Category Archives: 欧州

「とても単純だが言葉によっては説明できない理由」について

伝説的ヨット乗り、フランス人のBernard Moitessierは世界で初めての単独無寄港世界一周ヨットレースであったSunday Times Golden Globe Raceに参加する。 なにしろGPSどころか近代的なバタンすらない頃で、ヨットで無寄港で世界一周をするなどは無謀な冒険とみなされた時代である1968年のこのレースで、他の参加者がすべて脱落したあとRobin Knox-JohnstonとBernard Moitessierの二艇のketchだけは終盤まで生き残って、すべての難所を乗り越えて、いまや目前の最終目的地の連合王国を目指す。 Bernard Moitessierのヨット「Joshua」が喜望峰をまわって大西洋に姿をあらわしたときのフランス人たちの熱狂はすさまじいもので、イギリス艇とデッドヒートを繰り広げながら大西洋を北上して、もうじき欧州の海にあらわれる「フランスの英雄」のために、フランス海軍は歓迎と伴走のための大艦隊を組織して出航する準備にかかり、政府はレジオンドヌール勲章を約束する大騒ぎになった。 少なくとも10万人の大観衆が到着港には見込まれていた。 妻のフランソワーズはずっとあとになって「でもわたしには何かが起きるとわかっていました。わたしはBernardというひとを誰よりもよく知っていましたから」と述べている。 この、自分の妻によって「詩人、哲学者」と描写された偉大な航海者のBernard Moitessierは、ゴールを目前にして突然ヨットを反転させる。 彼自身の言葉によれば「とても単純だが言葉によっては説明できない理由」によって、彼は、なんと二周目の世界周航に向かってしまう。 破天荒どころではなくて、いまでいえば火星から帰還して地球軌道にもどってきた単独宇宙旅行の飛行士が勝手にもういちど火星をめざして飛び去ってしまうようなもので、自殺的とも狂気の行動ともみえる行動だった。 Bernard Moitessierの「狂気の反転」のニュースが伝えられるとフランス国民は怒り、悲しみ、失望に沈んで、途方もなく混乱した気持ちにおちいっていった。 Moitessierの娘は三日間泣き続けて、「おかあさん、わたしたちはこれからどうやって生きていけばいいの?」と訊いたが、母親は「あれがお父さんなんだから、このまま生きていくしかないじゃないの」と答えたそうである(^^) Bernard Moitessierは再び難所だらけの「Roaring Forties」 http://en.wikipedia.org/wiki/Roaring_forties を通過し、まるで選んだように帆船にとって困難な海ばかりを通ってタヒチに着く。 ようやく、そこで航海を終える。 10ヶ月、70000キロメートルに及ぶ単独航海は、もちろん、新記録と呼ぶのもばかばかしいほどの大記録だったが、Bernard Moitessierは自分が夢中になって読んでいた本を読み終わってしまいたくなかった一心で、自分がいったいどれほど遠くまで来たかを、知らなかったのではないかと思われる。 Bernard Moitessierはレース前のインタビューで「このレースにカネや名声めあてに参加する人間はひどく後悔することになるだろう」と述べた。 ひとびとは、なるほど、と彼の簡明すぎる言葉を理解したつもりで頷いたが、ほんとうは何もわかっていなかった。 Bernard Moitessierは島影もなにもない「圧倒的な莫大の感覚」に満ちた大洋を愛していた。 そこで自分を発見し、自分自身への信頼を見いだし、鏡に映る自分の姿ではない自分というものの素の現実の姿を自分の目でみつめる方法を手に入れたひとだった。 長い航海の最後の一瞬で、彼は「ゴールに着いてしまえば、すべてが消えてただゴールへ到着したという達成だけが自分を説明することになる」ことに気が付いて、それに耐えられなくなっていったのだろう。 彼が、反転する、という破天荒な行動に出たのは、どうやっても「航海している自分」よりも「ゴールを目指して航海し勝利のなかでうすぺらな勝利者になってゆく自分」を下位におくことができなかったからであると思う。 言葉にならないものが、言葉によってかきけされることに耐えられなかった、と言い直してもよい。 子供の頃、Bernard Moitessierの物語を読んで、どれほど興奮したか、うまく説明できない。 世界周航レースの勝利者であるKnox-Johnston卿の物語を読んだときには明るい気持ちの単純な愉快さが感じられただけだったが、Bernard … Continue reading

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緑の道

1 スペインという国は、悪魔の実在が濃厚に感じられる国だというのは、このブログ記事のあちこちに出てくる。 カタロニアでは、まだ、バルセロナのような都会ではそういうことはあまり感じられなくて、ジローナから内陸へはいってゆくような田舎の村へ行かなければ実感されない。 人がたに穿った石棺にぎっちり押し込めるようにして埋葬したあとがある大小のネクロポリスや鬱蒼としたコルクの林をぬけて午飯時の終わりにやっと辿り着くような中世の行商路の途中にある小さな集落のなかには、しかし、カタロニアのようにスペインのなかでも近代的な指向が強い国でも悪魔達が暮らしているのは前にも書いた。 西北へ向かって、赤土の荒涼とした大地のなかに点々と村が散在するレオンや、もっと西へ向かってSantiago de Compostelaがあるガリシアの田舎へ足をのばすと、神がいるのなら悪魔も同じ密度で存在するはずであるという神学上の当然の事実が実感されて、欧州という辺境ではキリスト教はこういうふうに過去の実感を残すにいたったのだ、ということがよく判る。 ガリシアの築地よりも魚がおいしいという点で殆ど世界でただひとつであるとおもわれる市場にでかけて、ちょうど焼き鳥屋に似たつくりの海産物を食べさせるスタンドに腰掛けて白ワインを飲んでいると、隣で魚を頭から噛み砕く、なんとなくいぎたない下位の悪魔が座っていそうである。 大西洋側につくられた、あの円形をしたケルト人たちの不思議な集落 https://gamayauber1001.files.wordpress.com/2011/07/img_9011.jpg は、ひょっとすると交易よりも悪魔達から自分達の夜を守る為につくった要塞ではないかと思えることすらある。 キリスト教という宗教は他の宗教とおなじく、おおきく言語に依存しているが、たとえばカソリック教会はほぼ完全にロマンス諸語に依存している。 イタリア語やスペイン語、せいぜいフランス語で思考するひとびとのためにある宗教であって、やや「世界宗教」というようなものとは異なるところに、いまの本質的なカソリックの退潮があるだろう。 当然、メキシコの内陸部の村へいくと、そこにもカソリックが存在して、悪魔もまた色濃く偏在して、日常のあちこちで「あっ」と思わせるというか、そうだったのか、と感じさせるところがあるが、英語やいまでは若い世代に至ってキリストを拒絶するに至ったロシア人たちのロシア語世界にはばまれて、キリスト教もまたロマンス諸語が話されない地域ではアメリカ大陸に見られるようにおおきく変質して、ほぼまったく異なる宗教になっている。 宗教というものは、そういうもので、Santiago de Compostelaには市によって雇われた中世の巡礼の姿をしたひとびとが参道を歩いているが、後ろからみていると、ときどきそれがほんとうの巡礼人の姿に変わる。 今日一日の糧のために巡礼の装束をつけることに同意したひととは、明らかに異なる後ろ姿になることがある。 同じように、チョコレート・バーで若い女の客にコーヒーをいれてやりながら冗談をいう気の良い店のおばちゃんに、ふとした弾みでわしが目をやると、悽愴な淫蕩の表情を浮かべて若い女の客の横顔を眺めていて、わしに自分の表情をみられたことに気づくと、憎悪の顔でにらみつける。ところが、一瞬のあとには、元のおばちゃんの顔にもどって、明るい声で、なにごともなかったかのように、あなたはどこから来たの、イギリスですか?と微笑みかけながら注文を訊く。 神というものがどうしても受け容れられないひとは、悪魔をも迷信として退けるが、実際には悪魔は(神と対立するものではなくて)神というものの本質の一部なので、その存在が現実世界の日常のどこかに破綻して姿をみせてしまっていることは、それほど不思議なことではない。 それが信じられないのは、眼の前の金属でつくられた機械が空を飛ぶのだと聞かされて、一笑に付すひとと、とてもよく似ている。 2 文明というものを理解するには、どうやら中央アジア、それもトルクメニスタンを中心に描いた世界地図が必要であって、アラビア半島をつたってここにやってきた人間たちは、ここから文明の爆発とともに西へ東へと流入していったように思える。 DNAの「解読」は飛ばし読みにすぎなかったが、飛ばした部分も精読する余裕が出来て以来、あの「緑の道」の物語はいよいよのっぴきならないドキュメンタリに変わってきたもののようである。 くだらないことをいうと、カリー料理が国民食になった連合王国人たちは自然の勢いでタンドリ料理も喜んでむさぼり食うようになったが、トルコにでかけるに及んで、自分達がいままで「世界で最もおいしい料理である」と信じていたタンドリ料理が、単純にトルコ料理の田舎料理版にすぎなかったことをしって落胆する。 スパイスの使い方がトルコ人たちのほうが遙かに洗練されていて、誇り高い北インド人のシェフたちとは較べものにならないほどだからです。 あるいは騎乗というような習慣で見ていっても、鎌倉時代の武士の馬具(特に金属製の部分)は、どうみても中央アジアへの憧れが結晶して出来た意匠である。 そういう文明の潮流のようなものに言語をかぶせてみてゆくと、キリスト教というものが文明の大通りの畔のような、ごく近いところにある小さな沼沢に生まれて、そこから文明の大流にとびのったものであることが判る。 キリスト教そのものを形成したのがパウロであって、そのパウロがキリストの思想を多分ギリシャ語であっただろう欧州語で記述したことには本質を描き変えてしまったという点で必然的かつ巨大な意味があったのだと思われる。 今日、英語の世界では伝統的なキリスト教はほぼ死滅してしまった。 その淵源はもちろん英語人がラテン語で思考するのをやめてしまったことにある。 アメリカ人はめったやたらと宗教的だが、どうにもならない原理主義で、あるいは現世での実効性がある奇妙な宗教で、ああいう余白が少ない宗教ができあがってしまうのは、要するにアメリカという文明の「手続き主義」が影響しているのだろう。 人間の罪も良い行いも、アルゴリズムによって処理されて、その結果ピーターに会ったり、おもいがけずサタンの知己を得たりするのだと思うと、新興宗教というものは、そういうものだな、という皮肉な感想をもつだけである。 3 神がいたり、いなかったりするさまざまな社会をうろうろと歩いて、わしの一生などはあっというまに経ってしまうに違いない。 人間の一生は大事なことを考えるには短すぎるのに、では生命だけを見つめて実直に生きていこうと思うと、それには長すぎる、という不便な特性をもっている。 モニとわしと小さな人は、これからどんな一生を歩いていくのかわからないが、 ここから先の世界は、神の姿がみえない、ちょうどエジプトからアラビア半島に出た現世人類が「緑の道」の南に見た、広大な荒野に似た世界、しかもそれはこれから沃野となるべき世界ですらなくて、刈り入れが終わって、収穫後の祭礼も終わった、厳しい永遠の冬に向かう世界になるだろう。 そしてそれは、文明上の文脈に翻訳して眺め直せば、実は中央アジアに向かって逆流する文明の旅になるはずなのである。 *「緑の道」は、アフリカ大陸から生存を賭けて大移動を始めた現世人類が、それをたどって世界中にちらばっていったと言われる「ひとすじの植生がある細いベルト地帯」のことでがんす

