Monthly Archives: May 2020

日本人と民主主義 その7

シンガポールを見ていて、いつも思うのは、と言っても考えてみると日本とおなじことで、もう十年くらいも訪問していないので、いつも思ったのは、と書くべきだろうが、新鮮な驚きというか、人間は別に自由社会でなくても幸福でありうるのだ、という事実です。 こっちはまるで行ったことがないので、皆目わからないが、上海で教師をしていた友人に訊いても、全体主義中国も事情はおなじであるらしい。 自分では自由社会でないと生きられないのはあきらかで、簡単にいえば、猛烈にわがままであるからで、不貞腐れて吸いさしの煙草を指でピンと弾くと、おまわりさんがぶっとんでくるような社会では到底生きられない。 煙草、喫わないんだけどね。 ものの譬えです。 なんの譬えかというとシンガポール政府が最も嫌いなタイプの市民を視覚化しようと考えた。 あんまり、いいおもいつきじゃないか。 女らしくしなさい、や、女のくせに、のような表現がある社会では、一応、いまあらためてみてもチ◎チン(←二重丸であることに注意)がついていて、もうひとつの、ややややこしい見た目のほうの性器はついていないので、男と女に分類すれば、男だが、それでも無茶苦茶腹がたつので、そういうときに猛然と、指をたてて、舌をだして怒れない社会も、自分には向いていない。 そそっかしいひとのために述べると、別にシンガポールで「女のくせに、とか言うなよ。張り倒すぞ、このガキ」と述べても、おまわりさんがぶっとんでくるわけではありません。 ぜんぜん、ダイジョブ。 余計なことをいうとシンガポールは、日本などよりは遙かに女のひとたちの権利が強い国で、その権利の強さは、経済力に裏打ちされている。 もっと余計なことを言いつらねると、シンガポールは女の人が仕事に集中しやすい国でもあって、わし知人の女のひとは、インド系のひと、中国系のひと、マレー系のひと、どのひとも、結婚したあとでも家事をいっさいしません。 若い時は日本語では共働きという共倒れみたいな言葉があるが、ダブルインカムで、朝は夫婦そろって階下のホーカーズで食べる。 ラクサ、ミーゴレン、トーストと目玉焼きもあれば、もちろん、カレー粉をかければシンガポール、シンガポール・ビーフンもあります。 いま見ると、むかしよりだいぶん価格があがっているが、住宅地のホーカーズで300円〜400円であるらしい。 首尾良く夫婦で成功すると、今度は、たいていインドネシア人かマレーシア人のお手伝いさんを雇って、本人たちもトイレとシャワーが独立についている「お手伝いさん部屋」があるアパートに越す。 閑話休題(それは、ともかく) ところが、首相に向かって「女のくせに、とか言うなよ。張り倒すぞ、この豚野郎」とかいうと、ちゃんとおまわりさんがぶっとんで来るはずです。 あるいは、よおし、今日は天気がいいから、いっぱつ世界をおどかしちゃるぞ、と考えて、永久革命論を書いて、こんなクソ政府なんてBBQにしてくれるわ、てめえら銀行の地下金庫に閉じ込めて蒸し焼きにしてやるからそう思え、と書いてサイトにアップロードすると、おまわりさんがビッグバンドでやってくるとおもわれる。 うるせえな。 おれの勝手だぜ、というわけにはいかないのですね、これが。 かつて、バルセロナには、ランブラのいちばん人混みが激しい往来で、裸で、でっかいチンチ〇をデロンと出して佇んでいるおっちゃんがいた。 あのひとも、シンガポールなら豚箱行きだが、バルセロナでは観光資源化して、名物じーちゃんになっていた。 子供が寄っていって、おっちゃん、ちょっとさわってもいいですか? つんつん。 おお、でっけえ、とか述べていたりしたもののようである。 あと、ほら、タイムズスクエアで、デロンはないが、アンダーパンツとブーツにカウボーイハットでギターを抱えて歌っている人がいたでしょう? あれでも逮捕される。 しかし、永久革命を唱えたり、チンチンをでろんと出して交叉点に立ったり、裸でギターを弾いたりしてみたくない場合は、シンガポールは快適な国です。 前にもなんどか述べたように、なにしろ、「見せかけは民主社会だが、ほんとは一党独裁全体主義」の国を作るにあたって、お手本にしたのが日本なので、本質的に日本と似た社会だが、ひとつだけ、日本社会がトヨタクラウンみたいな国であるとすると、シンガポールは、どう見てもベントレーのスポーツカーを目指していて、わしが何度も訪問していたころでも、年々、社会から「ダサさ」が消滅していた。 「絆」とか「美しい国」とか、国語がんばろうな、だっさい言葉で国民をだましちゃろう、という底の浅いマーケティングは消えて、 Crazy Rich Asiansを見れば判る、繁栄と成功で、自由のような西洋イデオロギーを圧倒してしまった。 日本は、たいへん不運な生い立ちの国で、戦争に負けて、国民が求めてもいない、どころか、どんなものかよく知らない「自由」をアメリカが押しつけていった、という歴史を持っている。 戦後すぐは、あわてて「自由って、なんだ?」という議論が沸き起こったが、空転する、とっかかりがない議論を繰り返して、そのまま、みんなめんどくさくなって忘れてしまった。 アメリカは、と書いたが、日本の戦後のグランドデザインをつくったのは、アメリカ政府ですらなくて、精確に言えばアメリカ軍、です。 「天皇なんて、ぶっ殺しちまおうぜ」といきりたつニュージーランドやオーストラリアを、まあまあ、と抑えて、天皇を中心とした「国体」がある全体主義の枠組みをそのまま残しながら、「封建主義」や「軍国主義」を弾圧して、「自由を受け入れなければ刑務所にぶちこむぞ、こら」という不思議なことをやった。 世界史に稀な「自由の強制」です。 その結果、日本の戦後文明は、口では自由だあ自由だあ、と言いながら、全体主義がそのまま保存された日常生活で、軍隊となにも変わらない会社文化のなかでエコノミックアニマルとパキスタンの政治家に冷笑される経済尖兵生活を送ることになっていった。 … Continue reading

