バノンという厄災

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ラウンジャーに寝転がってコミュニティペーパーを読んでいたら、ページの3分の1ほどもある、若い、いかにも屈託がない4人のイギリス人の男女の写真があって、「Team Brexit」と書いてある。
なんじゃ、これは、と思って読んでみると、イギリス人は欧州の助けなどはなくても、ちゃんと健康にやっていけるのだということを世間に見せるためのランニング・チームだという。

ますます、なんのこっちゃ、だが、到頭イーストベイ・クーリエという最も豊かでリベラルな地域のコミュニティペーパーにまで、こんな記事が出てくるようになってしまったことに軽い衝撃を感じる。

Brexitは人種差別とは何の関係もない、という建前になっている。
大陸欧州との考え方の違いや大陸欧州的に硬直した官僚主義と、イギリス的価値は相容れないと述べているだけである。
Brexit支持者の主張であって、日本でも未だに人気があるモンティパイソンのメンバーも、同じ趣旨を述べています。

人種差別とは何の関係もないBrexitは連合王国の正式の外交方針になって、その結果、アジア人は路上で唾を吐きかけられ、ロンドンで生まれて育ったジャマイカ人は「国に帰れ」とクルマから叫びかけられる。
たいてい白い人しかいない夜更けの小さなスタンダップコメディクラブでは、中国人や日本人を嘲笑するネタが、ぐっと増えている。

80年代に日本人とみると、すれ違いざまに「自分の国へ帰れ、猿め」と述べたりするのは戦争を通じて日本人への憎悪を育んだ老人たちか、パンクなにーちゃんたちと決まっていた。
ことさら判りやすい扮装のスキンヘッヅがダブルデッカーの二階席で跳びはねながら、誰に向かってなのか「ジャップ、国へ帰れ」と、アホはアホらしく集団で床を鳴らして跳びはねていたのを最後に見たのは1991年ではなかったろうか。
舗道から眺めていたガキわしは、どうも、治らないよね、このわしらのビョーキ、人種差別は北海文明の本質なのではなかろーか、と子供らしからぬ諦念をもって考えていたのをおもいだす。
あの頃は専ら日本人が対象だったが、この頃なら、中国人が対象だろう。
あの剃りハゲたちくらい頭が悪ければ、どこかで頭の線がショートして、いつのまにか中国は日本に戦争を仕掛けて勝利したことになっていそうな気がする。
まだ日本が国として存在すると、わかっていないのではないか?

大統領選挙期間中、Steve Bannonがトランプ陣営で軍師を勤めているようだというニュースは英語人の眉をくもらせた。
バノン?
あのバノンかい?
飲んだくれの白人至上主義者。
他人種を絶滅させるというようなことになると、ますます働きがよくなる鋭敏な頭脳の人種差別主義者。
いや、人種差別主義者という言葉は正確ではなくて、もっと正鵠を期せば人種絶滅主義者だろう。
アフリカ系人などは根こそぎにしてしまえばよいし、アジア人は平べったい顔を見ただけで虫酸が走る、という絶対白人優越主義の伝道師バノン。

トランプがただの「おやじパリス・ヒルトン」から、もう一歩さらに危険な人物へ変貌したのではないか、という考えがみなの頭をよぎって、嫌な気持ちがした。
しかし、まさか、いくらトランプがバカでもバノンは極右への影響力を利用するために陣営に導き入れただけだろう。

「そこまでのことは起きるわけありませんよ。現実の世の中は案外と無事平穏にすすむものなんですよ。あなたはオーバーだなあ、わっはっは」なのは、程度は異なっても日本人だけではない。
西洋の人間もおなじで、最大の根拠は、いろいろあったのは事実だけど、世の中はまだ続いているじゃない、
心配しないでのんびり行こうぜ、ということであると思われる。
いままで大丈夫だったのだから、これからも大丈夫ですよ。
それに戦争みたいなものも二度の大戦から人類はたくさん学んだからね。

Steve Bannonが入閣した、というニュースは、おおげさでなくて、鈍器で頭を殴られるくらいの衝撃だった。
なあああーんとなく、それでも「海の向こう」のことであったアメリカのバカタレぶりが、他人事ではなくなって、自分の仕事の分野でも対処しなければいけなくなったのは、まさにSteve Bannonが入閣したせいだった。
背景のおおきな絵柄の政治的な事柄が市場に直截影響を与えるのは、80年ぶりというか、わしキャリアでは初めてです。

Bannon入閣のニュースでボーゼンとしているうちに、バノンはあっといまにNSC (National Security Council)、日本語でなんと呼ぶのかいま調べてみるとアメリカ国家安全保障会議を牛耳る地位についてしまった。
もう意図を隠さなくなった、というべきで、バノンの「世界を地獄の業火のなかにたたきこんで、その混乱のなかから白人種が世界の支配者として復活する」というヒットラー的な人種闘争の年来の信奉者であることを考えれば、自由に戦争という外交手段を操れるポジションにつくことは、ずっと前からの戦略だったのでしょう。

考えてみると、権力の働きという角度から考えると、要するにミャンマーでクー(クーデター)が起こって軍事政権が誕生したのと同じ事で、好戦性において、民間人と軍人の立場が逆転しているだけで、シビリアンコントロールが徹底した制度を逆手にとったバノンらしい妙手と言えなくもない。

むかし不穏な時期のオーストラリアのアウトバックに行こうと思って、近所のオーストラリア人に治安を聞いたら話の最後に「ぼっちゃんは白人だから大丈夫ですよ」と言うので、ぶっくらこいてしまったことがあった。
え?おっちゃん、いまもう90年代だよ?
もうすぐ21世紀なんだよ?
それで、白人じゃないと無事じゃないかもしれないの?
うっそおー、と思ったが、
今度、折りを見てモニとふたりでアメリカの中西部の田舎を旅行してまわって、いろいろな人と話してみようと思っているが、
90年代などはかわいいもので、いっそ30年代まで逆行したような雰囲気であるらしい。

21世紀になっているのにジョージ・タケイたちが、また日系人狩りが始まるのではないかと心配しているのは滑稽だと書いている人を見かけたが、アメリカ人が排外主義に走ったときの暴力性と徹底ぶりを肌で学習した世代にとっては、この白人至上主義が、日系人にまで及ばなければ、そちらのほうが不思議だと感じている。
もしかすると日本人が無事でいられるのはハワイとオレゴンとカリフォルニアくらいだけになってしまうのかもしれない、と不安な未来像を組み立てている。

Bannonのやり方や考え方をよく知っていれば、ムスリムバンは、別に徹底しなくてもよい、まして、テロ対策だなどとは発案者の当の本人が露ほども信じていないのは、誰にでもわかる。
彼が踏み出したのは、白人支配復活への戦略の第一ステップで、まず国内で騒擾を起こして混乱を起こすこと、だいたいみっつくらいの種類の騒擾を起こして、国内が昏迷していけば、その次は国外での騒擾で、国家主義的な「愛国心」を大規模に育てることを目論むだろう。

ターゲットは無論中国だが、バノンは、それこそ「ナチの手口」を、意味も判らずに使った日本の政治家とは異なって、長年研究を重ねてきているので、手強い敵は我慢しうるかぎり後において、取りあえず、油断している日本をターゲットにするつもりかもしれない。
ツイッタで、こりもせずに日本語で英語世界で行われている観測を述べたら、
「不安を煽るな」から始まって「ジャパンハンドラーが去ったので大丈夫です」
「世界2位と3位のGDPの国を破滅に追い込むなんて考えられない」
という人が案の定やってきて、すぐさま中止して、
「おかあさんは、死なないんだよね?」と母親の膝にすがりつく幼児を思わせるような日本のひとの、いつもの、「なにも悪いことは起こらない。絶対、絶対、起こらない」の反応を楽しむだけにしたが、現実から顔をそむけて、自分が心のなかに描いた暢気な書き割りだけを見つめて暮らせば、結局はどうなるかは1945年に日本を襲った徹底的な破滅の教訓が教えている。

トランプは、日本が安全保障上、完全にアメリカに依存していて、しかも政権はマヌケなことにアメリカが日本の利益を守るために行動すると盲信している好戦性の強い政権であることを見逃すはずがない。
トランプが、というよりもバノンが、ということになるが。
バノンという人は悪意と他人種への憎悪の炎のなかに立っているような人で、善意志などは鼻で笑う人だが、厄介なことに戦略的な勘と機敏な行動力には恵まれている人であって、NSCのまんなかに座らせてみると、破壊神が降臨したような、このくらい世界を破滅に追い込むことに向いたひとはいない。

イスラム人を入国禁止にして、なぜアメリカを分裂させるようなへぼな政策を初めに打ち出すのか、とヒョーロンカ的な気楽さで述べている人達がいるが、
スティーブ・バノンは分裂と混乱をこそ望んでいるのだ、ということを知らないのではないだろうか、と考える。
ヒラリー・クリントンが代表するようなエスタブリッシュメントによる安定は、バノンにとっては最も苛立たしい停滞であり、粘着して、アメリカ社会にこびりつくような富者の驕りにしかすぎなかった。
彼は破壊者であって、建設には興味をもっていない。
ワイフビーターでアルコール中毒なのは、よく知られているが、妻を殴ったりウイスキーを毎夜ひと瓶開けて怒鳴り散らすよりも有効な自己の解放を発見したバノンは、日毎、活き活きとした表情を見せるようになっている。

