Monthly Archives: February 2020

出かける前のメモについて

ただ立っているだけで息をのむほど美しい人と同じ家のなかで暮らしているのは奇妙な体験だと言わないわけにはいかない。 フロントエントランスのドアの脇で、射している夕方の陽光のなかで立って、手紙を読んでいる姿に永遠を感じる。 そのまま絵画にして残したくなる。 ひとに言えば大笑いされるに決まっているが、一緒に生活していて、これまで幾度、こんなに美しい人がほんとうに現実に世の中に存在しているのだろうか、と訝ったことだろう。 結婚などはエンゲルスに言われるまでもなく社会制度にしかすぎない。 それも最近は大層不人気な社会制度で、結婚していると言っても、訊いてみると、de factoであることのほうが多くなった。 一事が万事、鈍くさくて、変化が苦手な連合王国人の国ですら、十代向けの雑誌やサイトを見ると、若い女のひとびと向けに、ひとりで多人数のボーイフレンドを持つことの得失や、多人数の男たちと同時進行で性交渉を続けていくときに注意すべき点が書いてある。 ぼくなどは、遠い昔の化石で、結婚して、子供ができて、なんのことはない平凡なとーちゃんで、ここ数年は子供たちのジャングルジムとして使い手があって、人気もあったが、最近は小さい人たちの興味はプログラムで動くロボットやドローンに移行して、どうやら公園の片隅で、いつまでも待っていても子供たちがやってこないまま夕暮れを迎える、文字通り黄昏の遊具になっている。 結婚して、まず初めに気が付いたよいことは、人間は自分の幸福を願って暮らすよりは、愛する人間の幸福を願って暮らした方が、集中力もあり、気も楽で、自分では出来るはずがないと考えていたことも軽々と出来てしまうことで、なるほど人間の気持というのはそういう仕組みになっているのか、と考えることがよくあった。 あなたには、よく笑われるが、しばらく仕事で机に向かってから、一日に何度も、家のなかにしてはやや長いホールウェイを歩いていって、ラウンジを横切って、スタジオをめざす。 スタジオにたどりついて数段の階段をあがっていくと、そこにはあなたがいて、たいてい絵を描いている。 茫然とするような美しさで、そっと息をつめて眺めて立っていると、夢中になっていた絵筆をとめて、あなたがこちらに向かって顔をあげる。 息をのむ。 そういうことを何度も繰り返して、ぼくとあなたの生活は出来ている。 結婚すれば子供のほうが大事になる、というが、ぼくにはそういう気持の変化は起こらなかった。 子供は子供でかわいいに決まっているが、自己愛に近いもので、考えてみて、途中で捨てたり寄付してしまうわけにはいかないので、くだらない子供でなかったことは感謝するが、そのくらいのことで、あなたへの気持ちとは比べものにならない。 夕陽のなかを歩いてホブソンベイに行く。 あの「Spirited Away」に出てくる水上電車そっくりなので有名なヘッドライトが水に反射する、水面すれすれをいく電車をボードウォークから眺めている。 すべてが取り止めもなくボロボロになってゆくこの世界や、ベテルギウスの白色矮星の話をした。 ずいぶんたくさん買い込んだのに下がりきったはずのUS$30ドルから、またさらに暴落したクラフトハインツの株の話をして笑い転げたり、小さい人たちの教育の話をする。 なにもかもなにもかも話したくて、それでねそれでね、ばかりを繰り返していて、われながらチビコと変わらない。 ときどき、あなたが「ガメはおしゃべりでいいなあ。楽しいぞ」と褒めてくれるが、それもなんだか小さい子供を励ます口調に似ていなくもない。 少なくとも自分の妻については狂った頭の男というのは、どういうことなのか。 ヒマさえあれば、モニのことを考えている。 モニをもっと幸福にするのは、どうすればいいか。 モニがいちばん欲しいものはなんだろう。 モニはどんなふうに歳をとりたいだろう。 モニは、モニは、…. 結局、一日中、考えていることはそれだけで、目が覚めるとまず傍らにあなたがいることを確かめて、寝るときはたいてい先にベッドに入っているあなたに顔をくっつけて寝る。 どういうことなのか、夏には冷たくて、冬は暖かいあなたの身体が自動的にぼくの体にまきつけられて、その瞬間、微かな、でも明然とした、表現が不可能な良い匂いがする。 キッチンの出来た料理を出す小窓から、こっそりカメラを構えてあなたを撮影しようとして、見つかってバツが悪そうに手を振るシェフや、ちょっとちょっとと述べて、手招きして、「奥さんと一緒に写真を撮ってもらってもいいですか?」と訊く厚かましい警官にも、最近はすっかり慣れてしまった。 