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名前のない土地

こけつまろびつ、という日本語は、こういう状態を言うのだろう、と自分で考えてもマヌケなことをおもいながら、走り去っていくひとを見ていた。 鎌倉ばーちゃんの家に遊びにいって、いつもの悪いくせで、皆が寝静まったあと大酒(たいしゅ)して、酔っ払うと、草木も酔い伏す丑三つ時、鎌倉ではいちばん好きな海岸である材木座に行って、素っ裸で泳ぐことがあった。 気持いいのよ、すごく。 海にも砂浜にも誰もいないところで泳ぐ。 沖に出て、空をみあげて、ぷかぷかと浮かんで遊ぶ。 あー、いい気持、とおもいながら砂浜に泳いでもどって、さて自分の服はどこに脱いだんだっけ、と立って考えていたら、背後で、ぎゃああああ、という声がした。 ふり返ると、40代くらいの男の人が、顔をひきつらせて立っている。 ひきつらせている、といっても、材木座のあの辺りは暗いので、よく見えないんだけどね。 次の瞬間、その気の毒な男の人は、まるでダメな刑事ドラマの演技のように、ときどき転んだりしながら、駈け去っていきます。 わしをなんだと思っているのであるか。 鬼ヶ島から、ドンブラコと流れて来た鬼か。 ガイジンだからだろうか。 それとも、日本の男の人よりもおおよそ30cmちょっと背が高くて、でかいからかしら。 きみは、「なんで、そんなことを書いているの?」とおもうであろう。 日本のことを考えていたんですよ。 日本のことを思い出そうとするが、なにしろ最後に滞在してから十年以上経っているので、だんだん記憶がこすれて滲んできて、ぼんやりして、水に映った風景のようです。 夜更け、暗闇のなかにぼんやり立って空をみあげている巨人たちのような電波望遠鏡がある野辺山や、やはり深更になって、用水に沿って森のなかを歩いていると、置き捨てにされた売春婦たちの無縁仏がならぶ墓地から、けものなのか、地上に残っている魂なのか、なにかが微かに動く気配がする追分、日本の精霊達が向こう側から提灯を先頭に歩いてやってきそうな発地の畦道、 旧軽井沢や広尾は、土地としては大層退屈な町で、失敗だったが、 いったん佐久に出て、そこから向かう「名前がない土地」は素晴らしかった。 長野県で、だんだん判ってきたのは、良い場所を見つけようとおもったら、地図をひろげて、名前がついていない土地を見つけるのがコツなのでした。 このブログにも、よく出てくる、その道をずっといけば山梨の県境に至る、細い、山間の、だが妙に立派な舗装がほどこされている道などは、モニとの秘密のピクニックのスポットで、落ち葉が覆い尽くした道路を見れば一目瞭然、クルマなんて一台も来やしないので、敷物を広げて、シャンパンを開けて、のんびりサンドイッチを食べた。 この森は、たいそう美しい森で、雑木林というのか、日本やカナダに特徴的な、色とりどりの葉がつく、さまざまな落葉樹の混淆で出来ていた。 やはり佐久の、天狗山トンネルというトンネルの向こう側に広がる、広大な稲田や、深い豊かな森林の記憶で、自分の日本への気持が、どれだけ洗浄されたかしれない。 夏の葉山の海、秋の布施や立科の森、 軽井沢も、町は退屈を極めるが、ニュージーランドに移動するので、いつも数日しか味わえなかった、冬の、凍り付いた森の姿の美しさには息をのんだ。 クリスマスが近付くと、町中で電飾を飾るお祭りがあって、その頃になると、広尾からクルマでいったん軽井沢に行って、帰るときに地元の別荘を面倒みてくれているひとたちに冬の「水抜き」をお願いしてから、とって返して、すぐに成田へ行く習慣だった。 日本の文学とかなんとか言っているが、なんのことはない、おもいだすのは鐙摺の山の背後に聳えたつ積乱雲、凍った森、春に咲き乱れるこぶしの花で、自然ばかりで、落ち着いて考えてみると、自分がいまでも日本にゆるがない好感を持っているのは、あれほど乱開発に痛めつけられても、ふらふらになりながら立って、まだ美しい存在であることをやめない、自然のせいであるようにおもえる。 名前がない土地を言葉にして呼ぶことはできない。 「あのあたりに地上の風景とはおもわれない美しい土地があった」と漠然と思い出すだけで、検索も出来ないのだから、画像として甦らせることもかなわない。 命名されない美しさは、しかし、自分にとっては日本と日本語そのもののことで、自分の内部に感覚としてだけ残っている「美しい日本語」や「美しい日本」は、これのことです、と手のひらに指して明示することができない。 それでもたしかに「美」は風景から自分の魂のなかに歩みいって、日本語とともに、住家(じゅうか)をさだめていることが感じられる。 日本の人が、もちろん、よく知っているように、東京から成田へのJRやクルマから見える風景は、水田に囲まれたかつての地方豪族の館跡の森が点在する、世界でも最も美しい空港への道のひとつです。 あの暗い照葉樹と水田がつくる風景を厭うひともいるが、とても好きで、定宿のヒルトンの部屋から外を眺めて、また来るぞおおお、と力んでいたころがなつかしい。 荷物を解いて、リフトに乗ってバーにおりていくと、 「ヘイ、ジェームス! あなた、また日本に来ていたの? ほんとにこの国が好きなのね」 と、前に、たまたま顔見知りになったユナイテッド航空の女の人が呆れている。 そう。 好きなんだよ、きっと。 でもね、ぼくが好きなのは、きみが知っている浅草でも、銀座でもなくて、日本という国でもなくて、きみが知らない、名前がない、まだ名付けられていない土地なんです。 … Continue reading

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政治の言葉

演技だとすれば超一流の俳優だと言うしかない。 ニュージーランドはCOVID禍で21人の死者を出したが、その多くは認知症患者の老人ホームの老人たちだった。 アーダーン首相は、公式に老人たちを死なせてしまったのは対策が甘かった政府の落ち度だと死者と家族、友人たちに謝罪したのだが、そのときに唇が戦慄き、やや声がつまったのだという。 涙を流せばリーダー失格なので、まさか涙は浮かべないだろうが、 演説を見ていなかったぼくも、さもありなん、と考える。 クライストチャーチでモスク襲撃事件が起きたときは、演説を見ていた。 AR15半自動小銃で武装したオーストラリア人ブレントン・タラントが51人のイスラム教徒を射殺したこの事件が起きると、まだ「首相というより首相見習いだった」と、いまになってふり返って自嘲するくらい、経験のない39歳の首相は、世界中の西欧人がぶったまげてしまったことに、イスラムの女の人々に倣ってヒジャブをかぶって会見場にあらわれた。 日本では大学教授で有名なイスラム学者であるという人が「異教徒がヒジャブを被って公式の席に臨むなどは、イスラム人たちに対して、とんでもない失礼で、無知にもほどがある」と記事を寄稿して怒っていたが、当のイスラム人たちは、もう、そのヒジャブ姿であらわれた首相のイスラムコミュニティとの連帯を示す姿を見ただけで、感動して、男も女も泣き出して、感謝の祈りを捧げ始めていた。 演説は、その会見のあとで行われた。 演説を見ていて、この人はすごいな、とおもったのは、抑制に抑制を重ねても、隠せない、身体全体のボディランゲージで怒りを現していたからで、たしかに、そのときも唇はふるえていた。 その怒りの凄まじさは、静かな言葉とともに会場に伝わっていって、 「ニュージーランド人は、いまこそ団結しなければならない。 極右白人至上主義者には、この国には生きていく場所はない」 「ニュージーランド人の団結は人間性に基づくものであるべきだ」 というメッセージは、あっというまに全国民に伝わって、一朝にして「国風」が出来たといいたくなるくらいだった。 次の日から起こったことは、ニュージーランド人なら誰でもおぼえているに違いない。 どんなに微かな知り合いでも、もちろん、ただ近所に住んでいるというだけでも、午後になると、イスラムの主婦がいる家に女のひとびとが押しかけていって、買い物にはいつ出かけるのか、出かけるときに、自分たちがあなたに嫌なことが起きないように護衛したいが構わないか、と訊いている。 町中の至る所に、ひとりのイスラムの女の人を、3、4人のベールをかぶったキィウィの女の人々が取り巻いて、護衛して、汚い言葉を吐きかけたりする人間がいないように、周りのなりからして危なさそうな若い男たちを睨めつけて、制圧しながら歩いていくのが見られるようになった。 アメリカ人たちと違って、近所に人が越してきても、素知らぬ顔をしているのが礼儀のニュージーランド人としては異例も異例、びっくりするように異例なことです。 子供のころ、ニュージーランドの人びとと歴史の話をしていると、だいたい第一次世界大戦くらいを境に、いつのまにか連合王国の歴史を遡っているので、奇妙な気持にとらえられたことがある。 オーストラリア人などとは異なって、ニュージーランド人は、つい最近まで、普通の意味での「国民」としての意識は持っていなかったとおもう。 いまでも20ドル札はエリザベス女王の肖像だが、過去には20ドル札だけでなくて、5ドル札、2ドル、100ドル札にもエリザベス女王の肖像が刷り込まれていて、それが自然な国だった。 国民意識は、ボルジャー首相のあたりから、だんだんに育ってきたが、明瞭なアイデンティティとしての国民意識は、ジャシンダ・アーダーンのモスク襲撃事件後の演説が生みだしたのだと言ってもいいかもしれない。 では、それが常に選び抜かれた、とっさの受け答えのときですら最適な表現を選ぶ能力に恵まれたアーダーン首相の言語能力だけから生まれてくる伝達能力かというと、意外と、そうでもない、というのが、この記事を書いている理由です。 人間の言語は、もともと伝達に向いていない、という主題は、このブログのあちこちに出てくる。 何度も繰り返されているテーマのひとつです。 あらかじめお互いに判っていることを、お互いの台帳を照らし合わせるようにしてしか日常言語は伝達を可能にすることができない。 言語によって伝達をはたそうとすれば、言語が形成された途上で出来た「定型」にカチッとあった表現を見つけ出すしかない。 いつか、日本語で、この話をしたら比較的有名な作家の人が五七五の話だと思い込んでしまったので、びっくりしてしまったことがあったが、もちろんそうではなくて、 保谷はいま 秋のなかにある ぼくはいま 悲惨のなかにある この心の悲惨には ふかいわけがある 根づよいいわれがある  * というような、これを伝えるには、この言葉の選択しかないだろう、という言葉が持つ定型に到達することを言っている。 定型によって、少し、観念と情緒のレベルが高くなって、ほんの少し中空に浮くような場所に送り手と受け手が共にあるようになったところで、初めて言語は伝達能力をもつ。 政治の言語による伝達はもっと複雑で、身体の動き、手振り、映像時代のいまで言えば、極端にいえば目の輝きに至るまで動員されて、やっと伝達される。 もちろん、例の「天才」という、いまいましい例外はあります。 誰でもが知っている例でいえば、ウインストン・チャーチルが好例で、あの、ゆったりして、物憂そうな、上流階級をそのまま体現した調子とアクセントで、ほとんどマルスが起草したような文章が声にだして読まれたせいで、ヒットラーは圧倒的に優勢な軍事力をもっていたにも関わらずイギリス侵略をあきらめざるをえなくなった。 ただ、チャーチルの場合は時局がつくりだした緊張の上に立って、観念と情緒の高みをつくって、いわば芸術家とおなじやりかたで伝達を果たしたのであることは、平時の演説は、打って変わって精彩を欠いていることで判るとおもいます。 … Continue reading

