Daily Archives: November 23, 2019

日本という精霊

ふり返ってみると、日本語が自分ではかなりうまく書けるようになったと考えて、どんどん文章を書いて、ますますいろいろなことについて書けるようになっていって、楽しくて、有頂天で、はてなの集団トロルに襲いかかられて、すっかりうんざりして、幻滅して日本を離れるまでの2年くらいが、いちばん楽しかった。 すべてのよいことには終わりがある。 日本との蜜月の終わりは、たしか2010年、だったのではないかとおもう。 英語世界にあきあきしていたぼくは、子供のときにパラダイスだと思い定めて、毎日毎日が楽しくてしかたがなかった日本にやってきて、まるで故郷に帰ってきたように感じていた。 わかってくると、日本にも日本の人自体にも、さまざまな問題があるのは、当然と言えば当然で、世界にあるいろんな国のひとつ、という印象になっていったが、一方では、夏に鐙摺の山の後ろに聳え立つ巨大な積乱雲や、新潟の鎮守の森、軽井沢の発地のホタル、セミの声でさえ、日本語的な受け止め方が出来るようになっていって、日本語という歴史的な意識が、風土とすれあってできる陰翳といえばいいのか、おなじものであっても日本語を媒介にすると異なってみえる様々なものの「見え方」に惹かれて、楽しめるようになっていった。 最盛期は、ではいくらなんでも言い方としてヘンだが、頭のなかではぴったりくるので臆せず使うと、最盛期は、赤地に「氷」と書かれた、かき氷のサインが風に揺れているのさえ、美しいと感じたりしたものだった。 日本には、どことなく「私的」なところがある。 光も、山も、流れ落ちる水でさえ、私(わたくし)の気持のありかたによって、見え方が異なるところがある。 セミの声を例にあげれば、日本語を媒介しなければ騒音にしかすぎないが、芭蕉の句を挙げるまでもない、むかしの映画に出てくる麦わら帽子の少年や、夏の陽射しのなかで、空を仰ぐ1945年・夏の広島の人たちの映像が、その騒音に情緒を吹きこんで、透明な意味をもつ「声」に変えてゆく。 何度も、しかも一回に数ヶ月という長さで滞在したので、次第に、風景を対象として眺める位置から、風景のなかに入って、溶け込む位置に変わって、日本をとばぐちに世界と和解しているような気持になっていった。 いつまでも、そうして「日本」のなかでたゆたっているわけにいかないのは判っていたが、もうすこし、もうすこし、という気持で、毎年のように日本を訪問したものだった。 「国」というものは不思議な制度で、イタリアから国境を越えてフランスに入ると、まったく異なる世界に変わる。 南仏にはいる国境には、ちょうど国境近くに、イタリア側にもフランス側にも日本でいうサービスエリアがあって、なにかの拍子に両方にはいったことがあったが、言語だけではなくて、人の様子がもう異なっていて、食べ物もパンもサンドイッチに挟まっているものも、つくりかたも異なっていて、その際立った対照をおもしろがったことがある。 スペインとフランスの国境は、ピレネーの側は、ちょうどフランスからイタリアに入るようにポーから出て、バスクのオンダビリアで、がらりと変わるが、地中海側は、案外となだらかな変わりかたで、こじつけて、カタルーニャという土地は、やはり強烈な独自の文化を持っているからだろうか、と考えてみたりする。 フランス側にも、フランコの内戦を逃れて移住した、たしか50万人を越えるカタロニア人が住んでいるからです。 国は、どの国も、びっくりするほどお互いに異なっている。 まして、本来ボスポラス海峡からガンジス川までが定義だったアジアの、そのまた東に広がる漠然と「中国の世界」と意識される東方アジアの、さらにその東に位置する極東アジアにある日本などは、室町くらいまでは、臓器や性器の位置まで異なると主張する人間がいたほどの別世界だったわけで、現代でも、それは本質的にかわらなくて、びっくりするほど異なっているどころか、まったく異質な世界で、だからこそ日本は魅力に富んだ国だった。 「都会は都会で、どこもおなじだ」と両親が述べていたことがあったが、ある程度は真実で、日本でもやはり田舎がいちばん楽しかった。 子供のときから日本のおおきな町ではもっとも気に入っていた奈良は中国をお手本につくったといっても、奈良は奈良で、日本でしかありえない町で、いまはどうなのか、むかしは柵もなにもなくて、国宝だという興福寺の五重塔の階の下に座って、夜更かしの鹿たちと一緒に、皓皓と輝く、いたずらっ気をだして岡田隆彦の表現を借りれば臨月のようなお月さま、満月を眺めてうっとりとしていられた。 鎮守の森が好きで、よく知られているように、南方熊楠の激しい反対運動にも関わらず、明治の政府は、鎮守の森を全国で破壊してしまったが、京都は政府の命令などどこ吹く風と受け流して、その京都に憧れをもっていた地方では、どこも内緒で鎮守の森をいかしておいた。 そのひとつの松之山に入る途中の鎮守の森は、むかしの日本の静寂をそのまま保存していて、名前もなにもない社に向かって、長い急峻な階段をのぼってゆくと、古代の神々がそのまま、そこに立って会合をもっているかのような杉の巨木が聳えている。 みあげると、まるで杉の木たちのほうでも、こちらを見下ろしているようで、日本には神がいないのではなくて、神がいらなかったのではないかとおもえてくる。 自然のなかに、すでに畏怖がはいりこんでいたからです。 日本は、ひとことでいえば霊の国で、霊的な大気が満ちていて、死者が必ず立ち寄って、そこから恐山に向かうという立山をみあげていると、なるほど日本は、こういう国なのだ、とわかってもいないのに、わかったような気持にさせられたものだった。 日本は信じがたいほど下卑たところと、これも信じがたいほど崇高な部分がないまぜになった国で、士農工商の士と商であるとか、日本の長い孤独な歴史であるとか、これまでにもさまざまな説明がなされてきたが、どの説明も肯綮にあたるものはない。 日本は、ただ、不思議で名付けようがなく、表現する言葉もないありかたで日本で、ただただ美しく、ただただ醜く、いままでも、これからも、日本でありつづけていくのでしょう。 いちどモニと寺泊を日没に通りかかったら、日本海の鈍色の海の、水平線に夕陽が沈むところで、その、日常とは到底おもわれない美しさに、びっくりしてしまったことがあった。 海で、水平線なのだから、世界の、西側に海がある、ほかの土地の、例えばカリフォルニアのカーメルから見える夕陽と同じ様子でありそうなものなのに、まるで、異なる惑星にやってきたようで、血が通って、言葉で世界を意識しているとでもいうような、その夕陽の、人間的な赤光(しゃっこう)に息をのんだ。 ときどき、日本は日本語であるよりも、そのほかのなにごとかによって日本なのではないかと疑うことがある。 きみが聴いたら、ふきだしてしまうような理由で、ここには書くわけにはいかない。 ほんとうは、いまは、すっかり、そう信じているのだけれども。

Posted in Uncategorized | 9 Comments