十代という地獄

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ふと横をみると、ぶざまにでっかいペニスのジャマイカ系人が、透きとおるような白い肌の、18世紀に流行った上流階級人の肖像画から抜け出てきたようなブロンドの女の子に、自慢のペニスにコカインの白い粉をあますところなくかけさせて、「おまえ、これが欲しいのか?」とお決まりのセリフで訊ねているところで、
女の子は欲情に火が付いた薄い青い目を燃えるように輝かせて頷いている。

酔っ払ったときに義理叔父に尋ねてみたことがあるが、日本の高校生たちもおなじようなもので、宮益坂に近い地下にあるレストランに、無理矢理買わされた「パー券」をもって出かけてみると、夏目雅子の母校で有名な広尾山の女子校の女の生徒が、酔っ払って、下着を脱いで、カウチを囲んでいる義理叔父男子学校の生徒たちが食い入るように見つめるなかで、後で警察幹部になるOさんとセックスを始めたところだったそうでした。

「むごたらしさ」という、使われているのか使われていないのか、ついぞ分明になったことがない日本語があって、この言葉がいちばんぴったりなのではないかとおもうが、十代という文字通りすべての人間が通過する時期は残酷で、むきだしで、露出した神経に直截こたえるようなところがある。

「図書室の高い窓から入ってくる太陽の光で鮎川信夫詩集を読んでいたんだよ」と義理叔父が述べている。
司書係は鼻持ちならない反動野郎の同級生のWだったが、案外なところがあるやつで、ぼくが、これみよがしにジーンズの尻ポケットからフラスコを出して生(き)でウイスキーを飲み出したら、ニヤニヤしてみていたと思ったら、「水を持ってきてやろうか?」というのさ。

そうして、ガメも好きだと言ってくれた、橋上の人の、例の

あなたは愛をもたなかった、
あなたは真理をもたなかった、
あなたは持たざる一切のものを求めて、
持てる一切のものを失った。
というところへ辿りついたら、みっともないことに、ぼくは泣きだしてしまった。
そしたらWのやつが、みないふりをして後で陰口を利いて笑い物にするだろうとおもったら、図書カウンタをまわって、カウチにやってきて、
大丈夫か、と聞いたんだ。

https://gamayauber1001.wordpress.com/2013/02/10/ayukawa/

おれたちは、結局、まるで不倫カップルのように、(見つかると、お互いの学校のなかの政治的立場で、おまえは裏切ったのかと言われるからね)人目を忍んで、
その頃はまだ坂の下にあった日赤産院におりてゆく坂の途中にあった「味一」という名前の定食屋でビールを飲みながら、絶対に一致しない政治的意見を述べあった。

Wの父親が汚職事件でつかまったのは、その年の冬のことだった。

おにーちゃん、この青い塗料、なに?
と妹に聞かれて、ぎょっとする。

自分の服は自分で洗うと言ったじゃないか、おぼえてないのか、と怒ったときは、もう手遅れで、

おにーちゃん、昨日、Kに出た暴力男の記事を読んだ?という。
顔を青と白に塗りわけて、満月の夜にひとりで現れて、両手にクリケットバットを握りしめて、集まっていたスキンヘッズをひとりで全部殴り倒して、夜空に向かって吠えていたというの。
マンガみたい。
この頃は単純な人間が増えたというけど。

どこのバカ男だろうと友達と笑っていた。
スーパーマンのつもりなのかしら。

世の中には、自分が正義だと思えば、他人に怪我をさせてもいいと考えるサイテーなやつがいるのね。

まさか、おにーちゃんの知り合いじゃないでしょうね?

いま考えてみると、あれはカップヌードルだったんだよな、多分。
大学生たちに誘われて、応援に出かけたロックアウトの、積み上げた机と椅子のてっぺんに腰掛けて、
ははは、アルチュール・ランボーの「一番高い塔の歌」みたいと思いながらマルキ(機動隊)のほうを観ていたら、あの図体ばかりでかいやつらが、なんだかマグみたいなものからラーメンを食っていた。
暖かそうでいいなあーと思ってうらやましかった。

やがて、夜になって、放水車が迫ってきて、高校生同士、来たぞ、みんな油断するな、顔を伏せろ、と述べあって、ふと後ろを振り返ったら、肝腎の大学生たちはひとりもいなかった。
その夜に警察署にひきずっていかれたのは、全員、おれたち高校生だった。

おれは問題学生のなかでは勉強ができるほうだったので、指名されて、ネリカン(←練馬監獄)に収容されていた、先輩の家庭教師を仰せつかったが、意地でも東大に受かってやるという先輩が鹿の絵を指さして、これはなんというんだ?と聞くので「deer、ですね」と答えたら、「そうか、絵のことは英語ではdeerというんだな」と深くうなずく始末だった。

その先輩が、自分の調査書を盗み見たら、担任の憎しみをこめた文字で
「この学生は過激思想の保持者で大学教育には不適格」と書いてあったそーだった。

そして、ぼくは冬のロンドンで、いつも凍えていたんだよ。
寒いのに、いきがってTシャツ一枚でいたからだけどね。

雪が降り始めて、雪が降って、降り積もって、なにも人生に蹉跌が起きているわけではないのに、
涙が止まらなくなって、なんだか頭がおかしくなった人のように泣きながらリーゼントストリートを歩いていた。
ぼくは、この世界が好きになれなかった。
どうすれば、この残虐であることを隠しもしない世界が好きになれるのか判らなくて途方にくれていた。

パーティで、望まなかった(でも、ちゃんとNOと言えなかった)セックスの結果、妊娠して自殺してしまった女の子に「突っ込んだ」大学生は、あきれたことに若い下院議員になった。

ぼくは、この世界を愛さなかった。
野蛮なだけで、何の取り柄もない文明のなかに生まれたことを呪っていた。

十代のぼくに、いまなら、教えてあげられるんだけど。

きみは、子供のときに何度か行った、大西洋を渡ったアメリカの、ニューヨークという町が好きになるだろう。
その町のセントラルパークの東の住宅地で開かれたパーティで、ひとりの、途方もなく美しい女の人に会うだろう。

そのひとは、きみのベアトリーチェで、手をとって、きみの一生を思いもしなかった色で塗り替えてしまうだろう。

その人が教えてくれることには、自分と最愛の人を愛することだけが人生の価値なのだということが含まれている。

人間の一生は、とても単純なものだという真実が含まれている。

そうして、そのひとは、きみを途方もなく幸福にするだろう。

こうやって、振り返っても、十代という「剥き出し神経の時代」を生き延びられたのは、不思議な気がする。
十代の人間の行く末は本人の分別には依らない。
うまくいくのも、クソ世の中に殴られ続けるような十代の終わりになるのも、ただの運にすぎない。
すぐれていたから、なんとか十代を生き延びられましたなんて述べる人間は嘘っぱちなんだよ。
信じちゃダメだよ。

あきらめちゃダメだよ。
この世界のどこかに、きみが出会ったことがない真の友達がいる。
きみは、ひとりであるわけはない。
いまは、どんなについていなくても、きみを探している同じ世代の人間がいるのを忘れないでね。

きみに会えたら、いいのに

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コレスポンデンス

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日本語ツイッタを通じて出来た友達の千鳥という人は、たいそう変な人で、生まれて初めて商業出版した本はフランス語で書いた本だった。
(アマゾン・フランスで誰でも買えます)
おおきな声で正義を述べるというようなことは皆無で、

というようなことを、ときどき、思い出したようにタイムラインに戻って来て、ぼっそりと述べて、また靄の向こうへ歩いてもどっていってしまう。
ツイートを「つぶやく」と日本語に変換して述べるのはぼくの好尚にかなっていないが、千鳥のツイートは、文字通り、呟いているので、なんだか午後になって起きてきて、風呂場の鏡に向かってヒゲを剃っている人が自分に向かって話しかけているようである。

むかしCueva de El Castilloについてブログ記事

https://gamayauber1001.wordpress.com/2011/07/21/cueva-de-el-castillo/

を書いたら、しばらくして、千鳥が「行ってきた」という。
行ってきた、だけで要領をえないのは、千鳥らしいというべきで、こちらはどこに「行って来た」のか判らないので、どこへ?と聞くと、
Cueva de El Castilloに行ってきたのさ、と事もなげに言います。
クルマがなければ到底たどりつかない田舎にある洞窟なので、クルマを運転するとは知らなかったと述べたら、
バスを乗り継いで行ってきたんだよ、というので驚いてしまった。

あの洞窟の山の上には、六畳敷きくらいの広さがある平らな頂上があってね、そこでまわりを見渡していたら、いろいろなことを考えた。
ガメは、変わったところまで行くんだな。