むかしは、それで、あなたがある日とつぜん死んでしまったら、自分はいったいどうなるだろう、どうやって暮らしていけばいいのだろう、と唐突に不安に捉えられて、まるで井戸の暗闇を覗き込むひとのような気持になったことがあったが、最近はそのanxietyすら、あなたの姿が解消してしまった。 ぼくはいままではただの恋に狂った男で、妻を愛する夫にしかすぎなかったが、30歳も半ばになって、やっと、ふたりで歩いていけそうな気がしているところです。 どこまで行けるか判らないが、遠くまでふたりで歩いて行きたい。 永遠がべったりと呪いのように貼り付いた神様ではいけない遠くへ、須臾の間を生きるだけの人間だけが辿り着ける遠くへ。 ただ、あなたの影を追うようにして。 神が嫉妬する、小さな死を死ぬ一瞬のなかで燦めいている永遠へ向かって。 (画像は、ひさしぶりにわしのお絵描き帖からでごんす)

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その日暮らし

暦が二月にかわると、セミがうるさくなった。 オークランドのセミは、体も小さくて、声もやさしくて、日本の獰猛な声のセミたちとは随分ちがうが、プタカワの木や、生け垣について、今年は余程数が多いので、朝になると、日本の人ならたいてい、ははあーん、あれか、とわかる、空気の底から湧き起こるような、わあああーんという反響をつくっている。 オークランドは人口が160万人をやや越えるくらいのコンパクトな都会で、ニュージーランドといえばクライストチャーチを意味していた子供の頃は、好きな町ではなかった。 いまはスーパーシティなどと呼号して単一自治体になって国の肝いり都市だが、昔は五つの町の寄り合い所帯で、てんでばらばらで、PCのパーツを買うようなときでもマヌカウやノースショアに店が分かれていて、例えばクライストチャーチならば、地震の前は、オンボロクルマのパーツならリカトンのレースコースの裏手、新しいクルマの用品ならばムアハウス・アベニューというように、小さい秋葉原のような町を想像すると判るが、固まって軒をつらねて、なにも考えずに、欲しいものがある通りをめざせばよかったが、オークランドになると、文字通り右往左往で、クライストチャーチなら30分ですむ買い物が半日かかって、なんだかダメな町の代表のように考えた。 その頃は、欧州をたって、チャンギや成田、あるいは稀にはロサンゼルスで乗り継いで空から降りてくると、オークランド空港は馬牧場に囲まれていて、クライストチャーチ空港は果樹園に囲まれている。 ロサンゼルスから来ればオークランド空港に降りて、乗り換えてクライストチャーチの別荘に向かった。 成田からは週に3便かあったうちの、たしか火曜日と金曜日にクライストチャーチに先に着いて、そこからオークランドに向かう便があって、このフライトは成田を夜の八時に出て、ぐっすり眠って、朝の八時にクライストチャーチに着く便だったので、よく利用した。 当時は、ニュージーランド滞在中に、なにか都会でなければならない用事があると、母親も父親もオークランドに行くよりはクライストチャーチからメルボルンに行っていた。 国内航空がAir NZに独占されていて、競争がなかったので、オークランド行きのフライトが$230だかで、一方、Quantasと競合するメルボルンへが$140くらいで行けたので、心理的にメルボルンのほうが近かったのもあります。 子供のときからのPCオタクで、それに加えて、ちょうど世紀の変わり目にあたる十代の後半くらいからはインドの映画や音楽に興味があって、なにしろその頃は例えばオーストラリア資本のHarvey Normanという家電チェーンがヒューレット・パッカードのコンピュータを売っていたが、最新モデルはシンガポールで先ず売られて、そこで売れ残ると同じストックが翌年オーストラリアに移動して、そこでさらに売れ残ると、さらに1年後にニュージーランドに持ってくるというていたらくで、おまけにビンボ国ニュージーランドでは低スペックの機種しか売れないと決めてしまっていたので、子供の頃でも、やむをえず、母親にせがんでシンガポールに連れていってもらうことが多かった。 シンガポールは、パラダイスだった! 1990年代のシンガポールは、イギリスやニュージーランドのような子供の感覚でいえば「田舎」にしか過ぎない国とはまるで違っていて、都会で、国全体がブンブン言っているような、活気のある町で、ずっとあとになって実は日本に行くよりも遠かったのが判って不思議の感に打たれてしまったが、そのころは、ほんの週末にシドニーやメルボルンに行くかシンガポールか、というくらいの心理的距離で、多いときは一ヶ月に4回出かけたりして、誇張でもなんでもなくて、いったい何十回でかけたか判らないのは、このブログ記事にも何度も書いた。 