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ツイッタの友だち

ジャック・ダーシーが満面の笑みを浮かべて安倍首相と握手している写真を見て、げんなりしてしまった。 ダーシーのことだから、なにか日本政府に用事があって、首相に会えるなら会って話をつけてしまうのがいちばん早いと考えたのかもしれないが、カーター大統領と会って胸をそらせて握手する写真を撮らせて悦にいる中松博士じゃあるまいし、アホらしい、という気持が起きる。 twitterは子育ての友だった。 子供がよじのぼるジャングルジムの役が育児における主要な役割だったが、髪の毛を引っ張られてイテテテをしたり、股股さんをおもいきり膝蹴りされたりしながら、日本語の勉強をかねて、日本の社会の問題や、だし巻の作り方について侃々諤々と議論するのは、なかなか楽しかったと言わざるをえない。 頭のなかでは、日本語ツイッタはコンピュータで、英語の種々のSNSはスマートフォンでやることになぜかなっていて、習慣化して、1970年代の日本語ならば「ながら族」と言ったのだと思うが、いちばん多いのは傍らの40インチスクリーンでiTunes、Netflixやamzon.comの映画配信を見ながら、とつおいつ、あるいはだらだらとツイッタに書き込む、というパターンだった。 いま見ると2012年の7月からツイッタをやっていることになっているが、その前もアカウントを開いて、フォロワーが1000人になるとアカウントを閉じる、というのを何度かやっていたので、その1年ちょっとをあわせると、8年くらいもツイッタと付き合ったことになる。 日本語インターネットコミュニティの常で、時間が経つにつれて、やっと使い方が判るようになるのかなんなのか、ばーかーな人たちが流入して、品性が卑しい人間を見るのがなにより嫌いなので、うんざりさせられたり、友達と日本語で話す楽しみはあるにしても、こんなアホな人間たちが視界に入ってくるような地獄を通行させられるくらいだったら、やめちゃったほうがいいよね、という気持になったりしたが、twitter社の勧めに従って、どんどんブロックすることにして、 だいたいブロックが3万人を越えるころから、あんまり嫌なことに遭遇しなくなって、落ち着いて友達とよもやま話が出来る環境になってきた。 ついでにいうとSEALsの頃には、ネトウヨの人がたくさん来て、当時はブロックリストなるものを導入して、もっとブロック数も多かったが、最近は、ついにネトウヨのみなさんにも呆れられてしまったものと見えて、ご無沙汰なので、ブロックリストも外しているが、あのブロックリストというのは、友達も入っていたりして、それなりに不便なところもあるものでした。 あんまり、よいものではなかったような気がする。 3万人もブロックしているとカッコワルイので、ときどき見直して、ブロックを解除するが、いったんブロックされたのに話しかけるのが難しいのは人情というもので、ああなったりこうなったりして、これから先もくちを利く機会がない人は4万人を越えているのではないかと思います。 意図したわけではなくて、たまたまだが、フォロワーが1万人を越えるような人は、あるいは、もともとこちらが期待するからかもしれないが、たいていブロックしているので、おもしろいのは、わし友がなぜかチョーよいことを述べて、おお、と考えてRTしても、だいたい300くらいまでしか数が伸びない。 ほとんどコピペなんじゃない?というような、おんなじツイートを他の人がやると3000というようなRTになるのを見たことがあるので、友達には悪いね、というか、ちょうど疫病のワクチンを大量の人間に接種しておくと、個々には見えにくくても、社会全体としては疫病の流行が抑えられるのと同じ理屈で、RTが失速する。 ブロックをしない場合と異なるのは、しかし、そのくらいで、ブロックを大々的に増やしたことによって得られた快適さとは比べものにならない。 いま、この記事を書いている時点ではフォロー数が、いつもよりずっと多くなっていて、40人を越えているが、これはだんだんROMに変えていくための実験中だからであって平常な状態では20人内外です。 もともと正気を保つためにフォローしている何人かの英語人の友達は、まったく変わらなくて、5人くらいいる。 作家、英語教師、大学教師という顔ぶれで始めて、初めは10人くらいいたが、大学教師のひとたちは、あまりに文学上の意見が異なるので、めんどくさくなって全部フォローをやめてしまった。 差し引き、日本語アカウントでいつもフォローしているのは15人くらい。 見ると判るが、あんまりツイートしない人ばかりなので、なんだか夜更けの竹藪をフォローしているようなものです。 こちらは、見れば判るが、英語アカウントにいちばん多い、お友達アカウントに直截宛てた形の、よもやま話アカウントになっていて、ずいぶんスタイルが違うんですね、と言われたことがあったが、英語では極く標準的なスタイルのツイッタの使い方で、日本語ツイッタのように、ややカラオケステージ風というか、あんまりたくさんの人にいっぺんに話しかけるというスタイルを採らない。 見ればすぐに判るが、多数の人間の目を意識してツイートするのは、英語では殆どの場合、自分が有名人であるという自覚がある人のアカウントで、現に、自分の友達で有名人というカテゴリに入る人達を見ると、複数アカウントを持っていて、 こっそりやっているほうではWOWのギルドについて話して喜んだりしている。 よく「フォローを増やさないと様々なタイプが違う人と意見を交換できないではないか」と昔は言われたが、考えてみると、自分の生活でも、さまざまなタイプの人と話したりするのは億劫なので、なぜツイッタで「いろいろな異なった意見」を聞かねばならないのかピンとこない。 そもそも、普段の生活では、なるべく人と会わなくてすむように、なるべく友達の数が増えないように、念願して暮らしているのに、日本語ツイッタでだけ、方針を変える必要もないような気がする。 いまからもう、笑おうとひきつけの準備にかかっている、そこのきみ、 笑ってはいけません。 わしは、生来、すごい人見知りなのでもある。 Twitterという新しい窓を壁にしつらえてから、だいぶん経つので、日本語ツイッタを通して見知っているひとたちの境涯も随分変化している。 靴下をはいたら右と左が違っていたことまでツイートしているので、ヘンな人だなあーとおもってフォローしはじめたもじんどん @mojin は、スイスのチューリッヒ工科大学から、ハワイ島へテンモンな職場が変わっている。 