そして、念願どおり破壊の王の玉座に座った彼の手には、世界をなんども焼き尽くすだけの核兵器が握られているのです。

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サバイバル講座2

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ふもとまで、足下に見渡す限りタシックが広がっていたのでヴィクトリアパークだったのではないだろうか。
冬で、12歳だったぼくは、遠くに暗い灰色に鈍く光っている海を見ながら、
ぼくはひとりで歩いていかなくてはいけないのだ、と頭がおかしくなってしまったひとのように思い詰めていた。
いつでも暖かい家庭と、振り返っていま考えると現実であるにしてはラッキーすぎるような代々積み重なったおおきな冨と、だいなかよしの動物たちに囲まれて、そんなことを考えるのは風変わりで愚かな子供だった証拠だが、その頃は、もしかすると「幸福」というイメージがまだ好きになれなかったのかもしれません。

子供の頃、スコット探検隊やシャックルトンの南極での冒険の物語を大好きだったぼくは、「厳しさ」や、取り分け極北という言葉があらわしているような魂の酷寒のなかに自分をおくことに、子供らしい気持ちで憧れをもっていたのでもあるのでしょう。

きみがワーキングホリデービザを頼りにしてクライストチャーチの空港に友達と3人で降り立ったとすると、きみはもう半分ゲームに負けている。
語学校で気の合う日本人仲間達と毎週のランチを韓国レストランで楽しみだしたとすれば、今回の自分を救う試みは8割方ダメだったということだとおもいます。

ガメは、へんなことを言うなあ、と思うかも知れないが、特に留学や移住に限ったことではなくて、気持ちの上で、ひとりでいない人間は、安全から遠く離れたところに立っている。

日本語世界では特に、例えば大きな地震があって、ひとびとが避難するときに、たくさんの人がめざす人の流れに身を任せて、逃げていく人もいるかもしれないけど、それはとても危険なことで、せめて、周りの人間に「なぜこの人達はこの方向に向かっているのか」を聞かなければいけない。

少なくとも、自分の頭のなかで懸命に考えて、津波ならば少しでも高いところを目指して必死に走り、空襲ならば地下の深い所にあるチューブ構造の地下鉄をめざして逃げるというふうに、自分の理性が単独で納得できるところに逃げるのでなければ安全とは到底いえないとおもう。
人間の一生のサバイバルも、とても似ている。

人間はひとりでいて自分の頭で考えるのでなければ安全ではない。
他人の判断に従うのは楽ちんだけど、それはとても自分の一生にとっては危険なことだ、というのは、あんまり観察にすぐれていなくても、親のいうことをたいした考えもなしに聞いてしまって、医師になって、大学教師になって、50歳に近付いたインチキな自分を発見して茫然としている人の数の多さを考えてみれば、すぐに判る。

医師なり公務員なりの「安定した職業」につくよりも、自分の内側に住んでいる、例のきみの最大の親友である自分自身の、よくは聴き取れない声に耳をすまして、自分自身という最大の友達が喜んでくれそうな方角に歩いて行くのが最も「安全」なのは、図書館に足を向けて自伝というような本を開いてみれば、そこここに記されている。

なんども挙げた例をここでもあげれば、コリンウイルソンという作家が作家になったのは、それが「自分にとっては最も確実に生き延びる道だったからに過ぎない」と、この人は折りに触れて述べている。

前にコリンウイルソンについて書いたときに、好奇心を起こして日本語ウィキペディアを読んだら、「経済的事情から16歳でやむなく学校を去り」と書いてあって、びっくりしてしまったが、この「アウトサイダー」と「殺人百科」の著者が、自分にとっては学校は危険な場所で、なるべく早く、皿洗いでもなんでもしながら著作家になるのでなければ、社会という石臼に挽き殺されてしまうだろうと考えたのは11歳のときで、例えば同じウィキペディアでも英語のほうには

By the age of 14 he had compiled a multi-volume work of essays covering many aspects of science entitled A Manual of General Science.

と書かれている。

人間にとっては、自分でない自分の方角へ歩き出してしまうのが最も危険なことで、たいていの場合、小さいときから、折りにふれて「自分は医者になりたかったがダメだった」と残念そうにつぶやく父親や、この子が大学の先生になったら、どんなに素晴らしいでしょう、と夫に言って楽しげにしている母親こそが、きみ自身の最大の敵であるという事態は、おもいのほか、ありふれた事態で、一生で初めて出会う自分の一生を根底から台無しにする罠は、意識的無意識的に両親が仕掛けたものであることは、どうだろう、ほんとうは圧倒的に多数なのではないだろうか。

自分が何になりたいかを考えるのは、普通の人間には、まず無理で、自分の心のなかにある磁針が自分のやりたいことのほうを向くように自分の心を開いてリラックスした状態にして、少しでも夢中になれることのほうに自分の足を向けていくのがよさそうです。

ひとりで空港に立って、ほとんど言葉も判らないまま空港から町へ向かうシャトルを探して歩くきみは、なんだか泣きそうな顔をしている。
義理叔父は、80年代の初め頃には、安売りの「訪問チケット」には、よくそういうことがあった、いいかげんなチケット屋にだまされて買わされたシアトルでの入国審査と乗り換えの時間が15分しかないチケットで乗り換え便が出てしまって、見かねた見ず知らずの香港人がデスクを叩いて交渉して手に入れてくれた代替便のシアトルからデンバー、デンバーからシカゴ、シカゴからニューヨークと飛行機を乗り継いでニューヨークに着いてみたら、夜中の1時になっていた。
しかももともとはラガーディアにつくはずが、ニューアークに着いて、ニューアーク・リバティはニューヨーク州ですらないニュージャージー州の空港なので、途方にくれて、現金もないのに、とにかくそれしか方法がなかったのでタクシー乗り場にオカネも持たずに並んでいたら、自分が立っている、すぐそばの駐車場で、銃声がして、翌朝わかったことは、ひとりの女の人が撃たれて死んだ現場に立っていた。

おれは呪われているんじゃないかとおもったよ、というので笑ってしまった。
やっぱり西洋とは相性が悪いんじゃないかと考えた。

面白かったことがひとつあってね、パンパンパーン、と拳銃の音がしたら、立っているのは俺だけで、周りのアメリカ人たちは見事に地面に伏していて、半分くらいのひとは教本どおり銃声に足を向けて自分の身体を倒している。
おれ、多分、この国で生きていくのは無理だな、としみじみ考えた。

やけくそで、一文なしのままスラムの一角にあるSさんのアパートがあるビルに夜更けに着いたら
全然安全じゃない通りにSさんが立っていて、渋谷のハチ公の前で待ちあわせていた気楽なひとのように、やあ、と言って手を挙げるの、おれはもう涙がでて、その場で泣き崩れそうだったよ。

そういうのって、赤ゲットっていうんじゃないの?
うるさい。ガメ、それに、それ死語だぞ。
と話しながら考えていたのは、なるほど日本語人が英語世界へ初めてやってきて、新しい生活を始めるというのは冒険なんだな、という発見でした。

そんなの当たり前じゃない、という人がいそうだが、そうでもなくて、
いま考えてみると、なにくわぬ顔をして両親が計画的教育をしていただけだが、
あっというまに着いてしまうパリやミラノ、親の夏の家があるコモ湖やジュネーブはもちろん、お伴をしなさいと命ぜられては、その頃はもちろんヒルトングループの手におちて、どうにもならないほど落ちぶれてしまう前の、かーちゃんのマンハッタン短期滞在の定宿だったウォルドフアストリアの、いつもおなじタワーのスイートで、しかも子供の頃のぼくから見ると、アメリカ人の、なんだかヘンテコリンな発音だったが、英語は一応英語で、なんでコットンバッドが「Qチップ」なんだ?と無限に疑問が生じる会話だったが、それでも自分が見知った英語人とはまるで種類が違う英語人たちが右往左往していて、むかしは肩章のある白い制服だったいかにもブルックリン子のボーイさんたちと、話して、笑い転げたりしていた。

実感として、どこかへ、えいやっと跳ぶわけではなくて、生活範囲がおおきくなるにつれてじわじわと広がってゆく感じで、特に英語を話す町でなくても、その感じのおおもとは変わらなくて、まるで空飛ぶ咸臨丸でアメリカを訪問したような義理叔父の感想とは、まるで異なる。

きみが友達とつれだって他の国を訪問してみようとおもうのは判らなくはないけど、グループで、と決めた瞬間、きみのせっかくの旅の決心は、もうそこで半分死んでしまっている。

留学や旅行を例にとって話したけれども、もちろん国内で一生を送るのでもおなじことで、自分が他人とグループをなしているときには、耳をそばだてて自分自身の心に聞いてみると、たいてい警鐘を鳴らしている。
ひとりでいなくていいの?
ひとりで世界と向き合うのでなければ、世界の一部ごとちぎれて、世界のまあるいシャボン玉のなかで、お友達が吐く楽ちんな意見の息を一緒になって呼吸しているだけじゃない、と足を踏みならすようにして、きみに伝えようとしている。それに、

ひとりでないと仲間がつくれないでしょう?
友達でいえば、友達は、まったく異なる独立した魂の持ち主が出会って、岩田宏が美しい詩のなかで述べているように、きみと会うのは初めてだけど、きみと会えなかったらいったいどうしようかと そればかり考えていたよ、とお互いを抱きしめたくなるほど、急速な化学反応のように、この人は、どっかへ行っちゃっていたわたしなんだ、と感じるから友達なので、友達というものはもちろん友達を作りたいとおもって積極的に作ったりできるものであるわけがない。

