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十年

1 その頃のぼくの財布にはしわくちゃの紙幣が二枚とギターピックと、なんだかくしゃくしゃになったままいつも取り出すのを忘れてそこにある、中国人夫婦がやっているベーカリーのステーキパイのレシートがはいっていて、Salif KeitaやCesaria Evora、そうかと思うとAudioslaveが入っていたりするキチガイみたいなiPodが反対側のジーンズのポケットに入っていた。 世界のことなど、どうでもよかった。 ぼくはぼくの一生だけで手いっぱいで、太陽がのぼればベッドをぬけだしてでかけ、人にあって質問を投げかけられれば機知に満ちたとまではいかなくても、せめて誠実で正しい言葉で答えようとする自分に嫌気がさしていた。 週末になれば頭がつかえそうな地下のワインセラーを改造したクラブにでかけて、豊胸手術でリズムだけを肥大させた(性的に誇張された花嫁のような)音楽で踊り狂った。 たいていは名前もよくおぼえていない女の子たちと土曜日のベッドのなかで眼をさました。 ぼくは20歳だった。 無軌道で滅茶苦茶で世界が大嫌いなのにいつも上機嫌な完璧な暴力のかたまりで、議論で言い負かすよりも相手の入れ墨だらけの皮膚の下で骨格が耐えきれずに折れる鈍い音を聴くほうがずっと好きだった。 2 若いということはなんという怖ろしいことだろう。 きみの行く手にはどんなふうにでもきみを呑み込んでゆける無限に似た「未来の時間」があって、太陽は南中の位置にあるのに、空は暗くて遠くはいつでもかすんでいて良く見えはしない。 瞋恚の炎が胸に燃えさかっているのに、きみにはどうしても自分がほんとうは何に怒っているのか理解できはしない。 きのうまでまるで聖母を慕う気持ちで愛していた女のひとが声を枯らして呻きをあげ汗にまみれてただ形が美しいだけの惨めな肉体に変わり果てたのをみて神を呪っている。 20歳という年齢は「薄汚い子供」である年齢でもある。 毎日はてしもなく増殖する物語には始まりがあるだけで終わりがなく、きみをいっそう苛立たせる。 人間が積み重ねた叡知を足で蹴って壊してしまいたくなる。 両手で耳をおおい叫び声をあげてみればどうか。 あるいは裸でベッドの脇に立って怒りと嫉妬に狂気した女びとに拳銃をわたして、ぼくを撃ってくれ、と哀願してみればどうか。 いっそ敬虔な祈りを捧げてみてはどうか、いちども信じたことのない神のために 3 地獄であるのと同時に天国だった、あの焼きごてで眼を鋳つぶされたような毎日から、どうやって抜け出たか、不思議なことにもうおぼえていない。 この手のひらの染みが消えたのは手を洗ったからか、それとも染みが全体に広がってわからなくなってしまったのか。 それは「激しい日々」ですらなくて、若くて統合がうまくとれていない神経系とホルモンとですべての説明がついてしまうのではないか。 きみはなんだか精霊にずっと欺かれていたひとでもあるように、いつのまにか激情に取り残された自分の姿を見て茫然とする。 影がもう二度と自分の姿を映さないことを発見して途方にくれるピーター・パンのように 満ち足りた午後が終わって、太陽の輝かしい光に包まれていた芝生が夜露に濡れる頃になると、きみの魂は、あの圧倒的な「愚かさ」のなかへ帰ってくる。 人間の悟性には「なにもわかっていないのにすべてが説明されてしまっている」状態があって、20歳のときには、きみの愚かさはきみの理性には囁きすら聞こえないところで、すべての宇宙の秘密を語り尽くしていた。 あの沈黙へ帰りつかねばならない。

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ガメ・オベールからの手紙_3

「教室では、わしはわれわれの無知を学んだが、通りでは、人間が神にすぐれた価値を学んだ。
人間の神に勝れた価値?