このあいだまで22℃にもなると夏だと言って喜んでいた同じ人が、おなじ22℃で「寒い」ぶるるっ、と述べている。 正義心の強い編集者だったミナ @MinaMaedaは、たしか、退職した頃に会ったとおもうが、 たったひとりで小田急だったかの駅の改札脇に立って、安倍政権に抗議していたりしたが、自分の生活のデザインをまるごと変える決心をして、Grosgrai(グログラン)というmillinery(帽子デザイナー?)の会社をつくって、いまは居住ビザをとってオーストラリアのアデレードに住んでいる。 ブログを読む人のほぼ全員が、これを書いているやつは頭がおかしいのではないか、と確信していた頃から、ずっと暖かい気持で読んでくれていた一色登希彦 @ishikitokihiko さんは、「日本沈没」というマンガで描かれた預言の書のような不思議な本を書いたが、いまはマンガを描く道具をおいて、四国でカフェを自作自営する悦びに浸っている。 でも登希彦さんが、隠しようもなく持っている創造への内圧から見て、こういう余計なことをいうと本人は怒るだろうが、どうせまたマンガか文字か、たいへんな本を書くに違いないのではなかろうか。 やはり、終始あたたかい気持で接してくれて励ましてくれて「おれたちは仲間」とまで述べてくれた南Q太さん @murasakibashi は、本人はなんだかあっさり決まったように言っているけれども、ほんとうは、めちゃくちゃな難関であるアーティストプログラムでビザをとって、ベルリンに引っ越していった。 ベルリン、知っていますか? 文化からいうと、ベルリンは世界の中心も中心、まるで新しい文明が火口から噴き出すようになっている町です。 … Continue reading

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満州という原泉

銀座ワシントン靴店が戦時中は、東條靴店と改名していたのだ、というのは前にも聞いたことがある。 いま、おもいだしてインターネットで見てみると、アメリカやイギリス名前のものはとことん目の仇にされたので「ワシントン」という名前では商売が出来なかったのは、日本の社会というものを考えれば、当たり前であるとして、東條のほうは東條英機の名前に迎合したのだと、堀田善衛の「若き日の詩人たちの肖像」に書いてあったような気がするが、そうではなくて、創業者が東條たかしという名の人で、一石二鳥で、名前を時の独裁者の名前に変更してしまったのだと想像がつきます。 独裁者、と書いたが、よく言われるように東條英機くらい独裁者のイメージにあわない人間はいない。 見るからに癇がつよそうで、陸軍幼年学校のガリ勉受験生がそのまま将軍になったような風貌の人で、昭和天皇にマジメさを溺愛されて戦時内閣の首相にまでのぼりつめた、この人の貧寒とした勤勉さが風貌によく出ている。 日本の歴史を勉強する外国人が、戦争へと突き進む日本の1930年代を学習していて、やや踏鞴を踏む気持になるのは、ファシズムの時代なのは一目瞭然なのに、では言葉の狭い意味でファシストがどこにいるのかというと、発見するのが難しくて、集団統制主義というか、そういうものならあちこちにあるが、ドゥーチェやフューラーは、どこにも存在していなくて、ちょっと途方に暮れてしまうようなところがある。 日本の国民が熱狂したファシズムの、向こう側で手をあげて答礼しているのは、実は日本人の独裁者でなくて、ドイツのヒットラーであり、イタリアのムソリーニ、で、読んでいて、こんなへんなファシズムがあるだろうか、という気持になります。 満州は戦前戦後の日本の秘密を解くおおきな鍵であるとおもう。 少しでも当時の本を読めば、「満州に眠る十万の英霊と費やされた二十億の国帑をお前は見捨てろというのか」 という言葉がいかに強力で絶対の呪文で、戦争の拡大に異論を唱えるひとびとが、民間も軍人も、男も女も、このひとことで沈黙を強いられたかは、すぐに見てとれる。 当時の日本政府は、イギリス人にとっての新天地アメリカに満州をなぞらえて、国民の入植をすすめてゆく。 軽井沢の夏の家を出て、ホテルの前の鹿島の森ゴルフ場を右に曲がって、離山の道をのぼってゆく。 鶴溜の交叉点を千ヶ滝の方向へおりて、トンボの湯をすぎて、嬬恋村への道をわたって1000メートル道路にのぼる。 いまならば道脇にビル・ゲイツの巨大な別荘が建っているはずの千ヶ滝の外れを過ぎると、大日向という村に出ます。 鎌倉と東京の夏の猛暑に辟易して、モニさんとふたりで、夏はほぼ半分を軽井沢で過ごすようになってから、だんだん上田に買い物や食事に出ることをおぼえて、国道18号線の夏の渋滞を避けて、1000メートル道路を往還するようになると、そのうちに、大日向のひときわおおきくて目につく「昭和天皇行幸碑」に気が付くようになった。 クルマをとめて、地元の人に聞くと、普段は愛想がよい人達が、困ったことを聞かれでもしたように、例の、日本人のおもしろいジェスチャー、鼻の前で手をパタパタさせて、逃げるようにいなくなってしまう。 仕方がないので図書館へ出かけて調べてみると、この大日向村は、戦前はもともと千曲川の向こうの佐久穂にある村なのでした。 それが国策で、一村を挙げて満州に移住している。 分村移民と書いてある記録もあるが、元の大日向村も敗戦とともに消滅しているところや、どうやら国策映画として取り上げられたところからみても、一村移住のモデルケースであったようにみえる。 690人が満州に渡って、例のソ連の侵攻や、満州大日向村をつくるために日本政府が強制退去させたらしい中国人たちの蜂起にあって、日本に這々の体で帰りついたときには、たった310人に減っていた。 この大日向村のように、満州へ渡った日本「満蒙開拓団」は27万人、帰国できたのは19万人弱で、集団強姦、集団自決、あるいはソ連兵に撃たれ、戦車に蹂躙され、もともとの住民だった中国人たちに殺された日本人たちは8万人を数えたことになって、ソ連兵はともかく、戦後の残留孤児帰還でさんざん報道されたらしい悲劇の美談は実は少数の事例にすぎなくて、なんの理由もなく自分たちの土地を奪われて賠償もなく追放された地元中国人たちの怒りが、いかにすさまじかったかは、中国側の証言を聞いてみると、あわてて耳を塞ぎたくなるくらいのものです。 五族協和、王道楽土という、なんとなく人をバカにしたような、うそらさむいファンファーレのような高邁なキャッチフレーズは、だからどうしても必要なものでした。 政府がいくらピューリタンのアメリカ開拓と重なるイメージをつくろうと努力しても、ほんとうは、もともと他国民の農場があった土地なので、高邁な理想を述べなければ決まりがわるい、ということだったのでしょう。 