Category Archives: 異文化異人種

十年

1 その頃のぼくの財布にはしわくちゃの紙幣が二枚とギターピックと、なんだかくしゃくしゃになったままいつも取り出すのを忘れてそこにある、中国人夫婦がやっているベーカリーのステーキパイのレシートがはいっていて、Salif KeitaやCesaria Evora、そうかと思うとAudioslaveが入っていたりするキチガイみたいなiPodが反対側のジーンズのポケットに入っていた。 世界のことなど、どうでもよかった。 ぼくはぼくの一生だけで手いっぱいで、太陽がのぼればベッドをぬけだしてでかけ、人にあって質問を投げかけられれば機知に満ちたとまではいかなくても、せめて誠実で正しい言葉で答えようとする自分に嫌気がさしていた。 週末になれば頭がつかえそうな地下のワインセラーを改造したクラブにでかけて、豊胸手術でリズムだけを肥大させた(性的に誇張された花嫁のような)音楽で踊り狂った。 たいていは名前もよくおぼえていない女の子たちと土曜日のベッドのなかで眼をさました。 ぼくは20歳だった。 無軌道で滅茶苦茶で世界が大嫌いなのにいつも上機嫌な完璧な暴力のかたまりで、議論で言い負かすよりも相手の入れ墨だらけの皮膚の下で骨格が耐えきれずに折れる鈍い音を聴くほうがずっと好きだった。 2 若いということはなんという怖ろしいことだろう。 きみの行く手にはどんなふうにでもきみを呑み込んでゆける無限に似た「未来の時間」があって、太陽は南中の位置にあるのに、空は暗くて遠くはいつでもかすんでいて良く見えはしない。 瞋恚の炎が胸に燃えさかっているのに、きみにはどうしても自分がほんとうは何に怒っているのか理解できはしない。 きのうまでまるで聖母を慕う気持ちで愛していた女のひとが声を枯らして呻きをあげ汗にまみれてただ形が美しいだけの惨めな肉体に変わり果てたのをみて神を呪っている。 20歳という年齢は「薄汚い子供」である年齢でもある。 毎日はてしもなく増殖する物語には始まりがあるだけで終わりがなく、きみをいっそう苛立たせる。 人間が積み重ねた叡知を足で蹴って壊してしまいたくなる。 両手で耳をおおい叫び声をあげてみればどうか。 あるいは裸でベッドの脇に立って怒りと嫉妬に狂気した女びとに拳銃をわたして、ぼくを撃ってくれ、と哀願してみればどうか。 いっそ敬虔な祈りを捧げてみてはどうか、いちども信じたことのない神のために 3 地獄であるのと同時に天国だった、あの焼きごてで眼を鋳つぶされたような毎日から、どうやって抜け出たか、不思議なことにもうおぼえていない。 この手のひらの染みが消えたのは手を洗ったからか、それとも染みが全体に広がってわからなくなってしまったのか。 それは「激しい日々」ですらなくて、若くて統合がうまくとれていない神経系とホルモンとですべての説明がついてしまうのではないか。 きみはなんだか精霊にずっと欺かれていたひとでもあるように、いつのまにか激情に取り残された自分の姿を見て茫然とする。 影がもう二度と自分の姿を映さないことを発見して途方にくれるピーター・パンのように 満ち足りた午後が終わって、太陽の輝かしい光に包まれていた芝生が夜露に濡れる頃になると、きみの魂は、あの圧倒的な「愚かさ」のなかへ帰ってくる。 人間の悟性には「なにもわかっていないのにすべてが説明されてしまっている」状態があって、20歳のときには、きみの愚かさはきみの理性には囁きすら聞こえないところで、すべての宇宙の秘密を語り尽くしていた。 あの沈黙へ帰りつかねばならない。