変わってるのはぼくではなくて千鳥だが、変人較べをしていても仕方がないので、めんどくさいが、だんだん本題のほうに向かうと、行ってみてきたのならば千鳥も知っているはずで、アルタミラもラスコーも閉鎖になって、現物が見られなくなったいまではただひとつ見られる現実の洞窟のなかへ入っていくと、酸化鉄で描かれた手のひらと、ディスク、無数に描かれた円盤がある。

巨大源氏パイを頬張りながらシトロンのC5を運転して辿り着いたぼくも、バスをのりついで、なんだかここはすごい田舎だなあーと思いながら洞窟へやってきた千鳥も、等しく感銘をうけたのは、人間の抑えがたい「表現欲」とでもいうべき欲望だった。

このあいだ日本語の世界の歴史についての本を読んでいたら、おもいもかけずラスコーの壁画についての記述があって、「どこに行けば効率よく狩りができるかという伝達のためだった」と書いてあって椅子からずり落ちかけたが、そうではなくて、狩りの成功を祈る呪術的な意味あいだったという一般に行われている記述もほんとうとはおもえなくて、現実に洞窟画を目の当たりにしてみると、真相は、
ただ表現したかったから描いたのだ、という実感が起きてくる。

表現したい、という情動のベクトルがすべてで、なにを、や、どんなふうに、は二の次だったのではないだろうか。
あの「ディスク」を一種の方向を示した標識なのだと解釈する研究者もいて、本だけ読んでいるともっともらしいが、現実には、標識ならば、なんでこんなところにもあるの?ということもあって、自分では、どうしても「ただ表現したかったから」説に傾く。

何度かこのブログでも書いたように、戦争が終わったあと、エズラ・パウンドは70年代に及ぶ長い沈黙のなかで生活した。
かつてはあれほど饒舌で、しかも話術に巧みで、ファシストたちのためにイタリア人よりも巧みな表現のイタリア語を駆使して、弁じ続けたアメリカの詩人は、戦争が終わると、ぴたりと何も言わなくなってしまった。

30年に及んだ長い沈黙のあと、エズラ・パウンドは「なぜ沈黙していたのか?」と訪ねるインタビュアーのひとりに答えて
「人間の言葉は伝達には向かないからだ」と述べている。

これも前に書いたが、このパウンドの言葉はほぼ自動的に、同じように言語の伝達機能に懐疑的だったW.H.Audenを思い起こさせる。

言語に興味がある人が、まず初めに学習することは言葉にはふたつの異なる属性があって、ひとつは論理のレゴと言いたくなるような、論理的なベクトルの部分で、この属性が極端に出ているのは、むろん数式です。

数学者には全裸の美男美女のカップルも不完全な「2」にしか見えない、というのは有名な冗談だが、情緒を削ぎ落として、論理構築としての道具としての言語の解析は、たとえばエロ爺バートランド・ラッセルの全集でも読めば、あますところなく解説されている。

一方では言葉には、「死者のおもい」が堆積されていて、例えば外国語として日本語を学習する者の目には、どんなに日本人たちが半島人たちを侮蔑し、軽蔑の念を執念深いやりかたで述べ続けても、「朝鮮」という言葉自体が持つ日本語としての輝きに、日本人が過去の歴史を通じてもちつづけた、半島人の優雅や、美術的感覚の洗練への、抑えがたい羨望を透かしみることができて、なんとなく微笑ませられる。
百済観音の優美な表情を仰ぎ見て、半島の、自分達よりも遙かに進んだ文明に憧れる日本人たちの姿が「朝鮮」という、ふたつの文字にはこもっている。

あるいは、もう、どうだっていいのさ、とつぶやくとき、
その音や平仄には意味を遙かに越えて、過去の時間のなかで絶望して死んでいった人の感情が表出されて、生きて目の前に居る人の口を借りて、死者が語りかけてくるような気持ちに囚われる。

伝達を「水平な言葉」と呼ぶとすると、ただ自分の自己の暗闇のなかへ螺旋階段をおりてゆく「垂直な言葉」が存在して、洞窟のディスクを思い出すまでもなく、言語の本来の機能は、伝達よりも自閉であるという気がする。
庵を閉じて、暗闇のなかに歩みいって、じっと、畳が浮いてくるような感覚の揺れが感じられるまで、考えに考えぬくことには、あきらかに言語の始原的な機能に触れる喜びがある。

ぼくが伝達を機能とする言語をたいして信用しないのは、数学をバックグラウンドとしているからなのは、自分では、あんまり考えてみる必要がないくらい自明なことで、物理が嫌いで数学が大好きだった若いときの嗜好を考えれば、数学の言語としての明晰に快感を感じていたのは明らかであると思う。
物理学などは世界の物理的な運動を説明するという余計なことを数学を道具として使うというヘンテコな学問で、そんな目的に使役される数学は気の毒であるといつも思っていた。

数学のような美しい言語を、そういう下品な理由に使われるのは嫌だなあ、という気持ちがあったのだと思います。

自然言語も同じで、人間と人間が言葉で通じ合うことが出来ないのは、自分の普段の生活を観察すれば自明どころではなくて、相手が知らないことを言葉で解説するということはまったくの不可能で、せいぜい、同じようなことを自分の精神の井戸のなかで掘り下げていっているもの同士が出会って、ああ、この人は自分が昨日井戸のなかで見た、あの映像のことを話しているのだな、とおぼろげに重ねてみているにすぎない。

つまり、すでに垂直に掘り下げた思惟と思惟を照応させることは出来なくはなくても「伝達」というほどのことには及びもなくて、このあいだからまた考えているのだけども、言語で人間と人間が考えていることを伝達するというのは、まったくの虚妄ではないだろうか?

言い方を変えると、言語には照応の機能はあっても伝達の機能は備わっていないのではないか?

それがもっかの疑問で、疑問を再訪するたびに、ぼくの「存在の寂しさの盟友」である千鳥が、何時間もバスに揺られてたどりついた、あの洞窟の、まるで声そのものであるかのような酸化鉄の手のひらや、「ディスク」が、頭のなかに蘇ってくるのです。

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サバイバル講座3

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夏の、突然涼しくなった夕暮れ、有栖川公園を、ひとりの若者が歩いてた。
肩幅が狭くて、なんだか真横からみたら見えなくなってしまいそうなくらい、薄い、頼りない胸板で、少し躓くような、よく見ると自分の自意識に躓いてしまっている、とでもいうような、ぎくしゃくした、不思議な歩き方で、図書館をでて、暗い色の緑のなかを、地下鉄の駅のほうに歩いてゆく。

思い返すたびに、あれはきみだったんじゃないかと思うんだよ。

年齢を数えてみれば、あの青年は21、2歳の年格好で、いまきみはたしか21歳で、公園に立って、きみの姿を眺めていたのは10年も前なのだから、どんな酔っ払いが数えても勘定があわないが、人間の出会いは常に不思議なものだから、時の神様が、いたずら心を起こして、ほんのちょっと時間の表面に皺をつくって、10年前のぼくに、現在のきみを見せてくれたのかもしれない。

若い人間にとっては世界は巨大な壁に似ている。
しかも思いがけないときにあらわれる不可視の壁で、水木しげるが「ぬりかべ」という愉快な妖怪について書いていたが、道を歩いていると、どおおーんと突然あらわれて、回り込んで、避けていこうとしても、どこまでもどこまでも
続いている。

ぬりかべは、むかしは実際に存在していたらしくて、ぼくの日本語の先生である義理叔父の祖母にあたる人は、敗戦後、鹿児島と熊本の県境の山を、夜更け、買い出しの帰りに、その頃は日本中の買い出し道に現れたという若い女を強姦する目的の男たちへの対策として、わざと長い髪を濡らし、おばけのような姿で、歩いていたら、突然目の前にかすかに続いていた道がなくなって、どんっと壁にぶつかった。

疎開していた先の親戚の言葉を思い出して「ぬりかべさん、ぬりかべさん、どうか通してください。わたしは、このたべものを朝までに歩いて家に持って帰られなければならないのです」と一心にお願いしたら、かべがすっとなくなって、ああよかった、と思った耳に、「今日から悪い男たちのことは心配しなくてもよい」と幽かな声が聞こえたそうでした。

人間の世の中のほうの「ぬりかべ」は、そんなにやさしい気持ちを持っていなくて、ただ壁で、世界中の若い人間は、蹴っても、頭をぶつけても、肩から体当たりをしてみても、
びくともしない壁に阻まれて途方にくれる。

見たこともない、巨大な、絶対的な拒絶で、問いかけても、考えても、拒絶の理由さえ教えてくれない壁は、しかし、ほんとうは誰でも経験するものなのだということが、この記事を書いた理由なのね。

誰でも、と書いたけれども、100人の人間がいて、100人が、という意味ではなくて、真剣に、例の自分というパートナー、最良の友達を幸福にしようと考えて生きてきた人だけが「誰でも」に含まれる。

ほら、いまはどうしているか判らないが、マサキという風変わりな大学生がいたでしょう?