そんなもん、あるわけねーじゃん、ときみは言うかもしれん。
でも、あるのよ。
人間の愚かさ、人間が一刻一刻に全霊をそれに投企する、
人間の愚かしさのことをわしはゆっているのです。
愚かであることは神を驚かす。 今度は、それを話しにもどってくると思う (つづく)」 と書いた、前回の「ガメ・オベールからの手紙」からちょうど1年半経ってしまった(^^;) これだから時間という、誰の、あるいは何の意識であるのかすらはっきりしないものとの付き合いは油断ができない。 二十代前半においては、わしは北欧人の友達が多かった。 偶然であると言ってよいが、北欧人は気持ちのよい礼儀正しい人間が多い、という理由にもよる。 わしは礼儀正しい人間が好きであって、どちらかというと儀礼的な自己抑制がちゃんと出来るならば、内心が多少ぼろかったり、邪であっても構わずに付き合うほうである。 北欧人は合理的であって、あるとき一緒に昼食を食べていたら「ガメ、アフリカ人の友達を知らないかな?」という。 知ってますよ。なんだったら今度の週末のアフリカ人たちの集まりに連れていってもいいよ、というと薄い灰色の目を輝かせて、行きたい、という。 あとで別の北欧人の友達に訊いてみると、この大秀才でスーパー美人でもある男大学人の憧れの的であった北欧人は、全人種の男とイッパツやってみて、人種によってセックスが異なるかどうか探求しようとしていたものだそーである。 各人種につき1サンプルではいくらなんでもサンプル数が少なすぎるのではないか、と冗談を述べたら、ちゃんと3サンプルづつやってみたのだそーで、お話の合理性に感心してしまった。 こーゆーとき、北欧人に対するわしのヘンケン式メカニズムは発動して、北欧人だなあー、と思う。 スウェーデン人の友達が戦争前にいかに多くのスウェーデン人がヒトラーとナチの支持者だったかを述べるので、わしが、ふと、考えもなしに、「それなのになぜ、国王がナチにかぶれたくらいで国としてはナチに鞍替えしなくてすんだのだろう」というと、友達は「アドルフ・ヒトラーの髪が黒かったのと瞳が暗褐色だったのが気にいらなかったのだろう」という怖ろしい冗談を述べた。 そのときも83式ヘンケン・メカニズムがウィイイイーンと動いて、「北欧人だなああああー」と考えた。 それやこれやで北欧の人、というと「狂気の人」という印象があるが、もちろんベーオウルフを読み過ぎた結果の思い込みが招いた偏見にしかすぎない。 日本語のおおきな魅力のひとつは言語の内部に神が存在しないことだった。 西欧語は言語の「中心にある空白」あるいは「外側にある無言語地帯」のような言語が存在せず、届きもせず、指向することも出来ない場所に「神」という絶対があって、それが実は言語自体の定義にもなっている。 神を前提としなければ思考そのものが成り立たないので、人間として活動するということは、ほぼそのまま言語によって思考して活動することだが、したがって、神を信じなければ人間でいられない。 違う言い方をすれば人間である限り神がいることにせざるをえないので、仮に神なんていないと気楽に否定すると、たちまち現実に存在するはずの自分がかき消えてしまうことになる。 ところが日本語という意識の体系では、そんなことはないのであって、別に神がいなくても困らない言語で、言語による思考の対象になりえず表現もしえない「絶対」の神を言語のなかに持つかわりにお互いの人間が立っているだけである。 外国人は日本にいて日本のことがわかってくると日本人があまりにウソツキなのでうんざりする。 考えてもいないことを相手が喜びさえすれば平気で口にするし、相手がいうことをわかっていなくても、深く頷いて同意してみせたりする。 日本滞在中、わしには虫の居所が悪いことが多い東部アメリカ人の友達がいて、このひとにはよく日本のひとに「いま笑ったけど、なにが可笑しいか言ってみろよ」と突然尋ねるという、粗暴で残酷なくせがあったが、相手の日本人にとってはいくらなんでも気の毒でも、苛立ちは理解できなくもない、と考えたりした。 神がいない結果、どういう社会が現出したかというと、「真実」というようなものはどうでもいい社会になった。 みなが「これが真実だ」とはやしはじめると、驚くべし、それが真実でないとほぼ歴然と了解されていても日本語のなかでだけは「なんとなく真実」「多分真実」「真実」と真実性が支持する人間の数によって補強されてゆくことで、ウソだと信じていた当人たちも真実だと信じるようになって、しまいには「放射能は安全である」と決まって、崩壊した原子力発電所からたった30キロしかないところで子供たちが学校へ通うことになる。 ここでも当初は個人の理性にかけて「安全でない」とおもっていても、集団に説得される形で心から「放射能は安全である」と信じてしまうようなので、他には、こんな文明が目撃されたことはないと思う。日本というマイクロ文明の重要な特徴ではないだろうか。 なぜそうなるのかというと日本語にはもともと「絶対」が存在しないからで、真理さえも言語の構造が原因して相対的だからである。 日本人の生活においてはお互いの表情や目つきというような反応が手がかりで真理はそれによって決定される。 真理がもたれあって生活している。 一方で日本では「妊娠中絶は胚が若いときでも殺人だ」「強姦された結果であっても神の意志なのだから中絶という名の殺人は許されない」という、特に北アメリカ大陸に多い狂信者のたわごとが勢力をもつ、というようなことは考えにくい。 ついでなので述べると胚の中絶は観念と思想の立場からはどうあれ、医者からみると、4ヶ月をすぎてしまうと殺そうと思ってもなかなか母胎にしがみついて死んでくれないので実感として殺人で、別に宗教キチガイに言われなくても自動的に罪悪感が生じる。 