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Sei matto

エンリコ・フェルミは、ローマの人で、20世紀を代表する科学者のひとりです。 理論にも実験にもすぐれていて、ほぼジョーダンのようなひとであった。 マイケル・ジョーダンのようにバスケットボールで超人だった、という意味ではなくて、物理学の世界で非現実的なくらいの才能を発揮したひとだった。 http://en.wikipedia.org/wiki/Enrico_Fermi 人間の歴史上、最高の科学者は誰か、といえば、イギリス人なのでべたぼめするには甚だしく都合が悪いが、アイザック・ニュートンに決まっている。 ニュートンというひとは、神様のやることを微分してしまった初めのひとであって、その「微分」といういまでは世界を理解するためには人間にとって最低限不可欠で絶対に必要になった道具を使って、たったひとりで世界を初めから最後まで説明してしまった。 2番目、ということになると、候補が200人くらいいると思うが、フェルミはフォン・ノイマンやアインシュタイン達と並んで、最後の5人にはいるくらいのひと、と言って間違いにはならないだろう。 わしが物理を教わった先生はフェルミを2番目に偉大な科学者だ、とゆっていた。 2番目だったらアルキメデスちゃうかなあー、と不服に思ったので、よくおぼえている(^^) ツイッタで、「光より速い素粒子」が誤りかというニュース http://www3.nhk.or.jp/news/html/20120223/t10013237921000.html について、「イタリア人なんかに機器を扱わせるから実験を間違うのだ」という、なんだか「日本人の傲慢」を絵に描いたようなコメントを見てぶっとんだが、それに同調して笑ったひとも多かったようだった。 わしは思わずカッとなって、たったひとりのフェルミも出なかった国のくせに、くだらねえことを言って得意がってんじゃねーよ、と悪態をついてしまった。 まことに心性として下品である。 温和で成熟したおとなであることをもって四海に鳴るわしとしたことが、はしたないことであった。 ツイッタでイタリア人を小馬鹿にしていたのは防衛省の元役人のおっちゃんだったが、いまだにハーケンクロイツのお友達なのが誇らしくてたまらなかった軍国のむかしを懐かしんでいるらしい日本の自衛隊の雰囲気がよく判るような発言だと感じました。 恋人と母親を同一視してしまう不思議な習慣や素材を重視する料理への考え方において、イタリア人と日本人は似ていると思うことがある。 英語圏では男が女の乳房にふれることは女が男のち○ちんに触れることとまったく同等であって、男が女の乳房にあまえて吸い付くなどという不気味な愛情表現はありえないが、イタリアの男には、そういう人もいそうな気がする。 「20年も一緒にいれば、女房なんてかーちゃんみてえなもんだから」というようなことを、イタリアの人はおおっぴらにいう。 ふと思いついて「日本では実際に、『かーちゃん』と呼ぶのよ」というと、さすがにぎょっとしたような顔になるが、すぐに笑って、「気持ちわかるよ」といいます。 英語人なら、「そういう気持ち悪い話題を口にだして言うなよ」と考えて顔をしかめて返事をしないところである。 なんだかものすごくマジメなのに一方で破天荒なくらいデッタラメな印象も、日本とイタリアは似ている。 観察していると、日本のイタリア人に対する感覚は、たとえばドイツ人のレッドネックが言うことのオウムの口まねに過ぎなくて、「イタリア人はなまけものだから」というようなことを述べることによって、あたかも自分がドイツ人並である妄想にひたるものであるらしい。 ひどい「西洋コンプレックス」(という言葉は、もう死語だべ、と思っていたのに)に陥っているおっちゃんやおばちゃんたちほどイタリア人を小馬鹿にしたような冗談を言いたがるようで、それをネタに先進文明人ぽく盛り上がるのが好きなよーだが、横で見ているわしのほうはゲンナリしてしまう。 カンベンしてくれ、と考える。 理由は簡単で、わしはガキンチョのときからイタリアとイタリア人の築いた文明を途方もなく尊敬しているからです。 いま、われわれが西洋文明と呼んでいるものは、要するにローマ人がつくった文明のことである、という大枠もあるが、何よりも、たとえば父親のイタリア人友達の家を訪ねていけば、階段のてすりには精妙で典雅な彫刻が一面にほどこされ、息を飲むような壮麗なデザインの壁紙があって、室内が一個の美の宇宙をなして、「美の洪水」と呼びたくなるような空間をつくっている。 町を歩いても、イタリアに行って、多少でも観光地でない下町を訪れたことがあるひとなら誰でも見知っている3輪のトラックや、道路の脇にさりげなくとめてあるビアンキの美術品に最も近いモーターサイクル、フロレンスの間口一間で、ほんの少しの空間を店にしてあるだけで後ろに広大な工房がひろがる職人たちの店の傍らに飾ってある得も言われぬ形の靴や鞄、人形、文房具。 イタリア人がもっている「美」への偉大な感受性は、現代の工業製品にも活かされていて、そこへいくとイギリスやドイツなどのイタリアに較べれば圧倒的に文明が遅れている国の製品ときたら、「機能的」と言い訳することになっているデザインができないことへの体裁の良い言い訳でつくられた不格好な外見に、残りの特徴は「壊れない」という頑健で病気をしないのだけが売り物の農夫の美点じみた売り文句だけである。 言うまでも無く「典雅」や「優美」というようなものはイタリア人のものであって、夏の保養地ひとつにしても、コモの湖に行けば、他のアメリカや欧州の保養地のような地域全体が見るにたえない安普請な書き割りじみたいまできの開発とは異なって、そもそも保養地というものがどういうものであったかを教えてくれる。 オペラひとつとってもワグナーが大好きな日本のひとの趣味は、それはそれでいいに決まっているが、わしはミラノ人のジュゼッペ・ヴェルディやトスカナ人のジャコモ・プッチーニのほうがワグナーの百倍は好きである。 もっともそれは「軽み」や「弱々しい線で描かれた繊細」がないところには文明を感じない、わしの感じ方の問題が大きいのは自分で知っているが。 ワグナーも、付き合いでときどきは聴きに行くが、あんまり伽藍っぽい音楽を聴かされると、つい、ダッセエー、肥だめの臭いがするわ、とかいけないことを考えてしまう。 ワグナーのクライマックスで、緊張の面持ちで陶酔している観客席のまんなかで、ひとりでつまらなさそーにしている態度の悪い顔のガキがいたとしたら、わしであるに決まっておる。 ちびガキンチョの頃は、両親の強制お供で、あんなマクドもタイムアウトもないとこに行くのやだなー、だせー、と思いながらよくひきずられるようにしてイタリアへ出かけた。 着いたら着いたで、ぺらぺらとイタリア語をよくしゃべる妹を横目に、くっそー訳わからん言葉でしゃべりまくりやがって、おしゃべりな国民だのおー、と、まさか口には出さないが心のなかでは悪態ばかりついていた。 それがだんだん「文明」というものを理解できるようになってくるにつれて、自分達が作っている万年筆について「熱狂的」というしかない態度で「お若いひと、お若いひと」と繰り返し呼びかけを挟みながら、わしのような愚鈍なガキに二時間も熱心に説明してくれるおっちゃんや、相手は子供であるのにはにかみながら、テーブルにゆるゆると近付いて「料理、おいしいかい?」とゆって、おいしい、というと、これもあれも、と料理屋のおごりで出してくれた若い料理店主、夜の山の斜面にぽつんと小さな灯がともっていて、何も書いていない、ツタにおおわれたドアを開けると壮麗なインテリアの広大な空間がある田舎町のレストラン、 二年も経って訪れたのに、「まあー、よく来たわね!元気だった?風邪はもうなおったの?」と大喜びで迎えてくれる村のひとたち。 フクシマの原発の話をして、でも、日本の科学者は安全ってゆってるみたい、と言うと 「安全でも、わたしはやっぱり子供達が心配だよ。どうして逃がしてあげないのかねえ」とゆって、俯いて、すっかり涙ぐんでしまっているおばちゃん。 … Continue reading

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食物図鑑その10バスク篇

むかしの日本のマンガに出てくる「おフランスの画家」はベレー帽をかぶっているものと相場が決まっていたように見えるが、このベレー帽というオモロイ形の帽子はバスクのものである。 バスクの町に行くと、いまでも通りの至る所にある不思議なくらい座り心地の良いベンチに腰掛けているじーちゃんたちは、みなこの帽子をかぶっている。 フランス人は他にもいろいろなものをバスク人の生活をチラ見して盗んでまねっこしてきたが、その影響は食べ物において最も顕著です。 自分達の伝統料理がどの国からヒントを得てきたか当のフランス人たちはよく知っているので、フランス人はよくバスクにでかける。 バスクの町々がスペインのなかでは比較的にフランス語がよく通じるというのも、そのことの原因であり結果でしょう。 実際バスクは安くておいしい食べ物を食べて安くておいしいワインを飲んでのんびりしたい人にとっては天国のような場所である。 通りごと夢見ているようなバスクの通り をぶらぶら歩いて行って、そこここにあるピンチョスバーにはいると、カウンターの向こうのにーちゃんたちが「オラッ!」とゆって迎えてくれる。 きみはまずおもむろにアンチョビを注文するであろう。赤みのあるほうが味がきつくて白いほうはやさしい味がする。わしは白いほうのが好きです。 ピンチョスが並ぶカウンタから、いくつか見繕って皿に載せる。 それからワインを選ぶなんてこういう場合仰々しくてメンドクサイので、カウンタのなかのにーちゃんに、ハウスワイン一杯ね、とゆいます。 こういう場合、フランスの町やバルセロナでは、こんな田舎の小さなバーでは小さなワイングラスか、あれはあれで良いものだが、グラシアの町ならコップで出てくるかもしれません。 ところが、バスクでは、大きな、立派なテイスティング・グラスで出てくるのさ。 それがバスク人、というものなのです。 なんでも格好良くないと、つまらん、という気持が町中に漲っておる。 薄汚いものがいっぱいある国のあとだったりすると、スカッとします。 赤ワインを二、三杯飲んで機嫌がよくなったきみは、大通りに足を向ける。 ピンチョスバーは5時くらいから店を開けて客を待っているが、大通りの店がぼつぼつと開き出すのはバスクでは午後8時くらいである。 9時くらいになれば、人が大勢あらわれる。 一見観光客向けのように見えるレストランでもバスクの町では、ちゃんと食べ物をつくり、きちんと選んだ飲み物を出すので、地元の人のほうが多い。 平日は11時をまわると、ほとんど地元の人だけになります。 いまはまだ8時なので、きみは、もう一軒ピンチョスバーに寄っていこうかなあー、と考える。 さっきのバーは威勢の良いにーちゃんたちがやっているモダン・ピンチョスだったので、今度は伝統的なピンチョスがうまい店がいいかしんない、ときみは考える。 そういうときに行くのは、中年の夫婦者がやっている、こういう店よね。 さっきのピンチョスバーでは、にーちゃんたちが話しかけてくるのは、 「ねえ、きみは昨日の晩のイギリス人の女の子たち3人がやっているバンド見に行ったかい? かっこよくて、足から股間まで熱くなっちまうよ。 おれたち、今日も、見に行くのさ」 なんちゅう話だったのが、ここでは、おばちゃんがカウンタから身を乗り出して、 「どうして、銀行はあんなに汚いんだろう。 わたしとあのひとが苦労して手に入れた家を、手放せなんていう。 あんた、信じられるかい? あんたの国でも、そうかい?」 とシブイしわがれ声で話しかけてくる。 ピンチョス自体もシブイっす。 赤ワインをもう3杯も飲んで、おばちゃんの声につられて奥から出てきたおっちゃんもくわわって、金持ちどもは、つるみやがって、おれたちからカネをむしりやがる、許せないよ、という話を聞き終わった頃には、きみはすっかりお腹が空いて、マジなものを食べなければもたんのお、と考えます。 だから、レストランの通りへと移動する。 そういうときに、豪勢なレストランに行く必要はなくて、ひとりなら20€もだせばワインと水を含めてもおつりがくるようなレストランで十分である。 食前酒は、もう、少し飲んだあとだからとばしてもいいだろう。 バスクの名物、マルミタコ(鰹とじゃがいもとトマトの煮込み)(すげー、うめっす) をまず頼む。腹がすきまくっているので、 … Continue reading

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静かな街

サンジェルマンデュプレにあるJの店に昼食を食べに行った。 8月1日なので、まともなレストランはみな閉まっているが、Jの店は開いている。 むかしから、そうです。 電話すると、「あー、じゃ、息子も呼んでおくから4人で一緒に昼ご飯を食べよう」という。「どうせ、こんな時期に客なんか来やしないから」 Jの店は、小さいが、なんでもおいしい魔法料理の店のような料理屋です。 フレンチバスクの料理が得意なシェフのDが厨房を仕切っている。 店にはいってゆくと、女の子の先客がいて、何事か必死に頼んでいる。 大学生だと思うが、小さく飛び跳ねてなんだかチビちゃんがわがままを言っているようでかわゆい。 Jは、女の子の肩越しにモニとわしをちらと見てから、女の子に奥を指し示している、と思ったら、Jが奥を指さすのと同時に女の子はくるりとこちらに身体の向きを変えて店を出て行った。 「おいおい、待ちなよ、いい、と言っているじゃないか」というJの声は聞こえなかったもののよーである。 トイレを貸してくれって、いうんだよ。 だから、もちろんうちのトイレを貸してあげるのは良いけれど、そこの公衆トイレはとても綺麗だから、ほんとうはそっちに行ったほうがよいと思う。 そうでなければ、そのヘンの珈琲屋にはいって一杯の珈琲を頼んでからトイレに行きなさい。もうオトナなんだから、社会のルールを憶えなければ、といったんだが。 Jは肩をすくめると、気を取り直して、モニとフランス式に抱擁をかわして挨拶する。 わしとは、わしが奥義を教授してしんぜたニュージーランドのマオリ人の挨拶をします。 鼻と鼻をくっつける。 バーのカウンタの下からこの店の自慢のロゼをとりだすと、モニとわしに一杯づつ注いでくれます。 息子のPがやってきて、モニとわしに挨拶してから、カウンタにはいってなにごとか準備している。 Pは17歳になったばかりで、いかにもまだ少年の初々しい顔です。 はにかむと、少女のようだ。 Jとわしらは、パリの変化の話をした。 途中からPもくわわって、みなのワインが切れるたびに細かく気を配ってワインを足してくれる。 あいかわらずサンジェルマンデュプレの「ビーチ」は人気がある。 だから夏も開けておくんだけど、ちっとも客はこないのさ。 みんな、そのへんでサンドイッチを買ってコーラを買って、おれの店にはトイレを借りに来る。 そんな客ばっかりなんで嫌になるよ。 シャンゼリゼのヴァージンメガストアは、まだあるんだぜ。 なぜ、パリだけが生き残るのかみんなで不思議がっているのさ。 外は29度で、ものすごい暑さ。 静かな太陽の光がじりじりおいあげてくるような暑さである。 熱さ、と書いた方がいいかもしれない。 モニとわしは「ビーチ」を歩いてきたが、ビーチパラソルを抱えた上半身裸の男や女たちがたくさん歩いていた。 浮浪者が酔いつぶれて寝ているすぐ横でアフリカ人のカップルがいつまでもいつまでもキスをしている。 橋の下を通るときに、ホームレスのねぐらから、嫌な臭いがぷうんとする。 遊覧船に難民みたいに詰め込まれた世界中からやってきた観光客が、どこを見ればいいのかよく判らないような顔をして川沿いの風景を眺めている。 荷船のキャビンの上にサマーベッドを出した運送屋の奥さんが水着で日光浴をしている。 操舵輪を握った旦那がそれをぼんやり眺めている。 いつものパリの夏の光景。 料理は相変わらず超一流で、英語ではキャセロールという名前になるはずのおおきめのココットに平たくつくったポーチドエッグを敷いて、その上にクリームソースとサーモンを載せて焼いた前菜もうまかったが、豆を裏ごしした緑色とマスタードベースの黄色と、この店の売り物のひとつであるブラウンソースの3色のソースの海につかったシャロットと豚のヒレ肉、なすびと豚の挽肉をつかってつくったステーキにベーコンを添えた肉料理も、スズキのグリルもおいしかった。 最後は、縦にふたつに切った巨大なババにラムをたっぷりかけて食べました。 … Continue reading