空をみあげる若い人への手紙
https://gamayauber1001.wordpress.com/2015/07/15/letter5/

ときどき、びっくりするようなケーハクなことをいうが、一方では、年長のぼくが聴いていて、そうか世の中にはそんな気持ちが存在しうるのかと考えるような情緒に立った言葉を述べて、そのまま小さな沈黙を抱えて渓谷にわけいってしまう。

あれはきっと、ついさっきも

「町田で日雇いバイトの登録を済ませ、受験期によく食べていたまずいラーメンを食べ、帰って地元のコンビニに寄ったら、泣き叫んでいる中年女性が万引き常習犯のかどでつまみ出されていた」

と述べた、泣き叫んでいる万引き常習犯の中年女性を、路傍の、石になったように見ているきみとおなじことで、神様がつくった沈黙の影がさして、その影の下で、言葉が凍り付いた一瞬を経験したいのだと思います。

拒絶をおそれてはいけない、という単純なことを書こうとおもったのに、なんだか妙な寄り道になってしまった。

あるいは、もう少し親切ごかして言葉を注ぎ足した言い方をすれば、
正しい道を歩いていれば壁に必ず手痛くぶつかるのだから、ああ、あれかと思って立ち止まれ、ということを言おうと思っていた。

ハシゴをかけてみたり、東へずっと歩いて壁を端から回り込もうとしてみたり、おおそうか、こういうものは人間性の低さを掘り下げて、トンネルを下に掘って通過すればいいのだなと考えて、懸命に下品になってみたりしても、壁は上下左右、どこまでも続いていて、どうすることも出来ない。

議論する、という方法はあるよね。
友達に恵まれていれば、あるいは、そういう場所を常に与えられていれば、議論を積み重ねていくことによって、自分でも予期しなかった高みに言葉がつれていってくれて、その高みからは、壁が足下に見えて愕然とする、という幸福な体験を持つ人もいる。

でも残念ながら、そんな止揚の言葉を持っているのは、例えば大陸欧州の、週末にはパブすら開いていない大学町で、他にすることがないので、欧州や中東や東欧から集まってきた学生達が議論ばかりを娯楽にしているような土壌でなければ無理で、日本語のような狭く同質な世界では望めない。

100人の人間がいても、ひとつの頑なに等質な孤独が100個、判で捺したように整列してしまうだけで、孤独が百倍になるだけで終わってしまうだろう。

日本語で私小説が発達した、おおもとのおおきな理由は、そういうことで、作家は自分の足下に井戸を掘ってみるしかなかった。
ただもう闇雲に掘り下げて行って、運良く水が湧いてくると、さまざまな所から拾い集めてきた石を組んで、井戸をつくって、満月の夜になると、そっと身を乗り出して、自分の姿を映してみる。

そうして、そこに映った、まだ真実は子供にしか見えない自分の姿に失望したり、悪魔を見て戦いたりして、顔をあげてみると、壁は正当にも消滅している。

そこで、やっと壁は、世界への誤解という、自分自身の姿にしか過ぎなかったのだと思いあたることになる。

ぼくのきみへの自分の一生の説明には虚偽が存在して、「おもいもかけず発明というヘンなもので初めのおおきなオカネの塊を手にした」と述べているが、ほんとうは少し異なっていて、他人が聞いたら大笑いするだろうが、それがいちばん第二段階の投資を始めるためのスタートアップのオカネをつくるには簡単だろうと考えて、意図して、計画した。
そんなバカな計画を持つ人は、自分で考えてもぼく自身以外には存在しなさそうな気がするが、例の「他人にとっては確実なことが自分にとっても確実とは限らない。他人にとってはロトのいちばん当選じみたアホい夢にしかすぎないことが自分にとっては最も堅実な道でないとはいえない」という思い込みにしたがって、発明の努力をして、当時は大学総長だった大叔父の助力で、その考えを大金に変えることができた。

つまり、ぼく自身は世界の約束を頭からシカトすることによって自分の一生をスタートさせたのでした。

余計なことを書くと、この奇妙な自分の将来への提案を考えたきっかけは、ポール・ヴァレリーの有名な逸話で、あの偉大な評論家/詩人は、「姪にポニーを買い与えるために」、ひと夏苛酷に働いてオカネを稼いだと自分で述べている。
この、「ひと夏苛酷に働く」という科白にすっかり参って、ぼくも同じ事を、マネしてやってみたのね。

ひと夏、苛酷に働いて、ぼくは、(下品なので金額は言わないが)普通の人間が輪廻転生を繰り返してやっと稼ぐ、七生涯賃金よりも、さらに一桁異なる金額を、気が付くと手にしていた。

前にも述べたように、こういうことを自分で言ってしまう人間も変わっているが、実家はそもそも富裕な家なので、両親にゴロニャンをすれば、昔からおぼえもめでたいので、同じ金額など、あっさり恩賜になったに決まっているが、親のカネをもらうと人生全体が腐敗するというあんまり論理的とはいえない信仰を持っていたぼくは、そんなのは嫌だった。

でも「労働」なんかするのは、もっといやだった。
時間のムダとしか思えなかった。
従兄弟はガメの自分の一生に対する思想に脆弱点があるとすれば、そこだろう、とニヤニヤするが、脆弱でもなんでも嫌なものは嫌で、嫌なことは些細なことでも頭から受け付けない性格なので、工夫として、投資くらいしか考えられる道はなかったのだと思います。

ぼくの場合は、世界と折り合いをつける初めは、そんなふうだった。

テキトー変心を常とするぼくは、またまた変心して、サバイバル講座をつづけるべ、と気が変わったのだけれど、その準備に、まず自分がどんなふうに、このクソ世の中、いや、失礼、ちょっと言葉が悪すぎるのでオホホ語を選ぶと、人間として個人として生きていくのが難しい世の中を生き延びていくのに、聞かせられているほうは退屈でも、まず初めに、自分がどんなふうに世界と折り合いをつけてきたかを述べて、その手始めに、物理的基礎をなす収入は、もともとはどこから来たかを説明しようと考えた。

きみは「これじゃ、あんまり参考にならないんじゃない?」というに決まっていて、ま、そーなのだけれど、想像力を働かせてくれれば判るが、なにしろぼくは自分の一生以外は知らないんだよ。
だから、参考になってもならなくても、ほかには説明のしようがない。

サバイバル講座であるのに、こんなことを述べているのは、どうやら、ひとりの若い人間が人間として生きていくには自分の人間性を保持しながら収入を確保していくことが存外大切なことだ、と考えるようになったからであるみたい。
自分では、あんまりこの部分で困難に直面しなかったので、ちゃんと考えてみたことがなかった。

オカネの面で世界と折り合いをつけるためには、自分に対して、よく質問を繰り返して、何によって収入を得るのならば幸福が阻害されないのか聞いてみなければ、いかにも、千差万別、人によって異なるので一般化できない。
自分のまわり、年長者や、自分より若い人や、同じくらいの人を見渡すと、研究をしていたのにハリウッド映画のスターになってしまった人や、アカデミアと折り合いをつけて、週10時間(x3)と引き換えに、オカネについて考えることをやめる環境を整えた人、富裕な女の人と結婚して哲学と歴史に明け暮れることになった人、…様々で、この部分だけは、やはり本人が「何を最も楽と感じるか」に依るようです。

世界はだんだん壊れてきて、いままでの文法では未来を見ることは出来なくなってきた。
全体の側にしか視点がもてない人は、次つぎに全体に飲み尽くされて、個々の視点で世界を認識する人間だけが生き残っていくのは、いまはもうほぼ自明で、もともと全体の視点なんてくそくらえ(←言葉わるい)なぼくですら、難儀な時代になったなあーと思っています。

でもね、こーゆーことはあるの。
ぼくはボートやヨットに隙さえあれば乗るが、おおきな船で面白いのは接岸くらいで、冗談みたいに高い波を乗り越えたり、逆に、凪いだ海でイルカたちと遊んだりするには、小さい船のほうが楽しいんだよ。

次第に荒野に似てくる世界では、民族が集住する城塞よりも、天測を重ねながら砂漠を移動する、ノーマッドのほうが「安全」な世界を生きているのだと思います。

次はコミュニケーションを目的として発達しながら、逆に、個と個のコミュニケーションを阻害する壁としての機能を持つに至って、次第に孤独な思考の乗り物に変わっていった、言語について、きみと話をしたいと思っています。

でわ

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インド洋の世界

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旅客機が発達する以前、船が大陸間をつないでいた頃は、インド洋は「危険な海」で有名で、三角波が多いとか、暴風の日が多いという理由かといえば、反対で、あまりにベタ凪の日が続くので、乗客が倦んで、船から投身して自殺してしまう人の数が多いので有名だった。

