面目に頑張ってる人
    3)退職後の嗜み
    の誰に対しても(特に2で頑張ってる若い友人に対して)失礼にならぬようにせねばならんな、ということで、上の3つを書いた上で「能川氏は1)枠でしょう。本業、がなんなんだか知らんが」と書いたものである。
    若い人を discourage するのは本意ではないのでいちおうここに書いとく。(ここに書いてあればそれで良いので別に本文を手直しするには当たらず。)

    Liked by 3 people

  4. いまなか だいすけ says:

    最近、好きな映画がitunesで英語字幕で見ることができるようになって、あっ日本語字幕や吹き替えじゃ、この台詞を言う意味が分かれへんやん、と気づくことがありました。私たちは何を見せられていたんだか。

    日本語字幕や吹き替えを覚えるくらい見てる映画だから、これで少しでも英語の勉強になれば、とは思ってます。

    翻訳は円の内接を直線でなぞっているようなものだ、とどなたかがtwitterで書いていた人がいたと思うけれど、それを痛感しています。

    英語が読めない人と読める人で二分化された未来の世界では、オッサンでも英語が読める人間になりたい。

    Liked by 4 people

  5. Tomotada Yamamoto says:

    今回のブログ、とても共感します。
    日本語と英語じゃ違いすぎるんです。でも、僕はもともと、日本語のほかにポルトガル語という母語を持っていて、2つの言葉の背景にあるものをうまく感覚で整理しきれなくて、日本人としては半端になってしまった(実はまだそれ引きずってます)ために、逆に、英語と日本語の感覚と背景の違いを他の日本人より深く感覚的に理解するチャンスを得ました。

    僕は自分で自分の英語は上手いと思ってませんが、誠実な英語を使おうとは常に心掛けていて、そのために、英語人たちに、”お前の言いたいことはわかる”、”お前にわかってもらえてうれしいよ”と言われた時には、ああ、心が通じ合えてよかった、と思います。

    でもその反対に、その感触が深くなればなるほど、自分が日本人から遠のいていくのです。
    日本に住んでいながら、何だか自分の人生がどこかの夢の世界のようにも感じていて、実感がないのです。

    僕は老人の世界に住んでいるのか、と感じてしまうのです。

    そしてその距離感の正体がこの文章には書いてあって、凄いな、自分が感じてたことよりもよっぽど丁寧に説明されているよ、と感心する一方で、やっぱり自分は日本人になりきれないんだな、という複雑な想いも持ちます。

    ただ、一人でいろいろ悩んで抱えていた昔に比べ、感覚で感じていた同じことを話題にしてくださる方が出てきてくださったことで、僕がどれだけ救われているかわからない。

    恩を返せるとは思わないけれど、お礼を言わせてください。

    ありがとう。

    Liked by 8 people

    • 日本の女の人で一年留学の予定でサンパウロに行ったら「ブラジルのほうがぜんぜん面白いから」って、日本には親を安心させに一週間だけ帰ってくるだけになっちゃった女の人がいてね。

      日本だって面白い国じゃない、と言ってみたら、「えええー、こんな国、あれはダメこれはするなばっかりで老人ホームのジジイやババアみたいなこと言ってるやつばっかじゃん、くだらねえよ」と述べてからニッと笑って
      「アルゼンチン人のボーイフレンドが出来たんだけど、ガメの言う通り、スペイン語とポルトガル語で、結構通じるんだぜ」と述べていた。

      ブラジル友は「おれたちが話してるのはポルトガル語じゃなくてブラジル語なんだ」と述べていたが、外国語としてのスペイン語しか話せないこちとらとしては、やっぱりポルトガル語としてしか聞こえないんだけど、ポルトガル語のほうへ歩いていくと、それはそのまま「おいしいもの」へ向かって歩いていることになるところがいいよね。