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La Carte s’il vous plaît

1  モニと結婚する前は、フランスを旅行する、というと昼食はトラックの運転手さんたちが集まるところで摂る、と決まっていた。 街道のあちこちにあるこういう定食屋は、おいしいし、安いからです。 日本でゆえばでっかいポテトサラダみたいなのとかサラミが10枚くらい載っていてマヨネーズさんがかかっているみたいな前菜、本家なのだから当たり前だが、これはこんなうまい食べ物だったけかと思うほどおいしいフレンチフライがごしゃまんと脇に積まれたビーフステーキ、何種類でも自分で勝手に切り取って食べればよいチーズ、赤ワイン500ml、それにクランブルレと珈琲がついて10€、というのが相場であった。 そういう謂わばフランス式定食屋神田食堂が至る所にあるのがフランスという国のもうひとつの良い所でクルマでどこからどこへ移動しても、お腹がすいたところでテキトーに昼飯を食べて、夜はまたテキトーによさそうな食堂にはいって、部屋が食堂についていれば、そこで泊まればよい。 気楽なもんです。 モニというひとは、しかし、そういう場所に一緒に行くとはなはだしく場違いなひとで、 食堂に一歩はいるなり、食堂のおばちゃんたちは、し、しまった非現実的なものを見てしまった、という顔になり、トラックの運転手さんたちは、怯えた表情を浮かべて顔をひきつらせている。 別にモニさんが目を燐のように輝かせて口から紅蓮の炎をはきだしているわけではありません。 やや現実味を欠いているほどの美人であるモニが店にはいってきてしまったので、店のなかが皆「どーしよー」という空気になっているだけである。 その後ろから、義理叔父にゆわせると「極楽のトンボでも怒り出すくらい気楽そうな」わしがはいってゆくと、冗談ではなくて、いっせいに安堵の空気がもれる。 よ、よかった、人間のお供が一緒ではないか、おまけになんだかへらへらしていてちょっとバカそーだし、と思うもののようである。 パリの郊外で週末を過ごすことに成ったので、モニとわしはモニかーちゃんご一行さまよりひと足はやく移動することにした。 途中、お腹がすいてきたので、「お昼ご飯、どーしよー」とモニに訊くと、 トラック食堂に行こう、という。 えええええー、と思ったが、ひさしぶりでもあるし、ま、いいか、ということにした。 最後にこの手の定食屋に来てからだいぶん時間が経ってはいるが、いまでも全然おんなじです。 狭い店内にはトラックの運転手さんたちがひしめいていて、テーブルはみな相席で満員である。 メニューは相変わらずほぼ上記のごとき内容で、しかも2年は経っているのにまだ10€である。 おばちゃんたちは初めモニに話しかけるときには「おっかなびっくり」という表現がぴったりの様子だったが、モニというひとは平明なひとなので、ひと言ふた言言葉を交わしただけで、安心するばかりか嬉しくなってしまったようでした。 おばちゃんたちが忙しいのに、なにくれとなく気をつかってくれるので昼食は楽しいものだった。 前菜を食べ終わったくらいのところで、ふたりの大学生がはいってきて、モニとわしのテーブルの隣でトラックおじちゃんと相席をすることになった。 なにしろ狭い店内なのでモニが椅子を動かして道をあけてやると、大学生ふたりは、大恐縮して、盛んにお礼をいっておる。 ふたりとも身なりのよい、気持のよい青年である。 向かいで炭酸水ボドアをちびちび飲んでいたおっちゃんが、ふたりの青年に向かって、話かけ始める。 自分はクルマを運搬する途中でここに寄ったのだが、今日は天気もいいし、道も空いているし、いい日でした。 ふたりの青年は、返事をしません。 失礼にしている、というのでは全然ない。 ごく自然に返事をしない。 片方の大学生はおじちゃんの顔を見ているが、もう片方に至ってはおじちゃんの座っている「方角」を見ているだけで、まるで横から見ていると、あたかもトラックおじちゃんは亡霊であって、青年には見えていないもののごとくである。 おじちゃんは、相変わらず機嫌よく話しかけているが、とうとう勘定をすませて立ってゆくまで、このふたりの青年は、メニューに載っている食べ物の相談やこれから出かける先の森についてお互いのあいだだけで会話するだけで、トラックおじちゃんにはひと言も話しかけるとか返答する、というようなことはなくて終わってしまった。 あまつさえ、おじちゃんは「では、ご機嫌よう、気をつけて旅をしてくださいね」と挨拶をしていったが、別にこのふたりは挨拶を返すというのでもない。 わしは、フランスだのお、と見ていて思います。 フランス人の習慣では、別にこのふたりはおっちゃんに対してケーベツ的な態度をとっていたわけではない。 「話をする場面ではない」から話さなかっただけです。 日本では「身分ちがい」というような事を聞くと、幸せにも、みながその時代錯誤な語彙にふきだしてしまうが、フランスではいまでも「身分違い」という事が厳然とある。 身分が下のものは、身分が上のものに話しかけたりしないことになっておる。 おっちゃんが盛んに話しかける失礼はとがめないとして、このふたりがおっちゃんに返事をする理由はなにもないので、ふたりは、まるで自分達に見えていない幽霊と相席しているかのような態度にみえたのでした。 だから何よ、とゆわれても困る。 ずっとずっと大陸欧州にすんでいる日本のひとから来たメールのなかに、フランス社会の「身分」について触れているところがあって、それは殊更にフランス社会に厳しい身分の区別があることを嘆いている、ということでは無論なくて、話の一環として、単純に身分について触れていて、こんなに長いあいだ住んでいるのに、どうもいまだによーわからん、と書いてあったのでしたが、読んでいたわしは、そーか、このひとも欧州に長く住みすぎて、到頭、そんなところまで見ちゃったのか、と考えたので、自分で考えてみるヒントとして定食屋で見たことを日本語で書いてみよう、と思っただけである。 … Continue reading

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パリ

1 まだ、おパリにいる。 おパリ、はヘンだというひともいるだろうが「おフランス」があるのだから、おパリでも日本語として成立しているものと思われる。 おパリにいる、とゆっても、アイフルタワーをクルマからちらと見て、おーすげー、相変わらずおったってるのおー、と感心した一瞬だけがパリであって、あとはモニのおかーさまのお供をしたり、おかーさまの巨大な城塞に似た住居のなかをうろうろして、トイレがどこにあるか判らなくなって迷子になってケーベツされたりしているだけで、やはりヒルトンに泊まって「パリス・ヒルトン」をしたほうがずっと良かったものと思料されておる。 社交界の最も肝腎な部分から、例のビデオの一件でしめだされてしまった(気の毒に泣き狂っておったそーだ)あのひとの名前は日本語の表記習慣にのっとれば「パリ・ヒルトン」であるはずだが、なぜ「パリス・ヒルトン」なのだろう。 ロンパリという言葉は「ロンドンとパリ」をいっぺんに見るほどふたつの目が向いている方向が正反対である、という意味だそーだが、日本から見ればロンドンとパリは誤差の範囲で同じ向きにあるのではないか。 夜になればモニとクラブにでかけるが、パリのクラブははなはだしく性的で下品な場所なので、わしの荘重な日本語のせいで高年齢層も多いと思われる日本語ブログには刺激が強すぎて書けやしない。 きみが16歳なら強刺激に遭遇しても、乾坤一擲修行して、環境にまけないくらい下品に磨きをかけて、綺麗なねーちんと見れば(ちゃんと相和した合意でなければダメよ)押し倒して、下品でパリのクラブを制圧するということも可能だが、60歳の場合、第4コーナーを回っても一向に減退しない性欲をもてあまして、さびしく自瀆する以外なくなってしまうやも知れぬ。 えー、そんなジジイいねーよ、と思ったきみ、あまい。 自瀆ジジイも自慰ババアもいっぱいいるではないか。 医学的事実です。 息子の大岡越前に「女人はいくつくらいまで性欲があるものですか?」と訊かれた越前かーちゃんババは、黙って火鉢の灰を火箸でかきまわせてみせたという。 「灰になるまで」という意味です。 フロリダあたりの老人ホームは、乱交クラブ化しているところもたくさんあって、じーちゃんとばーちゃんたちが、やりまくっている。 わしの友達は奇妙な経緯からマイアミの老人ホームの一室に一晩泊まることになったが、夜のあいだじゅう、隣の部屋から、ヒキガエルが踏みつぶされるような、しかし明らかに女びとが性交のときに挙げる声が聞こえ続けて眠れなかった。 本人たちは楽しい時間を過ごしているのだろうが人間の人生の悲惨や辛さ、というようなことがしきりに頭のなかに去来して、それから「人生」というものへの考えが更新されて、もう一段人生に対する殺伐とした気持ちがました、と述べていた。 人間でいるのが、いてもたってもいられないくらい不安になった、という。 以上のような現実に鑑みて、パリの夜のことを書くのは、日本という制限の多い社会ではためらわれるべきだと考える。 おパリは、あんまり人間に夢を見させてくれない街である。 マンハッタンに似ている。 そういう意味では、ずいぶん田舎じみてきたとゆっても、いまでも都会なのかもしれません。 2 ここからカリフォルニアにいって、用事をすませたら、ニュージーランドにいちど帰る。 ブラフ・オイスターの季節だからね。 マールボローの白ワインとオイスターの天ぷら、うめーんだよ。 白酢で食べる。 郎党のひとびとも待っているはずである。 日本のたとえば的矢の牡蠣に較べるとずっとずっと小さいブラフオイスター(モニはニュージーランドはフランスとは牡蠣とマッスルの大きさが逆だな、と笑う)2ダースくらい食べるととても幸福になります。 二週間くらいいたら、マレーシアかカタールに行くであろう。 ええええええええええー、イスラムの国になんか行ったら、うまい酒がねーじゃん、トルコ除く、と口を尖らせたら、モニにきっぱりと 「だから行くんです」とゆわれてしまった。 ええええええー、やだあああああー、となおも抵抗したが、 「それならサウディアラビアに行こう」とマジメにゆわれたので、イチジクのお菓子はおいしくても通りにおいしい酒もまずい酒もないあんなアル中更正施設みたいな国につれてゆかれると困るので、あっ、ぼく、それでいーです。 ラクサ、たのしみだのお、ということにした。 モニはマジメなひとなので、ときどき酒を飲まない月やなんかをつくるのは良いことだ、と思っているよーだ。 先祖代々、朝から晩まで飲んだくれていて、酔っ払って夜中に馬を乗り回して、湖におっこっておっちんだりしていた我が家(いえ)のひとびととはえらい違いです。 そんなんマジメで退屈だのい、と思うが、モニさんのほうが偉いので、従わないわけにはいかないであろう。 そのあとはオーストラリアに行かなければならないはずだが、まだ決めておらん。 メルボルンに行けば、いつかブログに書いたむちゃむちゃうまいギリシャ人家族のハンバーガーがまた食べられる。 ドックランズの、バーベキュー型ステーキでは世界でいちばんうまいと思われるステーキレストランにも通える。 … Continue reading

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イタリア・フランス・スペイン

1 高速道路 一日400キロ、というような移動距離になると、高速道路が大嫌いなわしでも高速を使います。田舎道は景色はいいが危ないからな、景色がいいと前をあんまり見ないモニが運転しているときはもっと危ない。 うっかり、あっ、牛さんだ、とかゆってしまうと、モニは前を見るのをきっぱりやめて、「ガメ、どこに牛がいるの?あっ、ほんとうだ、かわいい」とジッと見ている。 とっても、怖いです。 だって、クルマ、狭い対向車線の道を100キロとかで走ってるんだからな。 そこへいくと高速道路は安全である。 大陸欧州人は、方向指示器なんてめんどくさいものは使いません。 無論法律では車線を変更するときにはインディケーターを点滅させることになっているが、誰も使わん。 方向指示器を使うのは、自分が移動したい先に相手がいる場合、「どいてどいてどいて」という意味で使う。 イタリアからスペインまで似たようなものだが、微妙に違うところもある。 フランス人は歴史を通じて凝りすぎて破滅する、というオモロイ特徴をもった民族だが、高速道路でも凝っていて交通量が多い区間になると下り坂の制限時速が90キロで上りの制限時速が100キロ、というようなところがたくさんある。 上り坂のはじまりで渋滞が始まることが多いからです。 芸が細かい。 それがイタリアにはいると、トンネルの入り口も登坂のはじまりもおかまいなしに110キロ、とかであって、イタリアだのおー、と感心する。 むかしは大陸の高速道路をクルマで移動するたびに、車線をまたいだまま、ずううううっと走っておるやつや、車線と車線のあいだを、ゆーらゆら、ゆらゆーら、渡り歩きながら運転しているやつがいるのはなんでだ、と思っていたが、モニさんが運転する順番のときに、追い抜きざまにどういうひとが運転しているのか観察することにしたことがあった。 フィアットのちっこいのが、3車線のあいだを右から左、左から右に、大胆にふらふらしながら走行している。左から右に移動しだしたタイミングをみはからって、モニさんが、ぶおおおおおーんと加速して、びゅんと追い抜きます。 追い抜きざま、わしはこのフィアットを運転している若いねーちんが、何をしているのか見てしまった。 何をしていたか、というとだね、聞いて驚いてはいかむ。 スパゲッティ食べてんだよ。 時速130キロでクルマを運転しながら、スパゲッティ。 わしは、スパゲッティを食べながらクルマを運転するひと、というのを初めて見ました。 それですっかりオモロクなってしまって、次から次に「ふらふら運転」をしているひとを観察してみると、携帯でテキスティングをしているひとが最も多い。 次は携帯で話しているひと。 なんか食べてる人、というのもその次くらい。 要するに大陸欧州人たちは高速が退屈なので、いろんなことをやりながら高速道路を運転する。 だから、ふらふらしておるやつが多いのだ、というフィールドリサーチどした。 フランスはやたらカネを取りたがるが、スペインはただの高速道路が多い、とか他にもいろいろ違いはあるが、最も異なるのは運転者気質で、印象としては、 イタリア人:スピード狂 フランス人:運転が悪辣 スペイン人:なんも考えてない ついでにコモ湖のような一定の観光地域に行くと、いっぱいうろうろしているアメリカ人観光客についても述べておくと アメリカ人:運転がドヘタ というところであろーか。 アメリカ人はすれちがうのがやっとの道でセンターラインからはみだしたまま、へーきで走ってくるような、 免許、もってるのか、ボケ、と思う人が多かった。 多分、マニュアル車の運転に慣れていないからではなかろーか。 モニとわしのクルマはフランスナンバーなので、スペインの高速道路では、なああーんとなく恐れて側に寄ってこない。 町の悪党って、こんな感じかしら、と思ったりして、ちょっとしたやくざ気分を味わうのであります。 2 ハウス・ワイン 日本にいるときに、料理屋でもっとも嫌であったのは、「ハウスワインが不味くて飲めない」ことでした。 … Continue reading