この満州に、みっつのビッグネームがあって、 鮎川義介、松岡洋右、そして岸信介をあわせて、「満州のサンスケ」といういかにも口元が汚なさそうな渾名で呼ばれていた。 鮎川義介は、この会社得意のお家騒動でカルロス・ゴーンを追いだしたのでもっか話題になっている日産自動車を創始した政商。 松岡洋右は、いわずとしれた当時の「言うべき事を言って国民の溜飲をさげせしめた」人気外務大臣で、「連盟よ、さらば」、国際連盟をかっこよく脱退して、世界中を口あんぐりにした日本風の「快男児」です。 そして三人目の岸信介が満州国国務院の官僚トップとして、満州鉄道の鉄道以外の事業の分離くらいを皮切りに、満州経営に辣腕をふるった国家社会主義経済のプランナーであり、リーダーである人でした。 で、ね。 突然、「で、ね」という妙にくだけた調子で話かけられても困るだろうけれども、鮎川と岸は血でつながった親戚、松岡と岸は縁戚で、この3人の長州人が語らって、表面は対立してみせたりしながら、あきらかな裏での談合で、満州鉄道から完全に切りはなした、日立製作所、日産自動車、日本鉱業、戦後の日本の経済成長の中核をになった企業群をおおきなオカネの袋でつつんだ従業員15万人を越える巨大財閥日産コンツェルンを中心にみていって、初めて、 「あっ。ここに日本のファシズムがあるではないか」と納得がいく。 岸信介の満州経済プランには、はっきりした、誰がみても判る特徴があって、「産業開発五カ年計画」というような名前がついて、名を聞いて、ピンとくる人が多いとおもうが、そう、満州の隣で、ちからわざで貧しいスカンピン農業国から重工業国に短期間に大飛躍を遂げた共産主義ソビエト連邦のおおきな影響を受けている。 岸信介が、西洋人にわかりやすいファシストであったのは、多分、この社会主義との類似というファシズムには欠かせない要素のせいです。 戦後、この共産主義を方法論として取り入れた反共主義者で、自分をあやうく処刑場につれていきかけた骨の髄から憎むアメリカの諜報機関CIAのエージェントとして日本の首相をつとめた、比較的わかりやすいといえるパワーポリティクスの権化の政治家は、戦後日本の大衆運動のちからで、政界からおっぽりだされてしまうまで、吉田学校の政党保守勢力と本質的に対立する隠れ右翼として政界におおきなちからを貯えてゆく。 日本の戦後史のわかりにくさは、その歴史の淵源が満州にあるからでしょう。 日韓関係ひとつにしても満州国将校だった高木中尉、すなわち朴正煕は、後に大韓民国の大統領になるが、この人も岸信介同様、満州時代については、肝腎なことはなにもいわないで蓋をしてしまうことになる。 もっと細かいことに目を向ければ、ほら、日本のマスメディアが中国と韓国の反目を、ごく楽しそうに報道するでしょう? でも、中国人と韓国人のあいだに、(たしかに存在する)民族的なわだかまりは、満州において一貫して「日本人の手先」とみなされた韓国人たちへの中国人たちの怒りがおおもとになっている。 韓国人からすれば日本に背中を銃剣でつつかれてどやされてやむをえないでやったことも、中国人から見れば「日本人の走狗」としか映っていない。 中国人と韓国人の疎隔は、日本の人がよく口にしたがる高麗や李氏朝鮮よりも、もっと最近の満州における軋轢のほうがおおきいのだ、というようなことは、朝鮮系人や中国系人の移民のひとびとと話してみないと判らなかったことで、日本語では、どうも、そういう歴史情報は乏しいように見えました。 安倍晋三首相が自分で認めているように、同じ自民党と名前はついていても、吉田茂を水源とする保守派とはいまの政権は無縁で、かなりはっきりとした国家社会主義指向政権だが、それ自体は、日本人自身が選挙で支持して成立させた政権なので、はたからとやかくいうことではないが、では、このファシズムの系譜はどこからきたのだろう、とおもって眺めると、満州にその水源があった、という発見で、おもわず記事をひとつ書いてしまった。 … Continue reading

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語れば今も

暇があると、頬杖をついて、自分の好きなもののことを考えて、なんだか、うっとりしてしまうのは、子供のときからの癖であるとおもう。 誰もいない台所で、カウンターに肘をついて、虚空に目をおいて、にやにやしていたりするので、目撃されて、お手伝いの人に不気味がられたりした。 どんなことを考えているのかというと、十枚くらいも積み重なったパンケーキの、一枚ごとのそれぞれにバターが塗ってあって、トップにはカリカリに焼けたベーコンが載っていて、載りきれなくてパンケーキの周りのお皿にも散らばっていて、そのカリカリカリなstreaky baconの上から、たっぷりメープルシロップがかかっている。 よく見ると、向こう側にはフライパンで焼いた縦に切ったバナナが良い匂いをさせていて、蠱惑的な湯気を立てている。 脇の皿には当然、半熟に焼いたフライドエッグがふたつあって、パンケーキを上から食べていって、3枚目くらいになると、フライドエッグを上に載っけて、フォークの背でむぎゅっとつぶすと、黄身があふれてきて、パンケーキにしみとおっていって、興奮するくらいおいしい食べ物になる。 あまりのおいしさに、想像の世界にすぎないことを忘れて、目をぎゅっとつむります。 よく考えると、おもしろいことだが、子供のときは、現実の朝食は、たっぷりミルクが入った紅茶だったのに、おなじ子供の頃でも、想像のなかではコーヒーで、しかも、その頃から大好きだったラテやカフェ・コン・レチェではなくて、アメリカのダイナーで出てくるような「レギュラー・コーヒー」だった。 いま書きながら理由を考えると、多分、子供のときに初めてアメリカを訪問したときから、どういう理由によるのかダイナーというものが好きで、イリノイやテキサスの田舎の町を訪ねたときは無論のこと、マンハッタンでさえ、親たちにせがんで、ダイナーに必ず連れて行ってもらった。 おとなになってから考えてみると、あれはダイナーと行っても、観光名所みたいなところであって、いわばなんちゃってダイナーだが、カーネギーホールのすぐそばの Brooklyn Dinerという有名な店で、観光名所とはいいじょう、パンケーキもチキン・ポット・パイも、好物のアメリカ食べ物が、やたらとおいしい店で、おとなになってからも、いまでも、なんど足を運んだかしれない。 