だが胚が「おかーさん」の体にしがみつきはじめる前の段階では、考えている言語に神がいなければ、罪障の感覚は起こらないのではなかろーか。 日本語で出来た日本社会の、いまは、当然、前からあったもんね、とされているモラルには、明治時代以降に「神を前提とした言語体系」をもった国からはいってきて、むかしから日本語の家に住んでいるような顔をして座っているだけのものが多い。 日本語における日本社会についての議論が多くの場合混乱して不毛なままの罵りあいで終わることが多いのは、チョー下品としか言いようがない人がおおい議論している人間の品性や適性ということを別にしても、錯綜した複数の系からなる文化がよじれあっていて、どれがどこに由来するのか、もう判らなくなっているからであるように思われる。 このブログがゲームブログだった頃に、アニメに関連して近代以前の日本ではビンボな家では近親相姦は(それが妊娠という結果を招かない限り)特に驚くほどのことではなかったようにみえる、と書いたら、えらいことになったことがあった。ゲームブログにそういう記事を書くやつが間違っておる、とも言えるが、前近代的なことを人目にさらさないことが「洋化」をめざす明治政府の大事な役割であったのをすっかり忘れて、どこに活字のものがある、証拠をみせろ、これこれこういうわけでおまえが言う事は現実ではありえない、馬脚をあらわしたな、と日本語インターネットを徘徊するアホな人たちの集団が飽きずに常用する退屈な語彙を丁寧に踏襲して息巻く大集団があらわれておもろかった。 メンドクサイのでほっといておいたら、これもアホのひとつおぼえというか「逃げた」の大合唱がはじまったが、江戸時代の近親相姦やほとんど罪悪感を伴わない強姦は草書に細々と残された以外は活字にはされず(明治という暗い時代は、そんなことを活字に出来る時代ではなかった)抹消されてしまったが、ではなぜたとえば外国人たちは、それを知っていて言及しているかというと、近親相姦の事実そのものが近代になっても生き残っていたからである。そうして近代になっても続いていた「身寄りのない女が縁側に寝ていると一日に数回強姦されることがあった」というような話は、明治以降に西洋から伝わった「反政府思想」人たちが活写した下層社会の実態を描いた記事のようなものに残っていった。 もっとも、このブログがはてなにおかれていたころといまでは読んでいる人の質が全然ちがうようでもあって、ツイッタで(よせばいいのに)同じ(絶対倫理の欠落と関連して)近親相姦の伝統について述べたらツイッタでもf_theoria(@f_theoria)さんが紀田順一郎の本をすぐ教えてくれたし、他の閲覧可能な本についてメールで教えてくれる人が何人かあった。 ものすごいことをいうと、近親相姦が絶対タブーである社会と、酔っ払った父親が娘を相手に性交してしまう社会とどっちが「進んでいるか」というような議論には意味がない。 よくニューズでも伝えられるように西洋でも娘を性的奴隷として虐待する親はいる。 … Continue reading

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「微かな叫び声」についてのメモ

1 たいてい秋から冬に向かう寒い夜ふけ、窓をあけたまま机に向かっていると、遠くから微かな叫び声が聞こえてくることがある。 手を止めて、ノートブックの上にペンを置いて、テラスに出て耳をすます。 きみの両親の家は、なだらかな丘の上にたっていて、遠くまで見渡せる田園の一角にあるが、その声がどこから聞こえてくるか定かだったことはない。 なんだか地平線の向こうから聞こえてくるようでもあるので、しばらく闇のなかをみつめたあと、きみは自分の部屋にもどって、ペンを手にとって、また本を広げる。 だいたい午前1時か2時頃、あの声はなんだったろう、と訝しみながら抽象的なもの思いのなかに戻ってゆく夜が、なんどもあった。 船のキャビンのなかで目をさまして、モニさんを起こさないように、そっと舳先にある寝室からでて、甲板への短い階段をあがって、まっくらな海面を眺めながらウイスキー入りのコーヒーを飲んでいると、聞こえるか聞こえないかのような声で、歌のような、すすり泣いているような、あるいは遠くで呼び合っているような声が聞こえてくる。 星のない夜、町からも島からも遠く離れて、広い海のうえで、ただ自分の船の停泊灯だけがわずかに辺りを照らしている。 きみは甲板の上に椅子をだして、声がするほうを眺めている。 もう少し精確にいえば、声がするほうの闇を眺めている。 風が立てる音をまちがいはしないだろう。 だとすれば、あの声はどこから聞こえてくるのだろう? 凪の海のまんなかほど静かな場所はこの世界にはない。 どんな小さな軋音のひとつひとつのなにがどんなふうに音を立てているのか知悉している、船自体がたてる小さな音の他には、ただ静けさだけがある。 自分の体内がたてる音と船のたてる音以外にはなにも聞こえない静寂の遙か遠くから聞こえてくる声に耳をすまして、きみはなんとか聞こえてくる言葉を書き留めようとする。 ラテン語のようにもイタリア語のようにも聞こえるが、ほんとうは人間の言葉なのかどうかもわからない。 ただ、「嘆いている」ということがぼんやりとわかるだけである。 なにごとかを悔いて、悲しんでいるひとの声であるように聞こえる。 しかもそれは歴然と男の声である。 2 人間は他人に対してほとんど関心をもっていない。 だからきみがなにをやっていても、他人の目を気にするくらいばかげた心配はない。 ときどき友人たちがやってきて、きみの新しい髪型はヘンだ、変わった言葉づかいをするようになったんだね、ということがあるが、それは手近に目に入ったきみを材料に気張らしをしているだけである。 