まずSim Lim Squareに行く。 Sim Lim Squareは、シンガポールをIT立国にしようと考えたリー・クアン・ユーが秋葉原をひとつのビルにまとめたらどうか、と考えたのが発端で、まだメイド喫茶が猖獗する前のPCタウンだった秋葉原の、駅前からの水平的な広がりを垂直的に移し替えた素晴らしいアイデアのビルだった。 あとでは扶南シティのほうが買い物に都合がよくなったが、初めの頃はSim Lim Squareこそが聖地だった。 一階が秋葉原の駅前で、だんだん上に行くにつれて、末広町になっていく。 いまではなかったことになっているが、ほんとうは誰でもおぼえているので、2000年頃までは、5階から上はソフトウエアの違法コピーの店で、シンガポールの人に訊くと「シンガポールの法律ではソフトウエアの複製は違法ではないからいいのだ」という不思議なことを言っていたが、Windowsからなにから、全部コピーソフトで、あまりにたくさん違法コピー店が犇めいているので、どの店に行ったらいいかわからなくて、大学生らしい人に訊いて、どれが「良いコピー店」で、どれが「悪いコピー店」か親切に教えてもらったりしていた。 店にいって、では違法コピーソフトを買って帰ってきたのかというと、やろうとおもっても出来なくて、ニュージーランドのカスタムはよく心得ていて、シンガポールから戻ってきた客の荷物は特に念入りに違法ソフトを持ち込もうとしていないかどうか調べていた。 インストーラーやアンインストーラー、セクター長をチェックするプロテクトのせいでハードディスクで使えないソフトウエアを使えるようにするためのプロテクト解除のソフトウエアを買いに行っていた。 足繁く通えば、自然とその国の文化にも馴染むので、母親と妹三人で、飲茶の習慣になじんだのはシンガポールでのことだった。 それまでも香港や台北で飲茶に出かけたことはあったが、それは単に「旅行先のローカルフード」であっただけで、たしかに人間の昼食な感じがしだしたのはシンガポールのおかげであって、もう名前を忘れてしまったが中国名のホテルの一階に、その店はあって、シンガポールに行けば、この店とパン・パシフィック・ホテルのなかにあるインド料理屋には必ず出かけることになっていた。 海南チキンライスも、もちろんで、初めはお馴染みマンダリンホテルのなかのチャターボックスだったが、あとではマクスウエルセンターの天天海南鸡饭を専らにした。 オークランドが魅力のある町になったのは、大規模なアジア移民受け入れが始まってからです。 1990年代にウインストン・ピータースの有名な「このままではニュージーランドは日本人の洪水になる」で始まる反アジア人運動があって、アジアの人たち自身は、それほど実感しなかったようなところもあったとおもうが、ブリスベンでもシドニーでも、メルボルンですら、おとなたちが集まると「アジア人たちの流入にも困ったものだ」とヒソヒソと話しあわれていて、子供の実感として、多文化社会などは無理なのではないかと考えていたが、経済上の必要から、アジア系移民は好むと好まざるとに関わらず、どんどん増えていって、いっときは「こんな人まで」というような人でも「クイーンストリートに立ってると、ここはシンガポールなのかとおもうよ。うんざりする。ガメちゃん、あんまりCBDに行ってはダメだよ」と述べていたりして、社会が壊れるのではないかと思わされたときもあったが、nuisanceなだけであるはずのアジア人が増えてくると、社会はどんどん良くなっていって、例えばITやアカウンティングに関してはインド系人は初めからレベルが異なっていたし、ビジネスについては中国系人たちのはしっこさと勤勉に適うニュージーランド人はいなかった。 特にインド文化が向こうから引っ越してきてくれたのは、望外の幸せで、母親もサリを上手につくってくれる店をみつけて、もうこれでシンガポールのリトルインディアにいかなくもよくなったと喜んだりしていたが、こっちはボリウッド映画や音楽を大量に買って一日インド文明に浸りきって、飲茶も質が劇的に向上して、韓国料理に至っては、韓国のひとたち自身が、「世界でいちばん韓国料理がおいしいのはオークランドのノースショアだ」というほどだった。 メルボルンとオークランドを根拠地にしても、なんとかやっていけるのではないか、と考えたのはそういう背景があってのことです。 