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日本人と民主主義 その6 シンガポール

シンガポールが「世界で最もうまくいっている独裁制全体主義国家」であることは、以前にもなんどか書いたことがある。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/09/1512/ ぼくはこの国が昔からたいへん気に入っていて、冗談ではなくて、かつ、きみが信じようが信じまいが、と日本語では付け足したくなるが、いったい何十回行ったかしれない。 マンハッタンや東京、バルセロナのように数ヶ月住んでみる、ということはなかったが、それは単純に暑すぎる気候のせいで、暑いと、日中はプールサイドでゴロンチョになって、シンガプーラで、泳いだりしていて、夜になるとゴソゴソと這い出して町に出る、という単調な暮らしになりやすいので、何十回も訪問したことはあっても、一回の訪問は数日です。 シンガポールは国策でストップオーバーをプロモートしていて、連合王国から、ぶおおおおおおんんと飛んで来て、4泊まで、だったかな?であると、一流ホテルも半額以下で、10代後半から20代前半のビンボ男だったときには便利だったことには、チャンギの空港からダウンタウンまでのバスも無料だった。 むかしは、などといいだすと能楽の翁か、むかしおとこの亡霊のようだが、わしガキの頃などは、シンガポールは正真正銘のパラダイスで、タイ人の友達などは、「ガメ、おまえ、シンガポールみたいにばっかみたいに高いところに行ったらバカだぜ。バンコクに来いよ」などと言っていたが、十分に安くて、おまけに消費税もゼロで、その上、なんと言っても例えば行き先を示す標識や、カーブのスピード制限、あれもこれも連合王国オーストラリアニュージーランドで、デザインがおなじなので、なにがなし、なじみやすいということがあった。 シングリッシュとシンガポール友が自嘲したりする訛りは、いまは普通程度の教育を受けた人はひどくなくて、「いやあ、シンガポールの訛りは、ぼくにはわからなくて」と述べる日本の人は、たいてい自らの英語能力を恥じて相手のせいにして誤魔化しているだけだとおもわれるが、当時は、中国語っぽい破裂音おおおきさで、わかりにくくて、聞き返すと、「え?あ、いや、いいです」と、日本の人とおなじように黙ってしまう人もおおかった。 7歳か8歳、1990年頃のことです。 アジア文化の先生、のような国だった。 本格的なDim sum(飲茶)は、ここでおぼえた。 中国の、おいしい店に行けば、あの天にものぼるような味がするコンジーも、ここで初めて食べた。 海南チキンは、初めは、昔はなんだかチョー薄暗い店内だったマンダリンホテルのチャターボックスだったが、すぐにマクスウェルセンターの天天海南鶏飯で、大嫌いなはずの行列に嬉々として並んだ。 リトルインディアに行く途中、干し肉がぶらさがった屋台が延々と並んでいた、強烈な印象が忘れられない。 インド料理のタリも、ここでおぼえた。 ロンドンにあるのは気取ったインド料理屋ばかりで、コンテンポラリーインディアンが多かったが、シンガポールは異なっていて、 300円からそこらも出せば、プラスチックの皿に盛られたアルゴビにロティが一枚ついてきた。 その一方では、例えばインターコンティネンタルホテルには、ちゃんとハイティがあって、かーちゃんのおともで、くっついていけば、ロンドンとなにも変わらない午後の時間が冷房が利いたロビーのカフェにはあった。 シムリムセンター、Bugis Junction、飽きるということが難しい町で、身体がでっかくなってからも、子供のときとおなじで、 なんだか内心できゃあきゃあ言っているうちに滞在が終わる楽しい町だった。 段々、友達が出来てくる。 初めの友達らしい友達は、同じ大学の、普通の人間なら必死に隠す大学訛り(←イギリスという国には、そういうヘンなものがあるのです)をバリバリに利かせた英語をスーパー完璧なクイーンズイングリッシュを話すインド人の友達で、この人はあとで画廊の経営者になったが、シンガポールに数年住んでいて、よく会っては、パンパシフィックホテルのなかのインド料理屋で遊び呆けた。 話には全体主義国家だと聴くけど、来てみると、みんなのびのび暮らして、なんのことはない自由社会だよね、というと、屈託のない、おおきな笑い声で、はっはっはっと笑って、 相変わらずガメはシアワセなのねえ。 シンガポールには自由なんてありませんよ。 テラスに立ってメガホンで政府の悪口を言ってごらんなさいよ、5分もしないで警察が来て、豚箱行きだわよ、という。 密告社会でもある、という。 いつかタクシーでインドネシアから出稼ぎに来ているのだ、と述べるドライバに、春節なのに、シンガポールの人は、行儀がいいから、決まった場所でしか爆竹ならさないんですね、と言ったら、こちらも、わっはっは、なんて無知な奴だ、という調子で大笑いされて、ダンナ、そんなことしたら、あっというまに、お巡りがぶっとんで来ますよ、まっすぐ豚箱行きだわ、とわし友と同じ事を言う。 シンガポールには、近所の1ブロックに3人はパートタイムのスパイがいるんでさあ。 こいつらはね、密告一件でいくらと決まった報酬をもらえるんですよ、と俄には信じがたいことまで述べている。 あとになって、だんだんわかってくると、国民の政府に対する反感もたいへんなもので、いつか投資友の会社の若い社員たちにレストランを案内してもらってランチを食べた帰り途に、リフトに乗ったら、別の若い人たちがどやどやと乗り込んできて、当然、禁煙のリフトのなかで、「ここのはカメラがないんだぜ」というひとりの声に3人がいっせいに煙草に火をつけたのには、びっくりしてしまった。 あたふたと、ふかして、降りるときに「ざまあ見やがれ」という調子で踏みにじっていく。 シンガポールは、なにしろ煙草の値段が高いので、もったいないこと夥しいが、彼らにしてみれば、鬱憤ばらしで、もしかすると内心では、一種の反政府行動なのでしょう。 そういえば子供のときマウントエリザベスの裏の小路に煙草の吸い殻がいっぱい落ちていて驚いたことがあった、と言うと、「あっ、あそこ煙草を喫っていてもつかまらないんで有名だったんです」という人がいる。 「お巡りが巡回に来ないんですよね」 リー・クアンユーの自伝を読むと、シンガポールが、あらかじめ、「自由社会に見せかけた全体主義国家」としてデザインされたことが、よく判る。 地図を見ると簡単に理解されるが、マレーシア、インドネシアというイスラム国家に囲まれていて、シンガポールはしかも国内にもイスラム系が多いマレー人と中国系人の鋭い対立がある。 いつか、ラッフルズシティで1月1日を過ごして、ホテルのレセプションで「シンガポールは、1年に二回お正月があって、いいね」と述べたら、レセプションの、いつも愛想がいい若い女の人が、 ほんとうに憎しみがこもった声で、「シンガポールの正月は今日だけです。中国人のあいつらが祝っている正月は違法です!許していいことではない!」と形相もものすごく、語気を強めて述べたので、ぶっくらこいてしまったことがあった。 あるいはマレー系のタクシーに乗ってセントーサへ向かっていたら、隣を走っていたクルマが、ふらっと、こっちに寄って、危うくぶつかりそうになると、「中国人!」と舌打ちをする。 … Continue reading

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災厄日記 その10 5月21日 the aftermath