特にきみに関心をもっているわけではない。 今日は雲が低いね、と述べたり、風が少し湿気っているようだ、と述べるのと同じで、特に意味がある行為ですらない。 それなのにきみが「自分がやっていることはそんなにおかしいのだろうか?」「自分は他人からみると異様なことをしているのではないか?」と往々にして思い悩むのは、落ち着いて考えれば、きみの母親がきみが目をさましているあいだじゅう、絶えずきみに関心をもって、きみが楽しそうであれば一緒に喜び、むづかれば周章して、大慌てでだき抱えてあやしてくれたからだろう。 おどろくべし、きみは18歳をすぎてなお、世界を母親の投影として眺めている。 若い人間が社会に第一歩を踏む出すとき、そこから先の一生にとって最も有用な知識は、「世界は基本的に自分に対して関心などもっていないのだ」ということであると思う。 ぼくは女びとと結婚して子供までいるのに、「愛情は絶対でない」と言ったさびしい男を知っている。 ペンザンスという町の、断崖に近いパブで、1パイントのブラウンエールを飲んだあとだったが、しかし明瞭にその男は「あげつらうほどの愛情など男と女には存在しない」とぼくに向かって述べたのだった。 ぼくは鳶色のおおきな目を見開くようにして自分の夫を懸命に見つめる癖のあるその男の奥さんを思い出して、胸のどこかで痛点になにかが触れたような小さな、でも鋭い痛みを感じたような気がして、なにかに向かって傷口がひらいてしまったような気持ちになったものだった。 恋愛論というような観念からはいって、ヒマな人間特有の思考上の堂々巡りをして遊ぶのならばそれでもよいが、現実世界では、この男はまず「世界が自分に対して関心などもっていない」という第一原則を忘れているのだと思う。 なんとかして自分の内側をみつめただけでつくった、というのは自分の心から世間の反映を注意深く取り除いた作品を売ることだけで生きたいと願う芸術家が最もよく知っていることだが、世界はきみの突出してはいるけれどもささやかな人格や才能になどこれっぽっちも興味をもっていない。 いまは職業的な彫刻家になっているが、六年間ニューヨークで苦闘しなければならなかったぼくの友達は、自分が持ち込んだ作品を前に、まだ自分が背を向けないうちに画廊主が自分の名刺をゴミ箱に放り込むのを何度も目撃しなければならなかった。 「きみの作品はすぐれてはいるが、ただそれだけだ」 「もっとおおきな名前と一緒にもどってきてくれたまえ」 自分の魂を目に見える形や耳に聞こえる音楽に変える才能に恵まれた人間にとっては「世界が自分になど関心をもっていない」のは、ほとんど自明のことであると思う。 ただ才能のない大多数の人間だけが、自分に対して世界が、良きにつけ悪しきにつけ関心をもっているのだと妄想する姿は、奇妙だがありふれた光景であると思う。 きみが美しい若い女なら裸になってみせるということはできる。 欲望をむきだしにした哀れな顔の男たちが、くいいるようにきみの裸体を眺めるだろう。 … Continue reading

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Buon soggiorno !

人間がひとらしくなるのは18歳くらいだろうか。 16歳や17歳はいかにも人間を始める前夜祭というか、男も女も、たとえば恋愛といっても肉体的な欲望の衝動が強すぎて、チョー下品な言葉をつかえば「やりまくり」の頃であって、盛りがついているというか、週末ともなれば、いちゃいちゃもんもんばかりしていて、なんだか忙しい。 18歳くらいになってやっとお互いの眼をみつめる余裕ができるもののよーである。 長いあいだ人間の肉体を構成している部品の耐用年数は100年ということになっていた。 大事につかえば一世紀もつ、保証書はないけどね、ということになっていたが、最近は改訂されて50年であるという。 赤ん坊になって大気中に放出されてから50年までは神様がデザインしたときの想定年数だが、そこからあとはだましだまし使ってもらうしかない。 膝が痛んだり、文字が読めなくなったり、DNAの転写を間違えたりしているうちに、だんだん壊れてきて、無力型の体型になって、最終的には動かなくなって棺のなかにはいる。 魂というものを仮定すると魂は肉体をもたないので思惟することしかできない。 考えるだけでもおぞましいが、恋人の滑らかな肌の感触を自分の肌に感じる、あの得も言われぬ感触も、夏の暑い日にボートから冷たい水にとびこんで泳ぐ爽快も、小川を跳躍して越える愉快さも、魂は、どれも感覚することができない。 聖体はおろかチョコも食べられないので、魂などは文字通り取りかかりのないぼんやりした闇のなかで退屈きわまる時間を過ごしているのだと言わざるをえない。 ただ考えることだけしかできない、肉体という感覚受容器のかたまりを装備している生身の人間からみると、気の毒というのもあほらしいくらい惨めな存在です。 そうして、ある日、魂は肉体を求めてもどってくる。 春の日だまりの暖かい陽射しのなかに身を横たえる心地よさや、ボートをこぐ手を休めて、水のなかに揺れる、あのくすぐったいような微かな動揺を求めて帰ってくる。 出生のときの、あの爆発的な叫び声は泣き声の姿をしているが、実際には魂がふたたび人間の肉体という歓喜に満ちた感覚受容器を獲得した有頂天の雄叫びであると思われる。 人間が一生を生きることの意味を考えるのが難しいのは、生きることの意味を考えることに大した意味がないからである。 死が迫った人間は「自分の一生とはなんだったのか?」と考える習慣をもつが、それもただの習慣にしかすぎない。 そこで起きているのは本末の転倒で、意識は生じたものであるにすぎず、そうであるのに自分の意識が自己であると仮定した結果、話に混乱が生じてしまっている。 