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むかし、日本人は戦争に行った

日本が戦争に負けたのは1945年のことだった。 戦争を始めた理由は以前にも書いたが本質的には「欧州で勝ちまくっているナチのおこぼれが欲しかった」からである。 当時の日本では「バスに乗り遅れるな」という標語が流行ったが、このバスはナチがフランスを占領したせいであちこちにできた元フランス植民地の空白や同じように無力化されたオランダ植民地を「ただでわけ取り放題」にするための「バス」だった。 その、日本の人のお怒りを承知のうえでいえば、卑しい口元の「新時代」へ自分達を運んでくれるバスに日本人はどうしても乗り遅れたくなかった。 それまではどうしても広大な植民地を自分達の手でにぎって話さない「けちんぼな先行者」である連合王国やアメリカ、欧州諸国を妬ましげな上目遣いで睨み付けながら、「そんなにたくさん持っているのだから少しくらいおれにもタダでよこせ人種差別主義者め」というお決まりの悪罵を内心で毒づくしかなかったのに同じ世界秩序の紊乱者としてあらわれたナチが意外にも電撃的な戦勝を手にしてあっというまに大陸欧州を手にしてしまったので、のんびりしていてはおこぼれがもらえないと考えて浮き足立って、とにかくなんでもいいから戦争を始めてしまいたい、と考えた。 ナチが他ならぬ日本人を猿と軽蔑していることは、たとえば「我が闘争」から削除して翻訳して、「なかったこと」にしてしまった。 人種問題などとるにたりないと思わせるほどの利益が目の前にぶらさがっていたからです。 ちょうどいまの北朝鮮と同じことで当時広く伝えられていた中国での集団強姦や虐殺に反撥した世界は日本への制裁を強めていて、1990年代にソビエトロシアの軍隊が実際にそうなってしまったように補給物資、就中燃料の欠乏から軍隊の経営が難しくなっていた、という理由もある。 陸軍は日本が挑発して起こしたノモンハンでの戦闘でジューコフの機甲師団に鋼鉄に生身で体当たりするような無様な戦闘を繰り広げて、現代戦においては自分たちの軍隊がまったく用をなさないのを知っていたにも関わらず、佐官級将校達を中心に戦闘の実際そのものを書き換えてしまい、「ロスケ相手なら勝てる」と、いまから考えてみれば信じがたい無責任な虚栄を張っていたが、なにしろ現実を知っているので、オランダがナチに敗れてインドネシアの原油が「取り放題」の対象になり、フランスもナチにくだってインドシナがからっぽになると、もう無我夢中で置き去りにされたものを掠めにいった。 当時のアメリカ人にとっては日本人は「ただの人間を神と崇める未開な民族」にしかすぎなかった。 日本人が自前の飛行機を設計して、しかもその飛行機群は主戦場が太平洋であることを意識した設計で長大な航続距離をもたせるという合理的な思想に基づいていたり、地紋航法を乗り越えて戦闘機操縦士ですら風の偏向を機上で計算しながら洋上を飛べる航空技術を身につけている(PPLをとってやってみれば判るが、これは人間業では無理な感じがするほど難しい作業です)ことなどを知っていたのは極くひとにぎりで、ほとんどの場合、「日本人は人間を神と崇拝できるほど未開である」という観念にとらわれて、中国大陸からの武官達の報告も無視されてきていた。 日本が実際に真珠湾を攻撃した頃には「日本に近代戦遂行能力がある」というような発言は、タブー、というか、変わり者とみなされて将来の栄進の妨げになるので誰も韲えて言おうとはしない話題になっていた。 フランスのように既に打ち負かされていたわけではなかったが連合王国は当時、風前の灯火もいいところで、表現に巧みなウインストン・チャーチルの口にかかれば「The Few」 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Few ということになって、なんとなく英雄的でかっこいいが、なにしろ計画性に長けて全員一丸となって合理的な生産計画をつくることにかけては当時もいまも世界一のドイツ人を相手に、計画性がゼロで、同僚同士の足のひっぱりあいに熱中する伝統をもつ高級将校に率いられ、訓練に至ってはタイガーモスで離着陸が出来てハリケーンでまっすぐ飛べればもうベテランとみなして、あとは自分で上手になってね、な、これも第一次世界大戦以来伝統の無茶苦茶なパイロット養成計画で、スペイン内戦で腕を磨いたドイツ軍の戦闘機パイロット達には「なんでイギリス人は標的機を自分たちの戦闘機の訓練でなくておれたちの訓練に差し向けて寄越すんだ」と訝られるくらいダメな空軍の全力を挙げてナチの侵攻を阻止しようとしているところだった。 自分の国を守る戦力がまったく足りないのに植民地防衛にまわす軍隊などあるわけはなくて、実際にも太平洋地域の主戦力はブリュースターバッファロー http://en.wikipedia.org/wiki/Brewster_F2A_Buffalo という樽に翼をつけてみたら飛びましたとでもいいたげな、とんでもないアメリカ製戦闘機で、しかも数が足りないので用途は日本軍の上空を飛んでびびらせることに専念して、あんまり使うな、という命令を受けたりしてしていた。 苦し紛れにプリンスオブウエールズを派遣してシンガポール人たちに対して「イギリスはちゃんとアジア権益を守る意志はあります」というこどもだましのポーズをつくってみせたが、このプロモーション企画も、ただチャーチルの頭の古さを証明するだけで終わってしまった。 もっと悪い事にはオーストラリアもニュージーランドも、戦士として素質がありそうな若い衆はみな連合王国防衛のために出払っていて、南太平洋は軍事的な真空地帯になっていた。 そこに、「バスに乗り遅れるな」の日本人達が、どっと侵攻してきたのだった。 家を開けて遠い国へ出かけて旅の空にすごしていたら、戻るにも戻れない距離の彼方で、自分の妻や家族が日本侵攻の危機に曝されていると知ったニュージーランド人やオーストラリア人の「日本人の卑怯」に対する憎悪はすさまじかった。 日本の敗戦処理委員会ではニュージーランドとオーストラリアは常に強硬に日本への厳しい復讐を迫るので読んでいて驚くが、要するに、「空き巣を狙われた夫たちの怒り」とでもいうのに似ている。 残された女達、ということでいえば、東南アジアやポリネシア、マイクロネシア各地で赤十字の看護婦や伝道の仕事に携わっていた女のひとたちは、日本人が進出してきたほとんどあらゆるところで強姦被害に遭って、BBCのドキュメンタリなどではいまもよくインタビューが放送される。 ガキわしも、香港の病院に赤十字のボランティアとしてつとめていたヨークシャー人のおばちゃんが、「そうして日本兵たちがわたしたちの病院にやってきました。彼等は私達をゆびさして『二階にあがれ』と命令した。それから…わたしたちはひとり残らずレイプされた」と述べて、テラスの外の夕陽に輝く庭を眺めながら「That wasn’t very nice」とつぶやく姿に大泣きしたりしたものだった。 「人間を神と崇めるバカタレの国」という侮蔑を奉じて軍備をまったく怠っていたアメリカ合衆国と自分の家が火事で丸焼けの最中の連合王国が一応まもっていることになっていた太平洋は、圧倒的に優勢な軍備(ちょっと意外な感じがするかもしれないが開戦当初の日本陸軍は機関銃、榴弾砲、対戦車砲、戦車、航空機、あらゆる点で連合軍よりも質も数も遙かにうわまわっていた。海軍については言うのもばかばかしいくらいの戦力差があった)の日本人たちにあっというまに踏みにじられた。 (余計な事を書くと日本語で太平洋戦争について書かれた本を読むと「日本軍の補給思想の欠落」ということが書かれているが、それは半分しか本当でないように見える。 日本軍はかなり精密に補給を計算して実行できる軍隊だった。 ちょっと考えてみればわかるが、そうでなくては4000キロ先の戦線まで補給物資をとどける、というようなことが出来るわけはない。 朝鮮半島侵略戦の補給指揮官だった石田三成の例をあげるまでもなく日本人は伝統的には補給の才能に恵まれた民族であると思う。 日本軍に欠けていたのは補給思想よりも「補給線防衛」のハウトゥーで、これは多分第一次世界大戦に一部局地戦をのぞいて参加しなかったからだろう。 北海や北大西洋を舞台にして「補給を断てば勝てる」という、やらしい思想をもったドイツ軍と対峙したことがなかったからだと思われる) 日本軍の殺到ぶりは、なにしろ碌な軍隊が存在しない無抵抗戦域なのだから当たり前だが、ものすごいスピードで珊瑚海にあらわれた日本の、上陸用の兵士たちを伴った、「海を覆うような」大艦隊のニュースに、オーストラリア人やニュージーランド人が、いかにパニクったかは、たとえばオークランドの沿岸を船でひとまわりすればすぐに判る。 至る所に急造の砲座やトーチカがつくられているからで、あれらはみな、じーちゃんやばーちゃんが、「日本軍がくる!」の報にえっちらおっちらこさえたものである。 珊瑚海海戦について「日本が勝った」「アメリカが勝った」「引き分けだった」と相撲の判定みたいなことを書いている本が世の中にはたくさんあるが、戦争は無論勝ち負けだけではない。 珊瑚海海戦で最も重要なことは「攻勢の日本軍がそこで止まった」ことで、自前の軍勢の精鋭が欧州やアフリカに出払ったオーストラリアやニュージーランドの国民感情とブリスベンの重要性をみなおしたアメリカ人達が、ほんでわ、というので南太平洋を軸とした戦略を再構築していったことにある。 … Continue reading