ライドオンムアやリーフ・ブロワー、チェーン・ソーの音が5月の終わりの乾燥した大気に響き渡っている。 8週間に及んだCOVID禍の下で、気味が悪くなる静けさだった町が活気を取り戻している。 クルマで出かけてみると、混雑で有名なグリーンレインのラウンドアバウトが渋滞している。 モニとふたりで、おもわず顔をあわせて、にんまりする。 交通渋滞に遭遇して嬉しい気持になるのは、生まれて初めてなのではないか。 人情の常、というか、4段階ある警告レベルのうち、レベル4からレベル3レベル2と立て続けにさがってきて、レベル2になると、COVID以前よりもカフェは混雑するようになった。 レストランも満員で、マジメなレストランは、それでも、テーブルとテーブルを優に2メートル離して、あんまり閑散とした印象なので、着席禁止のテーブルにはマネキンを置いたりしているが、ときどき出かける海辺のスペイン人夫婦経営のカフェなどは、テーブルとテーブルがぴったりくっついていて、規制もどこふく風、まったくの平常営業になってしまっているようでした。 それでも、いまのところは、あな不思議、二次感染も起こらなくて、毎日新規感染者ゼロがつづいて、今日辺りはICUももちろん含めて入院患者自体がゼロになりそうです。 英語では感染の危険がない生活圏をbubbleという。 次の節目は、多分、拡張バブルで、2400km離れているとはいってもお隣の、むかしからトランスタスマン、ANZACの結び付きが強いオーストラリアと結託して、「拡大bubble」をつくることになっているが、そのときに感染者が紛れ込んでくるのではないか。 オーストラリアもニュージーランドも、むかしからボーダーコントロールが下手で、空港職員はなれていなくて、偽造パスポートは見破れないは、COVID禍になると、ノーチェックで入国できてしまった中国や香港から訪問客が、逆に「あまりにチェック体制がひどい」と怒りだしてしまうくらいで、さて、どうなるか。 いまこれを書いているコンピュータのセカンドスクリーンにはCOVID禍のロックダウン期間中を通じて、毎日午後1時に登壇して、アーダーン首相とともに、篤実をそのまま人間にしたような姿で、国民的人気者になってしまったブルームフィールド博士が現況を説明しているが、そういう性格の人なので、「やっと、なんとかこれで終わりそうだ」という安堵の気持ちが滲みでてしまっている。 ほんとうは国民を油断から守るために、安心の気持を隠しておかなければならないんだけどね。 COVID禍で変わったことは、なんだっただろう? このままオフィス通勤をやめて家で働いたほうがいい、支障もなかった、という国民が8割近くを占めている。 いや、やっぱりオフィスのほうがよかった、が1割ちょっと。 狂ったように増員したにも関わらずクーリエや運送サービスは、どんどん滞貨して、今朝、NZ郵便は20万パーセルだかの滞貨になってパニクっているのがニュースになっていた。 ロックダウンで最も長かったレベル4ルールが他国よりも厳しくて、外食はおろか、テイクアウェイ、日本でいう持ち帰りも禁止だったので、出前が発達した。 教育のオンライン化が進んで、まだ完全に整ってはいないが希望すればほぼ在宅でも学校教育が受けられるようになった。 Air NZが倒産寸前の株価になった朝、一時帰休になったスチュワーデスがストリッパーに転業しているというニュースを読んでいたモニさんが、飲んでいたカフェ・オ・レをおいて、「わたし、Air NZが好きだから、株を買ってみる」と述べて、やや、ぶったまげるような数の株を買って、まあ、いいか、寄付だ寄付、善意には出費はつきものだ、とケチンボな夫は品のわるいことを考えたが、豈図らんや、弟謀るや、株価は、その日を境に上がり続けて、まだひょろひょろとあがりつづけていて、あれ以来株価を見ないモニさんは知らないが、もっかは株長者であることを夫のほうはちゃんと知っている。 表面に出てくるニュースにはならないが、最もおおきな変化は、ニュージーランドと英語世界との直截のつながりが以前とは桁違いにおおきくなったのは、例えばニュージーランドのマイクロソフトやグーグルの社員は、ことあるごとにアメリカに出張しなければならなかったのが、どうやらCOVID後は、ほとんどの用事はオンラインですむようになったことをみるだけで理由はわかる。 「言語によるまとまり」がおおきくなって、言語別ブロック化が世界では進んでしまった。 あとは、世界中で報道されているとおりのことで、ここに書くまでもない、独裁国家の欠点がおおきく目につくようになった中国の孤立は決定的になり、台湾に独立を与える動きまででてきている。 日本語で、「脅したり賺したり」という表現があるが、そのままで、経済関係を元手に恫喝を繰り返してみたり、妙に外交上の猫なで声で、新しい取引をちらつかせたりしているが、どうやら、中国の孤立は決定的になってゆくように見えます。 それに伴って例の「困った人たち」がアジア人排斥の動きを強めている。 困った人たちが困る所以で、なにしろ中国人も韓国人も日本人も区別がつかないので、全部いっしょくたで、この動きが固定すれば、日本も結局は中国圏に入ることを希望するもなにも、独裁の傘の下に追いやられてしまうでしょう。 こうやって外交未来を書いているときは、いつも、だいたい2050年頃を念頭においているが、気が早くてそそっかしい友達は、「アベの次は、自分が収拾しなければならない国情がわかっていないマヌケな誰かで、その次はシー・ジンピンだったりして」とおっそろしいことを言う。 ともかく、かくとも、ニュージーランドとオーストラリアは、SARS-Cov-2との共存をめざす他国の方針に背を向けて、根絶をめざして、いまのところは、うまくいっているように見えます。 当初の方針どおり、国内のCOVIDを完全に抑え込んで、社会の維持に最低限必要な経済活動で生き延びながら、有効な治療薬かワクチンが完成するのを待つ。 いわば「命あっての物種」政策で、オカネモチのオーストラリアはともかく、ニュージーランドのようなビンボ国では、ふりかえると、ほんとに細い切り通しの道で、それしかウイルスの虎口を逃れる方法がなかった。 今日は、うららかな日で、冬の初めの小春日和で、COVIDが荒らしまわった社会は、傷口を少しずつ癒やしていこうとしている。 英語社会のことで、もちろん誰もなにも言わないが、自分の机にむかってバランスシートを見て歯をくいしばっている夫や、政府がつくった6ヶ月のモラトリアムのあとでのホームローンと教育ローンの支払いのあてがなくて途方にくれるシングルマム、トラブルに足をとられている人間が桁違いに増えたのは、たいした想像力がなくてもわかる。 南半球の、世界地図に載らないことすらよくある、物理的には絶海の孤島と呼んだほうが適切な、ちいさなちいさなひとりぼっちの国が、ウイルスに吹き消されるのをようやく免れて、今度は、ズキズキ痛む経済的な肉体でよろよろと起ち上がって、歩いていた道にもどろうとしている。 ニュージーランド人がCOVID禍で学んだ最大の教訓は、人間の最大のちからは善意であることで、現実の問題として善意だけが苦境のなかでは国民を結束させて、困難を克服するちからを発揮させる、ということだった。 ニュージーランド人自身も、びっくりしたでしょう。 ぼくも、びっくりしたもの。 まさか、善意にいわば功利的なちからまであるとはおもわなかった。 Be … Continue reading