人間は(日本のひとがなぜか大好きな言葉でいえば)「考える葦」なのではなくて、 「葦」なのであると思う。 考える、ということは偶然生じた属性にしかすぎない。 厄介なことにその属性が思惟と発見の主体なので、言葉が一人称であるところへ「私」が移動してしまっているだけである。 ざっと20歳から50歳まで、保証期間中の人間の稼働期間は30年ある。 その30年間にどんなことが出来るかというと、馬に乗る、テニスをする、泳ぐ、自転車にのって転倒する、頭に興奮物質が充満するまで長距離を走る、筋肉を使う遊びというのは楽しいもので、人間の遊びの重要な部分をなしている。 肉体だけではなく、魂のほうも営業しているので、ベンキョーしたりして、こっちのほうも多少は面倒をみる。 他人と話して笑い転げたり、しんみりしたりするというのは重大な快感なので、言語もせめてみっつくらいは身についていないと、つまらない。 さらに重要な楽しみは、「もうあんまり行く所がなくなっちゃったな」という、言い方を変えると「地球は意外と狭い」と実感する程度まで旅をすることで、UKやニュージーランドでも、他の国に住んだことがないひとは「アジア人は狡猾でたまらん」というようなことばかり言っていて、さびしい人格のひとが多いようだ。 トルコのクルド人弾圧の知識を精いっぱいひけらかして、鼻息をふんふんさせているより、当のトルコ人とクルド人の夫婦(数が多い)と、アジアンサイドのイスタンブルで、ランタンを買いに来たのに「まあ、かけていきなよ」と言われて、トルコ人たちの、あの途方もなくおいしいお茶をのみながら、お互いにわかる語彙を動員して、天気の話でもしていたほうが楽しい。 故国では儀仗兵というたいへんな名誉がある仕事であったのに、ニュージーランドではマリーナの清掃という仕事しかない仲のよいフィジー人のじーちゃんが、娘夫婦に一緒に暮らそうと言われたのにクイーンズタウン(日本で言えば軽井沢、だろうか)に行かなかったという。 びっくりして理由を訊くとささやくような声で「ここは海に近いから」というので、そういうことは失礼であるのに、言葉につまって気が付くと涙がでてしまっている。 あるいは望月の緑の稲がいちめんに広がった畦道をモニとふたりで歩いていると、向こうからちいさなちいさなばーちゃんがやってきて、傍らによけて道を空けて待っていると、ばーちゃんがたちどまって、にっこり笑って、「ひゃああああー、ガイジンさんはおおきいのお」という。 80歳くらいだろうか、あのばーちゃんの子供のような眼の輝きをいまでもおぼえている。 本に書かれてしまったことは、みなつまらないことばかりである。 そこには人が恋しくてたまらないトルコ人おっちゃんの厚みのある手のひらのような笑顔もなければ、フィジー人じーちゃんの魂のなかの波の音も、長野県のばーちゃんの、70年余の時間の向こうからまっすぐにこちらを見つめている幼い子供の強い好奇の眼の輝きもない。 多少でも知性のある人間は本を読むのが病気のようなもので、ほうっておくと本ばかり読んでいるが、やはりそれは病的な状態で、不健全なだけでなく、本人が考えているよりも深刻な狂気に囚われた状態であると思う。 病状が重いかどうか知りたければ、自分が知っている世界の悲惨を数え上げて、これまでその悲惨に対してどれだけのことをやってみたか考えてみるとよい。 悲惨への認識に対して行動があまりに少なければ、どう言い逃れを試みても、やはり心が病んでいるのである。 前にハウラキガルフは全体がよく出来たオークランド人の遊び場であると書いたが、地球そのものが、広いとは言っても有限で、だいたい10年くらいでどこになにがあるか判る、というハウラキガルフに似ている。 人間の「保証期間」の30年は、うろうろしてみると意外と狭い地球の上でいろいろな人間や事象と出会うには、案外ちょうどいい時間の長さなのかもしれない。 人間は世界を「感じ」に生まれてくる。 永遠の魂があるとして、魂は感覚の記憶なしでは死滅するほかないからであると思う。 … Continue reading

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荒野をわたる人のために(準備篇)

生老病死という。 人間は生まれて年をとって病気になって死ぬだけのことなので、ほかの余計なことは考えるな、という意味です。 いまどき信じているひとはいないと思うが天国も地獄もあるわけがない。 エイリアンも空飛ぶ円盤もない。 死後の世界もない。 人間はこの荒漠とした世界に生まれて、ひとりでひょろひょろと生きて、どこかでぱったりと死んでしまう。 そーゆーことだけが現実で人間の一生というもののデザインを考えると、それだけが基本設計なのだから、あとは飾りというか、余計なことだ、と思うのがよいよーだ。 自分でやったことが他人に認められるのは、人間は意識を構成している言語そのものの社会的な性格から誰でも嬉しいに決まっているが、しかしそれも「自分は他人の評価というものは気にしないことにしよう」と決めてしまえば簡単にできる決心で、懸命に研究した物理法則を引き出しのなかに放り込んでいたアイザック・ニュートンが、いくぶんか、そういう風変わりなひとであったことは前にも書いた。 詩人は、読者がひとりもいなくても詩を書きつづけるだろう、と過去の多くの文学者が述べている。そう書いてある近くにはたいてい「しかし小説家は読者がいなくては小説を書いてゆくわけにはいかないに違いない」という記述が見つかるのが普通である。 