パンデミック

いったんベッドに入ったら、COVID-19の話は禁止という非常時命令がモニさんからくだっているが、守るのがなかなか難しい。

報道も一面COVID-19禍のトピックで埋まっている。
北半球の友達たちも南半球の友達たちも、skypeで話題になるのはCOVID-19禍のことばかりで、しかも、身から出た錆、悪ふざけが好きな友人ばかりなので、ありとあらゆるデマ、陰謀説をアーカイブして、お互いにだましっこをやっている。

そのうちのいくつか、というよりも、大半は、インチキとは言っても専門知識を駆使した巧妙きわまる説なので、いくら日本語で、しかもブログにしか過ぎないといっても、ここに書くわけにはいかない。

自由主義世界の攪乱を狙うKGBでも憧れをもちそうなほどの出来です。

陰謀論やデマで頭をいっぱいにしながら、何をしているかというと、本ばかり読んでいる。

日本語もあります。

最近、書籍編集者の友達に教えてもらってツイッタでフォローしている、「森の人」と呼んでいる、まっすぐに聳える大樹のような人がいるが、本を書いて生きてきた人なのに、その人の本を読んだことがないのでは情けないので、集められるだけ集めてもらって、まとめて送ってもらった。

アマゾンジャパンが海外への本の発送をいっさいやめてしまったので、セカンドハンドでしか入手できない本と一緒に書店で買える本も送ってもらう。

アンドレ・ブルトンの「ナジャ」は英語世界では微妙な本で、なにがどう微妙なのかというと、なあんとなく、この本はフランス語で読むことになっている。

いま思い出してみても、英語版のナジャを観た記憶がない。

もっとも記憶自体がないような人間が思い出しているので、あるんだかないんだか、頼りにならないが、少なくとも自分の友達たちは全員がフランス語で読んでいたと思います。

日本語は、簡単に想像がつく、翻訳の格として小笠原豊樹や上田保を思い起こさせる素晴らしい訳で、読んでいるうちに、まるでフランス語で読んでいるような錯覚を起こさせるのは、つまりは翻訳をしている森の人が、この物語を深く愛しているからでしょう。

もうひとつ、いつものことだが、日本の人の幸運さをおもわずにはいられなくて、ずっとブログを読んできてくれた人は皆が知っているように、日本の「翻訳文化」には、21世紀の世界を流通する情報や知識が瞬時に共有される時代にあっては致命的な所があるが、それでも、さっき妹や母親と家庭の団欒において離していた言葉で、この質がめっちゃ高い訳で、ナジャが読めるのは、日本の人が営々と築き上げてきた文明の上に咲いた、信じがたいほどの僥倖というほかはなさそうです。

なにごとによらず集中力が40分しか続かないウルトラプーなので、40分を超えると、脳裏のライトが赤く点滅しはじめて、気が付くとジュワッチになってカウチに寝転がってラップトップを開けている。
英語の記事をだらだらと読んで、そこから飛んでウイルスの構造についての、ほんの少し専門的な解説を読んだり、疫学の概説みたいな学術よりの記事や、疫学の数学モデルをお温習いしたりして遊ぶ。

家のなかをぶらぶらと歩いていって、モニさんにチューしたり、小さいひとびとにご挨拶を述べに行く。

わし家は礼儀正しい家なので、猫さんたちも、一日にいちどは、必ず挨拶にやってきます。

午前6時に寝室にやってきて元気な声で挨拶するのはやめてほしいとなんどお願いしても人語がわからないふりをして、聴いてもらえないが。

雨が降ったので、折角の機会、ベジガーデンのブロックをデザインしなおすことにして、グリーンオニオンはここ、おお、雑草だとおもったらお芋ちゃんではないか、素晴らしい、ではここは全面的にスウィートポテト地帯にしましょう、カボチャはここ、ビートルートは随分立派なのが出来るので、これも拡張しましょう、と見て回る。

庭の隅のベンチに腰掛けて、大空を観て、ふと、隔離された病室で、誰にも看取られず、愛するひとびとに別れを告げることすらできずに、孤独な死を死んでいく、何万というひとびとのことを考える。

文明世界の、特に都市に住んでいる人は、時に、自然の残酷さを忘れてしまっている。

自然はやさしいものだと信じ込んで、そのまま一生を終えるひとたちすら存在する。

冬に、十日間でもトランピングに出れば、自然の苛酷さ、容赦のなさは簡単に実感できる。

まして25フィートのヨットで陸影のないブルーウォーターを行けば、もうダメだ、このままぼくは自然に殺されて終わりだと観念することは幾度もある。

40フィートを越えるヨットを出しているときでさえ、晴れて凪いだ午後に、水平線の向こうがわずかに膨らんでみえて、いったい、あれはなんだろう?と訝しんでいると、平穏な海の、そこだけ意志をもってつくったような巨大な三角波がこちらに向かってきて、必死で逃れる、持ち合わせの自然への知識で金輪際説明がつかない事象に見舞われたことがある。

例えば連合王国には、人の手が入った自然以外はいっさい存在しない。
有名なシャーウッドの森も種を明かせば人間の手による植林で、それ以前は沼沢でしかなかった。

ニュージーランドの南島には、いまでもモアがひそかに棲息しているという根強い噂がある人跡未踏の原始林があって、そこにいけば、本来の自然が、いかに人間に対して敵対的なものか肌でわかる。

気が弱い人は、自然と地球の人類に対する明瞭な嫌悪感と敵意を受け取るでしょう。

COVID-19は、津波と地震とは形が異なる自然の厳しさの表現で、だから、イタリアでは、韓国では、と国境で区別して話をたてたがる人間たちを嘲笑するように、パンデミックになっていった。

