名前のない土地

こけつまろびつ、という日本語は、こういう状態を言うのだろう、と自分で考えてもマヌケなことをおもいながら、走り去っていくひとを見ていた。

鎌倉ばーちゃんの家に遊びにいって、いつもの悪いくせで、皆が寝静まったあと大酒(たいしゅ)して、酔っ払うと、草木も酔い伏す丑三つ時、鎌倉ではいちばん好きな海岸である材木座に行って、素っ裸で泳ぐことがあった。

気持いいのよ、すごく。

海にも砂浜にも誰もいないところで泳ぐ。
沖に出て、空をみあげて、ぷかぷかと浮かんで遊ぶ。

あー、いい気持、とおもいながら砂浜に泳いでもどって、さて自分の服はどこに脱いだんだっけ、と立って考えていたら、背後で、ぎゃああああ、という声がした。

ふり返ると、40代くらいの男の人が、顔をひきつらせて立っている。

ひきつらせている、といっても、材木座のあの辺りは暗いので、よく見えないんだけどね。

次の瞬間、その気の毒な男の人は、まるでダメな刑事ドラマの演技のように、ときどき転んだりしながら、駈け去っていきます。

わしをなんだと思っているのであるか。
鬼ヶ島から、ドンブラコと流れて来た鬼か。

ガイジンだからだろうか。

それとも、日本の男の人よりもおおよそ30cmちょっと背が高くて、でかいからかしら。

きみは、「なんで、そんなことを書いているの?」とおもうであろう。

日本のことを考えていたんですよ。

日本のことを思い出そうとするが、なにしろ最後に滞在してから十年以上経っているので、だんだん記憶がこすれて滲んできて、ぼんやりして、水に映った風景のようです。

夜更け、暗闇のなかにぼんやり立って空をみあげている巨人たちのような電波望遠鏡がある野辺山や、やはり深更になって、用水に沿って森のなかを歩いていると、置き捨てにされた売春婦たちの無縁仏がならぶ墓地から、けものなのか、地上に残っている魂なのか、なにかが微かに動く気配がする追分、日本の精霊達が向こう側から提灯を先頭に歩いてやってきそうな発地の畦道、

旧軽井沢や広尾は、土地としては大層退屈な町で、失敗だったが、
いったん佐久に出て、そこから向かう「名前がない土地」は素晴らしかった。

長野県で、だんだん判ってきたのは、良い場所を見つけようとおもったら、地図をひろげて、名前がついていない土地を見つけるのがコツなのでした。

このブログにも、よく出てくる、その道をずっといけば山梨の県境に至る、細い、山間の、だが妙に立派な舗装がほどこされている道などは、モニとの秘密のピクニックのスポットで、落ち葉が覆い尽くした道路を見れば一目瞭然、クルマなんて一台も来やしないので、敷物を広げて、シャンパンを開けて、のんびりサンドイッチを食べた。

この森は、たいそう美しい森で、雑木林というのか、日本やカナダに特徴的な、色とりどりの葉がつく、さまざまな落葉樹の混淆で出来ていた。

やはり佐久の、天狗山トンネルというトンネルの向こう側に広がる、広大な稲田や、深い豊かな森林の記憶で、自分の日本への気持が、どれだけ洗浄されたかしれない。

夏の葉山の海、秋の布施や立科の森、

軽井沢も、町は退屈を極めるが、ニュージーランドに移動するので、いつも数日しか味わえなかった、冬の、凍り付いた森の姿の美しさには息をのんだ。

クリスマスが近付くと、町中で電飾を飾るお祭りがあって、その頃になると、広尾からクルマでいったん軽井沢に行って、帰るときに地元の別荘を面倒みてくれているひとたちに冬の「水抜き」をお願いしてから、とって返して、すぐに成田へ行く習慣だった。