まして「大好きな人」は、会ったその日から、ふたりで同時に発狂してしまった人のようになって、明日は試験だというのに夜の6時から朝の4時まで、4時やまもとになって声が枯れるほど夢中になって話しあって、世界など眼中になくなって、
あんないけないことや、こんなひとに言えないことまで許しあって、気が付くと、離ればなれに暮らすなんて考えられなくなっている。

でも一緒に発狂して空が二倍の大きさになって、世界が突然素晴らしい色彩に輝き始めるのは、きみと「大好きな人」が、まるで異なる人間同士だからで、ひとりとひとりで完結している人間同士でなければ、融合は起きるはずがない。

なんだか今日は教会の十字架の前で、よだれかけみたいな白い服を着て、神様が書き損なって失敗した黒表紙の脚本を手に持ったおっちゃんのスタンダップコメディみたいになってしまったけど、
この世界を生き延びたければ、きみはどうしてもひとりでいなくてはならないんだとおもう。

仲間なんていらないでしょう?
友達は、例えば大学の食堂で、昼食を食べているんだか言葉の剣を抜いて決闘しているんだかわかんないような毎日を送っていたぼくですら、友達なんかいらん、とおもっていても、ひとりまたひとりと増えて、いつのまにか、久しぶりに顔をあわせると、相手の、なつかしくて涙をじっとこらえる顔をおもしろがるほど、向こうもきっとおなじことを観察してアホみてえと思っているだろうけど、離れがたくなって、もうこいつの考えることなんて、どうせこいつの考えることなんだから、正しくたって正しくなくたって、どうでもいいや、いまのアンポンタンのままでいいから、ずっと長く生きてくれ、と思うようになる。

繰り返していうと、友達はきみがきみで居続けた結果として「出来てしまう」もので、お友達になりたい、というのはだから論理にも情緒にも反していて、ほんとうの言明ではありえない。

サバイバル講座、を書き出した後悔は、ぼくは、あんまりこういうことを話すのが得意じゃないんだよ。
なんだか話しているうちに、すっかり飽きてしまった。
だから約束はできないけど、もし書く気が残っていれば、今度は学問や職業の選択のやりかたについて話しに戻ってきます。
ツイッタやなんかで付き合いがある人は知っているわけだけど、ぼくは具体的な話以外には、たいした価値を認めない。
誰かが言っていることは上の空でしか聞いていなくて、やっていることしか見ていない。

「このひとは人間は問題だが良いことは言っている」というようなことを述べているひとを見かけると、述べている本人が言葉が人格と切り離せるものだと妄想しているのがわかって、それは取りも直さず本人が人間というよりは人間のパチモンみたいなヘンな生き物なのを告白していて、興ざめというか、バカバカしくて何事かを述べる気が削がれてしまう。

自分に課した育児期間が終わったいまは、何をするにも時間が惜しくて仕方がない。
他人に「こうするのがいいんちゃう?」と述べる時間はムダな時間のなかでも気が遠くなるようなムダで、向いてもいないし、多分、おなじ話題に戻ってくることはないだろうけど、万が一もどってきて書こうと思うようなことは、過去の記事に繰り返し書いてあります。
いま思い出すだけでも、政治的な人間になるな、徒党を組むな、防御的な姿勢をとるな、YESかNOか迷ったらNOと言え、邪な人間に憎まれない人間は要するに本人が邪悪なのさ… と、まあ、チョーうるさいことで、親切な人間の傍迷惑さというものを思い起こさせる。

到着した空港で、呆気にとられた顔の友達たちを尻目に、「じゃあ、ぼくはここからひとりでホストの家に向かうから、日本に帰る前の週くらいになったら、また会おうね」と述べて、すたすたと歩きさってゆくきみは、まるでぼくの若い妹か弟のようです。

がんばらなくていいから、自分自身を欺かないで、なんとか自分自身に親切にして生きていこうと固く決心したきみが、パブで働いて、ある日ふと店のなかを見渡してみると、椅子席はガラ空きに空いているのに、立ちテーブルを選んで、奇妙に背が高い、にやけた顔のにーちゃんが半パイントのラガーを持って立っていて、その傍には、なんだか現実でないような、目が覚めるように美しい女の人が微笑んでいる。
きみは、きっとにやけたにーちゃんの背中の赤いゴジラを見て、クスクス笑いだすに違いない。

ゴジラTシャツって、聞いたときのイメージとはちがって、なんだか、炎を吐いてすごんでいるわりに可愛いゴジラだったんだな。
どんな人だろうと、ときどき考えた、あの人は、やっぱりヘンな人だったんだ、と納得する。

ほら、会えたでしょう?
きみの友達に。

ぼくだって、ずっと待っていたんだよ。

でわ

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日本のこと_1

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なぜ、あなたがそこに立っているのだろう、とおもうことがある。
人間が出会うことほど不思議なことはなくて、あなたと会って、結婚という社会制度に名を借りて、ふたりだけで暮らそうと決めたことの不思議をどんなふうに説明すればいいのか判らない。

いい考えだとおもう、という、あなたの答えを信じたふりをしたが、ほんとうはあなたが別段日本に限らず、アジア全体に(偏見というのではなくて)まったく興味を持っていないのを知っていた。
わがままなぼくは、信じたふりをして、まだもうちょっと付き合ってみたいと思っていた日本語が成り立たせる社会を、あなたと一緒に訪問したのでした。

東京も鎌倉も気に入らなかったけれど、あなたは軽井沢は気に入ったようだった。
「長野県の人は冗談が判らなくて、真に受けて、ニュージーランドの人たちみたいだ」と述べたら、あなたは、なんだかムキになって、軽井沢の人は善い人ばかりではないか、と怒っていたが、ほんとうは、それを聞いて、とても安堵していた。
自分の都合で、あなたの一生のうちの何分の一かを浪費したくはなかったから。

1回目の滞在の終わりだったか、あのミキモト真珠店の、白髪の老店員が、あなたが身に付けていたネックレスを指して「お嬢さんのような立派な家のかたにお売りできるような真珠を、お恥ずかしいことですが、もう私どもは持っていないのです。
海水の温度があがって、いまの真珠は、あなたがたのようなひとびとが身に付ける真珠に較べれば、二流以下のものしかないのですよ。
どうか、お嬢さんがお持ちの真珠を大切になさってください」と述べて、びっくりして、あなたは日本文化を少しずつ好きになっていった。

一瞥するだけで、社会でも個人でも、すっと本質を見抜いてしまうあなたは日本の社会が天然全体主義とでも呼ぶべきもので、そのせいで個人は深く深く病んでいて、個人から全体を見ずに全体から個人を見る、奇妙な視点を持っていることに辟易して、まったく興味をもたなくて、日本の社会で暮らしているはずなのに、すべて欧州かアメリカに住んでいるかのようにふるまって、友達も皆欧州人で、もちろん日本の人と接触すれば、途方もなく親切だったけれども、社会は嫌いで、それなのに日本という不思議な(日本の人が聞けば地団駄を踏んで怒るだろうが)途方もなく遅れた社会に興味を持つようになっていった。

軽井沢の家が、森の奥にある趣であるのも良かった。
あなたは、都会っ子で、フランス系のアメリカ人として、あのマンハッタンの、なんだかバカバカしいほどおおきなアパートメントで過ごしてきて、実家は、あの通りの日本語で言えば荘園だが、田舎で過ごしたことはなくて、そのせいで、軽井沢の家がとても気に入ったようでした。

オカネをかけて念入りに舗装された県道?の脇にクルマを駐めて、ガメ、ここでピクニックにしよう、景色が素敵、と言い出したときには、ぶっくらこいてしまった。
あなたは舗装道のまんなかに敷物を敷いて、のんびり、ランチボクスを拡げて、コーヒーを飲み出して、恬淡としている。
「クルマが来たら、どうするの?」と聞くと、
ガメは、観察力がないなあ、この道路に最後にクルマが通ったのは、さあ、一年以上前だと思う、と述べて、澄ましている。

ずっと後になって、道路が続いていく先の、何のために架けたのかよくは判らない橋が閉鎖になっていて、クルマが来る心配をしなくてもいいのが納得されたけど、
そのときは、大胆さで、モニだなあ、とマヌケな感想を持っただけだった。

きみは笑うだろうけど、ぼくは、自分がきみだったらなあ、とよく思うんだよ。
こういう感情も嫉妬と呼んでもいいかも知れません。

いつか夜のミッションベイに行ったら、バーでふたりでワインを1本飲み終わったところで、ガメ、波打ち際に行こうぜ、と述べて、途中で靴を脱ぎすてて、波打ち際に素足をひたして立った。

聴こえる?
といって、微笑う。

ほら、音楽みたいでしょう?