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はっぴー

日本語になおすと「幸福の科学」で四谷大塚進学教室のシステムをコピペしてつくった新興宗教みたいだが「Happiness Reseach」は人気のある分野で、ハーバード大学の講座のなかで最も人気があるのも、この「幸福の科学」である。 アメリカで最も人気があるのは件のドーパミン理論で、最もドーパミンが放出されやすい状況を最も幸福になりやすい状況と定義してさまざまなリサーチを行う。 遺伝的因子が5割、オカネモチであったり社会的地位が高かったりの社会的成功の要因が1割で、残りの4割の要素である友人関係や家族、過ごす時間の質、というようなことを考え直してディプレッションを回避したり、幸福感を増大させようという思想に立った科学である。 英語世界では「世界で最も個人が不幸な国」と言えば、ほぼ自動的に日本をさす。 そんなバカな! いいかげんなことを言うと承知しないぞ! という声が聞こえてきそうだが、ほんとうなものは仕方がない。 日本が世界で最も不幸な国であるというのはただの常識であると思う。 日本の人の面前でそんなことを言うひとはいるわけがないので、こういう話は日本のひとの耳が届かないところで英語人同士でしかなされないことを考えると、アメリカに20年住んでいるという日本の人でも、日本語のメディアばかり見ていれば、周囲のアメリカ人が「日本ほど個人を不幸にする社会はない」と思っていることにまったく気が付かずに、アニメを通して憧れの国だと思われていると錯覚して、毎日とくとくとしてアニメや日本料理の話をして、周囲に気の毒がられている、という状況も夢ではない。 高名な心理学者Ed Dienerが登場するRoco Belicのドキュメンタリ映画 「Happy」 http://www.imdb.com/title/tt1613092/ もまた英語世界の「常識」を踏襲して日本を「最も個人が不幸な国」として取材している。 誕生日に「大事な仕事の話があるから」というので会社の同僚と「飲み」につきあわされる39歳の会社員は、家族よりも仕事が優先される日本の日常を、屈託のない笑顔で向けられたマイクとカメラに向かって話す。 「明日は妻と会うからダイジョーブですよ」と明るく笑う。 トヨタ自動車の品質管理部門に勤めていた夫を過労死で失った妻は、玄関にあらわれた男性が一緒に過ごした時間が少ないせいで父親だとわからない娘のビデオや、死ぬ直前に上司に助けてほしい、と述べながら書いた申し送り状をインタビュアーに見せる。 観ていて最も悲惨な感じがするのは、あるいは日本の人には感覚的に判りにくいかも知れないが過労死で夫を失った妻達だけでつくった、お互いを励ましあうためのコーラスグループで、「良い夢を見てね ママはパパの笑顔を胸に抱いて生きる ママは負けないよ」という合唱曲を声をあわせて歌う姿は、西洋人にはここに至ってまで発揮される集団主義を思わせて、二重の意味でやりきれない気持ちにさせられる。 日本とは全く相反する価値観をもった社会として、ブータンが挙がっている。 ブータンの情報省大臣であるDasho Kinley Dorjiが画面に登場して、最近ブータンが世界に向かってヴォーカルに主張しているGNH (Gross National Happiness)というブータンの国家的思想について雄弁に力説する。 GNHは、見たとおり、GDPと対立的な、国民がどれだけ幸福であるかが国家の実力だと述べる国家指標のことです。 なんとなく自社の製品の優秀さを力説するトヨタのセールストップを思わせる口調でにやにやさせられてしまう。 あるいはデンマークのCo-Housing Community http://en.wikipedia.org/wiki/Cohousing がもたらす大家族的幸福について述べる。 Co-Housingというのは、ひとつのセクション、あるいはひとつの建物に数世帯が住んでお互いに助け合って暮らすという人間を北欧的な孤独から救済するためのシステムで、デンマークではかなり受けいれられている。 学校のイジメ撲滅の伝道師、学校におけるイジメ廃絶への独特な取り組みで有名な Michael Pritchard http://www.michaelpritchard.com/ が紹介され、日本社会内部からの日本社会への異議としての沖縄社会、ルイジアナのコミュニティ、compassionに満ちていたはずの原初の人間社会への暗示としてナンビアのブッシュマンたちの生活が語られる。 映画には神経科学者のRead Montagueも登場して、人間が幸福感をうるためにお互いを助け合い協力しあうことがいかに大切か、協同的行為がいかに脳髄にとってコカインを注ぎ込むような幸福感を生み出すものであるかを力説する。 映画が映し出していくものはことごとくいまの世界で「幸福」あるいは「幸福感」というものを考えるときのスタンダードともいうべき事象や知識であると思う。 (ところが) 困ったことに、こうした「幸福」への思想に同意できない。 映画のなかで、他の事例と同列のものとして扱われているが、よく考えてみると明らかに異質な例がひとつだけでてくる。 … Continue reading