運慶は材料になる木を見ると「あそこには仁王の右腕がある」「そこには左の踏み出した足がみえる」と木そのもののなかにこれから彫りだして組み上げる彫刻の部品がまざまざと見えたというが、詩人がなんだか半分宙に浮いているような魂で、あやうく言語の平衡をとりながら、ほんとうはなにもない部屋の空間に見いだそうとしているのは、それに極めて近い「言語そのものがもっている定型」で、それは音韻でもなくて、言語と言語が近付いて結合するとダイアモンドのようにもう忽(ゆるが)せにすることができない一義の結合ができて、詩人が「定型」と述べるときには、それを指している。 詩を教えるひとのなかには「詩は、そのひとそれぞれの感じ方だから」というひとがいるそうだが、それは、とんでもないおおうそで、もし詩に読み手によってさまざまな解釈や、絶対的に等しい情緒が喚起されないのなら、詩を書く必要はない。 読む必要は更にないわけで、仮に実際に読み手によって「感じ方が違う」詩があるとすれば、要するにそれは書かれる価値のなかった「駄作」なのである。 小説は歴史的にも「記録」から身を起こしたという。 最も初期のダニエル・デフォーの「ロビンソン・クルーソー」(The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe) http://en.wikipedia.org/wiki/Robinson_Crusoe が記録の体裁をとっていたり、 あるいは、デフォーの100年後の作家であるエドガー・アラン・ポーにあっても、 (いま考えるとちょっと信じがたくはあるが)、あの「短編小説」の多くはドキュメンタリー・ルポを装って売られたものだった。 記憶が曖昧で、あとで調べてこの部分を書き直すことになるかも知れず、間違っているかもしれないが、有名な「The Unparallleled Adventures of One Hans Pfaal」の気球による月旅行は http://www.worldwideschool.org/library/books/lit/horror/TheWorksofEdgarAllenPoeVolume1/chap3.html は、もともと「特派員レポート」として書かれたものだったと思う。 小説は平たく言えば「真実がもつ『真理の定型』を構造のあるウソによってデッサンする」作業だと思うが、しかしめざすべき定型が共有感情なので読者という受け手がいないと作業として完了しない点で詩とは異なる。 だから「誰にも読まれることを期待しないで書かれた小説」はありえないが、たとえば「後世の誰かが読む事を期待して壁に書かれた短い物語」や、サーバーの片隅に同じ期待をもって置かれた小説、というようなものならありえなくはない。 ぼくなら文学であれば詩を書く。 人間の世界を理解する必要がないので、めんどくさくないし、他人が読んでくれる必要もなく、自分で読んで魂の定型にうまく到達しているかどうか判るので手間がかからない。 そのうえ、詩というものは、その性格上、書く方よりも読む方にかえって非常な訓練が必要なので、そういう言語的な訓練が出来ていない人間は初めから詩を読めないのでノータリンなくせに批評めいたことを言う人間にあわなくてすむ点でも詩のほうが小説よりもすぐれている(^^) … Continue reading

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ボーティングの夜に

1 海がベタ凪だとボートは空飛ぶ絨毯のように巡航速度の39ノット(70キロ)くらいで進む。 ホワイトキャップ(波頭)があると船底に水があたって聞こえるガツンガツンという音のかわりに「しゃあー、しゃあー」という,か細い高い音が聞こえる。 小さいほうの新しく買った船でモニとふたりででかけることが多くなった。 「小さい人」ができてから、モニもわしも(軽い)ウツビョーなのではなかろーか、とふたりで言っていたのが、自棄を起こして大きい方も小さい方も新しいのに買い換えたら、ほぼ治療されてしまった。 夜明けの少し前のまだ暗いうちに家を出て、ワイヒキ島 http://www.waiheke.co.nz/ まで疾走して、夜明けを見る。夜のマリナを大きい方の船に乗った、家のひとびとと一緒に出て、満天の星空の下を眺めながら、ウイスキーを飲む。 むかしは、あんなに甲板の上で跳びはねる魚を見るのが嫌いだったのに、年をとるというのは怖ろしいことで、30歳が近付いたらヘーキになってしまった。 鰺、シマアジ、鯛、ヒラマサというような魚がどんどん釣れて、大きな船からディンギーで受け取りに来たひとびとによって料理されてゆきます。 モニとふたりきりで夜の空を眺めながら、やさしい波にゆられていると、ふと自分たちがこの世に存在していないような気がする。 モニもきっと同じ気持ちなので、わしの手をぎゅっと握る。 唇をあわせて、じっとしていると、なんだかたまらなくなって舳先の寝室にいってカーテンを閉めることになる。 波がない夜に入江に泊まっているモニとわしのボートのLED灯が揺れているのはそーゆー理由に拠っている(^^;) 2 人間が恋をするのは、すごくヘンなことだと思う。 モニとわしはすごくお互いとエッチがしたかっただけだった。 モニは、その頃からカトリックの尼僧でもここまでひどい人はおらんわ、というくらい潔癖がひどい人だったが、わしのほうは、チンパンジー並というか、知らない人とでも、見た目さえよければ、ほとんど挨拶がわりにエッチしているのではないかという蟻の這いいる隙もない、ではない、有りもしない噂がたつくらいで、世間の常識から外れているという点ではモニもわしも、どっちもとんでもないひとたちだったと思います。 でも、ひとりになって、チェルシーのクソアパートで冷蔵庫のなかを眺めながら、こんなんではハムサンドイッチも作れないではないかと考える午前2時とかに、突然、モニさんのアッパーイーストサイドにあるチョー高級アパートメントにタクシーをとばしていって押し倒してしまったらどうかと思うことがたびたびあった。 