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Cueva de El Castillo

モニがクロマニヨン人たちの洞窟の壁画を見に行こう、というのでカンタブリア州にでかけた。 アルタミラは人間の悪い息と湿気で絵が消えかかっているので非公開になっている。 特殊なルートを通じてお願いすれば見られるそうだったが、割と簡単に出来るたとえばルーヴル美術館の時間外絵をみながら散歩(わしは「鑑賞」ちゅうようなダッサイ言葉きらいでんねん)と異なって、えらいたいへんなので、やる気が起こらない。 いま見ると有名でないどころか日本語では何の記事もないみたいでぶっくらこいてしまったが、Cueva de  El Cstillo の洞窟画を観に行くことにした。 アルタミラやラスコーがレプリカの公開だけになってからは、クロマニヨン人たちが残した洞窟壁画が観られるのは、この洞窟だけのはずである。(他にもあったら教えてね。観に行くから) ラスコーやアルタミラの壁画と似たよーなのが、というのはつまり炭で描いたバイソンだとか牛さんだとか馬さんの顔だとか、鹿さんだとかの絵がいっぱいあります。 しかし、酸化鉄を吹き付けて印象した手のひらの陰影画が最も有名である。 欧州でもあんまり有名でないのは、多分、発掘が新しくて、まだどんどん発掘している最中だからでしょう。 カンタブリアの洞窟の発掘で(スペインでは)有名な Hermilio Alcalde Rio がこの洞窟をめっけたのは1903年だったが、それからなかなか発掘は進まず、というかやらず、いまのような一般の人間がアクセスできるようになったのは2008年です。 行ってみると判るが、1940年代、他の国が戦争をしているあいだじゅう戦争をしていないスペイン人はひまをこいていたので掘りまくっていたのにまだ半分も発掘が終わってない(^^;) わしは初めアルタミラのレプリカ博物館でごまかしちまうべ、と思ったが、モニさんが、そんなんじゃ嫌だ、というので、結局、これに出かけた。 ビルバオからクルマで二時間くらいです。 バスクとの国境(くにざかい)を越えてカンタブリアの美しい海岸線を見ながら、しばらく海辺をドライブして、80キロくらい行ったところから内陸に向かって田舎道を走ります。 正午を40分くらいまわってしまったので、 途中でド田舎の町の、牛さんのかぐわしい糞の臭いのする(冗談でゆってるのではなくて、わしもモニもほんとうに牧場のマニュアの少し酸味がかった匂いが好きなのです。あんなに良い匂いて、世の中にあんまりないと思う)コーヒー屋で、件の巨大源氏パイとカフェ・コン・レチェで遅い朝食を食べた。 えっ、午後一時前なら昼飯じゃん、ばっかみてえー、と呟いた、そこのきみ、甘い。 この近在のスペイン人が午後1時前なんて殊勝な時間に昼飯たべるかよ。 この辺りでは昼ご飯は午後3時くらいに食べるものなのね。 夕飯は10時でごんす。 スペイン人は並の文明人とは根性が違うのだとゆわれている。 ガイドのスペイン青年と待ち合わせたのは午後1時だったので、その時間にはまだコーヒー屋でわしはでかい源氏パイをぱくついておってモニはパン・オ・ショコラを食べていたのは内緒で待ち合わせの時間に遅れちった遅れちったと考えながら洞窟の前にやってきてみると、スペイン青年はかっこよく探検ルックで決めて洞窟の前で待っているのであった。 洞窟画は、素晴らしかった。 どうしてあんな何も考えていない線がひけるのだろう。 というようなこともさることながら、(ははは、「さることながら」使ったぞ) バイソンを描いては手のひらを(ガイドにーちゃんによれば)こちらに向けて酸化鉄を吹き付けて印象していったこのゲージツカたちは、何を意図していたのだろう? あちこちに描かれたバイソンや雄牛や鹿の絵には、すべて、それに被せるように手のひらのネガティブがある。 もっとよくわかんねーなのは、何十と描かれたディスクで、ガイドにーちゃんは、「洞窟の案内システム」ではないか、とゆっていたが、しかし、ここで重要なことは入り口の研究員にーちゃんに確かめてもやはりクロマニヨン人は「数を数える」ということをしなかったはずで、数を数えない人間が、「ディスク」というような抽象的で単一な図柄をたくさん壁に描き込んでゆく、というのは極めて異常なことであると思われる。 わしはずっとクロマニヨン人たちはラスコーやアルタミラやカンタブリアの洞窟のなかで遊びとして絵を描いていたのに違いなくて、なあーにが「呪術」だよ、と思っていたが、呪術はセンスがなさすぎるにしても、遊び、というような言葉が代表あるいは指示できるものではなくて、あのひとたちは、もっとものすごく真剣な作業として絵を描いているのが洞窟の謂わば環境ごと絵を見ていると、どんなアホにも判るのであって、そのことにいちばん驚きました。 人間の宗教を求める心や芸術を求める気持ちというのは、どうも、われわれが教わったようなものではないようだ。 いまは、まだもっと時間がないとうまく表現できないが、どうも人間がもっている宗教や芸術というものの姿は根本的に間違っているように思います。 そんなことではなかったのだ、と考えました。 「あんなにめんどくさがっていたくせに、ガメのほうがコーフンしているではないか」とモニにからかわれながら、わしはもと来た海岸線をまたクルマをとばしてビルバオに戻ったが、帰りは、モニとクロマニヨン人たちの魂の不思議について話し合ったり、普遍や抽象という世界に人間が踏み出した理由をわれわれが誤解していたに違いないことについて考えたりして、あっというまについてしまった。 … Continue reading

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語彙、ごいごい、ゲンゴー

日本の「ランチ定食」はスペインからの社会習慣の輸入であるはずだが、宗家スペインの「ランチ定食」は独裁者のフランコが低所得層国民に受けるために苦心してひねりだした「安い価格でおいしいお昼ご飯を腹一杯食べてもらう」ための制度だった。政府がレストランに直截働きかけて、このメニューを一種類か二種類に限定するかわりに、ものすごく安い価格でおいしいものをたくさん出すための仕組みを確立した。 独裁者というものはビンボニンがおいしいものを食べられない恨みというものの怖さを古今よく知っているものであって、シンガポールのリ・クアンユーもだからホーカーズの屋台に補助金を出しまくって、そのせいでシンガポールの有名な天天海南鶏飯は20年前と同じ3ドル80セント(250円)であることは前にも書いた。 サンタマリアの裏小路にある料理屋で、わしは、それだけで満腹になってしまいそうな、どひゃっな量のマルミタコ(バスク郷土料理で鰹とジャガイモの煮込みでがす)と、次に出てくるでっかいヴィールの牛かつ、それに500ミリリットルのワインと水がついて、最後にはデザートの滅法うまいチョコレートがどろどろなチョコレートケーキがついて11ユーロ(1300円)のランチを食べた。 モニはサラダとヴィール。 スペインという国は食べ物が特別においしい国なので、どうしても毎日たべすぎてしまう。 三食、合計9時間くらいかけて食べていて、食事が終われば、一杯150円くらいのビノ・ティント・デラ・カサを一杯か二杯ずつ飲みながら、あっちのバールからこっちのバールへとふらふらして、カウンタごしにおっちゃんと話したり、カウンタに頬杖をついている隣り合わせになった仕事帰りの女のひとや家事が終わって息抜きに来た主婦おばちゃんと話して遊ぶ。 今日はどこのバールの壁にもあるテレビのトップニュースはフクシマの汚染牛肉であって(これは世界中でひさしぶりに大きく報道されたフクシマのなりゆきだった)、テレビを見上げて日本にいたことがある、と話すのももう飽きてきたので、日本にいた、というようなことはしらばっくれて、日本を多少でも見た事がある、というようなことは「おくびにも」ださずに、日本はてーへんだなあー、とゆっていると、一緒にテレビをときどき見上げながらカウンタの向こうでハモンをせっせせっせと切っていたおっちゃんが、いったいどうなるんだろうな、スペインであんなことが起きたら、おれはどうしたらいいか判らないよ。 考えてみたことがあるんだが、やっぱりわからなかった、という。 わしも、わからん、と呟きながらテレビを見上げるわし。 隣のおばちゃんが、「あなたはイギリス人なの?」と、いきなり英語で話しかけてくる。 この頃は、英語ができやがるとつかいたくてしょーがない奴が大陸欧州にも繁殖しておるので、わしはときどきメーワクである、と思わなくもなし。 英語で話しかけられてちょっと気持ちが意地悪になったのかもしれません、いーや、わしはニュージーランド人だがもし、というと、全面笑顔になって、実はわたしは去年の11月にニュージーランドに行って、それはそれは楽しくて、…としばらく演説をこかれてしまった。 わしの心の動きなどいつもお見通しのモニが隣で必死に笑いをこらえておる。 ビルバオの用事は終わったので、いつフランスに戻ってもよいが、わしはまだバスクでのんびりしてます。 チャコリというバスクの白ワインや赤リオハで酔っ払って川沿いを散歩したり、全然ものにならないバスク語をケンキューしたり、どう考えてもこのキリストの像は大きすぎるだろうと考えながら、あの初代ヒッピーおっさんの姿を眺めたり、サンダとガイラなら「まここと」が好きであるらしい「グッゲンハイムのパピーちゃん」にお手をしてもらえるかしら、とスケールを訝ったり、ピンチョス屋の味較べをしてカンドーしたりしながらビルバオビルバオして暮らしておる。 バスク人はスーパー・モダンが好きなので、思い切ってものすごいものをいっぱい作るが、このひとたちは、もともと頭がいいので、たいていの場合、その(世界的には)うまくいくことが少ない冒険的な試みがうまくいっている。 偉いひとたちだなあ、と思います。 スペインにはわしが好きな場所がいっぱいある。 カタロニアの陰影。 カステラの赤土の荒野やガリシアの深い色の緑。 細いガムトゥリーが並んだバスクの稜線。 スペイン人は地方色はあってもみなはにかみ屋で、それなのに相手にうけいれてもらったのだと判ると、パッと明るい顔になる、その表情の大きな変化の美しさや、たかがわしが微笑んだというくらいのことで、今度は身振り手振りもたくさんついた興奮で、たくさんたくさん話をする、その(わしが育った世界の基準からいうと)無防備なところがたまらん。 大好きである。 フランスのほうが、土地の質が高い、っちゅうか、楽しいものが密度が高くて、フランスはどんなド田舎に行っても必ず良いものがあって良い宿があって良い料理屋がある。 イタリアも、イタリア式な違いはあってもやっぱり文明が至るところに行き届いていて、次から次にあらわれる楽しみに息もつけないところがある。 スペインの魅力は、そういうロマンス語兄弟国とはずいぶん違っていて、フランス人たちはスペインのことをさして「アフリカ」だとゆって揶揄するが、それは必ずしも揶揄ではなくて、こんなふうな言い方をすると、またショーセツカとかに率いられたヘンなひとびとが集団であらわれて「人種差別だ!」と怒鳴り込みに来そうであるが、街と街のあいだが300キロがとこは離れていて、あいだには荒野みたいなヘンな土地が横たわっているスペインという国を旅していると、カタロニアやバスクくらいに戻ってきたところで「おー、文明の世界に戻ってきた」とごく自然な感情の反応として思ってしまう。 しかしスペイン人には、そういう「荒野」を抱えている国のひと特有の言葉にするのが難しいひとなつこさというか人間らしい暖かみというか、そういうものが溢れるようにあるのです。 だから、つい居心地がよくて居てしまう。 7月の終わりにはパリにいないといけないのに、こんなことでいーのか、と自分でも思うしモニにもダイジョーブか、とゆわれるが、なんだか、きっとダイジョーブだろー、くらいのええかげんな気持ちの心地よさに負けてしまう。 ラマチェンゴ、ラマチェンゴ。 ウエイ。ラマチェンゴ。 いまから振り返って考えてみると当たり前のことにしか過ぎないが、実は人間のアイデンティティというか人格そのもの、そのひとが何を考えて、世界をどう感じるか、というようなことは9割方はどの言語を母国語あるいは母語とするかで決まってしまう。 その言語を獲得したあとに、本人がその言語の思考集合のなかで組み立てられる独自性などは感覚的に数字でゆってみれば3%もなさそうです。 わしはずっと日本の人が考える欧州が、この宇宙のどこにもない欧州で、いわばそれは「誤訳された欧州」のようなものであって、教会も神も美術ですらも、すべて「欧州」というよりは、誤訳の結果立ち現れた何か見た事のない新しいもので、そうであることのほうがただの「欧州」なんかであるより、ずっと面白かったが、それが日本語で考えられた欧州であることに、去年くらいになって、このブログやツイッタに攻撃者として現れた奇妙なひとたちのせいで、気が付いた。 「すべりひゆ」という人が感じる神だけが不思議なほど通常の「神」に近いのも、だんだんわかってみれば、このひとのイタリア語能力の結果ということにすぎないもののようであった。 すると、人間は自分が属する言語の奴隷なのだろうか、と思う。 この疑問は、まだ答えのない疑問だが、たとえば数学というような言語を比較の対象にして検討してみると、いまのところは無限に正しく思える。 もっとくだらないことをいうと、では何語を母語にして育てば人間として最も思考するのに楽か、あるいは感情がもつれなくて楽か、というと、それはイタリア語かスペイン語であるようだ。 どこの国の社会にもいるスペイン語かぶれのバカにーちゃんやバカねーちゃんを見れば判るとおり、これが母語でない場合にはビミョーな罠になるが、(話をいつものごとく端折ると)、なぜ楽か、というと、このふたつの言語はローマ人の思考と直截つながっていて、しかもフランス語のように世界一激しく個人を抑圧する社会的な仕組み、というものも歴史上もたなかったからであると思われる。 ローマ人の健全そのものの多神的世界に言語を通じて直截ふれられるからです。 … Continue reading

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Ooh La La!