ニュージーランドのハウラキガルフは、潜ってみると、70年代の日本漁船の乱獲に怒ったマオリ人たちが日本漁船に立ち入らせないようにしてから、帆立貝たちにとっては天国で、カーペットのように帆立貝が生息していて、死ぬと、
亡骸の貝殻は割れて、波に運ばれて、浜辺に運ばれてくる。
その小さな小さな帆立貝の破片が、波でお互いにぶつかりあって、
なんだか超自然的な旋律を奏でる。

そのことを、なぜか、先験的と言いたくなるようなやりかたで知っていて、
現実にはどんなチューンなのかを知りたくてやってみたのだと、後で、きみはこともなげに言うのだけど。

その精細な目で、興味を持ち始めた日本を見て、カメラを持って、日本を撮りはじめた。
その最後の日を書いたブログを、いまでも懐かしく読む。

Hurdy Gurdy man
https://gamayauber1001.wordpress.com/2010/11/20/hurdy-gurdy-man/

きみやぼくにとって、日本て、いったい何だったんだろう。
西洋の「日本」は明らかに基礎を小泉八雲に拠っていて、人柄もよくて、親切で、日本に対して巨大な理解をもった、この弱視のアイルランド人に出会ったことは、日本の人にとっては、文字通り世界史的にラッキーなことだった。
そのことは大学で後任の夏目漱石に対しておおげさに言えば叛乱を起こした学生たちの失望の言葉を読めば判ります。

内部では北村透谷という偉大な詩人、といっても詩の形では滑稽な詩しか書けなくて、散文を書くと詩になってしまうという不思議な詩人だったが、が島村藤村という意識的に内なる詩人を殺して、散文家として徹底した詩人の魂を通じて、日本という(嫌な言葉だけど)情念を育てていった。

日本語は輝いていって、大江健三郎が生涯目標にして、手が届かなかった岩田宏や、その岩田宏を好きだと大江健三郎が述べたのを聞いて、おまえは若いのにどうしてそう詩が判らないのかと殴り合いの喧嘩になった田村隆一の頃に頂点を極めていた。
もちろん同じ時代に、西脇順三郎という人が、むかしのヴァイニルでいえばB面の佳曲をつくるように、不思議に美しい日本語を奏でていった。

その燠火が消える頃に、モニ、きみとぼくは日本にやってきて、ふたりで、
なんだか欧州人からみれば「ここではないどこか」に見えなくもない、不思議な社会を眺めていたのだった。

ぼくの日本語を読む人は、よく福島第一事故と、そのあとの政府の出鱈目に呆れて日本を去ったのだと誤解する人がいるが、現実はそうではなくて、2010年に、ぼくは日本語社会に「飽きて」、それまでは居心地がよいようにと願って買ってもっていた、鎌倉、広尾、軽井沢の家を売り払って立ち去ることにしたのだった。

ぼくの悪い癖で、興味がなくなって、そうなると戻って仕度をする気もしないので、人任せで、オークランドに着いた引越の荷物を見たら、ゴミが入ったままのゴミ箱まで、そのまま綺麗に梱包されていて、なにがなし、日本の人の丁寧さを思い出して、なつかしい気持ちに浸ったりしていた。

そうして、「日本」はどんどん遠くなっていった。
ぼくは、ほんとうのことを認めてしまえば、中途半端なことが嫌いで、中途半端が嫌いだという人間がおしなべて嫌いなので、ややこしいことだが、
言語なら母語人よりも上手でないと嫌なのだと思う。
気が狂った人のように日本語ばかり読んでいた時期があって、気が付いてみると筑摩書房の近代日本文学全集や岩波の古典文学大系をはじめとして、主立った日本文学全集をあらかた読んでしまっていた。

学校で教わったフランス語や、映画やテレビ番組が中心だったイタリア語やスペイン語に較べて効率が悪かったが、ぼくは良かったと思っている。
日本語は、実は、沈黙のために生まれた言語ではなかったか。

去年、欧州の帰り道に寄った二日間を除いて、もう、まるまる6年間も日本に戻っていないんだなあーと思う。
ぼくにはぼくと日本語を話す周りの人や友達を持たないので、もう6年間、ほとんど日本語を使ってないことにも驚いてしまう。

日本語ネットで、入れ替わり立ち替わり現れる日本人の大半は、意地悪で、悪意と憎悪をたぎらせていて、ありとあらゆる手をつくして相手を傷つけようとする人ばかりで酷いが、日本にいたときの現実世界の日本人を憶えているので、特にそれで日本人自体を嫌いになるということもないみたい。

きみとぼくが日本に数ヶ月でも住むことは、もうないだろうけど、ほら、おぼえてる?
湿気がすごい軽井沢の真夏に、家の庭の森にテーブルを出して、ふたりでシャンパンを飲んでいたら、突然、豪雨が降り出して、気持ちがよくて、ずぶ濡れになりながら、ふたりで躍り上がって喜んだ。
あるいは、ニュージーランドに行く前の日に、忘れ物を取りに軽井沢の家に行ったら、出立する朝には森全体が凍って、この世のものとは思えないくらい美しかった。

日本は最近の歴史が醜い仮面と悪趣味な服を着せてしまったが、もともと美しい国なのだ、とぼくは思っている。

日本の人の心も、同じなのかも知れません。

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嫌い

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英語を話す国に生まれて育った子供なら誰でも知っている歌がある。

Nobody likes me, everybody hates me,
Guess I’ll go eat worms.
Long, thin, slimy ones; Short, fat, juicy ones,
Itsy, bitsy, fuzzy wuzzy worms.
Down goes the first one, down goes the second one,
Oh how they wiggle and squirm.
Up comes the first one, up comes the second one,
Oh how they wiggle and squirm.
I’ll cut their heads off
suck their guts out
and throw their skins away
Surprising how us girls can eat
worms three times a day
That’s how we get our wiggles.

夏のキャンプファイアや、学校のバスのなかで、よく歌われる歌です。

ぼくを好きな人間なんていないんだ
みんなが、ぼくをすごく嫌ってるんだよ。

で、始まるこの歌は、最後まで日本語でいうヤケクソの極みで、いじめられっ子でひとりぼっちの子供の気持ちが、冗談めかして、うまく表現されている。
もっとも、しんみり歌う歌のわけは、もちろんなくて、みんなで笑いながら合唱する歌であることは、言うまでもない。

ぼくが日本語を勉強して暫くたったとき、親日、反日、という言葉がアンダーグラウンドのネット世界だけでなくて、普通のおとなが、日常の会話に使っているのを見て面白いと考えた。
最後に日本にいた頃、2010年には、書店の店頭に、表紙に親日反日という文字が躍る本がたくさん平積みされていたりした。

あるいは日本の戦争中の桁外れの蛮行について誰かが書くと、必ず、確かに日本兵がやったことは酷かったかもしれないが、アメリカやイギリスだってやってきたことじゃないか、と言う人がひとりやふたりではなく現れて、話をうやむやにして、議論が始まる前に消滅していくのに気が付いた。

では自分では、自分が生まれて育った国をどう思っているのだろう?
と考えてみたが、わざわざ意識しないと、いったい自分が自分の国を気に入っているのか、あんまり好感を持てないでいるのか、あらためて考えてみないと判らないくらいで、ふだんは意識されないことだが、いろいろなことを考えあわせてみると、イギリス人にとっては、自分の国を好きな外国人に遭遇したときのほうが違和感があるというか、へ?、なのだと感じる。
きっと世界中に出かけて冨を収奪してきた、という、勉強好きな国民性の日本の人なら、きっと口にしそうな歴史的背景のせいかもしれないが、ふつうのイギリス人には、そういう意識はなくて、「だいたい、どこの国の人もイギリス人が嫌いなんじゃないかなあー。理由は判らないけど、態度がでかいからじゃない?」くらいのことでありそうです。

サッカーというスポーツは、猛虎会のお下品バージョンというか、危ないおっちゃんのファンがたくさんいるスポーツで、また、そのアナーキーな雰囲気を好きでサッカースタジアムに座っている人が多い。
社会の下層の、やけのやんぱちみたいな人の祝祭として機能している。
英語ではサッカーの歴史の本が、日本語で言えば、全部ひらがなで書かれているような本から、衒学的で、あんた漢文でこれ書いたの?と言いたくなるような学術書もどきまで無数にあるが、暇つぶしに、ビールをちびちびなめながら読んでいると、スコットランドが勝ったのに激昂したイングランド人サポーターたちが、グラウンドになだれこんで、スコットランドのゴールキーパーを、ぶち殺して、首をちょん切って、その首を蹴ってサッカーをやって遊んだりしている。

もともと、そういうスポーツで、そういうファンなのね。

東京でサッカーのワールドカップが行われることになって、
日本にとっては前代未聞というか、本国でも札付きの柄の悪いイギリス人が大挙してやってきた。

ゴジラがやってきたようなもので、ははは、服部時計店とかなくなるんちゃうかしら、と思ってみていた。
メーサー砲が出動しなければならなくなるのではないか。

ところが、いつもはチン〇ンまるだしで夜更けの町を走りまわったり、酔い覚ましの運動の代わりにパブの椅子をバッキバキに折ったりするのが習慣のおっちゃんたちが、おとなしくて、イギリス人の暴走ぶりに眉を顰めて、「話には聞いていたが、やっぱりイギリス人て乱暴なだけのバカなんですね」と語る日本人の談話を伝えようと手ぐすねひいていた特派員たちをしらけさせた。
そのかわりに見出しとしてでかでかとテレグラフ紙の、スポーツページのトップを飾ったのは
「もしかして、わしら好かれてるの?」
という傷ましくもマヌケなフーリガンの言葉でした。

ひょっとして日本人はイギリス人が好きなのではないか。
イギリスを好きな国が存在するなんて、そんなバカなことが現実にあるのかしら。

あまりのことにショックを受けたフーリガンたちは、暴れもせで、色も隠して、なんだか幽霊をみてしまった猫のおとなしさで、ぼーぜんとしたまま故国に帰っていったもののよーでした。

そういう例を思い出しても、やはり平均的なイギリス人の自国評判への印象は、「よく知らんけど、外国人はわしらのこと嫌いなんじゃない? そういうものなんちゃうの?」であると思います。

で、本題に入るまでに前置きが長かったので、前置きだけで、ごまかしてやめちゃおうかと思ったんだけど、今日は大晦日で、2016年という始まりから終わりまで、みっちりサイテーな出来事がおせち料理の重箱のように詰まった、世にもくだらない年の最後の日なので本題を書くと、
「嫌われることを恐れてはいけない」ということを書こうと思っていました。