あるいはインド洋の海底は、伝説のアトランティスそのまま、海に沈んだ大陸が初めて科学の力で発見されて、モーリシャスの最も古くても900万年前でしかない地層に、そっとくるまれるように見つかった30億年前のジルコン(ZrSiO4)塊の謎が解明されて、インド洋があるところには、大昔には大陸があったのだということがいまでは判っている。

日本との関連でいえば、太平洋戦争初期、まるでさすらいの盗賊団の趣があった大日本帝国海軍機動艦隊は、スリランカのコロンボまで遙々でかけて空襲して、このときマジメに作戦されたらイギリス東洋艦隊はいきなり壊滅だったが、南雲忠一らしく、「やりました」というだけの中途半端な攻撃で終わってしまったので、イギリス側は、「なんのこっちゃ」と思いながらも、胸をなでおろすことになった。

閑話休題

ぼくの部屋、というか投資部屋の壁には世界地図があって、というよりも世界地図が映し出されているでっかいスクリーンが二枚あって、ひとつは伝統的なユーラシア大陸と北米大陸が爪先立ちでのびあがって、塀ごしにキスしてるような、例のあの地図で、もうひとつは、インド洋がちょうどまんなかにあって、左端が西アフリカ、右端にニュージーランドがやっとひっかかっているくらいの位置関係の地図です。

この地図によれば主役はインド洋に面している諸国で、インド、インドネシア、イエメン、イラン、サウディアラビア、ソマリア、オーストラリア….というような国が並んでいる。

もうひとつ簡単に気が付くのは東南アジアで中国がやっていることは何か?ということで、タイランドに浸透しようとしていたり、メコン川を支配しようと努力していたり、要するにナチ・ドイツがダンチヒ廻廊を取り戻して北海へのアクセスを確保しようとしていたようにインド洋へのマラッカ海峡を経由しないですむアクセスが欲しくてたまらないもののようである。
中国が無理矢理な強引さでSpratly Islandsに要塞と飛行場を建設しているのは、インド洋への直截アクセス戦略の展開が芳しくないので、ここに軍事根拠地を建設して、日本で言う「シーレーン」を確保しようということでしょう。

大西洋から始まった近代経済世界は太平洋に焦点が移行して、いまはほとんどの投資家はインド洋を中心にした経済世界に視点が移行している。

地図をじっと眺めていてわかるのは、インド洋世界は、太平洋世界と異なって、特にわかりやすいものを挙げれば例えば石油において資源的に自足している。
金融をみるとシンガポールが中心に座っていて、今日の世界では無視できないムスリム圏の、宗教規律のせいで西洋の概念とはまったく異なる概念のムスリム金融が急速に発達している。

そして、このブログに何度も繰り返し書いたように2050年を越えて、まだ世界が存続できるかどうかの、最もおおきな鍵を握っているアフリカ大陸がある。
いまソマリアやイエメンで起こっていることは、チョー荒っぽいいいかたをすれば日本の戦国時代と同じで、現実には、社会の人口と生産性が高まって、社会内部の成長圧力が強まった社会がおおかれ少なかれ経験する動乱期であると見ることが出来るとおもいます。

中東もおなじで、こっちは別稿を設けて、そのうちに書くとして、「パルミラの破壊なんて、野蛮でお下品な」みたいなことをマスメディアは述べるが、日本で言えば、
日本の古城破壊や廃仏毀釈や鎮守の森破壊は、規模だけから言っても比較にならないものすごさで、単に「お上がやることは仕方がない」国民性が南方熊楠を数少ない例外として記録させなかっただけで、読んでいるとISISなんてうぶいじゃん、と呟きたくなるくらいの酷さだった。

アフリカ、それも西洋に馴染みの深い北アフリカとヌビアンのアフリカだけでなくて、バンツー族が浸透していった「真アフリカ」と呼びたくなるアフリカの興隆はケニヤのIT産業くらいを皮切りに、進み始めている。

自足しているのと、世界の三大宗教がバランスされているのとで、インド洋世界は、最もおおきな可能性を秘めている。
問題は政治の安定ということになっているが、考えてみると、さっきの例でいえば結局は日本全体の生産性が飛躍する淵源になった戦国時代にしても、イギリスやフランスが介入していれば、メチャクチャなことになって、当の日本は搾り滓にされて、ただ日本人同士の憎悪のなかに置き去りにされていたはずで、あれやこれや、
いろいろな例を見ていくと、「要するに欧州とアメリカが余計な口出しをしなければいいだけなんじゃないの?」と言いたくなってくる。

投資家というのは儲かってしまったあとでは、ヒマをこいて、いろいろなことを述べ始めて、甚だしきに至っては「投資哲学」とか口走りはじめるが、要するにもうかりゃいいのよで出だしをはじめる種族なので、暢気でマヌケな種族であるマスメディアや政府人よりも世界を冷静に眺めている。
読みがええかげんだと、口座からぞろっとオカネがなくなって、二回くらい読み損なうと投資タイプによってはおとーさんになってしまうので、よっぽどのバカでもなければ新聞記事を丸呑みに信じたりしません。
陰謀説おっちゃんたちに耳を貸しているヒマもない。

では何をやっているかというと、データデータデーターあああの毎日で、例えばわしならば「ねえええーニュージーランド観光にくれば?ね?ね?航空券代も全部こっちで出すし、わしゲストハウスに泊まりなさい」と人をだまくらかしてニュージーランドに来させて、生の声を聞くためのインタビューを繰り返すことを別にすれば、データを眺めて、そこから現実を読み取っていきます。

その結果、現今、投資家たちがなにをやっているかといえば、北朝鮮とのパイプを強くして、シンガポールに移住して中国圏と英語圏の接点で両岸を眺めて、あるいはイランのひとびととのネットワークを作ったりしている。

その結果できあがった世界地図を眺めようとおもうと、インド洋のまんなかくらいを地図の中心にして、世界の未来を眺めることになって、ここまで読んできて勘がいい人は判るとおもうが、
例えば2050年の「インド洋がまんなかにある世界」を考えると、なんと、なああああーんと、ヨーロッパも北アメリカもいらないのよ。
邪魔っけなだけです。
向こう行け、しっしっ、です。

多分イランの宗教勢力が倒れて、「イスラムよりもペルシャ」の伝統にイランが帰るとき、インド洋世界は大興隆時代に入るとおもわれるが、もういまの時点でも実はインド洋世界に属する諸地域がすくすくと伸びて、大西洋と太平洋の二世界がさまざまな齟齬を来しだしているのは毎日のニュースを観ていても一目瞭然であるとおもわれる。

ときどき、ちびちび酒をのみながら、グーグルマップの中心をインド洋にあわせて、じっと世界の様子におもいを巡らすことは、きみの一生をおおいに助けることになると思っています。

ほら、地球が、世界が、違ってみえてくるでしょう?
なんだか意味不明な文脈で世界が変化していくように見えるのは、太平洋をまんなかにした、きみの思考のせいなんだよ。
世界を捉える文脈が間違っているのだとおもう。

視点は、なにも観念のなかにだけあるわけじゃない。
物理的な地図のなかにも眠っているのね。

人間が現在だと思っているものは、たいてい過去が夢見た未来であるにしかすぎないという。
いまの要点を欠いた、調子っぱずれの「西」世界を見ていると、
ほんまだよなあーとマヌケな感想を持ちます。

古い地図で、新しい航海に乗り出すわけにはいかないんだよね、きっと。

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若い友達への手紙4

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金曜日なので田舎へ遊びに行こう、と誘うと、
ガメのくるまは床の穴から道路が見えていて怖いから嫌だ、とわがままなことを言う。
いや、あのクルマはギアチェンジシフトのスティックがすっぽ抜ける癖がついて危なくなったので、新しいクルマに変えたから大丈夫、と言いかけて、今度のクルマは助手席側のドアが取れてなくなっていて、色違いではあるが新品同様のドアが手に入るのは来週で、いまはまだ「透明ドア」のままなことを思い出して、口をつぐみます。

ぼくは20歳だった。
ダッシュボードがあるだけ美品であるとおもうが、その女の人はオカネモチの娘なので、中古車のsubtleな美が理解できるともおもえない。

親にねだれば、いくらでもオカネを振り込んでくれて、明日からでもひとりで高級アパートに住めるのでは、ビンボもいんちきであると言わねばならないが、たとえば上に書いた元わしガールフレンドは黒の、ちょーカッコイイ、ベントレーのヴィンテージスポーツカーに乗っていたが、日本円で計算しなおせば一億円を軽く超えるああいうクルマに乗って、いいとしこいてもいないのに、夜毎、赤いカーペットとシャンデリアのある高い天井の下を歩いて過ごすような生活は正しくないように感じられていた。

