その日暮らし

暦が二月にかわると、セミがうるさくなった。
オークランドのセミは、体も小さくて、声もやさしくて、日本の獰猛な声のセミたちとは随分ちがうが、プタカワの木や、生け垣について、今年は余程数が多いので、朝になると、日本の人ならたいてい、ははあーん、あれか、とわかる、空気の底から湧き起こるような、わあああーんという反響をつくっている。

オークランドは人口が160万人をやや越えるくらいのコンパクトな都会で、ニュージーランドといえばクライストチャーチを意味していた子供の頃は、好きな町ではなかった。

いまはスーパーシティなどと呼号して単一自治体になって国の肝いり都市だが、昔は五つの町の寄り合い所帯で、てんでばらばらで、PCのパーツを買うようなときでもマヌカウやノースショアに店が分かれていて、例えばクライストチャーチならば、地震の前は、オンボロクルマのパーツならリカトンのレースコースの裏手、新しいクルマの用品ならばムアハウス・アベニューというように、小さい秋葉原のような町を想像すると判るが、固まって軒をつらねて、なにも考えずに、欲しいものがある通りをめざせばよかったが、オークランドになると、文字通り右往左往で、クライストチャーチなら30分ですむ買い物が半日かかって、なんだかダメな町の代表のように考えた。

その頃は、欧州をたって、チャンギや成田、あるいは稀にはロサンゼルスで乗り継いで空から降りてくると、オークランド空港は馬牧場に囲まれていて、クライストチャーチ空港は果樹園に囲まれている。

ロサンゼルスから来ればオークランド空港に降りて、乗り換えてクライストチャーチの別荘に向かった。

成田からは週に3便かあったうちの、たしか火曜日と金曜日にクライストチャーチに先に着いて、そこからオークランドに向かう便があって、このフライトは成田を夜の八時に出て、ぐっすり眠って、朝の八時にクライストチャーチに着く便だったので、よく利用した。

当時は、ニュージーランド滞在中に、なにか都会でなければならない用事があると、母親も父親もオークランドに行くよりはクライストチャーチからメルボルンに行っていた。
国内航空がAir NZに独占されていて、競争がなかったので、オークランド行きのフライトが$230だかで、一方、Quantasと競合するメルボルンへが$140くらいで行けたので、心理的にメルボルンのほうが近かったのもあります。

子供のときからのPCオタクで、それに加えて、ちょうど世紀の変わり目にあたる十代の後半くらいからはインドの映画や音楽に興味があって、なにしろその頃は例えばオーストラリア資本のHarvey Normanという家電チェーンがヒューレット・パッカードのコンピュータを売っていたが、最新モデルはシンガポールで先ず売られて、そこで売れ残ると同じストックが翌年オーストラリアに移動して、そこでさらに売れ残ると、さらに1年後にニュージーランドに持ってくるというていたらくで、おまけにビンボ国ニュージーランドでは低スペックの機種しか売れないと決めてしまっていたので、子供の頃でも、やむをえず、母親にせがんでシンガポールに連れていってもらうことが多かった。

シンガポールは、パラダイスだった!

1990年代のシンガポールは、イギリスやニュージーランドのような子供の感覚でいえば「田舎」にしか過ぎない国とはまるで違っていて、都会で、国全体がブンブン言っているような、活気のある町で、ずっとあとになって実は日本に行くよりも遠かったのが判って不思議の感に打たれてしまったが、そのころは、ほんの週末にシドニーやメルボルンに行くかシンガポールか、というくらいの心理的距離で、多いときは一ヶ月に4回出かけたりして、誇張でもなんでもなくて、いったい何十回でかけたか判らないのは、このブログ記事にも何度も書いた。

まずSim Lim Squareに行く。
Sim Lim Squareは、シンガポールをIT立国にしようと考えたリー・クアン・ユーが秋葉原をひとつのビルにまとめたらどうか、と考えたのが発端で、まだメイド喫茶が猖獗する前のPCタウンだった秋葉原の、駅前からの水平的な広がりを垂直的に移し替えた素晴らしいアイデアのビルだった。
あとでは扶南シティのほうが買い物に都合がよくなったが、初めの頃はSim Lim Squareこそが聖地だった。

一階が秋葉原の駅前で、だんだん上に行くにつれて、末広町になっていく。

いまではなかったことになっているが、ほんとうは誰でもおぼえているので、2000年頃までは、5階から上はソフトウエアの違法コピーの店で、シンガポールの人に訊くと「シンガポールの法律ではソフトウエアの複製は違法ではないからいいのだ」という不思議なことを言っていたが、Windowsからなにから、全部コピーソフトで、あまりにたくさん違法コピー店が犇めいているので、どの店に行ったらいいかわからなくて、大学生らしい人に訊いて、どれが「良いコピー店」で、どれが「悪いコピー店」か親切に教えてもらったりしていた。

店にいって、では違法コピーソフトを買って帰ってきたのかというと、やろうとおもっても出来なくて、ニュージーランドのカスタムはよく心得ていて、シンガポールから戻ってきた客の荷物は特に念入りに違法ソフトを持ち込もうとしていないかどうか調べていた。

インストーラーやアンインストーラー、セクター長をチェックするプロテクトのせいでハードディスクで使えないソフトウエアを使えるようにするためのプロテクト解除のソフトウエアを買いに行っていた。

足繁く通えば、自然とその国の文化にも馴染むので、母親と妹三人で、飲茶の習慣になじんだのはシンガポールでのことだった。

それまでも香港や台北で飲茶に出かけたことはあったが、それは単に「旅行先のローカルフード」であっただけで、たしかに人間の昼食な感じがしだしたのはシンガポールのおかげであって、もう名前を忘れてしまったが中国名のホテルの一階に、その店はあって、シンガポールに行けば、この店とパン・パシフィック・ホテルのなかにあるインド料理屋には必ず出かけることになっていた。