モニさんと結婚して、しばらくはモニさんに付き合ってもらって、「五年十一度(たび)の十全外人遠征計画」と称した日本文明を理解するための滞在の掉尾で新婚生活を始めたが、そのあとはパリに住むかロンドンか、それともモニさんのマンハッタンに住むべきだろうか、と述べていたら、モニさんが、誰がどういっても決心が変わらないときの顔で、「わたしはニュージーランドがいいとおもう」と言い出したので、ぶっくらこいてしまった。 モニさんと意見が異なるときはモニさんの言うことに思考を停止して順うにしくはないのが経験上わかっていたので、 そのとき持っていたパーネルの家は市場並よりはおおきいが、本人は気が付いていないし言うと怒るだろうが生まれてこのかた贅沢になれたモニさんには手狭だと考えて、いまのリミュエラの家を購入した。 METもリンカーンセンターもなければテートギャラリーも英国博物館もないオークランドでは、5年も退屈しないで暮らせればいいほうだろう、と考えて始めたオークランド暮らしが、もう十年になるので、驚いてしまう。 ひとの一生はどうなるかわからないものだ、という月並みな科白が頭を通過する。 初期の頃は毎年、ニューヨークに二ヶ月、欧州に三ヶ月という具合で暮らしたりしていたが、ちいさいひとたちが登場するにおよんで、リミュエラの家のカウチに腰掛けてジャングルジムとして活躍する生活になっていった。 … Continue reading

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カレーライスの謎

インド料理屋のメニューに並んでいるカレーのなかでVindalooにだけは、なぜポークとビーフがあるのか、というのは子供のときからの疑問だった。 豚は言うまでもなくイスラム教徒にとっての禁忌で、ヒンズー教徒にとっては牛は聖なる生き物で、その肉を食べるなんてとんでもない。 神を信じない不埒者が多いイギリス人向けの開発商品なのかしら。 インド人は元は肉を食べることを厭わなかったという点では肉食です。 紀元前2000年頃に、いまのアゼルバイジャンからイラン北部に住んでいたインド=ヨーロピアン族は東に移動して、インド北部に移民として定住する。 このひとたちは、簡単にいえばいまでいうノーマッドで、普段はヨーグルトやミルクベースのうっすうーいオートミールみたいなものを食べていた。 肉は御馳走で、普段は手がでないが、婚礼や戦勝の特別な機会には食べていたでしょう。 いまのインド人はほとんど菜食で、ジャイナ教と仏教の教えが浸透してそうなった。 歴史でいうと紀元前500年くらいから、だんだんにそうなって、紀元前300年から600年ほど続いた「世界で最も富裕な地域」としてのインド帝国」は、だから、ベジタリアン帝国だったことになる。 食生活がおおきく変わるのは8世紀に海上からあらわれて、インドの西北から侵略・植民を始めたサラセン人たちの影響で、ここからいまでもインドと切っても切れないイスラムとの付き合いが始まるが、このひとたちは、いまでもインド料理に残るペルシャ名前の料理をたくさん持ち込んだ。 英語ではムガール料理と呼んで、この名前を考えた人はイスラム=ムガールと短絡していたに違いなくて、そういうテキトーで無知むちむっちんな命名をするのはイギリス人だと相場は決まっているが、実体はムガールとはなんの関係もなくてペルシャ料理です。 見ればわかる。 インド料理のうち、かなりおおきな割合を占める、ローズウォーターやサフランを使うものは、ほとんどペルシャ料理のレシピそのままで、料理を口にするのは多くは富裕な商人だったサラセン人たちだったが料理人がローカルなインド人だったせいで、食材などはややインド化しているが、サラセンたちは保守的な味覚だったのでしょう、ほとんど変更もないペルシャ料理です。 ややくだくだしいが、判りにくいかも知れないので補足しておくと、いまでも多分にそうだが、中東ではペルシャの文明度の高さは絶対で、別格で、ペルシャ人の知識人と友達になればわかる、21世紀になってもアラブ人はやや野蛮であるという偏見を十二分に持っている。 逆にサラセン人たちは、富裕になれば食事や学問はなんでもかんでもペルシャで、ちょっと古代ギリシャとローマ人の関係に似ていなくもない。 ほら、インド料理屋に行くと、前菜にはシシカバブとタンドリ・チキンが並んでいるでしょう? ぼんやりしていると、ふたつの料理は似たもの同士と感じられるが、出自はおおきく異なっていて、シシカバブは誰でも知っているとおりのトルコ・中東・アジアの広がりを持つ伝統料理だが、タンドリ・チキンは、ごく最近に発明された食べ物で、パキスタンからインドへ難民として逃れてきた料理人Kundan Lal Gujralが外国人向けの料理として、それまではパンをつくるのに使っていたタンドリをスパイスに漬け込んだチキンを料理するのに使うことをおもいついて1948年にイギリス人のあいだではチョー有名なMoti Mahalのメニューに加えた。 