https://www.brooklyndiner.com そのダイナーの幸福な朝の記憶が強く影響していたからで、子供に刺激が強い幸福を与えると、天使が翼でつくった影のように脳髄の表面に投射されて、思考そのものに影響を与えるようになる良い例なのではあるまいか。 自分が一生というものに対して、ほぼバカみたいに楽観的で、テキトーであって、なんだか紆余ったり曲折したりしても、結局は大団円のめでたしめでたしになるに違いないというような、はなはだしくシアワセなアイデアを持っているのは、もしかすると、子供のときに遭遇した幸福な時間が、あまりに強烈だったからかもしれません。 薬物に中毒して脳が変性したりするのはヤクチュウだが、幸福に中毒して脳が機能障害を起こすのは、なんと言うのだろうか。 シアチュウ、かしら。 この頃、また、日本のことをよく考える。 瘧が収まったというか、なにかが心からポロリととれるようにとれて、記憶のなかの異文化に対しても紐帯というものがあるとして、その紐帯が切れてしまって、別にうんざりしたわけでもなく、2010年を最後に日本に滞在しようと思わなくなった最大の理由である放射性物質の蔓延とも関係がないが、いまでは、どうして、ああも日本に興味があったのか判らないし、特にネットを通して日本の文化や社会のforeignに感じられる部分がおおきくなって、なんだか自分とは縁がない国だったなとおもって、再訪するという気持もなくなってしまったが、それは悪いことではなくて、正常に復しただけであるというか、日本語で考えることに集中するあまり、日本人みたいな気持になってしまって、日本語の感情が血流をめぐりはじめる、ということがなくなって、少し輪郭がぼけて、色が褪せた、現実なのか幻影なのかも判然としない、姿の美しい日本が記憶の霞の向こうに立っているだけです。 上田の別所温泉に安楽寺という曹洞宗の寺があって、八角三重塔で有名だが、クルマを止めて門から入ろうとしたら、寺の人が来て、もう閉める時間なのだという。 しばらく考えていて、外国人のふたりづれで、ほんとうは軽井沢からやってきただけだったが遠くから遙々来たのに気の毒だと誤解したのでしょう、 特別に開けますよ。 それにね、あなたがたは、とても運が良い。 明日からはハイシーズンで、拝観料が上がるんです、と言って笑いながら、一揖という言葉が相応しいお辞儀をして、去って行った。 門から入って、曲がった瞬間に、タイムワープすることになっている。 瞬間的に空気が鎌倉時代のものになるような錯覚が起きる。 鎌倉にも断片的には、残っている。 例えば夕暮れの日野俊基の墓や、やはり夕暮れの名越えの切り通し、釈迦堂や朝比奈の切り通しに残っているような、あの「空気」が、この八角三重塔のある境内には、まるのまま、おおきな塊になって残っていて、唖然とした気持になって、やがて、粛然とする。 普段は、プロの写真家が舌をまく腕前で、素晴らしい写真を撮るモニさんが、カメラを手にもったまま、塔をみあげているので、 「写真、撮らないんですか?」と聞くと、次に来たときに、たくさん撮るからいい、と述べて、全身で境内の鎌倉時代のエーテルを吸収しようとしているかのように、身動きひとつせず立っています。 日本には異界が、そこここにある。 佐久の天狗山トンネルというトンネルを抜けると、そこにまったく近代とは相貌が異なる異形の世界があって、どこまでも黄金の稲穂の海が広がっていて、これが現実だろうかとおもうほど美しい風景をつくっているのは、前にも述べたことがある。 クルマを止めて、誰もいない稲田のまんなかに立っていると、風がふきぬけていって、日本人の特別な、宗教的と呼びたくなるほどの米への情熱をこめて丹精を込めてつくられた稲穂が、ざああーという音を立てて、日本の美しさというものが、結局は、人間の将来への希望をつかみとるための努力の結晶なのだということが、理屈ではなくて判る。 あるいは、鎌倉は、過剰なくらいの量の死が、あの小さな町に堆積していて、朝比奈の入り口からもう、山の斜面から墓地が町を見守る姿が見えて、そこここに墓地があって、円覚寺にも妙法寺にも、たくさんの死が豊蔵されている。 死の美しさの発見は、日本の人の文化上の偉業であるとおもいます。 西洋人が見いだした死の美しさは死者の無軌道を手にすることに憧れた、言ってしまえばオカルト的なものであることを免れないが、日本人は生よりも正統な美を死において見いだした。 侍の自死の昔から、日本人が何かといえば死にたがるのは、生の汚濁から自分の魂を救済するための死への衝動だとおもうが、そのほかに、もう物質に煩わされずにすむ、死というものの不可触の永遠の美に憧れるからではないだろうか。 日本の怪談の特徴は、最近こそ人間の悪意を下敷きにした救いのない恐怖が売り物であるけれども、それは、「呪怨」くらいから始まった新しい傾向で、もともとは、恐怖よりも、美しく、哀れで、人間という儚い存在が精一杯に永遠というものに反抗する姿を描いたものが多いのは、小泉八雲の手を通じて、記録された小泉節子の数々の口承の物語が伝えている。 https://gamayauber1001.wordpress.com/2018/05/31/thesweetestlittlewoman/ 自分にとって日本は何だったのだろう? … Continue reading

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メトセラはかく語りき 金銭編

この数年でも、びっくりすることがいくつかあった。 オカネのことで言えばビットコインで、ピラニアの群れのなかに投げ込まれた経済の未来というか、人間のすさまじい吝嗇のなかに投げ込まれて、あっというまに本来の仮想通貨から、本質はチューリップでもNTT株でも、なんだって同じのただの投機対象にされて、よってたかって、機能をひんむかれて、もみくちゃになって、陵辱されたあげく、「けっ、ただの売女じゃねーか」ということになって、泥まみれの姿で市場のドブに放り込まれておわってしまった。 その結果は、悲惨なもので、だいたいUSDで8000くらいのところで落ち着いたら、機能させようと待ち構えていたひとびとも、ほぼ仮想通貨としてのビットコインは、少なくとも暫くのあいだは、諦めざるをえなくなった。 「数学理論の裏付けがある経済市場」という人類の夢は、人間の貪欲さに負けて、また数十年、遠のいてしまったことになる。 肥沃な農土に変わるはずだった荒野に、なすすべもなく、また立って、皆がああでもないこうでもない、まるで経済を知っているような顔をつくるのが上手な順にテレビに顔を売ったりして、いわば市場の「鞘稼ぎ」に精ををだす学者芸人や、やり手ファンドマネージャーの、愚かな顔を観なければならないのかとおもうと、うんざりどころではない。 