医療従事者や政府の対策立案者がつねに考えては、頭から振り払って、考えないことにしているのは、「結局、なにをやっても時間の問題なのではないか」、自然の巨大な力を前にした人間の無力感です。

自然は常に圧倒的で、人間の側の「この社会の握手やハグをしない習慣のせいで、われわれは幸運にも災厄を免れた」「ITの力で迅速に対処できたのが惨禍を最小に出来た理由だとおもう」

インドの人々は、つい先週まで、自分達は手を使って食事をする習慣に、こんなに感謝したことはない、おかげで我々にはCOVID-19の洪水が及ばなかった、と述べていた。

あるいはグローバリズムのせいだ、と説明する人は、1918年のパンデミックは第一次世界大戦中で、グローバリズムどころか、正反対の国権主義のただなかの出来事だったことを忘れている。

現実は、それぞれが属する集団の、国民性や文明の特性によって、ひたすら大丈夫と決め込んで、なぜ大丈夫かという説明を懸命に探したり、あわてふためいて、品物もあろうにトイレットペーパーを買い占めてみたり、はては、奪い合って殴り合いを演じたり、つまりは、自然の、人間の想像力を遙かに越える、巨大な冷酷さ、容赦のなさに、人間の魂のほうはショックを受けて茫然としているだけなのかもしれません。

疫学的な予見においては世界で最も頼りになると思われているLarry Brilliantは、COVID-19のパンデミック化による死者数を1億〜1億6500万人と見積もっている。

アメリカのCDCはBrookingsがもたらす知見をベースにして見積もっているように見えるが、Larry Brilliantよりもずっと控えめな数字で、2020年末までに6000万人が死ぬだろうと見積もっている。

すでに過半の地域は命運が定まったように見える世界のなかで、せめても「ついにCOVID-19の克服に成功した。もうすぐ、春がやってくる!」と喜びにひたっているように見える日本や、素早い初動で立ち向かっている台湾やニュージーランドが、等しく、COVID-19の破壊から実際に逃れうることを、ほんとうに、心から願っています。

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2 Responses to パンデミック

  1. kaz184 says:

    ガキのころ裏山の奥に奥に入っていったとき、全く道がわからなくなったときの感覚を思い出す。空や風景ではなくて微妙に違う地面の様子をよく覚えておかないといけない。そうすれば西日や月明かりの中でも迷わない。

    一度台風の目が真上に来たことがある。水滴と大量の葉が轟轟と空にぽっかり空いた真っ青な穴に吸い込まれていく。上着が下から持ち上げられて大きく膨らむのを思い出す。

    沢登りで滝壺の近くを泳いでいるといつの間にかすぐ側まで滝が迫っていて、慌てて泳いで逃げたこともあったな。

    自然の前では人間の御託や感覚など欠片の意味もなくて、にもかかわらず人間で窒息している人ほど自然に取り憑かれるものらしい。自分のことなのだが。

    人類が掌握しているエネルギーなど自然のごく一部で、エネルギーを計算能力に変える効率はバクテリアやウィルスに遥かに劣る。ウィルスとの戦いというのはつまるところ、人類の計算能力がウィルスの計算能力に追従できるかということなのだろう。ワクチン開発に限らず、小規模な感染爆発を察知して迅速に連鎖を断ち切ったり、social super spreaderを洗い出して効果的に集団免疫をつけたり、社会としてウィルスの計算能力に対抗する方法が必要になっている。

    以前長大橋の技術について調べたことがあったが、日本とカナダとではまるで異なっていて、同じ橋をかけるという科学の対象について思想も歴史も明確に地域性に根付いていて、情報工学という地域性がほとんど無いような分野の人間としては新鮮であった。それも変わっていきそうだが。

    欧米の連中は彼ららしくウィルスを正面から制圧にかかっている。いずれ必要になるにせよ、封じ込めの後の不安定さを制御するような話をしている余裕はないようだ。ソフトウェアには開発者の思想がよく現れるのだが、中国の人と欧米の人の最も大きな違いは勝ち方に拘るという点にあると思う。中国の人は上手く行きさえすれば原則性を一時的に捨ててもありとあらゆる策を取り、なりふり構わない。欧米の人は原則性に強く制約されて、それを克服するために膨大な労力をつぎ込むが、その事にこそ価値があると考える。自然を相手にするには危うく感じる。

    日本はどうだろう。日本の人は勝ち方を見つけられるだろうか。負け方もわからないのでは勝ち方もわからないかもしれないな。

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  2. 70colors says:

    >例えば連合王国には、人の手が入った自然以外はいっさい存在しない。
>有名なシャーウッドの森も種を明かせば人間の手による植林で、それ以前は沼沢でしかなかった。

    そうなんだね。知らなかった。
    (そしてUK友が日本のその辺において「手入れのされていない庭や木々」を見るたびになんだか憤慨してるのを思い出して納得した)

    わたしの友人(日本人)は
    『樹を見ただけで樹齢その他の情報がすらすら出てくる』タイプの人間で、あちこちの山奥に入ってはさまざまな生態を調査してたこともあり、『自然の脅威』をおそらく、わたしが想像するよりも遥かに身に染みて体験しており——
    「日本には原生林って意外と少なくて〜」等としょっちゅう聞かされている。
    そんな彼にこの間ウィルスのことをぼやいたら
    「地球が一周するまでは収まらんのちゃうか〜」と軽ーく返ってきて、ああ、君も、君もやはりそう思うのか、
    と携帯電話のこちら側でがっくり肩を落としたのだった。

    ああそれでも、それでも早い終息を願うよ。祈っている。
    祈り続けている。

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