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愛国心

現代の最も重要なドキュメンタリ映画作家のひとりであるNahid Persson Sarvestaniの亡命王妃Farah Pahlaviを描いた素晴らしい映画「The Queen and I」のなかで王室支持のイラン人がもってきたイランの土をFarah王妃が、手のひらにとって、「これはNiavaranの土だわね」と呟きながら、じっと見入る場面がある。 映画自体、王と王妃を追い出す政治運動に「17歳の共産主義者」として参加したNahid Persson Sarvestaniと追い出された王妃Farah Pahlaviの奇妙な、しかし哀切な感じがする友情を描いた傑作だが、映画をみているうちにふつうの人間ならば普段は考えない「愛国心」というようなことについて考えてしまう映画でもある。 イギリス人は愛国心というようなことはまともな人間が口に出すのは恥ずかしいことだと考える。 深い意味はなくて、食べ物を食べるときに音を立てるのは下品であるとか、まして舌鼓を打つなんてとんでもない、というようなことのほうに近い。 ユニオンジャックを打ち振りながら外国人排斥なり、同じくらいケーハクななんらかの政治的メッセージを叫びながら練り歩いても、沿道のひとの反応は「そんなにユニオンジャックが好きならパンツにして穿け」「ピーピーの染みをつくるなよ」と言われてげらげら笑われて終わりだろう。 もしかすると中には「愛国ファン」みたいなヘンタイみたいなのがいるのかも知れないが、愛国心のほうでは明かに迷惑をするだろうと思われる。 共産主義の理想を信じて王政打倒の運動に参加したPersson Sarvestaniは、そのあとにくるはずだった(アヤトラ・ホメイニが約束した)民主主義の社会はあらわれず、その代わりにムスリム独裁の恐怖政治があらわれたことに失望する。 当時17歳だった弟が警察に連行されて処刑されると、すべてを捨ててドゥバイに密航する。 いまはたしかスウェーデンに住んでいるはずである。 一方の王妃ファラもサダト大統領のエジプトに逃れ、やがてサダトが暗殺されるとパリに逃れてゆく。 イラン革命が達成され王室が国外に逃れた次の週に、高校生の女の子達が「今度の政府は女はみなスカーフをかぶるようにと言い出すに決まっている、って噂があるのよ」と言って笑い転げている。 少なくとも表面はフランス的な社会だった革命前のイランではスカーフの着用などはイラン人に共通な偏見である「野蛮で粗野なアラビア人」たちの風習にすぎなかったからです。 ところが、その週の週末には政府は実際にスカーフで髪を隠すことを法律化する。 シャリーア http://en.wikipedia.org/wiki/Sharia が国法になってしまった。 「石打ちの刑も復活した」と欧州で会ったイランの女びとが言うので、相変わらず世界のことに関心をもたないでノーテンキな暮らしを続けていたわしは驚いてしまったことがある。「あれは石が大きすぎても小さすぎてもいけないの。小さくては苦痛が与えられないし、大きすぎると、苦しまないですぐ死んでしまうでしょう? 結婚もしないで性交渉をもつような女は、苦しみ抜いて死ななければいけないのよ」 「イスラム社会は女にとっては地獄そのものでしかない」 Persson Sarvestaniの映画にも処刑場で拾われた、血がべっとりとついた石が出てくる。 ウクライナ人たちは、「世界でいちばん素晴らしい国はウクライナさ」という。 ひとりの例外もないよーだ。 食べ物がうまい。 お菓子も世界一。 人間が素晴らしい。 底抜けに親切なんだぜ、みんな。 冬にはみなで集まって酒を飲む。 しまいには、酔っ払って「女の子たちも、すげー綺麗だからな! ガメ、キエフに来たらとびきりの美人に紹介するよ!」と言って、モニさんにものすごく怖い顔でにらまれたりしている(^^) いつかウクライナに帰るの?と訊くと、どのウクライナ人も爆笑して、「絶対、帰らない」という。ろくな仕事がないしね。 社会のインフラもぼろぼろで、生活の不便がおおすぎる。 … Continue reading