昔から有名な実験があって、これは、いまも繰り返し行われて、結果は同じだが、ファンドマネージャーならファンドマネージャーの「優秀な専門家」がつくったポートフォリオと、チンパンジーにダートを投げさせてつくったチョーテキトー・ポトフォリオを較べると、たいした変わりが見られない、とプリンストン大学教授のBurton Malkielが述べて、その現実の報告が記されている著書、 A Random Walk Down Wall Streetがベストセラーになったのは1973年だった。 2011年になると、この、長い間信じられていたリサーチの結果に、一群のひとびと、例えばResearch AffiliatesのCEO、Rob Arnottが異議を唱える。 「Burton Malkielの説は正しくない。我々は異なるインデックスで、もっと慎重に検討してみたが、チンパンジーが投げるダートでつくったポートフォリオのほうが、トップの専門家たちがつくったポートフォリオよりも、遙かにおおくの収益を生んでいることが確認された」 チンパンジーのほうが、年収数十億円のファンドマネージャーや銀行員たちよりも、すぐれた市場予測をすることは、それ以来、何度も何度も確認されている。 数学と経済市場の知識があって、このブログをずっと読んで来てくれた人は、ところどころ「えっ?」とおもう箇所に遭遇して、胸がキュンとしたに違いない、もしかしたら発狂しそうになったかもしれない。 そうでなくて、あんた、ウソをついているんでしょうが、って? あのね、そんなことを言うなんて、きみ、日本人なんじゃないの? わしは、もともと勉強して、使い途がなくなった数学の趣味が昂じて投資を始めたのは、前にも書いたことがある。 元金は、多分、例えば、きみが毎日つかっているに違いないもののなかに入っている小さな小さなものについてのアイデアであったりして、中松博士というか、発明でつくった。 つくった、というよりも、「できた」といったほうがいいか。 ともかく、数学というよりも、その数学の広い地平のなかの幾何学という分野に基づく知識によった、おもいつきで、なるほど、こうやるといいのね、という手管を編み出して、投資の第一段階は、それに拠って、ぬははは、になったのだった。 2010年になると、「これから7年は、子育てとオカネモウケとオベンキョー三昧になるのじゃ」と宣言して、地球の辺境、ニュージーランドに立てこもって、といっても、二度ほど、大規模な欧州遠征をやったが、だいたいはオーストラリアとニュージーランドの辺境ブラザースのふたつの国にこもって、ひきこもり青年をやっていた。 小さいひとびとは、折角、不良にしようと尽力した父親の願いと努力も虚しく、母親似のドマジメ人間になって、オカネモウケは、バブル景気のブースターがついて、なんだかアホらしいくらい資産が増えてしまって、オベンキョーは、 語学をはじめ、やっぱりアホなんじゃんな短足な進歩を遂げた。 念の為にいうと、ここで、「短足な進歩」というのは「長足の進歩」というイメージ的に把握しにくい日本語表現のために、いまわしが発明した反対表現です。 みっつのなかで、いっちゃん簡単だったのは、オカネモウケだった。 既存の数学で応用できることは、オカネの世界では極端に少ない。 不動産については、あれこれ、理論を立てて、その理論に従って、むやみやたらと儲かったが、振り返って考えてみると、あれは、理論で儲かったというのは単なる妄想で、もしかして、ただのバブル景気だったんじゃないの? と言われると、そうなような気がしなくもないが、なあーに、オカネモウケというような反知性的な行為においても、自分が頭がいいせいで儲かったということにしておいたほうが、朝の目覚めがえらそーになってよいのです。 え? その秘密を教えろって? 伊峡のラーメンをおごってくれたら教えてあげよう。 チャーシューは3枚ないと嫌だからね、 なんちて。 冗談です。 教えませんよ。 … Continue reading

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50 beaches

NZ出身の世界的なデザイナーKaren Walkerは、アメリカ雑誌のインタビューで何故活躍の主舞台がNZ外の世界に移ったいまでもオークランドに住んでいるかを訊かれて「オークランドはbeachの町なのよ」と述べている。 タカプナ・ビーチのように誰でもが知っているビーチもあれば、ここでは名前は書かないほうがいいとおもうが、ワイヒキ島を初めとするハウラキの島にあるオオガネモチがヘリコプターで訪問するビーチがある。 一方にはKaren Walkerが悪戯っぽく笑って述べる、「わたしの秘密の浜辺」と呼ぶような、小さな、見つけるのがたいへんなビーチもあります。 ほら、この世界のどんなことでも、視点を変えると、まったく異なって見えること、というのがあるでしょう? オークランドは、街として、視点を移動させて、異なるところから眺めると、まるで異なって見える街の典型で、陸地だけを移動して眺めると、どこから見ても「ポケット版都会」だが、船を出して、海の上、ハウラキガルフから、海に付属した街として眺めると、海から派生した、世界でゆいいつの都会で、陸上にあるのに、海の都会とでも呼びたくなる街である。 ポリネシア人たちの夢は、オークランドに出て、自分達が「ポリネシアの首都」と呼ぶオークランドで幸福な暮らしをすることで、いつかその話をしたら「ポリネシアの首都www」と冷笑する失礼なひとびとがいて、びっくりしたが、当のポリネシア人たちやニュージーランド人たちは、海の民が「ポリネシアの首都」と呼ぶことに誇りをもっていて、この小さな都会が、世界でゆいいつの「海の民の都会」であることを特別なことに思っている。 モニとわしはレミュエラというところに住んでいるが、歩いて5分くらいのところにはホブソンズ・ベイという湾口があって、ここは、マングローブが繁茂する内陸湾です。 マングローブを縫って、木製の散歩道が隣のOrakei Basinまで続いている。 モニとわしは、レミュエラのクリケットグラウンドの草クリケットを、ポットの紅茶を飲みながら観戦するのに飽きると、クルマにピクニックバスケットを戻して、ボードウォークを歩いて、3キロくらいか、隣のBasinまで歩いていきます。 