James F. 、自称大庭亀夫の、日本の四海に数多跋扈する、おっさんトロルたちのあいだでは、日本語が上手すぎるのでニセガイジンなのではないかという根強い噂があるらしいヘンな人が、

と述べている。
このもともと能力が著しく筋肉の機能に偏ったにーちゃんが自分の頭で考えて、まともなことを言うわけはないので、いずれ、なんとはなしに英語人の世界では、あったりまえのことを、日本語の表現を思いついたので書いてみたら、なんだかやたらたくさんの人が、あろうことかなかろうことか、意外なことを言うね、と反応して、いっぱいリトゥイートされて、ごくごく平凡な英語人にとっての生活の基本的態度を書いてみたら、なんだかうけてしまった。
なんでだ?
程度のことだと想像される。

だから逆の立場からは、留学生も、オフィスの同僚も、あるいはビジネスの相手も、果ては遙々やってきた首相ですら「日本人はYesしか言わない」ので知られていて、けしからん人々に至っては、日本の女の子のそばにすりよって、「イッパツやらせてくれない」と聞いてみて、「No。向こうへ行け、シッシ」と言われて、逆上して、「日本人だからYesに決まってんだろ。このスベタめが、こうしてくれるわ」と待ち伏せしていたパブの隣の空き地で絞め殺してしまった(←じつは実話)りしている。

日本人はYesなひとびとで、不思議がられている。

日本文化のなかで育った人が極端に人に好かれようとする傾向があるのは、同根で、嫌われることを異常なくらい避けると、ぼくには思える。
めんどくさいことに、またぞろ「えええー。人に好かれたいのは、どこの国民だっておなじなんじゃないですかあ?」の人がやってくるに決まっているが、これは別のブログ記事が書く予定なので、ここではシカトする。

こういうことがあった。
ぼくの家を買いたいという人がやってきたんだよ。
初めはデベロッパーと不動産会社の人がふたり連れでやってきた。
市場の価格の二倍で結構ですから。

中国って行ったことないんですけど、やっぱり小籠包とかおいしいんですか?
へえええ。14歳で、初めての家を買ったんですか?
中国の人のあいだでは普通のことなのだろうか。
それからドミニオンストリートの酸辣湯がおいしい店や、むちゃくちゃ辛い担々麺の店を話をして40分くらいも笑い声に満ちた楽しい世間話をした。
開発というものを嫌う人もいるけど、ぼくは基本的には町にとって良いことだと思います。
プタカワの木が、どんどん切り倒されてしまうのは嫌だけど、バブル経済の開発のせいで町並がどんどんよくなってゆくのも事実であるとおもう。

さて、では我々はこの辺でおいとまします。
売っていただけるということでいいですね。

NOと言ったので、デベロッパーのおっちゃんの顔が凍り付いたようになった。
ヘビー級ボクサーJames F.のボディブローをもろに受けて、息ができなくなって踏鞴を踏む人の表情になった。

隣に腰掛けていた不動産会社役員のおばちゃんは、なんだか憤然として、こっちを睨んでいます。

デベロッパーおっちゃんのほうは、金髪碧眼そのままの明眸皓歯の、右耳からのぞくと左耳から反対側の景色が見えそうなバブリー美人なおばちゃんと異なって、少しは知性があるようで、文字通り真っ青になりながら、懸命に感情を踏み止めて、
理由を訊いてから、「なるほど、それなら、私でもノーというかも知れません」と驚いた顔で横顔を見つめるおばちゃんを尻目に答えた。

CCDカメラで見ていると、そのまま、なんだかよろよろしながらドライブウエイを歩いて、帰って行きました。

気の毒に、と英語人も思う。
日本人だけではないのね。

ある日、自分にはもっと違う人生があるはずだと思いつめて、決心して、34歳の女の人が、
「別れようと思う」と告げる。
びっくりして言葉を探す夫。
だって理由がないじゃないか。

理由の見当もつかないあなただから、そして、そういうところがあなたのかわいいところだけれど、別れる決心をしたんじゃないの、と当然奥さんは思うが、イギリス人やニュージーランド人は、あんまりそういうことを言い募ることを好みません。
「もう決めました」とだけ、言う。
夫のほうも、まるきりのバカではないので、鉄の仮面のように冷たい表情の妻の内心には激しく哭く声が反響していることくらいは判っている。

あるいは働き者で常連客の評判もとてもいい若いアルバイトの女の子に、週末の忙しいときに休まれると困るので、考え直してくれないか、と店主が頼んでいる。
女の子は、にっこり笑って「ノオ」と言う。
特に理由を説明もしないし、店主も説明を求めはしません。
意味がないから訊きもしないし、説明もしない。
NoはNoで、本来、Noである理由を他人に説明する必要が、あるはずがない。

ところが日本の社会では、社会の悪い癖で、突然、店主が詰り始める。
いままで、あれほど待遇を考えてやったのに、どうしてそんなことが出来るのかな、おれには判らないよ。
酷い人になると、きみは世の中を甘くみすぎているのではないか、というようなマヌケな説教を始める人までいる。

仲が良いバイト仲間の女の人に、あることもないことも、あることとないことの比がが1:7くらいの悪口を吹き込み始める。
更衣室のドアをパッと開けただけで、自分にたいして敵意がピュンピュンとんでくるのが肌でわかる。

ぼくの観察によると、日本は、宥和を破る人間を殺人犯や幼児強姦魔なみに憎悪する点で世界にも珍しい国なので、めんどくさいが、平たく述べて「嫌われる」ことになるよーです。

でもね。
それは日本の社会の側の問題で、きみの問題ではないのですよ。
日本語の壁がどんなに高くても、インターネットが神経系ネットワークのように世界を覆う21世紀の社会なので、だんだん人間は自由なのだということがユニバレしてきて、隠せなくなって、天然全体主義の日本の社会でも、ひとり、またひとりと個人主義の人間が誕生してゆく。
その嚆矢としての時期に生きているので、自然、軋轢が生じるが、それはあくまで情緒による全体主義的な社会を維持することによって、たいしたマネジメント努力なしに日本語人をこきつかおうという要請に血迷っている社会の側の、しかも古臭くて、ないものねだりの性向が引き起こす問題で、不快ではあるが、きみのほうに問題があるわけではない。

だから、日本の社会で人間として生きようとして、周囲に嫌われることを恐れてはいけないんだと思うのね。

え?
本題、たったそれだけなの?
と、つぶやいたきみ。

ほんとは、そもそも邪なものに嫌われないということはダメなことなのだとか、なんとか、かんとか、書きついで論旨を拡大しようと思っていたのだけど、
シャンパン飲みたいんだよー。
本題に触れただけでもラッキーだったと感謝するよーに。
寛容が大事ですぞ。

明日は、みなが静かでやさしいもの思いにひたる、お正月なんだし。
ふふふ。

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サバイバル講座1

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個人が世界と折り合いをつける、というのは意外と難しい作業で、それが出来てしまうと、一生の問題はあらかた片付いてしまうのだ、と言えないこともない。

漠然としすぎているかい?

例えば医学部を出たが、どうも自分は医者には向いていないのではないか。
医学部に入った初めの年に新入生のためにホスピス訪問があって、そのとき、もう死ぬのだと判っているひとたちが、みな、曇りのない笑顔で暮らしているのを見てしまったんです。
わたしには、どうしても、その笑顔の意味が判らなかった。
医学を勉強しながら、患者さんたちの笑顔をときどき思い出していたのだけど、
あるとき、糸が切れたように、ああ、自分には医者は無理だな、と考えました。

絵描きになりたいのだけど、絵で食べていく、なんていうことが可能だろうか?
「ライ麦畑でつかまえて」の主人公は、お兄さんがハリウッドの原作者として仕事をすることを裏切りだと感じて怒るでしょう?
でも「バナナフィッシュに最適の日」で、そのお兄さんは銃で自殺してしまう。
商業主義、がおおげさならば、オカネを稼いでいくことと、芸術的な高みを追究していくことは両立できるんですか?
ぼくは、オカネを貯めて出かけたマンハッタンのMoMAで、Damien Hirstの例のサメを見たとき、吐き気をこらえるのがたいへんだった。
でも貧乏なまま絵を描いていくことには、なんだか貧しい画家同士のコミューンの狭い部屋で生活していって摩耗していってしまうような、不思議な怖さがあると思うんです。

そういうとき、きみなら、どうするだろう?