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海と怪物

1 コモ湖の夏は、いつも突然襲ってくる。 雲ひとつなかった青空の向こうから直立した巨大な白雲が姿をあらわしたかと思うと、次の一瞬、真っ暗な空に変わって辺り一面は息もできない筱雨に変わる。 視界はゼロだし、背中や顔に衝突する雨滴は石つぶてのようである。 ボートの底にあたる激しい雨粒の音を聴きながら、大急ぎで岸に向かう。 「ボ、ボートが沈んでまう」とパニクって、猛烈な勢いで櫂を動かしているわしの姿の前には舳先に座って、頬杖をついて、なんだか嬉しそうにわしの恐慌ぶりを眺めているモニがいる。 「大丈夫、モニ、もうすぐ岸に着くから」と叫んでいるのに、のおんびりと 「わたし、ガメ、大好き」と、チョー見当外れの呟きをもらしたようである。 わしは頭のほうはともかく筋力と肉体の物理的なATP産生量だけは定評があるので、モーターボートのようなスピードで岸に着く。 桟橋に仰向けになってぜーぜーしていると、モニが、面白かったな、という。 なんだか、いつも、こーゆー感じだよねー、と思っているところで目がさめた。 オークランドのHauraki Gulfには、いくつか島があって、ヨットやパワーボートの停泊に適した入江がいくつもある。 帆船時代にオークランドの安酒場でしこたま飲んだ船員たちが、げーげーやりながら二日酔いの頭をさますのに使ったので「酔っ払い湾」の名前があるIslington Bayがいちばん有名だと思うが、他にもHome Bay、Mullet Bay、たくさんあります。 Home Bayなどはケーブルがややこしく複数敷設してあるので釣りには向かない(釣り針でケーブルを引っかけると20万ドル(1500万円)の罰金でごんす)が、あんまりここで名前を書かないほうが良いに決まっている、わしがよく行く入江などでは、朝と夕方にはいろいろな魚がたくさん釣れる。 日本ではちっともとゆっていいくらい魚を食べなかったのに、このときのために有次(ありつぐ)の包丁を日本からもってきて、銀座で何遍もこのブログ記事で自慢するために書いている「外国人向け寿司スクール」にも通ったわしは、刃先も軽やかに「指切っちゃったあー、痛えええー。出血多量で死ぬー」と叫びながら、シマアジ、タイ、アジ、アオリイカという面々の鰓の後ろから内臓をえぐりだし、人間で言えば耳にあたる測線をぞりぞりと矧ぎ、頭とシッポをチョンと切って刺身をつくる。 家の庭からもってきた紫蘇と生姜と醤油で食べる。 モニは一口食べて「おいしい」と言いながら主には自分でつくったキッシュを食べておる。食べてみると、モニのキッシュのほうがどうしてもおいしいので、魚はどうでもよくなって、ふたりで星が満天を飾りだした夜空を眺めながらシャンパンを飲みます。 こうやって晴天の夜にまわりに町どころか人工のものがなにもない入江の沖合で、波の音を聴きながら夜の空をみあげていると、なんとなくバカバカしいほどたくさん星があって、あれがひとつづつ銀河や恒星ならば、人間の知性には価値なんてほんとうにあるのか、という気になる。 おおきな自然に遭遇した人間がもつ、ふつーの反応だと思います。 あるいは、何度かは家に体温計というものがないので判らない(子供が風邪をひいたりするたびにお母さんがやさしい手で体温計を口に含ませてくれるのは日本だけの習慣ではないかと思う)が、高熱が出てベッドでうなっていると、モニがやってきて、デコに手をあてて、「熱い!」とゆって喜んでおる(^^) もう死ぬー、と喘ぎあえぎ述べると、オーバーだ、とゆって、はっはっは、と笑う。 うー、薄情ものおー、このまま死んだら、あのひとにもっとやさしくしてあげれば良かった、と後悔するぞおー、と虫の息で言うと、「ガメは、ほんとうに子供みたいだ」と呆れた様子で立ち去る。 そのまま気絶して、起きてみて、なぜか熱が関節に来ていて足かっくんになってのけぞったり、こけそうになったりしながら歩いているのを、いつのまにか寝室に来ていたモニが笑ってみてます。 カ、カッコワルイと照れ隠しに言うと、モニは容赦なく、おじーさんみたいだ、という。 ガメ、必ずおじーさんになるまで一緒にいようね。 ちゃんと歩けなくなっていても、その頃にはきっと操縦性のよい車椅子があると思う。わたしは押さなくてもすむだろう。 その頃にはモニもおばーさんではないか、と述べかけて、ふと、ひょっとしたら、このひとはおばーさんになど永遠にならないのではないだろーか、 わしだけがおじーさんになって、モニはいつまでも若い美しいままで、いまと同じように寝室に半身を起こして、わしの老衰ぶりを笑っているのではなかろーか、と考える。 モニというひとは、そういう感じがする不思議な人です。 2 戸塚宏という名前は昔、鮎川信夫について調べていたときに出会ったことがある。 社会に適応できなくなった子供を預かって自分の「戸塚ヨットスクール」で、殴る蹴るを繰り返して何人も更生させたので有名な人です。 そのヨットスクールで情緒障害の子供が何人も「正常」になったと当時のマスメディアが激賞して、戸塚ヨットスクールは一躍人気施設になった。 ところが暫くして、というのは70年代の終わりから80年代初頭にかけて、何人もの「生徒」が行方不明になり、あるいは死亡していたことが判って、それまでベタボメ一方だったマスメディアは一転、「それでも効果があるのだから是認されるべきだ」というグループと「殺人学校ではないか」というグループに分かれる。 鮎川信夫は次第に「殺人学校非難」に世論が傾いていった頃、戸塚宏の「勇気」を称賛する。この「事件」は当時の最も良心的であったはずの読書人層におおきな衝撃を与えます。トーダイおじさんのひとりは、そのときの「まるで父親に裏切られたような、やりきれない気持ち」をウイスキーの酔いにまかせて、わしに語ってきかせてくれたことがある。 このひとは、それ以後「社会評論」のようなものをいっさい読まなくなってしまう。 いま日本語wikiを見ると、死者のうちのひとりについて、無数の打撲、内出血の痕跡、歯2本の損壊、と、のんびり、簡単に描いてある。 小さいヨットに使うラダースティックで殴ったもののようで、日本の家庭に普通にありそうなもので言えば野球のバットよりも衝撃力が少し強いくらいになると思います。 … Continue reading