いつか、この話を書いたら、ああ、わたしもおぼえている、なつかしい、と述べる日本人の女の人がいたが、このOrakei Basinは、「千と千尋の神隠し」に出てくる水を渡る電車にそっくりの線路があるので有名で、特に満潮のときには、線路が海面にひたひたで、まるで映画から抜け出してきたように、ついこのあいだまではディーゼルで、いまは電車になったCBD行きの電車がヘッドライトで水面を照らしながら走っていく。 オークランドの人気があるカフェは、朝の5時半から開いている。 いまはスイス人の家族にビジネスを売って、どこかへ行ってしまったが、むかしタカプナで「ラテン・クオーター」というカフェをやっていた家族は、 「店がいちばん混むのは午前6時前ですね」と述べて、どうかすると午後4時くらいまで眠りこけているモニとわしを、びびらせた。 でも言われてみると、オークランドのビーチは、どこも、晴れた夏の朝には、午前5時には人が混んでいて、なるほどとおもう。 モニさんとわしは、もとより、そんな早起きは望むべくもないので、猫さんたちや小さい人々に起こされて、渋々起き上がる午後に、朝食を食べて、夜になってから、家から近い、例えばミッションベイやコヒマラマ、セントヘリオスの浜辺へ出かける。 あるいはマリーナへ直行して、ボートを出します。 ボートを出すと、向こう側には、最近はすっかりバブルで明るくなったオークランドのCBDの町並が見えて、子供に返って、友達が住んでいる高層アパートの灯りを特定して、「おお、灯りがついているね」 「灯りがいま消えたのは、最近の愛人の噂からして、怪しいのでは」と、nosyな悦びにひたっている。 そうして、真夜中になって、ワインが2,3本からになって、吊り上げた鯛やヒラマサをグリルして、夕食を終えると、沖に錨を下ろして、むかしの海賊よろしく、ディンギイを出して、そおっと浜辺に上陸する。 真っ暗で、誰もいない浜辺で、モニさんとわしと裸になって立っていて、自然と近しい生活をする自分達の幸運を祝福します。 内緒だけど、誰も来るわけがない真の闇の浜辺や、ボートの甲板でお互いの肉体に深入りする解放感を、きみにうまく説明する言語を、わしは持っていない。 月のない夜の空には、莫大な星空が広がっていて、この記事では何度も述べた、南半球に特徴的な頭上を横切る、神様が馬車で通ったばかりとでもいうように煙りたったミルキィウェイが空を横切っている。 誇張でもなんでもない瀑布のような星の光で、人間という生き物が、本来、どんなものを目撃しながら自分たちの文明を育んで来たかが判ります。 なんだか少し疲れた顔で、目の下に隈をつくったような、途方もなく美しい横顔のモニさんが、服を身につけながら、 「ガメ、寒くなってきたから海に帰ろうぜ」と述べている。 わしのほうはモニさんが無意識に言葉にして述べた「海に帰る」というアイデアがすっかり気に入って、ディンギイを用意している。 ホンダの2馬力。 赤と緑の航海灯を頼りに沖に舫っているボートに戻る。 別に、そんなことばかりやっていても、日本語で、きみに話しかけることをやめやしないけど。 まだ、もうちょっと、話していたい。 海から浜辺の人に話しかける言葉で。 日本語という、この美しい言葉で。

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破壊せよ、と神は言った II

世界が、また壊れ始めている。 社会を支配する層のやりかたが巧妙になるにつれて、枠組みががっちりして、情報の交換が速度においても量においても数百倍になり、自分達の支配の体制を維持するための定石もつみあがって、容易なことでは世界は破壊されなくなっていた。 何年に一回だったか、もう忘れてしまったが、ヴィクトリア朝時代には、黄河の氾濫のようにして、数年おきに市場が崩壊し、恐慌が起きていた。 繁栄の頂点にある経済人は没落し、混乱を利用することに長じた若者たちが、社会の壁にかけられた、炎に包まれた階梯を駆け上って、次の世代の支配層になっていった。 ポール・ボルカーくらいを最後にして、支配層を知的な腕力で抑えつける力をもった財政家はいなくなった。 後任のアラン・グリーンスパンを見れば明らかだが、銀行家を中心とする、いまの病んだキャピタリズムに阿諛追従して、少しでもおこぼれを預かるだけの人間が、「東部エスタブリッシュメント」の実体になっていった。 繁栄は安定すると冨の不均衡を生む。 オカネをつくることに達者な人間が手足を伸ばして、のびのびと悪辣なプランを実行するようになれば、オカネの理屈に疎い人間などは、ひとたまりもない。 子供のころ、ニュージーランドの新聞のトップニューズで、日本でいえばNTTだろうか、テレコム(いまのスパーク)のCEOが年収1ミリオンを超えて、これは日本円に換算すると、6000万円弱だが、「会社の社長が、そんなに高給をとっていいのか」と社会問題になったことがあった。 一方では、両親の友人たちには、年収が数億円に満たない人は少なかったので、子供心に、ニュージーランドは、なんて良い国だろう、とおもったことがある。 そのビンボ人王国ニュージーランドでさえ、21世紀に変わる頃から、どんどん豊かになり、一方では、貧富の差がどんどん開いていって、近所の商店街の交差点に立っていると、ポルシェやレンジローバー、なぜかニュージーランドでは人気があるマセラッティが洪水のように通りを埋めていて、隣のおばちゃんのスーパーへの買い物ぐるままで、いつのまにかBMWからポルシェに変わっているが、30分もクルマで南へ行くと、あちこちにトンガの国旗が翻る通りに、昼間から酔っている若い男や、半ば公然とドラッグを取引している中国系人の売人とポリネシア系人の顧客の姿があって、貧富の光と影は、歴然としている。 ニュージーランドは1900年代から、1930年代くらいまでは、ひとりあたりの年収が世界で1,2位を争う、豊かな小国だったが、宗主国イギリスの没落とともに経済の基盤が弱くなって、70年代になると、経済崩壊という呼び方が正しいような経済の状態になっていった。 80年代になると、隣のビッグブラザー、オーストラリアと共に、ドビンボになって、日本へ出稼ぎに出たりして、かろうじて食べていくことが出来るていたらくだった。 余計な事を書くと、その頃から、いくらなんでも日本に経済を依存するのは、まずいんじゃないの?というひとはたくさんいて、と書くと、え?