「正しくない」はヘンだし、言葉としてカッコワルイが、その頃の自分の感情を表現するのには、いちばんしっくりくるような気がする。

ロンドンにいればイーストエンドの、隣のテーブルで中東人たちがファラージュやトランプが聞きつけたら大喜びしそうな談合にふけっているレバニーズカフェで、ファラフェルを食べていたり、マンハッタンならば、いまはもう閉まってしまった、ビレッジの英語なんか金輪際通じないラティノ人たちの定食屋に入り浸っていたりした。
きみは「定食屋に『入り浸る』って表現としておかしくない?」というかもしれないが、あの店にはバー、日本語でいうカウンターがあって、そこで赤豆がいいか黒豆がいいか悩んでいると、隣に腰掛けたおばちゃんが、「あんた絶対赤豆よ。黒豆なんて、ろくな人間の食べ物じゃないわよ」と話しかけてきて、それを聞きつけたおっちゃんが「なんちゅうことを言うんだ、ばーさん。ここの黒豆スープは世界一だぞ。」と述べにきて、「ばーさんて、なによ、この洟垂れ小僧」と言い返して、言葉だけ聞いているとすごいが、みなニコニコしていて、カウンターの向こうでは店主のおっちゃんがニヤニヤしながら見ている。
客は昼ご飯に来ているというのは口実で、話しかけやすそうな人間を見つけては、ダベって、午後のひとときを過ごしにくる。

ドレスダウン、という。
スピードダウンとは異なって、ちゃんとした、というか、ちゃんとした、は変か、普通に使う英語です。

冬空の下でも、Tシャツにジーンズで、お尻のポケットにはぐっちゃぐちゃなベーオウルフのペーパーバック版が突っ込まれていて、スケボーを抱えて雑踏のなかを歩いていた、20歳で、途方もなくバカタレな自分のことを思い出す。
なつかしい、という見苦しい要素が混入してきたのは、それだけ歳をとってきた、ということでしょう。

冬の低い空が好きで、鈍色の空の下で、通りを歩きながら、金融バブルでにぎわう街の、角角におかれた不幸の暗示であるかのような、ホームレスの人々や、よく見ると何日も着古した服の、顔まで少しよごれたティーンエイジャーの女の子たちをスポットして、「あそこに社会の実相へのドアが開いている」と若い人間らしい考えをもったりしていた。

その頃はまだ、日本語が子供のとき日本にいた頃の言語能力の続きみたいで、ちゃんと判っていなかったから、岩田宏の「神田神保町」を読んでも、意味が判るだけで、岩田宏というひとの、出口という出口を自分の日本的心性に満ちたすぐれた知性で塗り固めてしまったような、やりきれない閉塞と哀しみを理解してはいなかった。

自分のブログ記事を引用するのも変な人だが、めんどうなので(ごみん)
自分で書いた記事の引用を引用する横着をすると、

****************

「神保町の 交差点の北五百メートル
五十二段の階段を
二十五才の失業者が
思い出の重みにひかれて
ゆるゆる降りて行く
風はタバコの火の粉をとばし
いちどきにオーバーの襟を焼く
風や恋の思い出に目がくらみ
手をひろげて失業者はつぶやく
ここ 九段まで見えるこの石段で
魔法を待ちわび 魔法はこわれた
あのひとはこなごなにころげおち
街いっぱいに散らばったかけらを調べに
おれは降りて行く」

という出だしで「神田神保町」は始まるが、自分で記録したとおり、そのとおりの姿勢で
岩田宏は
「街いっぱいに散らばったかけらを調べに」
出ていった。
60年代の政治の季節のなかに。
巨大な鉄鋼の歯車に挟まれるようにして、たくさんの若い女や男が血を流している街のなかに。

「とんびも知らない雲だらけの空から
ボーナスみたいにすくない陽の光が
ぼろぼろこぼれてふりかかる」

「神保町の
交差点のたそがれに
頸までおぼれて
二十五才の若い失業者の
目がおもむろに見えなくなる
やさしい人はおしなべてうつむき
信じる人は魔法使いのさびしい目つき」

「おれはこの街をこわしたいと思い
こわれたのはあのひとの心だった
あのひとのからだを抱きしめて
この街を抱きしめたつもりだった」

さっき、この詩を思い出していたのは、チョー散文的な理由で、日本の人のひとりひとりの実質的な収入が1960年代に戻ってしまったようだ、と日銀の統計ページを見ていて、思ったからなんだよ。

国はまだ先進国なのかもしれないが、日本人に生まれたきみのふところは、どう考えて、どんな角度からみても、ビンボ国の若者の財布の薄さになってしまった。

この頃は、英語世界にも、先行世代が築いた富をただただ取り崩して借金を積み上げてゆくだけの、いまの日本の信じがたいほどのダメっぷりは、年長世代の、主に男達の「考え方」に起因していて、労働の実質よりも労働時間の長さを尊び、現実を直視せず、他人の言うことに耳を傾けるどころか、ちょっとでも自分達の社会を変える善意志を持たないなまけぶりがバレそうな方向の言葉を耳にすると狂人の集団のように群がって中傷誹謗を繰り返して相手が沈没するまで攻撃する、というような内情がばれて、さっきも日本の男達の時代遅れなダメッぷりについて書いた英語新聞記事を紹介したツイートをした人がいて、読んで見て、まあ、繰り返しというか、日本の当の男達だけが呪文ような決まり文句を唱えて認めないだけで、誇張でなくて世界中の人が繰り返し述べていることがまた書かれているだけだったが、読んでるほうは、もう飽きたというか、いくら言ってもムダでっせ、な気持ちしか起こらなくなっている。
なにしろ日本語世界では、トロルでしかないおっさんたちがマジョリティで、たいていは外国で生活しているらしい、まともなことを述べる人々は絶対少数派なのは、どんな人が見ても明らかです。

では日本に残る選択肢はないかというかというと、選択肢としてはバカまるだしで救いがないほど愚かだが、このあいだもきみに述べたように、仮に自分が日本に生まれた日本人だとして、想像力を逞しくしてみると、どうも日本にいることを選ぶような気がする。

数寄屋橋公園ですら、茂みにシンチレーターをかざすと、ぎょっとするような数値だという。
軽井沢は、どうやら東と南の、いつもの霧の進入路とおなじ経路で放射能雲が進入したとかで、ぼくがよく散歩した森がある追分などは、ホットスポットと呼んでいいくらいであるらしい。
「それなのに、近所のフランス料理屋はきのこ祭りといって、地元のきのこをふんだんに使った料理を出してるんだよ」と軽井沢の友達から憂鬱げなeメールが届いたのは、去年の9月だったろうか。

自分の現実世界での履歴から考えて、日本のサラリーマンとーちゃんの家に生まれて、郊外のベッドタウンで育っていれば、多分、案外、社会のその他おおぜいの兵隊生活に放り込まれたら死んでしまうと考えて、あるいは話が通じる友達と会えることを期待して、一生懸命勉強して、トーダイなり、試験が難しい大学に入っているのではなかろうか。

ガメは相変わらずヘンなことを言うね、と思うかも知れないが、数学と物理が得意で、英語が苦手な、国語は縦に書いてあるから嫌いじゃ、と述べるストロングスタイルの受験生になっていたかもしれない。
義理叔父や例のトーダイおじさんたちから、東京大学の入試は真冬のクソ寒い日に会場からおんだされて、二時間くらいも寒空の下で難民みたいに、凍えながら午後の試験の開始を待つんだよと聞いて、大笑いしてしまったことがあったが、ぼくは自分の性格のゲーマー部分を発揮して、要領もよく、暖かいカフェで昼ご飯を食べて、「午後もがんばるどおおおー」とノーテンキなことを述べるいやな受験生だっただろう。

修士までやって、就職して、やってられんと考えて、会社をやめて、テキトーに役所かなんかでバイトをしているのではなかろーか。
ときどきアパッチサーバーをつくって、余剰の収入を得たりしながら、めざせ年収400万円で、高田馬場の、小さなアパートで、明日はどの定食屋に行くべきか研究していそうな気がする。

それからぼくは旅にでる。
留学や移住じゃないんだよ。
高田馬場の見るからにインチキな航空券屋のカウンタで買った、一枚の、スターアライアンスの世界一周チケットを握りしめて、ふところの500ドルと、からきしダメな英語と、銀行口座の、外国にでかけてしまえば引き出せるかどうか覚束ない30万円だけを頼みに、とりあえず、なんだか正体が判らなくて怪しげな、背がめだって高くて綺麗な奥さんがいるらしいヘンテコな外国人の書いたブログ(しかも日本語)を信じてしまったことを半ば後悔しながら、ボーイング777のいちばん後のトイレの臭いが漂うエコノミークラスで、「どうしていいか判らなければ、とにかくスマイルじゃ。スマイルしまくっておればどうにかなる」という、あのガメ・オベールとかいう、ゲームオーバーな、ふざけた名前のブログ人の言うことを思い出して、ぎくしゃくした不自然な微笑いをうかべながら、コーヒーを頼むのに慌てて「アイムブラック!」と叫んで周囲の爆笑を買っているかもしれない。