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国を出るひとびと(1)ベトナム

ベトナムからのボートピープルは北ベトナムによって武力統一されたベトナム政府の「中国人排斥運動」だったのはいまではよく知られている。 ベトナムは、インドシナ半島ではむかしから第一位の大国で、しかも圧倒的な人口密度と進取の気性から絶えず外側への膨張圧力をもっていた。 ボートピープルが起きた頃(1970年代後半から1980年代)のインドシナ半島を眺めてみよう。 中国政府に支援されたポル・ポト政権が密林のテーブルの上に地図を広げて計画した妄想に近い観念の産物だった、簡単に言えばカンボジアは米の国だから都市の「遊民」(というのは知識人・教師などを含む)をみな田んぼのある田舎へ移動させて米作に従事させればよい、という「大下放政策」の失敗と、当時600万人弱といわれた人口のうち、欧州の通説で150万人、ベトナムの主張によれば300万人が殺された「キリング・フィールド」 http://en.wikipedia.org/wiki/Killing_Fields の露見とで崩壊の危機に追い込まれたカンボジアをベトナムはヘン・サムリンを傀儡として半植民地化する。 日本では少し違う話になっているのは承知しているが、かまわず話をすすめると、 インドシナ半島ではフランスがドイツにぼろ負けに負けてアジアまで手がまわらなくなった隙に日本が火事場泥棒そのままの慌ただしさでインドシナに進出するが、頼みのドイツが負けてしまうと、当然の帰結によって日本もまた連合国に敗退してしまう。 フランスがいなくなると、この地域で圧倒的に膨張要因をもっているのはベトナムで、豊かな南ベトナムを武力併合した貧しいが武断国家の北ベトナムは、すでに植民地化していたラオスとあわせてカンボジアにも侵攻して自国の勢力圏内に置いた、という大きな図式になる。 このベトナム勢力に追いまくられてポルポトを擁したクメール・ルージュはタイランドとの国境ぎりぎりまで追い詰められるが、この地域第2位の大国であるタイランドは、いつものやりかたで、衝突を極力避けて、周りの国に「みっともない」「誇りはないのか」とまで言われながら、なんと国境の町町を国費で内陸に数十キロ移転させてまで関わるまいとする。これでタイランドは結果的には最悪の事態を逃れてしまうのだから、結局欧州人の植民地化の嵐のなかでも太平洋戦争中も独立を保ってしまったやりかたといい、おもしろい国であると歴史を読んでいていつも思う。 タクシン政権や赤シャツ運動は、隠しに隠しても、タイ人なら誰でも知っているとおり、中国がタイランドを影響化に置こうとする運動の一環だが、自分の国の側から一方的にインドシナ植民地化をしようとしていると言われるのは心外だ、とパーティやなんかでも鼻を膨らませ口を尖らせて述べ立てるのは、どれもこれもインチキ、というわけではなくて、中国人たちからすれば、敵対的なベトナム人がベトナム+カンボジア+ラオスという広大な版図を持ってしまったので、メコン川流域の安全保障のためにやむをえずタイランドに覇権を打ち立てようとしている、ということになるだろう。 ベトナム人は、アジアのなかでも、最も「目から鼻にぬける」才気の持ち主であるという。オーストラリアのシドニーの郊外には「ベトナム人の町」があって、ぼくはよくでかける。町全体がベトナム語で、サトウキビやなんかが並んだベトナム風のジューススタンドがたくさんある下町は素晴らしい活気で、しょんぼりしているときでも出かけると元気が出てくるような町です。 中華風に料理されたカニにバゲットが必ずついてきたり、いくたびに「ベトナム風はかっこいいな」と思う。 あるいはニューヨークでもベトナム人たちはきびきびしていて、反応が早く、商売も柔軟で上手い。 あまりに才気にあふれているので、自分達独自の文化をつくるというような鈍くさいことをしないまま中国のものを手っ取り早く自家薬籠中のものにして、どんどん「ベトナム製」のラベルを貼っていった、というのがぼくの所謂「ベトナム文化」への説明で、ベトナム人の前で述べるとその場で撃ち殺されるかもしれないので奨めないが、ベトナム文化においては、日本で言えば「文楽」にあたるような部分まで、単に中国のもののコピーで、何から何まで中国のものを拝借してしまっている。 「自分で考えてつくったものじゃないといやだもん」大明神のインド人はおろか、日本人も、実際にはたいそうオリジナリティにこだわる国民で、大庭亀夫が「日本マイクロ文明」と言うのは誇張でもなんでもないのはベトナム文化に触れればすぐ判ります。 日本の歴史は一面では「どうやって中国文明の進出をくいとめるか」という、いわば、国民が横に一列にならんで両手をせいいっぱい広げて薄い壁一枚で中国の影響を必死に防波してきた民族の歴史だと思う。 7世紀くらいからアイデンティティを意識しだした日本人は中国とのあいだの、どんな些細な差異も大事にして、なんとかして「中国の一部」になることを拒もうとしてきた。 