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日本人と民主主義 その5 バルセロナで

土曜日のディアグノルを、ふらふらと、と形容するのが最も正しいような走り方でメルセデスのSクラスが走ってくる。 クルマの流れに乗らないで、ゆっくりゆっくり走っているので、人目を引きます。 なんであんな走り方をしているのだろう?と訝しんで見ていると、パッサージュ・ド・グラシアとの交叉点の、ど真ん中で停止してしまった。 へ? とおもってみていると、なかから中年の、立派な仕立てのスーツを着た紳士然とした男の人と、いまどき、ロンドンなら時代遅れとみなされそうな、ニューヨークなら真っ赤なペンキをぶっかけられそうな、ゴージャスで残酷なミンクのコートを着た女の人の、いかにもオカネモチなかっこうをしたカップルが降りてきて、すたすたすたと通りを渡って歩いていった。 駐車、しているんです。 交叉点のど真ん中に。 なるほど、大通りの交差点のまんなかならばクルマ2台分の駐車スペースはあるので合理的だよな、とおもおうとしたが、あまりに唖然としたので出来なかった。 おなじ日。 モニとふたりでご贔屓のレストランの、歩道に面したテラス席で食事をしていると、向かいの駐車場の出口でクラクションを鳴らす人がいる。 なんという無作法な、とおもって、そちらを見て、こけそうになってしまった。 出口にクルマの頭を突っ込んでパジェロを駐めている人がいたからです。 クラクションを遠慮がちに鳴らして、それから出口で雪隠詰めになったランドクルーザーのドアを開けて出てきたおおきなおおきな男の人は、しばらく左右を見渡してから、レストランを一軒ずつ、訪問しはじめた。 そのうちに小さな小さな女の人と戻って来て、口論している。 口論、というよりは、女の人が一方的に激怒している。 もれ聞こえる単語は、ここに書くのが忍びないような単語で、 お上品なほうだけ並べると「このオタンコナス」「マヌケ」「アホ」 というようなことを述べている。 どうやら、オントレが終わって、食事が佳境に入って、豚の頬肉が出てきたところで、おまえがわたしを探しに来たものだから、週末の食事が台無しになってしまったではないか、と怒っている。 そのあいだ、男の人のほうは、おおきい声ではないので聞こえないが、自分は駐車場から出たいので、出口を塞いでいるクルマを動かしてくれ、「駐車場の出口にクルマが駐めてあると駐車場から出られないのでクルマを移動させて欲しい」という、あたりまえすぎて説明するのが難儀なほどのことを依頼している。 しばらく口論していたが、プンプン怒りながら、それでも、クルマを動かして去った女の人を見ながら、感動しないわけにいかなかった。 相手は自分の倍は優にある大男で、しかも当然のことながら怒っていることが予想される。 いくら野蛮で知られるロンドン人でも、まさか女の人を男が殴りはしないが、物理的なおおきさの違いは直截に恐怖につながる。 そのちいさなちいさな女の人は、しかし、欠片も怖がらずに相手を罵り倒している。 言葉の応酬以外には起こりえないことを熟知した社会だからできることだとおもう。 もうひとつは、実は、このころにはもう気が付いて、びっくりはしなくなっていたが、他人のわがままに対する途方もない許容度の高さで、イギリス人なら、とっくのむかしに、まさか怒鳴りはしないが、例の嫌味たっぷりの表情で、寸鉄ひとを刺すような鋭い言葉づかいで怒りをぶつけているところでも、知らん顔をしていられる。 決して、乱暴な人間をおそれて知らん顔をしているわけではないことはギターバー https://gamayauber1001.wordpress.com/2009/03/14/guitar-bar/ にいた、多分、ハイになっていて、失礼な野次をとばしている客が、ギターの人が「静かにしてくれないか」と述べたのに口応えをして、失礼な野次が「会話」の形になりだすと、申し合わせたようにいっせいに「シィィィー!」と鋭い音を立てて、ハイ男の隣の女の人が、「黙りなさい」と厳しい口調で命じたのでもわかるとおりで、彼らが共通に常識として持っている「ここまで」というわがまま許容線が、アングロサクソン文明のひとびとと較べて、すごく高い値で、そこまでは、ほっぽらかしにする約束になっていることが見てとれる。 そういう他人のわがまま許容度が高い社会に生きていれば、ストレスはたまって、朝、ピソの近くのワインの瓶を捨てるでっかいビンからは、ガッシャアアアーン、ガチャアアーンという、すさまじい音が聞こえてくる。 何の音か。 主婦がワインの瓶をビンのなかの他の瓶(ああ、ややこし)に向かって、おもいきり、ちからの限り、叩きつけている。 スペインで、わがままと自由がおなじものだと教わった。 子供のときも、なんどか行ったことがあるのだけれど、他人に訊かれても行ったうちに数えないのは、なにしろ子供という人間が最もバカなときのことで、自分を客観的に見ることすら出来ない子供というバカ時代が終わった人間のことをおとなと言うのだから当たり前だが、頭が単純で、スペインはきったないだけで、なんだか病気がうつりそうな町だ、という印象しかなかった、 思い返すのも嫌なくらいバカである。 おとなになってから見たスペインは別の国でした。 特にカタロニアは、まるで人生の教師のような国だった。 女も、子供も、老人も銃をとってフランコの軍と戦い、自分達の自由を守る為に必死に戦って、戦闘で傷付き、敗勢のなかで仲間の裏切りに傷付き、ひとりまたひとりと戦いをあきらめていくひとびとに傷付いて、カタロニアは青ざめていった。 血の気を失って、表情をなくしていった。 1972年までは、デモの自由どころか、自分たちのダンスを踊る自由さえ持たなかった。 … Continue reading

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日本人と民主主義 その4

日本の人の「不躾さ」が、ときどき、ひどく懐かしくなることがある。 短いあいだ四谷に住んでいたときにオオハラと言ったかな?服部半蔵の槍があるお寺の坂の下にある中華料理屋さんで、麻婆豆腐を注文したことがある。 でっかい丼に入った、細かく壊れた豆腐が入っているスープが、どちらかといえば酸辣湯のように見えたので、「あの、これ、麻婆豆腐、ですよね?」と訊いたのがよくなかった。 ただ注文を間違えたのかもしれないとおもって、なるべく失礼にならないように尋ねただけのつもりだったが、カウンターの例の身体で押せば開く低い両開きドアをおしてノシノシとやってきた女将さんにえらい勢いで怒鳴られた。 「あのね。うちじゃ、これが麻婆豆腐で、一生懸命つくってるんです。ガイジンなんかに説教されてたまるもんですか。これで文句があるんなら、とっとと出ていきなよ!」 いやいや、そういう意味ではないんです、とパニクって青くなりながら、なんとか誤解を解いて、食べてみると、おいしかった。 ご飯も頼まないヘンな客で、相変わらず歓迎されない様子だったが、ともかくも、「おいしかった」と述べて「お勘定」を払うころには、でっかい女将さんの機嫌もなおっていたようでした。 もちろん、誤解に基づいた怒りが「不躾」だったのではない。 チョーおいしかった麻婆豆腐に味をしめて、ほとんど毎日のように通って、熱燗と麻婆豆腐を毎夜楽しんでいるうちに「ヘンなガイジン」という渾名を賜って、顔を突っ込んで、ガラッと引き戸を開けてのれんをくぐって店に入るたびに「おや、また麻婆豆腐なの? あんた他に食べるものないのかい?」から始まって、「ちょっと太ったんじゃないの?ビールをあんまり飲みすぎないほうがいいよ」 「おや、痩せたんじゃないかい? ちゃんと食べてるの? ガールフレンドをつくらなきゃダメじゃないか。 日本の女はいいよお。あんたの国の女もいいかもしれないが、妻にするなら日本の女が世界一って、知らないのかい」 だんだん江戸言葉になっていきそうな舌のまわりかたで、太った痩せた、眠ってないんじゃないか、酒の飲み過ぎだとおもう、 西洋のルールなら、おおきなお世話もいいところの軽口がとんでくる。 ぶっくらこいたのは、短い滞在がおわって、明日、国に帰るんです、と述べたときで、むかし言葉で、初めて名前で呼んでくれて 「ガメちゃん、抱っこさせておくれ」と言って、割烹着を慌ててぬいで胴体に手を回して、胸に顔をつけて、おいおい泣きだしたのには驚いてしまった。 おばちゃんはね、ガメちゃん、息子みたいなもんだとおもっていたの。 そうだよねえ。あんた、いつかは帰る人だもんねえ。 と、述べて、おおげさもおおげさ、まるで新派のような愁嘆場です。 あんたは蝶蝶夫人か、とおもえればよかったが、まんまと、だらしなくも、涙がでてきて、一緒においおいと泣いてしまった。 ほんとにきみはガイジンなのかね。 ニセガイジンなんじゃないの? あるいは、こっちは、いつかも書いたが、ストップオーバーで日本に寄って、むかし、よく酔っ払いにいったバーに行った。 ぼくとこの店の「マスター」は日本にいるあいだじゅう、友達だった。 極端に無口な人で、カウンタに並べた酒瓶の陰に隠れるようにして、下を向いて、客とは目もあわさないで、注文されたナポリタンやピラフをつくる人だったが、ある日、客がひとりもいなくなったあとで、ブッシュミルズをストレートで飲んでいたら、「どこからいらしたんですか?」と話しかけてきたので、驚いてしまった ニュージーランドです、と述べたら、ニヤッと笑って、 「じゃあ、イングランドからニュージーランドに越したんですかね」と言うので、またまたびっくりしたのをおぼえている。 そのすぐあとで、酔っ払った中年の客が入ってきて、そんな時間には珍しいコーヒーを注文していった。 その客は、コーヒーが好きな人だったのでしょう。 あの欧州コーヒー党特有の「ぐいっ」と飲む飲み方で底まで飲みきると起ち上がったが、お勘定の段になって、750円、というと、 「たけえな」とひとこと単簡に述べてドアを開けて帰っていった。 マスターは、「たしかに高いよな」とひとこと述べてドアを閉めて階段をおりて帰っていった客を見送っている。 なんだか、そのときから、友達になったような気がする。 向こうはどうして興味を持ってくれたのか知れないが、それから、客がいなくなると、よくふたりで話をした。 もとは美術大学の教師だったことも話してくれた。 自分が好きな画家や彫刻家の名前をあげると、 「ガメちゃん、趣味が悪いな」と言ったりした。 草間彌生なんて、どこがいいの? なんで大学教師やめちゃったんですか?と訊くと、小指を立てて、 「これで」と偽悪的な笑顔で、へへへ、と笑ってみせた。 … Continue reading