先進国は大都市にかぎって、日本料理屋や日本食材店でバイトをして、ベトナムやマレーシアやタイの田舎を巡って、アフリカの町や、南米の湖を見て歩くだろう。

そうしているうちに、ビンボは若いときにはたいへんではなくて、歳をとってしまったときの生活の展望が持てないからたいへんなだけだという単純な現実に気が付くのに違いない。

天然全体主義を制度的な全体主義に変えようとして必死な安倍政権や、国を覆う勢いの放射性物資ですら、自分にとってはたいした問題ではなくて、自分を幸福にすることだけが自分の焦眉の問題なのだと、世界を見て歩いたあとに実感しない人間はいないだろう。

旅は人間に「明日」を与える。

The Motorcycle Diaries

http://www.imdb.com/title/tt0318462/

を見ると、若いゲバラが、南米を初めて理解してゆく様子がよく判るが、日本語という架空な現実と書き割りに囲まれた社会で育ったきみが、だんだん自分が「外国」や「世界」という名前で呼んでいたものこそが「現実」だったのだと、特に理屈立てて言われなくても判ってくるに違いない。

ガメ、それで、世界を1年かけて一周して、帰ってからどうすればいいって言うんだい?
ときみは聞くかもしれないが、
なにもしなくていいんだよ。
また同じバイトで、その日暮らしで、ホームレスになって、乞食になったって、別にいいじゃない。

ぼくは、ぼく自身が考えたこともなかっただけでなくて、友達も、妹も、両親ですらぶっくらこいてしまったことには、意外にも結婚して、あまつさえ冨まで形成したうえに小さなひとびとが走りまわるようになって、美しい人と幸福な家庭をつくって、なんだか冗談みたいというか、これがほんまにおいらの暮らしかという生活をしているが、本来は、ポケットにしわくちゃの20ドル札を一枚だけ突っ込んで、ヒースが広がる丘の上に腰掛けて、古本屋で買った、もう誰も振り返りもしなくなった作家の本を読んでいるはずだった。

日本でも、先週サイトで見たチョーおいしそうなトンコツラーメン目指して時給1200円で労働したり、正面から話してみたが止めさせてくれそうもないので、ぶっちして、来週は四国のお遍路道を歩いてまわってみようと画策したり、
生産性が低いどころか、ゼロの一生を歩いているだろう。

日本の社会となるべく関わりあいをもたずに、ひとりで、見届けたいものを見届けて、聴き取りにくい声に耳を傾けて採集して、なにも言わずに、なにも書き残さずに、野良猫がふっといなくなって死んでしまうように死ぬだろう。

さよならも言わずに

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バノンという厄災

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ラウンジャーに寝転がってコミュニティペーパーを読んでいたら、ページの3分の1ほどもある、若い、いかにも屈託がない4人のイギリス人の男女の写真があって、「Team Brexit」と書いてある。
なんじゃ、これは、と思って読んでみると、イギリス人は欧州の助けなどはなくても、ちゃんと健康にやっていけるのだということを世間に見せるためのランニング・チームだという。

ますます、なんのこっちゃ、だが、到頭イーストベイ・クーリエという最も豊かでリベラルな地域のコミュニティペーパーにまで、こんな記事が出てくるようになってしまったことに軽い衝撃を感じる。

Brexitは人種差別とは何の関係もない、という建前になっている。
大陸欧州との考え方の違いや大陸欧州的に硬直した官僚主義と、イギリス的価値は相容れないと述べているだけである。
Brexit支持者の主張であって、日本でも未だに人気があるモンティパイソンのメンバーも、同じ趣旨を述べています。

人種差別とは何の関係もないBrexitは連合王国の正式の外交方針になって、その結果、アジア人は路上で唾を吐きかけられ、ロンドンで生まれて育ったジャマイカ人は「国に帰れ」とクルマから叫びかけられる。
たいてい白い人しかいない夜更けの小さなスタンダップコメディクラブでは、中国人や日本人を嘲笑するネタが、ぐっと増えている。

80年代に日本人とみると、すれ違いざまに「自分の国へ帰れ、猿め」と述べたりするのは戦争を通じて日本人への憎悪を育んだ老人たちか、パンクなにーちゃんたちと決まっていた。
ことさら判りやすい扮装のスキンヘッヅがダブルデッカーの二階席で跳びはねながら、誰に向かってなのか「ジャップ、国へ帰れ」と、アホはアホらしく集団で床を鳴らして跳びはねていたのを最後に見たのは1991年ではなかったろうか。
舗道から眺めていたガキわしは、どうも、治らないよね、このわしらのビョーキ、人種差別は北海文明の本質なのではなかろーか、と子供らしからぬ諦念をもって考えていたのをおもいだす。
あの頃は専ら日本人が対象だったが、この頃なら、中国人が対象だろう。
あの剃りハゲたちくらい頭が悪ければ、どこかで頭の線がショートして、いつのまにか中国は日本に戦争を仕掛けて勝利したことになっていそうな気がする。
まだ日本が国として存在すると、わかっていないのではないか?

大統領選挙期間中、Steve Bannonがトランプ陣営で軍師を勤めているようだというニュースは英語人の眉をくもらせた。
バノン?
あのバノンかい?
飲んだくれの白人至上主義者。
他人種を絶滅させるというようなことになると、ますます働きがよくなる鋭敏な頭脳の人種差別主義者。
いや、人種差別主義者という言葉は正確ではなくて、もっと正鵠を期せば人種絶滅主義者だろう。
アフリカ系人などは根こそぎにしてしまえばよいし、アジア人は平べったい顔を見ただけで虫酸が走る、という絶対白人優越主義の伝道師バノン。

トランプがただの「おやじパリス・ヒルトン」から、もう一歩さらに危険な人物へ変貌したのではないか、という考えがみなの頭をよぎって、嫌な気持ちがした。
しかし、まさか、いくらトランプがバカでもバノンは極右への影響力を利用するために陣営に導き入れただけだろう。

「そこまでのことは起きるわけありませんよ。現実の世の中は案外と無事平穏にすすむものなんですよ。あなたはオーバーだなあ、わっはっは」なのは、程度は異なっても日本人だけではない。
西洋の人間もおなじで、最大の根拠は、いろいろあったのは事実だけど、世の中はまだ続いているじゃない、
心配しないでのんびり行こうぜ、ということであると思われる。
いままで大丈夫だったのだから、これからも大丈夫ですよ。
それに戦争みたいなものも二度の大戦から人類はたくさん学んだからね。

Steve Bannonが入閣した、というニュースは、おおげさでなくて、鈍器で頭を殴られるくらいの衝撃だった。
なあああーんとなく、それでも「海の向こう」のことであったアメリカのバカタレぶりが、他人事ではなくなって、自分の仕事の分野でも対処しなければいけなくなったのは、まさにSteve Bannonが入閣したせいだった。
背景のおおきな絵柄の政治的な事柄が市場に直截影響を与えるのは、80年ぶりというか、わしキャリアでは初めてです。

Bannon入閣のニュースでボーゼンとしているうちに、バノンはあっといまにNSC (National Security Council)、日本語でなんと呼ぶのかいま調べてみるとアメリカ国家安全保障会議を牛耳る地位についてしまった。
もう意図を隠さなくなった、というべきで、バノンの「世界を地獄の業火のなかにたたきこんで、その混乱のなかから白人種が世界の支配者として復活する」というヒットラー的な人種闘争の年来の信奉者であることを考えれば、自由に戦争という外交手段を操れるポジションにつくことは、ずっと前からの戦略だったのでしょう。

考えてみると、権力の働きという角度から考えると、要するにミャンマーでクー(クーデター)が起こって軍事政権が誕生したのと同じ事で、好戦性において、民間人と軍人の立場が逆転しているだけで、シビリアンコントロールが徹底した制度を逆手にとったバノンらしい妙手と言えなくもない。

むかし不穏な時期のオーストラリアのアウトバックに行こうと思って、近所のオーストラリア人に治安を聞いたら話の最後に「ぼっちゃんは白人だから大丈夫ですよ」と言うので、ぶっくらこいてしまったことがあった。
え?おっちゃん、いまもう90年代だよ?
もうすぐ21世紀なんだよ?
それで、白人じゃないと無事じゃないかもしれないの?
うっそおー、と思ったが、
今度、折りを見てモニとふたりでアメリカの中西部の田舎を旅行してまわって、いろいろな人と話してみようと思っているが、
90年代などはかわいいもので、いっそ30年代まで逆行したような雰囲気であるらしい。