日本の文学とかなんとか言っているが、なんのことはない、おもいだすのは鐙摺の山の背後に聳えたつ積乱雲、凍った森、春に咲き乱れるこぶしの花で、自然ばかりで、落ち着いて考えてみると、自分がいまでも日本にゆるがない好感を持っているのは、あれほど乱開発に痛めつけられても、ふらふらになりながら立って、まだ美しい存在であることをやめない、自然のせいであるようにおもえる。

名前がない土地を言葉にして呼ぶことはできない。
「あのあたりに地上の風景とはおもわれない美しい土地があった」と漠然と思い出すだけで、検索も出来ないのだから、画像として甦らせることもかなわない。

命名されない美しさは、しかし、自分にとっては日本と日本語そのもののことで、自分の内部に感覚としてだけ残っている「美しい日本語」や「美しい日本」は、これのことです、と手のひらに指して明示することができない。

それでもたしかに「美」は風景から自分の魂のなかに歩みいって、日本語とともに、住家(じゅうか)をさだめていることが感じられる。

日本の人が、もちろん、よく知っているように、東京から成田へのJRやクルマから見える風景は、水田に囲まれたかつての地方豪族の館跡の森が点在する、世界でも最も美しい空港への道のひとつです。

あの暗い照葉樹と水田がつくる風景を厭うひともいるが、とても好きで、定宿のヒルトンの部屋から外を眺めて、また来るぞおおお、と力んでいたころがなつかしい。

荷物を解いて、リフトに乗ってバーにおりていくと、
「ヘイ、ジェームス! あなた、また日本に来ていたの?
ほんとにこの国が好きなのね」

と、前に、たまたま顔見知りになったユナイテッド航空の女の人が呆れている。

そう。

好きなんだよ、きっと。

でもね、ぼくが好きなのは、きみが知っている浅草でも、銀座でもなくて、日本という国でもなくて、きみが知らない、名前がない、まだ名付けられていない土地なんです。

名付けられないことによって、きみが見たことがない土地に、ぼくは立っている。

この地球の上に、そっとおかれた、宝石のような国に、また、もどって来る日があるだろうか。

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8 Responses to 名前のない土地

  1. Koichi Oda says:

    日産のTVCMで有名なケンメリが自動車事故でなくなったとかいうトンネルをすぎて、野比海岸が見えてきたあたりで、思いがけないものを見たのを思い出した。ちょうど今頃の天気の良い朝、自転車でいそいでいたとき、ふと浜をみると、長身の男性が一糸まとわぬ姿でゆっくりと歩いていた。自分の目をうたがって二度見をしたが、ヤスだか銛をもっている。しかも水着のあとがなく全身よく焼けている。漁師なのだろう?日本人にしては長身で、髪の毛は短く刈り込んでいたが、白かったように見えた。もう高齢なのか、それにしては筋肉質のよい体格だったような気もする。出勤のためにいそいでいたので見たのは一瞬のことだったが、まぼろしのような、その刹那、そこだけ別の時代が現出したような、そういう面白い体験をした。そのあたりは、よく幽霊がでるというので知られているところでした。

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  2. mynameisa2c says:

    またいつか、戻ってきてね。

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  3. 「名前を失くした場所」なのかもしれないと思いました。

    30年前から通いつめていた場所があって、はじめの頃はマムシがウヨウヨして地元の人も入らないようなところだったのが、20年前頃から自然公園が整備されるのとともに、コアエリア周辺にはフェンスが立てられて入れなくなってしまいました。

    数年たって訪ねてみたら、コアエリアの入り口に当たる場所には名前があって、かつて豆腐屋があったのだと看板が立っていてびっくりしたことがあります。ダム湖のほとりでしたが、湖底に沈んだ村から人々が坂を登って買いに来ていたのだとか。

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  4. メグ says:

    私は、子供の頃、日本の田舎町に住んでて、そこは、とても自然が綺麗な町だったはずです。でも、私には学校でいじめられたり、町内会のイベントで親も子も嫌な思いをした記憶が染みついてるせいか、そこの自然の美しさの記憶がでてこないです。
    逆に、私は米国に引越してから、親と一緒にゲチスバーグに行って、本当に何もない野原になってる戦場跡を行進したときの風景は、驚くほど鮮明に覚えてます。キャンプ場で、夕方になると鹿が群れでやって来て草を食べてたり、白と茶色のなんとなく間抜けな模様の牛(Simmental Fleckvieh Cow)の親子がいる農場で、柵の外から小鹿が彼らの様子を眺めてる光景を次から次へと思い出します。子供同士「うわっ、変な模様のひとがいる!」と興味津々で眺めてる様子が可愛くて、このとき初めて、田舎暮らしの良さ・田舎の美しさを実感しました。
    一度、母親と二人で「日本も悪いところではなかったから、嫌な思い出のない場所、松江とか金沢に行って、思う存分、観光をしよう!」と計画を立てたけれど、フクシマの原発事故が起こって計画は立ち消えになってしまいました。 私は日本の田舎の光景はもう思い出せなくて、もう日本に行くこともないと思います。 自分の生まれた国で、自然が美しいことは知ってるけど「自分は日本とは相性が悪かったんだなあ…」と思います。

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  5. Thoma.q says:

    Beautiful.
    A good article.
    がめさん、がめさん、これ良い記事ね。

    The land that has no name.
    Yeah,I know those.
    I know those are, in this world.
    ええ、私、知ってますよ。
    私も知ってますよ。
    名前の無い場所、土地、空間、地平。

    世界中にそれはありますよね。
    世界は至る所、其のような。
    本当は世界は名前のない場所で埋め尽くされていて。
    This world is like “continuum”, you know, so there are “infinite” points where one can stand.
    名前のある土地、場所は”finite”、詰まり”countable”、『たかだか可算』なのね、本当は。
    So, all we need to get there, the land that has no name, is to know where we stand is whether it is or not whenever we see the landscape.

    As you said, I think Shinshu,you know ”信州”,Nagano prefecture,has good lands.
    信州良いとこよね。

    And I guess Hokkaido is also a very good place.
    There are a lot of beautiful lands that have no name.
    And Hokkaido has a different history from other Japanese area.
    日本の他の地域とはまた違ったcultureが流れてるのね。
    沖縄もそうかな。

    If you had a chance, it would be interesting to visit and see what and how there is.

     それから、
    日本のdemocracyの話は、
    まだ私はcommentできずにいます。
    I fear it’s possible for Japanese to have no principle of 民主.

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  6. ひらづみ says:

    ほんとに美しいところは、日本では名前をつけ言葉にすると変わってしまうものなのかもしれません。
    区別され切り取られてしまうと存在できないかのようです。

    ガメさんの文章を読んでいると、いつのまにか、ガメさんの目に映るままの景色を一緒に見ているような気になります。
    木々の葉の、一枚一枚まで見えてきそうな日本の風景も、行ったことのない国の街角の喧騒も。
    高い視点から語られる社会の話も、全部理解できなくても視界が開けたように感じるのです。

    Liked by 1 person

  7. niitarsan says:

    東京から成田へ向かう途中。まさにその辺りに住んでいます。都内には身近な緑が少なくて子育てをするにはこの辺りならいいでしょうと考えました。ちょっと自転車で行けば古城跡や野鳥の住む森や谷津田や田園風景が楽しめます。とても気に入っている風景です。

    でも何年かに一度、生まれ故郷を訪れるとなるとまずその道中から楽しめる澄んだ空とそこに浮かぶ雲の形、街に降り立てば川岸から望む故郷のありがたき山、そしてここでも空と雲。私はこのためにここへ戻ってきたのだ、と暫し感慨に浸るのです。

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  8. mikagehime says:

    私は田舎の記憶はないけど
    (軽井沢はほんの少し知ってるけど) 、私にも 自分の記憶の中だけにある 地図上で道順を説明出来ない、そして今はもう変わってしまった 愛おしい景色があります。

    最近 意識して写真を撮る様にしてる。景色は無くなってしまうから。
    こんなにもどんどん、
    街は変わってしまうのだね。
    crash&buildの国。

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