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日本人と民主主義 その3 短い春のあとで

神保町の「餃子の三幸園」を出て、タクシーを止めると、もう午前1時になっている。 習慣になっていて、酔っ払うと六本木の香妃園で鳥そばを食べる。 二人用だそうだが、ぼくには一人分でちょうどよかった。 いまは瀬里奈とかなんとかいう、下品なビルに入っているが、義理叔父が高校生のときは、麻布署の隣の、日産ビルの二階にあったのだと言っていた。 あの人は、この古いほうの香妃園で、六本木通りを眺めながら、まっすぐ義理叔父のほうを見ようともしない東洋英和女学園の、1歳年上の女の人に、こっぴどくふられた。 高校が学園紛争をやってたころのことなの?ときくと、そのすぐあとだ、という。 新聞に「民主主義の敵、あまったれお坊ちゃん学校の叛乱」という調子で書かれて、高校生と中学生の連合軍は、高く積み上げたバリケードの上で、機動隊が、見た事のない食べ物をカップから啜っているのを眺めていた。 おれがカップヌードルを見たはじめだぜ、と義理叔父が笑っている。 機動隊のやつら、新しいものには目がないんだ。 結局、四面楚歌のなかで、生徒たちが雇った会計士が、実は生徒達を激しく弾圧した理事長が3億円の横領をはたらいていたことを発見して、学園運動は生徒が勝利して収束する。 日本の高校学生運動のなかで、都立青山高校とならんで、有名な麻布学園紛争です。 紛争期間中よりも、生徒達が勝利してからのほうが学校が荒れに荒れて、徹底的に荒廃した、というところが、戦いというもののリアリティをもって胸に迫る。 義理叔父が日本の社会に見切りをつけて、もう隠遁して生きるのだと決めたのは、そのころだったようでした。 あるいは、ロンドンからやってきて、成田から長い旅路で、西洋人の目にはスラムにしか見えない東東京の高層「マンション」群を眺めながら、やっとこさ当時の定宿だった「山の上ホテル」に着くと、義理叔父が待っていて、「行くか?」という。 行くか?というのは、どこに行くかというと白山通りの北京亭という餃子屋で、ほんとうは中華料理屋だったのかもしれないが餃子屋で、なにしろ当時はロンドンにもクライストチャーチにも、こんなのおいしい餃子を出す店はなかったので、小さくて、パリパリした餃子を食べに行った。 いまも同じ箸袋を使っているかどうかは知らないが、当時は、「支那は差別語です」という意味の文がでっかく袋の裏に印刷されていて、その悔しさがエネルギーになったような、力任せに踊っている不思議な文字を見ると、「ああ、日本に来たなあ」とおもったものでした。 身体がおおきかったので14歳でも、ビールを飲んでいてもばれやしなくて、ロンドンではお巡りが乱暴なのでやれるわけはない未成年飲酒にひたって、東京はいいなあ、と毎度考えた。 驚いてはいけない。 日本はね、むかしは、ごく短いあいだだけど、自由社会だったんだよ。 いまは話を短くするために若い人に絞って話そう。 パリに憧れてつけた名前なのでしょう、カルティエラタン、という学生たちの自称は、いくらなんでもおおげさだが、いくつもの大学が集中していた神田は、「自由とはなにか?」を議論し、学習する場として機能していた。 ただ、ここではくだくだしく述べないが、「政治」というものが人間性を呑み込んでしまうものだと知らなかったナイーブな学生たちは、やがて左翼として組織化され、国家社会主義の素顔を急速にあきらかにする自民党の側とは、また別の、全体主義者の集団になっていきます。 やがて宏池会に拠っていた保守勢力が自民党の派閥力学に呑み込まれる形で消え、欺瞞に満ちた党派の日本共産党に反発して「反代々木派」を形成した新左翼も観念の海に溺れて革命勢力たりえなくなっていく。 日本にも鶴見俊輔や小田実を思想的な軸に持とうとした「ベトナム平和連合」というリベラルを吸着する、党派とも異なる緩やかな「グループ」があったのだけれど、なにごとによらず勇ましさを好む日本人の国民性に合致しなくて、不活性になってゆく。 ずっと歴史を読んでいった感想は、「日本人は自由という動的な状態が嫌いなのではないか」ということでした。 日本の人は「変わらない」ことが好きなのではないか。 もうひとつ。 日本の人にとっては、社会は「与えられたもの」であって、すでに決定されたものとしてある状況で、それについて不平は述べても、社会というものが常に自分たちが建設する動的で可塑性が高いものだという意識がないように見えます。 ツイッタでも述べたが、まるで運ばれてきた料理がおいしくないと不平を述べる客のようです。 多分、なにかならなにまで覆す革命が、昔から日本のひとびとを捉える変化の概念で、年柄年中、ぐにゃぐにゃした粘土をいじっているような、連合王国やオーストラリア、ニュージーランドの人間の感覚を持たないのは、そのせいであるような気がする。 少しだけ、わかる。 9歳くらいのとき、それまで溺愛していたユークリッド幾何学を捨てて、ベクトルと微分の概念を受け入れざるを得なくなった、わしガキは、毎日、憮然とした気持で暮らしていた。 世界が安定していない、なんてことがあっていいものだろうか? と、毎日ひどくいらいらしていた。 Q.E.D.で、すべてが語り終えられる世界がなくなっていいはずがない。 物理学はもともとあんまり好きではないが、量子論に初めて接したときもおなじで、なんだこれは、というか、数学頭の人間には、いかにも「美しくない」気がした。 多分、日本の人が、観念としての薔薇色のお題目としてではなくて、現実に欧州やオーストラリアにでかけて実見する「自由社会」に対して持つ気持は、あれに似ているのではないかとおもう。 落ち着かない、気持がするのでしょう。 世界は、調和して、安定した存在であるべきである いま日本は、どんどん生来の全体主義社会に返ってゆく。 … Continue reading

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坂をのぼる

東京に住む楽しみのひとつは、坂に名前がひとつひとつ付いていることだった、という話は前にもしたことがある。 ブログだったかtwitterだったか、もう忘れたが、日本語だったのはたしかです。 通りに名前がついていないのに坂には名前が付いている、というアベコベの面白さについても、そのとき書いた。 魚藍坂 狸坂 幽霊坂 暗闇坂 行人坂 仙台坂 通りに名前が付いているのは座標を定める便宜だが、坂の名前はなんのためにあるのだろう? とよく考えた。 ヨオロッパの道を歩いていると、ここは可も不可もないカフカが1915年から1917年まで住んだところだ、とか、BATTERSEA DOGS & CATS HOMEはここに2016年9月7日に開所されたのだとか、英語ではCommemorative Plaquesという、時間のある一瞬を切り取って、場所に貼り付けておこうという努力がよく見られる。 なかには QUI FURONO LE CASE DI MARCO POLO CHE VIAGGIO LE PIU LONTANE REGIONI DELL ASIA E LE DESCRISSE PER DECRETO DEL COMUNE なんていうのもあって、消失したとあるが、マルコ・ポーロ自体が架空の人なので、幸徳秋水神社みたいなものなんじゃないの? … Continue reading