21世紀になっているのにジョージ・タケイたちが、また日系人狩りが始まるのではないかと心配しているのは滑稽だと書いている人を見かけたが、アメリカ人が排外主義に走ったときの暴力性と徹底ぶりを肌で学習した世代にとっては、この白人至上主義が、日系人にまで及ばなければ、そちらのほうが不思議だと感じている。
もしかすると日本人が無事でいられるのはハワイとオレゴンとカリフォルニアくらいだけになってしまうのかもしれない、と不安な未来像を組み立てている。

Bannonのやり方や考え方をよく知っていれば、ムスリムバンは、別に徹底しなくてもよい、まして、テロ対策だなどとは発案者の当の本人が露ほども信じていないのは、誰にでもわかる。
彼が踏み出したのは、白人支配復活への戦略の第一ステップで、まず国内で騒擾を起こして混乱を起こすこと、だいたいみっつくらいの種類の騒擾を起こして、国内が昏迷していけば、その次は国外での騒擾で、国家主義的な「愛国心」を大規模に育てることを目論むだろう。

ターゲットは無論中国だが、バノンは、それこそ「ナチの手口」を、意味も判らずに使った日本の政治家とは異なって、長年研究を重ねてきているので、手強い敵は我慢しうるかぎり後において、取りあえず、油断している日本をターゲットにするつもりかもしれない。
ツイッタで、こりもせずに日本語で英語世界で行われている観測を述べたら、
「不安を煽るな」から始まって「ジャパンハンドラーが去ったので大丈夫です」
「世界2位と3位のGDPの国を破滅に追い込むなんて考えられない」
という人が案の定やってきて、すぐさま中止して、
「おかあさんは、死なないんだよね?」と母親の膝にすがりつく幼児を思わせるような日本のひとの、いつもの、「なにも悪いことは起こらない。絶対、絶対、起こらない」の反応を楽しむだけにしたが、現実から顔をそむけて、自分が心のなかに描いた暢気な書き割りだけを見つめて暮らせば、結局はどうなるかは1945年に日本を襲った徹底的な破滅の教訓が教えている。

トランプは、日本が安全保障上、完全にアメリカに依存していて、しかも政権はマヌケなことにアメリカが日本の利益を守るために行動すると盲信している好戦性の強い政権であることを見逃すはずがない。
トランプが、というよりもバノンが、ということになるが。
バノンという人は悪意と他人種への憎悪の炎のなかに立っているような人で、善意志などは鼻で笑う人だが、厄介なことに戦略的な勘と機敏な行動力には恵まれている人であって、NSCのまんなかに座らせてみると、破壊神が降臨したような、このくらい世界を破滅に追い込むことに向いたひとはいない。

イスラム人を入国禁止にして、なぜアメリカを分裂させるようなへぼな政策を初めに打ち出すのか、とヒョーロンカ的な気楽さで述べている人達がいるが、
スティーブ・バノンは分裂と混乱をこそ望んでいるのだ、ということを知らないのではないだろうか、と考える。
ヒラリー・クリントンが代表するようなエスタブリッシュメントによる安定は、バノンにとっては最も苛立たしい停滞であり、粘着して、アメリカ社会にこびりつくような富者の驕りにしかすぎなかった。
彼は破壊者であって、建設には興味をもっていない。
ワイフビーターでアルコール中毒なのは、よく知られているが、妻を殴ったりウイスキーを毎夜ひと瓶開けて怒鳴り散らすよりも有効な自己の解放を発見したバノンは、日毎、活き活きとした表情を見せるようになっている。

そして、念願どおり破壊の王の玉座に座った彼の手には、世界をなんども焼き尽くすだけの核兵器が握られているのです。

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サバイバル講座2

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ふもとまで、足下に見渡す限りタシックが広がっていたのでヴィクトリアパークだったのではないだろうか。
冬で、12歳だったぼくは、遠くに暗い灰色に鈍く光っている海を見ながら、
ぼくはひとりで歩いていかなくてはいけないのだ、と頭がおかしくなってしまったひとのように思い詰めていた。
いつでも暖かい家庭と、振り返っていま考えると現実であるにしてはラッキーすぎるような代々積み重なったおおきな冨と、だいなかよしの動物たちに囲まれて、そんなことを考えるのは風変わりで愚かな子供だった証拠だが、その頃は、もしかすると「幸福」というイメージがまだ好きになれなかったのかもしれません。

子供の頃、スコット探検隊やシャックルトンの南極での冒険の物語を大好きだったぼくは、「厳しさ」や、取り分け極北という言葉があらわしているような魂の酷寒のなかに自分をおくことに、子供らしい気持ちで憧れをもっていたのでもあるのでしょう。

きみがワーキングホリデービザを頼りにしてクライストチャーチの空港に友達と3人で降り立ったとすると、きみはもう半分ゲームに負けている。
語学校で気の合う日本人仲間達と毎週のランチを韓国レストランで楽しみだしたとすれば、今回の自分を救う試みは8割方ダメだったということだとおもいます。

ガメは、へんなことを言うなあ、と思うかも知れないが、特に留学や移住に限ったことではなくて、気持ちの上で、ひとりでいない人間は、安全から遠く離れたところに立っている。

日本語世界では特に、例えば大きな地震があって、ひとびとが避難するときに、たくさんの人がめざす人の流れに身を任せて、逃げていく人もいるかもしれないけど、それはとても危険なことで、せめて、周りの人間に「なぜこの人達はこの方向に向かっているのか」を聞かなければいけない。

少なくとも、自分の頭のなかで懸命に考えて、津波ならば少しでも高いところを目指して必死に走り、空襲ならば地下の深い所にあるチューブ構造の地下鉄をめざして逃げるというふうに、自分の理性が単独で納得できるところに逃げるのでなければ安全とは到底いえないとおもう。
人間の一生のサバイバルも、とても似ている。

人間はひとりでいて自分の頭で考えるのでなければ安全ではない。
他人の判断に従うのは楽ちんだけど、それはとても自分の一生にとっては危険なことだ、というのは、あんまり観察にすぐれていなくても、親のいうことをたいした考えもなしに聞いてしまって、医師になって、大学教師になって、50歳に近付いたインチキな自分を発見して茫然としている人の数の多さを考えてみれば、すぐに判る。

医師なり公務員なりの「安定した職業」につくよりも、自分の内側に住んでいる、例のきみの最大の親友である自分自身の、よくは聴き取れない声に耳をすまして、自分自身という最大の友達が喜んでくれそうな方角に歩いて行くのが最も「安全」なのは、図書館に足を向けて自伝というような本を開いてみれば、そこここに記されている。

なんども挙げた例をここでもあげれば、コリンウイルソンという作家が作家になったのは、それが「自分にとっては最も確実に生き延びる道だったからに過ぎない」と、この人は折りに触れて述べている。

前にコリンウイルソンについて書いたときに、好奇心を起こして日本語ウィキペディアを読んだら、「経済的事情から16歳でやむなく学校を去り」と書いてあって、びっくりしてしまったが、この「アウトサイダー」と「殺人百科」の著者が、自分にとっては学校は危険な場所で、なるべく早く、皿洗いでもなんでもしながら著作家になるのでなければ、社会という石臼に挽き殺されてしまうだろうと考えたのは11歳のときで、例えば同じウィキペディアでも英語のほうには

By the age of 14 he had compiled a multi-volume work of essays covering many aspects of science entitled A Manual of General Science.

と書かれている。

人間にとっては、自分でない自分の方角へ歩き出してしまうのが最も危険なことで、たいていの場合、小さいときから、折りにふれて「自分は医者になりたかったがダメだった」と残念そうにつぶやく父親や、この子が大学の先生になったら、どんなに素晴らしいでしょう、と夫に言って楽しげにしている母親こそが、きみ自身の最大の敵であるという事態は、おもいのほか、ありふれた事態で、一生で初めて出会う自分の一生を根底から台無しにする罠は、意識的無意識的に両親が仕掛けたものであることは、どうだろう、ほんとうは圧倒的に多数なのではないだろうか。

自分が何になりたいかを考えるのは、普通の人間には、まず無理で、自分の心のなかにある磁針が自分のやりたいことのほうを向くように自分の心を開いてリラックスした状態にして、少しでも夢中になれることのほうに自分の足を向けていくのがよさそうです。

ひとりで空港に立って、ほとんど言葉も判らないまま空港から町へ向かうシャトルを探して歩くきみは、なんだか泣きそうな顔をしている。
義理叔父は、80年代の初め頃には、安売りの「訪問チケット」には、よくそういうことがあった、いいかげんなチケット屋にだまされて買わされたシアトルでの入国審査と乗り換えの時間が15分しかないチケットで乗り換え便が出てしまって、見かねた見ず知らずの香港人がデスクを叩いて交渉して手に入れてくれた代替便のシアトルからデンバー、デンバーからシカゴ、シカゴからニューヨークと飛行機を乗り継いでニューヨークに着いてみたら、夜中の1時になっていた。
しかももともとはラガーディアにつくはずが、ニューアークに着いて、ニューアーク・リバティはニューヨーク州ですらないニュージャージー州の空港なので、途方にくれて、現金もないのに、とにかくそれしか方法がなかったのでタクシー乗り場にオカネも持たずに並んでいたら、自分が立っている、すぐそばの駐車場で、銃声がして、翌朝わかったことは、ひとりの女の人が撃たれて死んだ現場に立っていた。