      結婚する前ならば「いえーい」な夜に向かって歩いていくことでもあった。

      ポルトガル語やスペイン語は、実感として英語よりも文明が深いので、世界が、なんていうかなあ、陰影が深くて立体的に見えるのね。
      高精細HDだというか。

      ポルトガル語の社会に生まれつくと、深い文明の恩恵のなかにいきなり生まれつくことになるわけで、めっちゃラッキーじゃん、とおもいまする。

      Liked by 7 people

  6. Momo says:

    日本でテレビ番組を観なくなって久しいけれど、確かに、海外から帰ると世界の話題とは全くかけ離れた話題に終始していて、日本は社会が「村」以上にならなかったのかなと思う。必然的に、話題はオラが村に関連することのみ。
    変わっていくといいな。

    Liked by 3 people

  7. Makoto Takahashi says:

    この国は英語を話すことがファッションの一つになっている気がします。何故かフランス語も同じ。言語って大変な力を持っているものだから、言語習得はファッションじゃないって毎度思うのです。
    そんなこと言うと、じゃあお前は英語はペラペラで完璧に話せるのか!って突っ込まれることしばしばですが、、、。日本語でも他言語でも然りで日本人はなぜかなぜか、しっかり話せない人を馬鹿にする傾向ありすぎる。言語が完璧でなくてもお互いが通じ合う瞬間って最高に嬉しくて忘れられないと思うんだけどなぁ。

    Liked by 3 people

    • 「じゃあお前は英語はペラペラで完璧に話せるのか」ってさ、なんで「ペラペラ」で「完璧に」話す必要があるのか、ぜーんぜん判らない、異常な発想だよね。

      少ない語彙で、訥々としか話せない英語だとして、それはすでに「完璧な」英語なんです。
      では「ペラペラ」へ向かっていくと何がよいかというと、以前よりもたくさんお互いのことが判って、こみあげてくる嬉しさの感覚を持つ機会が増えることで、もしかすると、日本では「英語を話すこと」が知的ステータスとして意識されているのかも知れないね。

      マコトさんは、ほら、NZ人と結婚して、NZに住んでもいたから、普通に判るわけだけど、外見も言語も、いまの世界はどんな国でも多様な人が普段に日常生活の身の回りに居て、例えばNZならプラマーはシリアの人で、歯のクリーニングはアフガニスタンの人で、電気の修理にはマルタの人がやってくる、という具合で、しかも「いろいろな英語」が飛び交っている。

      日本の人ばかりが、すっかり置いてきぼりになって、20世紀の骨董品みたいなことばかり言っているのね。

      そういえば日本で「完璧な構文で何を言ってるのかよく判らない英語を話す人」というのがいて、どうも母音とR/Lで判りにくいんだけど、日本だなあ、と思って、いま思い返すとなつかしい。

      マコトさん夫婦の「故郷の町」フラットブッシュはすごい勢いで変わってる。
      はやく帰っておいでよ。

      ね。

      Liked by 4 people

      • Makoto Takahashi says:

        ガメさんコメントありがとう。そうそうご指摘の通り日本では未だ英語=知的ステータスなんですよ。骨董品どころか古代の遺物かも、、、。(苦笑)
        今年も来月にNZに帰りまする。変わりつつある故郷を目にすることが楽しみで仕方ないです。

        Liked by 1 person

  8. KimUeishin says:

    日本語訳が出たら読もうと思っていてまあでる気配がないので、ついにペーパーバックで今pachinko を読んでいる在日コリアンです。
    読みながら、ガメさんのブログのことを思い出しました。日本人と在日両方にとって、まさに必読となって然るべき!と思いつつ、まーでも今の日本で出版が出来ないだろうなぁ、、、それじゃダメなんだけども。
    在日の作家による作品は、これまでも読んだことありますが、それとは根本的に違うのです。
    在日の作家は、日本という枠の中で見た在日を描くという限界を超えない、日本の本質をつかないという暗黙の了解を崩さない、無意識にそうするように自分自身を規範しているように思います。

    ミンジンリーという在米僑胞の作家の目を通して、初めて在日の姿を客観視することができたと思うし、そこに1人1人の人間の姿を見ることに成功したと思います。

    We zainichi are not just victims or criminals or eccentric people.

    Like

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Google photo

You are commenting using your Google account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s