わしが結婚する前は、それはそれは酷いもので、実はわしの実体はペニスであって、ペニスがわしの魂をつかんでふりまわしているのではないか、と考えることがあったほどだった。 ほんとうにタクシーをとばしていってしまえばどうなったのかわからないが、なんだか、そんなことはよくないことのように思えたので、たとえば、すげー酔っ払ってるときでも、試してはみなかっただけのことでした。 ところが「やりたい一心」であったのに、それとモニが大好きな気持ちは全然別で、あとから考えると、ことの初めからモニと結婚すると決めていたよーな気がするのがヘンだと思う。 人間の恋は、人間が感知できる範囲とは別のところで決まって、理性の介入など金輪際、許さないもののよーだった。 うまい比喩ではないかもしれないが、わしは自分の一生において冬の雪山に不用意な軽装備で出かけてしまって遭難しかかっている無謀な素人登山家のような気がしていたのかもしれません。 そうして、モニのことを考えるときだけ体温が戻ってくるよーな気がしていたのに違いない。 もっと違う言い方をすれば、宇宙のなかで、ただひとりモニだけがこの世界から剥離した魂で、こんなことを言うのはきっと酷く残酷なことなのに違いないが、めぐりあった他の女びとたちは「世界」の一部だと思っていたのかもしれません。 (ちょっと、ひどいな) 3 わしは子供のときから陰に陽に「なに不自由なく育ったから心が冷たいのだ」と何度も言われて育った。 結婚してから、とつおいつ話してみると、国も言語も違うのにモニもまったく同じで、世の中って「きゃあ」だね、と話したりした。 初めてふたりで明け方まで過ごしたとき、その頃は考え方がふだんはパキパキで尼僧のようなのに長い(モニの国のひとには珍しい、明るい強い色の)金髪をふりほどくと、緑色のふだんは暖かい印象の眼に炎が忍び込んだようになって、まるで妖婦のようにみえる寝着姿のモニと床にぺったり腰をつけて、わしが手を火傷したりなんかしながらつくったローストビーフやチーズや果物が並んだ皿に手を伸ばしながら、どんなに下品にお互いとセックスしたかったか夢中になって話しながら、自分たちは正反対の人間だと思っていたのに同じひとのようだ、と発見したときに、もうモニのそばを離れられなくなってしまっていたのだと思う事がある。 モニとわしは結婚という制度に名を借りて、お互いを拘束してがんじがらめにして、 息もできないほど束縛して、お互いの自由という自由を奪いつくして、こんなに素晴らしいことは人間には一生にはないよーだ、と考えた。 ふたりでかまいあってゆくので手一杯なので子供をつくるのはやめるべなと言いながら「小さい人」が出来てしまったのも、ときどきベッドの上で(あるいはベッド以外の場所で)理性をなくすからであったと思われる(^^) 恋、などは「理性のひと」には納得がいかないに決まっている、 それは正に狂気で、あるいは人間の愚かさの(間違った方向に)最も止揚された姿であって、それがモニとわし自身でないならば、モニもわしも欧州人らしく口元は綻ばせても心のなかでは冷笑に近い笑いをもらしただろう。 でも、もう、これでいいみたい、 というモニの横顔をみて、「美神でもこんなに綺麗ではないだろう」と反射的に考える自分をいかにも愚かであると思う。 そう。 でも、もう、これでいいんです。 … Continue reading

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L.O.V.E

「東京ポップ」 http://en.wikipedia.org/wiki/Tokyo_Pop は日本人と外国人との関わりを考えるためには素晴らしい映画だった。 初めは酔っ払って友達たちと「偶然いあわせたハクイパツキンのねーちゃんとイッパツやれるかどうか」オカネをかけて、相手をだまして無理強いにセックスをしようとする若い日本人のバカ男と物事をちゃんと考える習慣のない無防備な女の子が、だんだん真剣に恋におちて、ふたりで新しい生活を始めようとする。 ふたりは日本のヒットチャートをかけのぼって到頭チャートの1位になるが、 女のほうは「日本という国には根本的なリアリティがかけている」と考えて、カップルを解消し、カリフォルニアでいちから出直す、という、ちゃんとおぼえていないが、だいたいそういう物語だった。 この物語の初々しさは、「親日」や「反日」の日本人だけがこだわるわけのわからない感情や、国際理解というような空疎な観念から遠いところで、言葉も違えば、考え方もまるで異なる若い男と女が、愛しあって、なんとかお互いを理解しようとして、やがて、そんなことは不可能だと悟って別れてゆくのに、お互いをかけがえのない「仲間」だと感じる強い絆だけは残って、愛情と名付けても友情と名付けても、うまく全部を説明することはできない「魂の結びつき」をつくってゆく過程がいきいきと描かれているところで、それは現実の「異文化カップル」の現実そのものだった。 ぼくには、義理叔父が、このビデオを後生大事にもっていて、一緒にプロジェクタで観ているあいだじゅう涙をぬぐっていた理由がわかるような気がする。 モニとぼくは異なる文化からやってきて、一緒に住んでゆくのに驚くことがおおかった。考え方もちがえば、感じ方も、個人の違いだけではなしに明らかに文化の力でおおきく異なって、そういう違和感や異なり方は、仕草を伴う感情の反応や、あるいは他人にいうわけにはいかないバスルームのドアの向こうがわで起こるようなことでもいちいち異なっていて、あまりのことに、お互いをびっくりさせた。 モニとぼくはフランス語と英語という共通の言語をもっていたが、 言葉も通じないふたりが、やがて愛し合ってゆくようになるのは、不思議なことではない。