1 わしはビルバオにいる。 ビルバオのホテルの部屋で日本人の友達からきたe-mailを読んでいる。 結局、日本語では正しく何事かを考えるということはできないのではないだろうか? ガメ、どう思う? われわれの言語はこの世界にたったひとつの神様が関与しない言語で、ぼくもぼくの友人達も、それをたいそう誇りにしていたものだった。 きみが、日本語に興味をもったのも、そういう理由だった。 長野の山のなかの、あのレストランで、闇のなかに聳え立つ木々の影をながめながら、神と人間の言語の関わりを、われわれが声帯をけいれんさせ舌をふるわせてわずかな語彙で神を考える事の意味を、議論したときの興奮をおぼえている。 だが、結局、神が関与しない言語など悪魔の言語にしか過ぎないのではないだろうか? われわれは、ほんとうのところ悪魔的な民族で、いわば世界のなかで悪魔的な文明を繁殖させているだけなのではなかろうか。 Kさんのメールを何度も読み返してみるが、そうしてわしは、なぜKさんがそう考え出したかも知っているが、 答えなんて判らねーよ。 判りたくないのかも知れない。 それとも、もう人間の言葉で考えるのがめんどくさくなったのかもしれません。 Ooh La La! Ooh La La! 人間の文法で出来たこの息がつまりそうなシンタクスと語彙で考えるくらいなら、意味のない声を挙げて、踊り狂ったほうがいいのではないだろうか。 Ooh La La! Ooh La La! この知能には、この知恵には、この羨望や、この洞察には、 なんの意味もない。 どんな建設性もありやしない。 2 わしはチェルノブイリの結果だという、一つ目の胎児や双頭の幼児、手足が四方八方に生えた不思議な形の人体の標本を見ている。 日本人の若い医学者たちの意見に反駁するアメリカ人やUK人の友人達のメールを読んでいる。 標本の扱い方について初歩的な知識に欠ける、ある種類の日本人たちの統計の取り方を冷笑するドイツ人たちの手紙を読んでいる。 なぜ日本人は、こういうバカどもを訴えないのか? それとも国民ごとバカなのか? ガメは、なぜ日本人たちのために意見を述べてやらないのか? それともきみが日本語が出来るという噂は嘘なのか? Ooh La La!  Ooh … Continue reading

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食物図鑑 その7 ガリシア篇

午後2時。ガリシアとカステラの国境を通るときに140キロで滑るように走っているシトロンの外気温度計を見たら12度でごんした。 晴れた真夏の午後だっちゅうのに、どーゆー気温なんだこれは、と思っているうちに、ガリシアの濃い緑色の森が消えて、カステラの赤土の台地になる。 くるときに泊まったレオンのホテルが気にいったので、まだ一泊して遊んでゆく気になったんでがす。 ガリシアは食べ物がおいしいので、なんだか食べてばかりいた。 大聖堂の裏参道をずんずん歩いて行って、そこから分かれる脇道にわけいってゆくと、むかしからの(小さな寝室がついた)料理屋も現代風なレストランもある。 英語なんか全然ひと言も通じないが、だから横柄なバカ英語人がいないからいっそうよいともゆえる。 「新市街」にもおいしい店はあるが、わしは伝統料理を食べるのに忙しかったので、現代風な料理屋には三軒、五回しか行かなんだ。 グラシアのような町とは違って、ガリシアでは伝統料理のほうが深みがあるように思いました。 スペインの友達に「ガリシアにいるのだ」というと、ガリシアに夏行くバカがいるものか、と笑われてしまった。 モニも、ガリシアはほんとうは冬がいいんだぞ、という。 初め友達に言われたときには、わしのいるガリシアが涼しいからってひがむんじゃねーよ、と考えたが、モニまで冬がいいというので、(モニがいうことは全部ほんとうであるに決まっておる)、そーなのか、と考えました。 ガリシアの料理屋に行くと理由がのみこめた。 じゅん爺の住む富山と同じなのね。 食べ物が冬においしいものが揃っておるのであった。 夏に特別においしいのは鰯だけであって、他は、ガリシアン・スープも牡蠣も他のほとんどの海鮮料理も冬のものばかりなのでした。 でもいまの季節のものもあって、たとえば、この鰹のタタキはおいしかった。 いーやいーや今度は冬来るからいーや、とふて腐れたが、でも夏たべてもどれもこれもおいしいのよ。 たとえば、これはガスパチョである。 バルサミコで模様が描いてあんのね。 ちべたい白ワインを飲みながら、食べると、野菜のあまみが利いた冷たい滋養が魂にしみてうめっす。 焼いたカタクチ鰯をやはり焼いたイチジクの実に載せて食べる料理 これは無茶苦茶うめっす。 焼いたイチジクとカタクチイワシがこんなに合うなんて考えたひとは天才であると思う。 鰯はもちろん天ぷらもフリッタもある。塩だけ、あるいはレモン、あるいはオリーブオイルで食べます。 オリーブピルをタップリかけると、甘くて、まるで違う食べ物になります。 ナポリタンスパゲティが大好きであって、家でつくるたびにナポリタンスパゲティの臭いが大嫌いなかーちゃんシスターとの結婚生活に亀裂が深まる一方の義理叔父に写真を見せたら悶絶していたタコのスパゲティ。 大量のニンニクとオリーブオイルを炒めてトマトとオイルの甘みだけでつくったソースにタコをいれてスパゲッティとからませた食べ物だったが、これもうめかったす。 シェフのおっちゃんにレシピを訊いたのでニュージーランドでもつくるのだ。 ガリシアとゆえばタコと決まっているが、やはり炭焼きがうまいかしれん。 たまねぎやレッドペッパーやなんかをラタトゥイユ風にまとめたのに目玉焼きをのっけた前菜 やコックル貝をお米と一緒に炊いた雑炊、 シーフードを炊き詰めてつくったシーフードのブロスの「ガリシアスープ」 イモと野菜のガリシア野菜スープ。 スズキの炭焼き 魚に飽きたら、チョリソ界の帝王とゆわれるガリシア風チョリソがまるごとごろんとついたウエボス・コン・パタタスもおます。 毎日毎日3人前くらい食べていたのに、食べるものがつきないほどガリシア料理は豊富であって、わしはあごが疲れた。 ガリシアにだけ特別の料理というわけではないがフランスはサンドイッチが世界一でいちばん程度が高い国だと思うが、スペインもサンドイッチがおいしい国です。 カタロニア人はやらないが、ガリシア人はサンドイッチの片方のパンにまるく穴を開けて目玉焼きをそこに埋め込んで食べる。 これは、子供の時かーちゃんに教えてもらって実はわしもよく家でつくって食べるが、ニュージーランドやロンドンではいちいちシェフのひとに説明しなければならなくてメンドクサイがスペインでは、初めからメニューに載っておるので楽である。 (50セント増し) … Continue reading

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カストロなケルト人集落で考えた事

Castro de Barona http://www.galiciaguide.com/Barona.html に行った。 サンティアゴからは60キロくらい。 新しい道路が出来たのですぐに着いてしまう。 2000年前のケルト人達の夢が海辺に射している姿は、奇妙な形をしていて、鄙びて、ケルト人らしく歪んでいて、わしはすっかり気に入ってしまいました。 岩の上に座って大西洋を眺めてしばらくのんびりした。 アルプスの山を越えてコモ湖にあらわれたり、ガリシアにたどりついてタコを食べて顔をしかめてみたり、ケルト人たちというのはオモロイひとびとであって、とにかくあちこちに旅行して、自分の気に入った土地に定住してみるべ、と考えるタイプの生活をしていた、という点でいまの欧州人の生活様式を初めに実践したひとびとだと思われる。 「えー、だって同じひとじゃない」ときみはいうであろうが、 そんなこと何も判ってないのよ。 ブリテン島と大陸とのケルトが総称として文化的な総称なのか多少でも民族的な総称かも判っていないはずである。 わしが日本にいていちばんうんざりしたのは、自分の無礼な態度や非常識なふるまいが引き起こしたとおぼしき相手の反応から、戦争中の日本の集団強姦や大量虐殺まで「日本人に対する人種差別」ですませてしまうひとびとであったが、人種についての話が偏執的に大好きなわりに日本のひとは人種問題の根本的な勘にすでにかけている。 なんでこんなヘンな考えが常識化しているのだろう、と思って考えても判らないことが多かったが、あるときこのブログを読んでくれているひとのメールを読んで、へえと思って調べてみると、80年代に日本が盛んに行った、たとえばロー○リークラブというような組織が後援していた受け入れ側の 大学にとっては迷惑極まりなかったらしい(わしらの側で言う)「観光留学」で欧州にやってきたひとびとが、欧州の閉鎖的な大学世界でまともに相手にされず、フラストレーションを募らせて、「欧州人の人種差別」を唱えだしたという面もあるようでした。 「あの頃はカネがなかったから仕方がない」というが、これはもともと相手にする気もない、本来留学生としての資質に欠けた日本の若い人を受け入れたほうが悪いので日本人のほうが悪いわけではない。 事情は、丁度、いまの英語圏諸国の「語学留学生」と似ているようでした。 あの金持ちの息子や娘達も自分達をそれまでの恵まれた環境であったように遇さない失敬極まる英語諸国の「人種差別」に対して中国語世界で憤懣をぶちまけている。 このひとたちが書いたものをあらためて読むと、フランスに留学してもフランス語が身につかなかったのはもちろん、欧州というものをまるで誤解していて、そうやって誤解された欧州が大量生産されて日本の「誤訳された欧州社会」が出来ていったようにも見える。 人種、という問題を考えるのが苦手なもうひとつの理由は、日本のひとたちが他文化から孤立して生活するのを好むからであって、1億3千万という凄まじい数の国民が太平洋プレートがぎゅうぎゅうと押してくる地震の多い小さな島に住んでいて、資金の面からも、社会の自由度の面からも、あるいはビザの優遇の度合いからも、まるで外国に移住するのを奨励しているような社会制度であるにも関わらず、「外にいけば人種差別が待っている」「外国に行けば女はみんな強姦されて男は性器を切り取られるそーだ」と言い合って、女は顔に墨をぬってガングロになり、男は襲われても襲撃者が慌てて鼻をつまんで逃げる悪臭のポマード(!)を髪に護身用に塗って、小さな島に逼塞して暮らしている。 これは余程根が深いビョーキであって、たとえばフクシマの原発がぶっとんじったときにも、あるひとたちは「ドイツの空港で強制的に放射線チェックをさせられているようだ」とツイッタで大量にRTしていた。 「これでいったん日本に帰ると移住先の国に帰れなくなるかもしれなくて在外日本人は気の毒だ」といいだすひとまでいた。 わしは、それはいかんだろう、と考えて、名指しされていた航空会社の友人に電話して、そんなことをやったらいかんだろーが、ボケ、というと、 「日本から乗り継ぎの乗客のための乗客サービスとして希望者に放射線チェックをやっただけと思う」という。 話していて電話の向こうとこっちでふきだしてしまった。 その日本人のお客さんは、ドイツ語も英語もわからなかったのではないか、悪い事をした、というのでした。 これも、そんなドイツ人らしいマヌケなサービスを思いつくのが悪いとゆえるだろうが。 いまの欧州では現実にアジア人に対する人種差別があるのは誰でも知っていることだが、それは西洋社会に日常の基礎をおいてはじめて判る体のものであって、日本で盛んに「人種差別」と喚き立てるひとびとは、全然そこまでいっていなくて、「お客さん」の段階のひとが殆どであるのが日本人の「人種差別論」の特徴だと思いました。 なんだか根本的にずれている。 たとえばアングロサクソンからの激しい差別意識によって長年苦しみぬいてきたオランダ人などとは根本から話が異なるもののようでした。 ケルト人たちは、もう3000年も他人種と共存したり混交したりしながらこの欧州大陸で暮らしてきた。 そのケルト人たちがもっている「人種」というアイデアは日本のひとが考えるよりも遙かに個々の具体的な事柄に基づいた複雑なものです。 わしがいるこの町でも冗談のつもりで「あんたたちはムーア人に支配されたひとたちだから」とゆって、病院に救急車で送られることになった「欧州通」の日本人がいたそうだが、文字通り世界のあちこちで聞く、その手の話を聞く度に、どうして「判らないことはだまっている」ということが出来ないのだろう、と考える。 日本の人が頭のなかにもっている「人種論」のありかたは、初めから問答無用の喧嘩を売っている形でしかないのを、なぜ気が付かないのだろう。 マンハッタンのユダヤ菓子屋でお茶を飲みながら、「日本では、いまの経済危機はユダヤ人の陰謀だというひとがいるんだぞ」とわしがゆったら、一瞬眼をみはって、怒るより先にお茶をふきこぼして笑い出してしまったユダヤ人の友達のことを思い出す。 自分達ユダヤ人と日本人というものの距離の遠さを思って、自分の宿題ができなかったのは火星人のせいだとゆっている小学生でもあるかのような日本人の「議論」に気が遠くなるようなおかしみを感じたのであるからに違いない。 もっとも20代30代の日本人が、所謂「日本人」とは別の生き物である、というのもほぼ常識になっていて、ミチやケイ、やヤッシは日本人であるよりも先に頼りになるスタイリストで、センスがよくて冗談もうまいヘアドレッサーで、ピンチになればやってきて助けてくれるプログラマーである。 日本人としての強い誇りももっていて、日本人だって誰もが放射能が安全だ、と言っているわけではない、食品だって危険な食品を海外に出すまいとして頑張っているひとたちもいるのだ、と力説する。 そこが日本人らしい、というか、そう言いながらマンハッタンのバーで感極まって泣き出してしまったりするが、泣き出してしまって何も言えなくなってしまった彼の肩をたたいているひとびとのほうは、ただヤッシが人間だと思っているだけで、日本のひとだな、と思うのは、ただ彼の繊細な心がどこから来たかを考えるときだけです。 … Continue reading