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日本人と民主主義 その1

国政において、全員が納得するまで、よく話しあって、その上でどう対処するか決めることを民主主義という、と述べているので、びっくりしてしまったことがある。 それは全体主義じゃないの?と述べると、きょとんとしている。 ネット上のことで、ほんとうをいうと顔が見えないので、きょとんとしている、は適切でないが、なんだか、そんな様子がうかがわれる。 全員が納得するまでとことん話しあう民主主義、というが、そもそも全員が納得するというのは、決定の場には、めいめい考え方や利害が異なる個人が集まっているのだから、COVID-19の蔓延なら蔓延という現実に対処できないのは明らかであるとおもうが、そっちのほうは、どうも「明らかである」とは考えないもののようです。 個人主義社会では「全員が納得する」unanimousな事態は例外に属する。 もし、多少の議論を経ても毎度毎度全員一致の結論が出る社会が、職場という小社会にしても国家にしてもあるとすれば、それは参加者がもともと同質性が強い天然全体主義社会とでもいうべき社会をなしているからでしょう。 あるいは全体の趨勢を読んで納得したふりをしているわけで、なんのことはない、かつてのナチのドイツ、いまの中国や北朝鮮とおなじ独裁社会そのものです。 日本は、大変つらい民主主義の歴史を持っている。 戦争に負けて、アメリカという国家からですらない、アメリカ占領軍に強制された民主主義です。 ここまで慣例にしたがって民主主義という言葉を使っているが、考えてみればすぐに判るとおり「民主主義」というのは実体がない、なんだかヘンテコな言葉で、民主制や自由主義はありえても、「民主主義」は気分語でしかありえない。 主義として民主であろうとしても、なんの意味もないからです。 でもまあ、固いことを言わずに、ここでは、日本の人がなれた言葉の「民主主義」でいこう。 衆愚、という。 誰にでもわかる考え、というのは通常、近視的で洞察を欠いている。 特に「大衆はバカだ」と述べているわけではなくて、日本でいえば例えば「七博士意見書」というものがあって、これは当時では叡知の殿堂そのものであるとみなされていた帝国大学の、七人の博士たちが政府に「はやくロシアと戦争を始めろ」と強硬に迫った、おっそろしい建言です。 言うまでもなく当時の「博士」は世俗的な権威がある存在で、号はとってみたものの、ポジションがなかったので、オックスフォードから、わざわざ地球の反対側のクライストチャーチまでやってきてリンゴ拾いをしていたりする現代のPhDとは到底同列に語ることはできない。 自分の学寮と名前がおなじだからといって、あたたかく受け入れてもらえるとおもっては困るのです。 なんちて。 この「七博士意見書」は明治大衆に、やんやの喝采で迎えられた。 ほれみろ、頭のいい博士たちだって「早くロシアと戦争を」と言っているではないか、くよくよ迷ってないで、イッパツやっちまおうぜ。 周知のとおり日露戦争で「勝った」というのは言葉の綾のようなもので、もともとドイツのケーハク皇帝にそそのかされた気の良いロシア皇帝が気まぐれに始めて、のっけから後悔した戦争で、やる気のない戦争でロシア軍が必ずやる「戦線後退補給集結」を繰り返しているあいだに、イギリスのメディアが「勝った勝った日本が勝った」と嫌がらせのような報道を連日繰り返して、腐り切っていたところにツシマで、これは世界中が茫然となるような正真正銘の完勝を日本海軍が果たして、この海戦におけるたったの一勝で、ロシア皇帝はやる気をなくしてしまった。 なんのことはない、なにしろ日本などは軍事おばけの非力な小国にしか過ぎなかったので、ロシア軍が、ほんのちょっとでも反転して、どこかの小戦線で攻勢に出れば、そのまま日本は国家ごと瓦解したが、ロシアは後半はあれほど気の良い皇帝みずからが「黄色い猿」と呼ぶようになっていた日本人たちに顔に泥を塗られた恥ずかしさと悔しさで、戦争が嫌になってしまって、放り出して、なかったことにした。 そういう経緯なので、ほんとうはロシアとの戦争は、これから国の近代をスタートさせようとしていた日本にとっては重大な判断ミスだった。 満州と朝鮮半島が生命線だ、とこのあとも続く日本人全体の判断は、落ち着いて考えれば根拠がなくて、ずっとあとで「貿易立国」を主張して狂人あつかいされた石橋湛山と政敵たちとの議論を読めばわかるとおり、つまりは国家としての自信がなかったので、満州と朝鮮というもともとは人のものである「領土」をとって、いわば強盗した冨で国を運営するほかはない、あんたはイギリス人か、な非道な国家経営方針にしがみついて、それだけが日本の生きる道だと、国民全体が信じていた。 そのほとんど直截の結果が、年柄年中GDPの70%から80%に達するというとんでもない軍事費をかけた戦争国家の成立であり、ちゃんと賞味期間が存在する兵器の性質に従って、年柄年中戦争を起こして、挙げ句のはてには、世界中の国を怒らせて、1945年には石器時代にもどされた、と表現される瓦礫の山の国土に、悄然とたちつくすことになっていきます。 ところで、ここまでの歴史を「軍部の暴走」と表現することを日本の人は好むが、なんのことはない、いまと変わらない、国民の「戦争やろうぜ」の要望が国を突き動かしていたので、いまの日本の社会が民主社会ならば、戦前の日本社会も、また十分に民主社会だった。 民主制社会ではマスメディアがおおきな役割を担っている。 いまの英語世界に目を転じると、ふつうの、特に政治に関心があるわけでもないオーストラリアのおっちゃんやおばちゃんは、アメリカやイギリス、カナダ、インド、香港、…の新聞にオンラインで目をとおしている。 典型を述べれば、講読を申し込めばウォールストリートジャーナル(WSJ)もただになるThe Australianを有料購読して、The AustralianとWSJを毎日、バタとベジマイトを塗ったトーストを食べながら読んで、午後のヒマを持て余した時間にはデイリーメールやテレグラフも読む、というくらいでしょう。 そうやってボリスが古典にかぶれたオオバカをぶっこいていたり、ビヨンセが結婚するまで処女だったことを知ってタメイキをついたりしている。 戦前の日本では「戦争はやらないにこしたことはない」という記事が出ると、その新聞は売り上げが激減した。 「どんどん戦争をやって、がんがん中国人を殺しちまうべ。 全部やっちまえば、中国人の土地はおれたちのものではないか」という記事を書くと、売り上げが爆発的に述べた。 なにしろGDPの半分以上は必ず軍事に行ってしまうお国柄で、戦争をやらなければビンボなだけなので、「あるものは使おう」ということだったのでしょう。 ほぼ国民が一致して戦争をやることは良いことだと信じていた。 それが衆愚にすぎないのがわかったのは、戦争にボロ負けして、食うや食わずの数年が終わったあと、来し方をふり返る余裕がやっと出来て、峠で過去を振り返った、やっとその時でした。 日本人は、そのとき、全体主義よりももっと恐ろしいもの、「誤解された民主主義」こそが自分たちを、あそこまで徹底的に破滅させたものの正体だと気が付くべきだった。 COVID-19では自由社会で基本的人権から始まって、個人の天賦、人賦の権利が当然のように守られている社会ほど、国民の私権の制限が速やかにおこなわれた。 … Continue reading

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「日本」に向かって歩いていく

最近、日本という国を自分がどれほど愛していたかに気が付いて、茫然としてしまうことがある。 多分、もう行かない、と決めたからでしょう。 いったい、なにが好きなのか? 日本の人のナイーブさが好きである。 この場合はnaiveと、ほんとは英語で書いたほうがいいのでしょう。 「繊細さ」という意味の日本語のナイーブよりは、例えばdictionary.comならば having or showing unaffected simplicity of nature or absence of artificiality; unsophisticated; ingenuous. と書いてある、世知に疎くて、いろいろな現実がよく判っていない、というほどの意味です。 ひどいじゃないか、と言われそうだが、ぼくは世故に長けた人間というものが嫌いなので、立派に好きになる理由になる。 日本語でやりとりをしていると、日本の人は、マジメというのがいいのか、芭蕉が折角発見したのに「軽み」ということには興味がなくて、悲憤慷慨、ものごとを思い詰めて、「そんなことは許されない」というような論調が好きである。 あるいは「役にたつ」ということが、とても好きで、あ、それはこうすればいいんですよ、と軽い気持で述べたりした日には「情報ありがとうございました!」と若い参謀のような答えが返ってきて、面食らうこともある。 どうしてそういう国民性になったのかという詮索には、もうあんまり興味がないが、日本の人がやや過剰に生真面目なのはたしかで、むかしはそういうことが嫌だったが、時間の経過がつくる距離というものは偉大なもので、いまは、日本の人の、そういう風変わりな特性こそ、好ましい、と感じる。 むかしは、といえば、日本語で遣り取りできるようになってから、若いタワシは、日本が表面だけ民主制で、実体は揺るぎもしないほどの全体主義社会であることが不愉快で、よく日本語でカッカしたが、考えてみると、ほぼ同じ国情のシンガポールには腹をたてたことはなくて、つまり、日本にばかり過剰に期待して、いわば「ないものねだり」をしていただけで、全体主義に乗って、またぞろ侵略戦争に乗り出されては困るが、別に民主主義じゃなくたって、日本が日本である魅力には遜色がない、と思うに至った。 日本が全体主義社会であるのは、簡単にいえば、さまざまな日本文化のうち、最も日本人が憧れて、自己像として考えることを好む「武士道の日本人」が、そのまんま、わがままよりも規律を、生の謳歌よりもストイックな死を好むことによっている。 日本文明の最大の特徴は…前にも述べたが…死の側から生を眺めていることで、その哲学に必然的に伴う個人の否定が、日本社会全体を全体主義礼賛の世界として運営されることに役立って来ている。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2020/03/05/bushido/ マヤの文明に大変よく似た価値体系で、日本は、そうして西洋文明によって理解されることを、いまに至るまで拒絶してきた。 言語を習得するということは、その言語を使うひとびとの血のなかに分け入っていくことであるのは、言うまでもない。 この世界は言語の数だけ別々に存在する。 なぜなら「現実の世界」は言語による認識が実体で、言語が異なれば、眼前にある同じフォークでさえforkでありforchettaであり、fourchetteで、tenedorで、fourchetteを考えれば特にわかりやすいかもしれないが、おなじフォークなのに別のものです。 日本文明が小さくとも、あきらかに別個な独自の文明であるのは、いまでは広く認められていることだといっても、日本語という世界への風変わりな認識が日本人とおなじ視点で出来なくては、なぜ日本人がこれほど奇妙でファンタスティックな世界を生きているのかは到底理解できない。 ひとことでいえば、日本は、ほかのどんな文明にとっても “N’importe où! n’importe où! pourvu que … Continue reading