そんなの人種差別じゃないか、と早速、身体を乗り出すようにして文句をいうひとがいそうだが、そうではなくて、なにしろ、観光客の懐をあてにしてカジノを開いてみると、客は日本人だらけで、普通の日本人ならばいいが、ハイローラーは、暴力団ばかりで、負けるとテーブルに飛び乗って、褌ひとつになって刺青をみせてすごむは、椅子を蹴り上げて負けた金を返せと喚きだすは、しまいにはオランダ人の女のマネージャーに、「おまえと一発やらせれば、許してやる」と言い始めるはで、日本人のカネモチといえば、「とんでもない人」というイメージが出来ていたので、どうもあの国はオカネはあるけれども常識の持ち合わせはないらしい、あんなのについていくと、ろくなことはない、と額を集めてヒソヒソしだした。 いつものこと、というべきで、アングロサクソンの、常に変わらぬ命題、 「オカネは欲しいが、異人種・異文化人を見るのは、鬱陶しい。なんとか、オカネだけをまきあげて、国にお帰り願う手はないか」と鳩首を集めて談合しても、なかなか妙案は出なかった。 そのうちに、50年代のフランス人くらいが盛んに警告しだした、 「諸君、知っておるかね、このままいくと、人口は減少して、しかも老齢化していく。別に人間が減ってもいいけどね、並ばなくてすむし。 でも、減少の過程では地獄の不景気が待っていると予測される」 人口減少問題が予測されるようになって、出生率の統計を見れば、なるほど60年代になると、ぽっちゃりした釣り鐘型の人口ピラミッドになるのはアホでも判るので、慌てて対策を練りだした。 いま考えると、笑ってしまうが、当時のフランスは、まだ避妊が違法行為で, 英語諸国と異なって主な避妊方法は経口薬だったが、この経口薬を含めた避妊が合法になるのは1967年です。 それなのに、簡単に想像がつく手術器具のカチャカチャいう音を連想させる不可視の闇が介在することによって、出生率は減少の一方だった。 誰かが、「もう、こうなったら移民を受けいれるしかない」と言い出したが、 欧州人は、なにしろ人種差別の総本山なので、抵抗が強かった。 じゃ、おまえは褐色の人間を見たくない一心で我々の偉大な祖国が滅びてもいいというのか、野蛮人か、おまえは、というような議論が、町のあちこちで、侃々諤々、家庭のなかでも、諤々侃々、議論のはてに、やむをえないから移民への門戸を開こう、ということになっていまに至っている。 フランスが嚆矢で、あの人種差別主義者ぞろいの尊大なフランス人でさえやれたというのは、たいへんな先例で、英語国は揃って移民政策による人口問題解決に傾いていった。 やーい知能が足りないアイルランド人、とアイルランド人の流入が続く間じゅう罵り、今度は続いて大流入を始めたイタリア人を見て、おまえらはそれでも人間か、おまえらの油でべったりした髪をみると、ゴキブリみたいで胸くそが悪くなる、 新しい移民集団が入ってくるたびに律儀に差別しながら、もちろん、60年代には移民王国になっていたアメリカは、最後の移民グループである東欧諸国人をのみ込んだくらいのところで、WASP時代とは異なる、新しい支配層を築き始めていた。 なんだかチョーおおざっぱだが、そのくらいのところを出発点としているのが、いまの支配層の文化で、だいたい東アジアを除外した世界の多文化を受け入れる、というのが正直な内面からみたルールだったでしょう。 そういう流れのなかではアフリカン・アメリカンは興味深い存在になっていって、アメリカの伝統の核のようなものは、実は、アフリカン・アメリカンが正統的に受け継いでいった。 例えば、シカゴへ行くでしょう? デパートの売り子さんが、わざわざカウンターのなかから出て、ドアのところまで広いフロアを横切って一緒に歩いて来てくれて、ドアを開けて、 「寒いから、風邪をひかないように気を付けないとダメよ。 今日は、わたしがすすめたセーターを買ってくれてありがとう」という。 あるいはマンハッタンの、いまはない安売りチェーンのLoehmann’sで、コートを買って、「ああ、いいよ、そんなに丁寧に畳まなくても、いま、ちょっと着ていくのに買っただけだから」といっているのに、 まるで母親であるかのように、 「あら、ダメよ。こんな素敵なコートじゃない。もっと、大事に扱わないとダメですよ」と述べて、まるで愛おしそうに、丁寧に丁寧に畳んで紙袋にいれてくれる。 そういう小さな仕草のようなことから、生活に対する堅実な考え方まで、いまではアメリカの伝統文化はアフリカ系人が受け継いでいる。 破壊は、おもいもかけない方角から来た。 … Continue reading

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万機公論ニ決スヘシ

日本語で、よく考え方の背景や、平たく言えば、ひととなりが判っている、少数の人間と議論することは出来る。 やる気になれば、日本語世界に骨を埋めるつもりで、たくさんの日本人に呼びかけ、話しかけることも出来るのではないかとおもう。 いっぽうで、日本語で広く議論を興して意見を交わすというのは、ほぼ不可能であるらしいことが、10年近くやってみて、よく判ってきた。 民族環境的に、日本人の知的能力が劣っているというようなことは全然なくて、なにもわしに言われて喜ぶ人はいないだろうが、民族まるごととしては、優秀で機敏な知性を持っている。 日本人は眼が悪いと昔から揶揄されて、眼鏡をかけた姿で描かれることが多いが、現実に日本人は近視が多いが、理由は簡単で、英語人に較べて圧倒的に多くの本を読むからだ、という。 むかし義理叔父の視力が落ちて、やってきていたニュージーランド、クライストチャーチのミラベルという町の眼医者さんに出かけて検査してもらったら、「北欧の湖のように澄んだ青い眼」をした、なんだか、おたおたしてしまうくらい美人の眼医者さんがあらわれて、どぎまぎして、縦書きで書いたみたいなヘンな英語を話してしまったといっていたが、この女医さんが、 「ニュージーランド人は、なぜ、眼がいいか知っているか?」というので、 牛乳をいっぱい飲むからですかね? とマヌケな答えを述べたら、 笑いもせずに、「ニュージーランド人は、まったく本を読まないからですよ」と述べたので、ぶっくらこいた、とひとつ話のように話していた。 ニュージーランドは伝統的に書籍の値段が高くて、わしガキの頃は、連合王国の本が、なぜか3倍の価格で売られていた。 あるいは、おとなの関心といえばラグビーばかりで、ラグビー以外にはこの国には、何もないのか、と子供のわしでも訝った。 日本には「文庫本」というものがあって、小林秀雄は常時10冊以上の本をあちこちのポケットに突っ込んで、年中、凸凹して歩いていたそうだが、そういうことが日本人の伝統で、義理叔父にしたところが、見ていると一日に4冊くらいは本を読んでいて、一緒に御茶ノ水の丸善に出かけたときには、「こんな棚の本は、ほとんどめぼしいのは読んでいて、買うものがない」と不遜なことを述べていた。 