ちょっと、ここで足踏みしよう、というのは良い考えであるとおもう。
足踏みして、自分の小さな小さな部屋で、寝転がって本を読んで、どうしてもお腹がすいてきたら近所のコンビニで肉まんを買って、その同じコンビニで最低生活を支えるバイトをして、….でもいいが、足踏みをしているくらいなら、ワーキングホリデービザをとって、オーストラリアのコンビニで、あるいは日本人相手のスーパーマーケットや日本料理屋で最低生活を支えるバイトをしながら、寝転がって本を読む、というほうが気が利いているかもしれない。

むかし、いろいろなひとの貧乏生活の話を読んでいて、結果として貧乏な足踏みが自分と世界の折り合いをつけるためのドアになったひとには共通点があることに気が付いた。

奇妙な、と述べてもよい共通点で、「本を買うオカネは惜しまないことに決めていた」ということです。
食事を抜いても、読みたい本を買った。

ぼくなんかは図書館でいいんじゃないの?と思うんだけど、買わないと本を読む気にならないんです、という人の気持ちも判らなくはない。

あるいは世界は一冊の本である、と述べたひとがいて、そういうことを言いそうな、もう死んだ面々の顔を思い浮かべてみると、多分、ルネ・デカルトではないかと思うが、そうだとすると、困ったことにこれから言おうとしている意味と異なった意味で言ったことになってしまうが、都合がいい解釈で強引に使ってしまうと、自分の知らない世界…この場合は外国…を一冊の本とみなして、ざっとでもいいから、読んでみる、という考えもある。

この頃は日本の人でも、なぜかだいたい20代の女の人が多いように見えるが、一年間有効の世界一周チケットを買って、成田からシドニー、シドニーからオークランド、オークランドからサンフランシスコ、ニューヨーク、ロンドン、というように一年まるまるかけて世界を読んでいく人がいる。

東京で広告代理店に勤めていたわけですけど、と、なんだかサバサバした、というような表情で話している。
日本では、ああいう世界って意外と軍隊ぽいんですよね。

英語国でも、割とマッチョな業界だけど。

ああ、そうなんですか?
要領だけのビジネスでは男の人のほうがケーハクだから、うまく行きやすいんですかね?
と述べて、舌をだして笑っている。

わたしは日本人なので、やっぱり英語がいちばん大変でした。
日本人にとっては英語はたいへんなんですよー。
受験英語って、一生懸命にやると、どんどん英語が出来なくなっていくんです。
おおげさな言葉でいうと分析って、言語の習得にいちばん向いてない態度だと思いませんか?
日本ではね、構文解析なんて本を高校生が勉強してしまうんです。
文節と文節のかかりかたを図にしたりして、そりゃ、やってるほうだって古文書の解読かよ!と思いますが、みんながそうやって勉強してしまうので、逃れられない。

わたしなんか、それで、英文学ですから!
もう最悪で。
ほら、ガメさん、N大の英文科の先生を一週間にいっかい教えてらしたことがあるでしょう?

教えていたのでなはなくて、質問に答えに行っていただけね。
旦那さんが生物学の先生で、義理叔父の大学の同級生なのね。
だから。
ケーキをつくるのが上手なひとで、あのケーキにつられて、結局、二年間ばっちり通ってしまったけど。

ともかく、英文学科の学生が英語が頭のなかでどんどん日本語に変わっていってしまうんだからサイテーですよ。

でも、英語、ふつーに話してるやん。

ああ、ここのインドの人達を見ていて!
わたしたちと同じというか、大学を出てるマネージャーたちは英語で苦労しているのに、高校だけで、こっちへ来てしまったひとは英語をたいして習得する努力もしないで身に付けてしまうのをみて、考えたんです。
もうひとつ、日本で知らなかった表現は、発音からもうちゃんとした英語になってるのに気が付いて、少し、へへ、コツがつかめました。

これから、どうするか決めてないし、方針も立ってないけど、この頃ね、朝、起きると、さあ、いっちょうやるかっ!
と、思えるようになったんです。
世界は、面白い!
と思う。

もしかしたら、ガメさん、びっくりするかもしれないけど、日本にいるときは、どうしても、そう思えなかったんですよね。

世界が自分にチャンスをくれる気があるとは、どうしても思えなかった。

それに、わたしは25歳なんですけど、日本では年齢がとてもおおきなものなんです、おおきなもの、というか、はっきり言って人間の人生の邪魔なんですよね。
もう結婚しなきゃいけないんじゃないかとか、会社にいて昇進がのぞめるだろうかとか、そんなことばかり考えていた。
毎日毎日、自分が否定されているような気がして、なんとか世界に認めてほしくて、つらかった。

わたし、へへへ、こんなこと言うの恥ずかしいんだけど、ある朝、電車に乗れなくなってしまったんです。
いつもとおなじように電車に乗るための列に並んで、いつもと同じように電車がホームに滑り込んできて…ところが他の人はみんな、例の体当たりするような勢いで身体をねじこんで乗っていったのに、気が付くと、わたしだけがホームに残って立っていた。
自分でも何が起きたのか判らなくて、しばらく、ぼおーとしていて、やっと、ああ、自分はこの社会に負けたんだなあ、と気が付いた。
わたしは敗北者になってしまったんだ、と発見した。

家に帰ったら、驚いた顔の母がドアを開けてくれて、その顔を見たら「わっ」と泣き出してしまったんだけど、そしたら、おかあさんが、「もう会社、やめちゃえばいいじゃない」と言ってくれたんです。
遊びにいってらっしゃい。
中国でもアメリカでもいいじゃない。
あなたは小学校のときから頑張って頑張って、勉強を一生懸命やって、他人がうらやましがる大学に入って、ううううーんと頑張ってきたんだから、少し遊ぶくらいなんでもないじゃないの、と言われた。

おかあさん、おとうさんには内緒だけど、案外、不良だったのよ。
鳥居坂にある学校からね、店の主人と示し合わせて、制服で入っても怒られない店にいって、そこで着替えてみんなで渋谷に行ったりしていたの。
あなたは、おとうさん似で、マジメにやりすぎるのよ。

それで、そこで、母親はびっくりするようなことを言ったんです。
「マジメにやる、ということは、案外、世の中がこうしなさいと決めた決まりに従っているというだけのことで、その世間自体がくだらないことになっているときには、知らずに、ずいぶんくだらない人生を歩いているということもあるのよ」

会社をやめるときに、「やっぱり女はダメだな」と言われました。

バイトをして、オカネを足して、60万円で世界一周切符を買ったら、残りは20万円しかなかったけど、わたしはラッキーで、おかあさんが「オカネがなくなって困ったら、おとうさんには内緒で私が送ってあげるから」というので、たいして心配しないで出かけてこられた。

出てみると、日本て、刑務所みたいな国なんですよね。
決まりがいっぱいあって、やりたくないことを山ほどやらされて
少しでもふてくされると、つまはじきで独房入りですから…なんちゃって。

ガメさんに「差別だぞ、それは」と言われそうだけど、わたしはやっぱり日本人と結婚したいんです。
おなじ日本語のほうが判りあえるとおもうし、…それに… ガメさんたち、毛深くて、なんだかおおきくて、…あっ…ウソウソウソッ!いまのはウソ! 取り消しです。

ガメさんて、目の前にいると、なんだかあったかい壁に向かって話しているみたいで、なんでも話しやすいんですよね。
いろいろなことを言ってみたくなる。

(わしは、ぬりかべ、ちゃうぞ)

この人の場合は、「世界」という一冊の高価な本を、いまでも読んでいるさいちゅうなわけだけど、そういう大規模な読書に踏み出す前に、文庫をポケットにねじ込んで、公園のベンチで、木洩れ日がさしてくるページを繰りながら、プルターク英雄伝を読む、というようなことを積み重ねるのでもいいと思う。

旅行と読書じゃ、ぜんぜん別じゃん、と
きみは思うかもしれないけど、英語の世界では、むかしから、あんまり変わらないものという位置づけで、つまりは「自分が知らない考えに出会いなさい」ということなのでしょう。

良い本や、良い旅は。「え?」と思うことに出会わせてくれる。
なぜ、そんなことが可能なのだろう。
世の中には、そんなことを考える人がいるのか。
なるほど、そんなふうに考えても、ちゃんとやっていけるものなのか。
ヨーロッパの若い知識人たちは、むかしから、イタリアへ北アフリカへ、あるいは遠く東アジアにまでも足を延ばして、見知らぬ文明にぶっくらこいたり、思わず理解してしまったりして、自分の考えをいったん解体しては、再構築することを繰り返してきた。

インターネットは従来のマスメディアよりも遙かにすぐれたメディアだがメディアである以上、マスメディアにもあった欠点を受け継いでいて、平たくいうと「低きにつく」という重大な欠点を持っている。

ページビュー、というでしょう?
あるいはtwitterみたいなSNSではフォロワーという。
100万を越えるフォロワーを持つアカウントよりも、500くらいのフォロワーのアカウントのほうが、遙かに深い思索を述べていることは、よくあること、というよりも、常識であると思う。
テレビの視聴率と似ていて、人間の知性の平均は、びっくりするほど低いところにあって、その「平均」に近いところに受け身で言葉に接するひとたちは蝟集する。

近い将来、仮想現実が現実より優位に立つのは疑いようがないし、仮想現実の都合にあわせて現実がデザインを変えてゆくことになるだろうし、また、そうならなければ、この世界が世界として生き延びていける可能性はゼロだが、いまは過渡期も初期で、TOTOの研究所では新しいデザインのトイレがうまく汚れを流し去るかどうか味噌を使って研究するのだと聞いて大笑いしてしまったが、ミソもクソも一緒で、まだ原始的な段階を出ていない。

だからコンピュータのスクリーンの前に座っていても、新しい考えはなかなかやってきてくれないのですよ。
向こうから来てくれないものは、仕方がないので、きみのほうから出かけてゆくしかない。

本を開いて、ストリーミングのプレイボタンを押して、あるいは空港のセキュリティゲートをくぐって、自分のほうから世界を見にいくしかないでしょう?