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Santiago de Compostela

1 フクシマ以来、さまざまなことが起こって、さまざまなことが忘れられていった。 放射性物質は相変わらず空中から地下と海中へと場所を変えて当初と変わらない流出が続いているが日本人たちは「放射性物質は危険ではない」という「事実」を「発見する」という奇想天外で独創的な方法によって事態を解決してしまった。 20年というような時間が経って、事実の無残な手で日本人たちの「科学」の化けの皮がはがされ、いま行われている日本人の「言論」の悪魔性が明るみに出され、フクシマの子供達が、30歳になるかならないかで、ちょうど彼らが胸から線量計をぶらさげて軍事教練もどきの「朝礼」をやらされた校庭に似た墓地に、安物の墓石として整列させられる頃には、ナチよりも残虐な民族として名を残すだろうが、しかし、とにもかくにも日本人達は自分達が他人を愛しているようなふりをしながら、あるいは自分が信じていることをほんとうに述べているようなふりをしながら、言葉を偽り自分を偽って、今日一日の安逸を貪る「20年」という時間を買ったのである。 忘れようと思えば忘れられるフクシマの子供達の生命を根絶やしにして、残りのおおぜいの日本人の20年が購えるなら安い買い物ですよ。 わたしの静かな日常は変わりません。 わたしにはやさしい友達がいまでもたくさんいるし、日曜日には教会にも行く。 神様もきっとフクシマの子供を見殺しにするくらいのことなら許して下さるでしょう。 なんといってもやさしい方だから。 以前に言葉を交わしたことのある、あの日本人の「カソリック信徒」だという心底くさりきったクソババアなら、そういうだろう。 あるひとは、わしにメールを寄越して、放射線がフクシマの子供をどの程度、殺すかどうかについてきみとぼくには意見の違いがあるが、と書いてくる。 そう。 あなたとわしには意見の違いがある。 ガス室のなかで、苦しむこともなく、この収容所の外にも「世界」があったのだろうかと訝りながら、静かに「人道的に」死んでいったユダヤ人の子供達と、残酷だし、子供を殺すのは嫌だが「世界」のためには仕方がないのだ、でも、あの子供の身体から石鹸をつくってひとりあたりの処分の単価を更に安くするという所長の案はなんだか嫌だな、でも仕方がないのか、と自分に言い聞かせて家路につくナチの看守のあいだほどの「意見の違い」がある。 現場で戦う兵士たちのために、いまはたかがユダヤ人の命のことをあげつらって彼ら兵士や兵士の母親の苦しみを増やすわけにはいかない、と懸命におもいつめる若いベルリン大学の学生と、棒杭のようになった収容所のユダヤ人の死体の山の下から、突き出されている枯れ枝のような腕がかすかに動いたのを見て、バカ声をあげて、「生きている、この子供は生きているぞ!手を貸してくれ! 畜生、ドイツ人の野郎、皆殺しにしてやる!」と悪魔そのままの表情で叫んだブルックリン生まれの兵士ほどの「意見の違い」がある。 神は悪魔にどこまでも似ている。 悪魔が神とうりふたつなように。 冷静でいたまえ。 冷静に、 世界は静かになっていって、 やがて死んで行くフクシマの子供達の魂を慰めてゆくだろう。 冷静に、 日本人たちは、黙祷をささげ、 まるで、そうなることを知らなかったかのように泣くだろう。 ふくしまの こどもたち やすらかに ねむってください。 あやまちは もう にどと くりかえしませんから 2 ガリシアに、もう一週間ほどいることにした。 Santiago de Compostelaはいればいるほど居心地のよい町であって、どうしていままで来てみたことがない(正確にはチビチビなときに来たことがあるらしいが、おぼえておらん)のか不思議なほどです。 モニが「ガメは、きっと好きだから行ってみよう。ひと晩どまりでもいいではないか」というので来てみたのだが、夫をみること妻にしくはなし、とても良い町です。 むかし、旅先で親切にされるなんて凡庸でくだらない、行き先ざきで土地の人間と尖鋭に対立してこそ真の旅行者である、あなたのように土地の人間と仲良くなってしまうぬるま湯のような旅など軽蔑されるべきである、とこのブログにわざわざ言いに来た面白いひとがいたが、わしは親切なひとびとと酒をのみながら、くだらない話をながながとして、けっけっけ、と笑いながらすごす夜の凡庸さが好きなので、くだらなくても、土地のひとが親切なほうが楽でよろしい。 耳に心地の良いガリシア訛で、ただ「オラ!」というかわりに、「オラ!ブエノス・タルデス」と挨拶する。 窓から首を出して通りを眺めているおばちゃんに、帽子をとって、「ブエノス・タルデス」と挨拶すると、腕を広げて、「ブエノス・タルデス」、今日は風が暖かくて心地よくてとても良い日だわねえ、とゆって挨拶します。(ガリシアは最高気温23度くらいで、クソあつい町からやってきたフランス人たちは寒がってふるえている。わしは快適だが) わしも、ほんとうです、なんという穏やかな午後でしょう、とゆって返答する。 おばちゃんの話し方には、人間の会話が音楽であったころの名残が残っている。 去年は「聖なる年」でさぞかし巡礼が多かっただろうが、今年も、たくさん杖をもった巡礼者がいる。 … Continue reading

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Hondarribia

1 昨日は築1130年のホテルのてっぺんの部屋で夜中にモニと「ふたりパーティ」をやっているあいだじゅうSa Dingding http://t.co/7nhqrMv を聴いていたので今日は頭のなかでチベット僧たちがマントラを唱える声が消えない。 ついでに自分でもシャワーを浴びながらマントラを唱えていたらモニに怒られてもうた。 ひさしぶりにジョニー・ウインターの顔を見ようとおもって立ち寄った Hondarribiaがすっかり楽しくなってしまって結局週末をここで過ごすことになってしまった。 夜の12時に始まったジョニー・ウインターの野外コンサートは、どこでもここでも灼熱のクソ夏であるというのに、この町だけは気温が12度くらいに下がって、寒いのが苦手なバスク人やスペイン人には寒すぎたようであった。 北海体質のわしはショーツとフリップフロップでへらへらしてたんだけどね。 テキサン・ブルースなのに素面で聴くわけにはいかないので、ちゃんとバーボンをもっていった。 瓶からラッパ飲みしながら、踊り狂っていても、スペインですもん、全然、怒られません。 兄ウインターおやじは、長年の不健康な生活が祟ったのか、もっと深刻な理由があるのか、67歳なのに腰が抜けてしまっておって、座ったきりだったが、ギターの腕は衰えておらなかった。声は、むかしに較べても声量が落ちた。 大画面に顔のアップが写ると、焦点が全然あってない眼は相変わらずであって、その上に年よりになってしまったので、なんだかビートたけしがふざけてジョニー・ウインターを演じているように見えなくもなかったが、でも、わしはこのブログにも何回か書いたように「夜更けのキチガイ兄弟」ウインター・ブラザースが大好きなので、ジョニー・ウインターがくたばっちまう前にもう一回みられただけでダイシアワセでした。 昼間に仲良くなったピンチョスバーのにーちゃんたちカップルと4人で思い切り盛り上がって遊びました。 ははは。楽しい。 次の日、すなわち金曜日の夜は、バカラオさんのピルピルソース(bacalao al pil-pil)(塩だらのピルピルソース)、アサリの雑炊(arros con almejas)を食べに下町におりていった。 カバの選択を誤って、がまんしきれなくて途中でぶち捨てて、モニさんに白ワインをえらびなおしてもらってガメはわがままだとゆって怒られたが、バカラオさんにありつくのはひさしぶりだったので、途方もなく機嫌がよくなりました。 観光客が大半宿に引き揚げたあとの夜中の通りにはバスク人たちがあふれかえって、カボチャにもならずに舗道をスクーターでぶっとばして歩くチビガキどもや、樽を囲んで大声で笑っている男達が絵として非現実的である。 まるで長いあいだ戦場で有り続けたこの町の石畳の隙間から湧きだした亡霊達がいっせいに立ち現れてつかのまの休息を楽しんでいるようである。 大陸欧州の町は、ひしめきあうように人があふれて、皆が酔っ払う時間になっても、「音」が悪くならない。 マンハッタンのような金属的なような安っぽい嫌な声が聞こえてこない。 男も女も、太いが低い声で、まるで共同して週末の夜の広場のための音の建築に参加しているかのようで素晴らしい。 初めの夜、午前3時だかにホテルに帰ってきたらホテルの正面鉄扉が閉まっていたので、ノッカーを叩いてホテルのひとに開けてもらった。 そのときに女の受付のひとが怯えた顔をしているように見えたので、「ぬはは、ダイジョーブ。この城の主人の騎士が帰ってきたわけではない」と冗談をゆったら、微笑もうとしている顔がひきつっていて、あまつさえ、隣に控えおる、おっちゃんもヒキツケを起こしそうな顔をしているので、もしかしたら、客がくるはずのない時刻であるのをよいことに、 鉛筆でゆえば2Hなことをしていたのだろーか、と思ったが、 次の朝、モニがフランス人向けのガイドブックを読んで、この城ホテルには中世の騎士の亡霊が出るという根強い噂があるのを発見したのでした。 そーだったのか。 悪いことをしてしまった。 鎧戸を開けて、窓の桟に腰掛けて、城のてっぺんの部屋から湾の向こうに広がる大西洋を眺めると、おおきな波も色もうねり方も地中海とは全然別で、オークランドの家が懐かしくなってしまう。 2 この町は、もしかすると日本では何かで有名なのか、中国の人やインドの人、あるいは韓国の人もアジアの人はまったく見かけないのに、日本のひとだけは二日に渉ってみかけた。日本のひとはマジメなので、夜ふけの下町などではもちろん大通りにも出かけてはこないが、城ホテルにも≈ロビーに√グループがたむろしていたし、次ぎの日にも、坂道をかけおりてゆくふたり連れの若い女びとの話している言葉が日本語であった。 日本語をずっと聞いていないので、何をゆっているのか、もう瞬間的であると聞き取れなくなってしまったが、確かに日本語で、あんなに楽しそうにしているんだから、もう日本に帰らなくてもいいのに、と考えてもうた。 スペインらしい、というべきか、この町は実は町の後背にあたる高台に住宅地があって、そこに3つの連続したエスカレータで上がるようになっている。 モニとわしは、煙草を喫いくるっている5人組のバスクおやじを避けて、しばらく待ってやりすごしてから、エスカレータに乗って高台の公園に行った。 大西洋はモニにもわしにも見慣れた海なので、眺めていると、なんとなく寂しい気持がしてくる。 … Continue reading

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ビルバオへの道

バスクのフランス国境から歩いても行けるくらい近い町にいる。 コモ湖から1500キロだが、神速はわしの特徴である、なんちて。 窓から見ているとダムバスターみたいな飛び方で双発ジェット機が海面をなめるような低空を飛んで突っ込んでくるが、それは空港がそばにあるからです。 空港といえば、ピレネーの山の中をエメンタールとハムのサンドイッチをかじりながら追い越し車線を内緒な速度で神速していたらモニが「ガメ、あの飛行機、あんなにゆっくり飛んで何しているのだろう?」というので、指さす方を見ながらトラックを追い抜いていたら、もう少しで激突するところだった。 フランス人たちは干し草を移動するのにカバーをしないままトラックで移動するので、激突したら干し草が飛び散ってさぞかしかっこよかったと思うが、シトロンの接近センサーがピーーーーーとひきつけでも起こしたようになっただけですみました。 失速寸前の速度で、ゆっくりゆっくり高度200メートルくらいの低空を旋回するC4からは、人間が次々に飛び降りてあっというまに6個の落下傘がひらいて、低空からの標的降下練習をしているもののようであった。 スウェーデンに行くつもりだったが、やめた。 フルが流行っているちゅうので、あんなクソ退屈なところで風邪をひいて寝込んだらやだもんね、と考えました。 お菓子がおいしい国なので、いいかなああーと思ったが、また今度にすることにした。 コモ湖の外れの村から700キロ。昨日はニームの郊外にあるむかしの農園主の家を改造したホテルに一泊して、サーモンのテリーヌから始まってフランス人の料理らしい複雑な構成のソースがかかったフランス式の焼き鳥(シェフが日本に行ってベンキョーしたきたそーだ)を食べた。赤ワインを一本とロゼを半分飲んでモニとふたりでちべたい水が気持いいプールで泳ぎました。 天気が34度で湿気付きだったからな。 娘が大阪に用事があって出かけるので放射能が心配な受付のおばちゃんも、こんなクソ天気は早く終わってもらいたい、と嘆いておった。 フランスは、前にも述べたようにクルマでフーコーがメイビーな、風光明媚の、田舎道をクルマで神速しながら移動してまわるために出来ている。 「ミシュラン」というタイヤの会社がつくったガイドブックは、フランス人が世界一の休暇ドライブ国民だから存在するのです。 そこいらじゅうで妍を競っている三つ星から三つ星へ渡り歩いて、食事がおいしかった料理屋や見るからにカッチョイイ建物と庭のたたずまいの門のなかへクルマを乗り入れて、宿はあるかのお、と訊いて歩くのが最も安全だが、英語なんか金輪際話さない、と顔に書いてある頑固ばーちゃんがやっている、蒸し暑い空気を天井の扇風機がぶんぶんかきまわいているようなバーがある、二つ星のホテルにも途方もなくカッチョイイホテルがあります。 そーゆーホテルのおばちゃんやねーちんは著しくプロ意識に欠けておるので、 あーあぢーと思いながらシャンパンを飲んでおると、一緒に飲むべ、とゆってカウンタに肘をついて飲みながら相手をしてくれる。 客が来ても、酔っ払ってくると、めんどくさそーに追い返したりする。 フランス語を話さないよーなメンドーな客はお断りである。 なまっているフランス語の客はもっとカンに触るよーである。 どーしよーもない、というべきだが、わしはいつでもどーしよーもない人が好きなのです。 客室はボロイが広い。 中庭には、ホテル全体と釣り合いがとれない、(花に囲まれた)豪勢なデカイプールがあったりする。 夕食のメニューないの?と訊くと、 はっはっは、と笑って、ラムのカバブなら、わたしが作ってあげるよ、といったりする。 本来四つ星のホテルなのに、経営者、すなわちおばちゃんがやる気が全然ないので二つ星なのが判ります。 二つ星ホテル、というのは、このアンバランスな所が魅力である。 それ以下でももちろん良いホテルはあるが、もとから知っているホテルであるか、僥倖というものが必要であると思う。 むかしは、そういう大陸のホテルのバーの昼下がりに、冷房くらい買ってつけろよクソジジイと思いながら、酒を飲んでいると、そのクソジジイが突然おもいついてかけたモロッコの曲がかかって、その見知らぬ強烈にもの悲しい旋律に涙がこぼれたりしたものだった。 閑話休題。 町外れのピンチョスバーで、(ピンチョスという食べ物はバスク人の発明なので、あたりまえだが)この世で最もうまいと思われるピンチョスを6個大皿に載っけて、ビノ・ティント・デラ・カサを一杯、「もうちょっと多めにいれてね」とゆっていっぱいついでもらったのを、おっとっとと思いながらテーブルにもっていて食べる。 きみ、バスクでピンチョス食べたことありますか? あれば、判るはずである。 なければ、はっはっは、けっけっけ、ぷいぷいぷいのぷい、この上なく気の毒である。 パンにペーストやハムやチーズを載っけただけなのに、なんでこんなにうまいんだ?と いろいろなひとが悩むが、あんまりうまいので、すぐ悩むのをやめて、うっとりするほうに専念します。 ピンチョスのつけあわせの、オリーブ油にどっぷりつかって、白アンチョビさんが悩ましい身を横たえているのはバルセロナと同じだが、なにしろ、社交クラブで、いーとしこいたおっちゃんたちが毎週末には、一週間考え抜いたレシピで料理をつくって、「どーだ、うまいだろ。意外な味だろ−。驚いたか」と料理の腕比べをするというアンポンタンな(あ、失礼しました。モニさんのゆいかたに変更すると「かわゆい」)土地柄である。 そのアンチョビさんの白いなめらかな肌に、生ニンニクやみじん切りのペッパー、白タマネギ、ちゅうようなもんがどっちゃり載っておる。 マオリ人たちのボートによく似た伝統的スタイルボートを漕ぐガキどもが夏の空によくひびく声で、これも伝統にしたがった歌のようなかけ声をかけあっておる。 石畳の坂道では、赤ちゃんのバギーを手で押さえた若い母親がものうげに煙草をふかしている。 … Continue reading