そんなバカな、という人がいるだろうが、このおっちゃんとも、付き合いが長くなると、案外ウソとはおもえなくて、このひとは、まるでこの世界の森羅万象のことごとくに通じているような人です。 ところが、このおっちゃんひとりなら、まあ、ヘンタイな人だろうと諦めもつくが、この人の友達にも、同じような読書ブルドーザーおじさんたちが、いくたりもいて、聞くともなく聞いていると、芭蕉の奥の細道の、どの宿で誰と会ったか皆が諳んじていたり、病膏肓に至って、サザエさんのマンガの一コマ目の絵と科白を述べると、誰かが4コマ目をおぼえているという具合で、衒学も極まれば、悪魔の集会に似てくる。 だが、そうやって知的好奇心は、なみなみならぬものがあるのに、 1 議論の前提となるべき汎的知識に欠けている 2 1の状態にあることに自覚がない のふたつの理由によって、日本語では「広汎な議論」というものが成り立たない。 どんなことにも歴史的経緯や、長い間、議論されて、そういう言葉を使いたければ「たたき台」になっている問題を討議するための議論の蓄積というものがあるが、 おもいつくままに挙げて、例えば神の存在を論じるのに、そもそも西洋語は絶対唯一神を前提とすることによって言語の体系が成り立ってきて、神様の台帳にお伺いを立てて、そもそも自分が直面している問題には、どういう態度で臨めばいいか、自分で確信できることを行動に移す、ということになっているのに、「日本人は神なんて信じていませんから」と述べて、そのくせ、軽々と、絶対神を前提とした西洋語から借用した概念を組み立てて、自分の相対性に満ちた、真理が存在しない思考法のなかで機能させようとする。 そういうことが判りにくければ、もっとバカバカしい例を挙げることだって出来て、前に瀬川深とかいう作家で医者だかなんだかの人がいちゃもんをつけに来て、 「英語でも遠回しに婉曲に書けば日本語とおなじ構造の文が出来るのに、この人はそれを知らないからニセガイジンである」と言いに来て驚いたが、受験英語構文だかなんだかのレベルで英語と日本語を比較してオベンキョーする受験生じゃあるまいし、言語比較の基礎の基礎になっている初歩知識もなくて、いったい、この人が卒業したという東京医科歯科大学とかいう大学のリベラルアーツでは、どんなレベルのことを教えていたのだろう、と訝しくおもう。 職業訓練校ではあるまいし、仮にも医科大学ならば、語学系か哲学系の講座があったはずで、講座があれば、どんなバカな学生でも、こんな幼稚なことを言うわけがない。 あるいは親切心が過剰に存在する我が友オダキンは、素粒子論研究者だが、オダキンが、物理の本を読んで勉強したという、オダキンが尊敬しているらしきおっさんと話をしていて、ところが、この人の物理論なるものがトンチンカンもいいところで、オダキンは、それでも素人にも漠然となら理解の手がかりになりそうな論法を用いて説明しようとしていたが、相手の反応は、「やはり、ぼくにはきみの議論には異論がある」で、あまりに日本的な光景で、オダキンには悪いが、ふきだしてしまった。 ひとつの言語世界について思いを巡らしているときには、他の言語世界の事情は案外と頭からまるごと欠落してしまうもので、これは、ある言語で熱心に考えるという行為のなにごとか本質を暗示しているとおもうが、そのせいで、「日本語人は」と日本語に限定して書いたあとで、友達に、「それは英語でも同じなんじゃないの?」と言われて、考えてみると、なるほど日本語世界に特殊なことではなくて、やべー、またやってしまった、と思うことはある。 でも、日本語世界の、議論の前提となる知識が欠落していて、知識が欠落しているということ自体に自覚がない、というはっきりした傾向は、やはり日本語世界全体に固有のもので、特徴的だと思います。 どうしてそうなるかということを考えるのには、日本語世界のなかで、上の、1と2から自由である分野を考えるのが最も考えやすくて、さっき言及したばかりで便利なのでオダキンが生きている物理の世界でいえば、この世界では、 1 議論の前提となる知識が常にアップデートされながら共有されている 2 共有されていない部分は、簡単に意識されるので、自分のほうから英語なら英語コミュニティへ乗り込んでいって補完する、というふうに自覚的に補綴されている という条件があるので、議論が成り立つ。 そうやって考えていくと、日本語世界は、現在進行形のマスメディアが伝える世界についての情報が日本の報道人によって恣意的に選択され編集されて、黒岩涙香版のLes Misérablesを読まされているのだというか、なんだか元ネタは同じだが、あがってきた記事は全然別のものというようなものを読まされているのは、めんどくさがらずにロイターの日本語版と英語版を較べることによっても簡単に判明する。 日本語世界で十年つきあって思ったのは、事はそれだけではなくて、明治以降、営々とそれが繰り返されて、日本人が世界だと認識しているものは、「日本のマスメディアが恣意的に編集してきた世界」で、いわば、むかしのハリウッド映画の書割の大自然のようなもので、あるいは歴史でいえば、このブログで何度か、子供のときに、バッターがいっさい登場しない、ただ野茂英雄が投げて、日本人解説者が「いまのフォークが伝家の宝刀なんですよね。これにはアメリカ人もまったく手が出ない」だの「いまの直球は意表をついて、やはり、こういうところは日本の球界で鍛えた『シンキングベースボール』ですね」だのと述べるだけの異様な「大リーグ中継」を観て、あきれるより、怯えるような気持になったことを書いているが、 あの「日本人だけ中継」のような、日本人の視点だけがある世界への認識を、百年以上も延々とすりこまれてきた、という事実の堆積がある。 日本語で、そういうことが可能だったのは、残念なことに、やはり「民族として外国語が苦手だったから」です。 この外国語が異様なくらい苦手であったことが、1 議論の前提となる知識に欠けている、という要素をつくった。 その上に、いかにも日本が不運だったのは、翻訳文化で選択された世界を、しかも誤解したことをもって、自分達が世界を知っているものだと妄信して、 2 議論の前提となるべき知識に欠けている とは夢にもおもわない状態で議論を繰り返してしまったことで、日本の、いまでは世界に有名になってしまった世界認識のトンチンカンぶりのふたつの基礎は、そうして出来上がった。 … Continue reading

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