そのためのさまざまな方策を、これから、きみとぼくと、一緒に考えてゆこうというのです。

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ミナへの手紙

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祖父の代の小学校の教科書には「世界のひとびと」という章があって、世界にはいろいろな人々が住んでいます、アフリカ人は乱暴でなまけもの、中東人は攻撃的で喧嘩ばかりしている、と続いたあとで日本・中国・韓国のところになると
「マネは器用にやってみせるが、良いことをする意志がなくて、ずるくて、ウソばかりつくので気をつけなければいけません」と書いてある。

だいたい、いまの世界を覆いつつある白人優越主義のおおもとが、どんなところにあるのか、読んでいると判るような気がします。

ミナがやってきたメルボルンは、オーストラリアで最も早くから多文化社会をめざした町で、戦争直後、大集団で移住してきたイタリアやギリシャからの移民が、そのもとをなしている。
ミナのことだから、何度か店をやってみて自信がついたら、まずメルボルンに越そうと思っているのかもしれないが、もしそうなったら、クルマを運転して、メルボルンから北西へ100kmと少しくらい行ったとこにある、デールズフット(Daylesford )という町にでかけてみるといい。
湖がある、週末をのんびり過ごすのに良い町です。
そのまた十数キロ北に、Hepburn Springsという町があって、ここにはイタリア村の跡があります。
イタリア語圏スイスと北イタリアの人たちが、むかし、大量に移住してきたからで、硬水で、発泡性のミネラルウォーターまであるこの町が、あの人達はたいへん気に入ったようでした。

タウンシップを歩いていると、イタリア語が並んでいて、
Savoia HotelやカフェのLucini’sの看板を眺めて、なんとなく楽しくなってしまう。マカロニ工場だった建物(たしか、いまはレストラン)もあって、どこからどう見てもイタリアの建築だし、町から少し離れた公園には、壁いっぱいにイタリア式の彫刻があるパスタ工場がある。

そして、もちろん、ミナがメルボルンに住むことになったら、絶対に訪問するに決まっている町バララットは、Daylesfordから南西へ40分ほどクルマを運転していくところにある。

バララットはオーストラリア人の自由主義と勇気の象徴で、ミナがよく知っているとおり、1854年の自由主義者と政府軍の戦い Battle of the Eureka Stockadeによってオーストラリア人の自由主義の気風は確立されたのだと言って良いと思う。

ぼくは、この町に50歳年長という、とんでもなく歳が上の友達がいて、バララットの大学で教員を長くやって、そのまま町に定住していたので、よく遊びに出かけたの。

Ballaratの面白いところは、町全体が豊かな金鉱の上に建っているところで、博物館にいくと犬をつれて散歩していた子供が見つけた、でっかい金塊(nugget)があったりして、いまでも地表に露出した金塊を求めて、うろうろ森のなかを歩いているおっちゃんがいる。

ミナが滞在しているPrahranは、むかし(80年代)は日本の人がたくさんいた町です。
ブログ記事によく出てくるとおり、北へ向かって歩いていくと、ぼくの大好きなヤラ川が流れていて、夏の夕暮れ、ちょうどいまくらいになると、川岸に並んでいる艇庫から学生たちが艇をだして、オレンジ色の長い陽のなかを、川上に川下に、滑るようにボートが流れてゆく。
川の南側にカフェが並んでいるでしょう?
あんまり、おいしそうに見えないが、案外「いける」店が多くて、グレコという、ぼくが子供のときからご贔屓のカフェ、なにしろニュージーランドにいるときには、信じがたいことに、ちゃんとしたカラマリフライが食べたくなると、家からいちばん近い店が2500km離れたこの店だったので、よくつれてきてもらった店が、VIPクラブにいろいろ怨みがあるCrownカジノの入っているビルの一階に、いまでもあるはずです。

セントキルダ通りのRegent Theatreのほうへ歩いていったほうにある二階のイタリアレストランも、これもまた全然おいしいものを出すように見えないが、リゾットがちゃんとアルデンテで、お米が噛みしめたくなるようにおいしくて、Regent Theatreで面白そうなオペラがあるときには、よく行きます。

Prahranのよいところのひとつは、多分、それで昔日本の人に人気があったのではないかと思うが、日本の総武線にそっくりな雰囲気の電車で都心に出られるところで、夜ふけ、駅のホームに立っていると、飲み過ぎてげーげー吐いている酔っ払いにいたるまで、なんだか新宿にそっくりで、モニとふたりで顔を見合わせて笑ってしまうことがよくある。
夜になると、お巡りさんたちが立っていて、当たりを睥睨しているところが日本の駅とはちょっと異なるけど、平和なもので、安全で、いままで危なそうな光景をいちども見たことがなくて、例えばサンフランシスコの、やはり安全だということになっているBARTの、十倍くらい安全に見えます。

南隣りのセントキルダも、こじんまりして、ミナは好きなのではないかしら。
もしかしたら、もう行ったかも知れないが、ここにはLuna Parkという、メルボルンに住んでいる子供なら誰でも行ったことがある遊園地があって、あるいは娘さんが喜ぶかもしれない。

セントキルダは、地元に長く住んでいる人でも知らない(知らないふりをしている)人がいるが、実は、もともとは有名な売春街で、あの古い商店街の店舗がどこも二階建てなのは、あの二階が全部、売春宿だった。
イギリス式に看板を出さないbrothelがたくさんあった。
いまでは、そういう後ろ暗い過去は隅々まで雑巾掛けしたように拭き取られて、まるでなかったことのようになっているが、ぼくなどはひとが悪いので、道の反対側から商店街を眺めて、往時を想像して、オーストラリアらしい、とにんまりしてしまう。

ほんとうはレンタカーでも借りて、M11をSorrentoくらいまで行ってみるといいんだけど、今度は、そんなヒマはなさそうね。

Sorrentoには、イルカドライブだったかなんだったか、日本語みたいなヘンテコリンな名前の通りに、カッコイイ家があって、悪いくせで、おお、買っちゃおうと思ったことがあったが、不動産屋を呼んで話を訊いてみると、2億円だとかで、このくらいなら1億円以下だろうとあたりをつけていたぼくは、たちまち興味をなくしてしまった。
不動産屋のおばちゃんも、買う気が失せたぼくの様子を見てとって、世間話モードに会話を転換して、メルボルンの駅のすぐ近くにアパートを持っていて、ときどき遊びに行くのよ、というおばちゃんと、メルボルン生活の話をした。

おばちゃんが推奨するライフスタイルは、ソレントあたりに家をもってメルボルンに遊びに行くライフスタイルで、なんのことはないロンドンあたりの人間とおなじ考えです。
「メルボルンあたりだと特に、tatooパーラーが盛り場にある町をさけて家を買うといい」と述べていた。

おばちゃんには言わなかったが、ぼくの家はToorakというところにある。
いまは人に貸しているけど。
かーちゃんがもともと持っている家が通りふたつほど向こうにあって、土地鑑があったので、Toorakにした。
もう気が付いているだろうけど、ミナのいるPrahranのすぐ隣なのね。

むかし、夏になるとメルボルンにクライストチャーチから毎週末のように出かけていた頃は、ときどき、長くいることに決めたときは、一家でToorakの家に着くと、次の日にはクルマで、東京で言えば高尾山だろーか、Dandenong Rangesに出かけたりしていた。
メルボルンは、ぼくにとっては子供の頃の楽しい思い出がいっぱい詰まっている町で、いまはバブル都市になってしまったけれど、むかしはちょうど、でっかいクライストチャーチみたいな町で、南半球の良さがいっぱいつまっていた。

前にも言ったけど、ミナ自身、まだ気が付いていないようだが帽子デザイナー(milliner)はイギリス系社会では特別な地位を持つ職業で、考えてみると、日本に生まれた人が英語圏の上流社会と付き合ってすごすことになる可能性が最も高い職業のひとつかもしれない。
ミナは、ああいう奴だから、「ハイソサエティ」みたいなけったいなものとは一生関わりになりたくないと思っているに違いないが、ジュラシックパークみたいなものだと思えばいいというか、アメリカを見ていても絶対に判らない英語社会のそもそもの成り立ちが、露骨な形で出ている社会を死ぬまでに見ておくのも、いいことかもよ。

これで、ミナがオーストラリアなり連合王国なりに定住すると、ぼくの昔からの日本語友達は、ほとんど日本の外に住むことになります。
日本でのゲームデザイナーの高給を捨てて、無謀にも会ったこともなかったヘンな人(←ぼくのことね)のアドバイスを信じて、見知らぬブライトンの町で英語を学習して、何度も「知らない国でのプー生活」という、夢の生活に陥る危機に遭いながら、いまはオレンジカウンティに住んで、お大尽アマゾングループでデザイナーをやっているjosicoはんや、なんだか、どっからそんな勇気がわいてくるんだかわかんない勇気をふりしぼって、帽子デザイナーという不思議な職業をおもいついて、軌道に乗ったとおもったら、もう英語世界を目指しているミナのような友達がもてたことに、強い誇りを感じている。

子供のときは、勇気と人間性の保持は関係がないんじゃないかなあーと漠然と考えていたが、josicoはんやミナを見ていて、なるほど人間が人間でいるためには勇気が、うんとこさ必要なのだと理解できるようになった。

そのことにも、改めてお礼を言います。
蓋を開けてみれば、誰でも、「あ。なるほどー」と思う理由で、ぼくが日本語を書くこととネットで知り合った友達と現実に顔をあわせることは両立しない。
日本の社会については、サンクストゥーおっさんトロルたちで、愛想がつきたが、日本語と日本語友達には、まだ愛着があるので、すぐに顔があうかどうか判らないが、先にいけば先にいったで、どうも話し言葉としては日本語は嫌いであるようなので、自分にとっては母語である英語で楽ちんをさせてもらうとして、ミナやjosicoはんも、このペースで行けば、あっというまに準母語になっているのではなかろーか。

虫がいいことばっかり言っているけど、友達同士などというものは、そういうものなので、我慢してもらわなければ。

クリスマスが終わってしばらくしたら、用事があるので、ぼくも最低でもそのときと、定例の用事がある3月にはメルボルンに行きます。
その頃もメルボルンにいたら、テニスの会場か、Embassy Taxi Café で会えるかも知れない。
それとも、マーケットの店へこっそり覗きに行ったりするだろうか。
その場合はモニさんに言い含めてひとりで行かないと、組み合わせとして、ガメバレ(←ユニバレの派生語)してしまう。