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遠い国に住んでいるふたりの友達への手紙

日本はとても遠い国になってしまった、ということから書き出さないとこの手紙は書いてしまえないように思います。 わしにとって、日本との関わりはいまでは多分「日本語」という言語の機能に限られていて、しかもそれすら「荒地」の同人達から「ドラムカン」の同人達に至る、時間にしていえばたかだか40年に満たない時間に表現された日本語に集中されている、ということを先に述べておかないと、手紙そのものを書き始められないように思いました。 今日の午後は湖の木陰にボートを出して、モニとふたりで寝転んで過ごした。 モニが、あんまり穏やかな天気にうとうとしだして眠ってしまったので、そのあいだを利用して、こっそり、おふたりのメールを読みました。 むかしのひとならラベンダーの香水の匂いがする便せんをひらいて読むところだが、味気のない時代に生きているわしはマンハッタンで買った、iPad2 (^^;) おふたりの手紙を読んで、「暗然」という日本語のクリシェを思い出してしまいました。 日本の社会は放射性物質が安全であると決めてしまったようにみえること、いまはもう「放射性物質は危険だ」というひとのほうが「ヒステリックな人」になっていて、あまつさえ、 「いまの日本で原発事故や放射能が怖いと声を上げることは、こういう「思慮深さ」や「冷静さ」「“前線”で頑張っている人々への気遣い」に対して、ヒステリックで利己的で愚かな行為と見なされる」というところに来ては、 なんだか非現実的な夢を見ているような気がする、という間の抜けた意見を言うのを許してもらわなければなりません。 「放射線の被害よりも放射線を恐れるストレスのほうが有害だ」ということを「証明」したひともいるのだ、そしてそれを信用するひとが実際にいるのだ、と書いてあって、リンクがあっても、まさかそんなバカバカしいものを読む気はしないし、そんな根本的に狂っているとしか思えない記事自体まさか現実に存在するとは思えないが、仮にそれがほんとうにあるのだとすれば、わしに言えることは「日本の社会は、とうとうそこまで来たのか」とうことだけです。 狂気、というものは現実にたくさんのひとびとを手の込んだ痴呆的状態に連れて行けるのだ、という蘇軾の言葉を思い出すしかない。 どんなにいまの日本人が現実でないことを「証明」する手の込んだ方法を思いついても、本当でないことは本当でないし、ちょうど北朝鮮のひとびとに、どんなにあなたがたの生活が悲惨であると言ってみても虚しいのと同じことで、彼らは北朝鮮のひとびとがそうであるように、彼らがいかに正しいか完全無欠な理論で次々に「証明」するに決まっている。 われわれに出来ることは時間の神様が気が遠くなるような彼女のタイミングで、気まぐれに、「本当のこと」を明示してくれる、そのときを待つことだけであると思います。 軽井沢に逼塞していたひとびとが1941年から1945年までをそうして過ごしたように。 反論、というようなことはこの場合意味をもちえないので、どうしても奇論の主を許せないのならば、せめて彼あるいは彼女の行った事を記録しておいて、やがて訪れる「常識が明らかになるとき」を待って彼らにあなたがたが望むやりかたで責任をとらせるしかないと思う。 (フクシマの事では、まず15年はかかるだろうが、わしの知見によれば、今度はチェルノブイリのときと違って因果関係を明らかにする科学的方法自体は確立されるので、そのときになって彼らに言い逃れの道があるとは思っていません) 実際、そのときになって、彼らの賢げな「思いつき」のせいで子供を殺された母親たちが黙っているとは、わしには考えにくいのではあります。 (そう言えば、いま現在の時点の日本でかろうじて正気を保っているのは母親たちだけなのだろうか?わしは「理性」の信奉者なので考えたくないことだが、イタリア人の友人達がいうように母親だけが非常の時には正気を保てるものなのかもしれません。このことはまた時をあらためて考えてみなければ判らない) 日本の政治家が「原発に反対のひとのヒステリックな気持もわかる」と言ったという。 日本語の「ヒステリック」が英語のひどい誤訳であるのを知っていてもなお、(日本語の意味においても)ヒステリック、というような単語が口をついて出るのでは、要するにそのひとは架空な「職業政治家」に人間を捨ててなりきってしまったひとであって、もっと言ってしまえば彼がもっていた人間性などは、観念的に政治家と自己を見なすことによって消しゴムで消すように消してしまえる程度の人間性しかもちあわせていなかったわけで、要するにただそれだけのことなのだと思います。 いま、わしに確実に判っていることは、日本人が「放射性物質は危険でない」と決めた以上、「無害な放射性物質」がディストリビューターが全国に流通させる汚泥や野菜や魚を通じて北海道から沖縄まで流通し、どこをどうつながっているかは何のデータもないので判らない地下水脈をたどって蔓延し、あるいは近海を無害に汚染し、あげくのはてには「無害な放射性物質」は完全に日本を無害に汚染して、日本人全体を無害に内部被曝して、無能で無知で迷信的なガイジンどもは、日本という国を放射性物質や低放射線被曝を世界で初めて無害であると「発見」した歴史的な民族として永遠に記憶するだろう、ということだけである。 むかしからのこのブログの読者であるひとは皆しっている「シャチョー」がこのあいだ電話をかけてきて、「日本人は放射能は危なくないということにしたんだって。ぼくには息子と娘がいるんだ」というなり、まるで獣が咆哮するような声で泣き出して、わしをびっくりさせたが、わしはあくまで迷信家なので、 シャチョーは、えーかげんなことばかりゆっているが、人間としては意外とまともではないか、と考えました。 最後にじゅん爺やむかしはインターネット上の友達だと思っていたこともある、あんとに庵やブブリキが放射性物質が安全だというのをどうおもうか、ということだったが、後者ふたりは、いまはあのふたりのひとに興味もなくて、ツイッタもブログも読まないので、どういう発言をしているのかも、わしには判りません。 何かのときに前にもゆったことがある記憶があるが、わしは、頭のなかのゴミ箱にいれてしまうと、それをひっくり返してみたりはしない。 なんだか日本の人には判りにくいようだが、わしにとっては興味がなくなったものには興味がないわけで、その心持をどんなふうに説明すればよいのかは、わしにはようわからん。 答えようがない。 じゅん爺については、これからじゅん爺の言葉の家に行ってみて、ほんとーだ、ということになれば、残念でも、あの「アミアブル」という言葉がいちばんぴったりくるじゅん爺とも付き合えなくなるでしょう。 そうなら寂しいが、一面、人間の一生というものは付き合ってはいけないものとは付き合ってはいけなくて、遠ざけて、近づけるべきでないのは当然のことであると思う。 邪なものを敵とすることをためらってはいけないのは、どちらかといえば人間の常識に属することなので、寂しくはあってもそれほど悲しむべきこととは思いません。 世の中に敵としなければならないものと「仲良く」することくらい悲惨なことはない。 今日は陽にあたりすぎて疲れてしまった。 顔がサンブロックを塗りたくったのに陽に焼けて酔っ払ってしまったひとのように盛大に真っ赤でカッコワルイ。 家の様子を見て友達に会うだけで北へ向かおうと思っていたが、やはりコモは居心地がいいところで、もう少しここにいることにしました。 この美しい湖を眺めていると、日本のこともやさしい気持で思い出せるのです。 「20年たてば女房とゆっても母親みたいなものだから」とゆって欠けた前歯を剥きだしにして笑うおっちゃんや、「わたしも赤ん坊が欲しいなああー」といいながらお客さんの子供といつまでも「バイバイ、バイバイ」とゆって遊んでいる店員、きゃあきゃあ言いながら桟橋から水に飛び込んでは慌てて、といいたくなるような様子で泳ぎ戻るイタリア人の女の子たち、コモではバスがわりのボートのなかで、「すげえええー、なんて綺麗なところなんだろー。すげー」とゆって窓から窓へ走り回って母親にたしなめられているアメリカ人の子供達。 湖畔にテラスを貼り出したピッツエリアで声を潜めてひそひそと自然の偉大さについて話し合うイギリス人の夫婦。 英語混じりのイタリア語で、いかに料理がおいしかったか伝えようとしているドイツ人のカップル。 イレズミだらけの腕をみせてアメリカ人の野球帽を少し斜めにかぶっているボーイフレンドとテーブルを囲む上流階級のアクセントの女の子。 あの小さなボートにどうやったらこんなにたくさん乗っていたのだろう、と思うくらいバラージオの桟橋に次から次に出てくる日本人グループツーリストのじーちゃんやばーちゃんたち。 … Continue reading

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ノーマッド日記9 南仏

1 見渡す限り広がっているひまわりの畑のなかをモニが歩いてくる。 わしは、強い太陽の光に、目を細めて、デコに手をかざして、ゆっくり歩いてくるモニを眺めています。 わしの手には、さっきフリーマーケットで2束1€で買ったラヴェンダーが握られている。 ラヴェンダー農場のおっちゃんが出している屋台で、ラヴェンダーの石鹸と一緒に買った。 おっちゃんは、すっかりモニにみとれてしまって、「マダムの美しさを祝って、この石鹸はタダにしよう」という。 そーか、この国にくれば、モニも「マダム」なのだな、とあらためて考えて、なにがなし、感慨にふけってしまう、アホなわし。 バルセロナが36度だというので、大慌ててでクルマに乗って逃げて、国境を越えるとほどなく23度になって、やったやった勝った、タイショーじゃ、と喜んでいたのに、地中海の太陽の母上はあっというまにわしらに追いついて、今日はアビニョンも36度だった。 空気は乾燥しきっているので、木陰のテーブルに座っていれば涼しいが、木陰から出ると、まるで砂漠のベドウィンになったような気がする。 マンハッタンの有名な帽子屋のJJで買ったコロンビア製のストローで編んだ夏の帽子をかぶってこうして立っていても、頭がぽおおおと熱くなってくるのが判ります。 すごい暑さ。 10分間も表にいれば気分が悪くなってくるような。 「Roussillonは向こうだぞ、ガメ」と自ら「志願」して将校斥候(^^)に出ていたモニが戻りながら指さしている。 そーですか。 わしは、赤い岩が見たいと考えたので今日はAptに行こうと考えたが、モニがちょっと考えてから、赤い岩を見に行くのならRoussillonにしよう、という。 帰りに、Les Grosに寄って行こう。 とても綺麗な町だから。 Roussillonでモニが連れて行ってくれた丘の高台からは赤、白、ベージュの3色に分かれた不思議な崖が見えて、わしをすっかり感心させる。 まるで人工の色のような鮮やかな赤で、セザンヌが塗り込めた色は写実の色彩に過ぎなかったのが判ります。 Les Grosは、いままでわしが見たなかでは最も完璧な、最も美しい町並だった。 驚いてしまった。 だって、こんな町、わし聞いたことないぞ、とゆうと、モニは可笑しそうに笑って、そうかも知れないわね、と笑っている。 モニとわしは、もうすぐ、とゆっても何年か先だが、フランスに越してこようと考えている。 夏と秋をフランスで過ごして、残りをニュージーランドとオーストラリアで過ごすつもり。 いろいろ考えたり、ふたりでデコを近づけてひそひそ話したりして、だんだんそーゆーことに落ち着いた。 マンハッタンは秋の終わりに一ヶ月いればいいよね。 日本にはもう行かないんだろ、ガメ? そしたら、そこにバルセロナをいれよう。 今度はプールがあるところにして、毎年あつくなる気候を凌ごう。 ロンドンは、テキトーでいいや。 フランスにいるんだったら、すぐだし。 用事があるときに、何週間かづつ、行けばいい。 モニが子供を作ろうかと考えたり、やっぱり欲しくないと思ったり、子供が自分の身体から生まれるなんて怖い、と当然の考えをもったり、やっぱりちっこいガメが見たいと考えが変わったりで、そういう面ではわしらの計画はなかなか定まらない。 ガメは、これからの人生で何がやりたいんだ、と訊くので、 「木星に行きたい」というと、その後、しばらく訊いてもらえなくなります。 アフリカに行くのは真剣に具体的な計画を立てることになった。 インドも。 2 … Continue reading