ところがベトナム人のほうは、持ち前の強烈な自信と尊大で「ベトナムは天然自然にベトナムである」と公理のように思って来たので、マネされたがわの中国からみると、こんなに移住しやすい国はなかった。 だって、本人たちが「まったく異なる」といってるだけで、ほんとうは同じものですから。 ソビエトロシアの支援を受けていた北ベトナム由来のハノイ統一政府にとっては中国人は「邪魔な国民」だった。 ここで、ちょっと(日本の人には馴染みがない話題なのを)気が付いたので説明を加えておくと、ベトナムでは「中国人」と言っても日本人が半島人のことを考えるほども単純ではない。 まず中国から何世紀にも渉って流入してベト人と混血している中国人と、その係累がいる。それから中国系ベトナム人がいて、中国人がいる、というふうに、しかもその区別が線を引ける明瞭さではなくてグラディエーションがかかって存在している。 だから英語本で「華僑を追放した」と述べている本があるけれども、それは間違ってはいなくてもほんとうではなくて、単純に言うと、「自分で中国系人だと認めている人」を追放したので、しかも、ここからがベトナム文化に詳しくないと判りにくいと思うが、 中国人たちが「頼むから国外に出させてくれ」と哀願せざるをえないような形にして、というのは社会として中国人を不可視の形でいびりぬきイジメぬいて、国外追放の形にした。 いままでに築いた財産をまるごと捨ててまで自発的に国外に出る人間などいるわけがない、と「ボートピープル」のときに、最終的には82万人という数の中国系を中心とするベトナム人(隣接二国からの流入数を含む)を難民として受けいれたアメリカでもさんざん議論になったが、それはベトナム文化を知らないからで、ベトナムというものを知っていれば、あたりまえのことなのである。 カンボジアでは、どのくらいが収容所のなかでの病死数か判らないので確定人数は判らないが、百万人に近い人間を処刑してしまう。 ベトナム人は、南ベトナム侵攻後、ほとんど処刑・虐殺というようなことをしていない。 ところが仔細に眺めてみると、南ベトナム政府時代の著名人で国内に残っているひとびとは、本人の志願の形をとって入校する、あちこちの「再教育学校」で「病死」したり「事故死」したりして、あるいはめんどくさいとおもったのか「行方不明」というひどいのもある。 そして、ほとんど誰も帰って来なかった。 ベトナムに住んでいる中国人たちは、それをよく知っているので、営々と築いた財産を捨てて、小さな船で、命がけで海にでていった。 ここでも余計なことを述べると、ボートピープルと言うと夜中にこっそり官憲の目をのがれて、暗い海にそっと船を出す、というイメージがあるが、そういう例もないとはいえないとしても、たいていの場合は、沖合まで監視を兼ねてベトナム海軍の哨戒艇がつきそっていたのがオーストラリア政府・アメリカ合衆国政府によって確認されている。 調べていて、ぶっくらこいてしまうのは、その上に、もちろんいまでも公式には否定している(それはそうだろう、自国を脱出する難民から「出国を許可する」ためのカネを取る政府など前代未聞である)が、ベトナム政府は数千ドルの「出国料」を徴収していた。 しかも船のチャーターの手配もしていた。 航海に出たあとのこれら中国系ベトナム人の悲惨な旅は、たくさん語りつがれている。リッチモンドでもどこでもよい、ベトナム人がたくさんいる町に行けば、そして、彼らに信用されれば、時が経ったいまでは、きっと話してもらえると思う。 町でいちばんの美しさと言われた16歳の女の子がタイランドの沖合で、エンジンが故障して漂流した船のなかで、80数回、一回いちどきに十数人という海賊たちの集団強姦被害にあって、精神的にも肉体的にも植物人間になってしまった例や、手足を切り取られて海に放り込まれた兄を助けられなかったといって泣きじゃくる女びと、その凄まじさは、なぜ70年代80年代に活字にならなかったかが容易に納得できるていのものである。 報道の前では無慈悲であることをもって鳴らすジャーナリストたちでさえ活字にすべきでない、マイクを向けるべきでない、と感じる現実というものがある、ジャーナリストとしてはもちろん俺は失格だったわけだがね、と電気ビルのてっぺんのクラブで述べたイギリス人特派員おっちゃんのKを思い出す。 つけくわておくと、ボートピープルには「自分は中国系である」という偽造証明書をつくって国外に追放されることを望んだベトナム人たちもふくまれていた。 このひとたちには、経済というものをまったく理解できないハノイ政府の施策をみて、「ベトナムには未来はない」と思い定めたひとが多かったようでした。 ベトナムを皮切りに、ちょうどいいから日本語で「国をでてゆくひとびと」のいろいろなケースをみていこうと考えたのは、当然、福島第一事故や徴兵制度復活の機運に伴って、「そうなったら国を捨てる」というひとがあちこちに散見されたからです。 … Continue reading