ちょっとちょっと、あんた、Vindalooについて書くんじゃなかったの?というせっかちな人のために、このくらいで端折って、結論に移行すると、つまり、インドの人はベジタリアンが基本で、インド料理においてはビーフもポークもラムもチキンも、ムスリム人由来か、さもなければ、近代になってからインドを制圧した欧州人向けに新しくでっちあげた食べ物であるにしかすぎない。 Vindalooは、名前のvinha de alhos(ポルトガル語で、ワインビネガーとガーリックという意味)で判る通り、いわばポルトガル料理で、ゴアのポルトガル人たちが料理人に命じて作らせた料理です。 だから、もともとのオリジナルレシピを見ると、な、な、なんとポークである。 閑話休題。 最近は、インド人の若い友達とランチに出かけると、バターチキンを注文する人が多い。 それが何か? というなかれ。 イギリス人のような、物識らずの、ぶわっかな国民性の国民であってすら、バターチキンが「インド料理は初めてなんだけど、なにを食べたらいんだろう?」な初心者外国人向け、気の毒にも本格インド料理が食べられない、哀れな人々向けのカレーなことはよく知っている。 実はこれも、さっきのKundan Lal Gujralの発明で、このひとは舌バカの客に対する深い洞察力があるというか、スパイスのおいしさが判らないイギリス人のような非文明的人間は、どんな味を好むかということについて知り抜いていたものだとおもわれる。 ついでに余計なことをいうと、ロビン・クックという、日本で言えばパタリロファンにとっては、やや冗談のような名前の外務大臣が2001年に「連合王国人の国民食」と呼んだチキン・ティカ・マサラも、同様にイギリス、この場合、イギリスという言葉にはスコットランドもウェールズも北アイルランドも含まれるが、の顧客用にイギリスで生みだされたもので、ちょっと考えると意外な気がしなくもないが、バターチキンよりも、さらに後の、1960年代の発明だと信じられている。 突然、自分自身の経験について述べるとブリテン島の西の果てにペンザンスという町があって、親につれられて、子供のときはよく出かけたが、生まれて初めて食べたインド料理がチキン・ティカ・マサラで、世の中にこんなに殺人的に辛いものがあっていいのか、と憤(いきどお)りを感じた。 いま考えてみると、たいした辛さであったわけはなくて、要するに大陸欧州料理ばかりの家庭内で供される料理だけを料理とおもいこんでいただけのことで、いまさらながら、チキン・ティカ・マサラちゃん、ごめんね、とおもう。 いまは、長年の恩讐を克服して、すっかり和解して、ジャルフレジにあきると、ときどき注文したりしてます。 むかしインドの人のガールフレンドがいたころは、あちこちのインド家庭に招かれてでかけて、若い人が集まって住んでいる家などは、おおきな皿に、ありあわせのスパイスミックスで料理た、カリフラワーやオクラ、ポテトを載せただけの「カレー」を食べたりして、楽しかった。 一方ではロサンジェルスの、文字通りお城のような家に住むインド家庭の祖母さんの90回目の誕生日に招かれたときは、ロココ風の装飾にドーリア式の柱廊という風変わりな内装の、ひたすら巨大なシャンデリアのある高い天井のホールに静々と階段を下りてきた老女を囲んで、ひとりひとりのゲストの後ろに侍立する給仕係の人が、次々に繰り出す美味三昧で、ここでも「カレー」が出て、両方をおもいだすと、なにがなし、もちろんイギリス人の発明で、「カレー」という言葉に込められた無知と誤解と、まだ帝国の直轄領化とともにやってきた植民地の現地人としてインドの人々をいちだん低くみるバカタレたちがインドに大挙植民する前の、東インド会社時代の純粋な好奇心とインド文明への憧れに満ちたイギリス人たちが生んだ「カレー」という言葉の一種の歴史的な「切なさ」を考える。 日本もカレー5大国(って、なんだかヘンテコだが)に数えられる独自のカレー文明を持つので有名な国で、むかしは海軍起源説を信じていたが、普及度を別にすれば、それ以前、幕末から入っていたもののようで、内緒では肉食を嗜んだ悪食な大名たちのなかには、口にした人もいたようです。 … Continue reading

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