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アビニョン

世の中にはインターンという制度があって、マジな就職をする前に職場の試食に行く、という仕組みになっている。試食する若者のほうもちょっと職場をなめてみて、ついでに職場のほうも若者をなめてみて、お互いになめきった態度を醸成する期間を設ける。 お互いになめあう、と聞いて顔をポッと赤らめるような不純青年はあえなく選に洩れる、という一途な若者の天敵なよーな制度である。 わしはもともと就職する気などかけらもなく、そんなヘンタイなことをするくらいなら橋の下で死んだ方がマシじゃけん、と不敵につぶやく学生だったので、インターンなんて先述のごとくヤラシイことをしたことはありません。 その頃はいろんなねーちんといろんなベッドで目がさめたりしておったが、やらしくないの、ほんとだもん。 将来破滅したら作男をすることになる土地を見に行く、というのはインターンとゆえないこともないのお、と呟きながら、わしはアビニョンの美しい村を「空飛ぶじゅーたん」という異名をとるシトロエンのぷにょおーんぷにゃあーんサスペンションで、(悪意に満ちているので有名な)フランスの田舎道をぶっとばしておる。 このフランスの田舎道、というのはだね、たいへんにスリルのある道であって、両側にはぶっとい木の並木が車道に迫って並んでいる。(すなわち逃げ場がない) 道路は狭い道ではクルマがすれちがうのにギリギリであって、そーゆー道ではセンターラインが引けないので存在しない。 そこを100キロを越える速度で、ぶおっ、とすれ違います。 合成速度でゆーと200キロだぜ。 ときどき左側のサイドミラーがふっとんだままのクルマがあるが、それは耳成芳一の耳のように平家の落ち武者にちぎられたのではないのではないかという疑いをもたれている。 ところがモニさんは、そこを悠然と120キロで、ぴゅうううーと走ります。 母国、というのは出身者に自信を与えるものだと見える。 いつもは、ぎゅんぎゅんぎゅーんととばすモニがフランスだと悠然ととばしている感じです。のおーんびり、爆走する。 運転を交代して助手席(助手席って、なんべん使ってもオモロイ日本語だすな)に座っていると、ときどき、とりわけコーナーなどで、もう死ぬ、もう絶対死ぬ、ぎゃああああああああ、と思うのは同じですが、フランス国におけるモニの運転であると何となく安楽に死ねそうな気がしなくもない。 で、モニのかーちゃんが所有しているXXを見たり、そこで泊まったり、おいしそうなレストランを夜とおりかかると、うさぎや牛肉の料理をそこで食べて、眠くなると、「泊まる部屋はありますか?」と訊いて、そこで泊まったりして、あるいは友達のクソでかい休暇用の家の、とんでもない広い部屋に泊まったりして、ずっと遊んでいる。 今日は、アビニョンの郊外の小さな町でクラシックカーレースがあったので、フランス人の友人たちと一緒にピクニックを兼ねて観に行った。 コーナーを抜けたあとのストレートの始まりにある空き地のピクニックテーブルに格子縞模様のテーブルクロスを広げてハムやチーズにバゲットとシャンパンで食事をしながら怒濤のように走り抜けてゆく初代ポルシェやブガッティを見物します。レースなので運転者も助手席のひともカーレース用のごっついヘルメットを被っているが、そこはほれ、なにしろクラシックカーなので、爆音の割にホンダの50CCスクーターよりも遅かったり、手をふっているわしらに窓をあけて手を振って返したり、初夏のアビニョンの、とんでもなく青い空と輝き渉るような緑のなかで、なかなかスピードの神様と寛いでのんびりしているようなやさしい感じのする午後でした。 それから、プールサイドでなかなか暗くならない南仏の太陽の下で、テーブルに運ばれてくる、冷たいメロンのスープ、イカや鴨、ラム、ほんとうはオーストラリアかニュージーランドでなければ食べないと固くふたりでちかったはずなのに、フランスに入った途端、ふたりとも我慢できなくなって、お互いの意思のなさを笑いものにしながらブルーチーズのソースをかけてむさぼり食べてしまうビーフステーキ、それにワインワインワインで、酔っ払ったり、冷たい水が気持がいいなどというものではないほど気持ちがすきっとするプールに飛び込んで泳いだり、またテーブルにもどって、ぶわっかたれな話をしながらワインを飲んだり、また泳いだり、延々と夕食は続いて、やっとさっき部屋に戻ってきたところ。 フランスのど田舎は相変わらず食べ物がおいしくて人間が途方もなく親切で、大陸欧州一の礼儀正しさも変わらなくて、とりわけモニと一緒であると、わしのようなクソ外国人とはまるで違う勘があるようで、自分ひとりでフランスをうろうろしていたときとは、行く先々のレストランのレベルからしてまるで違う国のようである。 モニは普段自分の祖国であるフランスの悪口ばかりゆっているが、ほんとうは自分の国が好きなよーだ、と改めて考えました。 ふだんでも細やかなやさしい気持でいっぱいで、悲しいものを見せると絹が裂けてしまうように壊れてしまいそうな感じのするひとだが、フランスでは一層それがたおやかで、柔らかい感じになる。 モニの口からフランスを誉める言葉を聞いたことがないのに、愛国心などというものは、愛郷心に他ならなくて、なんのことはない、ふたりで一緒にクルマで旅をしてみれば、自然と横から見ていて判るものだと納得しました。 くだらないことを思いつくという点では抜群の実績をほこるわしが考えた、この旅は、もともと原子力発電所を巡るヘンテコな旅にするはずであって、モニも少しもいやとはゆわなかったが、フクシマの恐ろしい成り行きを見て、わしが大陸を縦断する旅行に変更したのでした。 パリにずっといる、という考えもあったが、これにはモニは初めから反対で、パリはどうせそのうち暫く住むことになるのだから、旅行の終わりにちょっと寄って母親に挨拶するだけにしよう、ということであった。 だからアビニョンに行こう。 アビニョンの田舎で、長野でふたりでよくやったようにピクニックをして遊ぼう。 もちろん高速道路は全然使いません。 オカネを払ってわざわざ退屈な道を通るひとはいない。 フランスの気が遠くなるほど美しい田舎道を、安物クルマとはいえど、まことにフランス用に出来たシトロンの滑るようなハイドロサスペンションで、どこまでも続くひまわりの畑や、オリーブの斜面、そして何よりもビンヤードが広がる道を、ふたりで歌を歌いながら走り抜けて遊ぶ。 ときどきワインの醸造所に寄って、テイスティングをしたり、ワインについて教わったり、ワイン作りのおっちゃんやおばちゃんたちと話し込んだり、ビンヤードや醸造所のなかを案内してもらったりして、のんびりする。 今日の朝は土曜日なのでUzesの食べ物市にクルマを走らせて、山ほどチーズとハムを買い込んで、ついでにニュージーランドの家に欠けている美しい柄のプレースマットをいっぱい買い込んだ。 それはまた別の記事で、イタリアに住んでいる「すべりひゆ」どんに手紙を書くようにして記事に書こうと思うが、水が濁っても「ジプシーのせい」、ものがなくなっても「ジプシーのせい」で、モニが憤慨しておばちゃんと言い争いをしたりしたが、それだけが暗い雲の陰りで、他はモニが黙ったまま見せて歩いてくれたとおり、フランス嫌いのわしも、どう考えてもフランスを好きでしかいられないようなことばかりであった。 フランス人は親切で礼儀正しくてはにかみ屋でしかも会話に機知というものがある。 必ず人を笑わせようとする。 友達夫婦とクラシックカーレースを観に行っても、母親がカーキチなのでカメラを構えて道路をにらんでいて、旦那さんは全然興味がないので、草っぱらに仰向けに寝転がってごろごろしている。 母親が17歳のときに生まれていまは12歳になった娘は、今朝競技会に出た乗馬靴のまま母親の横で一生懸命興味深げな風を装って通り過ぎるクルマのあれこれを質問していて、その家族のありようが、夫が無理矢理でも興味があるふりをするに違いない連合王国ともまた違って、自然にのんびりしてラックスした気持が伝わって、大陸の夫婦もいいなあ、モニにもちゃんと、こういう風な気持も味わってもらわねーと、と考えたりした。 なんだかフランスが好きになってしまった。 わしはフランスを用事があって訪ねても、こういう誰にも読まれないためにわざわざ日本語でつけている日記にも書かなければ、他人にも言わなかった。 第一、パリに出かけるのが殆どであって、さっと行ってさっと帰る、というふうでした。 でもモニが世界でいちばんだいだいだい好きなのに、フランスは嫌いである、というのはやはり宇宙の法則に反していたもののよーである。 … Continue reading

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Dolce Vita

わっしはフロレンス(フィレンツェ)に着いた。言うまでもなくフロレンスは世界でも有数の美しい街である。ドゥオモや美術館やなんかがある川の北側はダメだが南側に行けば、おいしいレストランやトラットリアや定食屋や大衆食堂がいっぱいある。量り売りのワイン屋が地ワインを飛び切り安い値段で売ってくれる。しかも瓶をもっていけば、そのくそ安い値段からまた2割引である。水より安い。 イタリアという国にはたくさんの秘密があって、旅行者にはそれをなかなか教えてくれない。スコットランドのウイスキイ屋がほんとにおいしい地ウイスキイは勘定台の下に隠しているようなもんすな。誰でも目にはいるような大通りには熱海のひともびっくりなボッタクリレストランしかない。「穴場ガイド」みたいな本を買って出かけると、穴場コロガシにあって、またとんでもないものを食べさせられる。 ほんでもって地元のひとは観光客が死んでもやってこないような区域の裏通りで、この世のものとは思えないほどおいしいパスタにうつつをぬかす。 わっしはフロレンスの川の反対側のリフトもない築何百年だかよくわからんアパートの4階にいます。わっしのはともかく一緒に旅行している人のスーツケース(複数)を引き揚げるのに死ぬめにあった。女のひとは得である。わっしが汗みどろで、鎌倉の寺の階段みたいにすりへりまくった古代階段を必死でスーツケースを引き揚げると、「ガメ、えらい」でホッペにキスしてもらって終わりである。わっしはチップくらいもらっても良いとマジメに考えるが。 ともかくも、わっしはフロレンスに到着して、汗みどろのTシャツのにおいに閉口しながら量り売りのワイン屋へでかけて、トスカナのワインを3本買った。そのなかの若いFuminoをほぼ一本からにしながらこれを書いています。スウェーデン人の発明した「デカンティングアダプタ」をつけて注げば若くても素性の方が強く出ておいしい。 モニは5歳児の集中力で眠っておる。さっき寝室に見に行ったら、横向きになって「力いっぱい眠っている」(そんな日本語はへんだが)感じで眠っておった。 人間の女ほど不思議な生き物はない。とてもタンパク質でできておるようには見えない。 硝子か、そうでなければ真水かなんかの結晶か、そんなもので出来ているのでなければ説明できない。それなのに、そっと触れてみると柔らかいのだ。 不用意に触れると、あっという間に壊れてしまいそうである。 見つめていると、ただそれだけで泣き出してしまいそうである。 モニを起こすわけにはいかんので、わっしはひとりでフロレンスのただひとりの友達に会いに行く。Sさんと言って、わっしよりはだいぶん年上の女のひとだが、わっしはむかしから仲がよいのだ。待ち合わせたバール(BAR)の外に立っているのだがなかなかこない。 40分ほども遅れてやってきたSさんと、テントのなかの席につく。 「元気でしたか?」と英語圏のひとらしく訊こうとするわっしのほっぺにデッカイ音がするイタリア式のキスをするSさん。「ここはイタリアですよ。堅苦しくて退屈なアングロサクソン式は通用しない」と宣告されてるような気がする。アングロサクソンの様式はまことに他人行儀で人間らしいところが実際少ない。 Sさんは、独身でふたりの息子がいる。ふたりとも現実とは思えないくらいよく出来たガキどもであって、わっしと会うときははにかみながらおずおずと手を差し出す。 そんなにひとがよくて世の中が渡っていけるのか心配になるくらい善良なのす。 Sさんは目がよく見ると泣いていたひとの目である。 「遅れちゃダメじゃん」というわっしに「交通渋滞がひどかったもんだから」と言います。 Sさんはウソが上手でない。 わっしは間の悪いことに今日がこの国では「父の日」であったのを突然思い出します。 なんと言えばいいのか、 ここに来る途中で 窓から首を出して 煙草をすっている男たちを見ました とでも言うのか? モニとの結婚式にはSさんもなんとかして来てくれるそうであった。 ふたりのガキはモニとわっしが招待します、とわっし。強硬に反対するSさん。 聞く耳をもたぬわっし。 それからSさんとわっしは共通に知りあいの友達たちについて情報を交換して、Sさんはもうもうと排気ガスをふきだすFIATで帰っていった。 こんな退屈な日常のことを書くべきではないのは判っているが、 友よ、 わっしは帰り道の巨大な寺院のある広場で階段に座り込んでしまった。 なんで、と問うてはならぬ。 わっしはビョーキなひとなので、そのきざはしに座り込んで、泣き出してしまったのだ。 誰にも世界は救えないが、少しでも悲惨を減らす方法はないのだろうか。 悲しんでいるひとを喜ばせる簡単な方法に習熟するすべはないか。 どうすれば友達を幸福に出来るか。 きみが指をドアに挟んでしまったときに、その鋭い痛みをわっしが共有する方法が人類にはないのはなぜか。 こーゆー、わっしのバカガイジン的な気持ちを判ってくれるのは,この広い宇宙でモニだけだが、天使のような顔をして眠っているひとを起こすわけにはいかぬ。 こーゆー夜、わっしはデースイするのだ。 デースイして、お月様に長い手紙を書いたりする。 … Continue reading

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