おれは呪われているんじゃないかとおもったよ、というので笑ってしまった。
やっぱり西洋とは相性が悪いんじゃないかと考えた。

面白かったことがひとつあってね、パンパンパーン、と拳銃の音がしたら、立っているのは俺だけで、周りのアメリカ人たちは見事に地面に伏していて、半分くらいのひとは教本どおり銃声に足を向けて自分の身体を倒している。
おれ、多分、この国で生きていくのは無理だな、としみじみ考えた。

やけくそで、一文なしのままスラムの一角にあるSさんのアパートがあるビルに夜更けに着いたら
全然安全じゃない通りにSさんが立っていて、渋谷のハチ公の前で待ちあわせていた気楽なひとのように、やあ、と言って手を挙げるの、おれはもう涙がでて、その場で泣き崩れそうだったよ。

そういうのって、赤ゲットっていうんじゃないの?
うるさい。ガメ、それに、それ死語だぞ。
と話しながら考えていたのは、なるほど日本語人が英語世界へ初めてやってきて、新しい生活を始めるというのは冒険なんだな、という発見でした。

そんなの当たり前じゃない、という人がいそうだが、そうでもなくて、
いま考えてみると、なにくわぬ顔をして両親が計画的教育をしていただけだが、
あっというまに着いてしまうパリやミラノ、親の夏の家があるコモ湖やジュネーブはもちろん、お伴をしなさいと命ぜられては、その頃はもちろんヒルトングループの手におちて、どうにもならないほど落ちぶれてしまう前の、かーちゃんのマンハッタン短期滞在の定宿だったウォルドフアストリアの、いつもおなじタワーのスイートで、しかも子供の頃のぼくから見ると、アメリカ人の、なんだかヘンテコリンな発音だったが、英語は一応英語で、なんでコットンバッドが「Qチップ」なんだ?と無限に疑問が生じる会話だったが、それでも自分が見知った英語人とはまるで種類が違う英語人たちが右往左往していて、むかしは肩章のある白い制服だったいかにもブルックリン子のボーイさんたちと、話して、笑い転げたりしていた。

実感として、どこかへ、えいやっと跳ぶわけではなくて、生活範囲がおおきくなるにつれてじわじわと広がってゆく感じで、特に英語を話す町でなくても、その感じのおおもとは変わらなくて、まるで空飛ぶ咸臨丸でアメリカを訪問したような義理叔父の感想とは、まるで異なる。

きみが友達とつれだって他の国を訪問してみようとおもうのは判らなくはないけど、グループで、と決めた瞬間、きみのせっかくの旅の決心は、もうそこで半分死んでしまっている。

留学や旅行を例にとって話したけれども、もちろん国内で一生を送るのでもおなじことで、自分が他人とグループをなしているときには、耳をそばだてて自分自身の心に聞いてみると、たいてい警鐘を鳴らしている。
ひとりでいなくていいの?
ひとりで世界と向き合うのでなければ、世界の一部ごとちぎれて、世界のまあるいシャボン玉のなかで、お友達が吐く楽ちんな意見の息を一緒になって呼吸しているだけじゃない、と足を踏みならすようにして、きみに伝えようとしている。それに、

ひとりでないと仲間がつくれないでしょう?
友達でいえば、友達は、まったく異なる独立した魂の持ち主が出会って、岩田宏が美しい詩のなかで述べているように、きみと会うのは初めてだけど、きみと会えなかったらいったいどうしようかと そればかり考えていたよ、とお互いを抱きしめたくなるほど、急速な化学反応のように、この人は、どっかへ行っちゃっていたわたしなんだ、と感じるから友達なので、友達というものはもちろん友達を作りたいとおもって積極的に作ったりできるものであるわけがない。

まして「大好きな人」は、会ったその日から、ふたりで同時に発狂してしまった人のようになって、明日は試験だというのに夜の6時から朝の4時まで、4時やまもとになって声が枯れるほど夢中になって話しあって、世界など眼中になくなって、
あんないけないことや、こんなひとに言えないことまで許しあって、気が付くと、離ればなれに暮らすなんて考えられなくなっている。

でも一緒に発狂して空が二倍の大きさになって、世界が突然素晴らしい色彩に輝き始めるのは、きみと「大好きな人」が、まるで異なる人間同士だからで、ひとりとひとりで完結している人間同士でなければ、融合は起きるはずがない。

なんだか今日は教会の十字架の前で、よだれかけみたいな白い服を着て、神様が書き損なって失敗した黒表紙の脚本を手に持ったおっちゃんのスタンダップコメディみたいになってしまったけど、
この世界を生き延びたければ、きみはどうしてもひとりでいなくてはならないんだとおもう。

仲間なんていらないでしょう?
友達は、例えば大学の食堂で、昼食を食べているんだか言葉の剣を抜いて決闘しているんだかわかんないような毎日を送っていたぼくですら、友達なんかいらん、とおもっていても、ひとりまたひとりと増えて、いつのまにか、久しぶりに顔をあわせると、相手の、なつかしくて涙をじっとこらえる顔をおもしろがるほど、向こうもきっとおなじことを観察してアホみてえと思っているだろうけど、離れがたくなって、もうこいつの考えることなんて、どうせこいつの考えることなんだから、正しくたって正しくなくたって、どうでもいいや、いまのアンポンタンのままでいいから、ずっと長く生きてくれ、と思うようになる。

繰り返していうと、友達はきみがきみで居続けた結果として「出来てしまう」もので、お友達になりたい、というのはだから論理にも情緒にも反していて、ほんとうの言明ではありえない。

サバイバル講座、を書き出した後悔は、ぼくは、あんまりこういうことを話すのが得意じゃないんだよ。
なんだか話しているうちに、すっかり飽きてしまった。
だから約束はできないけど、もし書く気が残っていれば、今度は学問や職業の選択のやりかたについて話しに戻ってきます。
ツイッタやなんかで付き合いがある人は知っているわけだけど、ぼくは具体的な話以外には、たいした価値を認めない。
誰かが言っていることは上の空でしか聞いていなくて、やっていることしか見ていない。

「このひとは人間は問題だが良いことは言っている」というようなことを述べているひとを見かけると、述べている本人が言葉が人格と切り離せるものだと妄想しているのがわかって、それは取りも直さず本人が人間というよりは人間のパチモンみたいなヘンな生き物なのを告白していて、興ざめというか、バカバカしくて何事かを述べる気が削がれてしまう。

自分に課した育児期間が終わったいまは、何をするにも時間が惜しくて仕方がない。
他人に「こうするのがいいんちゃう?」と述べる時間はムダな時間のなかでも気が遠くなるようなムダで、向いてもいないし、多分、おなじ話題に戻ってくることはないだろうけど、万が一もどってきて書こうと思うようなことは、過去の記事に繰り返し書いてあります。
いま思い出すだけでも、政治的な人間になるな、徒党を組むな、防御的な姿勢をとるな、YESかNOか迷ったらNOと言え、邪な人間に憎まれない人間は要するに本人が邪悪なのさ… と、まあ、チョーうるさいことで、親切な人間の傍迷惑さというものを思い起こさせる。

到着した空港で、呆気にとられた顔の友達たちを尻目に、「じゃあ、ぼくはここからひとりでホストの家に向かうから、日本に帰る前の週くらいになったら、また会おうね」と述べて、すたすたと歩きさってゆくきみは、まるでぼくの若い妹か弟のようです。

がんばらなくていいから、自分自身を欺かないで、なんとか自分自身に親切にして生きていこうと固く決心したきみが、パブで働いて、ある日ふと店のなかを見渡してみると、椅子席はガラ空きに空いているのに、立ちテーブルを選んで、奇妙に背が高い、にやけた顔のにーちゃんが半パイントのラガーを持って立っていて、その傍には、なんだか現実でないような、目が覚めるように美しい女の人が微笑んでいる。
きみは、きっとにやけたにーちゃんの背中の赤いゴジラを見て、クスクス笑いだすに違いない。

ゴジラTシャツって、聞いたときのイメージとはちがって、なんだか、炎を吐いてすごんでいるわりに可愛いゴジラだったんだな。
どんな人だろうと、ときどき考えた、あの人は、やっぱりヘンな人だったんだ、と納得する。

ほら、会えたでしょう?
きみの友達に。

ぼくだって、ずっと待っていたんだよ。

でわ

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