海南チキンライスも、もちろんで、初めはお馴染みマンダリンホテルのなかのチャターボックスだったが、あとではマクスウエルセンターの天天海南鸡饭を専らにした。

オークランドが魅力のある町になったのは、大規模なアジア移民受け入れが始まってからです。

1990年代にウインストン・ピータースの有名な「このままではニュージーランドは日本人の洪水になる」で始まる反アジア人運動があって、アジアの人たち自身は、それほど実感しなかったようなところもあったとおもうが、ブリスベンでもシドニーでも、メルボルンですら、おとなたちが集まると「アジア人たちの流入にも困ったものだ」とヒソヒソと話しあわれていて、子供の実感として、多文化社会などは無理なのではないかと考えていたが、経済上の必要から、アジア系移民は好むと好まざるとに関わらず、どんどん増えていって、いっときは「こんな人まで」というような人でも「クイーンストリートに立ってると、ここはシンガポールなのかとおもうよ。うんざりする。ガメちゃん、あんまりCBDに行ってはダメだよ」と述べていたりして、社会が壊れるのではないかと思わされたときもあったが、nuisanceなだけであるはずのアジア人が増えてくると、社会はどんどん良くなっていって、例えばITやアカウンティングに関してはインド系人は初めからレベルが異なっていたし、ビジネスについては中国系人たちのはしっこさと勤勉に適うニュージーランド人はいなかった。

特にインド文化が向こうから引っ越してきてくれたのは、望外の幸せで、母親もサリを上手につくってくれる店をみつけて、もうこれでシンガポールのリトルインディアにいかなくもよくなったと喜んだりしていたが、こっちはボリウッド映画や音楽を大量に買って一日インド文明に浸りきって、飲茶も質が劇的に向上して、韓国料理に至っては、韓国のひとたち自身が、「世界でいちばん韓国料理がおいしいのはオークランドのノースショアだ」というほどだった。

メルボルンとオークランドを根拠地にしても、なんとかやっていけるのではないか、と考えたのはそういう背景があってのことです。

モニさんと結婚して、しばらくはモニさんに付き合ってもらって、「五年十一度(たび)の十全外人遠征計画」と称した日本文明を理解するための滞在の掉尾で新婚生活を始めたが、そのあとはパリに住むかロンドンか、それともモニさんのマンハッタンに住むべきだろうか、と述べていたら、モニさんが、誰がどういっても決心が変わらないときの顔で、「わたしはニュージーランドがいいとおもう」と言い出したので、ぶっくらこいてしまった。

モニさんと意見が異なるときはモニさんの言うことに思考を停止して順うにしくはないのが経験上わかっていたので、
そのとき持っていたパーネルの家は市場並よりはおおきいが、本人は気が付いていないし言うと怒るだろうが生まれてこのかた贅沢になれたモニさんには手狭だと考えて、いまのリミュエラの家を購入した。

METもリンカーンセンターもなければテートギャラリーも英国博物館もないオークランドでは、5年も退屈しないで暮らせればいいほうだろう、と考えて始めたオークランド暮らしが、もう十年になるので、驚いてしまう。

ひとの一生はどうなるかわからないものだ、という月並みな科白が頭を通過する。

初期の頃は毎年、ニューヨークに二ヶ月、欧州に三ヶ月という具合で暮らしたりしていたが、ちいさいひとたちが登場するにおよんで、リミュエラの家のカウチに腰掛けてジャングルジムとして活躍する生活になっていった。

そのあいだには、ほんとうはどうだから判らないが、少なくとも自分の考えでは日本語に上達して、頭のなかに「日本語の思考」という、あたりまえだが日本語で考えられないひとびとには絶対に理解できない、日本刀の青白い光のような言語が育って、通過して、いまは日本語がおおきな存在だったフェーズは、通り過ぎて過去のものになっている。

簡単にいえば「自分でもなにを書いてるか判ってないんじゃない?」な譫妄した、囈言みたいな日本語ツイッタと、このブログだけが日本語で考える場で、普段まったく使わない言語であることを反映して、ちょっとツイッタとブログをさぼると、あっというまに日本語で発語できなくなる。

もうひとつは、語彙がポロポロと欠けるように縮んで、単語がでてこなくなって、憤怒が出てこないのに瞋恚は出てくる、という奇妙な状態になっている。

でも、いいんですよ。

日本語は、それでも、やっぱりやってみてよかった。
「外国語としての英語」は、どちらかといえば世界の主流言語化していて、英語が母語でない作家たちが、次々に英語文学の傑作を生みだしているが、「外国語としての日本語」は、あんまり例がなくて、もともと日本語で暮らそうとおもったことがない、無駄なことが大好きなヘンテコリンな人の頭に宿っている。

なんだか、ごろんと寝そべって午寝したり、また起き直って、ぼおんやりオールを漕いでいる、川にボートを浮かべてローイングする人のようです。

その日暮らしで、のんびり歩いて、何光年先の銀河まで行けるものなのか、やってみようと考えているところです。

This entry was posted in Uncategorized. Bookmark the permalink.

コメントをここに書いてね書いてね

Fill in your details below or click an icon to log in:

WordPress.com Logo

You are commenting using your WordPress.com account. Log Out /  Change )

Google photo

You are commenting using your Google account. Log Out /  Change )

Twitter picture

You are commenting using your Twitter account. Log Out /  Change )

Facebook photo

You are commenting using your Facebook account. Log Out /  Change )

Connecting to %s