友達がいるって、楽しいね。
ミナと会えて、とても良かったと思っています。

でわ

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冬のカリフォルニア

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予定を変更して慌てて帰ってきたので、風邪をひいてしまった。
もう慌てて帰ってきた用事は終わったので寝ていればいいわけだが、カリフォルニアで買ったおもちゃがいろいろありすぎて、ごそごそとベッドから出ては遊んでいてモニさんに怒られている。

むかしはニューヨークやロサンジェルスに行くことには、もっと楽しみがおおきかった。
マンハッタンに着くと、まっすぐに、たしか46th Street and Fifth Avenue
にあったHMVに出かけた。
このHMVの地下にスペイン語音楽のおおきなコーナーがあって、ミゲル・ボセやバチャータの初めてのCDは、たしか、ここで買ったのだった。
新しいもの、見たことのないものの宝庫で、1990年代までは、アメリカに行かなければ異文化のものはなかなか手に入らなかったし、連合王国やニュージーランドの生活は、真っ白で、英語のアクセントひとつとってもお決まりのアクセントで、ずいぶん退屈な生活だった。
あるいはオレンジカウンティに着くと、まっすぐにFry’sへ行く。
秋葉原にもないような、面白いマザーボードや、ヘンテコな外付け周辺機器(例:100連装CDチェンジャー)があったからで、むかしからPCオタクのわしにとってはパラダイスな店だった。

いまは例えばSpotifyがある。Spotifyがあって、例えばスペイン語人の友達に頼めば、自分の店で使っている音楽のプレイリストを、そのままごそっと送ってくれます。
あるいはフォローしている友達が毎日作り変えているプレイリストをなぞって聴いていゆくことも出来る。

ゲームならばsteamがある。
本はkindleがあって、テレビさえhuluやなんかがあって、アメリカの銀行が発行したクレジットカードがあれば、アメリカの「地上波」ネットワークがそのまま観られる。
Huluで言えば、わざとTVコマーシャル付きの格安プランにしておけば、アメリカの企業のTVコマーシャルも付いてきて「おお。シチズンのiOS対応腕時計がMacy’sで30%引きではないか。ずええったいにシドニーとかで買ってやんない」とつぶやく。

Bed Bath & Beyondのような店もニュージーランドにもシドニーにもあって、佐久平の駅前と那覇の新開地の駅前と照応しているというか、英語町は、どこに行っても似通ってきて、だんだんマンハッタンのような町の魅力が薄まってゆくようでもある。

それでも価格の面ではおおきな差があって、なにしろアメリカという国は、なんでもかんでも安い国なので、Thanksgivingに出かけて毎日買い物をしくるって「いえーい」をするが、有名ブランド安物が大好きなわしとは異なって、モニさんなどは、ほんとうは既製服などはあんまり好きでないので、一緒に買い物を楽しんではくれるが、特にコーフンしているわけではないのは、夫をやっていればすぐに判る。

でも、旅行って楽しいんだよね、と、やはり思う。
理由は、「いつもと違う毎日」だからでしょう。
今回はInfiniti QX80
http://www.infinitiusa.com/suv/qx80
というクルマが面白かった。
アメリカ市場向けっぽい、ぶっかぶかなクルマで、5.6リッターの400馬力V8エンジンで、のおんびり走る。
日産の例の技術で、駐車するときは直上から見下ろしたビデオを観ながら駐車できるのでチョー便利。
ドアは自動で、ういーんういーんと開きます。
モニさんとふたりでシドニーのほうで、このクルマを買って、まんなかのシートボックスに冷蔵庫つけちゃうといいな、と話した。
いま見るとカタログには出ていないが、ランドクルーザーにもオプションであったので、やっぱり、あるのではないかしら。

部屋も、どの部屋の電気スタンドにも2000mAのUSBx2と充電アダプタがつけられるパワーポイントがついていて、なんちゅう良い考え、と感心する。
こっちは家でも工事して壁の高い所につけてあるが、パワーポイントが床の近くから高さ1mくらいの所に引っ越しているのも合理的であると思われる。

そして、ひと!
銀行でも、レストランでも、モールの店でも、マンハッタン人やダラス人も相当にひとなつこいが、南カリフォルニア人は桁外れで、ウエルスファーゴのような銀行で、テラーの人々が集まってきてニュージーランドのことを聞き始めたのには笑ってしまった。
良い国の人はどこでもそうだが、都会でも、善意がむきだしで、まるで田舎のおっちゃんやおばちゃんたちのようです。

どうだろう。
例えばイギリス人やニュージーランド人やオーストラリア人も、もちろん親切だが、外国から来た人や異文化の人には特に親切なところがやはりあって、近所や職場や、自分達だけの世界になると、例えばニュージーランド人ならば、意地悪があって、鞘当てがある。
マジメだが底意地が悪いところがある、というような評は、外国人が何年住んでも見えないところにあって、同族意識というか、そういう狭い連帯のなかで初めて姿をあらわすネガティブな面かも知れないと思うことがあるが、カリフォルニアでもおなじではなかろーか。

旅行者には、そんなことは見えないので、ただただ楽しい毎日で、そーゆーことが、多分、旅行ちゅうの毎日を愉快なものに変えているのではないか。

少しは、なにかあるかなあー、と思ったトランプとトランプと共にあらわれた白人優越主義や有色人への嫌がらせは、かけらも目撃しなかった。
「そりゃ、あんたが白いからでしょう」と言う人がいそうだが、そういうことではなくて、においがしないというか、カリフォルニアは相変わらずカリフォルニアで、ラティノの人もアジアの人も、自分がやりたいように暮らしていて、お互いに接点があまりないというか、説明するのが難しいが、そういうところが混ぜこぜ型のオークランドのような町とも少し異なって、それぞれの文化の人が、セグメントをつくって、モザイク状に勝手に暮らしている感じでした。
カリフォルニアは、もともとはたいへん保守的な州で、そこにたどりついた日本からの移民は、とても苦労した。
激しい敵意のなかで、努力してつみあげた小さな資本で開いたスモールビジネスを、まるごと取り上げられ、収容所に放り込まれて、戦争が終わってやっと解放されて辿り着いた我が家は、窓を石で割られ、壁にはおおきく「国に帰れ。ここはジャップのいる所じゃない」とペンキで大書されたりにしていたのは、多く、画像が残っている。

太平洋に面している、というのはたいしたことで、だんだんアジア人とラティノ人を中心とした多文化の州に変わって、それにつれて、州の風土自体がリベラルになっていった。
トランプみたいなものは、多分、見かけることがないだろうと予断をもって出かけたのは、カリフォルニアがそういうわけで、リベラルが多いblue stateだという理由もあります。

今回は、新しい発見は、「メキシコ料理がめちゃめちゃおいしくなっている」ことだった。
個人の口座で、ひさしぶりにクレジットカードを復活させるために立ち寄った銀行の行員が、たまたまメキシコ系の人で、本人が生まれたのはカリフォルニアだったが、やはり墨飯は墨屋、「祖母は、1ヶ月に二回はメキシコに行くのよ」と笑っていたその人は、オレンジ郡のメキシコ料理屋に詳しくて、josicoはんも述べていたロードサイドのカートはもちろん、フィッシュタコのレストランやカルニタスのタコスやトスターダ、メキシカン・フィッシュスープ、おいしい店の長大なリストをつくってくれて、おなじチェーンの支店間の違いまで懇切に教えてくれる。

泊まっていたホテルのレストランで朝食を食べながら、「昨日は、どこに行きました?」と言うウエイトレスの人に、その話をしたら、あ、わたしも自分が好きなレストランを教えたい、と言い出して、シェフも、終いにはマネージャーまで動員して、みなでレストランやテキーラバーのリストをつくってくれる。
バー、って、カリフォルニアはゼロトラレンスじゃなかったっけ?と訊くと、ふっふっふ、一杯まで、とにやりとして見せて、まわりの皆も、ふっふっふの輪をつくっている。

カリフォルニア人側が今回もストレッチリムジンやヘリコプターを用意してくれたが、あんまり世話にならなくてよかったなあーと思う。
自分で運転して、通りで降りて、歩いて、行列にならんで、地元の人達と、みんなできゃあきゃあ良いながら一日を過ごすのでなければ、旅行の楽しみなんてなくなってしまう。

大時代な言葉でいうと、世界には暗雲が立ちこめている。
日本のようなヘリッコの国にいると見えにくいが、今回、眼前に迫っているのは、神様に「1930年代のことをおぼえているかい?」と聞いてみたくなるような、やばいx10な暗雲です。
わしは、そのことを、主にいちばん奥行き深く理解できるはずのUK人たちとのやりとりを通して知っている。
ガメ、帰ってこないか?という。
事態が深刻だからでしょう。

ロンドンに戻って、HQから世界を見渡すという方法ももちろんあるが、わしは、mobileであるほうが今回は良いと思っている。
意外なことに父親も真っ先に同意している。

世界は正念場を迎えつつあるのだなあーと思うと緊張するが、緊張していても仕方がないので、
「アレクサ、ジャズが聴きたいんだけど」と述べて、ワインを飲みながら、R2D2とホールで競走している小さな人々を眺めている。

こうやって「誰にも見えない言葉」で日本語のお友達とヒソヒソ話しをしながら、作戦を立てていくのが、最もよいのでわ、と考えています。

ほんでわ。
(またね)

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