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昆布石鹸の味

向田邦子の「昆布石鹸」という文章は 「ビスケットとクッキーはどう違うのだろうか」 という一行で始まる。 ぼく知ってるもん、という意味ではなくて、読んでいて、へえ、と思う。 へえ、ではなくて、そうか、なのかも知れないが、 へえ、なのか、そうか、なのか、 要するに「そんな感じなのか」と発見して軽い驚きを感じる。 ビスケットとクッキーがどう違うかというとビスケットがある世界にはクッキーがない。 ニュージーランドでもCookieTime http://www.cookietime.co.nz/ という有名な会社があるが、「クッキー」なのは、この会社だけで、残りは「ビスケット」です。 クッキーはアメリカ語で英語では普及していない言葉であると思う。 ニュージーランドは狡い国で、英語圏で「うけた」番組を、あちこちから集めて来てテレビ番組の一日を形成する。 わしが子供の頃は、まだイギリスの番組が圧倒的で、再放送もラブジョイやインスペクター・モースで、だいたいAbsolutely Fabulous http://en.wikipedia.org/wiki/Absolutely_Fabulous の全盛期、ダジャレをいうと、すなわち前世紀までは、テレビから聞こえてくる英語はイングランドの英語やスコットランド訛りが多かった。 それが「Friends」 http://www.imdb.com/title/tt0108778/ を境に、アメリカ人の「R」がやたらと響くヘンテコな英語に耳が馴れて、まあ、いいか、というふうになってきたのだと思われる。 いまはアメリカの番組がぐっと増えて、次がイギリス、次がオーストラリアで、 残りは「ショートランドストリート」 http://tvnz.co.nz/shortland-street のように、イギリスのコロネーションストリートほどではなくても、まだわしガキの頃から、毎日延々延々と続くニュージーランドドラマがある。 (Rachel http://tvnz.co.nz/shortland-street-characters/rachel-mckenna-3106235 などは16年も毎日テレビに出ているわけで、いま番組のページで顔をみても、むかしのお子供さんぽい顔とは全然別の顔で、どひゃあー、と思う。わしジジイやん、と考える) アメリカの番組を観ていて「パンティ」とかゆわれると、耳にするのは、もう何千回目であるのに、いまでもやはり頭のなかで「なんじゃ、そりゃ」という反応が起こっている。 いったい、なにをどうやったら、このひとびとはニッカーズをパンティとかいう、けったいなパーぽい言葉で呼ぶのであるか、と自動的に思う。 折角、女優がナイトショーのホストに機知を機動させてコート狭しと応えているのを観て、頭のいい女のひとだなあ、と感心していたのに「パンティ」というひとことで、実はこのひとは頭が弱いのではなかろーか、と心のどこかで邪推を始めている。 イギリス人とアメリカ人は、ケミストリの良い相手と巡り会うと、なにしろ外国人同士でもあり、お互いが新鮮で、意気投合して、結婚にまで至るカップルが多い。 一方で離婚も多いので、観察していると、毎日に使う単語の意味範囲やニュアンスがビミョーに違うのでだんだん疲れ果ててくるもののよーである。 もうひとつ、同じ「英語」を使って欧州系同士アフリカ系同士なら見た目も同族なので、すっかり同じ部族だと妄信してしまうが、実はまったくとゆってよいほど考えの習慣が異なる外国人同士なので、なぜそこに絶望的な理解の壁が生じてしまうのかが判らなくて、 離婚に至ってしまう。 ニッカーズをパンティと呼ぶ相手が疎ましくやりきれなくなってしまうのだと思う。 パンティと言う側は、ニッカーズという呼び名しか自然に受け取れない辛辣な皮肉屋たちのとげとげしさが、どうにもいたたまれなくなってしまうのだと思量される。 日本のひとはやむをえない便宜と思うが「欧米」という言葉を使う。 あたりまえだが、「欧」と「米」はまるで異なる世界で、明瞭に対立的な世界です。 なぜわざわざ日本語でこんな小学生でも明らかでありそーなことをわざわざ書いているかというと、日本は便宜によって「欧米」「欧米」と述べているうちに欧も米も一緒というか、まるで欧州とアメリカが同じ枝に止まっているかのように思ってしまうひとがいるようで、その誤解は歴史的にいって何度も日本を破滅的な危機に追いやってきた。 そろそろ「欧米」という言葉を辞書から削除しないと、巡り巡れば日本は東アジアブロックに閉じ込められて中国が閂をかけたドアから出られなくなってゆきそーだと思う。 … Continue reading

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