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災厄日記 その9 5月10日 ノートを閉じたあとで

まだレベル3で最高警戒レベルのレベル4から、ひとつレベルがおりただけだが、拭いがたいというか、人々の心の奥底から染み出すようにして「やれやれ、ウイルス禍がやっと終わった」という安堵の気持ちが社会全体から滲み出ている。 落ち着いて考えれば、大層危険な気分で、現にウイルス対策ではニュージーランドからみれば先生にあたる韓国は、警戒レベルをゆるめた途端に明洞のレストランやカフェにどっと人が繰り出して、見事に新しいコミュニティ感染の集団が出来てしまった。 救いは検査体制に余裕が出来て、新規感染者が発生しそうなスーパーマーケットなどでは入り口でランダムに検査をおこなえるほどになったので、新規感染者ゼロが続いたあとに新規感染者が出ても、ああこれは大変だった老人ホームで介護をしている人、これはコミュニティ感染が発生した高校の生徒、と感染経路がはっきりわかっていることで、これがひとりでも判らなくなると、またレベル4に逆戻りなので、自然、はしゃぎがちなひとびとのブレーキになっている。 ニュージーランドは、なにしろリソース不足で、減圧室ベッドはたった150床、感染経路をいちどに追える人間の数も30人だかなんだかで、ビンボでもあって、ことのはじめから、いきなり国境を封鎖して、家から出るな、レストランとバーはもちろん閉鎖、 テイクアウェイ? 夢を見るんじゃありません、で、たいそう強烈なロックダウン体制に入った。 最近は20年ほど続いたバブル経済のせいで、オカネがどんどん市場に流入して、やや様相が変わっていたが、もともとはビンボ習慣で、外食なんて特別な機会にしか起こらず、まるで昔の連合王国のようにして、なんでもかんでも家のなかですませる習慣で、友達たちと会うのも、テニスも、泳ぐのも家ですませる。 まさか家の庭で40フィートのヨットを走らせるわけにはいかないので、マリーナくらいには行くが、少し裕福な家でいうと、そもそも「価格を観に行く」ときくらいしかスーパーマーケットに出かけることもなく、散歩も家の庭ですませる人が多くて、ロックダウンと言っても、スーパーマーケットから配達される時間帯のスロットがあっというまに埋まるようになって、当初2週間くらいは、誰かが午前零時をまわって新しいタイムスロットがあくのを手ぐすねひいて待つくらいしか、普段の生活と異なることはなかった。 自分の暮らしを考えると、習慣にしていたポケモンGOのジム巡りにでかけなくなって、あとはスーパーマーケットから定期的に配達されてくる肉類とは別に贔屓にしていたハラル肉店に行けなくなり、お気に入りインド料理屋に行けなくなったくらいで、他には変化がなかった。 言語の習得は、その言語が使われている社会への関心を自動的に呼び起こす。 日本語は日本社会への興味を呼び起こすことにおいて、他の言語より強い誘引力があるように見えるのは、日本社会が日本語という理解できる人間の数が少ない言語の壁にみっちり囲繞されていて、秘密の小部屋じみているからでしょう。 COVID-19についても、主にツイッタを通して、誰か日本語の友達が記事を紹介していれば見に行ったりして、主にNHKのサイトと朝日新聞、日経新聞を通じて、日本の状況について日本語で書かれた記事も読んでいた。 期待通り、と言っては日本の人に失礼かもしれないが、日本は独立独歩で、よく言えば我が道を行く、悪くいえば目を放した隙にふらふらとあさってのほうへヨチヨチ歩きでいなくなってしまう幼児の振る舞いで、検査を抑制する、という不思議な方角へ歩き出していた。 他にも検査なんてマジメにやらなくていいや、という国があったのは、この世の中にはherd immunityという多分に優生学的な思想を背景に持つ「感染したがなおって抗体ができたひとの壁をつくって、最終的には弱者も守る」という強者の思想に基づく衛生思想があって、一個の人間を感染確率、感染から治癒する確率、死亡確率、などのデータがくっついた点とみなして、ちょっとおおざっぱに計算してみると判るが、数字の上からは悪くなくもない考えです。 案の定、差別思想は昔から大好きなイギリス人は、これにとびついて、大失敗することになった。 当初考えたほどイギリス人はCOVID-19に対して強くなかった。 同じ人間ながら、当たり前なんだけどね。 Brexit以来、とっくのむかしに死亡した英帝国の長い影のなかで考える習慣がついてしまっていた連合王国人は、ここでも、意識にのぼってすらこない優越の思想に拠って、オオマヌケな方針をとってしまう。 そういう国がいくつも出てくるのは、特に「おれたちつわもの」が好きな白い人主導の国において予想できたが、日本は意外だった。 極めて優秀な全自動検査機が日本製なのを知っていたからで、これとドイツ製だかなんだかしかなくて、比較すると優秀なのは日本製なんだよね、という話を訊いていたからでした。 ところが始まってみると、意外や、どころではなくて、一向に検査をやらなくて、どうも記事やセンモンカのひとびとの話を読んでいると世界でただ一国、この全自動検査機を信頼がおけないと敵視しているのは日本のひとびとで、例の自分でこさえた標語、 「何もしないためなら何でもする」ひとびとという表現を自分で思い出したが、あとのことはあまりに面妖なので、それきり、ニュースを見ても、へえ、と思う程度で、日本の状況について考えるのをやめてしまって、いまに続いている。 ただ「何もしないためなら何でもする」日本の人の国民性が、以前に考えたような失敗を恐れる気持や縄張り主義、減点主義の評価方法の混淆体というような判りやすいものではなくて、ちょうど幕末の老中会議に似た、文化のもっと奥深い場所に根ざしたなにごとかに淵源をもつことがわかって、また日本文化について考える楽しみが増えてしまった。 日本のCOVID-19対策の印象は、ここからあとは希望的観測ということになるのかも知れないが、神経症的と述べたくなるほどの、細心な普段の生活での気の配り方から見て、イタリアやアメリカのような、アウシュビッツさながらまとめて屍体を処理したり、通りに駐めた冷凍トラックに屍体を放りこまねばならなくなるような感染爆発が起きるようにはおもわれない。 D-dayを上陸舟艇に身を屈ませて海浜に波をかきわけて走りこんでいった個人の視点から視ると、おおきく運に左右された。 最悪だったのはオマハビーチに上陸したGIたちで、屈むどころか障碍物の後ろに伏せていてさえMG42の弾丸に撃ち抜かれる人間が続出した。 戦争に譬えるのは、本質的によろしくないが、COVID-19の場合は、戦争の比喩が大嫌いだと自ら述べるアーダーン首相ですら「これは戦争だ」と言い切るくらいなので、許してもらうことにしよう。 北イタリアのロンバルディアなどは、オマハビーチそのもので、イタリアのひとたちの、いつもひとの温もりと接しないではいられない個人と個人の物理的距離が近い社交的な社会習慣もあるが、最も濃密でタイプとして強烈なウイルスがたまたまロンバルディアを襲ったのだと考えるのが良いような気がする。 ロンバルディアのコモという町の近くの、スイス国境に面したチェルノビオという、途方もなくおいしいジェラートの店が有る、ちいさなちいさな町には両親の別荘があって、縁があるので少し判るが、ロンバルディアなどはイタリアと言っても「イタリア語を話す欧州」という色彩が強い地方で、公平に述べて、衛生観念も日本の人より発達している。 そういうことは、たとえば「手の洗い方のていねいさ」というようなものを観察しているだけでも、よく判るものです。 だからイタリア人の衛生観念は、という随分盛んだった議論が的を外れているのは、特に考えなくても判る。 手前味噌だが、日本では別名を立てて「スカイプ飲み会」というらしいが、なに、ずっと前の、スカイプがサービスを開始したころからやっていることで、スカイプで話しながら、酒を飲んで、ゲヒヒヒヒと笑い転げたりするのは昔からのことだが、疫学研究者の友達と話したときに、ふと友達が口にした「SARS-CoV-2って、数が多くて密度が高いように見えるんだよね」がイメージになっている。 なにしろこっちはトーシロなので「一定面積あたりのウイルスの数」というイメージが新鮮だったからなのかも知れないが、そのイメージで、ずいぶんいろいろなウイルスの不思議な振る舞いの説明がつくような気がしました。 日本のCOVID-19を巡る状況を検討したり、批判したりする気持は、あんまり起こらなくて、特にいままでやりとりがあった、日本の友達たちの顔をひとりひとり思い浮かべて、ただ「生きていてください」と祈っています。 祈っています、って、もうほんとうにニュージーランドはCOVID禍が終わっているようなことを言っているが、こっちだって、まだまだ判らないわけだけど、社会のムードというものから自由にはなれなくて、勘弁してもらうほかはない。 ありのままに気持を述べて、祈っていて、こういうときは人間は桁外れにわがままで、自分が多少でも知っている日本の人が無事であることを祈っている。 レベル4でも、おもわず庭師のひとに握手の手をさしだしたりしてモニに叱責されたりしている自分より、日本の人のほうが、ずっと気を付けていて、ずっとダイジョブなのは判っているが、それでも、「祈っています」と書かないではいられない気持です。

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