人間の男と女は議論をつくしてお互いに納得してはじめて肉体関係をもって愛し合う、というふうには出来ていないからで、現にぼくの知っている言語が異なるカップルには横でみていて、お互いに言葉がカタコトでしか通じていないカップルがいくらもある。 そーか、お互いに幻想をもって好きあうのだな、とはやとちりをする人もいるかもしれないが、そういうことではなくて、人間にはお互いになんでも許しあって生きてゆける相手が嗅覚でわかる能力がある。 もっと踏み込んで述べれば、相手がひとりだけならば人間には言葉をまったく使わなくても、少なくとも言葉によるよりはお互いをわかりあう能力をもっている。 無論、異なる文化を背景にした結婚は同じ文化を背景にした結婚とは比較にならないほど離婚する率が高い。うまくいかないほうが、ずっと多い。 第一の理由はやはり言葉で、義理叔父を例にあげれば、日本人でこれほど英語が上手なひとをみたことはないが、それでも子供の頃は、なんだか言語的に「よくわからないがとてもヘンなひと」という感想をもって眺めていた。 普段は割とふつーにしているが、かーちゃんシスターに何かもごもごと述べたかと思うと、次の瞬間、はっきり聞き取れないで聞き返したかーちゃんシスターに明らかに苛立った態度をみせるので、子供のときは、なんという失礼な奴だと考えて、妹とふたりで「失礼なジジイだな」と合唱したりした。 妹もぼくも子供だったので、目の前の大の男が、たかが英語が通じなかったくらいのことで、そんなにショックを受けているのだとはわからなかったのです。 あるいは同じ理由によって、ぼくが最前まで述べたことと、まったく関係のないことを話し出したりするので「叔父さんは、ひとの話をぜんぜん聞いてないと思う」といって怒ったこともある。 いま考えてみれば、実はその頃はまだ母語なみに英語がわかるようにみえても単語を拾い集めて意味を推測しているにすぎなかった義理叔父は、どうしてもわからないと、あてずっぽうで話しをすすめていただけのことだった(^^) かーちゃんシスターに訊くと、福島第一事故のあとで離婚した「国際結婚」の夫婦は多かったようだった。 「ガイジン」であれば、あたりまえだと思うが、あるアメリカ人の女のひとは、子供たちの手をひいて一目散に故郷のニューヨークめざして逃げたが、旦那さんは、なぜそこまで病的に放射能をこわがるのか判らなかった。 だって、みんな普通に暮らしているのに、どうしておまえだけがそんなに大騒ぎするのかわからない、という言葉が決定的で、 「わたしには、もう夫のことがわからなくなった」と、そのひとは述べたそーである。 自分が好きだったのは、誰だったのか、と何ヶ月もずっと考えました、という。 あんな見知らぬひとが自分の夫だったのだとは考えた事がなかった。 モニは、ぼくが「どうしてものごとを充分に説明しないのかわからなかった」という。 モニが激した感情にまかせて「もう、別れるしかないと思う」と言ったことがあるが、ぼくはマヌケなので、「そうですか」としかいうことができなかったw 実がないとなじられても、愛してないのではないかと言われても、「そうか」としか言わないのでモニはたいへんに悲しかったという。 英語人には「感情をあらわす」という美徳がないので、ほかに反応のしようがないから「そうですか」と述べただけだが、それがモニには途方もなく冷たい人間性の証左におもえた。 同じ英国人か、あるいはニュージーランド人ならば、ロマンティックな激情や、誇張した表現は、真剣な場面ではやろうと考えてもできないので、お互いに不動産屋か事務弁護士の冷静さで事態の行き詰まりを述べあって、相手が「わかりました」と言って踵をかえしてドアを閉めて立ち去れば、そこで初めて歯をくいしばって、それでも間に合わなければ、近隣の住民に聞こえないように窓を閉めてまわってから、世界中で誰よりも愛している人の要求に「うん」と言えない自分の我が儘勝手の不自由さを呪って大声をだして泣くだろう。 そうして、立ち去ったほうも、取り澄ました態度で「否」と述べた相手がきっとそうして身も世もなく泣き狂っていることを知っているだろう。 「ノッティングヒル」 http://www.imdb.com/title/tt0125439/ というアメリカ人がつくったUK人の男とアメリカ人の女優との恋愛を描いた有名な映画があるが、外国人がみているぶんだけ、UK人の世界がうまく描かれている。 アメリカ人と英国人ではまるで別の生き物だが、どうやら自分は難しい恋に陥ってしまったようだと悟ったジュリア・ロバーツ演じる大女優が、ある日ヒューグラント演じる古書店主のもとにやってきて、「あなたの前に立っている女は、(有名なハリウッド女優としてではなくて)恋をしたひとりの女の子としてここにやってきていて、自分が好きになった男の子に愛していると告白しにきているのです」という、ありったけの勇気をふりしぼっての、せいいっぱいの告白をしているのに、じっと自分の内心を見つめながら聴いていた古書店主は、その一世一代の求愛に対して「ノー」という。 女優のほうは、「そうですか」と述べて静かに去っていく。 そこには殆ど英語人にだけ理解できる、身勝手な文明がもつ、どうしようもない哀しみがあって、 ほかの点ではそれほど出来がよいと言えなかった映画全体を救っている。 そして、そーゆーことも、どうしても英語人同士ではないとわからないのではないかと感じてしまう。 どんなにセックスの快楽にとりつかれた人間でも、セックスの相性がいいからといって結婚するバカはいない。 … Continue reading

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